残酷な描写あり
4.若き狼の咆哮-3
しめやかな空間に、ミンウェイのむせび声だけが、静かに響いていた。
イーレオは、やるせない顔つきで見守っていたが、やがて深く息を吐き、「話を戻そう」と切り出す。彼らしくもない、抑揚に欠けた乾いた声も、二、三の咳払いののちに調子を変えた。
「俺たちの前に現れた〈蝿〉の正体の話だ」
ソファーに体を預け、胸を張る。内心はさておき『現在』に気持ちを移せと、イーレオは一同を諭す。
いち早く反応を返したのは、リュイセンだった。〈蝿〉についての話を初めに切り出した、張本人である。
「あの〈蝿〉は、今、祖父上が話してくださった、ヘイシャオ叔父の研究、『死者の蘇生』技術によって作れらた――ということですね」
「そう考えるのが妥当だろう」
イーレオの肯定を聞くと、リュイセンは、なんとも言えぬ持ちで眉をひそめた。
ヘイシャオは、最愛の妻を失いたくないがために、血を吐く思いで禁忌の技術を編み出した。それを死後、自分自身に使われた、ということになる。
彼の死因は、事実上の自殺だと聞いている。蘇生は不本意だったはずだ。
リュイセンは、ミンウェイを苦しめたヘイシャオを憎んでいる。だが、ヘイシャオの皮肉な運命を嗤う気にはなれなかった。同情はしないが、憐れだと思う――。
不意に、ルイフォンが「待てよ、親父」と、声を発した。
「ヘイシャオの技術には、肉体と記憶が必要だ。肉体は髪の毛でも残っていれば、なんとかなりそうだが、記憶はどうやって用意した? 記憶がネックで、ミンウェイの母親を蘇生できなかったんだろ?」
「もっともな質問だが、ヘイシャオの記憶なら簡単なことだ」
予測していたらしく、イーレオは軽く応じる。
「〈悪魔〉には、記憶の定期的な提出義務がある」
「記憶の提出義務?」
ルイフォンは、おうむ返しに語尾を上げた。
「ああ。〈悪魔〉とは、〈七つの大罪〉から出資を受ける研究者だ。当然、成果を報告する義務がある。その方法は、書面と――『記憶』だ」
イーレオは、自分の頭を指先で叩く。
「頭の中身を全部、差し出すんだよ。研究以外にも何を考えたか、すべて晒される。それが〈七つの大罪〉への服従の証にもなる。だから〈七つの大罪〉は、当然のようにヘイシャオの記憶を持っているはずだ」
「なるほどな。それなら、異論はない。が――」
ルイフォンは、ぎろりと猫の目を光らせた。
「今までの説明からでは、どうして親父が『〈蝿〉の尊厳を守ってやりたい』なんて言い出すのかが、さっぱり分からない!」
不機嫌なテノールが、無遠慮にぶつけられた。その語勢は、すぐ隣で思考の海に潜っていた兄貴分をも呼び戻す。はっと気づいたようなリュイセンが、ルイフォンに続いた。
「そうです! 祖父上が、ヘイシャオ叔父を気に掛ける理由は分かりましたが、それはあくまでも亡くなった叔父本人に対してのみ、であるべきです。あの〈蝿〉は、鷹刀を害するために作られた、単なる『駒』に過ぎません!」
「……そうだな。年寄りの感傷だ。お前たちの理解を得られなくて当然か」
その通りだ、と言わんばかりのふたりに、イーレオは額に皺を寄せ、溜め息をつく。
「だが、誤解するな。さっきも言ったが、俺の考える最終的な着地点は、お前たちと同じだ」
「着地点?」
リュイセンの声に、イーレオは深く頷いた。
「どんな理由であれ、鷹刀に刃を向けた相手を許すわけにはいかない。そして、自然の理に反した〈蝿〉の存在を、俺は認めない」
「祖父上……」
「だから、俺が奴に与えるべきものは『死』のみだと考える。尊厳を守ってやりたい、という思いは、奴の死が約束された上でのことだ。――この言い方ならば、お前たちは納得できるか?」
明確な言葉に、リュイセンの顔がぱっと明るんだ。ルイフォンも強い同意を見せながら、深々と頷く。
そんなふたりの様子に、イーレオは安堵の表情を見せ、「では――」と皆に向かって告げる。
「『〈蝿〉は葬り去る』。これを、皆の一致した意見とする。一族の方針として……異議はないな?」
力強い声に、場が一瞬、しんと静まり返った。
だが、次の瞬間には、リュイセンとルイフォンが鋭い承諾の声を上げ、メイシアも顔を強張らせながらも頷く。〈蝿〉は父親の仇なのだ。当然だろう。
イーレオは黒目だけをそろりと動かし、ミンウェイの様子を盗み見た。彼女は作り物のような無表情をしていた。やがて、周りが同意しているのに気づき、慌てたように首肯する。
「皆、ありがとう」
イーレオは低く、そっと言う。ミンウェイが気掛かりだが、どうしようもない。イーレオ自身だって、消化できていないのだ。
「では、リュイセンやルイフォンの理解を得られるかは分からないが、俺があの〈蝿〉をどう捉えているのかを話そう」
彼は咳払いをひとつして、一同を見渡す。
「リュイセンは、『〈七つの大罪〉は、俺や鷹刀を害するために〈蝿〉を作った』と言った。因縁ある人物に襲わせることによって、動揺を誘うのが目的だ、と。――だが、俺は違うと思う」
イーレオは、リュイセンに向かって、ぐっと身を乗り出す。
「冷静に考えてみろ。生き返ったヘイシャオごときに、俺を殺せると思うか?」
冷ややかな眼差しで、口角を上げる。笑んでいるはずの顔だが、リュイセンの背筋を冷たいものが突き抜けた。
「死んだ人間が出てくれば驚くさ。けど、それだけだ。〈七つの大罪〉に関わりのあった俺が、『生き返った』なんて非科学を信じるわけがない。すぐに、ただの技術と気づく」
ゆるりと腕を組み、イーレオは嗤う。
「化けの皮が剥がれたヘイシャオの偽者など、俺の敵ではない。――ヘイシャオは鷹刀の血族だけあって、並の人間よりは腕が立つ。頭だっていい。だがな、相手が悪いだろう? 『この俺』には、敵うべくもない」
ぞくりとする低い声が、鳴り響いた。世界を支配下においたような尊大さでありながら、決して大言壮語とは切り捨てられぬ、不可侵の王者の風格が漂う。
「俺への刺客とするには、〈蝿〉では勝負にならん。〈七つの大罪〉は、次は別の人材を用意すべきだろう。けどな……」
ぐるりと、イーレオが瞳を巡らせた。その動きにつられるように、皆が目線が追いかける。
「俺は――」
イーレオは、急に声を潜めた。生真面目な声色に、一同はごくりと唾を呑む。
「清廉潔白な人間なんだ」
「……は?」
ルイフォンの目が点になった。
今まで黙って聞いていた――それどころか、彼にしては珍しく、途中で口を挟むことなく緊張感を持って聞き入っていた――のだが、それが一瞬にして崩れ去った。
「俺には、命を狙われる覚えはない!」
「はぁっ!? 何言ってんだよ、親父! 凶賊の総帥やってて、そんなわけないだろうが!」
拳を握りしめ、ルイフォンが噛み付く。
しかし、いち早く叫んだのが彼だった、というだけで、誰もが同じ思いだったに違いない。
「そこで俺は、疑問に思ったわけだ。『そもそも俺は、本当に、『現在の〈七つの大罪〉』に狙われているのか』――?」
「俺の突っ込みは無視かよ!」
そのまま話を続けるイーレオに、ルイフォンの言葉は虚しく流される。
「で、思った。正体も分からない『現在の〈七つの大罪〉』に狙われているかどうかなんて、考えるだけ無駄だ」
「おいっ!」
「だが、ヘイシャオの記憶を引き継いだ〈蝿〉になら、俺は恨まれているだろう。だから、今回のことは〈七つの大罪〉とは関係ない、死んだヘイシャオの私怨――……」
「待てよ、親父!」
勝手に喋り続けるイーレオの台詞の隙間に、ルイフォンは強引に割り込んだ。
「〈蝿〉は、〈七つの大罪〉から〈天使〉を与えられていた。思いっきり、〈七つの大罪〉が関与しているじゃねぇか!」
〈蝿〉が〈天使〉を使ったせいで、メイシアの父は〈影〉にされ、亡くなったのだ。ルイフォンは決してそれを忘れない。
だから、これは理にかなった意見だ。少なくとも、ルイフォンはそう思った。
だが、あろうことか、イーレオは掛かったな、と言わんばかりに嬉しそうに、にやりと笑った。
「な、なんだよ!?」
「ルイフォン、『〈天使〉』が俺の考えの根拠だ」
「どういうことだよ!」
ルイフォンは、思わず腰を浮かせかける。
その瞬間イーレオが、ぱしん、と手を合わせた。まるで、ルイフォンの苛立ちを御するかのように、小気味よい音が鳴り響く。
「――いいか」
視線が、黙って聞けと命じる。抗える者は、ひとりもいない。
「〈蝿〉は、〈天使〉を使って〈影〉を作り、俺たちを翻弄した。――奴がやったことは、〈蝿〉でなくとも、〈天使〉を利用できる者なら誰でも、可能な手段だった」
「!」
ルイフォンは、はっと顔色を変えた。
「『死んだヘイシャオを生き返らせる』なんて面倒な真似をしなくとも、他の人間で事足りたんだよ」
イーレオの言う通りだった。
「俺の至らなさが原因で、不意打ちを喰らったことは認める。だが、相手がヘイシャオだったから油断した、ということはない。……何しろ、俺自身は〈蝿〉の姿を見ていないんだからな」
「……っ!」
とても簡単なことを見落としていた。
まったくもって、反論できない。ルイフォンは、自分の愚かさに舌打ちをする。
「奴を見たのは、俺とリュイセンだけ……。動揺を誘うつもりなら、生前のヘイシャオを知っている人間の前に現れるべきだった。そうでなければ、意味がない……」
「そういうことだ。――だから、『〈七つの大罪〉は、俺を害するために〈蝿〉を作ったわけではない』と、俺は考える」
イーレオは肘掛けに手を置き、ぐっと背を起こす。
そして、あたかも重大事を宣告するかのように、魅惑の美声を張り上げた。
「〈七つの大罪〉は、俺の命など狙っていない。――〈蝿〉が俺を狙ったのは、完全に私怨。死んだヘイシャオの怨念が、俺を殺したいんだろう」
「ですが!」
間髪おかず、リュイセンが口を挟んだ。
「それなら何故、〈七つの大罪〉は〈蝿〉を作ったのですか!?」
「その答えなら簡単だ。――『ヘイシャオが、天才だったから』だ」
「へ?」
「ことの善悪はさておき、彼は『死者の蘇生』技術すら生み出した、俺の知る限り最高の天才医師だ。――俺の娘のために、血の滲むような努力を続けた男なんだからな……」
はっ、と。息を呑むような気配とともに、草の香が漂った。潤んだ瞳のミンウェイを視界の端に捕らえ、イーレオは続ける。
「現在の〈七つの大罪〉には、死者であるヘイシャオを蘇らせてでも、彼にやらせたい『何か』があるのだろう。唯一無二の天才医師ならばと、望みをかけてな。――〈蝿〉が〈天使〉を与えられたのは、報酬みたいなものだろう」
イーレオがそう言った瞬間、ルイフォンの頭の中を、閃光のような衝撃が駆け抜けた。点在していた情報のかけらが結びついていき、ひとつの情報網を組み上げていく。
「繋がった……」
震えるように、ルイフォンは小さく呟いた。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』だ……!」
猫の目が、虚空を見据えた。
〈猫〉の目には、不可視の情報の網が、大きく伸びていくのが見えていた。
「リュイセン、覚えてないか? 潜入した斑目の別荘での、〈蝿〉とホンシュアのやり取り――」
熱暴走に苦しむ〈天使〉のホンシュアを見下ろし、わざとらしい溜め息をついて〈蝿〉は言った。
『『デヴァイン・シンフォニア計画』とやらが頓挫しても構わないのですか? 私の技術が必要なのでしょう?』――と。
リュイセンの瞳が、大きく見開かれた。
ルイフォンは身を翻し、挑むような視線をイーレオに向けた。その勢いに、背中で金の鈴が跳ねる。
「〈七つの大罪〉は、『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、〈蝿〉を作った。――親父、そういうことだな?」
「ああ。俺は、そう考えている。そしてな――」
血気はやるルイフォンに、しかしイーレオは、さざなみひとつ立てぬ、まっさらな表情を返す。
「……俺はあの〈蝿〉を、歪んだ憎しみに囚われた、憐れな『過去のヘイシャオ』だと思っている」
「なんだよ、それ」
目の前がぱっと開けたような、気持ちのよい高揚感に水を差され、ルイフォンは口を尖らせた。
「奴が〈七つの大罪〉に命じられて俺を襲ったのなら、俺は問答無用で斬り捨てる。だが――」
憮然とするルイフォンを承知の上で、イーレオは言を継ぐ。やはり、これは若い彼らとは相容れぬ感情なのだと、納得をするために。
「ヘイシャオの無念が俺を狙ったのなら、俺は〈蝿〉の思いを受け止めてやりたいと思うよ。……行き着く先が『奴の死』でしかなくてもな」
「……っ」
感情をこらえるような、小さな声がミンウェイの口からこぼれた。けれど、その息遣いは、あまりにもかすかで、聞き逃したリュイセンは自分の思いのままに、イーレオに食って掛かる。
「祖父上! ヘイシャオ叔父は、逆恨みの極悪人です。手を差し伸べる価値などありません! ましてや〈蝿〉は、単なる作り物です!」
イーレオは、誰にも気付かれないように、ミンウェイを見やる。そっと口元を押さえていたハンカチを、人目を盗むようにして目尻に当てる彼女に、心をこめて告げる。
「あのとき――ヘイシャオからの、最後の電話を貰ったときに、もう少し何か言ってやれればよかったと、俺は今でも後悔しているよ」
もしも、あのとき。ヘイシャオの目を覚ますことができたなら――。
彼の心が、壊れてしまわなければ――。
孫娘は別の名前を与えられ、別の人生を歩んでいたのではないだろうか……。
そして、今ここに。ヘイシャオもまた、共に並んで座っていたかもしれない……。
そんな思いを、イーレオは呑み込む。
「俺を狙う敵としてではなく、俺の娘を最後まで愛してくれたひとりの人間として、俺は奴と対峙したい。奴の心に救いを与えたい。――甘いな。……すまん」
「親父……」
ルイフォンは、声を詰まらせた。
『甘い。認められない』――口元まで出かかった言葉を、吐き出せない。もどかしさに拳を握りしめた、そのときだった。
「――それでも」
すぐ隣で、リュイセンが動いた。肩で揃えられた髪が勢いよく広がり、場を斬り裂く。
「〈蝿〉は、祖父上がご自身でおっしゃった通り、『過去』の存在です。〈蝿〉の心が救われたところで、『現在』が変わるわけではありません。だから、鷹刀の『未来』のために、祖父上に害をなそうとする〈蝿〉は、草の根を分けてでも、即刻、見つけ出すべきです」
張りのある声が、朗々と告げた。
若き狼は礼節をもって、老いた獅子王に頭を垂れる。
「リュイセン……」
今までだって、リュイセンがイーレオに意見することは幾らもあった。けれど、それは文句に近い形での訴えだった。たいていは軽くあしらわれ、そして、どこか堅苦しいところのある兄貴分が、立場をわきまえ引き下がる。そんなことの繰り返しだった。
――そのはずだった。
ルイフォンは握りしめていた拳を開き、その手を挙手へと移す。
「親父……。俺は、リュイセンを支持する。親父の気持ちは、間違っていないかもしれない。でも、リュイセンの言う通り、親父が見ているのは『過去』だ」
〈七つの大罪〉の存在が、ちらつくようになってから感じていた、世代間の差異。古い時代を知る者と、知らない者との温度差。
イーレオは、とうの昔に気づいていたに違いない。だから、ことあるごとに『年寄り連中で対処するつもりだった』と言ったのだ。
けれど、それでは『一族』ではないから――。
ばらばらになってしまうから――。
ルイフォンは、ぐっと唇を噛んだ。
「一族を抜けた俺が、鷹刀の方針に口出しするのは越権行為だと思う。けど、『対等な協力者』としての意見を許してほしい」
猫背を正し、鋭い目でイーレオを捕らえる。
「〈猫〉は、鷹刀の全力での〈蝿〉捜索を要請する。狙いが親父だけだったとしても、奴は他の人間を巻き込むことを躊躇しない。危険な相手だ。それに――俺は、奴から『デヴァイン・シンフォニア計画』の情報を得たい」
「『デヴァイン・シンフォニア計画』の情報……?」
唐突なルイフォンの発言に対し、リュイセンが問い返す。
「ああ。たとえ、親父と〈蝿〉の因縁が解決したとしても、『デヴァイン・シンフォニア計画』には、母さんが関わっている。俺は、これを解き明かさなければならない」
関わっているのは、母だけではない。貴族と駆け落ちしたはずの異父姉、消息不明のセレイエも……。
熱暴走で死んでしまった〈天使〉ホンシュアの正体は、セレイエだった。――ホンシュアは、セレイエの〈影〉だった。
そのことは皆に報告済みであったが、あえて、セレイエの名前を出すのは控えた。彼女は、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蛇〉として、一族に害を及ぼす存在になっているのかもしれないから……。
「……分かった」
水底に沈んでいくような、深く静かな声が響いた。
「全力での〈蝿〉の捜索を約束しよう」
――イーレオが、折れた。
ルイフォンとリュイセンは、互いに顔を見合わせた。驚きと喜びで一瞬、顔が緩む。しかし、すぐに表情を引き締め、敬意と謝意を込めてイーレオに頭を下げた。
イーレオは、ゆるやかに首を振る。
「鷹刀の『未来』のためだ……」
――一族の流れを、いずれ舵を取るリュイセンに向けていくために……。
低い声が響いたあとには、慈愛で満たされた、無風の水面が広がっていった。
そうして、この場がお開きとなる――その間際に。
ルイフォンは、ただ自分の知的好奇心を満たすためだけに、イーレオに尋ねた。
「そういえば、親父。〈悪魔〉の記憶って、定期的に提出されるって言っていたけど、『どこに』保管するんだ?」
記憶を上書きすることで作られる〈影〉なら、〈天使〉の羽を中継して、人から人へ記憶を書き写すイメージだと解釈できる。けれど、保管しておくのなら、どこかに『保存場所』が必要と思われた。
「それは……――っ、――〈冥王〉……!」
言葉の途中で、突然、イーレオが胸を押さえてソファーから転げ落ちた。
「!?」
皆の悲鳴が飛び交う中、イーレオは苦しげな呼吸を繰り返す。ごくわずかな時間に、玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。
駆け寄ったミンウェイが脈を取り、エルファンを振り返る。痙攣するようなイーレオの動きに、ルイフォンは、はっとした。
そのあたりで、誰もが気づいた。
これは、〈悪魔〉を支配する、死の『契約』――!
「親父!」
ルイフォンが慌てて叫ぶ。
「すまん。考えるな! 俺は何も聞かなかった! 親父は何も言わなくていい!」
まさか、だった。
『契約』は、〈悪魔〉となったことで知り得た〈七つの大罪〉の『秘密』――すなわち、王族の『秘密』を口外しようとしたときに発動する……。
――つまり、記憶の『保存場所』は、王族の『秘密』に抵触する……。
「皆……心配、するな。……そのうち、収まる……」
額に張り付く髪を払い、イーレオは穏やかに微笑む。陰りのある美貌に、ルイフォンはやり場のない憤りを覚えた。
〈七つの大罪〉、王族――。
そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』……。
自分を取り巻く、不可解な現状。言いようもない焦燥感に駆られ、ルイフォンは癖のある前髪を乱暴に掻き上げた。
イーレオは、やるせない顔つきで見守っていたが、やがて深く息を吐き、「話を戻そう」と切り出す。彼らしくもない、抑揚に欠けた乾いた声も、二、三の咳払いののちに調子を変えた。
「俺たちの前に現れた〈蝿〉の正体の話だ」
ソファーに体を預け、胸を張る。内心はさておき『現在』に気持ちを移せと、イーレオは一同を諭す。
いち早く反応を返したのは、リュイセンだった。〈蝿〉についての話を初めに切り出した、張本人である。
「あの〈蝿〉は、今、祖父上が話してくださった、ヘイシャオ叔父の研究、『死者の蘇生』技術によって作れらた――ということですね」
「そう考えるのが妥当だろう」
イーレオの肯定を聞くと、リュイセンは、なんとも言えぬ持ちで眉をひそめた。
ヘイシャオは、最愛の妻を失いたくないがために、血を吐く思いで禁忌の技術を編み出した。それを死後、自分自身に使われた、ということになる。
彼の死因は、事実上の自殺だと聞いている。蘇生は不本意だったはずだ。
リュイセンは、ミンウェイを苦しめたヘイシャオを憎んでいる。だが、ヘイシャオの皮肉な運命を嗤う気にはなれなかった。同情はしないが、憐れだと思う――。
不意に、ルイフォンが「待てよ、親父」と、声を発した。
「ヘイシャオの技術には、肉体と記憶が必要だ。肉体は髪の毛でも残っていれば、なんとかなりそうだが、記憶はどうやって用意した? 記憶がネックで、ミンウェイの母親を蘇生できなかったんだろ?」
「もっともな質問だが、ヘイシャオの記憶なら簡単なことだ」
予測していたらしく、イーレオは軽く応じる。
「〈悪魔〉には、記憶の定期的な提出義務がある」
「記憶の提出義務?」
ルイフォンは、おうむ返しに語尾を上げた。
「ああ。〈悪魔〉とは、〈七つの大罪〉から出資を受ける研究者だ。当然、成果を報告する義務がある。その方法は、書面と――『記憶』だ」
イーレオは、自分の頭を指先で叩く。
「頭の中身を全部、差し出すんだよ。研究以外にも何を考えたか、すべて晒される。それが〈七つの大罪〉への服従の証にもなる。だから〈七つの大罪〉は、当然のようにヘイシャオの記憶を持っているはずだ」
「なるほどな。それなら、異論はない。が――」
ルイフォンは、ぎろりと猫の目を光らせた。
「今までの説明からでは、どうして親父が『〈蝿〉の尊厳を守ってやりたい』なんて言い出すのかが、さっぱり分からない!」
不機嫌なテノールが、無遠慮にぶつけられた。その語勢は、すぐ隣で思考の海に潜っていた兄貴分をも呼び戻す。はっと気づいたようなリュイセンが、ルイフォンに続いた。
「そうです! 祖父上が、ヘイシャオ叔父を気に掛ける理由は分かりましたが、それはあくまでも亡くなった叔父本人に対してのみ、であるべきです。あの〈蝿〉は、鷹刀を害するために作られた、単なる『駒』に過ぎません!」
「……そうだな。年寄りの感傷だ。お前たちの理解を得られなくて当然か」
その通りだ、と言わんばかりのふたりに、イーレオは額に皺を寄せ、溜め息をつく。
「だが、誤解するな。さっきも言ったが、俺の考える最終的な着地点は、お前たちと同じだ」
「着地点?」
リュイセンの声に、イーレオは深く頷いた。
「どんな理由であれ、鷹刀に刃を向けた相手を許すわけにはいかない。そして、自然の理に反した〈蝿〉の存在を、俺は認めない」
「祖父上……」
「だから、俺が奴に与えるべきものは『死』のみだと考える。尊厳を守ってやりたい、という思いは、奴の死が約束された上でのことだ。――この言い方ならば、お前たちは納得できるか?」
明確な言葉に、リュイセンの顔がぱっと明るんだ。ルイフォンも強い同意を見せながら、深々と頷く。
そんなふたりの様子に、イーレオは安堵の表情を見せ、「では――」と皆に向かって告げる。
「『〈蝿〉は葬り去る』。これを、皆の一致した意見とする。一族の方針として……異議はないな?」
力強い声に、場が一瞬、しんと静まり返った。
だが、次の瞬間には、リュイセンとルイフォンが鋭い承諾の声を上げ、メイシアも顔を強張らせながらも頷く。〈蝿〉は父親の仇なのだ。当然だろう。
イーレオは黒目だけをそろりと動かし、ミンウェイの様子を盗み見た。彼女は作り物のような無表情をしていた。やがて、周りが同意しているのに気づき、慌てたように首肯する。
「皆、ありがとう」
イーレオは低く、そっと言う。ミンウェイが気掛かりだが、どうしようもない。イーレオ自身だって、消化できていないのだ。
「では、リュイセンやルイフォンの理解を得られるかは分からないが、俺があの〈蝿〉をどう捉えているのかを話そう」
彼は咳払いをひとつして、一同を見渡す。
「リュイセンは、『〈七つの大罪〉は、俺や鷹刀を害するために〈蝿〉を作った』と言った。因縁ある人物に襲わせることによって、動揺を誘うのが目的だ、と。――だが、俺は違うと思う」
イーレオは、リュイセンに向かって、ぐっと身を乗り出す。
「冷静に考えてみろ。生き返ったヘイシャオごときに、俺を殺せると思うか?」
冷ややかな眼差しで、口角を上げる。笑んでいるはずの顔だが、リュイセンの背筋を冷たいものが突き抜けた。
「死んだ人間が出てくれば驚くさ。けど、それだけだ。〈七つの大罪〉に関わりのあった俺が、『生き返った』なんて非科学を信じるわけがない。すぐに、ただの技術と気づく」
ゆるりと腕を組み、イーレオは嗤う。
「化けの皮が剥がれたヘイシャオの偽者など、俺の敵ではない。――ヘイシャオは鷹刀の血族だけあって、並の人間よりは腕が立つ。頭だっていい。だがな、相手が悪いだろう? 『この俺』には、敵うべくもない」
ぞくりとする低い声が、鳴り響いた。世界を支配下においたような尊大さでありながら、決して大言壮語とは切り捨てられぬ、不可侵の王者の風格が漂う。
「俺への刺客とするには、〈蝿〉では勝負にならん。〈七つの大罪〉は、次は別の人材を用意すべきだろう。けどな……」
ぐるりと、イーレオが瞳を巡らせた。その動きにつられるように、皆が目線が追いかける。
「俺は――」
イーレオは、急に声を潜めた。生真面目な声色に、一同はごくりと唾を呑む。
「清廉潔白な人間なんだ」
「……は?」
ルイフォンの目が点になった。
今まで黙って聞いていた――それどころか、彼にしては珍しく、途中で口を挟むことなく緊張感を持って聞き入っていた――のだが、それが一瞬にして崩れ去った。
「俺には、命を狙われる覚えはない!」
「はぁっ!? 何言ってんだよ、親父! 凶賊の総帥やってて、そんなわけないだろうが!」
拳を握りしめ、ルイフォンが噛み付く。
しかし、いち早く叫んだのが彼だった、というだけで、誰もが同じ思いだったに違いない。
「そこで俺は、疑問に思ったわけだ。『そもそも俺は、本当に、『現在の〈七つの大罪〉』に狙われているのか』――?」
「俺の突っ込みは無視かよ!」
そのまま話を続けるイーレオに、ルイフォンの言葉は虚しく流される。
「で、思った。正体も分からない『現在の〈七つの大罪〉』に狙われているかどうかなんて、考えるだけ無駄だ」
「おいっ!」
「だが、ヘイシャオの記憶を引き継いだ〈蝿〉になら、俺は恨まれているだろう。だから、今回のことは〈七つの大罪〉とは関係ない、死んだヘイシャオの私怨――……」
「待てよ、親父!」
勝手に喋り続けるイーレオの台詞の隙間に、ルイフォンは強引に割り込んだ。
「〈蝿〉は、〈七つの大罪〉から〈天使〉を与えられていた。思いっきり、〈七つの大罪〉が関与しているじゃねぇか!」
〈蝿〉が〈天使〉を使ったせいで、メイシアの父は〈影〉にされ、亡くなったのだ。ルイフォンは決してそれを忘れない。
だから、これは理にかなった意見だ。少なくとも、ルイフォンはそう思った。
だが、あろうことか、イーレオは掛かったな、と言わんばかりに嬉しそうに、にやりと笑った。
「な、なんだよ!?」
「ルイフォン、『〈天使〉』が俺の考えの根拠だ」
「どういうことだよ!」
ルイフォンは、思わず腰を浮かせかける。
その瞬間イーレオが、ぱしん、と手を合わせた。まるで、ルイフォンの苛立ちを御するかのように、小気味よい音が鳴り響く。
「――いいか」
視線が、黙って聞けと命じる。抗える者は、ひとりもいない。
「〈蝿〉は、〈天使〉を使って〈影〉を作り、俺たちを翻弄した。――奴がやったことは、〈蝿〉でなくとも、〈天使〉を利用できる者なら誰でも、可能な手段だった」
「!」
ルイフォンは、はっと顔色を変えた。
「『死んだヘイシャオを生き返らせる』なんて面倒な真似をしなくとも、他の人間で事足りたんだよ」
イーレオの言う通りだった。
「俺の至らなさが原因で、不意打ちを喰らったことは認める。だが、相手がヘイシャオだったから油断した、ということはない。……何しろ、俺自身は〈蝿〉の姿を見ていないんだからな」
「……っ!」
とても簡単なことを見落としていた。
まったくもって、反論できない。ルイフォンは、自分の愚かさに舌打ちをする。
「奴を見たのは、俺とリュイセンだけ……。動揺を誘うつもりなら、生前のヘイシャオを知っている人間の前に現れるべきだった。そうでなければ、意味がない……」
「そういうことだ。――だから、『〈七つの大罪〉は、俺を害するために〈蝿〉を作ったわけではない』と、俺は考える」
イーレオは肘掛けに手を置き、ぐっと背を起こす。
そして、あたかも重大事を宣告するかのように、魅惑の美声を張り上げた。
「〈七つの大罪〉は、俺の命など狙っていない。――〈蝿〉が俺を狙ったのは、完全に私怨。死んだヘイシャオの怨念が、俺を殺したいんだろう」
「ですが!」
間髪おかず、リュイセンが口を挟んだ。
「それなら何故、〈七つの大罪〉は〈蝿〉を作ったのですか!?」
「その答えなら簡単だ。――『ヘイシャオが、天才だったから』だ」
「へ?」
「ことの善悪はさておき、彼は『死者の蘇生』技術すら生み出した、俺の知る限り最高の天才医師だ。――俺の娘のために、血の滲むような努力を続けた男なんだからな……」
はっ、と。息を呑むような気配とともに、草の香が漂った。潤んだ瞳のミンウェイを視界の端に捕らえ、イーレオは続ける。
「現在の〈七つの大罪〉には、死者であるヘイシャオを蘇らせてでも、彼にやらせたい『何か』があるのだろう。唯一無二の天才医師ならばと、望みをかけてな。――〈蝿〉が〈天使〉を与えられたのは、報酬みたいなものだろう」
イーレオがそう言った瞬間、ルイフォンの頭の中を、閃光のような衝撃が駆け抜けた。点在していた情報のかけらが結びついていき、ひとつの情報網を組み上げていく。
「繋がった……」
震えるように、ルイフォンは小さく呟いた。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』だ……!」
猫の目が、虚空を見据えた。
〈猫〉の目には、不可視の情報の網が、大きく伸びていくのが見えていた。
「リュイセン、覚えてないか? 潜入した斑目の別荘での、〈蝿〉とホンシュアのやり取り――」
熱暴走に苦しむ〈天使〉のホンシュアを見下ろし、わざとらしい溜め息をついて〈蝿〉は言った。
『『デヴァイン・シンフォニア計画』とやらが頓挫しても構わないのですか? 私の技術が必要なのでしょう?』――と。
リュイセンの瞳が、大きく見開かれた。
ルイフォンは身を翻し、挑むような視線をイーレオに向けた。その勢いに、背中で金の鈴が跳ねる。
「〈七つの大罪〉は、『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、〈蝿〉を作った。――親父、そういうことだな?」
「ああ。俺は、そう考えている。そしてな――」
血気はやるルイフォンに、しかしイーレオは、さざなみひとつ立てぬ、まっさらな表情を返す。
「……俺はあの〈蝿〉を、歪んだ憎しみに囚われた、憐れな『過去のヘイシャオ』だと思っている」
「なんだよ、それ」
目の前がぱっと開けたような、気持ちのよい高揚感に水を差され、ルイフォンは口を尖らせた。
「奴が〈七つの大罪〉に命じられて俺を襲ったのなら、俺は問答無用で斬り捨てる。だが――」
憮然とするルイフォンを承知の上で、イーレオは言を継ぐ。やはり、これは若い彼らとは相容れぬ感情なのだと、納得をするために。
「ヘイシャオの無念が俺を狙ったのなら、俺は〈蝿〉の思いを受け止めてやりたいと思うよ。……行き着く先が『奴の死』でしかなくてもな」
「……っ」
感情をこらえるような、小さな声がミンウェイの口からこぼれた。けれど、その息遣いは、あまりにもかすかで、聞き逃したリュイセンは自分の思いのままに、イーレオに食って掛かる。
「祖父上! ヘイシャオ叔父は、逆恨みの極悪人です。手を差し伸べる価値などありません! ましてや〈蝿〉は、単なる作り物です!」
イーレオは、誰にも気付かれないように、ミンウェイを見やる。そっと口元を押さえていたハンカチを、人目を盗むようにして目尻に当てる彼女に、心をこめて告げる。
「あのとき――ヘイシャオからの、最後の電話を貰ったときに、もう少し何か言ってやれればよかったと、俺は今でも後悔しているよ」
もしも、あのとき。ヘイシャオの目を覚ますことができたなら――。
彼の心が、壊れてしまわなければ――。
孫娘は別の名前を与えられ、別の人生を歩んでいたのではないだろうか……。
そして、今ここに。ヘイシャオもまた、共に並んで座っていたかもしれない……。
そんな思いを、イーレオは呑み込む。
「俺を狙う敵としてではなく、俺の娘を最後まで愛してくれたひとりの人間として、俺は奴と対峙したい。奴の心に救いを与えたい。――甘いな。……すまん」
「親父……」
ルイフォンは、声を詰まらせた。
『甘い。認められない』――口元まで出かかった言葉を、吐き出せない。もどかしさに拳を握りしめた、そのときだった。
「――それでも」
すぐ隣で、リュイセンが動いた。肩で揃えられた髪が勢いよく広がり、場を斬り裂く。
「〈蝿〉は、祖父上がご自身でおっしゃった通り、『過去』の存在です。〈蝿〉の心が救われたところで、『現在』が変わるわけではありません。だから、鷹刀の『未来』のために、祖父上に害をなそうとする〈蝿〉は、草の根を分けてでも、即刻、見つけ出すべきです」
張りのある声が、朗々と告げた。
若き狼は礼節をもって、老いた獅子王に頭を垂れる。
「リュイセン……」
今までだって、リュイセンがイーレオに意見することは幾らもあった。けれど、それは文句に近い形での訴えだった。たいていは軽くあしらわれ、そして、どこか堅苦しいところのある兄貴分が、立場をわきまえ引き下がる。そんなことの繰り返しだった。
――そのはずだった。
ルイフォンは握りしめていた拳を開き、その手を挙手へと移す。
「親父……。俺は、リュイセンを支持する。親父の気持ちは、間違っていないかもしれない。でも、リュイセンの言う通り、親父が見ているのは『過去』だ」
〈七つの大罪〉の存在が、ちらつくようになってから感じていた、世代間の差異。古い時代を知る者と、知らない者との温度差。
イーレオは、とうの昔に気づいていたに違いない。だから、ことあるごとに『年寄り連中で対処するつもりだった』と言ったのだ。
けれど、それでは『一族』ではないから――。
ばらばらになってしまうから――。
ルイフォンは、ぐっと唇を噛んだ。
「一族を抜けた俺が、鷹刀の方針に口出しするのは越権行為だと思う。けど、『対等な協力者』としての意見を許してほしい」
猫背を正し、鋭い目でイーレオを捕らえる。
「〈猫〉は、鷹刀の全力での〈蝿〉捜索を要請する。狙いが親父だけだったとしても、奴は他の人間を巻き込むことを躊躇しない。危険な相手だ。それに――俺は、奴から『デヴァイン・シンフォニア計画』の情報を得たい」
「『デヴァイン・シンフォニア計画』の情報……?」
唐突なルイフォンの発言に対し、リュイセンが問い返す。
「ああ。たとえ、親父と〈蝿〉の因縁が解決したとしても、『デヴァイン・シンフォニア計画』には、母さんが関わっている。俺は、これを解き明かさなければならない」
関わっているのは、母だけではない。貴族と駆け落ちしたはずの異父姉、消息不明のセレイエも……。
熱暴走で死んでしまった〈天使〉ホンシュアの正体は、セレイエだった。――ホンシュアは、セレイエの〈影〉だった。
そのことは皆に報告済みであったが、あえて、セレイエの名前を出すのは控えた。彼女は、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈蛇〉として、一族に害を及ぼす存在になっているのかもしれないから……。
「……分かった」
水底に沈んでいくような、深く静かな声が響いた。
「全力での〈蝿〉の捜索を約束しよう」
――イーレオが、折れた。
ルイフォンとリュイセンは、互いに顔を見合わせた。驚きと喜びで一瞬、顔が緩む。しかし、すぐに表情を引き締め、敬意と謝意を込めてイーレオに頭を下げた。
イーレオは、ゆるやかに首を振る。
「鷹刀の『未来』のためだ……」
――一族の流れを、いずれ舵を取るリュイセンに向けていくために……。
低い声が響いたあとには、慈愛で満たされた、無風の水面が広がっていった。
そうして、この場がお開きとなる――その間際に。
ルイフォンは、ただ自分の知的好奇心を満たすためだけに、イーレオに尋ねた。
「そういえば、親父。〈悪魔〉の記憶って、定期的に提出されるって言っていたけど、『どこに』保管するんだ?」
記憶を上書きすることで作られる〈影〉なら、〈天使〉の羽を中継して、人から人へ記憶を書き写すイメージだと解釈できる。けれど、保管しておくのなら、どこかに『保存場所』が必要と思われた。
「それは……――っ、――〈冥王〉……!」
言葉の途中で、突然、イーレオが胸を押さえてソファーから転げ落ちた。
「!?」
皆の悲鳴が飛び交う中、イーレオは苦しげな呼吸を繰り返す。ごくわずかな時間に、玉のような汗がびっしりと浮かんでいた。
駆け寄ったミンウェイが脈を取り、エルファンを振り返る。痙攣するようなイーレオの動きに、ルイフォンは、はっとした。
そのあたりで、誰もが気づいた。
これは、〈悪魔〉を支配する、死の『契約』――!
「親父!」
ルイフォンが慌てて叫ぶ。
「すまん。考えるな! 俺は何も聞かなかった! 親父は何も言わなくていい!」
まさか、だった。
『契約』は、〈悪魔〉となったことで知り得た〈七つの大罪〉の『秘密』――すなわち、王族の『秘密』を口外しようとしたときに発動する……。
――つまり、記憶の『保存場所』は、王族の『秘密』に抵触する……。
「皆……心配、するな。……そのうち、収まる……」
額に張り付く髪を払い、イーレオは穏やかに微笑む。陰りのある美貌に、ルイフォンはやり場のない憤りを覚えた。
〈七つの大罪〉、王族――。
そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』……。
自分を取り巻く、不可解な現状。言いようもない焦燥感に駆られ、ルイフォンは癖のある前髪を乱暴に掻き上げた。