残酷な描写あり
5.封じられた甘き香に-2
イーレオの告白は、甘い果実酒の柔らかな香りに包まれていたが、エルファンの氷の仮面を叩き割るのに充分な威力を持っていた。
「どう……いう…………?」
やっと口からこぼれ出た疑問も、途中で霞みながら沈んでいく。
「だから、言っただろう? キリファはずっと、お前を愛していた、と」
「っ! ふざけるな!」
エルファンは、両手を思い切りテーブルに叩きつけた。振動で、グラスの中の果実酒がさざ波を立てる。
「父上の子を身籠ったと言うから、私は彼女をすっぱり諦めたんだ……!」
エルファンはぐっと手を伸ばし、テーブル越しにイーレオの襟元を掴み上げた。
「説明しろ!」
血走った目で憎々しげに迫るエルファンに、しかし、イーレオは泰然とした構えを解くことはなかった。
「キリファは、な。ルイフォンを――お前の子を宿したから、お前のそばを離れたんだ」
「わけの分からぬことを!」
この期に及んでなお、謎掛けのようなことを言うイーレオに、エルファンの怒りが膨れ上がる。襟元を掴む手に更に力が加わると、イーレオは「ああ、そうだよ」と、くっと口元を歪めた。
「俺だって、わけが分からなかったよ」
殺意すら感じられる低い声が、エルファンの耳朶を打った。
本能的な恐怖に目の前を凝視すれば、イーレオの表情は穏やかなようでありながら、その瞳の奥に深い憤りと苛立ちをくすぶらせている。
「父、上……?」
「子供ができれば、めでたいじゃないか。喜んでお前に報告すればいい。なのにキリファは、お前に知られることを極度に恐れた。鷹刀を出て、ひとりで育てると言う。『あたしはもう、子供は産まない、って、エルファンに宣言したんだから』ってな」
「! ……セレイエの……事件……。あのとき……言った……?」
エルファンは、瞠目した。
途切れ途切れの言葉は不明瞭な発音から成っており、それらは明確な台詞にならぬままに消える。イーレオの襟を握りしめていた手の力が、するりと抜け落ちた。
「ああ」
楽になった襟元を直し、イーレオは頷いた。
――ルイフォンの姉、セレイエ。
彼女は幼いころ、異母兄のレイウェン、幼馴染のシャンリーの子供たち三人だけで遊びに出掛け、敵対する凶賊に襲われた。
そのとき、レイウェンは重症を負い、生死の境をさまよった。
しかし、セレイエはもっと深刻だった。通常の医療では手の施しようがなかったのだ。
襲撃をきっかけに、彼女の持って生まれた運命が明らかになった。限界を超えて酷使された体は高熱にうなされ、意識を失ったままの状態が幾日も続いた。
再び目を覚ますことができたのは、奇跡としかいいようがなかった。
事件のあと、セレイエは、母親のキリファと共に屋敷の外で暮らすことになった。彼女が凶賊として再び襲われることのないように、一族ではないと分かりやすく示すためだった。
だが、凶賊と縁を切ったところで、今後も何かのはずみで同じことが起こり得る。彼女は常に、死と隣り合わせで生きていかなければならない――。
そしてキリファは、もう子供は作らないと宣言した。
次の子供もまた、セレイエと同じに違いないから、と。更には、子供を産むのは正妻のユイランに任せる、とまで言い切った。
「だからと言って、そんな……」
「俺だって、キリファの言い分は、まったく理解できない。だが彼女にとって、あの宣言は絶対に守るべき誓いだったらしい」
「…………」
エルファンは、自分の中に湧き上がってくる気持ちをどう捉えればよいのか分からず、ただ拳を握りしめた。全身に強く力を入れていないと、気が狂いそうだった。
イーレオは、陰鬱な面持ちで視線を落とし、「出ていこうとしていたキリファに気づいたのは、ユイランだった」と語り始める。
「様子のおかしいキリファを根気強くなだめすかして、白状させたそうだ。嫌がるキリファを俺の前に連れてきて、相談に乗ってほしいと言ってきた」
ユイランの思考もまたイーレオには理解しがたいのだが、彼女はキリファを非常に可愛がっていた。キリファに何を言われても、野良猫に引っかかれた程度にしか感じていなかったように思える。
「キリファは戸惑いながらも、子供ができたこと自体は喜んでいたよ。だが、お前を心配して……というのか――。お前に対して、罪悪感にすら似た気持ちを抱いていた」
『エルファンが喜んでくれるのは分かっているわ。でも、またセレイエみたいになったら……! エルファンはね、いつも仏頂面だけど、本当は凄く繊細なの。――あたし、エルファンを悲しませたくない……!』
「どうして、罪悪感を抱く?」
「分からん。ユイランが言うには、かなり異常性に満ちてはいるが、これも『女心』だそうだ。つまり、元気な子供を産める、完璧で理想的な『お前の女』でありたいのに、そうなれないのは罪深いのだと。そう思い込むような精神状態だったらしい」
そう言ってから、イーレオは「やはり、俺には分からんよ」と、お手上げだとばかりに首を振る。
「馬鹿なことを言ってないで、とっととエルファンに報告しろ、と言ったんだが、手のつけられないような興奮状態でな。『勝手にエルファンに伝えたら、〈天使〉の力を使って記憶をぐちゃぐちゃにしてやる』とまで言ってきた」
そのときのことを思い出し、イーレオは重い息をつく。
「相手は妊婦だから気が立っているのだろう、刺激してはいけないと、俺は無理やり自分を納得させたよ。――ともかくキリファの決意は固くて、今にも鷹刀を飛び出していきそうな勢いだった。だから、なんとか思いとどまらせようと、俺は必死に考えた」
イーレオは、自分とそっくりなエルファンの顔を、まっすぐに見つめた。
「キリファの憂慮は、『お前を』悲しませたくない、ということだけだった。それで、『だったら、エルファンではなくて、俺の子供ということにしておけばいい』と提案した。外見からは絶対に分からないから、とな」
「つまり、『総帥の愛人』という地位を提示したのは――キリファを庇護するのと同時に、子供の父親をあやふやにするため……」
「そういうことだ」
結局、キリファはイーレオの申し出に応じた。
初めは、『あたしは、ひとりで生きていけるわ。馬鹿にしないで』と強気に言っていたが、思うようにならぬ身重の体に、やがて折れた。自分だけならまだしも、腹の子と幼いセレイエのことを考えたら、やはり不安だったのだろう。我儘放題に見えても、キリファは母親だった。
そして、言いがかりのような喧嘩をふっかけて、キリファはエルファンに別れを告げた。ユイランもまた、キリファの行動が自然に見えるよう『愛人を追い出した、怖い正妻』を演じた。
「落ち着いたら、真実を話せばいい。それで大丈夫だろうと考えた俺が――傲慢だったよ」
最後のひとことは、深い後悔。それは、やり場のない怨嗟の響きを帯びていた。
イーレオの思惑や、キリファの憂慮など、エルファンは知る由もなかった。だから彼は自分を抑え、彼女の幸せだけを願った。
すぐそばにいながらも、その瞳に永遠の決別の色を浮かべた。どす黒い感情と葛藤し、割り切り、彼女への想いを粉々に砕き、諦めた。
『人』を避ける傾向にあったエルファンにとって、キリファは、気負いのない心を見せることのできる、ただひとりの相手だった。彼女を失った空虚さに、彼は『人』との関わり合いを拒み、孤独を好み、心を閉ざすようになった。
「浅はかな俺の考えが……お前の心を殺した。――すまなかった」
イーレオの頭が深々と下げられた。背で緩くまとめられた長髪がほどけ、あとを追うようにさらさらと流れる。
エルファンは、それを呆然と見つめていた。心が凍りついたように何も感じることができなかった。
すべてが、ぴくりとも動かぬ、無音の世界が訪れる。
グラスの中の果実酒さえ、その水面をゆらりともさせない。時の流れから切り離されたような空間は、セピアに彩られて現実味を失っていた。
そのまま、どのくらいが過ぎただろうか。やがて、ゆっくりとイーレオが顔を上げた。
「ルイフォンが生まれて、成長して……、セレイエのような兆候は見られなかった。だから、真実を伝えてはどうかと、俺はキリファに勧めた」
「……」
「だが、『エルファンの心はもう、あたしにはないから、言えない』と――」
「……!」
刹那――。
音を立てて崩れる流氷のように、エルファンの心に亀裂が走った。
「ちがぅ……キリファは……、何度も言おうとしていた…………!」
華奢な体躯が、そっと近づいてきた。小柄な彼女がエルファンを見上げれば、ちょっときつめの猫目が上目遣いになる。
何か言いたげな顔だと、すぐに分かった。けれど、素直に言えぬ性格だと、よく知っていた。だから、水を向けてやれば喜ぶのだと、その笑顔の幻影が見えていた。
なのに、気づかないふりをした。もう想うことの許されない相手なのだから、と。
「――言えなかったんじゃない。私がキリファに、何も言わせなかったんだ……!」
エルファンは虚空を掻き抱いた。
あのときの彼女を引き寄せるように腕を滑らせ、胸の中に包み込んだ。うつむいた彼の鼻腔を、果実酒の香りがくすぐる。甘いはずのそれは、心につん、と鋭くしみた。
イーレオは、空になっていた自分のグラスに酒を注いだ。そして、置かれたままだったエルファンのグラスに、強引に触れ合わせる。
可愛らしい音色が、ちん、と鳴り響いた。
「酒は、ひとりで飲むよりも、誰かと飲んだほうが……美味いぞ」
「……っ」
エルファンの息が乱れた。
イーレオは、手にしたグラスを一気に飲み干し、甘く笑う。
「『あたしの嘘も見抜けないほど馬鹿な男だなんて、思ってもいなかったわ』と、キリファは愛しげにうそぶいていたよ」
低い声が、優しく落ちた。
「……ああ」
エルファンの瞼に、キリファの姿が鮮明に浮かび上がる。
強気な口調で言ってのけ、柔らかな猫毛を揺らして、ぷいと横を向く。それは、誰にも見られたくない顔を、隠すため――。
「彼女は泣きながら、そう言ったんですね……?」
「泣き笑いの顔でな」
「強がりで、不器用なんですよ」
警戒心が強いくせに、寂しがり。生まれたときから、ごみ溜めのようなところで暮らしてきたくせに、まっすぐすぎる魂は、どこまでも純粋無垢。
とても一途で……可愛い女なのだ。
次から次へと、尽きることなき泉のように、彼女への想いがあふれ出す。
「――別れたあとも、私が贈ったチョーカーを外さなかった……」
あれは、いわば所有の証だ。それを身に着け続けている意味を、エルファンはずっと理解できなかった。
「チョーカー?」
イーレオが、からかい混じりの、尻上がりの声を出す。
「ルイフォンの持っている鈴がついていた、あの首輪か? お前、いくら自分の女だからって、首輪は悪趣味だぞ」
批判的な意見に、エルファンはむっと眉を寄せる。
「似合っていたからいいんです。それに彼女も喜んでいました」
『あたしはエルファンの飼い猫になったの』――そう言って、彼女は無邪気に笑った。
裏切りという言葉を知っているくせに、彼女は恐れることなく彼だけを見てくれた。あの小さな体のどこから、そんな強さが生まれてくるのだろうと思うほどに、彼を愛してくれた。
あのチョーカーの鈴の存在が、キリファの最期のときの記憶を、ルイフォンに残したという。それは、どこか運命的に感じられた。
――そう。エルファンの『息子』、ルイフォンの……。
「父上」
声を掛けたエルファンは、冷涼としていながらも穏やかな目をしていた。
「リュイセンではありませんが、『過去』ばかりを見ているわけにはいきません。『未来』の話をしましょう」
「そうだな」
イーレオが、ふっと口元を緩める。
その表情を見て、エルファンは気づいた。父は、もともとそのつもりだったのだ。
「まず、ルイフォンの件ですが、今まで通り、父上の子ということにしておいてください」
「なんだ、親子の名乗りを上げないのか?」
「親が何者であるか、などということは、どうでもよいことです。自分自身が何者になるかが、問題なのです。――それにルイフォンは、既に事実上の伴侶まで得て、独立しました。そんな男に親など無用です」
正論と言えなくもないエルファンの弁だが、イーレオには『今更、どの面下げて名乗れるか』と、顔に書いてあるようにしか見えなかった。
「ユイランが、がっかりするな」
「何故ですか?」
残念そうなイーレオに、エルファンは訝しげに目を尖らせる。
「この前、ユイランは久々にルイフォンに会って、成長した姿を見たわけだろう? 昔のお前にそっくりだと、嬉しそうだった。あれは明らかに、言いふらしたくてうずうずしていたぞ」
エルファンは、眉間に皺を寄せた。イーレオの言ったことが、不可解だったのだ。
「ルイフォンはキリファ似ですから、私にはあまり似ていません」
「似ているのは顔じゃないさ」
にやにやとするイーレオに、エルファンは憮然とする。
「だいたい何故、私とルイフォンが似ていると、ユイランが喜ぶんですか? 論理的でありませんね」
「さて? ユイランが喜ぶ理由は知らん。だが、昔のお前を知っていれば、懐かしくもなるのは分からんでもないさ」
イーレオは楽しげに笑いながら、グラスをあおった。エルファンは合点がゆかぬ顔で見つめていたが、やがて、つられるようにグラスを傾ける。
そして――。
「それから……、セレイエですね」
「ああ」
それこそが、『未来』の話――。
キリファが、ふたり目の子供の妊娠を隠したがった心情は理解できないと、先ほどイーレオは言った。しかし実は、ほんの少しだけ分かる気もするのだ。セレイエの運命を知ったときのエルファンの嘆きようは、尋常ではなかった。だから、同じことを繰り返したくないと、キリファは思ったのだろう。
そしてイーレオも、エルファンの前で、セレイエの名を口にするのを避けてきたきらいがある。
……けれど、もはや、そうも言っていられない。この部屋を訪れたのは、『過去』と向き合って、『未来』を掴むためなのだから――。
「まだ、見つかっていないのですよね」
「手を尽くして探してはいるが……正直、見つかる気がしない」
エルファンの問いに、イーレオは渋面を作る。
『自分のことを知りたいの』
そのひとことで、セレイエは〈七つの大罪〉へと飛び込んでいった。
母親のキリファとは、たまに連絡を取っていたようだが、キリファが死んでからは、まるで消息を掴めない。
「ユイランとシャンリーは、メイシアに『過去』を話したときも、セレイエについてはほとんど触れなかったそうだ。本人のいないところで、勝手に話すべきではないと判断した、と」
ユイランは、そもそも過去の話にセレイエを出そうとしなかったし、シャンリーは『黙するべきことは、わきまえます』と言って巧みに避けた。
「だが、若い連中に言わないわけにはいかんだろう?」
イーレオは、冷徹な視線をエルファンに向けた。
それを受けたエルファンは、一瞬だけ苦しげに表情を崩したが、すぐに「ええ――」と頷く。
「おそらく、セレイエが鷹刀を『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込んだ張本人でしょうから……」
「――ああ」
イーレオは目線を落とし、指先で摘んだグラスを見つめる。期待した通りの言葉が返ってきたところで、出てくるものは溜め息しかないのだ。
「セレイエは、鷹刀の『敵』となった可能性が高い」
硬い表情で、エルファンは呟いた。
「まだ、断定するのは早い。……助けを求めているのかもしれないぞ。作られた〈蝿〉は俺を狙っているが、現在の〈七つの大罪〉と鷹刀の関係は、必ずしも『敵対』とは限らない。……まだ、なんとも言えないんだ」
イーレオは、エルファンの空のグラスに酒を注ぐ。エルファンはそれを受けると、今度は彼が酌を返した。
「セレイエに関しては、私から、若い奴らに言います」
そう言って、エルファンは一気に飲み干す。
「そうか。では、次の会議のときに頼む。――お前から言ってくれるのなら、助かる。俺もいい加減、『昔のことを隠してばかりの爺』の汚名を返上したいんでな」
台詞の最後は冗談で流したが、最初の部分はイーレオの気遣いだった。ルイフォンなどであれば、明日にも皆を集めて情報共有すべきと言うであろうが、少しとはいえ時間の猶予を与え、気持ちの整理を促したのだ――。
酒を注ぎつ、注がれつ。エルファンの部屋に、甘き香が漂う。
セピアの苦味に包まれながらも、こんな酒も悪くはない。果実酒の瓶が落とす柔らかな影を瞳に映し、エルファンはそう思った。
~ 第二章 了 ~
「どう……いう…………?」
やっと口からこぼれ出た疑問も、途中で霞みながら沈んでいく。
「だから、言っただろう? キリファはずっと、お前を愛していた、と」
「っ! ふざけるな!」
エルファンは、両手を思い切りテーブルに叩きつけた。振動で、グラスの中の果実酒がさざ波を立てる。
「父上の子を身籠ったと言うから、私は彼女をすっぱり諦めたんだ……!」
エルファンはぐっと手を伸ばし、テーブル越しにイーレオの襟元を掴み上げた。
「説明しろ!」
血走った目で憎々しげに迫るエルファンに、しかし、イーレオは泰然とした構えを解くことはなかった。
「キリファは、な。ルイフォンを――お前の子を宿したから、お前のそばを離れたんだ」
「わけの分からぬことを!」
この期に及んでなお、謎掛けのようなことを言うイーレオに、エルファンの怒りが膨れ上がる。襟元を掴む手に更に力が加わると、イーレオは「ああ、そうだよ」と、くっと口元を歪めた。
「俺だって、わけが分からなかったよ」
殺意すら感じられる低い声が、エルファンの耳朶を打った。
本能的な恐怖に目の前を凝視すれば、イーレオの表情は穏やかなようでありながら、その瞳の奥に深い憤りと苛立ちをくすぶらせている。
「父、上……?」
「子供ができれば、めでたいじゃないか。喜んでお前に報告すればいい。なのにキリファは、お前に知られることを極度に恐れた。鷹刀を出て、ひとりで育てると言う。『あたしはもう、子供は産まない、って、エルファンに宣言したんだから』ってな」
「! ……セレイエの……事件……。あのとき……言った……?」
エルファンは、瞠目した。
途切れ途切れの言葉は不明瞭な発音から成っており、それらは明確な台詞にならぬままに消える。イーレオの襟を握りしめていた手の力が、するりと抜け落ちた。
「ああ」
楽になった襟元を直し、イーレオは頷いた。
――ルイフォンの姉、セレイエ。
彼女は幼いころ、異母兄のレイウェン、幼馴染のシャンリーの子供たち三人だけで遊びに出掛け、敵対する凶賊に襲われた。
そのとき、レイウェンは重症を負い、生死の境をさまよった。
しかし、セレイエはもっと深刻だった。通常の医療では手の施しようがなかったのだ。
襲撃をきっかけに、彼女の持って生まれた運命が明らかになった。限界を超えて酷使された体は高熱にうなされ、意識を失ったままの状態が幾日も続いた。
再び目を覚ますことができたのは、奇跡としかいいようがなかった。
事件のあと、セレイエは、母親のキリファと共に屋敷の外で暮らすことになった。彼女が凶賊として再び襲われることのないように、一族ではないと分かりやすく示すためだった。
だが、凶賊と縁を切ったところで、今後も何かのはずみで同じことが起こり得る。彼女は常に、死と隣り合わせで生きていかなければならない――。
そしてキリファは、もう子供は作らないと宣言した。
次の子供もまた、セレイエと同じに違いないから、と。更には、子供を産むのは正妻のユイランに任せる、とまで言い切った。
「だからと言って、そんな……」
「俺だって、キリファの言い分は、まったく理解できない。だが彼女にとって、あの宣言は絶対に守るべき誓いだったらしい」
「…………」
エルファンは、自分の中に湧き上がってくる気持ちをどう捉えればよいのか分からず、ただ拳を握りしめた。全身に強く力を入れていないと、気が狂いそうだった。
イーレオは、陰鬱な面持ちで視線を落とし、「出ていこうとしていたキリファに気づいたのは、ユイランだった」と語り始める。
「様子のおかしいキリファを根気強くなだめすかして、白状させたそうだ。嫌がるキリファを俺の前に連れてきて、相談に乗ってほしいと言ってきた」
ユイランの思考もまたイーレオには理解しがたいのだが、彼女はキリファを非常に可愛がっていた。キリファに何を言われても、野良猫に引っかかれた程度にしか感じていなかったように思える。
「キリファは戸惑いながらも、子供ができたこと自体は喜んでいたよ。だが、お前を心配して……というのか――。お前に対して、罪悪感にすら似た気持ちを抱いていた」
『エルファンが喜んでくれるのは分かっているわ。でも、またセレイエみたいになったら……! エルファンはね、いつも仏頂面だけど、本当は凄く繊細なの。――あたし、エルファンを悲しませたくない……!』
「どうして、罪悪感を抱く?」
「分からん。ユイランが言うには、かなり異常性に満ちてはいるが、これも『女心』だそうだ。つまり、元気な子供を産める、完璧で理想的な『お前の女』でありたいのに、そうなれないのは罪深いのだと。そう思い込むような精神状態だったらしい」
そう言ってから、イーレオは「やはり、俺には分からんよ」と、お手上げだとばかりに首を振る。
「馬鹿なことを言ってないで、とっととエルファンに報告しろ、と言ったんだが、手のつけられないような興奮状態でな。『勝手にエルファンに伝えたら、〈天使〉の力を使って記憶をぐちゃぐちゃにしてやる』とまで言ってきた」
そのときのことを思い出し、イーレオは重い息をつく。
「相手は妊婦だから気が立っているのだろう、刺激してはいけないと、俺は無理やり自分を納得させたよ。――ともかくキリファの決意は固くて、今にも鷹刀を飛び出していきそうな勢いだった。だから、なんとか思いとどまらせようと、俺は必死に考えた」
イーレオは、自分とそっくりなエルファンの顔を、まっすぐに見つめた。
「キリファの憂慮は、『お前を』悲しませたくない、ということだけだった。それで、『だったら、エルファンではなくて、俺の子供ということにしておけばいい』と提案した。外見からは絶対に分からないから、とな」
「つまり、『総帥の愛人』という地位を提示したのは――キリファを庇護するのと同時に、子供の父親をあやふやにするため……」
「そういうことだ」
結局、キリファはイーレオの申し出に応じた。
初めは、『あたしは、ひとりで生きていけるわ。馬鹿にしないで』と強気に言っていたが、思うようにならぬ身重の体に、やがて折れた。自分だけならまだしも、腹の子と幼いセレイエのことを考えたら、やはり不安だったのだろう。我儘放題に見えても、キリファは母親だった。
そして、言いがかりのような喧嘩をふっかけて、キリファはエルファンに別れを告げた。ユイランもまた、キリファの行動が自然に見えるよう『愛人を追い出した、怖い正妻』を演じた。
「落ち着いたら、真実を話せばいい。それで大丈夫だろうと考えた俺が――傲慢だったよ」
最後のひとことは、深い後悔。それは、やり場のない怨嗟の響きを帯びていた。
イーレオの思惑や、キリファの憂慮など、エルファンは知る由もなかった。だから彼は自分を抑え、彼女の幸せだけを願った。
すぐそばにいながらも、その瞳に永遠の決別の色を浮かべた。どす黒い感情と葛藤し、割り切り、彼女への想いを粉々に砕き、諦めた。
『人』を避ける傾向にあったエルファンにとって、キリファは、気負いのない心を見せることのできる、ただひとりの相手だった。彼女を失った空虚さに、彼は『人』との関わり合いを拒み、孤独を好み、心を閉ざすようになった。
「浅はかな俺の考えが……お前の心を殺した。――すまなかった」
イーレオの頭が深々と下げられた。背で緩くまとめられた長髪がほどけ、あとを追うようにさらさらと流れる。
エルファンは、それを呆然と見つめていた。心が凍りついたように何も感じることができなかった。
すべてが、ぴくりとも動かぬ、無音の世界が訪れる。
グラスの中の果実酒さえ、その水面をゆらりともさせない。時の流れから切り離されたような空間は、セピアに彩られて現実味を失っていた。
そのまま、どのくらいが過ぎただろうか。やがて、ゆっくりとイーレオが顔を上げた。
「ルイフォンが生まれて、成長して……、セレイエのような兆候は見られなかった。だから、真実を伝えてはどうかと、俺はキリファに勧めた」
「……」
「だが、『エルファンの心はもう、あたしにはないから、言えない』と――」
「……!」
刹那――。
音を立てて崩れる流氷のように、エルファンの心に亀裂が走った。
「ちがぅ……キリファは……、何度も言おうとしていた…………!」
華奢な体躯が、そっと近づいてきた。小柄な彼女がエルファンを見上げれば、ちょっときつめの猫目が上目遣いになる。
何か言いたげな顔だと、すぐに分かった。けれど、素直に言えぬ性格だと、よく知っていた。だから、水を向けてやれば喜ぶのだと、その笑顔の幻影が見えていた。
なのに、気づかないふりをした。もう想うことの許されない相手なのだから、と。
「――言えなかったんじゃない。私がキリファに、何も言わせなかったんだ……!」
エルファンは虚空を掻き抱いた。
あのときの彼女を引き寄せるように腕を滑らせ、胸の中に包み込んだ。うつむいた彼の鼻腔を、果実酒の香りがくすぐる。甘いはずのそれは、心につん、と鋭くしみた。
イーレオは、空になっていた自分のグラスに酒を注いだ。そして、置かれたままだったエルファンのグラスに、強引に触れ合わせる。
可愛らしい音色が、ちん、と鳴り響いた。
「酒は、ひとりで飲むよりも、誰かと飲んだほうが……美味いぞ」
「……っ」
エルファンの息が乱れた。
イーレオは、手にしたグラスを一気に飲み干し、甘く笑う。
「『あたしの嘘も見抜けないほど馬鹿な男だなんて、思ってもいなかったわ』と、キリファは愛しげにうそぶいていたよ」
低い声が、優しく落ちた。
「……ああ」
エルファンの瞼に、キリファの姿が鮮明に浮かび上がる。
強気な口調で言ってのけ、柔らかな猫毛を揺らして、ぷいと横を向く。それは、誰にも見られたくない顔を、隠すため――。
「彼女は泣きながら、そう言ったんですね……?」
「泣き笑いの顔でな」
「強がりで、不器用なんですよ」
警戒心が強いくせに、寂しがり。生まれたときから、ごみ溜めのようなところで暮らしてきたくせに、まっすぐすぎる魂は、どこまでも純粋無垢。
とても一途で……可愛い女なのだ。
次から次へと、尽きることなき泉のように、彼女への想いがあふれ出す。
「――別れたあとも、私が贈ったチョーカーを外さなかった……」
あれは、いわば所有の証だ。それを身に着け続けている意味を、エルファンはずっと理解できなかった。
「チョーカー?」
イーレオが、からかい混じりの、尻上がりの声を出す。
「ルイフォンの持っている鈴がついていた、あの首輪か? お前、いくら自分の女だからって、首輪は悪趣味だぞ」
批判的な意見に、エルファンはむっと眉を寄せる。
「似合っていたからいいんです。それに彼女も喜んでいました」
『あたしはエルファンの飼い猫になったの』――そう言って、彼女は無邪気に笑った。
裏切りという言葉を知っているくせに、彼女は恐れることなく彼だけを見てくれた。あの小さな体のどこから、そんな強さが生まれてくるのだろうと思うほどに、彼を愛してくれた。
あのチョーカーの鈴の存在が、キリファの最期のときの記憶を、ルイフォンに残したという。それは、どこか運命的に感じられた。
――そう。エルファンの『息子』、ルイフォンの……。
「父上」
声を掛けたエルファンは、冷涼としていながらも穏やかな目をしていた。
「リュイセンではありませんが、『過去』ばかりを見ているわけにはいきません。『未来』の話をしましょう」
「そうだな」
イーレオが、ふっと口元を緩める。
その表情を見て、エルファンは気づいた。父は、もともとそのつもりだったのだ。
「まず、ルイフォンの件ですが、今まで通り、父上の子ということにしておいてください」
「なんだ、親子の名乗りを上げないのか?」
「親が何者であるか、などということは、どうでもよいことです。自分自身が何者になるかが、問題なのです。――それにルイフォンは、既に事実上の伴侶まで得て、独立しました。そんな男に親など無用です」
正論と言えなくもないエルファンの弁だが、イーレオには『今更、どの面下げて名乗れるか』と、顔に書いてあるようにしか見えなかった。
「ユイランが、がっかりするな」
「何故ですか?」
残念そうなイーレオに、エルファンは訝しげに目を尖らせる。
「この前、ユイランは久々にルイフォンに会って、成長した姿を見たわけだろう? 昔のお前にそっくりだと、嬉しそうだった。あれは明らかに、言いふらしたくてうずうずしていたぞ」
エルファンは、眉間に皺を寄せた。イーレオの言ったことが、不可解だったのだ。
「ルイフォンはキリファ似ですから、私にはあまり似ていません」
「似ているのは顔じゃないさ」
にやにやとするイーレオに、エルファンは憮然とする。
「だいたい何故、私とルイフォンが似ていると、ユイランが喜ぶんですか? 論理的でありませんね」
「さて? ユイランが喜ぶ理由は知らん。だが、昔のお前を知っていれば、懐かしくもなるのは分からんでもないさ」
イーレオは楽しげに笑いながら、グラスをあおった。エルファンは合点がゆかぬ顔で見つめていたが、やがて、つられるようにグラスを傾ける。
そして――。
「それから……、セレイエですね」
「ああ」
それこそが、『未来』の話――。
キリファが、ふたり目の子供の妊娠を隠したがった心情は理解できないと、先ほどイーレオは言った。しかし実は、ほんの少しだけ分かる気もするのだ。セレイエの運命を知ったときのエルファンの嘆きようは、尋常ではなかった。だから、同じことを繰り返したくないと、キリファは思ったのだろう。
そしてイーレオも、エルファンの前で、セレイエの名を口にするのを避けてきたきらいがある。
……けれど、もはや、そうも言っていられない。この部屋を訪れたのは、『過去』と向き合って、『未来』を掴むためなのだから――。
「まだ、見つかっていないのですよね」
「手を尽くして探してはいるが……正直、見つかる気がしない」
エルファンの問いに、イーレオは渋面を作る。
『自分のことを知りたいの』
そのひとことで、セレイエは〈七つの大罪〉へと飛び込んでいった。
母親のキリファとは、たまに連絡を取っていたようだが、キリファが死んでからは、まるで消息を掴めない。
「ユイランとシャンリーは、メイシアに『過去』を話したときも、セレイエについてはほとんど触れなかったそうだ。本人のいないところで、勝手に話すべきではないと判断した、と」
ユイランは、そもそも過去の話にセレイエを出そうとしなかったし、シャンリーは『黙するべきことは、わきまえます』と言って巧みに避けた。
「だが、若い連中に言わないわけにはいかんだろう?」
イーレオは、冷徹な視線をエルファンに向けた。
それを受けたエルファンは、一瞬だけ苦しげに表情を崩したが、すぐに「ええ――」と頷く。
「おそらく、セレイエが鷹刀を『デヴァイン・シンフォニア計画』に巻き込んだ張本人でしょうから……」
「――ああ」
イーレオは目線を落とし、指先で摘んだグラスを見つめる。期待した通りの言葉が返ってきたところで、出てくるものは溜め息しかないのだ。
「セレイエは、鷹刀の『敵』となった可能性が高い」
硬い表情で、エルファンは呟いた。
「まだ、断定するのは早い。……助けを求めているのかもしれないぞ。作られた〈蝿〉は俺を狙っているが、現在の〈七つの大罪〉と鷹刀の関係は、必ずしも『敵対』とは限らない。……まだ、なんとも言えないんだ」
イーレオは、エルファンの空のグラスに酒を注ぐ。エルファンはそれを受けると、今度は彼が酌を返した。
「セレイエに関しては、私から、若い奴らに言います」
そう言って、エルファンは一気に飲み干す。
「そうか。では、次の会議のときに頼む。――お前から言ってくれるのなら、助かる。俺もいい加減、『昔のことを隠してばかりの爺』の汚名を返上したいんでな」
台詞の最後は冗談で流したが、最初の部分はイーレオの気遣いだった。ルイフォンなどであれば、明日にも皆を集めて情報共有すべきと言うであろうが、少しとはいえ時間の猶予を与え、気持ちの整理を促したのだ――。
酒を注ぎつ、注がれつ。エルファンの部屋に、甘き香が漂う。
セピアの苦味に包まれながらも、こんな酒も悪くはない。果実酒の瓶が落とす柔らかな影を瞳に映し、エルファンはそう思った。
~ 第二章 了 ~