残酷な描写あり
孤独の〈猫〉
その瞬間、世界が白金に包まれた。
目のくらむような、まばゆい光。反射的に、私は腕で顔をかばう。
透かし見た先には、爆風に短髪を逆立てた、少女の姿があった。その背からは、閃光のような光の糸が、あとからあとから噴き出ている。
「迎えが来ただけよ」
そばにあった机に手を付き、彼女はそれを伝うようにして進む。話に聞いていた通り、彼女は片足首を失っていた。身請けの際の条件だったという。
彼女が、よろけながらも目指す先は、私ではない。
腰を抜かし、床に這いつくばりながら後ずさる、憐れな男。顔の造作としては、なかなかの優男ではあるが、今は恐怖に引きつり台無しになっている。
彼女から放出された光の糸は、生き物のようにうねりながら互いに絡み合い、やがて波打つように明暗を繰り返す、輝く羽となった。
――〈天使〉。
〈七つの大罪〉が作り出した、人体実験体。
人間の脳に侵入し、相手を乗っ取るクラッカー。
しかし脳内介入は、〈天使〉の体に過剰な負荷をかける。限度を超えれば、羽が熱暴走を起こし、死に至る……。
熱気があたりを包み込み、機械類を繋いでいたコードが溶け出した。唸りを上げ、作動中を示すライトを明滅させていた筐体が突然、火を噴く。幾つもあるモニタはブラックアウトし、ことごとくひびが入っていった……。
研究室の様相は一変した。
男にとって、寝耳に水の事態だろう。彼女は、妄信的に彼に従う存在のはずだったのだから。
けれど、彼女が羽を現した理由を誤って解釈するほど、彼は愚かではなかった。彼女が自分を害そうとしていることを、彼は正確に理解していた。
彼女から逃げるため、男はなんとか立ち上がるも、床に飛び散った資料に足を滑らせ、再び転倒する。
所詮、無駄な悪あがきだった。
何しろ、ひとつしかない出口の前には私がいるのだ。彼女と私の間で挟み打ちになった男に、いったい何ができるというのだろう。
「〈猫〉! 何故、羽を出す!? 俺をどうする気だ!? ……こいつは、いったい何者だ!?」
私を指差し、男は金切り声を上げる。
「だから、言ったでしょ、〈蠍〉。迎えが来ただけだ、って」
猫のような目を細め、彼女が笑う。
小柄な少女だ。
歳は十五か、十六だと言っていたが、正確なところは本人も知らないらしい。もしも、十三歳だと言われれば、私は驚くことなく、そのまま信じただろう。そのくらい細く、華奢な体つきをしていた。
「迎え……? どういう……? お前は、何を……!?」
〈蠍〉と呼ばれた男は、私と彼女を交互に見ながら、単語を並べただけの未熟な疑問を口にする。だが、途中で、はっと顔色を変えた。
私の顔を凝視しながら、震えるように呟く。
「こいつは、鷹刀の直系の大物だ。〈猫〉、お前、〈七つの大罪〉を捨てた鷹刀と組んで、何をする気だ……!?」
「へぇ、その人、大物なんだ? 知り合いなの?」
〈猫〉は、折れそうなほど細い小首をかしげる。
小動物的なその仕草と、幻想的な美しさを放つ羽のおかげで、可愛らしくも神々しくも見える姿だが、その瞳は、獲物を狩る野生の獣のそれだ。
そんな〈猫〉に気圧されてか、〈蠍〉は律儀に答えた。
「面識はないが、鷹刀は〈贄〉の一族。煮詰めた血のせいで、皆、同じ顔だから、ひと目、見りゃ分かる。それに、こいつは〈蝿〉にそっくりだ」
〈蝿〉の名に、私は自分の眉が、ぴくりと動いたのを自覚した。だが、それ以上の表情の変化は許さない。
まさか、こんなところで〈蝿〉――ヘイシャオを知る者に出くわすとは思わなかった。〈悪魔〉同士の交流は皆無に等しいと、同じく〈悪魔〉であった父上がおっしゃっていたから、想定外だった。
そういえば、ヘイシャオはミンウェイの記憶を保存するのだと言っていた。それで〈天使〉の専門である〈蠍〉と面識があるのかもしれない。
ヘイシャオは、どうしているだろうか。
ミンウェイは――妹は、まだ生きているのだろうか……。
ほんの一瞬だけ、ふたりの消息を尋ねたいという誘惑が、私の頭をよぎった。しかし、私はそれを切り捨てる。
聞いても仕方のないことだ。ミンウェイは助からない。それが天命だ。
そして、ミンウェイを亡くしたあと、おそらくヘイシャオは自ら命を断つだろう。そういう男だ。
彼らは、私には理解できない感情で繋がっていた。
――故に。
遅かれ早かれ、彼らの行き着く先に変わりはない――。
「〈猫〉、約束通り、迎えに来た。私は、その男を斬って、お前を連れていけばよいのか?」
意識を現実に戻すべく、私が自分から口を開くと、〈蠍〉が、ぎょっとしたように、私を振り返った。
一方、〈猫〉はといえば、緩やかに口角を上げ、少女とは思えないような妖艶な笑みを浮かべる。
「ええ、連れていってほしいの。――でも、〈蠍〉に関しては、それには及ばないわ」
「ほう?」
では、どうするつもりなのか。
私の疑問は、すぐに彼女の行動によって解消された。すなわち、彼女の羽がぐっと伸び、〈蠍〉に襲いかかったのだ。
「〈猫〉!?」
光の糸に巻きつかれ、〈蠍〉が悲鳴を上げる。
「お、おのれ、〈猫〉! ごみ溜めから拾ってやった恩も忘れて、この俺に!」
高圧的にわめきたてるも、糸に縛り上げられ、床を転がる男が何を言ったところで、滑稽なだけだった。
羽から発せられる熱気に、彼女の短い髪が、ふわりと舞い上がる。まるで、彼女の感情の高ぶりを示すかのように。
「あんたは……、研究という名目で、あたしを解剖して……殺すんでしょう?」
〈猫〉は冷静なようでいて、実は、まったくの逆だった。
彼女の声が揺れた。
勝ち気な瞳が潤み、それもまた揺れる。
〈蠍〉は息を呑んだ。
「どうして、それを……」
「馬鹿ね。あんた、言っていたでしょう? 『この世に完璧なプログラムなんて存在しない』って。あたしが、あんたのセキュリティを破って、あんたの落書きを見つけた。それだけのことよ」
「……くっ!」
〈蠍〉の顔に浮かんだのは、屈辱と憎悪。
それに対して、〈猫〉は、微笑んだ。この場にふさわしくない、とても澄んだ笑顔だった。
「あたし、あんたに感謝しているわ」
歌うように、さえずるように、彼女が笑う。
「あんたの言う通り、あんたはあたしを、ごみ溜めから拾い上げてくれた。あんたのおかげで、あたしは人間の生き方を知ることができた。……ありがとう」
あどけなさの残る少女の言葉が、彼女の残酷な半生を物語る。
その声には一片の偽りもなく、彼女は真に〈蠍〉に感謝していた。それが、部外者の私にも、はっきりと伝わってくる。
やがて彼女は、ゆっくりと天を仰いだ。
切なげにつむった瞳から、涙がこぼれ落ちた。
苦しげに食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れた。
そして、彼女の背が、羽の根元が、強く輝く――!
その輝きは複雑に明暗を繰り返しながら、〈蠍〉に巻き付いた糸へと伝搬していく……。
「〈猫〉! やめろ! やめてくれ!」
「ねぇ、〈蠍〉。あんたが、あたしを愛していると言ったのは、本当だった?」
か弱き、無邪気な少女の顔で、〈猫〉が問う。
「本当だ! 本当だとも! お前は、俺の最高のパートナーだ! 俺とお前が組めば、無敵だったろう!? だから、これからも……!」
「……嘘つき」
ぞくりと艶めく、女の呟き。
「嘘じゃない! 俺はお前を愛している!」
〈蠍〉が叫ぶ。だが、〈猫〉は悲しげな顔で首を振った。そして、彼に巻き付いていた糸がほどけ、彼女の羽に戻る。
「今、あんたに書き込んだ命令。あんたには読めないわよね」
「え?」
読めずとも、不穏な雰囲気は充分に伝わっていた。〈蠍〉は許しを請うように、〈猫〉にすがる。
「助けてくれ! お前は、俺に何を……!?」
〈猫〉が嗤った。
その言葉を待っていた、とでもいうように、彼女は口元をほころばせた。
「教えてあげるわ。あたしが書き込んだ命令の意味――『嘘つきは、死になさい』」
「!」
次の瞬間、〈蠍〉が血しぶきを上げた。
体中の血管という血管が破裂し、血染めの体が床に落ちる。救いを求めるように、片手を〈猫〉へと伸ばしたまま、彼はこと切れた。
羽が生き物のように脈打ち、激しく瞬きながら、〈猫〉の背の中に戻っていく。輝く渦の中心で、彼女が泣いているのか、笑っているのか、私には判別できない。
「……あたしは。あんたなんか……、愛していなかったわ……!」
消え入りそうなほどに小さな慟哭。〈猫〉の静かな孤独。
彼女もまた嘘つきだと、私は思った。
無垢な想いに魂を震わせながら、彼女は全身で、愛していると告げていた。
それは、私には理解できない、曖昧で不明瞭な感情だった。
羽が吸い込まれ、光が消えたあとも、彼女は〈蠍〉だったものの亡骸を見つめていた。癖の強い前髪が目元を隠していても、私にはそれが分かった。
彼女の生い立ちは、前情報として聞いている。喰うか、喰われるかの、屍で埋もれた世界にいた。
私と、大差ない。
なのに、どうして――。
彼女は、こんなにも、純粋でいられるのだろう……。
私は、惹き寄せられるように彼女に近づいた。
血まみれの〈蠍〉の死体を無造作にまたぐと、彼女の視線が私に移った。
間近で見た彼女は、とても小さかった。片足を失っているため、体を机に預けた姿勢しかとれず、私の胸の高さほどしかない。
私は手を伸ばし、彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「!?」
彼女は驚いたように目を見開き、警戒に身を強張らせた。まるで毛を逆立てた野良猫のようだ。足が不自由でなければ逃げ出していたかもしれない。
だが、驚いたのは、私も同じだった。
それは無意識の行動だった。幼い息子のレイウェンにすらしたことのない、不可解な行為だった。
癖の強い髪は、思ったよりも繊細で滑らかで。その感触が心地よくて、私は彼女が顔をしかめるのも構わずに何度も撫でる。
「なっ、何よ……!?」
「迎えに来た。行くぞ」
私は、彼女をひょいと抱き上げた。見た目通りに、とても軽い。決して肉付きはよくないのに、彼女の体はおそろしく柔らかかった。
「な、何をするの!?」
「お前は、足が不自由だろう?」
そう言うと、彼女は腕の中でおとなしくなる。だが、不満はあったようだ。
「あんた、顔が怖い。怒っている?」
「いや。私はいつも、この顔だ」
確かに愛想はないかもしれない。しかし、鷹刀の規律のため、あえて風当たりの強い役割を果たすのが、私の務めだから仕方ない。
「……あんた、優しいのに。なんか、もったいない……」
〈猫〉が呟き、ことんと私の胸に頭を預けた。
彼女のぬくもりが伝わってきた。私はそれを、微塵にもこぼさずに得ようと、腕に力を入れる。
「……あたしね、こんなことされたの、初めて」
「私も、初めてだな」
自分から手を伸ばし、誰かに触れるなどということは……。
「あんたの名前は?」
〈猫〉が、私を見上げた。
どこまでも澄んだ、綺麗な猫の目が、私を魅了した。
「エルファン。鷹刀エルファンだ、〈猫〉」
「違うわ。あたしは、キリファ。それが、あたしの名前」
目のくらむような、まばゆい光。反射的に、私は腕で顔をかばう。
透かし見た先には、爆風に短髪を逆立てた、少女の姿があった。その背からは、閃光のような光の糸が、あとからあとから噴き出ている。
「迎えが来ただけよ」
そばにあった机に手を付き、彼女はそれを伝うようにして進む。話に聞いていた通り、彼女は片足首を失っていた。身請けの際の条件だったという。
彼女が、よろけながらも目指す先は、私ではない。
腰を抜かし、床に這いつくばりながら後ずさる、憐れな男。顔の造作としては、なかなかの優男ではあるが、今は恐怖に引きつり台無しになっている。
彼女から放出された光の糸は、生き物のようにうねりながら互いに絡み合い、やがて波打つように明暗を繰り返す、輝く羽となった。
――〈天使〉。
〈七つの大罪〉が作り出した、人体実験体。
人間の脳に侵入し、相手を乗っ取るクラッカー。
しかし脳内介入は、〈天使〉の体に過剰な負荷をかける。限度を超えれば、羽が熱暴走を起こし、死に至る……。
熱気があたりを包み込み、機械類を繋いでいたコードが溶け出した。唸りを上げ、作動中を示すライトを明滅させていた筐体が突然、火を噴く。幾つもあるモニタはブラックアウトし、ことごとくひびが入っていった……。
研究室の様相は一変した。
男にとって、寝耳に水の事態だろう。彼女は、妄信的に彼に従う存在のはずだったのだから。
けれど、彼女が羽を現した理由を誤って解釈するほど、彼は愚かではなかった。彼女が自分を害そうとしていることを、彼は正確に理解していた。
彼女から逃げるため、男はなんとか立ち上がるも、床に飛び散った資料に足を滑らせ、再び転倒する。
所詮、無駄な悪あがきだった。
何しろ、ひとつしかない出口の前には私がいるのだ。彼女と私の間で挟み打ちになった男に、いったい何ができるというのだろう。
「〈猫〉! 何故、羽を出す!? 俺をどうする気だ!? ……こいつは、いったい何者だ!?」
私を指差し、男は金切り声を上げる。
「だから、言ったでしょ、〈蠍〉。迎えが来ただけだ、って」
猫のような目を細め、彼女が笑う。
小柄な少女だ。
歳は十五か、十六だと言っていたが、正確なところは本人も知らないらしい。もしも、十三歳だと言われれば、私は驚くことなく、そのまま信じただろう。そのくらい細く、華奢な体つきをしていた。
「迎え……? どういう……? お前は、何を……!?」
〈蠍〉と呼ばれた男は、私と彼女を交互に見ながら、単語を並べただけの未熟な疑問を口にする。だが、途中で、はっと顔色を変えた。
私の顔を凝視しながら、震えるように呟く。
「こいつは、鷹刀の直系の大物だ。〈猫〉、お前、〈七つの大罪〉を捨てた鷹刀と組んで、何をする気だ……!?」
「へぇ、その人、大物なんだ? 知り合いなの?」
〈猫〉は、折れそうなほど細い小首をかしげる。
小動物的なその仕草と、幻想的な美しさを放つ羽のおかげで、可愛らしくも神々しくも見える姿だが、その瞳は、獲物を狩る野生の獣のそれだ。
そんな〈猫〉に気圧されてか、〈蠍〉は律儀に答えた。
「面識はないが、鷹刀は〈贄〉の一族。煮詰めた血のせいで、皆、同じ顔だから、ひと目、見りゃ分かる。それに、こいつは〈蝿〉にそっくりだ」
〈蝿〉の名に、私は自分の眉が、ぴくりと動いたのを自覚した。だが、それ以上の表情の変化は許さない。
まさか、こんなところで〈蝿〉――ヘイシャオを知る者に出くわすとは思わなかった。〈悪魔〉同士の交流は皆無に等しいと、同じく〈悪魔〉であった父上がおっしゃっていたから、想定外だった。
そういえば、ヘイシャオはミンウェイの記憶を保存するのだと言っていた。それで〈天使〉の専門である〈蠍〉と面識があるのかもしれない。
ヘイシャオは、どうしているだろうか。
ミンウェイは――妹は、まだ生きているのだろうか……。
ほんの一瞬だけ、ふたりの消息を尋ねたいという誘惑が、私の頭をよぎった。しかし、私はそれを切り捨てる。
聞いても仕方のないことだ。ミンウェイは助からない。それが天命だ。
そして、ミンウェイを亡くしたあと、おそらくヘイシャオは自ら命を断つだろう。そういう男だ。
彼らは、私には理解できない感情で繋がっていた。
――故に。
遅かれ早かれ、彼らの行き着く先に変わりはない――。
「〈猫〉、約束通り、迎えに来た。私は、その男を斬って、お前を連れていけばよいのか?」
意識を現実に戻すべく、私が自分から口を開くと、〈蠍〉が、ぎょっとしたように、私を振り返った。
一方、〈猫〉はといえば、緩やかに口角を上げ、少女とは思えないような妖艶な笑みを浮かべる。
「ええ、連れていってほしいの。――でも、〈蠍〉に関しては、それには及ばないわ」
「ほう?」
では、どうするつもりなのか。
私の疑問は、すぐに彼女の行動によって解消された。すなわち、彼女の羽がぐっと伸び、〈蠍〉に襲いかかったのだ。
「〈猫〉!?」
光の糸に巻きつかれ、〈蠍〉が悲鳴を上げる。
「お、おのれ、〈猫〉! ごみ溜めから拾ってやった恩も忘れて、この俺に!」
高圧的にわめきたてるも、糸に縛り上げられ、床を転がる男が何を言ったところで、滑稽なだけだった。
羽から発せられる熱気に、彼女の短い髪が、ふわりと舞い上がる。まるで、彼女の感情の高ぶりを示すかのように。
「あんたは……、研究という名目で、あたしを解剖して……殺すんでしょう?」
〈猫〉は冷静なようでいて、実は、まったくの逆だった。
彼女の声が揺れた。
勝ち気な瞳が潤み、それもまた揺れる。
〈蠍〉は息を呑んだ。
「どうして、それを……」
「馬鹿ね。あんた、言っていたでしょう? 『この世に完璧なプログラムなんて存在しない』って。あたしが、あんたのセキュリティを破って、あんたの落書きを見つけた。それだけのことよ」
「……くっ!」
〈蠍〉の顔に浮かんだのは、屈辱と憎悪。
それに対して、〈猫〉は、微笑んだ。この場にふさわしくない、とても澄んだ笑顔だった。
「あたし、あんたに感謝しているわ」
歌うように、さえずるように、彼女が笑う。
「あんたの言う通り、あんたはあたしを、ごみ溜めから拾い上げてくれた。あんたのおかげで、あたしは人間の生き方を知ることができた。……ありがとう」
あどけなさの残る少女の言葉が、彼女の残酷な半生を物語る。
その声には一片の偽りもなく、彼女は真に〈蠍〉に感謝していた。それが、部外者の私にも、はっきりと伝わってくる。
やがて彼女は、ゆっくりと天を仰いだ。
切なげにつむった瞳から、涙がこぼれ落ちた。
苦しげに食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れた。
そして、彼女の背が、羽の根元が、強く輝く――!
その輝きは複雑に明暗を繰り返しながら、〈蠍〉に巻き付いた糸へと伝搬していく……。
「〈猫〉! やめろ! やめてくれ!」
「ねぇ、〈蠍〉。あんたが、あたしを愛していると言ったのは、本当だった?」
か弱き、無邪気な少女の顔で、〈猫〉が問う。
「本当だ! 本当だとも! お前は、俺の最高のパートナーだ! 俺とお前が組めば、無敵だったろう!? だから、これからも……!」
「……嘘つき」
ぞくりと艶めく、女の呟き。
「嘘じゃない! 俺はお前を愛している!」
〈蠍〉が叫ぶ。だが、〈猫〉は悲しげな顔で首を振った。そして、彼に巻き付いていた糸がほどけ、彼女の羽に戻る。
「今、あんたに書き込んだ命令。あんたには読めないわよね」
「え?」
読めずとも、不穏な雰囲気は充分に伝わっていた。〈蠍〉は許しを請うように、〈猫〉にすがる。
「助けてくれ! お前は、俺に何を……!?」
〈猫〉が嗤った。
その言葉を待っていた、とでもいうように、彼女は口元をほころばせた。
「教えてあげるわ。あたしが書き込んだ命令の意味――『嘘つきは、死になさい』」
「!」
次の瞬間、〈蠍〉が血しぶきを上げた。
体中の血管という血管が破裂し、血染めの体が床に落ちる。救いを求めるように、片手を〈猫〉へと伸ばしたまま、彼はこと切れた。
羽が生き物のように脈打ち、激しく瞬きながら、〈猫〉の背の中に戻っていく。輝く渦の中心で、彼女が泣いているのか、笑っているのか、私には判別できない。
「……あたしは。あんたなんか……、愛していなかったわ……!」
消え入りそうなほどに小さな慟哭。〈猫〉の静かな孤独。
彼女もまた嘘つきだと、私は思った。
無垢な想いに魂を震わせながら、彼女は全身で、愛していると告げていた。
それは、私には理解できない、曖昧で不明瞭な感情だった。
羽が吸い込まれ、光が消えたあとも、彼女は〈蠍〉だったものの亡骸を見つめていた。癖の強い前髪が目元を隠していても、私にはそれが分かった。
彼女の生い立ちは、前情報として聞いている。喰うか、喰われるかの、屍で埋もれた世界にいた。
私と、大差ない。
なのに、どうして――。
彼女は、こんなにも、純粋でいられるのだろう……。
私は、惹き寄せられるように彼女に近づいた。
血まみれの〈蠍〉の死体を無造作にまたぐと、彼女の視線が私に移った。
間近で見た彼女は、とても小さかった。片足を失っているため、体を机に預けた姿勢しかとれず、私の胸の高さほどしかない。
私は手を伸ばし、彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「!?」
彼女は驚いたように目を見開き、警戒に身を強張らせた。まるで毛を逆立てた野良猫のようだ。足が不自由でなければ逃げ出していたかもしれない。
だが、驚いたのは、私も同じだった。
それは無意識の行動だった。幼い息子のレイウェンにすらしたことのない、不可解な行為だった。
癖の強い髪は、思ったよりも繊細で滑らかで。その感触が心地よくて、私は彼女が顔をしかめるのも構わずに何度も撫でる。
「なっ、何よ……!?」
「迎えに来た。行くぞ」
私は、彼女をひょいと抱き上げた。見た目通りに、とても軽い。決して肉付きはよくないのに、彼女の体はおそろしく柔らかかった。
「な、何をするの!?」
「お前は、足が不自由だろう?」
そう言うと、彼女は腕の中でおとなしくなる。だが、不満はあったようだ。
「あんた、顔が怖い。怒っている?」
「いや。私はいつも、この顔だ」
確かに愛想はないかもしれない。しかし、鷹刀の規律のため、あえて風当たりの強い役割を果たすのが、私の務めだから仕方ない。
「……あんた、優しいのに。なんか、もったいない……」
〈猫〉が呟き、ことんと私の胸に頭を預けた。
彼女のぬくもりが伝わってきた。私はそれを、微塵にもこぼさずに得ようと、腕に力を入れる。
「……あたしね、こんなことされたの、初めて」
「私も、初めてだな」
自分から手を伸ばし、誰かに触れるなどということは……。
「あんたの名前は?」
〈猫〉が、私を見上げた。
どこまでも澄んだ、綺麗な猫の目が、私を魅了した。
「エルファン。鷹刀エルファンだ、〈猫〉」
「違うわ。あたしは、キリファ。それが、あたしの名前」