残酷な描写あり
4.硝子の華の憂愁-2
硝子に囲まれた温室は、まるで世界から切り離された空間のようで、外部からは風ひとつ紛れてこなかった。ともすれば、もしも外界の時が止まったとしても、中にいる者たちは気づかないことであろう。
だから、しばらくの間、ミンウェイとシュアンが立ち尽くしたままであったことは事実だとしても、それがどのくらいの長さであったのかは誰にも分からない。
不意に……。
時間が巻き戻されたかのように、シュアンの腰が先ほどまでと同じようにガーデンチェアーに下ろされた。彼は足を組み、背もたれに寄りかかり、ふんぞり返る。
「よく考えたら、俺だけ好き勝手を言って、吹っ切れた顔をするのは不公平だな」
「え……?」
「あんたのしけた面を放置するのは薄情だ、ってことだ。……あんたさ、今、鷹刀の人間と顔を合わせたくないんだろう?」
「!」
ミンウェイの心臓が、どきりと跳ね上がった。
彼女は慌てて無表情を装うが、切れ長の目に浮かぶ動揺は、隠しきれていない。
「とりあえず、座れよ」
この温室の主はミンウェイなのに、我が物顔でシュアンが取り仕切る。
腑に落ちないながらも、ミンウェイは言われるままに腰掛けた。それを見届け、シュアンが満足そうに頷く。
「俺は、美女には嫌われたくはないんでね。すげないあんたに、本格的に煙たがられる前に帰るつもりだったんだがな……」
「緋扇さん……?」
「あんたをひとりにしておくと、碌でもないことを考えそうだ。あんたの優しさは、独りよがりで、はた迷惑だからな。問題を起こす前に、心の内を吐いてもらおうか」
ずいとテーブルに身を乗り出し、シュアンが迫る。
三白眼が鋭い眼光を放つと、中肉中背であるはずの彼が、大男にも勝るとも劣らぬ迫力をまとった。薄ら笑いを浮かべた凶相は堂に入り、ミンウェイは思わず身を固くする。
――しかし、よく考えれば、何故、彼女が脅迫まがいのことをされなければならないのだろうか。
「あの、緋扇さん? まるで尋問なんですが……」
「俺は、口を割らせるプロだぜ?」
「いえ、そういうことでは……」
「いいから、話してみろ」
あまりに偉そうな態度に、ミンウェイは初め、面食らった。けれど、だんだんと可笑しくなってくる。
彼は、不器用なのだ。まっすぐすぎて、ぽきっと折れてしまい、狂犬と呼ばれるような人間になった。――諜報担当のルイフォンがそう教えてくれた。凄く、納得できる。
そして、彼は……人の心を感じ取ることができるのだ。
ミンウェイは、ごくりと唾を呑む。
「……どうして私が、鷹刀の人間と顔を合わせたくないだろう、と思ったのですか?」
「あんたは、鷹刀に遠慮がある」
「……」
「あんたが鷹刀の屋敷に引き取られたのは、総帥位を狙った父親が返り討ちにあって殺され、残された子供のあんたを放っておくことができなかったから――だったよな?」
「……はい」
「なのに、使用人としてこき使われるのではなく、一族として温かく迎え入れられた」
ミンウェイは、こくりと頷く。
「あんたは反逆者の子供なのに、血族というだけで厚遇されたんだ。遠慮があって当然だ。――初めがそんなだから、そのままずるずると……いまだに、あんたの中には『自分は客人扱いの余所者』という意識があるのさ」
皮肉混じりの口調で、シュアンはすっぱりと言ってのけた。けれど、彼の三白眼には、嘲りの色はない。
「それでも〈蝿〉が現れるまでは、一族に尽くすことで、あんたの心は安定していた」
シュアンはテーブルに付いた肘に重心を移し、ぐっとミンウェイの顔を覗き込んだ。
そして低い声で、そっと囁く。
「今回さ、〈蝿〉の潜伏先が見つかって、あんたは安心するよりも、動揺したんだろう?」
「……!」
「所在が分からないままのほうが、漠然とした不安を抱えつつも、あんたの気持ちは楽だった。何故なら、『〈蝿〉の死』が確定しないからだ」
血の気の失せていくミンウェイに、シュアンは容赦なく畳み掛ける。
「あんた、『〈蝿〉の死を恐れる、自分自身』に気づいちまったんだな?」
ミンウェイは、ぎゅっと胸を押さえた。そうしないと、爆発しそうな心臓が飛び出していきそうだった。
「俺は、あんたはずっと父親に脅え、恨んでいるものだと思っていた。けど、違っていたな。あんたの父親に対する感情は、もっと複雑だ。……そんなこと、誰にも言えるわけがない。だから、こうして、あんたは引き籠ったわけだ」
「……随分と、横暴な憶測ですね」
感情の色の抜け落ちた、冷たい声でミンウェイは言う。
だが、険しい顔は彼女だけだ。シュアンは、どこ吹く風で、余裕の表情を見せる。
「でも、外れちゃいないだろう?」
「か、勝手なことを……!」
「勘違いするな、責めているわけじゃない。――あんたには、父親とふたりで暮らした過去がある。嫌なことばかりじゃなくて、楽しいことだって嬉しいことだってあったはずだ。そこに生まれた情を、俺は否定しないぜ?」
ふわりと、自然に。シュアンが笑った。
「過去はな、抱えていくものだ。捨てたり、忘れたりできねぇし、しちゃいけねぇのさ」
「え……?」
「だから、な。あんたが負い目に思うことは、何もないのさ」
シュアンの凶相が、ミンウェイの目に映る。相変わらずの、不健康そうな悪人面。なのに、とても穏やかに見えた。
どうしてと思い、愚かな疑問だと気づく。彼自身に傷があるからだ。だから、彼は優しくなれる……。
胸の奥が、ぐっと苦しくなった。
「な……っ、なんで、そんなふうに言えるんですか!? 私は、あなたが先輩を撃ったときに、すぐそばにいました! あなたの辛い思いを知っています! ……なのに、〈蝿〉を憎みきれていない、酷い人間です!」
「……」
「私……、〈蝿〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈蝿〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!」
ミンウェイは、一気に吐き出した。
こんな願いは、まるで子供の我儘だ。
思わずこぼれそうになる嗚咽を必死に押し留め、彼女は肩で息をする。長い髪が波打ち、草の香が舞う。
自分が情けなくて、恥ずかしい。シュアンに顔を見られたくない。
隠れるように頭を下げると、テーブルの上に落ちた、彼の影だけが視界に入った。斜めからの陽射しによって、彼女を抱きとめるように長く伸びている。
「すっきりしたか?」
影が動いた。
シュアンが、ゆっくりと足を組み替えたのだ。問いかけられた声は、少しだけ笑いを含んでいた。
「今の言葉が、あんたが腹に抱えていた思いだ」
そして彼は、明るい調子で「やはり俺は、口を割らせるのが上手いんだな」と続ける。
「いつだったか、先輩が言っていた。『馬鹿者には、心の奥底の思いを口にさせ、自覚させることが解決の糸口になる』ってな」
「あの……、緋扇さん? 私は馬鹿者なんですか?」
シュアンの表情を確かめたくて、ミンウェイは、思わず顔を上げる。果たして彼の口元は、楽しげに歪められていた。
「さあ?」
「っ! 緋扇さん!」
「でも、これで分かったな。あんたが望んでいるのは『穏やかな日常』だ」
「え?」
ミンウェイは、きょとんとする。
「あんたが求めていることは、〈蝿〉を逃したいとか、助けたいとか、そんな次元じゃない。『誰ひとり傷つかない世界』を望んでいる。……実に愚かで優しい、あんたらしい願いじゃないか」
すとん、と。
シュアンの言葉が、ミンウェイの胸に落ちた。
自分の思いは、許されないものだと思った。
情に流されていると、リュイセンに散々、批難されていたイーレオですら、きっぱりと『〈蝿〉の行き着く先は死』だと言い切った。それを受け入れられない自分は、裏切り者ではないかと悩んだ。
喉が、目頭が、熱くなる。
「でも、緋扇さん……、私の願いは叶うわけもない夢物語です」
「そうだな」
「…………」
……ふと。
ミンウェイの中で、今、口にした自分の言葉が、過去の記憶と重なった。
忘れていたわけではないけれど、封印していたような、そんな出来ごとを――。
「思い、出しました……。過去にも私……、叶うわけもない願いを抱きました。……そのときも、私……逃げたんです。……そして、馬鹿なことをしたんです」
人に言うべきことではないのかもしれない。
けれど、口に出すことで何かが変わるなら、今こそ口に出すべきだと思った。それを、シュアンに聞いてもらいたいと――。
「緋扇さん、私……。昔……、まだ父が生きていたころ、……自殺しようとしたんです」
「!?」
シュアンの顔から、余裕の笑みが消えた。不謹慎かもしれないが、今まで翻弄された身としては、ほんのわずかに溜飲が下がる。
「父が亡くなる一年くらい前のことです。きっかけは、本当に些細なことでした」
時が止まったような温室に、ミンウェイの声だけが静かに響く。
「私と同じ歳頃の女の子がふたり、好きな男の子の話題で盛り上がりながら、楽しそうに歩いていました。すれ違ったときに、その子たちの会話を漏れ聞いてしまいました。――たった、それだけのことです」
今から思えば、どうしてそれが引き金となったのか、理解できないくらいに小さなことだ。
「私は、私とは違う、『綺麗』な彼女たちが羨ましかった。自分と、自分の生活が醜く思えて、消してしまいたかった。そうすれば、生まれ変われると思った。だから、私は毒を飲みました」
シュアンの三白眼が、わずかに揺れた。
「本気で死にたいのなら、毒以外の方法を使うべきだったんですよね。私の体は、毒に慣らされているんですから。……私は、後遺症ひとつ残さずに助かりました。だから、あれは父に対する反抗だったのかもしれません」
そして父も、分かっていたのではないだろうか。
何故なら――。
「目覚めたとき、父が言いました。『お前など、ミンウェイではない』。そのときから、父は変わりました。私を、母と見なさなくなりました。――私なんか初めから存在しなかったかのように、研究室に籠もるようになりました」
「っ!?」
予想外の展開だったのか、シュアンがわずかに動揺する。
「そのとき初めて、私は、自分が空っぽだったと気づいたんです。……父は絶対者で、支配者で。私は父の機嫌を損ねたくないと、自分を抑え、顔色ばかり伺っていた。――そう、思っていました。だけど……」
そこでミンウェイは、両手を握りしめた。そして、精いっぱいの力を心に込め、「私――」と続ける。
「本当は……、父の、関心を引きたかっただけなのかもしれない……! 母ではなくて、私自身を見てもらうために……!」
「……」
「暗殺者になったのも、病弱だった母にはできなかったことをして、父に認めてもらいたかったからなのかも……。だって、暗殺者として〈ベラドンナ〉という名を与えられたとき、私は嬉しかった。それは、私だけの名前だから……!」
「ミンウェイ……」
シュアンは呼びかけ、押し黙る。その名で呼ばれることに、彼女が何を感じるのか、判断に迷ったからだ。
「緋扇さん、本当の私は、お人好しでもお節介でも、なんでもないんです。今の私は、私が鷹刀で生活するために作り出した、偽物の私です。本当の私は、父が喜ぶことならどんなことでもする、自分の意志を持たない父の人形です」
奏でられた声は、無色透明の硝子のように澄んでいた。それは脆く、儚く。今にも崩れ落ちそうな響きをしていた。
刹那、シュアンの三白眼が苛立ちをあらわにした。
「自分に本物も、偽物もないだろう? あんたは、あんただ。俺は、あんたの鬱陶しさに救われた。あれを偽物だなんて、思いたくない」
「緋扇さん……」
「誰も気にしてないような馬鹿馬鹿しいことを、独りよがりに、くよくよ悩むのが、あんただろう? どこが人形だ?」
軽薄にそう言って、シュアンは、せせら笑う。
突き放すようでいて、そっと手を差し伸べてくれる。
「おっと、これ以上言うと、あんたの機嫌を損ねそうだ」
ミンウェイの瞳が潤んできたことに気づいたのだろう。泣き顔を見られるのは嫌だろうから、退散するぞ――と。言外に告げて、彼は唐突に立ち上がった。
――あとは、自分で考えろ。
笑いながら手を振る背中が、そう言っている気がした。
温室の出口の手前で、シュアンは、扉をふさぐように立つ男の影を見つけた。
次期総帥エルファンの次男、リュイセンである。
彼の気配は、完全に緑の中に溶け込んでおり、その姿を目前にしても存在を感じられない。しかし、シュアンを見る双眸は、物静かを装いながらも、有無を言わせぬ凄みを宿していた。
リュイセンはシュアンの姿を認めると、顎をしゃくり、早く外に出ろと合図をした――。
外に出て、温室の扉を閉めた瞬間、シュアンの肌が粟立った。
「……っ!」
リュイセンが、今まで抑えていた気を一気に解放したのだ。黄金比の美貌は威圧に包まれ、鋭い眼光がシュアンを睥睨する。
「おいおい、そんなに殺気立てることないだろう?」
軽口を叩きながらも、シュアンは、それが殺気などではないと理解していた。リュイセンは、そこに存在するだけで、覇者の風格を放っているのだ。
今までは、総帥のイーレオや、次期総帥のエルファンの影に隠れて目立たなかっただけで、こうして正面から相対してみると、確かに鷹刀一族の直系の血を感じる。――シュアンはそう思い、しかし、すぐにその考えを打ち消した。
以前、会ったときには、こんな雰囲気をしていなかった。
三白眼を眇め、シュアンは悟る。
餓鬼の成長は早い。何かのきっかけで、急に別人のようになったりもする。
――こいつの場合は、ミンウェイか……。
シュアンは、すっと口角を上げた。
実はこの温室に入るときに、シュアンは、リュイセンと顔を合わせていた。
ミンウェイを心配してのことか、彼女をひとりにするための人払いのつもりなのか。その両方だと思われるが、リュイセンは温室の前に陣取っていた。
リュイセンは、近づいてきたシュアンに、番犬よろしく『部外者が何をしに来た』と食って掛かってきた。だから、シュアンは『エルファンさんから、伝言を頼まれてきた』と適当にあしらって、道を開けさせたのだ――。
「高潔を誇りとする、鷹刀の後継者が、出歯亀とは堕ちたものだな」
シュアンの三白眼が、冷ややかに嗤った。
温室の『外』で番をしていたはずのリュイセンが、温室の『中』でシュアンを待っていたのなら、それは気配を殺して後ろからついて入ってきた、ということに他ならない。別にやましいことはないが、せっかくのミンウェイとのひとときを穢されたようで気分が悪い。
するとリュイセンは、心外だと言わんばかりに眉を吊り上げた。
「何をふざけたことを言っている? お前のような輩と、ミンウェイをふたりきりにするなど、あり得ないだろう? どんな危険があるとも分からん」
ぎろりと巡らされた視線は、シュアンを射殺さんばかりである。
シュアンは、なるほど、と思った。
この男の性格なら、盗み聞きを指摘すれば、卑怯な真似をしたと恥じ入るものと思った。だが、どうやら恋は盲目らしい。
「ほぅ。そのわりには、俺が初めに銃を出しても、何もしなかったな?」
「道化者のたわけに、いちいち目くじら立てても仕方ないだろう」
からかい混じりにシュアンが言えば、リュイセンが鼻で笑って返す。
ふたりの間を、冷たい火花が弾け飛ぶ……。
これ以上、リュイセンの顔を見ていても不愉快になるだけだと、シュアンは察した。さっと身を翻し、「じゃあな」と言い放つ。引き際を間違えないのが、大人というものだ。
その後ろ姿に、リュイセンが叫んだ。
「待てよ!」
しかし、シュアンは振り返ったりしない。そんなことをすれば、ずるずると無駄に時間を費やす羽目になる。立ち止まってやる義理などないのだ。
調子を変えず、そのまま数歩、歩いたときだった。
「――!?」
シュアンの脇を疾風が走り抜けた。殺気をまとった風がぐるりと回り込み、行く手に立ちふさがる。
反射的に後ろに飛び退ったシュアンは、無意識のうちに拳銃を手にしていた。
「話を聞け」
銃口を向けたシュアンと、屋敷内であるがために丸腰のリュイセン。
いくらリュイセンが武術に長けていても、不利は一目瞭然。なのに彼は一歩前へと、堂々と進み出た。
これで応じないのは、度量に欠けるというものだ。さすがのシュアンも、仕方ないなと肩をすくめ、拳銃をホルスターに戻す。
「緋扇シュアン。今後いっさい、ミンウェイには関わるな」
「あんたに命令される筋合いはねぇな」
敵意をむき出しにしたリュイセンを、シュアンは軽く笑い飛ばす。
「お前は何も分かっていない」
「ほぅ? 何をだ?」
「部外者が、適当に分かったふうな口をきけば、かえって彼女を傷つける。彼女の闇は、お前が思っているよりも、もっとずっと深い。彼女の心を、不用意に乱さないでもらおう」
美貌に深い皺を寄せ、リュイセンが険しい顔をする。
しかし、シュアンからすれば、理解者気取りの、ただの思い上がりにしか見えなかった。
「あんた、盗み聞きしていたなら、知ってんだろ? ミンウェイは俺に過去の話をした。あの口ぶりからすると、今まで鷹刀の誰にも言っていなかったことを、だ」
「……っ!」
「俺が部外者だからこそ、傍から見ていて、明らかなんだよ。――ミンウェイは鷹刀に遠慮している。そんなことも分からずに、何を偉そうに言っている?」
リュイセンは、ぎりりと奥歯を噛んだ。
「ああ、そうだよ。ミンウェイは遠慮している。……だがそれは、ヘイシャオ叔父のせいだ。鷹刀のせいではない」
「ふぅん?」
「そうだな、お前の言うことも一理あると認めよう。……ならば、ミンウェイが遠慮なんかする必要がないことを、示してやればいいだけだ」
リュイセンは、唐突に踵を返した。そして、そのまま振り返ることもなく去っていく。
残されたシュアンは、しばらく胡乱な目で見送っていたが、やがて馬鹿馬鹿しくなり、彼もまた帰路についた。
だから、しばらくの間、ミンウェイとシュアンが立ち尽くしたままであったことは事実だとしても、それがどのくらいの長さであったのかは誰にも分からない。
不意に……。
時間が巻き戻されたかのように、シュアンの腰が先ほどまでと同じようにガーデンチェアーに下ろされた。彼は足を組み、背もたれに寄りかかり、ふんぞり返る。
「よく考えたら、俺だけ好き勝手を言って、吹っ切れた顔をするのは不公平だな」
「え……?」
「あんたのしけた面を放置するのは薄情だ、ってことだ。……あんたさ、今、鷹刀の人間と顔を合わせたくないんだろう?」
「!」
ミンウェイの心臓が、どきりと跳ね上がった。
彼女は慌てて無表情を装うが、切れ長の目に浮かぶ動揺は、隠しきれていない。
「とりあえず、座れよ」
この温室の主はミンウェイなのに、我が物顔でシュアンが取り仕切る。
腑に落ちないながらも、ミンウェイは言われるままに腰掛けた。それを見届け、シュアンが満足そうに頷く。
「俺は、美女には嫌われたくはないんでね。すげないあんたに、本格的に煙たがられる前に帰るつもりだったんだがな……」
「緋扇さん……?」
「あんたをひとりにしておくと、碌でもないことを考えそうだ。あんたの優しさは、独りよがりで、はた迷惑だからな。問題を起こす前に、心の内を吐いてもらおうか」
ずいとテーブルに身を乗り出し、シュアンが迫る。
三白眼が鋭い眼光を放つと、中肉中背であるはずの彼が、大男にも勝るとも劣らぬ迫力をまとった。薄ら笑いを浮かべた凶相は堂に入り、ミンウェイは思わず身を固くする。
――しかし、よく考えれば、何故、彼女が脅迫まがいのことをされなければならないのだろうか。
「あの、緋扇さん? まるで尋問なんですが……」
「俺は、口を割らせるプロだぜ?」
「いえ、そういうことでは……」
「いいから、話してみろ」
あまりに偉そうな態度に、ミンウェイは初め、面食らった。けれど、だんだんと可笑しくなってくる。
彼は、不器用なのだ。まっすぐすぎて、ぽきっと折れてしまい、狂犬と呼ばれるような人間になった。――諜報担当のルイフォンがそう教えてくれた。凄く、納得できる。
そして、彼は……人の心を感じ取ることができるのだ。
ミンウェイは、ごくりと唾を呑む。
「……どうして私が、鷹刀の人間と顔を合わせたくないだろう、と思ったのですか?」
「あんたは、鷹刀に遠慮がある」
「……」
「あんたが鷹刀の屋敷に引き取られたのは、総帥位を狙った父親が返り討ちにあって殺され、残された子供のあんたを放っておくことができなかったから――だったよな?」
「……はい」
「なのに、使用人としてこき使われるのではなく、一族として温かく迎え入れられた」
ミンウェイは、こくりと頷く。
「あんたは反逆者の子供なのに、血族というだけで厚遇されたんだ。遠慮があって当然だ。――初めがそんなだから、そのままずるずると……いまだに、あんたの中には『自分は客人扱いの余所者』という意識があるのさ」
皮肉混じりの口調で、シュアンはすっぱりと言ってのけた。けれど、彼の三白眼には、嘲りの色はない。
「それでも〈蝿〉が現れるまでは、一族に尽くすことで、あんたの心は安定していた」
シュアンはテーブルに付いた肘に重心を移し、ぐっとミンウェイの顔を覗き込んだ。
そして低い声で、そっと囁く。
「今回さ、〈蝿〉の潜伏先が見つかって、あんたは安心するよりも、動揺したんだろう?」
「……!」
「所在が分からないままのほうが、漠然とした不安を抱えつつも、あんたの気持ちは楽だった。何故なら、『〈蝿〉の死』が確定しないからだ」
血の気の失せていくミンウェイに、シュアンは容赦なく畳み掛ける。
「あんた、『〈蝿〉の死を恐れる、自分自身』に気づいちまったんだな?」
ミンウェイは、ぎゅっと胸を押さえた。そうしないと、爆発しそうな心臓が飛び出していきそうだった。
「俺は、あんたはずっと父親に脅え、恨んでいるものだと思っていた。けど、違っていたな。あんたの父親に対する感情は、もっと複雑だ。……そんなこと、誰にも言えるわけがない。だから、こうして、あんたは引き籠ったわけだ」
「……随分と、横暴な憶測ですね」
感情の色の抜け落ちた、冷たい声でミンウェイは言う。
だが、険しい顔は彼女だけだ。シュアンは、どこ吹く風で、余裕の表情を見せる。
「でも、外れちゃいないだろう?」
「か、勝手なことを……!」
「勘違いするな、責めているわけじゃない。――あんたには、父親とふたりで暮らした過去がある。嫌なことばかりじゃなくて、楽しいことだって嬉しいことだってあったはずだ。そこに生まれた情を、俺は否定しないぜ?」
ふわりと、自然に。シュアンが笑った。
「過去はな、抱えていくものだ。捨てたり、忘れたりできねぇし、しちゃいけねぇのさ」
「え……?」
「だから、な。あんたが負い目に思うことは、何もないのさ」
シュアンの凶相が、ミンウェイの目に映る。相変わらずの、不健康そうな悪人面。なのに、とても穏やかに見えた。
どうしてと思い、愚かな疑問だと気づく。彼自身に傷があるからだ。だから、彼は優しくなれる……。
胸の奥が、ぐっと苦しくなった。
「な……っ、なんで、そんなふうに言えるんですか!? 私は、あなたが先輩を撃ったときに、すぐそばにいました! あなたの辛い思いを知っています! ……なのに、〈蝿〉を憎みきれていない、酷い人間です!」
「……」
「私……、〈蝿〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈蝿〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!」
ミンウェイは、一気に吐き出した。
こんな願いは、まるで子供の我儘だ。
思わずこぼれそうになる嗚咽を必死に押し留め、彼女は肩で息をする。長い髪が波打ち、草の香が舞う。
自分が情けなくて、恥ずかしい。シュアンに顔を見られたくない。
隠れるように頭を下げると、テーブルの上に落ちた、彼の影だけが視界に入った。斜めからの陽射しによって、彼女を抱きとめるように長く伸びている。
「すっきりしたか?」
影が動いた。
シュアンが、ゆっくりと足を組み替えたのだ。問いかけられた声は、少しだけ笑いを含んでいた。
「今の言葉が、あんたが腹に抱えていた思いだ」
そして彼は、明るい調子で「やはり俺は、口を割らせるのが上手いんだな」と続ける。
「いつだったか、先輩が言っていた。『馬鹿者には、心の奥底の思いを口にさせ、自覚させることが解決の糸口になる』ってな」
「あの……、緋扇さん? 私は馬鹿者なんですか?」
シュアンの表情を確かめたくて、ミンウェイは、思わず顔を上げる。果たして彼の口元は、楽しげに歪められていた。
「さあ?」
「っ! 緋扇さん!」
「でも、これで分かったな。あんたが望んでいるのは『穏やかな日常』だ」
「え?」
ミンウェイは、きょとんとする。
「あんたが求めていることは、〈蝿〉を逃したいとか、助けたいとか、そんな次元じゃない。『誰ひとり傷つかない世界』を望んでいる。……実に愚かで優しい、あんたらしい願いじゃないか」
すとん、と。
シュアンの言葉が、ミンウェイの胸に落ちた。
自分の思いは、許されないものだと思った。
情に流されていると、リュイセンに散々、批難されていたイーレオですら、きっぱりと『〈蝿〉の行き着く先は死』だと言い切った。それを受け入れられない自分は、裏切り者ではないかと悩んだ。
喉が、目頭が、熱くなる。
「でも、緋扇さん……、私の願いは叶うわけもない夢物語です」
「そうだな」
「…………」
……ふと。
ミンウェイの中で、今、口にした自分の言葉が、過去の記憶と重なった。
忘れていたわけではないけれど、封印していたような、そんな出来ごとを――。
「思い、出しました……。過去にも私……、叶うわけもない願いを抱きました。……そのときも、私……逃げたんです。……そして、馬鹿なことをしたんです」
人に言うべきことではないのかもしれない。
けれど、口に出すことで何かが変わるなら、今こそ口に出すべきだと思った。それを、シュアンに聞いてもらいたいと――。
「緋扇さん、私……。昔……、まだ父が生きていたころ、……自殺しようとしたんです」
「!?」
シュアンの顔から、余裕の笑みが消えた。不謹慎かもしれないが、今まで翻弄された身としては、ほんのわずかに溜飲が下がる。
「父が亡くなる一年くらい前のことです。きっかけは、本当に些細なことでした」
時が止まったような温室に、ミンウェイの声だけが静かに響く。
「私と同じ歳頃の女の子がふたり、好きな男の子の話題で盛り上がりながら、楽しそうに歩いていました。すれ違ったときに、その子たちの会話を漏れ聞いてしまいました。――たった、それだけのことです」
今から思えば、どうしてそれが引き金となったのか、理解できないくらいに小さなことだ。
「私は、私とは違う、『綺麗』な彼女たちが羨ましかった。自分と、自分の生活が醜く思えて、消してしまいたかった。そうすれば、生まれ変われると思った。だから、私は毒を飲みました」
シュアンの三白眼が、わずかに揺れた。
「本気で死にたいのなら、毒以外の方法を使うべきだったんですよね。私の体は、毒に慣らされているんですから。……私は、後遺症ひとつ残さずに助かりました。だから、あれは父に対する反抗だったのかもしれません」
そして父も、分かっていたのではないだろうか。
何故なら――。
「目覚めたとき、父が言いました。『お前など、ミンウェイではない』。そのときから、父は変わりました。私を、母と見なさなくなりました。――私なんか初めから存在しなかったかのように、研究室に籠もるようになりました」
「っ!?」
予想外の展開だったのか、シュアンがわずかに動揺する。
「そのとき初めて、私は、自分が空っぽだったと気づいたんです。……父は絶対者で、支配者で。私は父の機嫌を損ねたくないと、自分を抑え、顔色ばかり伺っていた。――そう、思っていました。だけど……」
そこでミンウェイは、両手を握りしめた。そして、精いっぱいの力を心に込め、「私――」と続ける。
「本当は……、父の、関心を引きたかっただけなのかもしれない……! 母ではなくて、私自身を見てもらうために……!」
「……」
「暗殺者になったのも、病弱だった母にはできなかったことをして、父に認めてもらいたかったからなのかも……。だって、暗殺者として〈ベラドンナ〉という名を与えられたとき、私は嬉しかった。それは、私だけの名前だから……!」
「ミンウェイ……」
シュアンは呼びかけ、押し黙る。その名で呼ばれることに、彼女が何を感じるのか、判断に迷ったからだ。
「緋扇さん、本当の私は、お人好しでもお節介でも、なんでもないんです。今の私は、私が鷹刀で生活するために作り出した、偽物の私です。本当の私は、父が喜ぶことならどんなことでもする、自分の意志を持たない父の人形です」
奏でられた声は、無色透明の硝子のように澄んでいた。それは脆く、儚く。今にも崩れ落ちそうな響きをしていた。
刹那、シュアンの三白眼が苛立ちをあらわにした。
「自分に本物も、偽物もないだろう? あんたは、あんただ。俺は、あんたの鬱陶しさに救われた。あれを偽物だなんて、思いたくない」
「緋扇さん……」
「誰も気にしてないような馬鹿馬鹿しいことを、独りよがりに、くよくよ悩むのが、あんただろう? どこが人形だ?」
軽薄にそう言って、シュアンは、せせら笑う。
突き放すようでいて、そっと手を差し伸べてくれる。
「おっと、これ以上言うと、あんたの機嫌を損ねそうだ」
ミンウェイの瞳が潤んできたことに気づいたのだろう。泣き顔を見られるのは嫌だろうから、退散するぞ――と。言外に告げて、彼は唐突に立ち上がった。
――あとは、自分で考えろ。
笑いながら手を振る背中が、そう言っている気がした。
温室の出口の手前で、シュアンは、扉をふさぐように立つ男の影を見つけた。
次期総帥エルファンの次男、リュイセンである。
彼の気配は、完全に緑の中に溶け込んでおり、その姿を目前にしても存在を感じられない。しかし、シュアンを見る双眸は、物静かを装いながらも、有無を言わせぬ凄みを宿していた。
リュイセンはシュアンの姿を認めると、顎をしゃくり、早く外に出ろと合図をした――。
外に出て、温室の扉を閉めた瞬間、シュアンの肌が粟立った。
「……っ!」
リュイセンが、今まで抑えていた気を一気に解放したのだ。黄金比の美貌は威圧に包まれ、鋭い眼光がシュアンを睥睨する。
「おいおい、そんなに殺気立てることないだろう?」
軽口を叩きながらも、シュアンは、それが殺気などではないと理解していた。リュイセンは、そこに存在するだけで、覇者の風格を放っているのだ。
今までは、総帥のイーレオや、次期総帥のエルファンの影に隠れて目立たなかっただけで、こうして正面から相対してみると、確かに鷹刀一族の直系の血を感じる。――シュアンはそう思い、しかし、すぐにその考えを打ち消した。
以前、会ったときには、こんな雰囲気をしていなかった。
三白眼を眇め、シュアンは悟る。
餓鬼の成長は早い。何かのきっかけで、急に別人のようになったりもする。
――こいつの場合は、ミンウェイか……。
シュアンは、すっと口角を上げた。
実はこの温室に入るときに、シュアンは、リュイセンと顔を合わせていた。
ミンウェイを心配してのことか、彼女をひとりにするための人払いのつもりなのか。その両方だと思われるが、リュイセンは温室の前に陣取っていた。
リュイセンは、近づいてきたシュアンに、番犬よろしく『部外者が何をしに来た』と食って掛かってきた。だから、シュアンは『エルファンさんから、伝言を頼まれてきた』と適当にあしらって、道を開けさせたのだ――。
「高潔を誇りとする、鷹刀の後継者が、出歯亀とは堕ちたものだな」
シュアンの三白眼が、冷ややかに嗤った。
温室の『外』で番をしていたはずのリュイセンが、温室の『中』でシュアンを待っていたのなら、それは気配を殺して後ろからついて入ってきた、ということに他ならない。別にやましいことはないが、せっかくのミンウェイとのひとときを穢されたようで気分が悪い。
するとリュイセンは、心外だと言わんばかりに眉を吊り上げた。
「何をふざけたことを言っている? お前のような輩と、ミンウェイをふたりきりにするなど、あり得ないだろう? どんな危険があるとも分からん」
ぎろりと巡らされた視線は、シュアンを射殺さんばかりである。
シュアンは、なるほど、と思った。
この男の性格なら、盗み聞きを指摘すれば、卑怯な真似をしたと恥じ入るものと思った。だが、どうやら恋は盲目らしい。
「ほぅ。そのわりには、俺が初めに銃を出しても、何もしなかったな?」
「道化者のたわけに、いちいち目くじら立てても仕方ないだろう」
からかい混じりにシュアンが言えば、リュイセンが鼻で笑って返す。
ふたりの間を、冷たい火花が弾け飛ぶ……。
これ以上、リュイセンの顔を見ていても不愉快になるだけだと、シュアンは察した。さっと身を翻し、「じゃあな」と言い放つ。引き際を間違えないのが、大人というものだ。
その後ろ姿に、リュイセンが叫んだ。
「待てよ!」
しかし、シュアンは振り返ったりしない。そんなことをすれば、ずるずると無駄に時間を費やす羽目になる。立ち止まってやる義理などないのだ。
調子を変えず、そのまま数歩、歩いたときだった。
「――!?」
シュアンの脇を疾風が走り抜けた。殺気をまとった風がぐるりと回り込み、行く手に立ちふさがる。
反射的に後ろに飛び退ったシュアンは、無意識のうちに拳銃を手にしていた。
「話を聞け」
銃口を向けたシュアンと、屋敷内であるがために丸腰のリュイセン。
いくらリュイセンが武術に長けていても、不利は一目瞭然。なのに彼は一歩前へと、堂々と進み出た。
これで応じないのは、度量に欠けるというものだ。さすがのシュアンも、仕方ないなと肩をすくめ、拳銃をホルスターに戻す。
「緋扇シュアン。今後いっさい、ミンウェイには関わるな」
「あんたに命令される筋合いはねぇな」
敵意をむき出しにしたリュイセンを、シュアンは軽く笑い飛ばす。
「お前は何も分かっていない」
「ほぅ? 何をだ?」
「部外者が、適当に分かったふうな口をきけば、かえって彼女を傷つける。彼女の闇は、お前が思っているよりも、もっとずっと深い。彼女の心を、不用意に乱さないでもらおう」
美貌に深い皺を寄せ、リュイセンが険しい顔をする。
しかし、シュアンからすれば、理解者気取りの、ただの思い上がりにしか見えなかった。
「あんた、盗み聞きしていたなら、知ってんだろ? ミンウェイは俺に過去の話をした。あの口ぶりからすると、今まで鷹刀の誰にも言っていなかったことを、だ」
「……っ!」
「俺が部外者だからこそ、傍から見ていて、明らかなんだよ。――ミンウェイは鷹刀に遠慮している。そんなことも分からずに、何を偉そうに言っている?」
リュイセンは、ぎりりと奥歯を噛んだ。
「ああ、そうだよ。ミンウェイは遠慮している。……だがそれは、ヘイシャオ叔父のせいだ。鷹刀のせいではない」
「ふぅん?」
「そうだな、お前の言うことも一理あると認めよう。……ならば、ミンウェイが遠慮なんかする必要がないことを、示してやればいいだけだ」
リュイセンは、唐突に踵を返した。そして、そのまま振り返ることもなく去っていく。
残されたシュアンは、しばらく胡乱な目で見送っていたが、やがて馬鹿馬鹿しくなり、彼もまた帰路についた。