残酷な描写あり
5.分水嶺の流路-2
――ミンウェイは、実の父であるヘイシャオ叔父を愛していたんだ。
ミンウェイの耳の奥で、リュイセンの声が木霊する。
「なっ……!」
あまりの言葉に、ミンウェイはとっさに声が出なかった。
大きく吸い込んだ息が全身を巡るほどに時が過ぎたあと、彼女はやっと唇をわななかせ、拳を震わせた。
「変なことを言わないで! 私はっ、私はお父様に酷い目にっ……!」
あらん限りの声を張り上げ、ミンウェイは叫んだ。
その、つもりだった。けれど、ひび割れた声は、いとも簡単に波音に掻き消される。
たぎるような怒りが湧き上がっているのに、身が凍るような怖気を覚える。握りしめた掌は真っ白になっているが、それは憤りのあまりに強く握りすぎた結果なのか、血の気が消え失せたからなのかも判別できない。
そんなミンウェイを見つめながらも、リュイセンは言葉を止めることなく、「ああ、そうだ」と頷いた。
「あの悪魔は、ミンウェイを虐待していた」
地の底から轟くような低音が、音としてではなく、振動としてミンウェイに伝わってくる。それは、冷静な口調からは感じ取れない、リュイセンの深い憎悪だった。
「奴にとっては、それが『愛』で、自分が盲目的にミンウェイを『愛』する代わりに、ミンウェイにも自分以外を見ることを許さなかった。――物心つく前からそんな環境に置かれれば、ミンウェイにとって叔父上が世界の中心で、世界のすべてにもなるだろう」
淡々と話すリュイセンに、ミンウェイは本能的な恐怖を覚え、思わず自分の体を掻き抱く。
「憎しみも恨みも恐れも、裏を返せば相手に強く寄せる思いに変わりない。ミンウェイの中にあったものが負の感情だったとしても、ミンウェイは叔父上しか見ていなかった」
波音が遠のいていく。
リュイセンの声だけが、響き渡る。
「そして、いくらあの叔父上だって、ミンウェイに辛く当たるばかりじゃなかったはずだ。奴はミンウェイを『愛』していた。優しい瞬間もあっただろう。――そんなとき、ミンウェイは嬉しかったはずだ。何しろ奴は、ミンウェイの世界の中心なんだから……」
ミンウェイは、心臓を握りつぶされたような感覚を覚えた。
辛くて、苦しくて、悲しくて。そんな灰色の世界にいても、確かに笑った日もあった。笑いかけてもらった時があった――。
「やめて!」
艶のあるはずの美声が裏返り、血を吐くように叫ぶ。
髪を振り乱して首を振るミンウェイに、リュイセンは唇を噛んだ。しかし、口調を変えず、「頼むから、聞いてくれ」と静かに告げる。
「ミンウェイの世界には叔父上が必要だった。……だから、叔父上を亡くしたあと、ミンウェイはそっくりな父上に面影を重ねた」
「だから? それがなんだというの? 確かに、お父様とエルファン伯父様はよく似てらっしゃるわ。おふたりとも、鷹刀の濃い血を引いているんだもの。当然でしょう?」
「……もしも、ミンウェイが叔父上から恐怖しか感じていなかったら、そっくりな父上にも脅えたはずなんだよ……」
憤慨した様子のミンウェイに、リュイセンは肩を落とす。その拍子に黒髪がさらさらと頬に掛かり、彼は鬱陶しげに払いのけた。
「……悪いな。俺は、ルイフォンみたいに頭が良くない。言葉でうまく説明するのは、無理みたいだ」
リュイセンは溜め息をつくと、きゅっと口元を結んで顔を上げる。為すべきことを、まっすぐに見据える目で、彼はミンウェイを捕らえた。
「俺は理屈をこね、策を巡らせる人間じゃない。自分の感覚を信じ、行動する人間だ。だから、こう言わせてもらう」
「な、何を……?」
敵意をむき出しにした切れ長の目で、彼女は痛々しいほどに必死に虚勢を張る。
「俺は何年もミンウェイを見続けてきた。俺の直感は絶対に間違えない。――ミンウェイは父上のことが好きだ」
「……」
「でもそれは、父上の後ろに叔父上を見ているからだ。ミンウェイの心は、いまだに死んだ叔父上にある――!」
低く冷たい言葉の刃が、ミンウェイを斬り裂く。
――けれど、その刃は両刃だった。同時にリュイセン自身の心をも、深くえぐっていた。
「ち、……違う! 私は、お父様なんか大嫌いだったわ!」
リュイセンの眼差しが切なげで、泣いているように見えた。ミンウェイの心が、ずきりと痛む。けれど彼女は、全身を震わせてその痛みを振り払う。
「リュイセンの言う通り、私はエルファン伯父様が好きよ。だって私をお父様から解放してくださったんだもの。――けど、それは恩人として。私は、ユイラン伯母様のことも大好きなんだから、変な話をしないでちょうだい!」
叩きつけるような、ミンウェイの声。
リュイセンが、ひるむ。まるで、本当に平手打ちをくらったみたいに……。
「……すまん」
深く頭を下げ、彼はそれだけ言った。そして、ミンウェイの視界から消えるように、しゃがみ込む。
拍子抜けした彼女が首をかしげると、彼の横顔が墓標と向き合っているのが見えた。
彼は手を合わせるでなく、ただ瞳いっぱいに墓石を映していた。――正確には、そこに刻まれたミンウェイの父、ヘイシャオの名前を。
潮風が吹き上がり、リュイセンの肩の上で黒髪が舞う。波打つミンウェイの髪も、華やかに踊る。
「リュイセン……」
呼びかけた声は、風に溶けた。
ミンウェイは、リュイセンの隣にしゃがむ。
風が邪魔して会話が通りにくいから――というのは詭弁で、彼の寂しげな背中に罪悪感を覚えたからだ。その証拠に、彼を間近にしても、言うべき言葉が浮かばない。
午後になったからか、だいぶ波が立ってきたようだ。穏やかな海も、少しずつ様相を変えていく。
「なぁ……、ミンウェイ……――……?」
波音が崖を打ち、髪に潮風が吹きつけた。
「え……? 今、なんて……?」
本当は、ミンウェイの耳には聞こえていた。ただ、その意味が分からなかっただけだ。
「だから……、俺じゃ駄目か?」
「っ!」
聞き返してはいけなかった。
そのまま、何も聞こえなかったふりをすべきだった。愚かなことをしてしまった。――ミンウェイは後悔するが、もう遅い。
吐息の掛かる距離で、リュイセンはミンウェイを見つめている。逃げ場は、ない。
「リュイセン……」
途方に暮れたように、彼女は彼の名を呟く。
「ミンウェイが、誰を愛していてもいい。俺は、誰かの身代わりでいい。けど俺は、今のミンウェイをひとりにしておきたくない」
「私は平気……」
ミンウェイは反射的に声を漏らすが、それは畳み掛けるようなリュイセンの言葉に打ち消された。
「今のミンウェイは凄く不安定だ。ふらふらと何処かに行ってしまいそうだ。――そんなの、俺は嫌だ。ミンウェイが居るべきところは、鷹刀だ」
「私が〈蝿〉のところに行ってしまうと思っているの?」
「……鷹刀から、出ていくことを危惧している」
それは決して認めないと、威圧すら感じる声で、リュイセンは、はっきりと告げた。
「だから、俺はミンウェイが何処にも行かないように縛りたい」
「縛る……?」
想像もしていなかった不穏な言葉に、ミンウェイは眉を寄せる。しかしリュイセンは、彼女のあからさまな警戒の表情にも構わず、「ああ」と頷いた。
そして、『神速の双刀使い』の異名にふさわしい鋭い眼差しをもって、ミンウェイの心に斬り込む――。
「ミンウェイ。俺と結婚しよう」
ミンウェイの頭の中は、真っ白になった。
蒼天に浮かぶ雲を見ているのか、崖を打つ波濤の水しぶきを見ているのか……。
――そんな下手な言いわけのようなことを思いつくほどに、心が逃避した。
「今更、驚くことでもないだろう?」
リュイセンは切なげでありながらも、優しい微笑みを浮かべる。
「俺がミンウェイを好きなことなんて、一族中が知っている。それに、鷹刀は血族婚を繰り返してきた一族だ。いずれ総帥を継ぐ俺にふさわしい相手は、ミンウェイしかいないと誰もが思っている。おかしなことじゃない」
リュイセンの言っていることは、間違いではない。
一族の者たちは、慣例として直系は血族婚をするものと思い込んでいる。本来の後継者だったレイウェンが一族を抜けたのは、血族ではないシャンリーを選んだからだ、と信じている者すらいる。
けれど本当は、鷹刀一族が〈七つの大罪〉と決別した今となっては、もはや濃い血に用はない。むしろ逆で、血を煮詰めすぎて子供の生まれなくなった一族は、その血を薄めていかなければ滅んでしまうのだ。
「だ、駄目よ。私とあなたじゃ、跡継ぎができないわ。あなたは総帥になるんだから、それは困るでしょう?」
とてもよい口実があったと、ミンウェイは安堵の息を漏らした。
しかし、リュイセンはその反論を予測していた。――そうとしか思えないくらいの絶妙なタイミングで、言葉を返した。
「俺に後継者は必要ない。かえって邪魔なだけだ」
「どういうこと……?」
彼女は瞳を瞬かせる。
「祖父上は、俺と父上を倭国に行かせただろう? あれは外の世界を見てこい、という意味だった。他国と比べ、我が国が如何に遅れているか、身をもって実感してこい、とな」
「え……?」
「『凶賊は時代遅れの存在だ』――旅先で父上はそう言った。それから、祖父上は鷹刀を解散するつもりでいるのだと、教えられた。急激な変化は望まず、ゆっくりと。父上か俺か、その次の代には、と」
寝耳に水、だった。ミンウェイは、信じられないものを見る目でリュイセンを凝視する。だが彼は、いたって冷静だった。
「最初は俺も混乱した。俺はなんのために今まで生きてきたのか、とすら思った。――でも、帰国直後に巻き込まれた事件によって、考えが変わった」
リュイセンは、とても静かに、穏やかに告げる。
「あの事件で一番強かったのは、ルイフォンだ」
一般人と比べれば、ルイフォンは決して弱くはないが、凶賊としてはお話にならない。
けれどルイフォンは、たったひとりで斑目一族を壊滅状態に陥れた。そして、自分とメイシアの自由を手に入れるために、総帥イーレオに対し、親子の情に頼らず、それどころか半ば脅迫しながら対等な交渉に持ち込んだ。
「凶賊なんて、弱くて未来のない存在だ。祖父上や父上が言うことは正しい、と俺は思った」
リュイセンは、ふっと空を仰いだ。
広く、高く。どこまでも蒼天は続いている。
彼は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。緩やかに肩が落ち、何も気負わない、ごく自然な顔をミンウェイに向けた。
「俺は、鷹刀という場所が好きだ。一族の者たちが大切だ。――だから、彼らに未来を与えたい」
それから少し、困ったように笑う。
「簡単なことじゃないんだ。今まで凶賊として生きていた者たちを、一般人の世界に送り出すってのは……。兄上にも聞いたし、父上や祖父上とも話した」
「え……?」
ミンウェイは耳を疑った。
リュイセンが一族を憂い、具体的に動き出すなんて考えたこともなかった。兄のレイウェンが抜けたあとに繰り上げられた、名ばかりの後継者だと思っていた。
「時間が掛かると思う。下手に急いで鷹刀を弱体化させれば、そこを付け狙う輩に喰われる。……古い者たちは、鷹刀の加護から離れたくはないだろう。彼らは亡くなるまで今のままでいいと思う。ずっと鷹刀を支えてきてくれた大切な者たちだ」
リュイセンの目は、ミンウェイへと向けられていた。けれど彼女には、自分の後ろに広がる、遠く遥かな水平線を見ているように感じられた。
「――古い時代を知らない俺が、幕を下ろす」
黄金比の美貌が、煌めく。
「俺が、最後の総帥になる」
魅惑の低音が、響き渡る。
……初めて会ったときは小さな男の子だった。無邪気な笑顔がミンウェイには羨ましく、眩しかった。
彼は覚えていないだろうけれど、卑屈な少女だったミンウェイは『子供って、悩みがなくていいわね』と、なじったことがある。
そしたら彼は大真面目な顔をして、『修行』と言って姉貴分のシャンリーがおやつを取るのだと、悩みを打ち明けてくれた。それすらも、兄のレイウェンに泣きつくことで解決していたのだけれど――。
「……リュイセン――」
あの小さな男の子は、もういない……。
ミンウェイの心臓が痛む。胸が苦しくなる。
「な? 俺には後継者がいないほうが好都合だろう? 跡継ぎがいたら、一族を存続させたがる者が出てくるだろうからな」
「……っ」
「だから、ミンウェイ。俺と結婚しよう」
なんでもないことのように、リュイセンが言う。
差し伸ばされた手が温かいことを、ミンウェイは知っている。
「私はあなたよりずっと年上よ。……もっと歳の近い可愛い子のほうが、あなたにはお似合いだわ」
「俺の母上も、父上より十以上、年上だ」
「……」
「いいんだよ、ミンウェイ」
リュイセンが穏やかに、くすりと笑った。それは兄のレイウェンに少し似ており、けれどエルファンにも、イーレオにも、そしてミンウェイの父、ヘイシャオにも似ていた。
「ミンウェイが俺を恋愛対象として見られないのは承知している。父上と母上もそうだ。でも、互いに尊敬しあっている。そういうのでいい」
心地のよい声が、ふわりとミンウェイを包み込む。
「俺に必要なパートナーは、俺と同じように一族を愛している人間だ」
「リュイセン……」
「結婚というのは名目で構わない。……だから、俺を鷹刀最後の総帥にするために、俺を助けてくれないか」
そして低く、低く――。
海底の深くに沈み込ませるように、波打ち際からは見えないように――ミンウェイには聞こえないように……リュイセンは想いを潮騒に溶け込ませる。
「――ミンウェイ、愛している」
~ 第三章 了 ~
ミンウェイの耳の奥で、リュイセンの声が木霊する。
「なっ……!」
あまりの言葉に、ミンウェイはとっさに声が出なかった。
大きく吸い込んだ息が全身を巡るほどに時が過ぎたあと、彼女はやっと唇をわななかせ、拳を震わせた。
「変なことを言わないで! 私はっ、私はお父様に酷い目にっ……!」
あらん限りの声を張り上げ、ミンウェイは叫んだ。
その、つもりだった。けれど、ひび割れた声は、いとも簡単に波音に掻き消される。
たぎるような怒りが湧き上がっているのに、身が凍るような怖気を覚える。握りしめた掌は真っ白になっているが、それは憤りのあまりに強く握りすぎた結果なのか、血の気が消え失せたからなのかも判別できない。
そんなミンウェイを見つめながらも、リュイセンは言葉を止めることなく、「ああ、そうだ」と頷いた。
「あの悪魔は、ミンウェイを虐待していた」
地の底から轟くような低音が、音としてではなく、振動としてミンウェイに伝わってくる。それは、冷静な口調からは感じ取れない、リュイセンの深い憎悪だった。
「奴にとっては、それが『愛』で、自分が盲目的にミンウェイを『愛』する代わりに、ミンウェイにも自分以外を見ることを許さなかった。――物心つく前からそんな環境に置かれれば、ミンウェイにとって叔父上が世界の中心で、世界のすべてにもなるだろう」
淡々と話すリュイセンに、ミンウェイは本能的な恐怖を覚え、思わず自分の体を掻き抱く。
「憎しみも恨みも恐れも、裏を返せば相手に強く寄せる思いに変わりない。ミンウェイの中にあったものが負の感情だったとしても、ミンウェイは叔父上しか見ていなかった」
波音が遠のいていく。
リュイセンの声だけが、響き渡る。
「そして、いくらあの叔父上だって、ミンウェイに辛く当たるばかりじゃなかったはずだ。奴はミンウェイを『愛』していた。優しい瞬間もあっただろう。――そんなとき、ミンウェイは嬉しかったはずだ。何しろ奴は、ミンウェイの世界の中心なんだから……」
ミンウェイは、心臓を握りつぶされたような感覚を覚えた。
辛くて、苦しくて、悲しくて。そんな灰色の世界にいても、確かに笑った日もあった。笑いかけてもらった時があった――。
「やめて!」
艶のあるはずの美声が裏返り、血を吐くように叫ぶ。
髪を振り乱して首を振るミンウェイに、リュイセンは唇を噛んだ。しかし、口調を変えず、「頼むから、聞いてくれ」と静かに告げる。
「ミンウェイの世界には叔父上が必要だった。……だから、叔父上を亡くしたあと、ミンウェイはそっくりな父上に面影を重ねた」
「だから? それがなんだというの? 確かに、お父様とエルファン伯父様はよく似てらっしゃるわ。おふたりとも、鷹刀の濃い血を引いているんだもの。当然でしょう?」
「……もしも、ミンウェイが叔父上から恐怖しか感じていなかったら、そっくりな父上にも脅えたはずなんだよ……」
憤慨した様子のミンウェイに、リュイセンは肩を落とす。その拍子に黒髪がさらさらと頬に掛かり、彼は鬱陶しげに払いのけた。
「……悪いな。俺は、ルイフォンみたいに頭が良くない。言葉でうまく説明するのは、無理みたいだ」
リュイセンは溜め息をつくと、きゅっと口元を結んで顔を上げる。為すべきことを、まっすぐに見据える目で、彼はミンウェイを捕らえた。
「俺は理屈をこね、策を巡らせる人間じゃない。自分の感覚を信じ、行動する人間だ。だから、こう言わせてもらう」
「な、何を……?」
敵意をむき出しにした切れ長の目で、彼女は痛々しいほどに必死に虚勢を張る。
「俺は何年もミンウェイを見続けてきた。俺の直感は絶対に間違えない。――ミンウェイは父上のことが好きだ」
「……」
「でもそれは、父上の後ろに叔父上を見ているからだ。ミンウェイの心は、いまだに死んだ叔父上にある――!」
低く冷たい言葉の刃が、ミンウェイを斬り裂く。
――けれど、その刃は両刃だった。同時にリュイセン自身の心をも、深くえぐっていた。
「ち、……違う! 私は、お父様なんか大嫌いだったわ!」
リュイセンの眼差しが切なげで、泣いているように見えた。ミンウェイの心が、ずきりと痛む。けれど彼女は、全身を震わせてその痛みを振り払う。
「リュイセンの言う通り、私はエルファン伯父様が好きよ。だって私をお父様から解放してくださったんだもの。――けど、それは恩人として。私は、ユイラン伯母様のことも大好きなんだから、変な話をしないでちょうだい!」
叩きつけるような、ミンウェイの声。
リュイセンが、ひるむ。まるで、本当に平手打ちをくらったみたいに……。
「……すまん」
深く頭を下げ、彼はそれだけ言った。そして、ミンウェイの視界から消えるように、しゃがみ込む。
拍子抜けした彼女が首をかしげると、彼の横顔が墓標と向き合っているのが見えた。
彼は手を合わせるでなく、ただ瞳いっぱいに墓石を映していた。――正確には、そこに刻まれたミンウェイの父、ヘイシャオの名前を。
潮風が吹き上がり、リュイセンの肩の上で黒髪が舞う。波打つミンウェイの髪も、華やかに踊る。
「リュイセン……」
呼びかけた声は、風に溶けた。
ミンウェイは、リュイセンの隣にしゃがむ。
風が邪魔して会話が通りにくいから――というのは詭弁で、彼の寂しげな背中に罪悪感を覚えたからだ。その証拠に、彼を間近にしても、言うべき言葉が浮かばない。
午後になったからか、だいぶ波が立ってきたようだ。穏やかな海も、少しずつ様相を変えていく。
「なぁ……、ミンウェイ……――……?」
波音が崖を打ち、髪に潮風が吹きつけた。
「え……? 今、なんて……?」
本当は、ミンウェイの耳には聞こえていた。ただ、その意味が分からなかっただけだ。
「だから……、俺じゃ駄目か?」
「っ!」
聞き返してはいけなかった。
そのまま、何も聞こえなかったふりをすべきだった。愚かなことをしてしまった。――ミンウェイは後悔するが、もう遅い。
吐息の掛かる距離で、リュイセンはミンウェイを見つめている。逃げ場は、ない。
「リュイセン……」
途方に暮れたように、彼女は彼の名を呟く。
「ミンウェイが、誰を愛していてもいい。俺は、誰かの身代わりでいい。けど俺は、今のミンウェイをひとりにしておきたくない」
「私は平気……」
ミンウェイは反射的に声を漏らすが、それは畳み掛けるようなリュイセンの言葉に打ち消された。
「今のミンウェイは凄く不安定だ。ふらふらと何処かに行ってしまいそうだ。――そんなの、俺は嫌だ。ミンウェイが居るべきところは、鷹刀だ」
「私が〈蝿〉のところに行ってしまうと思っているの?」
「……鷹刀から、出ていくことを危惧している」
それは決して認めないと、威圧すら感じる声で、リュイセンは、はっきりと告げた。
「だから、俺はミンウェイが何処にも行かないように縛りたい」
「縛る……?」
想像もしていなかった不穏な言葉に、ミンウェイは眉を寄せる。しかしリュイセンは、彼女のあからさまな警戒の表情にも構わず、「ああ」と頷いた。
そして、『神速の双刀使い』の異名にふさわしい鋭い眼差しをもって、ミンウェイの心に斬り込む――。
「ミンウェイ。俺と結婚しよう」
ミンウェイの頭の中は、真っ白になった。
蒼天に浮かぶ雲を見ているのか、崖を打つ波濤の水しぶきを見ているのか……。
――そんな下手な言いわけのようなことを思いつくほどに、心が逃避した。
「今更、驚くことでもないだろう?」
リュイセンは切なげでありながらも、優しい微笑みを浮かべる。
「俺がミンウェイを好きなことなんて、一族中が知っている。それに、鷹刀は血族婚を繰り返してきた一族だ。いずれ総帥を継ぐ俺にふさわしい相手は、ミンウェイしかいないと誰もが思っている。おかしなことじゃない」
リュイセンの言っていることは、間違いではない。
一族の者たちは、慣例として直系は血族婚をするものと思い込んでいる。本来の後継者だったレイウェンが一族を抜けたのは、血族ではないシャンリーを選んだからだ、と信じている者すらいる。
けれど本当は、鷹刀一族が〈七つの大罪〉と決別した今となっては、もはや濃い血に用はない。むしろ逆で、血を煮詰めすぎて子供の生まれなくなった一族は、その血を薄めていかなければ滅んでしまうのだ。
「だ、駄目よ。私とあなたじゃ、跡継ぎができないわ。あなたは総帥になるんだから、それは困るでしょう?」
とてもよい口実があったと、ミンウェイは安堵の息を漏らした。
しかし、リュイセンはその反論を予測していた。――そうとしか思えないくらいの絶妙なタイミングで、言葉を返した。
「俺に後継者は必要ない。かえって邪魔なだけだ」
「どういうこと……?」
彼女は瞳を瞬かせる。
「祖父上は、俺と父上を倭国に行かせただろう? あれは外の世界を見てこい、という意味だった。他国と比べ、我が国が如何に遅れているか、身をもって実感してこい、とな」
「え……?」
「『凶賊は時代遅れの存在だ』――旅先で父上はそう言った。それから、祖父上は鷹刀を解散するつもりでいるのだと、教えられた。急激な変化は望まず、ゆっくりと。父上か俺か、その次の代には、と」
寝耳に水、だった。ミンウェイは、信じられないものを見る目でリュイセンを凝視する。だが彼は、いたって冷静だった。
「最初は俺も混乱した。俺はなんのために今まで生きてきたのか、とすら思った。――でも、帰国直後に巻き込まれた事件によって、考えが変わった」
リュイセンは、とても静かに、穏やかに告げる。
「あの事件で一番強かったのは、ルイフォンだ」
一般人と比べれば、ルイフォンは決して弱くはないが、凶賊としてはお話にならない。
けれどルイフォンは、たったひとりで斑目一族を壊滅状態に陥れた。そして、自分とメイシアの自由を手に入れるために、総帥イーレオに対し、親子の情に頼らず、それどころか半ば脅迫しながら対等な交渉に持ち込んだ。
「凶賊なんて、弱くて未来のない存在だ。祖父上や父上が言うことは正しい、と俺は思った」
リュイセンは、ふっと空を仰いだ。
広く、高く。どこまでも蒼天は続いている。
彼は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。緩やかに肩が落ち、何も気負わない、ごく自然な顔をミンウェイに向けた。
「俺は、鷹刀という場所が好きだ。一族の者たちが大切だ。――だから、彼らに未来を与えたい」
それから少し、困ったように笑う。
「簡単なことじゃないんだ。今まで凶賊として生きていた者たちを、一般人の世界に送り出すってのは……。兄上にも聞いたし、父上や祖父上とも話した」
「え……?」
ミンウェイは耳を疑った。
リュイセンが一族を憂い、具体的に動き出すなんて考えたこともなかった。兄のレイウェンが抜けたあとに繰り上げられた、名ばかりの後継者だと思っていた。
「時間が掛かると思う。下手に急いで鷹刀を弱体化させれば、そこを付け狙う輩に喰われる。……古い者たちは、鷹刀の加護から離れたくはないだろう。彼らは亡くなるまで今のままでいいと思う。ずっと鷹刀を支えてきてくれた大切な者たちだ」
リュイセンの目は、ミンウェイへと向けられていた。けれど彼女には、自分の後ろに広がる、遠く遥かな水平線を見ているように感じられた。
「――古い時代を知らない俺が、幕を下ろす」
黄金比の美貌が、煌めく。
「俺が、最後の総帥になる」
魅惑の低音が、響き渡る。
……初めて会ったときは小さな男の子だった。無邪気な笑顔がミンウェイには羨ましく、眩しかった。
彼は覚えていないだろうけれど、卑屈な少女だったミンウェイは『子供って、悩みがなくていいわね』と、なじったことがある。
そしたら彼は大真面目な顔をして、『修行』と言って姉貴分のシャンリーがおやつを取るのだと、悩みを打ち明けてくれた。それすらも、兄のレイウェンに泣きつくことで解決していたのだけれど――。
「……リュイセン――」
あの小さな男の子は、もういない……。
ミンウェイの心臓が痛む。胸が苦しくなる。
「な? 俺には後継者がいないほうが好都合だろう? 跡継ぎがいたら、一族を存続させたがる者が出てくるだろうからな」
「……っ」
「だから、ミンウェイ。俺と結婚しよう」
なんでもないことのように、リュイセンが言う。
差し伸ばされた手が温かいことを、ミンウェイは知っている。
「私はあなたよりずっと年上よ。……もっと歳の近い可愛い子のほうが、あなたにはお似合いだわ」
「俺の母上も、父上より十以上、年上だ」
「……」
「いいんだよ、ミンウェイ」
リュイセンが穏やかに、くすりと笑った。それは兄のレイウェンに少し似ており、けれどエルファンにも、イーレオにも、そしてミンウェイの父、ヘイシャオにも似ていた。
「ミンウェイが俺を恋愛対象として見られないのは承知している。父上と母上もそうだ。でも、互いに尊敬しあっている。そういうのでいい」
心地のよい声が、ふわりとミンウェイを包み込む。
「俺に必要なパートナーは、俺と同じように一族を愛している人間だ」
「リュイセン……」
「結婚というのは名目で構わない。……だから、俺を鷹刀最後の総帥にするために、俺を助けてくれないか」
そして低く、低く――。
海底の深くに沈み込ませるように、波打ち際からは見えないように――ミンウェイには聞こえないように……リュイセンは想いを潮騒に溶け込ませる。
「――ミンウェイ、愛している」
~ 第三章 了 ~