残酷な描写あり
不可逆の真理
『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』
ローヤン先輩はそう言って、俺の肩に手を載せた。
……その手の重さを心に刻み、俺は今、生きている。
自分でも、馬鹿なことをしていると思っている。
少し前の俺だったら、絶対に考えられなかった。
これは、鬱陶しいまでのお節介。余計なお世話というやつだ。
――違うな。もっと最悪なものだ。何しろ、俺の話を聞いたところで、いいことなど、ひとつもないのだから。
きっと、いや間違いなく、ミンウェイの影響だ。
彼女が俺に、暑苦しいまでの人の情というやつを思い出させちまったから。
だから俺は、先輩を――先輩の心というか、魂というか……そんなものを、先輩の婚約者のもとに届けたいと思っちまった。
何も知らずにいるほうが、本当は幸せなのかもしれない。けれど、あの先輩が愛した女は、そういう人ではないはずだ。
彼女が知らないままでいることも、先輩が知られないままでいることも、どちらも、ふたりは望まない。
だったら、真実を俺の手元に残したままではいけないだろう。
先輩が帰るべき場所は、彼女のところなのだから――。
自分は職場の後輩であり、お悔やみを言いに、お宅に伺いたいと申し入れたら、不審に思われることなく承諾してもらえた。
初めに、花に囲まれた先輩の写真に手を合わせた。
それから俺は、「ちょっと、お話をさせてください」と彼女に声を掛けた。
荒唐無稽な俺の話を、彼女は黙って聞いていた。
互いに座っているため、膝に置かれた手の様子は机に隠れて見えないが、握りしめて震わせているであろうことは、肩の強張りから見て取れた。
顔は青白く、血の気がない。けれど、俺から目をそらすことはなく、かといって睨みつけるわけでもなく。あるがままを受け止めているかのようだった。
「……信じていただけないかもしれませんが、お話したことは、すべて真実です」
話を終え、俺は頭を下げる。
それは勿論、謝罪のためであったが、次に来る彼女の反応を、正面で待ち構えていたくない気持ちもあったかもしれない。
「信じるわ」
俺の上に落とされた声は、かすれていたが、言葉は拍子抜けするほどあっさりしていた。
驚いた俺は、思わず頭を上げる。
「だって、匿名で、法外なお見舞金が届けられたもの」
「え?」
「一生、遊んで暮らせるような、馬鹿げた額よ。『こんなことしかできなくて、申し訳ございません』と、手書きのメッセージまで添えられていたわ」
はっと思い当たり、俺は息を呑む。
俺の表情の変化が可笑しかったのか、彼女は失敗したような笑い顔になり、そっと目元にハンカチを当てた。
「綺麗な文字だったけれど、たぶん子供の字。なんとなく、そう感じたわ」
間違いない。ハオリュウだ。
俺に内緒で、いつの間に……。
言葉にできない思いに俺が唇を噛むと、彼女は頷き、静かに微笑む。
「送り主は、今の話に出てきた貴族の少年当主ね? 気味が悪かったのだけれど、納得したわ」
しっとりと落ち着いた声だった。美声とも違うが妙に心地よく、強い口調でもないのに、何故か耳に残る。
「あのローヤンが貴族令嬢に発砲しただなんて、おかしいと思っていたわ。彼が……悪人以外に銃を向けるなんてあり得ないもの。だからね、あなたの話を聞いて納得したの。――みんな、みんな……、ね」
『悪人』と口にする前に、ほんの少し間があった。
先輩は、彼女の父親を射殺している。それが出逢いだったと。最悪の出逢いだったと、先輩は語ってくれた。
だからこそ、先輩はむやみに発砲しない。それが不可逆だと知っているから――。
「ありがとう。わざわざ来てくれて――話してくれて」
「!」
彼女が示したのは、俺への謝意。
俺の胸が、ざわついた。
気づいたら、腹の中で渦巻いていた何かが、飛び出していた。
「やめてくれ! 俺が、先輩を殺したんだ! あなたの婚約者を!」
あのとき。
先輩を撃たないという選択肢もあった。敵の口車に乗ったふりをして、先輩を取り戻す方法が見つかるまで待つ、という手段だってあった。
けれど、俺は先輩を殺した。あれ以上、先輩を穢されたくなかったから。
そして、俺の一発の弾丸が、先輩と彼女の幸せな未来を撃ち砕いた――!
肩で息をする俺に、彼女は急に眉をひそめた。
「あなたは、ここに何をしに来たの? 私に罵られ、恨まれるため?」
「え?」
軽蔑を含んだ彼女の声に、俺は戸惑う。
「……許しを、請うため?」
「――!」
俺の耳で、彼女の声が木霊した。
たったひとことが反響し、何度も何度も、俺の中で繰り返される。
「責め、責められて怒りを解放し、傷つき、傷つけられることで納得して。そうして、忘れたほうが楽ね、きっと。――あなたも、……私も」
「っ!」
彼女の声が、俺を絡め取る。俺は、彼女の言葉に締め上げられたかのように、息が苦しくなる。
――『あの瞬間』、先輩と彼女のことが頭をよぎった。
一発の弾丸によって、彼岸と此岸に引き裂かれることになる、ふたりを。
申し訳ないと思った。
だから。
どんなに俺を罵ってもいい。
どんなに俺を恨んでもいい。
……俺の選択に罰を与えてほしいと思った。
俺が『罪』と認める代わりに、裁きを――救いを求めていた。
「でも、それって、何か違うんじゃないかしら?」
「…………あ、あぁ……」
頭が割れるように痛み、俺は両手で抱える。
そんな俺に、彼女は切なげに目を細めながら、優しく微笑んだ。
「あなたは覚悟の上で、ローヤンを撃ったのでしょう? それが、あなたの『正義』だったから。――だったら、胸を張って背負わなきゃ」
彼女は、すっと立ち上がり、少し離れたところにある戸棚に向かった。引き出しから何かを取り出し、俺のところに戻ってくる。
彼女が持ってきたそれを見て、俺は凍りついた。
「……結婚式の……招待状……」
「ええ」
机に置かれた封筒は、差出人の名前の書かれた裏側を向いていて、先輩と彼女の名前が仲良く並んでいた。
幸せの象徴ようなそれを、もう投函されることのなくなったそれを、彼女はゆっくりと表に返す。
「!」
俺の心臓が跳ねた。
宛名が、俺になっていた。
俺は、そんな晴れがましい席に招待されるような立場じゃない。
先輩とは、殴り合いで袂を分かった。俺は取り入った指揮官に頼み込み、部署を異動させてもらったから、それ以来、ほとんど顔すら合わせていなかった。
「緋扇さん。あなたのことは、よくローヤンが話してくれたわ。一番の後輩だと言って、とても可愛がっていた」
「……っ」
それは昔の話だ。もう何年も、先輩とは口をきいていない。
「あなたが、とてもまっすぐで、そのために折れてしまったことも聞いているわ。ローヤンはずっと気にしていて、いつもこっそり、あなたのことを見ていたのよ」
「………」
「私とローヤンの出逢いのことは知っているでしょう? だから式は、ごくごく身内だけのつもりだった。彼は私に遠慮してか、職場の人間は呼ばないと言っていた。けど、あなただけには招待状を出したいと、私に頭を下げたのよ。そんなことしなくていいのに」
「……」
招待されたところで、俺は行かなかっただろう。あれだけ派手にぶつかりあったのだ。どの面下げて参列できるというのだろう?
「『招待状を出しても、シュアンは来ないだろうけどな』――ローヤンはそう言ったわ」
「っ! ……その通りだ。なのに、なんで……」
「『これは、俺は幸せになってやるぞ、という誓いだ。大丈夫だ。あいつには、ちゃんと伝わる』ですって」
横暴だ。
無茶苦茶を言っていやがる。
先輩の自己中心的な考えなんて、俺に分かるわけねぇだろう!
「……せんっ、ぱい…………」
俺は、先輩が何度もプロポーズを断られたのを知っている。
その彼女と結婚するのだ。
――招待状から、先輩の声が聞こえてくる。
『粘り勝ちだぞ! 凄いだろう!』
これみよがしな、自慢げな声が……。
俺の心に揺さぶりをかけて……。
「……先輩……!」
見えない先輩の手が、俺の背中を叩く。
狂犬と呼ばれるようになった俺に、人を愛せよと言っている。
孤独になった俺の――幸せを、願っている……。
「ねぇ、緋扇さん。私を不幸だと思っている?」
意図の読めない声が、俺の思考を止めた。
俺は、血走ったような赤い目で、まるで睨みつけるように彼女を見つめる。
不幸だろう!
これから、だった。
やっと、やっと、これからだった。
――強くそう思うのに、胸が詰まって声が出ない。
「違うわ。私は不幸なんかじゃない」
「……ぐっ!?」
彼女の言葉に、潰れた蛙のような声が出た。
「不幸なのはローヤンよ。彼にはまだ、やりたいことがたくさんあった。でも、彼はもう、何もできない」
「……っ」
「だけど私は、これから、いくらでも幸せになれる。過ぎたことは変えられなくても、これからのことなら私はいくらでも選べる。――だから、私に不幸を名乗る資格はないの」
「……でも、俺に先輩を殺されたことは――不幸、だろう?」
「そうね。ローヤンを失ったことは幸せではないわね。何もかもが嫌になって、彼のあとを追おうとしたもの」
「……なっ!?」
さらりと明かされた事実に、思わず叫ぶ。
「病院に運ばれて、手当を受けて。そして、教えてもらったわ」
落ち着いた、穏やかな優しい声。
彼女の手が、すっと自分の腹部に下ろされた。そして、愛しみの眼差しで、告げる。
「この子がいる、って」
「……っ!」
「ローヤン、きっと悔しがっているわ。俺にも、この子を抱かせろ、って。……でも、残念。彼にはもうできない」
強気な口調でありながら、彼女の声は涙ぐむ。
「……っ、せんぱいっ、先輩……! 俺は……!」
俺の選択は、間違っていたのだろうか。
あのとき俺は、どうするべきだったのだろうか。
「緋扇さん、ここでローヤンに謝ったら駄目よ。それは逃げだわ。あなたの覚悟を放棄している」
近くにいるのに、彼女の声は、遠くから聞こえてくるような気がする。
厳しい言葉だ。
けれど、優しい響きだ。
「ローヤンの悔しさを背負って。辛さを、やるせなさを背負って。それが、あなたの『一発の弾丸の重さ』だから」
彼女の声が、俺を包む。
彼女の言葉を聞きたくて、先輩は彼女のもとに通い始めたと言っていた。その気持ちが、なんとなく分かる。
「忘れないで。――それが私の願い。ローヤンの願い。私も、ローヤンも、あなたを恨んでなんかいない……」
彼女の言葉には、力がある。
魂を揺すぶるような、強い力が――。
「――――っ! 先輩…………っ!」
「緋扇さん、辛かったね」
「――――――――!」
俺は、俺に宛てられた招待状を、大切に両手で受け取った。
「どう? 落ち着いた?」
「はい。お見苦しいところをお見せしました」
「私も、きついことを言って悪かったわ」
「いいえ。さすが、先輩が選んだ女性だと思いました」
俺は、彼女が出してくれたホットミルクを、ひと口すする。
砂糖など入っていないのだろうが、温かなミルクは妙に甘かった。こんなものを飲んだのは、子供のころ以来だろうか。死んだお袋が作ってくれた気がする。懐かしい味だ。
「カフェインは、胎児によくないと聞いたから」と、紅茶でもコーヒーでもなく、ミルクであるらしい。「お客様に出すにはどうかと思うけれど」と申し訳なさそうではあったが、母親になろうとしている彼女が、俺には頼もしく思えた。
「これから、どうするの? ローヤンの復讐をする?」
「――はい」
「後ろ向きな発想はよくないけど、それが前に進むためだったら反対しないわ。正直、〈蝿〉という男を放ったらかしにするのは危険だと思うし、心情的には……私も協力したい気もする……。でも――」
彼女は自分の腹に手を当て、そっと撫でた。
「復讐は、緋扇さんに任せるわ。私は、この子との生活で、手いっぱいになるから」
愛しみの顔で、彼女は言う。
「緋扇さん、例の貴族に伝えてほしいの。子供が生まれるとなると、どうしても先立つものが必要になるわ。だから『贅沢をする気はないけれど、いただいたお金はありがたく使わせていただきます』って。出どころが分かったから、安心して使える。正直、助かったわ」
茶目っ気を含んだ声で笑い、彼女の瞳が未来を見据える。
『これから、いくらでも幸せになれる』と言った通りに、幸せを掴み取るために、彼女は前に進む。逞しくて、美しい。
結局のところ、誰もが前に進むしかないのだろう。時という、不可逆の流れの中で生きているのだから。
分岐点に立ったとき、自分が信じた最善のひとつだけを選び取り、あとのすべては背負っていく。忘れずに抱えていくことで、次の分岐点で少しでも迷わないように、少しでも自信を持てるように。
――それが、不可逆の真理。
抱えてきた『それ以外の無限の可能性』を元に、『たったひとつ』を選び取り、やがて、ひとつきりの未来へと収束する。
願わくば、彼女と子供の未来が、幸せへと収束していきますように。
そして……。
俺は、結婚式の招待状を視界の端に捉えた。
これは、先輩からの挑戦状だ。
……先輩、俺が簡単に、人の言いなりになるような人間だと思っているんですか?
心で語りかけ、俺は鼻で笑う。
あいにくですが、俺は〈蝿〉の野郎に正義の鉄槌を下すのに忙しいんですよ。
先輩、よく言っていたじゃないですか。俺のこと、『無鉄砲な悪餓鬼が、そのまま大人になったようだ』って。
ええ、その通りですよ。
俺は鉄砲玉ですからね、孤独なくらいがちょうどいいんです。
そんなことを思って、俺は口の端を上げる。
ふと、彼女の視線を感じた。
その目が、訝しげに俺を見ているように感じるのは、俺の気のせいだろう。
俺は、何ごともなかったかのように、ホットミルクのカップを両手で包んだ。初めは熱々だったそれは、ちょうど人肌くらいの温かさになっていた。
俺はそれを……、心地よいと感じてしまった。
――すべてが終わったら、考えてみてもいいですけどね……?
ローヤン先輩はそう言って、俺の肩に手を載せた。
……その手の重さを心に刻み、俺は今、生きている。
自分でも、馬鹿なことをしていると思っている。
少し前の俺だったら、絶対に考えられなかった。
これは、鬱陶しいまでのお節介。余計なお世話というやつだ。
――違うな。もっと最悪なものだ。何しろ、俺の話を聞いたところで、いいことなど、ひとつもないのだから。
きっと、いや間違いなく、ミンウェイの影響だ。
彼女が俺に、暑苦しいまでの人の情というやつを思い出させちまったから。
だから俺は、先輩を――先輩の心というか、魂というか……そんなものを、先輩の婚約者のもとに届けたいと思っちまった。
何も知らずにいるほうが、本当は幸せなのかもしれない。けれど、あの先輩が愛した女は、そういう人ではないはずだ。
彼女が知らないままでいることも、先輩が知られないままでいることも、どちらも、ふたりは望まない。
だったら、真実を俺の手元に残したままではいけないだろう。
先輩が帰るべき場所は、彼女のところなのだから――。
自分は職場の後輩であり、お悔やみを言いに、お宅に伺いたいと申し入れたら、不審に思われることなく承諾してもらえた。
初めに、花に囲まれた先輩の写真に手を合わせた。
それから俺は、「ちょっと、お話をさせてください」と彼女に声を掛けた。
荒唐無稽な俺の話を、彼女は黙って聞いていた。
互いに座っているため、膝に置かれた手の様子は机に隠れて見えないが、握りしめて震わせているであろうことは、肩の強張りから見て取れた。
顔は青白く、血の気がない。けれど、俺から目をそらすことはなく、かといって睨みつけるわけでもなく。あるがままを受け止めているかのようだった。
「……信じていただけないかもしれませんが、お話したことは、すべて真実です」
話を終え、俺は頭を下げる。
それは勿論、謝罪のためであったが、次に来る彼女の反応を、正面で待ち構えていたくない気持ちもあったかもしれない。
「信じるわ」
俺の上に落とされた声は、かすれていたが、言葉は拍子抜けするほどあっさりしていた。
驚いた俺は、思わず頭を上げる。
「だって、匿名で、法外なお見舞金が届けられたもの」
「え?」
「一生、遊んで暮らせるような、馬鹿げた額よ。『こんなことしかできなくて、申し訳ございません』と、手書きのメッセージまで添えられていたわ」
はっと思い当たり、俺は息を呑む。
俺の表情の変化が可笑しかったのか、彼女は失敗したような笑い顔になり、そっと目元にハンカチを当てた。
「綺麗な文字だったけれど、たぶん子供の字。なんとなく、そう感じたわ」
間違いない。ハオリュウだ。
俺に内緒で、いつの間に……。
言葉にできない思いに俺が唇を噛むと、彼女は頷き、静かに微笑む。
「送り主は、今の話に出てきた貴族の少年当主ね? 気味が悪かったのだけれど、納得したわ」
しっとりと落ち着いた声だった。美声とも違うが妙に心地よく、強い口調でもないのに、何故か耳に残る。
「あのローヤンが貴族令嬢に発砲しただなんて、おかしいと思っていたわ。彼が……悪人以外に銃を向けるなんてあり得ないもの。だからね、あなたの話を聞いて納得したの。――みんな、みんな……、ね」
『悪人』と口にする前に、ほんの少し間があった。
先輩は、彼女の父親を射殺している。それが出逢いだったと。最悪の出逢いだったと、先輩は語ってくれた。
だからこそ、先輩はむやみに発砲しない。それが不可逆だと知っているから――。
「ありがとう。わざわざ来てくれて――話してくれて」
「!」
彼女が示したのは、俺への謝意。
俺の胸が、ざわついた。
気づいたら、腹の中で渦巻いていた何かが、飛び出していた。
「やめてくれ! 俺が、先輩を殺したんだ! あなたの婚約者を!」
あのとき。
先輩を撃たないという選択肢もあった。敵の口車に乗ったふりをして、先輩を取り戻す方法が見つかるまで待つ、という手段だってあった。
けれど、俺は先輩を殺した。あれ以上、先輩を穢されたくなかったから。
そして、俺の一発の弾丸が、先輩と彼女の幸せな未来を撃ち砕いた――!
肩で息をする俺に、彼女は急に眉をひそめた。
「あなたは、ここに何をしに来たの? 私に罵られ、恨まれるため?」
「え?」
軽蔑を含んだ彼女の声に、俺は戸惑う。
「……許しを、請うため?」
「――!」
俺の耳で、彼女の声が木霊した。
たったひとことが反響し、何度も何度も、俺の中で繰り返される。
「責め、責められて怒りを解放し、傷つき、傷つけられることで納得して。そうして、忘れたほうが楽ね、きっと。――あなたも、……私も」
「っ!」
彼女の声が、俺を絡め取る。俺は、彼女の言葉に締め上げられたかのように、息が苦しくなる。
――『あの瞬間』、先輩と彼女のことが頭をよぎった。
一発の弾丸によって、彼岸と此岸に引き裂かれることになる、ふたりを。
申し訳ないと思った。
だから。
どんなに俺を罵ってもいい。
どんなに俺を恨んでもいい。
……俺の選択に罰を与えてほしいと思った。
俺が『罪』と認める代わりに、裁きを――救いを求めていた。
「でも、それって、何か違うんじゃないかしら?」
「…………あ、あぁ……」
頭が割れるように痛み、俺は両手で抱える。
そんな俺に、彼女は切なげに目を細めながら、優しく微笑んだ。
「あなたは覚悟の上で、ローヤンを撃ったのでしょう? それが、あなたの『正義』だったから。――だったら、胸を張って背負わなきゃ」
彼女は、すっと立ち上がり、少し離れたところにある戸棚に向かった。引き出しから何かを取り出し、俺のところに戻ってくる。
彼女が持ってきたそれを見て、俺は凍りついた。
「……結婚式の……招待状……」
「ええ」
机に置かれた封筒は、差出人の名前の書かれた裏側を向いていて、先輩と彼女の名前が仲良く並んでいた。
幸せの象徴ようなそれを、もう投函されることのなくなったそれを、彼女はゆっくりと表に返す。
「!」
俺の心臓が跳ねた。
宛名が、俺になっていた。
俺は、そんな晴れがましい席に招待されるような立場じゃない。
先輩とは、殴り合いで袂を分かった。俺は取り入った指揮官に頼み込み、部署を異動させてもらったから、それ以来、ほとんど顔すら合わせていなかった。
「緋扇さん。あなたのことは、よくローヤンが話してくれたわ。一番の後輩だと言って、とても可愛がっていた」
「……っ」
それは昔の話だ。もう何年も、先輩とは口をきいていない。
「あなたが、とてもまっすぐで、そのために折れてしまったことも聞いているわ。ローヤンはずっと気にしていて、いつもこっそり、あなたのことを見ていたのよ」
「………」
「私とローヤンの出逢いのことは知っているでしょう? だから式は、ごくごく身内だけのつもりだった。彼は私に遠慮してか、職場の人間は呼ばないと言っていた。けど、あなただけには招待状を出したいと、私に頭を下げたのよ。そんなことしなくていいのに」
「……」
招待されたところで、俺は行かなかっただろう。あれだけ派手にぶつかりあったのだ。どの面下げて参列できるというのだろう?
「『招待状を出しても、シュアンは来ないだろうけどな』――ローヤンはそう言ったわ」
「っ! ……その通りだ。なのに、なんで……」
「『これは、俺は幸せになってやるぞ、という誓いだ。大丈夫だ。あいつには、ちゃんと伝わる』ですって」
横暴だ。
無茶苦茶を言っていやがる。
先輩の自己中心的な考えなんて、俺に分かるわけねぇだろう!
「……せんっ、ぱい…………」
俺は、先輩が何度もプロポーズを断られたのを知っている。
その彼女と結婚するのだ。
――招待状から、先輩の声が聞こえてくる。
『粘り勝ちだぞ! 凄いだろう!』
これみよがしな、自慢げな声が……。
俺の心に揺さぶりをかけて……。
「……先輩……!」
見えない先輩の手が、俺の背中を叩く。
狂犬と呼ばれるようになった俺に、人を愛せよと言っている。
孤独になった俺の――幸せを、願っている……。
「ねぇ、緋扇さん。私を不幸だと思っている?」
意図の読めない声が、俺の思考を止めた。
俺は、血走ったような赤い目で、まるで睨みつけるように彼女を見つめる。
不幸だろう!
これから、だった。
やっと、やっと、これからだった。
――強くそう思うのに、胸が詰まって声が出ない。
「違うわ。私は不幸なんかじゃない」
「……ぐっ!?」
彼女の言葉に、潰れた蛙のような声が出た。
「不幸なのはローヤンよ。彼にはまだ、やりたいことがたくさんあった。でも、彼はもう、何もできない」
「……っ」
「だけど私は、これから、いくらでも幸せになれる。過ぎたことは変えられなくても、これからのことなら私はいくらでも選べる。――だから、私に不幸を名乗る資格はないの」
「……でも、俺に先輩を殺されたことは――不幸、だろう?」
「そうね。ローヤンを失ったことは幸せではないわね。何もかもが嫌になって、彼のあとを追おうとしたもの」
「……なっ!?」
さらりと明かされた事実に、思わず叫ぶ。
「病院に運ばれて、手当を受けて。そして、教えてもらったわ」
落ち着いた、穏やかな優しい声。
彼女の手が、すっと自分の腹部に下ろされた。そして、愛しみの眼差しで、告げる。
「この子がいる、って」
「……っ!」
「ローヤン、きっと悔しがっているわ。俺にも、この子を抱かせろ、って。……でも、残念。彼にはもうできない」
強気な口調でありながら、彼女の声は涙ぐむ。
「……っ、せんぱいっ、先輩……! 俺は……!」
俺の選択は、間違っていたのだろうか。
あのとき俺は、どうするべきだったのだろうか。
「緋扇さん、ここでローヤンに謝ったら駄目よ。それは逃げだわ。あなたの覚悟を放棄している」
近くにいるのに、彼女の声は、遠くから聞こえてくるような気がする。
厳しい言葉だ。
けれど、優しい響きだ。
「ローヤンの悔しさを背負って。辛さを、やるせなさを背負って。それが、あなたの『一発の弾丸の重さ』だから」
彼女の声が、俺を包む。
彼女の言葉を聞きたくて、先輩は彼女のもとに通い始めたと言っていた。その気持ちが、なんとなく分かる。
「忘れないで。――それが私の願い。ローヤンの願い。私も、ローヤンも、あなたを恨んでなんかいない……」
彼女の言葉には、力がある。
魂を揺すぶるような、強い力が――。
「――――っ! 先輩…………っ!」
「緋扇さん、辛かったね」
「――――――――!」
俺は、俺に宛てられた招待状を、大切に両手で受け取った。
「どう? 落ち着いた?」
「はい。お見苦しいところをお見せしました」
「私も、きついことを言って悪かったわ」
「いいえ。さすが、先輩が選んだ女性だと思いました」
俺は、彼女が出してくれたホットミルクを、ひと口すする。
砂糖など入っていないのだろうが、温かなミルクは妙に甘かった。こんなものを飲んだのは、子供のころ以来だろうか。死んだお袋が作ってくれた気がする。懐かしい味だ。
「カフェインは、胎児によくないと聞いたから」と、紅茶でもコーヒーでもなく、ミルクであるらしい。「お客様に出すにはどうかと思うけれど」と申し訳なさそうではあったが、母親になろうとしている彼女が、俺には頼もしく思えた。
「これから、どうするの? ローヤンの復讐をする?」
「――はい」
「後ろ向きな発想はよくないけど、それが前に進むためだったら反対しないわ。正直、〈蝿〉という男を放ったらかしにするのは危険だと思うし、心情的には……私も協力したい気もする……。でも――」
彼女は自分の腹に手を当て、そっと撫でた。
「復讐は、緋扇さんに任せるわ。私は、この子との生活で、手いっぱいになるから」
愛しみの顔で、彼女は言う。
「緋扇さん、例の貴族に伝えてほしいの。子供が生まれるとなると、どうしても先立つものが必要になるわ。だから『贅沢をする気はないけれど、いただいたお金はありがたく使わせていただきます』って。出どころが分かったから、安心して使える。正直、助かったわ」
茶目っ気を含んだ声で笑い、彼女の瞳が未来を見据える。
『これから、いくらでも幸せになれる』と言った通りに、幸せを掴み取るために、彼女は前に進む。逞しくて、美しい。
結局のところ、誰もが前に進むしかないのだろう。時という、不可逆の流れの中で生きているのだから。
分岐点に立ったとき、自分が信じた最善のひとつだけを選び取り、あとのすべては背負っていく。忘れずに抱えていくことで、次の分岐点で少しでも迷わないように、少しでも自信を持てるように。
――それが、不可逆の真理。
抱えてきた『それ以外の無限の可能性』を元に、『たったひとつ』を選び取り、やがて、ひとつきりの未来へと収束する。
願わくば、彼女と子供の未来が、幸せへと収束していきますように。
そして……。
俺は、結婚式の招待状を視界の端に捉えた。
これは、先輩からの挑戦状だ。
……先輩、俺が簡単に、人の言いなりになるような人間だと思っているんですか?
心で語りかけ、俺は鼻で笑う。
あいにくですが、俺は〈蝿〉の野郎に正義の鉄槌を下すのに忙しいんですよ。
先輩、よく言っていたじゃないですか。俺のこと、『無鉄砲な悪餓鬼が、そのまま大人になったようだ』って。
ええ、その通りですよ。
俺は鉄砲玉ですからね、孤独なくらいがちょうどいいんです。
そんなことを思って、俺は口の端を上げる。
ふと、彼女の視線を感じた。
その目が、訝しげに俺を見ているように感じるのは、俺の気のせいだろう。
俺は、何ごともなかったかのように、ホットミルクのカップを両手で包んだ。初めは熱々だったそれは、ちょうど人肌くらいの温かさになっていた。
俺はそれを……、心地よいと感じてしまった。
――すべてが終わったら、考えてみてもいいですけどね……?