残酷な描写あり
1.暗礁の日々-1
季節は、初夏へと移ろうとしていた。
本格的な暑さがやってくる前の、心地のよいひととき。早起きになった朝陽に気づいて、箪笥の中身を薄手に替える、そんな頃合いである。
湿気の少ない爽やかな風が、窓から入ってきた。そこに時折、給餌をねだる雛鳥たちの喧騒が紛れ込む。今年もまた、屋敷の片隅にある倉庫に燕がやって来たのだ。
可愛らしく、微笑ましい風物詩である。しかし、雛たちの必死な形相を思い浮かべ、リュイセンは眉間に皺を寄せた。
あんな雛鳥ですら、自分にできることを懸命に為している。なのに自分は、何もできないでいる……。
気ばかりが急いていた。
リュイセンは朝の鍛錬を終えると、ルイフォンの仕事部屋に向かった。知らずのうちに大股になり、あっという間に到着する。いつもの通り、一応はノックをするものの、どうせ返事はないので無言で扉を開ける。
廊下から、たったの壁一枚。それだけの差で、冷気に満ちた別世界となった。
相も変わらず、四季も昼夜もない張り詰めたような空間に、空調の送風音と、カタカタというキーボードを叩く音だけが響いている。
「ルイフォン、俺に手伝えることはないか?」
このところ毎日、リュイセンはこの部屋を訪れては、同じことを問うていた。それに対する、ルイフォンの答えも一緒だ。
「あれば、こっちから言いに行っている」
振り返る気配もない猫背の上で、一本に編んだ髪と、その先に光る金の鈴がおとなしくじっとしていた。そっけないテノールは不機嫌だからではなく、頭が異次元に行っているからである。
「……すまんな」
また邪魔をしてしまっただけに過ぎないことを確認し、リュイセンは声を落とす。半袖から覗く逞しい上腕は、今日もまた宝の持ち腐れのようだった。
半月ほど前――。
斑目タオロンの協力で、〈蝿〉の潜伏先が判明した。
郊外にある王族所轄の庭園で、一般人は立入禁止の区域だという。
「隠れ家が見つかったのに、何故、突入しないんですか! 今こそ、総力をかけるべきです!」
当然のように、リュイセンは一族あげての総攻撃を仕掛けるつもりだった。
件の庭園は、王族の管理下の施設とはいえ、政治的にも文化的にも重要なものではない。
何代か前の王が療養のために作らせたもので、散策を楽しめるような広い菖蒲園の奥に、こぢんまりとした館がある。良くも悪くもそれだけであり、その王の死後はずっと放置されていた。
いわば、忘れられた別荘だ。故に、それほど警備が厳しいとは、リュイセンには思えなかったのだ。
「王族所轄地は、まずいって」
血気はやる兄貴分をルイフォンがたしなめた。
執務室での、いつもの会議の席である。
「警備をしている奴らは、国の看板を背負った『近衛隊』だ。斑目の別荘に潜入したときみたいに倒していったら、鷹刀は国を敵に回すことになるんだぜ?」
王族の所有物であるために、腐った警察隊ではなく、規律の厳しい近衛隊が鉄壁の守りを固めている。たとえ価値のない施設でも、凶賊に押し入られては面子にかけて黙っているわけにはいかないだろう。
手を出せば、王族は必ずなんらかの報復をしてくる。そして、その手段は武力であるとは限らない。何しろ、相手は国なのだ。
「……くっ」
リュイセンは唇を噛んだ。
鷹刀一族は、凶賊が相手なら容赦はしないが、一般人や法には逆らわない。
少し前のリュイセンなら、それでも『凶賊である鷹刀は、もとより国から疎まれている。ここで衝突を避けても同じだ』と言っただろう。
だが今は、一族の最終的な目的が『緩やかな解散』だと知っている。一族の者たちが、できるだけ穏便に外の世界に溶け込むためには、反社会的行為は悪手であると、彼もまた理解していた。
「鷹刀の仕業だと分からないようして、急襲するしかありません!」
我ながら情けない意見だと思いつつ、リュイセンは食い下がった。彼だって、卑怯な真似は好きではない。だが、それを曲げてでも〈蝿〉は捕らえるべきなのだ。
「強硬手段より、奴を誘い出す罠を仕掛けるほうが現実的だろう」
熱く訴えるリュイセンに、そんなことも思いつかないのか、と言わんばかりの氷の嘲笑が向けられた。リュイセンの父にして、次期総帥エルファンである。
はっとするものの、すぐに同意するのも癪で、リュイセンは押し黙った。だが、エルファンのもっともな提案は、歯切れの悪いミンウェイの声に却下された。
「すみません。それは難しそうです」
「どういうことだ?」
エルファンが眉根を寄せると、申し訳なさそうにミンウェイが説明する。
「情報屋トンツァイの報告によると、近衛隊員たちは『国宝級の科学者が、凶賊に狙われているから保護するように』と命じられているそうです。そのため、〈蝿〉が外を出歩くことは、まずあり得ないと思われます」
事実、現場に偵察に行った一族の者たちが二十四時間体制で監視をしていても、〈蝿〉の姿は確認できなかったという。
一方、〈蝿〉の部下となった斑目タオロンならば、何度も目撃されている。〈蝿〉が金で雇った私兵と思しき者たちと共に、庭園を出入りしているそうだ。故に、〈蝿〉がそこに潜伏していること自体は疑わなくてよいだろう。
「凶賊? 俺たちを警戒しているのか?」
リュイセンが険しい声を上げると、すかさずルイフォンが答えた。
「いや、鷹刀もそうかもしれないが、どちらかというと斑目だ」
「斑目?」
〈蝿〉は、斑目一族の食客だったはずだ。重宝されていると聞いていたのに、どういうことだと、リュイセンは訝しむ。
「〈蝿〉を贔屓にして、いろいろと融通を利かせていた斑目の総帥が、俺の『経済制裁』のタレコミで逮捕されたのは知っているだろ? で、次に総帥になった奴が『〈蝿〉こそが、一族を窮地に陥れた諸悪の根源だ』と言って、血祭りに上げようと躍起になって探しているらしい」
「なるほど」
「それより……、〈蝿〉が『国宝級の科学者』と呼ばれている理由は、当然、『デヴァイン・シンフォニア計画』のためだろう」
ルイフォンの目が、すっと細まった。〈七つの大罪〉や『デヴァイン・シンフォニア計画』が関わると、彼の雰囲気は急に鋭くなる。
「そもそも〈蝿〉は、『デヴァイン・シンフォニア計画』に必要な技術のために作られた存在だ。潜伏先の庭園で、なんらかの研究をさせられていると考えられる。――奴がちっとも出てこないのなら、監禁されているのかもしれない」
続けて発せられた不穏な発言に、場の空気が揺れる。しかし、ルイフォンはふっと口元を緩めた。
「自らの意思による引き籠もりか、他者による監禁か。そこは重要じゃない。どちらにしても、〈蝿〉は庭園から出てこない。結局のところ、そのほうが『双方にとって』都合がいいからだ――」
ルイフォンは言葉を切り、じっと皆を見渡し……、ゆっくりと続ける。
「〈蝿〉と――、『摂政』の両方にとって、な」
リュイセンはごくりと唾を呑み、小さく繰り返した。
「摂政……、か」
――そう。
〈蝿〉を保護していたのは、『摂政』だった……。
女王の実兄であり、この国の事実上の統治者である。
「てっきり、『女王の婚約者』が黒幕だと思ったんだがな……」
〈蝿〉の潜伏先が王族の所轄地と聞いたとき、リュイセンは当然、女王の婚約者の所有地だと思っていた。現在の〈七つの大罪〉を牛耳っているのは、彼だと考えていたからだ。
婚約者は、四年前まで〈七つの大罪〉を一任されていた男だ。
女王の従兄で、すなわち先王の甥。先王の信頼が最も篤い人物といわれていた。しかし、恩を仇で返すかのように先王を殺害し、内々に幽閉された。
端的にいって、反逆者だ。それにも関わらず、女王の婚約者として表舞台に返り咲いたのだ。如何にも胡散臭い。
――そう思っていたのだが、違った。〈蝿〉の背後にいたのは『摂政』だった。
「わけが分からん。――それより、俺たちが国を相手取るような羽目になったことのほうが、もっと分からんけどな……」
リュイセンのぼやきに、ルイフォンが口角を上げた。
「〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関だ。そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、女王の婚約が開始条件になっている。王族が関わってくるのは必然だろ?」
そう言って、猫の目を光らせ、挑戦的に嗤う。
まったく、この弟分には敵わないと、リュイセンは思う。
困難なときほど、不敵な顔をする。
魂が、強い。
「今はまだ、もう少し調査が必要だな」
一番奥の上座から、魅惑の低音が響いた。
組んでいた足をゆっくりと解き、イーレオが上体を起こす。窓からの光を反射しながら、綺麗に染めた黒髪がさらりと肩を流れた。その気配だけで、皆の気が引き締まる。
今までひとこともなく、イーレオは成り行きを見守っていた。
会議で発言するのは、主にリュイセンとルイフォン。時々、エルファンが厳しい指摘を入れる。
最近そんなことが多いと、リュイセンは気づいていた。――イーレオは、リュイセンたちに一族を委ねようとしているのだ、と。
「ミンウェイ。引き続き、情報屋との連絡を密に頼む」
「はい」
イーレオの指示に、ミンウェイが草の香を漂わせる。
「エルファンは、現場の者たちに直接、話を聞いてこい。状況の把握と同時に、彼らを労ってやれ」
「承知いたしました」
低い声と共に、エルファンが深々と頷いた。
「親父、俺はセキュリティを探る」
すかさずルイフォンがそう言うと、イーレオが「頼む」と応じる。
解散の空気に、皆が立ち上がろうとしていたときだった。
「祖父上。俺も、父上に同行しては駄目ですか?」
リュイセンは手を挙げた。たわいのないことなのに、指先がわずかに緊張した。
刹那、イーレオは驚いたように睫毛を跳ね上げ、しかし、すぐに破顔した。
「――ああ、頼むぞ」
エルファンとリュイセンが足を運んだことで、現場に詰めていた者たちの士気は上がった。だが、収穫は何もなかった。
それから半月。
いまだ、状況は好転しない……。
「リュイセン、すまんな」
かすれたテノールが聞こえ、リュイセンは現実に引き戻された。
ルイフォンは相変わらずモニタ画面を凝視していた。その姿勢のまま、ぽつりぽつりと呟く。
「どうしても、庭園の門を抜ける方法が見つからない。近衛隊の守りが堅すぎる」
弟分の猫背が、心なしか更に丸くなる。
「外に出てきた〈蝿〉の私兵を、買収か脅迫で協力させることも考えたが、失敗した場合、〈蝿〉にこちらの動きを知らせる羽目になる。〈蝿〉はまだ、俺たちに居場所を突き止められたことに気づいていない。無警戒な状態だ。それを活かすべきなんだ……」
「お前はよくやっているよ……」
リュイセンは、溜め息混じりの声を落とした。
あの会議のあとすぐ、ルイフォンは館の監視カメラを支配下に置くことに成功した。
予想通り、〈蝿〉はそこで起居していた。
館の内部には〈蝿〉本人に、斑目タオロンと娘のファンルゥ。それから、〈蝿〉に雇われた私兵たちだけがいた。
近衛隊は館には近づかない。どうやら、〈蝿〉と摂政との間に協定があるらしく、きっちりと住み分けているらしい。彼らは、『国宝級の科学者』を守るために、庭園の外部からの侵入者を警戒している。近くに不審な者がいないかは勿論、外から帰ってきた〈蝿〉の私兵に怪しい者が紛れていないか、目を光らせている。
その一方で、私兵たちが、如何にも胡散臭そうな風体をしていても、咎めることはない。内心では眉をひそめているのかもしれないが、〈蝿〉に雇われた者だと確認が取れれば、表向きはお構いなしだ。おそらく、〈蝿〉が館に籠もって技術を提供するのと引き換えに、摂政は私兵には不干渉を約束したのだろう。
摂政にそれほどの譲歩をさせるほどの技術とは何か。
気になったが、あいにく監視カメラで確認できる範囲に研究室はなかった。要するに、不用意に映してはいけないものがあるのだろう。
「タオロンの協力が得られればな……」
うなだれるルイフォンに、リュイセンは何も言うことができない。
タオロンには常に監視役の目が光っており、少しでも〈蝿〉に逆らうような素振りを見せれば、人質であるファンルゥが殺される。
ルイフォンたちと接触したときも、実は監視されていたのだ。
シャンリーが『発信機を持ち帰れ』と言ったとき、タオロンは『俺は見張られている』と耳打ちした。そして、斬られたふりをして地面に膝を付き、さっと発信機を拾ったのだ。
だから、タオロンとのやり取りはそれきりだ。連絡を取ることはできない。
「言っても仕方ないんだけどさ。タオロンに監視が付いてなけりゃ、新入りの私兵のふりをするとかで、あいつの手引きで堂々と入れるんだよな……」
ルイフォンらしくもない弱音だった。
根の詰め過ぎだった。打開策を見つけられず、心が参っている。
初めは『〈蝿〉の潜伏先を教えてくれただけで、タオロンには御の字だ』と、ルイフォンは言っていた。『あいつは危険を犯して協力してくれた。なんとかして、あいつとファンルゥを自由にしてやりたい』と――。
リュイセンはふと、ルイフォンの猫背から漂う雰囲気に不安を覚える。
「お前……、ちゃんと寝ているか?」
今にもふらりと倒れそうな、危うげな気配がした。
「毎晩、メイシアが添い寝してくれているぞ」
「なっ……」
背を向けたまま、自慢げに言うルイフォンに、リュイセンは一瞬、呆気にとられ、次にむっと片眉を上げた。そして最後に、馬鹿馬鹿しくなって踵を返そうとした……が、やはり気になって、ルイフォンを強引にモニタから引きはがす。
「な、何するんだよ!?」
OAグラスの下の、血の気の失せた顔。青白さは、決してモニタの光の反射などではない。その証拠に、目の下にはくっきりと濃い隈ができていた。
「少し、休め」
リュイセンは、厳しい声で言い放つ。
ベッドに引きずっていくべきか。無理にでも止めてやらないと、この弟分はいつまでも作業を続けるに違いない。
しかし、ルイフォンは冷たい目で睨みつけてきた。
「リュイセン、今が正念場だ。〈蝿〉が捕まらなきゃ、ミンウェイが不安だろう。それに――」
「それに?」
「〈蝿〉が、メイシアを狙っている。それを思うと、横になったところで眠れるわけがない」
憎悪すら含んだ鋭い声が、ここにはいない敵を斬りつける。
「……」
タオロンとの接触は、朗報に間違いなかった。しかし、そもそも何故、彼が出てきたのかといえば、〈蝿〉の命令でメイシアを捕らえに来たのだ。
「メイシアに、何があるっていうんだ……」
切なげに漏らされたルイフォンの呟きに、リュイセンは掛ける言葉を持っていなかった。
凶賊のルイフォンと、貴族のメイシア。
出逢うはずのなかったふたりは、『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、仕組まれて巡り逢った。
だから、ふたりを結びつけた不吉な運命の輪を断ち切らなければ、彼らに安寧は訪れない――。
「心配かけて、すまんな」
兄貴分が何も言えずにいるのを見て、さすがのルイフォンも語調を和らげ、軽く詫びた。
「いや……。……無茶はするなよ」
「ああ」
そして弟分は、気分を変えるかのように癖のある笑顔を浮かべる。
「それよりさ、返事は貰ったのか?」
「は?」
あまりに唐突な質問に、リュイセンはなんのことだか分からない。
「ミンウェイにプロポーズしたんだろ?」
「なっ? なんで、お前がそれを知っているんだ!?」
「ああ、やっぱり、そうだったんだな」
そう言われて初めて、リュイセンは鎌をかけられたことに気づく。
「ど、どうして、お前、それを……!」
「んー? ミンウェイの様子から、なんとなく。それにお前、緋扇シュアンとやりあっていたし」
普段、仕事部屋に引き籠もってばかりのルイフォンなのに、何故そんなに都合よく、シュアンとひと悶着あった、あの場を目撃していたのか……。
リュイセンは頭を抱える。
――リュイセンにとっては不幸なことに、それは本当にただの偶然だった。あまりに外に出ないルイフォンを心配したメイシアが、半ば強引に彼を庭に連れ出したときの出来ごとだったのだ。
「……まだ、返事はない」
リュイセンはそれだけ言い残し、足早にルイフォンの仕事部屋を出ていった。
本格的な暑さがやってくる前の、心地のよいひととき。早起きになった朝陽に気づいて、箪笥の中身を薄手に替える、そんな頃合いである。
湿気の少ない爽やかな風が、窓から入ってきた。そこに時折、給餌をねだる雛鳥たちの喧騒が紛れ込む。今年もまた、屋敷の片隅にある倉庫に燕がやって来たのだ。
可愛らしく、微笑ましい風物詩である。しかし、雛たちの必死な形相を思い浮かべ、リュイセンは眉間に皺を寄せた。
あんな雛鳥ですら、自分にできることを懸命に為している。なのに自分は、何もできないでいる……。
気ばかりが急いていた。
リュイセンは朝の鍛錬を終えると、ルイフォンの仕事部屋に向かった。知らずのうちに大股になり、あっという間に到着する。いつもの通り、一応はノックをするものの、どうせ返事はないので無言で扉を開ける。
廊下から、たったの壁一枚。それだけの差で、冷気に満ちた別世界となった。
相も変わらず、四季も昼夜もない張り詰めたような空間に、空調の送風音と、カタカタというキーボードを叩く音だけが響いている。
「ルイフォン、俺に手伝えることはないか?」
このところ毎日、リュイセンはこの部屋を訪れては、同じことを問うていた。それに対する、ルイフォンの答えも一緒だ。
「あれば、こっちから言いに行っている」
振り返る気配もない猫背の上で、一本に編んだ髪と、その先に光る金の鈴がおとなしくじっとしていた。そっけないテノールは不機嫌だからではなく、頭が異次元に行っているからである。
「……すまんな」
また邪魔をしてしまっただけに過ぎないことを確認し、リュイセンは声を落とす。半袖から覗く逞しい上腕は、今日もまた宝の持ち腐れのようだった。
半月ほど前――。
斑目タオロンの協力で、〈蝿〉の潜伏先が判明した。
郊外にある王族所轄の庭園で、一般人は立入禁止の区域だという。
「隠れ家が見つかったのに、何故、突入しないんですか! 今こそ、総力をかけるべきです!」
当然のように、リュイセンは一族あげての総攻撃を仕掛けるつもりだった。
件の庭園は、王族の管理下の施設とはいえ、政治的にも文化的にも重要なものではない。
何代か前の王が療養のために作らせたもので、散策を楽しめるような広い菖蒲園の奥に、こぢんまりとした館がある。良くも悪くもそれだけであり、その王の死後はずっと放置されていた。
いわば、忘れられた別荘だ。故に、それほど警備が厳しいとは、リュイセンには思えなかったのだ。
「王族所轄地は、まずいって」
血気はやる兄貴分をルイフォンがたしなめた。
執務室での、いつもの会議の席である。
「警備をしている奴らは、国の看板を背負った『近衛隊』だ。斑目の別荘に潜入したときみたいに倒していったら、鷹刀は国を敵に回すことになるんだぜ?」
王族の所有物であるために、腐った警察隊ではなく、規律の厳しい近衛隊が鉄壁の守りを固めている。たとえ価値のない施設でも、凶賊に押し入られては面子にかけて黙っているわけにはいかないだろう。
手を出せば、王族は必ずなんらかの報復をしてくる。そして、その手段は武力であるとは限らない。何しろ、相手は国なのだ。
「……くっ」
リュイセンは唇を噛んだ。
鷹刀一族は、凶賊が相手なら容赦はしないが、一般人や法には逆らわない。
少し前のリュイセンなら、それでも『凶賊である鷹刀は、もとより国から疎まれている。ここで衝突を避けても同じだ』と言っただろう。
だが今は、一族の最終的な目的が『緩やかな解散』だと知っている。一族の者たちが、できるだけ穏便に外の世界に溶け込むためには、反社会的行為は悪手であると、彼もまた理解していた。
「鷹刀の仕業だと分からないようして、急襲するしかありません!」
我ながら情けない意見だと思いつつ、リュイセンは食い下がった。彼だって、卑怯な真似は好きではない。だが、それを曲げてでも〈蝿〉は捕らえるべきなのだ。
「強硬手段より、奴を誘い出す罠を仕掛けるほうが現実的だろう」
熱く訴えるリュイセンに、そんなことも思いつかないのか、と言わんばかりの氷の嘲笑が向けられた。リュイセンの父にして、次期総帥エルファンである。
はっとするものの、すぐに同意するのも癪で、リュイセンは押し黙った。だが、エルファンのもっともな提案は、歯切れの悪いミンウェイの声に却下された。
「すみません。それは難しそうです」
「どういうことだ?」
エルファンが眉根を寄せると、申し訳なさそうにミンウェイが説明する。
「情報屋トンツァイの報告によると、近衛隊員たちは『国宝級の科学者が、凶賊に狙われているから保護するように』と命じられているそうです。そのため、〈蝿〉が外を出歩くことは、まずあり得ないと思われます」
事実、現場に偵察に行った一族の者たちが二十四時間体制で監視をしていても、〈蝿〉の姿は確認できなかったという。
一方、〈蝿〉の部下となった斑目タオロンならば、何度も目撃されている。〈蝿〉が金で雇った私兵と思しき者たちと共に、庭園を出入りしているそうだ。故に、〈蝿〉がそこに潜伏していること自体は疑わなくてよいだろう。
「凶賊? 俺たちを警戒しているのか?」
リュイセンが険しい声を上げると、すかさずルイフォンが答えた。
「いや、鷹刀もそうかもしれないが、どちらかというと斑目だ」
「斑目?」
〈蝿〉は、斑目一族の食客だったはずだ。重宝されていると聞いていたのに、どういうことだと、リュイセンは訝しむ。
「〈蝿〉を贔屓にして、いろいろと融通を利かせていた斑目の総帥が、俺の『経済制裁』のタレコミで逮捕されたのは知っているだろ? で、次に総帥になった奴が『〈蝿〉こそが、一族を窮地に陥れた諸悪の根源だ』と言って、血祭りに上げようと躍起になって探しているらしい」
「なるほど」
「それより……、〈蝿〉が『国宝級の科学者』と呼ばれている理由は、当然、『デヴァイン・シンフォニア計画』のためだろう」
ルイフォンの目が、すっと細まった。〈七つの大罪〉や『デヴァイン・シンフォニア計画』が関わると、彼の雰囲気は急に鋭くなる。
「そもそも〈蝿〉は、『デヴァイン・シンフォニア計画』に必要な技術のために作られた存在だ。潜伏先の庭園で、なんらかの研究をさせられていると考えられる。――奴がちっとも出てこないのなら、監禁されているのかもしれない」
続けて発せられた不穏な発言に、場の空気が揺れる。しかし、ルイフォンはふっと口元を緩めた。
「自らの意思による引き籠もりか、他者による監禁か。そこは重要じゃない。どちらにしても、〈蝿〉は庭園から出てこない。結局のところ、そのほうが『双方にとって』都合がいいからだ――」
ルイフォンは言葉を切り、じっと皆を見渡し……、ゆっくりと続ける。
「〈蝿〉と――、『摂政』の両方にとって、な」
リュイセンはごくりと唾を呑み、小さく繰り返した。
「摂政……、か」
――そう。
〈蝿〉を保護していたのは、『摂政』だった……。
女王の実兄であり、この国の事実上の統治者である。
「てっきり、『女王の婚約者』が黒幕だと思ったんだがな……」
〈蝿〉の潜伏先が王族の所轄地と聞いたとき、リュイセンは当然、女王の婚約者の所有地だと思っていた。現在の〈七つの大罪〉を牛耳っているのは、彼だと考えていたからだ。
婚約者は、四年前まで〈七つの大罪〉を一任されていた男だ。
女王の従兄で、すなわち先王の甥。先王の信頼が最も篤い人物といわれていた。しかし、恩を仇で返すかのように先王を殺害し、内々に幽閉された。
端的にいって、反逆者だ。それにも関わらず、女王の婚約者として表舞台に返り咲いたのだ。如何にも胡散臭い。
――そう思っていたのだが、違った。〈蝿〉の背後にいたのは『摂政』だった。
「わけが分からん。――それより、俺たちが国を相手取るような羽目になったことのほうが、もっと分からんけどな……」
リュイセンのぼやきに、ルイフォンが口角を上げた。
「〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関だ。そして、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、女王の婚約が開始条件になっている。王族が関わってくるのは必然だろ?」
そう言って、猫の目を光らせ、挑戦的に嗤う。
まったく、この弟分には敵わないと、リュイセンは思う。
困難なときほど、不敵な顔をする。
魂が、強い。
「今はまだ、もう少し調査が必要だな」
一番奥の上座から、魅惑の低音が響いた。
組んでいた足をゆっくりと解き、イーレオが上体を起こす。窓からの光を反射しながら、綺麗に染めた黒髪がさらりと肩を流れた。その気配だけで、皆の気が引き締まる。
今までひとこともなく、イーレオは成り行きを見守っていた。
会議で発言するのは、主にリュイセンとルイフォン。時々、エルファンが厳しい指摘を入れる。
最近そんなことが多いと、リュイセンは気づいていた。――イーレオは、リュイセンたちに一族を委ねようとしているのだ、と。
「ミンウェイ。引き続き、情報屋との連絡を密に頼む」
「はい」
イーレオの指示に、ミンウェイが草の香を漂わせる。
「エルファンは、現場の者たちに直接、話を聞いてこい。状況の把握と同時に、彼らを労ってやれ」
「承知いたしました」
低い声と共に、エルファンが深々と頷いた。
「親父、俺はセキュリティを探る」
すかさずルイフォンがそう言うと、イーレオが「頼む」と応じる。
解散の空気に、皆が立ち上がろうとしていたときだった。
「祖父上。俺も、父上に同行しては駄目ですか?」
リュイセンは手を挙げた。たわいのないことなのに、指先がわずかに緊張した。
刹那、イーレオは驚いたように睫毛を跳ね上げ、しかし、すぐに破顔した。
「――ああ、頼むぞ」
エルファンとリュイセンが足を運んだことで、現場に詰めていた者たちの士気は上がった。だが、収穫は何もなかった。
それから半月。
いまだ、状況は好転しない……。
「リュイセン、すまんな」
かすれたテノールが聞こえ、リュイセンは現実に引き戻された。
ルイフォンは相変わらずモニタ画面を凝視していた。その姿勢のまま、ぽつりぽつりと呟く。
「どうしても、庭園の門を抜ける方法が見つからない。近衛隊の守りが堅すぎる」
弟分の猫背が、心なしか更に丸くなる。
「外に出てきた〈蝿〉の私兵を、買収か脅迫で協力させることも考えたが、失敗した場合、〈蝿〉にこちらの動きを知らせる羽目になる。〈蝿〉はまだ、俺たちに居場所を突き止められたことに気づいていない。無警戒な状態だ。それを活かすべきなんだ……」
「お前はよくやっているよ……」
リュイセンは、溜め息混じりの声を落とした。
あの会議のあとすぐ、ルイフォンは館の監視カメラを支配下に置くことに成功した。
予想通り、〈蝿〉はそこで起居していた。
館の内部には〈蝿〉本人に、斑目タオロンと娘のファンルゥ。それから、〈蝿〉に雇われた私兵たちだけがいた。
近衛隊は館には近づかない。どうやら、〈蝿〉と摂政との間に協定があるらしく、きっちりと住み分けているらしい。彼らは、『国宝級の科学者』を守るために、庭園の外部からの侵入者を警戒している。近くに不審な者がいないかは勿論、外から帰ってきた〈蝿〉の私兵に怪しい者が紛れていないか、目を光らせている。
その一方で、私兵たちが、如何にも胡散臭そうな風体をしていても、咎めることはない。内心では眉をひそめているのかもしれないが、〈蝿〉に雇われた者だと確認が取れれば、表向きはお構いなしだ。おそらく、〈蝿〉が館に籠もって技術を提供するのと引き換えに、摂政は私兵には不干渉を約束したのだろう。
摂政にそれほどの譲歩をさせるほどの技術とは何か。
気になったが、あいにく監視カメラで確認できる範囲に研究室はなかった。要するに、不用意に映してはいけないものがあるのだろう。
「タオロンの協力が得られればな……」
うなだれるルイフォンに、リュイセンは何も言うことができない。
タオロンには常に監視役の目が光っており、少しでも〈蝿〉に逆らうような素振りを見せれば、人質であるファンルゥが殺される。
ルイフォンたちと接触したときも、実は監視されていたのだ。
シャンリーが『発信機を持ち帰れ』と言ったとき、タオロンは『俺は見張られている』と耳打ちした。そして、斬られたふりをして地面に膝を付き、さっと発信機を拾ったのだ。
だから、タオロンとのやり取りはそれきりだ。連絡を取ることはできない。
「言っても仕方ないんだけどさ。タオロンに監視が付いてなけりゃ、新入りの私兵のふりをするとかで、あいつの手引きで堂々と入れるんだよな……」
ルイフォンらしくもない弱音だった。
根の詰め過ぎだった。打開策を見つけられず、心が参っている。
初めは『〈蝿〉の潜伏先を教えてくれただけで、タオロンには御の字だ』と、ルイフォンは言っていた。『あいつは危険を犯して協力してくれた。なんとかして、あいつとファンルゥを自由にしてやりたい』と――。
リュイセンはふと、ルイフォンの猫背から漂う雰囲気に不安を覚える。
「お前……、ちゃんと寝ているか?」
今にもふらりと倒れそうな、危うげな気配がした。
「毎晩、メイシアが添い寝してくれているぞ」
「なっ……」
背を向けたまま、自慢げに言うルイフォンに、リュイセンは一瞬、呆気にとられ、次にむっと片眉を上げた。そして最後に、馬鹿馬鹿しくなって踵を返そうとした……が、やはり気になって、ルイフォンを強引にモニタから引きはがす。
「な、何するんだよ!?」
OAグラスの下の、血の気の失せた顔。青白さは、決してモニタの光の反射などではない。その証拠に、目の下にはくっきりと濃い隈ができていた。
「少し、休め」
リュイセンは、厳しい声で言い放つ。
ベッドに引きずっていくべきか。無理にでも止めてやらないと、この弟分はいつまでも作業を続けるに違いない。
しかし、ルイフォンは冷たい目で睨みつけてきた。
「リュイセン、今が正念場だ。〈蝿〉が捕まらなきゃ、ミンウェイが不安だろう。それに――」
「それに?」
「〈蝿〉が、メイシアを狙っている。それを思うと、横になったところで眠れるわけがない」
憎悪すら含んだ鋭い声が、ここにはいない敵を斬りつける。
「……」
タオロンとの接触は、朗報に間違いなかった。しかし、そもそも何故、彼が出てきたのかといえば、〈蝿〉の命令でメイシアを捕らえに来たのだ。
「メイシアに、何があるっていうんだ……」
切なげに漏らされたルイフォンの呟きに、リュイセンは掛ける言葉を持っていなかった。
凶賊のルイフォンと、貴族のメイシア。
出逢うはずのなかったふたりは、『デヴァイン・シンフォニア計画』のために、仕組まれて巡り逢った。
だから、ふたりを結びつけた不吉な運命の輪を断ち切らなければ、彼らに安寧は訪れない――。
「心配かけて、すまんな」
兄貴分が何も言えずにいるのを見て、さすがのルイフォンも語調を和らげ、軽く詫びた。
「いや……。……無茶はするなよ」
「ああ」
そして弟分は、気分を変えるかのように癖のある笑顔を浮かべる。
「それよりさ、返事は貰ったのか?」
「は?」
あまりに唐突な質問に、リュイセンはなんのことだか分からない。
「ミンウェイにプロポーズしたんだろ?」
「なっ? なんで、お前がそれを知っているんだ!?」
「ああ、やっぱり、そうだったんだな」
そう言われて初めて、リュイセンは鎌をかけられたことに気づく。
「ど、どうして、お前、それを……!」
「んー? ミンウェイの様子から、なんとなく。それにお前、緋扇シュアンとやりあっていたし」
普段、仕事部屋に引き籠もってばかりのルイフォンなのに、何故そんなに都合よく、シュアンとひと悶着あった、あの場を目撃していたのか……。
リュイセンは頭を抱える。
――リュイセンにとっては不幸なことに、それは本当にただの偶然だった。あまりに外に出ないルイフォンを心配したメイシアが、半ば強引に彼を庭に連れ出したときの出来ごとだったのだ。
「……まだ、返事はない」
リュイセンはそれだけ言い残し、足早にルイフォンの仕事部屋を出ていった。