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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
1.暗礁の日々-3
 初めての求婚者は、ミンウェイに四つ葉のクローバーを贈った。

 花言葉の通り、彼は彼女の『幸運』を願い、『私のものになって』という愛の告白をし、一方的に将来を『約束』してくれた。

 四つ葉のクローバーに載せられた彼の想いは、ことごとく叶わなかった。

 ミンウェイが、彼を殺したからだ。

 それが、父に命じられた仕事だったからだ。

 裏切られた花言葉たちは、最後の花言葉に意味を変える。

 そう……。

 ――『復讐』に。

「私は、決して幸せになってはならない……」

 そして彼女は、自分自身にいましめの呪縛を掛けた――。





 料理長への連絡事項があったため、ミンウェイは夜の厨房へと足を運んだ。

 暗い食堂を抜ける途中で、奥から漏れ出る橙色の明かりと共に、楽しそうな気配を感じる。今の時間、料理長は明日の仕込みをしているのだが、今日はメイシアもいるようだ。

 彼女は暇を見つけては、料理長に教えを請うているらしい。教え甲斐のある生徒だと、いつだったか料理長が自慢げに話していた。

 飲み込みもよいが、何よりも嬉しそうに料理をするのがよいという。『ご馳走する相手のことを考えているのですねぇ』と、小さな目が頬肉に埋もれそうなほどに、福相をほころばせていた。

「ごめんなさい、料理長。今、いいかしら?」

 ミンウェイは戸口で声を掛けた。中の光は、彼女には少し眩しい。

「あ、ミンウェイさん」

 エプロン姿のメイシアが、ぺこりと頭を下げる。そして彼女はさっと料理長のそばへ寄り、彼が掻き回していた鍋の番を代わった。どうやら、焦がさないように煮詰めるものであるらしい。

 料理長は、にこにこしながらメイシアに礼を言い、こちらにやってくる。

「メイシア、本当にいろいろできるようになったのねぇ」

「ええ。彼女が手伝ってくれるので、助かっています」

 ミンウェイの感嘆の声に、料理長は立派な太鼓腹を揺らしながら、全身で大きく頷いた。

 料理長に連絡事項を伝えながら、ミンウェイは数日前に、ルイフォンが倒れたときのことを思い出す。

 メイシアは、ルイフォンの眠りが浅いことにずっと前から気がついていて、ミンウェイのところに相談に来ていた。ミンウェイ自身、彼の顔色が悪いのは知っていたから、医者として睡眠薬を処方しようかと悩んでいた。

 けれど、薬は所詮、一時しのぎ。ルイフォンの不眠は不安からくるものだから、根本的な解決にはならない。

 だから、案の定といった具合いに彼が倒れても、薬は出さなかった。その代わり、メイシアに付き添いを頼んだ。

 あの日、ふたりがどんな話をしたのかは知らない。知る必要もない。重要なのは、ルイフォンがすっかり元気になったということだけだ。気を張っている感じはあるものの、今の彼はとても安定している。そして、メイシアもまた、生き生きとしている。

 ふたりの関係は理想だと、ミンウェイは思う。

 まさに、相思相愛。

 時々、目のやり場に困るが、微笑ましい。……ほんの少しだけ、心が苦しくなることがあるけれど――。

 伝達が終わり、料理長が鍋に戻ると、メイシアは自分の作業を再開した。葱を細かく刻んでいる。危なっかしかった包丁さばきも、見違えるようだ。

 彼女のそばには、一人分の食器が用意されていた。

「メイシア、それ、ルイフォンへの夜食?」

 ミンウェイが尋ねると、メイシアは少し照れ、しかし満面の笑顔を浮かべた。

「はい。お手伝いをさせていただきながら、お夜食の作り方も教わっているんです」

 簡単に摂れ、かつ腹持ちがする雲呑ワンタンスープだそうで、葱は仕上げらしい。

 だが、食べるほうは手軽でも、作るほうはかなりの手間だろう。見た目には分からないが、幾つもの食欲をそそる香りが複雑に絡み合っている。つまり、それだけの材料が使われているわけだ。

「作業中のルイフォンに、この味の奥深さが分かるのかしら……」

 ミンウェイは、思わずそう呟いてしまう。

「でも、美味しかったときは、ちゃんと美味しかったと言ってくれるんですよ」

「それって……、苦労して作ってあげても、美味しくないと思ったら……?」

「ルイフォンは、お世辞は言いません」

「……」

「それでいいんです。彼の好みが分かりますし、それに……。――褒めれたとき……、そのっ、凄く……嬉しいから」

 そう言って、メイシアは頬を染める。

 どうやら、野暮だったようだ。溜め息混じりに「まったく、あなたたちは……」と、苦笑するしかない。

 そのとき、机に置かれていたメイシアの携帯端末が、メッセージの着信を伝えた。彼女の連絡先は限られた者しか知らない。珍しいことだ。

 メイシア自身もそう思ったのだろう。わずかに眉根を寄せながら表示を確かめた。

「スーリンさん!」

「えっ!?」

 ルイフォンを巡る恋敵であったはずの、少女娼婦スーリン。仲良くなったとは聞いていたが、こんなふうにやり取りまでしていたとは驚きだ。

「今、読んでいいですよ」と料理長から優しい声が掛かり、メイシアは嬉しそうにメッセージを開き……顔色を変えた。



 ――メイシア、今回はあまりいい話じゃないの。ごめんね。

 女王陛下のご婚約が発表されて、貴族シャトーアはおおまかに、ふたつの派閥に分かれたのは知っている?

 今まで政務を執られてきた摂政を支持する派閥と、これから先、女王陛下と政治を行われることになる婚約者の派閥ね。

 さっきお見送りした貴族シャトーアのお客様の様子だと、水面下で権力争いが激しくなっているみたい。どちらにつくべきかと、ぶつぶつと漏らしていたわ。

 それだけなら、メイシアに連絡することでもないんだけど、気になることを言っていたのよ。

『藤咲の当主は、餓鬼のくせに、おふた方から贔屓にされている。まったく忌々いまいましいことだ』――って。

 藤咲の当主というのは、メイシアの異母弟さんのことよね? 『今を時めく、悲劇の貴公子』って、少し前に話題になっていた。

 王宮は随分と、きな臭いみたいよ。政情を考えると、異母弟さんは否が応でも巻き込まれざるを得ないと思う。だって、藤咲家って、今、一番、勢いのある貴族シャトーアだもの。

 正直、私にはどうしたらいいのか、分からない。だから、ルイフォンとか、鷹刀の人たちに相談してみて。異母弟さんの力になってあげてね。

 それじゃ、また連絡するわ。今度は楽しい話をしたいわね――。



「ハオリュウが……」

 メイシアは、真っ青になって声を失った。





 メイシアのことが心配だったので、できあがった夜食を運ぶ彼女に付き添って、ミンウェイはルイフォンの仕事部屋に行った。

 事情を聞いたルイフォンが、メイシアの髪をくしゃりとすると、彼女は不思議と落ち着きを取り戻した。まるで魔法だった。

「取り乱してすみません。貴族シャトーアなら、勢力争いは当然のことでした」

 しっかりとした口調でそう言い、メイシアは頭を下げる。

「――だからこそ、ハオリュウは私を外へ出してくれたんだもの……」

 切なげな眼差しでメイシアが唇を噛むと、ルイフォンが再び彼女の髪を撫でた。





 そして、一日が終わり、ミンウェイは自室に戻る。

 静けさに満ちた、ひとりきりの部屋。時折、夜風が窓を叩いては、硝子を揺らしていく。その響きは、少しだけ潮騒の音に似ていた。

 リュイセンに連れていかれた、両親の墓のある小さな丘。あそこから臨む、あの海の――。

『ミンウェイ。俺と結婚しよう』

 その返事を、ミンウェイはまだしていない。

 ミンウェイは、化粧を落とした自分の顔を鏡に映した。華やかに波打つ髪のせいで、だいぶ印象が変わっているが、自信なさげに脅えた瞳は子供のころのままだった。

「……」

 もしも――。

 この春を迎える前に告げられたのなら、ミンウェイは迷わなかった。

 喜んで、リュイセンの言葉を受け入れた。

 漠然とではあるけれど、ずっとリュイセンと一緒になるものだと思っていた。いつか総帥になる彼を支えるのは自分の役目で、それが皆のためになると信じていた。

「でも、それじゃ、リュイセンが不幸になるじゃない……」

 リュイセンには幸せになってほしい。けれど、ミンウェイとでは、彼女の『復讐』の呪縛を彼も背負ってしまうことになる。

 幸せというのは、ルイフォンとメイシアのような関係をいうのだ。

 あのふたりが互いに向ける想いは、同じ重さだ。けれど、リュイセンとミンウェイでは、天秤が傾いてしまう。

 それとも、時が経てば、徐々に釣り合ってくるのだろうか。年齢の開きが、だんだんと誤差になってきたように……。

 ミンウェイは深い溜め息をついた。今夜は寝つけそうになかった。

 既に夜着に着替えていたが、彼女は薄い上着を羽織り、ふらりと庭に出た。





 淡い色の外灯が足元を照らし、まばゆい月の光が頭上から注がれる。

 心地の良い風に流されるままに歩くと、温室にたどり着いた。無意識のうちに、馴染みの場所を選んだのかもしれない。

 そして、ふと思い出す。

 もう、十年くらい前になるだろうか。ミンウェイはここで、月を見ながら泣いていた。

 後継者だったレイウェンが一族を抜け、総帥の補佐をしていたユイランも共に屋敷を出た日のことだ。

 ユイランの代わりを務めることになったミンウェイは、不安に押しつぶされそうになっていた。月に誘われるように庭に出て、涙で時を過ごしていたら――……。

「ミンウェイ!」

 自分の名を呼ぶ声に、ミンウェイは、びくりと体を震わせる。

「リュイセン……」

 一瞬、過去に戻ったのかと錯覚した。

 何故なら、あのとき、この場に現れたのも、リュイセンだったからだ。まだ幼い、子供のリュイセン。身長だって、彼女よりも低いくらいの――。

 瞳を瞬かせて見やれば、そんなおとぎ話のような事実はなく、現在のリュイセンが息を切らせていた。

「リュイセン、どうしたの?」

「『どうした』は、ミンウェイだろう! こんな夜更けに、夜着姿で出歩くなんて。窓から見つけて、飛んできたぞ」

 そう言いながら、彼は手にしていた上着を彼女に押し付ける。

「え? 別に寒くないわよ?」

 部屋を出るときに、一枚羽織っている。それに、もう夏になるのだ。

「そうじゃなくて! 頼むから、如何いかにも夜着って、分かる格好で出歩くな! 無防備だぞ」

「そんな、気にするほどのことじゃ……」

「俺が気にする!」

 叩きつけるように言って、リュイセンは視線をそらす。

 そんな態度に出られたら、従わざるを得ないだろう。ミンウェイは、彼の差し出した上着におとなしく袖を通す。中に着た夜着が見えないように、きちんとボタンも留めた。

 リュイセンのものであろう上着は大きくて、肩の位置がずるりと落ちた。まるで彼に抱きしめられているようで、落ち着かない。彼が小さいときには、何も気にせずに、彼女のほうからじゃれついていたのに……。

「これでいい?」

 ミンウェイは首を傾けて、リュイセンを見上げる。背の高い彼女より、彼のほうがもっと高い――高くなったのだ。

「――ああ」

 そう答えたものの、彼はそっぽを向いたままだった。

 ……気まずい。

 思えば、プロポーズ以来、まともに言葉を交わしたのは初めてのような気がする。食堂や会議で会っても、どことなく避けていた。

「ミンウェイ……」

 リュイセンが、ぽつりと呟いた。

「俺は、無礼なことをした」

「えっ?」

 リュイセンはゆっくりとこちらを向き、彫刻のような黄金比の美貌を月光に晒した。光と影でふち取られた顔は、優しげで切なげで、ミンウェイはどきりとする。

「この前、緋扇シュアンが屋敷に来たとき、奴は温室にいるミンウェイのところに寄ったよな。あのとき俺は、密室にふたりきりは危険だと、こっそり奴を見張っていた。……結果、盗み聞きをした」

「えっ!?」

 胸の奥から、羞恥がこみ上げた。

 聞かれたくなかった。……やましいことはないのだが、なんとなく。

 顔色を変えたミンウェイに、リュイセンが「すまん」と、深々と頭を下げる。大きな体がじっと耐えるように固まっていて、どうなじられても構わないと覚悟しているかのようだった。

 あまりの大仰さにミンウェイは戸惑い、一度大きく揺れたはずの感情が、すっと鎮まる。

「過ぎたことだわ。もういいから、顔を上げて」

 彼女の言葉に、彼はもう一度だけ「すまん」と告げてから、顔を上げる。しかし、許しを得たにも関わらず、厳しい表情をしていた。

「緋扇シュアンに言われなくても、俺も気づいていたよ。――ミンウェイは鷹刀に遠慮がある」

「……っ」

「だから俺は、ミンウェイにプロポーズした。自分の居場所は鷹刀なのだと、ミンウェイが自信を持って言えるように。その根拠を作ってあげたいと思った。――『後継者の妻』という地位によって」

「リュイセン……」

 彼の名を呟いたきり、言葉が続かない。

 声を詰まらせるミンウェイに、リュイセンはふっと表情を和らげた。

「でも、俺の独りよがりだったな。……俺は、ミンウェイを困らせただけだ」

「そんなことは……」

 ない、と言いかけたミンウェイを、リュイセンが「あるだろう?」と、神速で遮る。

「ミンウェイは、困って、悩んで……こうして夜中にふらふら出歩いている。違うか?」

 彼女は、息を呑んだ。その仕草で、伝わってしまう。

 リュイセンは柔らかに苦笑した。

 不快な顔になっても、ちっともおかしくない状況なのに、彼はどこまでも穏やかで優しい。……今までの彼とは、雰囲気が変わった気がする。

「俺は、ミンウェイが悩んで、苦しむことなんて、望んでいない。だから――」

 真摯な眼差しが、彼女に向けられた。

 夜風にふわりと巻き上げられた彼の髪が、月光と混じり合い、輝く。そのさまは、まるで黄金の毛皮を持つ、気高い野生の狼……。

「――だから、あのプロポーズは、なかったことにしてほしい」

 決然とした低い声が、静かに響いた。

「…………え?」

 唐突な発言に、ミンウェイは絶句する。

「そもそも、こんなプロポーズ、間違っているだろう? 一族にかこつけてミンウェイを手に入れようだなんて、卑怯だ。ミンウェイの気持ちをないがしろにしている」

「逆よ! リュイセンは私のために、自分の気持ちを無視したの。ないがしろは、リュイセンのほう……」

 詰め寄るミンウェイに、リュイセンは首を振った。

「俺はちゃんと、自分の気持ちは言った。ミンウェイが好きだと」

「!」

「ミンウェイは勘違いしている。俺は別に、自分を抑えてなんかいない。むしろ、自分でも、どうしたかと思うくらい、暴走している」

 大真面目な顔でそう言ってから、リュイセンは楽しそうに口元を緩める。

「ミンウェイ。俺はただ、ミンウェイを幸せにしたいだけだ」

 彼は微笑んでいた。――こんな場面で笑えるほど、彼はたくましくなかった……はずだ。

「そして、ミンウェイが俺のプロポーズに悩むのなら、俺はまだ『足りていない』ってことだ」

「『足りていない』?」

「ああ。『ミンウェイが認める男』に、まだ足りていない」

「……っ」

 肯定か否定か、はたまた、まったく別の答えか。何を言えばいいのか、ミンウェイはとっさに言葉が浮かばない。

 揺らめく彼女の瞳に、リュイセンがくすりとする。

「たぶん、さ。ミンウェイは一生、俺の中に、子供の俺を見ると思う。……仕方ないさ、だって出逢ったときは、本当に俺は小さな餓鬼だったんだから」

「……」

 ごめんなさい、と言うべきか。それは彼を傷つけるのか――。

 困惑、混乱、動揺……。そんな感情が絡みついて、身動きが取れない。先ほどから、まともに喋れなくなった自分に、ミンウェイは苛立つ。

 けれど、リュイセンは気にした様子もなく、ただ優しく穏やかに語り続けた。

「俺はずっと、ミンウェイを守りたいと思って生きてきた。それだけ伝えられれば、今は充分だ」

「リュイセン……」

 彼は、自分は卑怯だと言ったが、卑怯なのは何も答えないミンウェイのほうだ。

 申し訳なく思った途端に、彼女の瞳に脅えが混じる。リュイセンはそれを見落とさない。

「ごめん。……俺は少し、焦っていた。――ミンウェイを取られたくなかったんだ」

 彼は、照れたように苦笑した。軽い口調で誤魔化しているが、それが彼の偽らざる本心だと痛いほど伝わってきた。

「取られたくないって、誰に……?」

「『誰にも』だ」

「え?」

「誰にも、ミンウェイを取られたくない」

 その瞬間、夜風を斬り裂くように、リュイセンが動いた。さらさらとした髪が月光を弾き、黄金に煌めく。

 まるで彼の太刀筋のような神速でミンウェイのもとにたどり着くと、彼の両腕がふわりと彼女を抱きしめた。

 そして、耳元で告げる。



「――――」



 ミンウェイが息を呑んだのと、リュイセンの体が離れていったのは同時だった。

 そのまま、彼は「おやすみ」とだけ残して去っていく。

 彼女はその背中を追うこともできず、ただ呆然と見送った。

 十年前とは違う彼の抱擁と、耳の中に残る低い声の余韻に戸惑いながら……。



 ――愛している。

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