残酷な描写あり
3.箱庭の空
王都にほど近く、さりとて喧騒とは無縁の郊外の地。そこに、何代か前の王が療養のために作らせた庭園があった。
近衛隊に固められた厳しい石造りの門の内側へと、如何にもならず者といった体の男たちが堂々と入っていく。折り目正しい近衛隊員たちが直立する脇を、無頼漢どもが思い思いに抜けていく様は、なんとも奇妙な光景であった。
門を過ぎると、目の前に緑の丘陵が広がる。
二ヶ月前、斑目タオロンが初めてこの庭園を訪れたときには、ただただ広大な草地が続いているだけに見えた。しかし現在では、敷地の中ほどから奥の館に向かって、紫の絨毯で覆われている。
紫の正体は、菖蒲の花だ。
ちょうど見頃を迎えた花々が、薄紫や青紫といった微妙に色合いの異なる紫を、我が一番とばかりに競うように輝かせている。
瑞々しく鮮やかで、優美。
しかし、せっかくの華やぎも、人の目に触れることは、ほとんどない。
王族の持ち物であるこの庭園は一般には解放されておらず、入園を許されているのは庭師と〈蝿〉、それから〈蝿〉が雇った者たちのみ。
雅の欠片もない、無粋な荒くれ者たちは、花などには目もくれない。花と花の間を縫うように連なる、散策のための遊歩道も無用のものとなっていた。
そう思い、タオロンは溜め息を落とした。
娘のファンルゥだけは、違うのだ。彼女は一面の緑の野原に突如現れた、この紫の楽園をとても喜んでいる。
『パパ、お花が咲いたの!』
館の一室に軟禁されたファンルゥは、窓から見える景色に変化が現れたと、ある日、とても嬉しそうに教えてくれた。しばらく見ていなかった、満面の笑顔だった。
花が増えてくると、彼女は『お花畑だ』と言い出した。
『ファンルゥ、いい子にしているから、お外に行っていいって、〈蝿〉のおじさんが言ってくれないかなぁ……』
ぽつりと漏らした。
広いお花畑で、花を摘みたい。ただそれだけの願いだ。
籠の鳥のファンルゥは、小さな窓の世界しか知らない。そこからの風景では、菖蒲の根元は水に浸かっており、彼女が手折って楽しむような素朴な野の花ではないことは分からない。そもそも、水の中から生える花があるなんて、彼女の知識では信じられないだろう。
閉ざされた空間に封じられた、ファンルゥ。
すべては父親である自分のせいだと、不甲斐なさにタオロンは奥歯を噛む。
『お前を――いや、お前の娘を助けてやる』
草薙シャンリーと名乗った、あの女はそう言った。
タオロンよりも、娘を助けると言った。
信頼に足る人間だと思った。だから従った。何より、鷹刀ルイフォンの関係者だ。
――鷹刀ルイフォン……、どうか、頼む……。
他人頼みなど情けない。そんなことは百も承知であるが、切なる思いを抱き、タオロンは祈るように空を見上げる。
――ファンルゥに、広い世界を……。
発信機を持ち帰り、〈蝿〉の居場所を教えたところで、この庭園は凶賊にとって天敵のような王族の支配下にある。正面から攻め込むことは不可能だろう。
だが、鷹刀ルイフォンならば――と。願わずにはいられない。
想像もしていなかった奇策で、斑目一族を壊滅状態にまで陥らせた彼ならば……。
「おい、何をのろのろ歩いている!」
怒声が飛んできた。〈蝿〉に金で雇われた男だ。
タオロンには、常に監視の目が光っている。彼は、目に見えない鎖で、がんじがらめにされていた――。
「俺を部下にして、お前は何をする気だ?」
斑目一族の別荘を出て、この館に移り住んだばかりのころ、タオロンは〈蝿〉に尋ねた。
「純粋に、武力としての活用ですよ」
〈蝿〉は、美麗な顔で、冷ややかに嗤った。
――庭園に来てから、初めて〈蝿〉の素顔を見た。
鷹刀リュイセンにそっくりだった。白髪混じりの頭髪から年齢を推測すると、まるで父子に見える。思わずそう漏らせば、『叔父に当たりますね』と、こともなげに教えてくれた。
「武力ということは、俺はお前の護衛ということでいいのか。それとも……」
「それとも?」
タオロンが言いよどむと、〈蝿〉は口元を歪めて楽しそうに聞き返す。タオロンの危惧に気づいているのだろう。
「……人体改造とか、そういう怪しい類のことは……」
期待通りの答えに、〈蝿〉は哄笑を上げた。
「まったく、あなたは分かりやすくてよいですね」
タオロンは不快げに太い眉を寄せるが、〈蝿〉は取り合わない。むしろ愉快でたまらないといった様子で、饒舌になる。
「そうですね。あなたを改造するのは、とても面白そうです」
「っ!」
「ですが、安心してください。私も忙しくてね、あなたを玩具にして遊んでいる暇はないのですよ」
タオロンは、ほっと息をついた。〈蝿〉を喜ばせるだけと分かっていても、安堵の顔は隠せなかった。
〈影〉や〈天使〉を間近で見てきた彼にとって、〈七つの大罪〉の技術は不気味で、禍々しくて恐ろしかった。人の行為として許されるものではなく、胸糞が悪い。虫酸が走る……。
あからさまな嫌悪を見せた彼に、案の定、〈蝿〉は口の端を上げる。
「本当は、『私の駒として、自在に使えるあなた』が、複数いれば便利なのですけどね」
「……?」
「体だけなら、私はいくらでも作れるのですよ。あなたの細胞から、あなたのクローンである赤子を作り、それを急速に成長させて、今のあなたと同じ歳にすればよいのです。私の技術なら、老人にするまでだって、ほんのわずかな時間で充分ですよ」
「なっ!?」
「何を驚いているのですか? あなたは既に、この技術の恩恵を受けていますよ」
「な、んだと……」
タオロンの過剰な反応に、〈蝿〉がくすりと嗤う。彼の感情を刺激するのを承知で、わざと言っているのだ。
「あなたの傷の治りを早めたのは、同じ原理です。局所的に――負傷した箇所だけ、細胞を急速に活性化させ、回復を――成長を早めたのです。勿論、やりすぎれば老化するだけですね」
タオロンは、弾かれたように右上腕に手をやった。以前、藤咲メイシアに刀を落とされ、斬られたところだ。
恐れたような老化の事実はなく、ただの古傷になっていた。――まるで、何年も前に受けた傷であるかのように。
「……」
彼の浅黒い肌では見た目には分からないが、血の気が引いていた。
そんなタオロンの動揺を充分に堪能し、〈蝿〉が嗤う。
「あなたと同じ体を作っても、それは『あなた』にはなりません。生物学的にクローンだとしても、あなたの記憶がないからです。それどころか、生まれたばかりの赤子の頭脳しかないのでは、なんの役に立ちません」
〈蝿〉は息をついた。それは、高圧的な彼らしくもない、溜め息だった。
「ともかく、あなたは私の指示に従って、荒事を請け負えばよいのです。わざわざ言うまでもないとは思いますが、おかしなことをすればあなたの娘は……」
「分かっている!」
タオロンは言い放ち、薄ら笑いを浮かべる〈蝿〉のもとを足早に退散した。
ファンルゥが閉じ込められた部屋への、タオロンの出入りは自由だった。
ただし、外には見張りがついている。加えて、彼女の左手首には腕輪がはめられていた。
「パパ!」
タオロンが入ると、ファンルゥの小さな体が飛びついてくる。勢いに乗った彼女のくせっ毛もまた、ぴょんぴょんと元気に跳ねた。
「ファンルゥ、いい子にしていたよ!」
褒めて、褒めてと、くりっとした丸い目が訴える。
タオロンは太い腕で、ひょいと愛娘を抱き上げた。そして高く高く、掲げるように、彼女を持ち上げる。
「わぁっ!」
急に視界の変わったファンルゥが、歓声を上げた。
「ファンルゥ、お空を飛んでいる!」
普段よりも、少しだけ高い景色。しかし、彼女にとっては別世界であるらしい。
大きくて逞しい父にこうしてもらうのが、彼女は大好きだった。たったそれだけのことを楽しみに、一日中おとなしくしているといっても過言でない。
「パパ、凄い!」
ファンルゥが手放しで喜ぶ。タオロンは苦い思いをぐっとこらえ、顔をひきつらせながらもなんとか笑う。
――こんなことでいいのなら、いくらでもやってやる。
世界はもっとずっと広い。けれど、彼が娘に与えてやれるのは、足元からたった二メートルほどの空でしかなかった。
ファンルゥの手首では、きらきらと腕輪が光る。
色とりどりの宝石が散りばめられたそれは、〈蝿〉から渡されたものだ。宝石といっても、貴石としての価値のない模造石なのであるが、小さなファンルゥには素敵な宝物だった。
『いいですか、お嬢さん。私たちは、斑目一族から逃げています。あなたのパパが悪い人をやっつけるまで、隠れていなければいけません』
腕輪を渡すとき、〈蝿〉はそう切り出した。
代替わりした斑目一族の総帥が、『諸悪の根源』とした〈蝿〉だけでなく、タオロンやファンルゥも追っているのは事実だった。一族が弱体化した責任を押し付け、見せしめに血祭りにする人間を求めているのだ。
『この館にいれば安全です。けれど、あなたがじっとしていられる人でないことは、前の別荘のときによく分かっています。だから、この腕輪を付けていてください。部屋から出ようとしたら、凄い音が鳴ります』
叱りつけるような〈蝿〉の言葉に、ファンルゥは不満を抱き、小さな口を尖らせた。しかし、腕輪を見た瞬間に心を奪われた。
『綺麗……』
彼女は素直に腕輪を身に着け、それ以来、部屋でおとなしくしている。
腕輪は――、本当は〈蝿〉の言ったような代物ではなかった。
『あの腕輪の内側には、毒針が仕込まれています』
タオロンとふたりきりになったときに、〈蝿〉が告げた。
『私の持つリモコンで、針が飛び出す仕掛けです。つまり、私はいつでもあなたの娘を殺せる、ということです。無理に腕輪を外そうとしても同様です』
『……! お前!』
『あの娘は人質ですからね。そのくらい当然でしょう。むしろ、体にメスを入れなかっただけ感謝してほしいですね』
そう言われた瞬間、タオロンの太い眉が跳ね上がった。
すると、〈蝿〉がくすりと嗤った。
『私からすれば、不慣れな機械類を使うより、あの娘の体内に仕掛けをしておくほうが、ずっと安心です。けれど、そんなことをしたら、無意味にあなたを怒らせるだけでしょう? これでも譲歩したんですよ』
『くっ……』
『それに、あの娘も、私の贈り物を喜んでくれたようですしね。あのくらいの歳の女の子は、小さくても立派な淑女ですから』
あなたはちっとも気づいてなかったでしょう? と。鼻で笑うように、〈蝿〉の顎がわずかに上げられる。
タオロンは、舌打ちをしたい気持ちを必死に抑えた。
口には出さないが、ファンルゥは腕輪をとても気に入っていた。そのことに、今まで玩具の類だって、まともに与えたことのなかった彼は、衝撃を受けていた。
「パパ?」
ファンルゥの声に、タオロンは、はっとする。
「ああ……、すまん」
生き延びることに精いっぱいで、娘の気持ちを理解してやる余裕がない……。
ふとタオロンは、机の上にある描きかけの絵を見つけた。――クレヨンや絵本など、この年頃の子供に必要そうなものは、〈蝿〉がひと通り手配していた。
「〈天使〉……」
小さな女の子が、羽の生えた女と仲良く手を繋ぎ、空に向かって飛んでいる。ふたりが目指すのは、雲の上だ。そこにもうひとり、女と思しき姿がある。
「上手でしょ!」
タオロンの腕から降りたファンルゥが、自慢げに言った。
「ファンルゥとホンシュアだな」
「うん。あと、ママ!」
「……ああ」
雲の上の女のことだ。
ファンルゥが描いた母親は、どことなくホンシュアに似ていた。子供の落書きでは、詳細な顔つきなど分かるはずもないのに、タオロンはそう感じた。何故ならファンルゥは、仲良くしてくれたホンシュアを、顔も覚えていない母親に重ねていたから……。
高熱に倒れたホンシュアを、ファンルゥは〈蝿〉の目を盗んでは何度も見舞いに行った。
その都度、タオロンは連れ戻しに行ったのだが、あるとき、ファンルゥが寝てしまっていたことがあった。
『分かっていると思うけど、私はもう長くないわ』
唐突に、ホンシュアがタオロンに話しかけてきた。
『私が死んだと知ったら、ファンルゥは悲しむわ。だから、『天使の国』に帰ったのだと言ってほしいの。涼しい『天使の国』で、元気に暮らしている、って』
『……分かった』
『それから、もし、ルイフォンとメイシアに会うことがあったら、謝ってほしいの』
そう言って、彼女はタオロンに遺言を託した。伝えられる保証はなかったが、必死な思いを無下に断ることなどできなかった。
『ねぇ……』
容態は落ち着いているように見えたが、彼女の息は炎を吐いているかのように熱かった。
苦しいなら無理して喋らないほうがよいだろうに、と思うと同時に、もう最期だから、なのだと分かってしまった。
『もしも……。もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったとしたら、あなたなら奥様を生き返らせたいと思う?』
とっさに反応できなかった。
感情の上では、勿論、生き返らせたいと思う。
ホンシュアは『奥様』と言ったが、正式に籍を入れたわけではない。そんなことすらしてやれなかった最愛の女と、今度こそ一緒になってファンルゥと三人で暮らしたい。
――そんな夢が頭をかすめる。
それは夢だ。夢であるべきだ。
けれど、〈蛇〉と呼ばれる〈悪魔〉でもあるらしい彼女が尋ねたということは、『〈七つの大罪〉には、死者を生き返らせる方法がある』ということだ。
『……ファンルゥに、母親と会わせてやりたい、とは思う。だが、怪しい技術はごめんだ』
『ああ。やっぱり、あなたはファンルゥのお父さんなのね。強くて、まっすぐだわ』
『……』
『でも『私』は、あなたみたいに強くなかった。だから、禁忌の領域に手を出した。それが『デヴァイン・シンフォニア計画』……』
ホンシュアが死んだあと、タオロンは言われた通りに、彼女は『天使の国』に帰ったとファンルゥに告げた。
嘘をつくことに抵抗もあったが、果たして彼に、幼い娘に真実を伝える勇気があったかどうか、自信はない。否、きっと途方に暮れていただろう。
そして、ファンルゥの中に、ひとつの『お話』が生まれた。
『ホンシュアは、天国のママに頼まれて、ファンルゥの様子を見に来た天使だった』
人間の国は、天使にとって熱くて辛いのに、ホンシュアはファンルゥのために来てくれた。とても優しい天使なのだ、と。
タオロンは空を見やり、白い雲の向こうの亡き女に告げる。
――ファンルゥのために、今は耐える。
額の赤いバンダナに、そっと触れる。それは、彼が無茶をしないための封印だ。
『猪突猛進に走り出しそうになったら、バンダナを結び直しながら、もう一度だけ考えてみて』
彼女はそう言って、彼にバンダナを巻いた。
『それでも、走るべきだと思ったら、走ったらいいわ』
今はまだ、そのときではないから。
だから、タオロンは雌伏の時を過ごすのだ――。
菖蒲の花が満開を迎えるころ、〈蝿〉は私兵たちを集めて告げた。
近く、この館の持ち主である摂政が、とある貴族を招いて会食を開く。だからその日は、出歩いたりせずに、割り当てられた部屋でおとなしくしているように、と。
摂政は、現状における国の最高権力者である。その彼と食事を共にする栄誉を賜る、貴族の名は――。
藤咲ハオリュウ。
近衛隊に固められた厳しい石造りの門の内側へと、如何にもならず者といった体の男たちが堂々と入っていく。折り目正しい近衛隊員たちが直立する脇を、無頼漢どもが思い思いに抜けていく様は、なんとも奇妙な光景であった。
門を過ぎると、目の前に緑の丘陵が広がる。
二ヶ月前、斑目タオロンが初めてこの庭園を訪れたときには、ただただ広大な草地が続いているだけに見えた。しかし現在では、敷地の中ほどから奥の館に向かって、紫の絨毯で覆われている。
紫の正体は、菖蒲の花だ。
ちょうど見頃を迎えた花々が、薄紫や青紫といった微妙に色合いの異なる紫を、我が一番とばかりに競うように輝かせている。
瑞々しく鮮やかで、優美。
しかし、せっかくの華やぎも、人の目に触れることは、ほとんどない。
王族の持ち物であるこの庭園は一般には解放されておらず、入園を許されているのは庭師と〈蝿〉、それから〈蝿〉が雇った者たちのみ。
雅の欠片もない、無粋な荒くれ者たちは、花などには目もくれない。花と花の間を縫うように連なる、散策のための遊歩道も無用のものとなっていた。
そう思い、タオロンは溜め息を落とした。
娘のファンルゥだけは、違うのだ。彼女は一面の緑の野原に突如現れた、この紫の楽園をとても喜んでいる。
『パパ、お花が咲いたの!』
館の一室に軟禁されたファンルゥは、窓から見える景色に変化が現れたと、ある日、とても嬉しそうに教えてくれた。しばらく見ていなかった、満面の笑顔だった。
花が増えてくると、彼女は『お花畑だ』と言い出した。
『ファンルゥ、いい子にしているから、お外に行っていいって、〈蝿〉のおじさんが言ってくれないかなぁ……』
ぽつりと漏らした。
広いお花畑で、花を摘みたい。ただそれだけの願いだ。
籠の鳥のファンルゥは、小さな窓の世界しか知らない。そこからの風景では、菖蒲の根元は水に浸かっており、彼女が手折って楽しむような素朴な野の花ではないことは分からない。そもそも、水の中から生える花があるなんて、彼女の知識では信じられないだろう。
閉ざされた空間に封じられた、ファンルゥ。
すべては父親である自分のせいだと、不甲斐なさにタオロンは奥歯を噛む。
『お前を――いや、お前の娘を助けてやる』
草薙シャンリーと名乗った、あの女はそう言った。
タオロンよりも、娘を助けると言った。
信頼に足る人間だと思った。だから従った。何より、鷹刀ルイフォンの関係者だ。
――鷹刀ルイフォン……、どうか、頼む……。
他人頼みなど情けない。そんなことは百も承知であるが、切なる思いを抱き、タオロンは祈るように空を見上げる。
――ファンルゥに、広い世界を……。
発信機を持ち帰り、〈蝿〉の居場所を教えたところで、この庭園は凶賊にとって天敵のような王族の支配下にある。正面から攻め込むことは不可能だろう。
だが、鷹刀ルイフォンならば――と。願わずにはいられない。
想像もしていなかった奇策で、斑目一族を壊滅状態にまで陥らせた彼ならば……。
「おい、何をのろのろ歩いている!」
怒声が飛んできた。〈蝿〉に金で雇われた男だ。
タオロンには、常に監視の目が光っている。彼は、目に見えない鎖で、がんじがらめにされていた――。
「俺を部下にして、お前は何をする気だ?」
斑目一族の別荘を出て、この館に移り住んだばかりのころ、タオロンは〈蝿〉に尋ねた。
「純粋に、武力としての活用ですよ」
〈蝿〉は、美麗な顔で、冷ややかに嗤った。
――庭園に来てから、初めて〈蝿〉の素顔を見た。
鷹刀リュイセンにそっくりだった。白髪混じりの頭髪から年齢を推測すると、まるで父子に見える。思わずそう漏らせば、『叔父に当たりますね』と、こともなげに教えてくれた。
「武力ということは、俺はお前の護衛ということでいいのか。それとも……」
「それとも?」
タオロンが言いよどむと、〈蝿〉は口元を歪めて楽しそうに聞き返す。タオロンの危惧に気づいているのだろう。
「……人体改造とか、そういう怪しい類のことは……」
期待通りの答えに、〈蝿〉は哄笑を上げた。
「まったく、あなたは分かりやすくてよいですね」
タオロンは不快げに太い眉を寄せるが、〈蝿〉は取り合わない。むしろ愉快でたまらないといった様子で、饒舌になる。
「そうですね。あなたを改造するのは、とても面白そうです」
「っ!」
「ですが、安心してください。私も忙しくてね、あなたを玩具にして遊んでいる暇はないのですよ」
タオロンは、ほっと息をついた。〈蝿〉を喜ばせるだけと分かっていても、安堵の顔は隠せなかった。
〈影〉や〈天使〉を間近で見てきた彼にとって、〈七つの大罪〉の技術は不気味で、禍々しくて恐ろしかった。人の行為として許されるものではなく、胸糞が悪い。虫酸が走る……。
あからさまな嫌悪を見せた彼に、案の定、〈蝿〉は口の端を上げる。
「本当は、『私の駒として、自在に使えるあなた』が、複数いれば便利なのですけどね」
「……?」
「体だけなら、私はいくらでも作れるのですよ。あなたの細胞から、あなたのクローンである赤子を作り、それを急速に成長させて、今のあなたと同じ歳にすればよいのです。私の技術なら、老人にするまでだって、ほんのわずかな時間で充分ですよ」
「なっ!?」
「何を驚いているのですか? あなたは既に、この技術の恩恵を受けていますよ」
「な、んだと……」
タオロンの過剰な反応に、〈蝿〉がくすりと嗤う。彼の感情を刺激するのを承知で、わざと言っているのだ。
「あなたの傷の治りを早めたのは、同じ原理です。局所的に――負傷した箇所だけ、細胞を急速に活性化させ、回復を――成長を早めたのです。勿論、やりすぎれば老化するだけですね」
タオロンは、弾かれたように右上腕に手をやった。以前、藤咲メイシアに刀を落とされ、斬られたところだ。
恐れたような老化の事実はなく、ただの古傷になっていた。――まるで、何年も前に受けた傷であるかのように。
「……」
彼の浅黒い肌では見た目には分からないが、血の気が引いていた。
そんなタオロンの動揺を充分に堪能し、〈蝿〉が嗤う。
「あなたと同じ体を作っても、それは『あなた』にはなりません。生物学的にクローンだとしても、あなたの記憶がないからです。それどころか、生まれたばかりの赤子の頭脳しかないのでは、なんの役に立ちません」
〈蝿〉は息をついた。それは、高圧的な彼らしくもない、溜め息だった。
「ともかく、あなたは私の指示に従って、荒事を請け負えばよいのです。わざわざ言うまでもないとは思いますが、おかしなことをすればあなたの娘は……」
「分かっている!」
タオロンは言い放ち、薄ら笑いを浮かべる〈蝿〉のもとを足早に退散した。
ファンルゥが閉じ込められた部屋への、タオロンの出入りは自由だった。
ただし、外には見張りがついている。加えて、彼女の左手首には腕輪がはめられていた。
「パパ!」
タオロンが入ると、ファンルゥの小さな体が飛びついてくる。勢いに乗った彼女のくせっ毛もまた、ぴょんぴょんと元気に跳ねた。
「ファンルゥ、いい子にしていたよ!」
褒めて、褒めてと、くりっとした丸い目が訴える。
タオロンは太い腕で、ひょいと愛娘を抱き上げた。そして高く高く、掲げるように、彼女を持ち上げる。
「わぁっ!」
急に視界の変わったファンルゥが、歓声を上げた。
「ファンルゥ、お空を飛んでいる!」
普段よりも、少しだけ高い景色。しかし、彼女にとっては別世界であるらしい。
大きくて逞しい父にこうしてもらうのが、彼女は大好きだった。たったそれだけのことを楽しみに、一日中おとなしくしているといっても過言でない。
「パパ、凄い!」
ファンルゥが手放しで喜ぶ。タオロンは苦い思いをぐっとこらえ、顔をひきつらせながらもなんとか笑う。
――こんなことでいいのなら、いくらでもやってやる。
世界はもっとずっと広い。けれど、彼が娘に与えてやれるのは、足元からたった二メートルほどの空でしかなかった。
ファンルゥの手首では、きらきらと腕輪が光る。
色とりどりの宝石が散りばめられたそれは、〈蝿〉から渡されたものだ。宝石といっても、貴石としての価値のない模造石なのであるが、小さなファンルゥには素敵な宝物だった。
『いいですか、お嬢さん。私たちは、斑目一族から逃げています。あなたのパパが悪い人をやっつけるまで、隠れていなければいけません』
腕輪を渡すとき、〈蝿〉はそう切り出した。
代替わりした斑目一族の総帥が、『諸悪の根源』とした〈蝿〉だけでなく、タオロンやファンルゥも追っているのは事実だった。一族が弱体化した責任を押し付け、見せしめに血祭りにする人間を求めているのだ。
『この館にいれば安全です。けれど、あなたがじっとしていられる人でないことは、前の別荘のときによく分かっています。だから、この腕輪を付けていてください。部屋から出ようとしたら、凄い音が鳴ります』
叱りつけるような〈蝿〉の言葉に、ファンルゥは不満を抱き、小さな口を尖らせた。しかし、腕輪を見た瞬間に心を奪われた。
『綺麗……』
彼女は素直に腕輪を身に着け、それ以来、部屋でおとなしくしている。
腕輪は――、本当は〈蝿〉の言ったような代物ではなかった。
『あの腕輪の内側には、毒針が仕込まれています』
タオロンとふたりきりになったときに、〈蝿〉が告げた。
『私の持つリモコンで、針が飛び出す仕掛けです。つまり、私はいつでもあなたの娘を殺せる、ということです。無理に腕輪を外そうとしても同様です』
『……! お前!』
『あの娘は人質ですからね。そのくらい当然でしょう。むしろ、体にメスを入れなかっただけ感謝してほしいですね』
そう言われた瞬間、タオロンの太い眉が跳ね上がった。
すると、〈蝿〉がくすりと嗤った。
『私からすれば、不慣れな機械類を使うより、あの娘の体内に仕掛けをしておくほうが、ずっと安心です。けれど、そんなことをしたら、無意味にあなたを怒らせるだけでしょう? これでも譲歩したんですよ』
『くっ……』
『それに、あの娘も、私の贈り物を喜んでくれたようですしね。あのくらいの歳の女の子は、小さくても立派な淑女ですから』
あなたはちっとも気づいてなかったでしょう? と。鼻で笑うように、〈蝿〉の顎がわずかに上げられる。
タオロンは、舌打ちをしたい気持ちを必死に抑えた。
口には出さないが、ファンルゥは腕輪をとても気に入っていた。そのことに、今まで玩具の類だって、まともに与えたことのなかった彼は、衝撃を受けていた。
「パパ?」
ファンルゥの声に、タオロンは、はっとする。
「ああ……、すまん」
生き延びることに精いっぱいで、娘の気持ちを理解してやる余裕がない……。
ふとタオロンは、机の上にある描きかけの絵を見つけた。――クレヨンや絵本など、この年頃の子供に必要そうなものは、〈蝿〉がひと通り手配していた。
「〈天使〉……」
小さな女の子が、羽の生えた女と仲良く手を繋ぎ、空に向かって飛んでいる。ふたりが目指すのは、雲の上だ。そこにもうひとり、女と思しき姿がある。
「上手でしょ!」
タオロンの腕から降りたファンルゥが、自慢げに言った。
「ファンルゥとホンシュアだな」
「うん。あと、ママ!」
「……ああ」
雲の上の女のことだ。
ファンルゥが描いた母親は、どことなくホンシュアに似ていた。子供の落書きでは、詳細な顔つきなど分かるはずもないのに、タオロンはそう感じた。何故ならファンルゥは、仲良くしてくれたホンシュアを、顔も覚えていない母親に重ねていたから……。
高熱に倒れたホンシュアを、ファンルゥは〈蝿〉の目を盗んでは何度も見舞いに行った。
その都度、タオロンは連れ戻しに行ったのだが、あるとき、ファンルゥが寝てしまっていたことがあった。
『分かっていると思うけど、私はもう長くないわ』
唐突に、ホンシュアがタオロンに話しかけてきた。
『私が死んだと知ったら、ファンルゥは悲しむわ。だから、『天使の国』に帰ったのだと言ってほしいの。涼しい『天使の国』で、元気に暮らしている、って』
『……分かった』
『それから、もし、ルイフォンとメイシアに会うことがあったら、謝ってほしいの』
そう言って、彼女はタオロンに遺言を託した。伝えられる保証はなかったが、必死な思いを無下に断ることなどできなかった。
『ねぇ……』
容態は落ち着いているように見えたが、彼女の息は炎を吐いているかのように熱かった。
苦しいなら無理して喋らないほうがよいだろうに、と思うと同時に、もう最期だから、なのだと分かってしまった。
『もしも……。もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったとしたら、あなたなら奥様を生き返らせたいと思う?』
とっさに反応できなかった。
感情の上では、勿論、生き返らせたいと思う。
ホンシュアは『奥様』と言ったが、正式に籍を入れたわけではない。そんなことすらしてやれなかった最愛の女と、今度こそ一緒になってファンルゥと三人で暮らしたい。
――そんな夢が頭をかすめる。
それは夢だ。夢であるべきだ。
けれど、〈蛇〉と呼ばれる〈悪魔〉でもあるらしい彼女が尋ねたということは、『〈七つの大罪〉には、死者を生き返らせる方法がある』ということだ。
『……ファンルゥに、母親と会わせてやりたい、とは思う。だが、怪しい技術はごめんだ』
『ああ。やっぱり、あなたはファンルゥのお父さんなのね。強くて、まっすぐだわ』
『……』
『でも『私』は、あなたみたいに強くなかった。だから、禁忌の領域に手を出した。それが『デヴァイン・シンフォニア計画』……』
ホンシュアが死んだあと、タオロンは言われた通りに、彼女は『天使の国』に帰ったとファンルゥに告げた。
嘘をつくことに抵抗もあったが、果たして彼に、幼い娘に真実を伝える勇気があったかどうか、自信はない。否、きっと途方に暮れていただろう。
そして、ファンルゥの中に、ひとつの『お話』が生まれた。
『ホンシュアは、天国のママに頼まれて、ファンルゥの様子を見に来た天使だった』
人間の国は、天使にとって熱くて辛いのに、ホンシュアはファンルゥのために来てくれた。とても優しい天使なのだ、と。
タオロンは空を見やり、白い雲の向こうの亡き女に告げる。
――ファンルゥのために、今は耐える。
額の赤いバンダナに、そっと触れる。それは、彼が無茶をしないための封印だ。
『猪突猛進に走り出しそうになったら、バンダナを結び直しながら、もう一度だけ考えてみて』
彼女はそう言って、彼にバンダナを巻いた。
『それでも、走るべきだと思ったら、走ったらいいわ』
今はまだ、そのときではないから。
だから、タオロンは雌伏の時を過ごすのだ――。
菖蒲の花が満開を迎えるころ、〈蝿〉は私兵たちを集めて告げた。
近く、この館の持ち主である摂政が、とある貴族を招いて会食を開く。だからその日は、出歩いたりせずに、割り当てられた部屋でおとなしくしているように、と。
摂政は、現状における国の最高権力者である。その彼と食事を共にする栄誉を賜る、貴族の名は――。
藤咲ハオリュウ。