残酷な描写あり
1.境界の日の幕開け-1
その日、ハオリュウは、メイドが起こしに来るよりも先に目を覚ました。
夏に差し掛かった朝日は、さすがに彼よりも早起きであったらしい。カーテンの隙間から、すうっと細く、光が覗き込んでいる。起き上がって窓を開ければ、澄んだ南風が部屋に流れ込み、青空になりきる前の、特別な色の空が広がっていた。
いよいよ、今日である。
摂政との会食と、〈蝿〉捕獲作戦の決行の日――。
手はずとしては、まずは、リュイセンの兄、草薙レイウェンの家で、皆が落ち合う。そこから人が隠れられる細工をした、例の『車』に乗り換えて出発だ。
作戦会議のときは、夜闇に紛れてハオリュウが鷹刀一族の屋敷に赴いた。しかし、今回は昼間なので、貴族が凶賊の屋敷に行くのも、その逆も避けることにしたのだ。そこで白羽の矢が立ったのが、レイウェンの家というわけだ。
彼の家であれば、仕事での付き合いがあるため、ハオリュウが出入りをしても不自然ではない。なおかつ、服飾の専門家であるユイランが、王族との会食に臨む衣装は任せてほしいと張り切っているので、都合が良かったのである。
鷹刀一族の屋敷からは、チャオラウの運転する車にルイフォンとリュイセン。それから見送りとして、メイシアとミンウェイも乗ってくるという。
メイシアの同乗は、イーレオのはからいだ。〈蝿〉に狙われているため、彼女はずっと外出を避けていたのだが、やはりルイフォンの見送りはしたいであろうと。〈蝿〉だって、摂政が庭園に来る日くらいは、おとなしくしているであろうし、万一のときでもチャオラウがいれば安全――というわけだ。
会食は、昼に予定されている。しかし、朝食を終えると、ハオリュウは早々に家を出た。
緋扇シュアンと、話をする約束があったのだ。
ハオリュウが到着したとき、案内された部屋で待っていたシュアンは、上質なソファーを堪能するかのように堂々と寝転がっていた。
あらかじめ『ふたりで、今日のことの最終確認をしたい』と言ってあったので、気を利かせたレイウェンが場所を用意してくれたのだ。そのため、シュアンは気兼ねなく、くつろいでいたのである。
「シュアン、お待たせしてすみません」
ハオリュウが声を掛けると、シュアンはむくりと起き上がる。収まりの悪い、ぼさぼさ頭が乱れているが、それは横になっていたからではなく、いつものことだ。
「ハオリュウ。あんた、ちゃんと寝たのか?」
シュアンは立ち上がり、ハオリュウのもとに寄る。彼を車椅子からソファーに移動させるためだ。
普段は杖を使っているハオリュウであるが、シュアンが介助者として自然に動けるよう、この数週間、ふたりでいるときは努めて車椅子で行動していた。今日は、その訓練の成果を示す日でもあった。
「朝早く目覚めてしまいましたけど、昨日の晩は早めに休んだので、心配ありませんよ。それより、あなたのほうが寝不足の顔に見えます」
「俺のは地顔だ」
シュアンはそう言って、皮肉めいた癖のある笑顔を浮かべる。
目つきの悪い三白眼の下には、深い隈が刻まれていた。本人の言う通りの地顔なのかは不明であるが、確かにそれは常からのものである。
ハオリュウは微苦笑した。
率直にいって、貴族の介助者としてふさわしい容貌とは言い難い。しかし、ハオリュウが最も信頼している人物がシュアンなのだから、仕方ないのだ。
「早速だが、用件に移るぞ。ユイランさんが、あんたの着せ替えを楽しみに待っているようだから、手短にいく」
ハオリュウの向かいに座ったシュアンが、彼らしくもなく姿勢を正す。
体格的には、中肉中背。どちらかといえば、やや貧相で、どこにでもいるような冴えない男だが、彼の本職は凶賊を相手にする部署の警察隊員だ。まとう雰囲気に牙を宿せば、彼が生来のものだと主張する凶相と相まって、途端に大男にも負けぬ威圧を放つ。
「ええ。それから、僕からも、あなたにお話があります」
「そうか。……こんなときの話なんざ、どうせ、互いに碌な話じゃねぇな」
「そうでしょうね」
どちらからともなく、低く笑い合う。
そして、シュアンが口火を切った。
「――今日の、摂政との会食。摂政が〈天使〉を出してきたら……、摂政が〈天使〉を使って、あんたを支配するつもりなら、俺はためらわずに、摂政と〈天使〉を殺す」
憎悪にも近いシュアンの言葉が、鋭い弾丸となって撃ち放たれた。
そのときは邪魔するなとの、牽制を込めた宣言だった。
「そう言ってくると思っていましたよ」
ハオリュウは、柔らかに口元を緩める。
剣呑な話にも関わらず、彼が、父親そっくりの穏やかな声と顔で応じれば、不思議となんでもないことのように聞こえた。鷹刀一族が持つものとはまた違った、けれどこれも魔性の一種だろう。
「なんだ、驚かないのか」
「あなたが気づいたように、僕だって気づきますよ。――〈蝿〉は〈天使〉をすべて失ったそうですが、カイウォル殿下が〈天使〉を使ってこないとも限らない、と」
ハオリュウとシュアンは、共に大切な人を〈影〉にされることで亡くした。その彼らが、〈天使〉の脳内介入を恐れるのは当然だった。
「ですが、シュアン。さすがに摂政が急死したら、国は大混乱です。四年前に先王が亡くなったときもそうでしたが、できれば避けたい事態です」
「何を言ってやがる? 『混乱』して困るのは、現在、甘い汁を貪っている奴らだけだ。底辺の人間にしてみれば、上がどうなったところで何も変わりはしない。この国は腐りきっているんだからな」
「まぁ……そうですね」
『上』にいるハオリュウは、歯切れ悪く頷くしかない。
「心配するな。あんたや藤咲家に迷惑はかけない。捕まえた〈蝿〉を犯人に仕立て上げて、丸く収める」
シュアンは鼻息荒く言い放つが、そんな簡単なことではないだろう。
それに――だ。
「そもそも、僕が〈天使〉によって〈影〉にされるなり、『呪い』を掛けられるなりする場合には、あなたは席を外されている可能性が非常に高いですよ」
「……っ!」
「それと……実のところ、僕はそれほど〈天使〉に関しては警戒していません」
「なんだって!?」
静かに告げたハオリュウに、シュアンが速攻で牙をむく。
「カイウォル殿下が〈天使〉を使えるのであれば、僕などではなく、ライバルのヤンイェン殿下か、法律上の最大の権力者である女王陛下の、どちらかを支配するほうが、よほど効果的だからです」
「!」
「それなのに、僕に接触してくるのなら、カイウォル殿下は〈天使〉を所有していない、と考えるのが妥当です」
「そう……か」
勢い込んでいただけに、面目ないのであろう。シュアンはやや顔を下げ、ぼさぼさ頭で目元を隠した。
「勿論、〈天使〉を使ってくる可能性を考慮しておくのは、悪くありません。けれど、それ以上に気を配っておく必要があるのが、〈蝿〉の存在……」
「ハオリュウ……?」
淡々と、だが確実に。ハオリュウの声色は、不穏な色合いを帯びていく。
「あの庭園で、〈蝿〉が何を研究しているのか、僕たちには想像のしようがありません。ですが、カイウォル殿下にとって、有用なものであることは確かです。――そして、そんな場所に僕を招いた以上、『それ』は、僕の気持ちを揺り動かすものであるはずです」
ハオリュウは、闇をたたえた漆黒の瞳で、じっとシュアンを見つめる。
その深い黒に、シュアンは引きずり込まれる。
「仮に――です。〈蝿〉の研究が、僕の意思をねじ曲げるようなものであった場合……。もしも僕が、〈蝿〉の技術によって、自分の意思を保てないような状況に陥ったなら――」
「……!?」
「〈天使〉の介入のように――僕が、僕でなくなった、そのときは……」
ごくりと、シュアンが唾を呑む音が聞こえた。凶相が引きつり、三白眼がその先を言うなと訴える。
けれど、低くなったハオリュウの声は厳かに響いた。
「僕を殺してください」
「――――!」
その瞬間、シュアンは、ひとことも発せなかった。
けれど、反射的に立ち上がっていた。
無意識に動いた自分に彼は驚きつつも、しかし、足は止まらずにハオリュウへと向かう。
「馬鹿野郎……っ!」
シュアンの口から漏れ出たのは、絞り出すような声だった。殴りつけるために振り上げたのであろう拳は、途中で力を失い、そのままハオリュウの肩に落とされる。
「馬鹿ではありませんよ。〈影〉のように、死んだほうがマシの事態は存在します。そうなったとき、僕が自分で自分を殺せるのなら良いのですが、今の話の前提は『僕が自分の意思を保てなくなったとき』です。だから、シュアン、あなたに頼みます」
「……」
シュアンは、凍りついたかのように動けなかった。
「あなたの手は、僕の手です。あなたが屍の山を築けば、僕の手が赤く染まる。――あの言葉を、忘れていませんよね? ……僕たちの関係は、そういう関係です」
「……っ」
「引き金を引けない僕の手の代わりに、あなたの手が引き金を引いてください。――いつだったか、レイウェンさんにも言ったことがあるでしょう? 『僕に必要な者は、僕に代わって殺せる者だ』と」
ハオリュウは、自分の肩に載せられたシュアンの手の上に、自分の手を重ねる。
「シュアン、あなたしか、いないんです」
異母姉のメイシアや、ルイフォンも、〈蝿〉の技術を警戒していた。おそらくは、ハオリュウと同じくらいに恐れていた。その気持ちはありがたかった。
けれど、ハオリュウは『自分も警戒している』と、言うわけにはいかなかった。言ったところで、なんの解決にもならないからだ。単に、異母姉に心配をかけるだけなのだ。
「僕が死んだときは、イーレオさんが、あらゆる方法で対処に当たると約束してくださっています」
「イーレオさんが……?」
「はい」
嘘ではない。
いろいろ思うところはあるようだったが、イーレオはすべて肚の中に呑み込み、ただ、ひとこと『任せろ』とだけ言ってくれた。
「だから、お願いします。もしものときは――」
そう言って、ハオリュウが念を押そうとしたときだった。
不意に、「きゃああっ!」という悲鳴が、部屋の外から響いてきた。
即座にシュアンが床を蹴り、扉を開く――!
「クーティエ!?」
レイウェンの娘のクーティエが、よろけながらも絶妙な具合に腰を曲げて踏ん張っている――という姿勢で、トレイを掲げていた。その上に載せられた、ふたつのグラスの中では、中身の茶が激しく踊っている。しかし、奇跡的に一滴もこぼれていないとう、素晴らしい運動神経であった。
そして、その後ろで、呆然とたたずむミンウェイ――。
「ご、ごめんなさいっ!」
叫びながら、クーティエは腰から体を曲げて、深々と頭を下げた。
ふたつに分けて高く結った髪が、髪飾りのリボンを中心にぴょこんと一回転するが、その衝撃にも茶は耐えた。
「ハオリュウが来たから、お茶を持っていこうとしたの。でも、ノックする前に、中の声が聞こえちゃって……、それで……」
「立ち聞きしていた、というわけだな?」
ぎろりと、シュアンが睨む。
「そ、その通りですっ! ごめんなさい! あ、でも、ミンウェイねぇは違うの!」
クーティエは、慌てたように首を振る。――その動きに合わせて、茶も揺れる。
「ミンウェイねぇは、あとから来て、立ち聞きしている私にそっと声を掛けただけなの! で、その声に私がびっくりして……」
「それで、あの悲鳴を上げたわけですね」
部屋の奥からハオリュウが問うと、戸口のクーティエは、よく見えるようにか、こくこくと大きく頷いた。
彼女の背後で、ミンウェイが申し訳なさそうな顔で「ごめんなさいね」と謝る。だが、その対象がクーティエなのか、ハオリュウたちなのかは、今ひとつ判然としなかった。
「私はユイラン様からのお使いで、『あとどのくらい、お話に時間が掛かるのか、訊いてきてほしい』と言われて来たのよ」
ハオリュウに衣装を着せるのを楽しみにしているユイランは、なかなか来ない彼に焦れて、ミンウェイに様子を見に行かせたらしい。
「状況は分かった。嬢ちゃんは聞いていて、ミンウェイは聞いてない、と。……嬢ちゃん、いつからいた?」
責め立てるようなシュアンに、クーティエは首を縮こめた上目遣いを返す。
「……『シュアンの悪人面は、地顔だから諦めるしかない』ってあたり……」
「誰も、そんなこと言ってねぇ!」
噛み付くシュアンに、ハオリュウは苦笑した。
近いやり取りはあった。実際、ハオリュウも、内心では同じことを思った。しかし、シュアンが叫んだように、口に出しては言っていない。
「まぁ、いい」
シュアンは、ふんと鼻を鳴らし、「ハオリュウ」と名を呼びながら、くるりと振り返る。
「俺の手は、お前の手だ。だが俺の手は、俺の手でもある。――俺の手はな、『一発の弾丸の重さ』を知っている。……それを、よく覚えておけ」
唐突に告げられたのは、先ほどの返事だった。
そして、解釈の難しい言葉だった。しかし、少なくとも、突っぱねられたわけではないことは伝わってくる。
「シュアン、感謝します」
ハオリュウの言葉に、シュアンは何も答えずに背を向けた。そして、おもむろに、クーティエのトレイからグラスをひとつ取り上げた。
「え?」
急に軽くなった腕への負荷に、クーティエが驚く。
けれどシュアンは、彼女の狼狽をまるきり無視して一気に茶をあおり、グラスを再びトレイに戻した。茶の分だけ軽くなったグラスの重さが、クーティエに返ってくる。
「嬢ちゃん、ご馳走様」
「えっと……?」
てっきり怒られるものだと思っていたクーティエは、狐につままれた気分だ。
「ユイランさんが待ちかねているようだから、あと十分で、俺はハオリュウを連れて行く。――それまでに、話を終わらせるんだな」
「はい?」
きょとんとするクーティエの背を軽く押し、シュアンは彼女を部屋に押し込んだ。
「ミンウェイ、行くぞ」
「緋扇さん? どういうことですか?」
「いいから、来い」
命令調でシュアンが言う。
ミンウェイは一瞬、きょとんとするものの、すぐに何かを察したようだ。美貌が輝き、この場にふさわしくないような緩んだ顔になる。
「ちょ、ちょっと! 緋扇シュアン! どういうことよ!」
「嬢ちゃん、聞いていたんだろ? だったら、あんたはハオリュウに言いたいことがあるはずだ。俺の話は終わったから、ハオリュウをあんたに譲る」
「え?」
「じゃあな」
シュアンは言い捨てると、ばたんと勢いよく扉を閉めた。
夏に差し掛かった朝日は、さすがに彼よりも早起きであったらしい。カーテンの隙間から、すうっと細く、光が覗き込んでいる。起き上がって窓を開ければ、澄んだ南風が部屋に流れ込み、青空になりきる前の、特別な色の空が広がっていた。
いよいよ、今日である。
摂政との会食と、〈蝿〉捕獲作戦の決行の日――。
手はずとしては、まずは、リュイセンの兄、草薙レイウェンの家で、皆が落ち合う。そこから人が隠れられる細工をした、例の『車』に乗り換えて出発だ。
作戦会議のときは、夜闇に紛れてハオリュウが鷹刀一族の屋敷に赴いた。しかし、今回は昼間なので、貴族が凶賊の屋敷に行くのも、その逆も避けることにしたのだ。そこで白羽の矢が立ったのが、レイウェンの家というわけだ。
彼の家であれば、仕事での付き合いがあるため、ハオリュウが出入りをしても不自然ではない。なおかつ、服飾の専門家であるユイランが、王族との会食に臨む衣装は任せてほしいと張り切っているので、都合が良かったのである。
鷹刀一族の屋敷からは、チャオラウの運転する車にルイフォンとリュイセン。それから見送りとして、メイシアとミンウェイも乗ってくるという。
メイシアの同乗は、イーレオのはからいだ。〈蝿〉に狙われているため、彼女はずっと外出を避けていたのだが、やはりルイフォンの見送りはしたいであろうと。〈蝿〉だって、摂政が庭園に来る日くらいは、おとなしくしているであろうし、万一のときでもチャオラウがいれば安全――というわけだ。
会食は、昼に予定されている。しかし、朝食を終えると、ハオリュウは早々に家を出た。
緋扇シュアンと、話をする約束があったのだ。
ハオリュウが到着したとき、案内された部屋で待っていたシュアンは、上質なソファーを堪能するかのように堂々と寝転がっていた。
あらかじめ『ふたりで、今日のことの最終確認をしたい』と言ってあったので、気を利かせたレイウェンが場所を用意してくれたのだ。そのため、シュアンは気兼ねなく、くつろいでいたのである。
「シュアン、お待たせしてすみません」
ハオリュウが声を掛けると、シュアンはむくりと起き上がる。収まりの悪い、ぼさぼさ頭が乱れているが、それは横になっていたからではなく、いつものことだ。
「ハオリュウ。あんた、ちゃんと寝たのか?」
シュアンは立ち上がり、ハオリュウのもとに寄る。彼を車椅子からソファーに移動させるためだ。
普段は杖を使っているハオリュウであるが、シュアンが介助者として自然に動けるよう、この数週間、ふたりでいるときは努めて車椅子で行動していた。今日は、その訓練の成果を示す日でもあった。
「朝早く目覚めてしまいましたけど、昨日の晩は早めに休んだので、心配ありませんよ。それより、あなたのほうが寝不足の顔に見えます」
「俺のは地顔だ」
シュアンはそう言って、皮肉めいた癖のある笑顔を浮かべる。
目つきの悪い三白眼の下には、深い隈が刻まれていた。本人の言う通りの地顔なのかは不明であるが、確かにそれは常からのものである。
ハオリュウは微苦笑した。
率直にいって、貴族の介助者としてふさわしい容貌とは言い難い。しかし、ハオリュウが最も信頼している人物がシュアンなのだから、仕方ないのだ。
「早速だが、用件に移るぞ。ユイランさんが、あんたの着せ替えを楽しみに待っているようだから、手短にいく」
ハオリュウの向かいに座ったシュアンが、彼らしくもなく姿勢を正す。
体格的には、中肉中背。どちらかといえば、やや貧相で、どこにでもいるような冴えない男だが、彼の本職は凶賊を相手にする部署の警察隊員だ。まとう雰囲気に牙を宿せば、彼が生来のものだと主張する凶相と相まって、途端に大男にも負けぬ威圧を放つ。
「ええ。それから、僕からも、あなたにお話があります」
「そうか。……こんなときの話なんざ、どうせ、互いに碌な話じゃねぇな」
「そうでしょうね」
どちらからともなく、低く笑い合う。
そして、シュアンが口火を切った。
「――今日の、摂政との会食。摂政が〈天使〉を出してきたら……、摂政が〈天使〉を使って、あんたを支配するつもりなら、俺はためらわずに、摂政と〈天使〉を殺す」
憎悪にも近いシュアンの言葉が、鋭い弾丸となって撃ち放たれた。
そのときは邪魔するなとの、牽制を込めた宣言だった。
「そう言ってくると思っていましたよ」
ハオリュウは、柔らかに口元を緩める。
剣呑な話にも関わらず、彼が、父親そっくりの穏やかな声と顔で応じれば、不思議となんでもないことのように聞こえた。鷹刀一族が持つものとはまた違った、けれどこれも魔性の一種だろう。
「なんだ、驚かないのか」
「あなたが気づいたように、僕だって気づきますよ。――〈蝿〉は〈天使〉をすべて失ったそうですが、カイウォル殿下が〈天使〉を使ってこないとも限らない、と」
ハオリュウとシュアンは、共に大切な人を〈影〉にされることで亡くした。その彼らが、〈天使〉の脳内介入を恐れるのは当然だった。
「ですが、シュアン。さすがに摂政が急死したら、国は大混乱です。四年前に先王が亡くなったときもそうでしたが、できれば避けたい事態です」
「何を言ってやがる? 『混乱』して困るのは、現在、甘い汁を貪っている奴らだけだ。底辺の人間にしてみれば、上がどうなったところで何も変わりはしない。この国は腐りきっているんだからな」
「まぁ……そうですね」
『上』にいるハオリュウは、歯切れ悪く頷くしかない。
「心配するな。あんたや藤咲家に迷惑はかけない。捕まえた〈蝿〉を犯人に仕立て上げて、丸く収める」
シュアンは鼻息荒く言い放つが、そんな簡単なことではないだろう。
それに――だ。
「そもそも、僕が〈天使〉によって〈影〉にされるなり、『呪い』を掛けられるなりする場合には、あなたは席を外されている可能性が非常に高いですよ」
「……っ!」
「それと……実のところ、僕はそれほど〈天使〉に関しては警戒していません」
「なんだって!?」
静かに告げたハオリュウに、シュアンが速攻で牙をむく。
「カイウォル殿下が〈天使〉を使えるのであれば、僕などではなく、ライバルのヤンイェン殿下か、法律上の最大の権力者である女王陛下の、どちらかを支配するほうが、よほど効果的だからです」
「!」
「それなのに、僕に接触してくるのなら、カイウォル殿下は〈天使〉を所有していない、と考えるのが妥当です」
「そう……か」
勢い込んでいただけに、面目ないのであろう。シュアンはやや顔を下げ、ぼさぼさ頭で目元を隠した。
「勿論、〈天使〉を使ってくる可能性を考慮しておくのは、悪くありません。けれど、それ以上に気を配っておく必要があるのが、〈蝿〉の存在……」
「ハオリュウ……?」
淡々と、だが確実に。ハオリュウの声色は、不穏な色合いを帯びていく。
「あの庭園で、〈蝿〉が何を研究しているのか、僕たちには想像のしようがありません。ですが、カイウォル殿下にとって、有用なものであることは確かです。――そして、そんな場所に僕を招いた以上、『それ』は、僕の気持ちを揺り動かすものであるはずです」
ハオリュウは、闇をたたえた漆黒の瞳で、じっとシュアンを見つめる。
その深い黒に、シュアンは引きずり込まれる。
「仮に――です。〈蝿〉の研究が、僕の意思をねじ曲げるようなものであった場合……。もしも僕が、〈蝿〉の技術によって、自分の意思を保てないような状況に陥ったなら――」
「……!?」
「〈天使〉の介入のように――僕が、僕でなくなった、そのときは……」
ごくりと、シュアンが唾を呑む音が聞こえた。凶相が引きつり、三白眼がその先を言うなと訴える。
けれど、低くなったハオリュウの声は厳かに響いた。
「僕を殺してください」
「――――!」
その瞬間、シュアンは、ひとことも発せなかった。
けれど、反射的に立ち上がっていた。
無意識に動いた自分に彼は驚きつつも、しかし、足は止まらずにハオリュウへと向かう。
「馬鹿野郎……っ!」
シュアンの口から漏れ出たのは、絞り出すような声だった。殴りつけるために振り上げたのであろう拳は、途中で力を失い、そのままハオリュウの肩に落とされる。
「馬鹿ではありませんよ。〈影〉のように、死んだほうがマシの事態は存在します。そうなったとき、僕が自分で自分を殺せるのなら良いのですが、今の話の前提は『僕が自分の意思を保てなくなったとき』です。だから、シュアン、あなたに頼みます」
「……」
シュアンは、凍りついたかのように動けなかった。
「あなたの手は、僕の手です。あなたが屍の山を築けば、僕の手が赤く染まる。――あの言葉を、忘れていませんよね? ……僕たちの関係は、そういう関係です」
「……っ」
「引き金を引けない僕の手の代わりに、あなたの手が引き金を引いてください。――いつだったか、レイウェンさんにも言ったことがあるでしょう? 『僕に必要な者は、僕に代わって殺せる者だ』と」
ハオリュウは、自分の肩に載せられたシュアンの手の上に、自分の手を重ねる。
「シュアン、あなたしか、いないんです」
異母姉のメイシアや、ルイフォンも、〈蝿〉の技術を警戒していた。おそらくは、ハオリュウと同じくらいに恐れていた。その気持ちはありがたかった。
けれど、ハオリュウは『自分も警戒している』と、言うわけにはいかなかった。言ったところで、なんの解決にもならないからだ。単に、異母姉に心配をかけるだけなのだ。
「僕が死んだときは、イーレオさんが、あらゆる方法で対処に当たると約束してくださっています」
「イーレオさんが……?」
「はい」
嘘ではない。
いろいろ思うところはあるようだったが、イーレオはすべて肚の中に呑み込み、ただ、ひとこと『任せろ』とだけ言ってくれた。
「だから、お願いします。もしものときは――」
そう言って、ハオリュウが念を押そうとしたときだった。
不意に、「きゃああっ!」という悲鳴が、部屋の外から響いてきた。
即座にシュアンが床を蹴り、扉を開く――!
「クーティエ!?」
レイウェンの娘のクーティエが、よろけながらも絶妙な具合に腰を曲げて踏ん張っている――という姿勢で、トレイを掲げていた。その上に載せられた、ふたつのグラスの中では、中身の茶が激しく踊っている。しかし、奇跡的に一滴もこぼれていないとう、素晴らしい運動神経であった。
そして、その後ろで、呆然とたたずむミンウェイ――。
「ご、ごめんなさいっ!」
叫びながら、クーティエは腰から体を曲げて、深々と頭を下げた。
ふたつに分けて高く結った髪が、髪飾りのリボンを中心にぴょこんと一回転するが、その衝撃にも茶は耐えた。
「ハオリュウが来たから、お茶を持っていこうとしたの。でも、ノックする前に、中の声が聞こえちゃって……、それで……」
「立ち聞きしていた、というわけだな?」
ぎろりと、シュアンが睨む。
「そ、その通りですっ! ごめんなさい! あ、でも、ミンウェイねぇは違うの!」
クーティエは、慌てたように首を振る。――その動きに合わせて、茶も揺れる。
「ミンウェイねぇは、あとから来て、立ち聞きしている私にそっと声を掛けただけなの! で、その声に私がびっくりして……」
「それで、あの悲鳴を上げたわけですね」
部屋の奥からハオリュウが問うと、戸口のクーティエは、よく見えるようにか、こくこくと大きく頷いた。
彼女の背後で、ミンウェイが申し訳なさそうな顔で「ごめんなさいね」と謝る。だが、その対象がクーティエなのか、ハオリュウたちなのかは、今ひとつ判然としなかった。
「私はユイラン様からのお使いで、『あとどのくらい、お話に時間が掛かるのか、訊いてきてほしい』と言われて来たのよ」
ハオリュウに衣装を着せるのを楽しみにしているユイランは、なかなか来ない彼に焦れて、ミンウェイに様子を見に行かせたらしい。
「状況は分かった。嬢ちゃんは聞いていて、ミンウェイは聞いてない、と。……嬢ちゃん、いつからいた?」
責め立てるようなシュアンに、クーティエは首を縮こめた上目遣いを返す。
「……『シュアンの悪人面は、地顔だから諦めるしかない』ってあたり……」
「誰も、そんなこと言ってねぇ!」
噛み付くシュアンに、ハオリュウは苦笑した。
近いやり取りはあった。実際、ハオリュウも、内心では同じことを思った。しかし、シュアンが叫んだように、口に出しては言っていない。
「まぁ、いい」
シュアンは、ふんと鼻を鳴らし、「ハオリュウ」と名を呼びながら、くるりと振り返る。
「俺の手は、お前の手だ。だが俺の手は、俺の手でもある。――俺の手はな、『一発の弾丸の重さ』を知っている。……それを、よく覚えておけ」
唐突に告げられたのは、先ほどの返事だった。
そして、解釈の難しい言葉だった。しかし、少なくとも、突っぱねられたわけではないことは伝わってくる。
「シュアン、感謝します」
ハオリュウの言葉に、シュアンは何も答えずに背を向けた。そして、おもむろに、クーティエのトレイからグラスをひとつ取り上げた。
「え?」
急に軽くなった腕への負荷に、クーティエが驚く。
けれどシュアンは、彼女の狼狽をまるきり無視して一気に茶をあおり、グラスを再びトレイに戻した。茶の分だけ軽くなったグラスの重さが、クーティエに返ってくる。
「嬢ちゃん、ご馳走様」
「えっと……?」
てっきり怒られるものだと思っていたクーティエは、狐につままれた気分だ。
「ユイランさんが待ちかねているようだから、あと十分で、俺はハオリュウを連れて行く。――それまでに、話を終わらせるんだな」
「はい?」
きょとんとするクーティエの背を軽く押し、シュアンは彼女を部屋に押し込んだ。
「ミンウェイ、行くぞ」
「緋扇さん? どういうことですか?」
「いいから、来い」
命令調でシュアンが言う。
ミンウェイは一瞬、きょとんとするものの、すぐに何かを察したようだ。美貌が輝き、この場にふさわしくないような緩んだ顔になる。
「ちょ、ちょっと! 緋扇シュアン! どういうことよ!」
「嬢ちゃん、聞いていたんだろ? だったら、あんたはハオリュウに言いたいことがあるはずだ。俺の話は終わったから、ハオリュウをあんたに譲る」
「え?」
「じゃあな」
シュアンは言い捨てると、ばたんと勢いよく扉を閉めた。