残酷な描写あり
5.魂の片割れの棲まう部屋-2
ひとまず、面倒な仕事は終わった。
〈蝿〉は、やれやれとばかりに溜め息をついた。
先ほどは、この神聖な研究室に、俗人が土足で踏み込んできた。許しがたい蛮行であった。
白衣の長い裾を翻し、〈蝿〉は研究室を大股に歩き回る。抑えきれない苛立ちを鎮めようと、彼の足は無意識のうちに動いていた。
それは、自分の領域を侵された、獣の習性とよく似ていた。他者の気配の残る場所を、獣であれば自分の臭いで清めるように、摂政とその客の貴族が存在した痕跡を〈蝿〉は足音でもって消し去ろうとする。
窓のない地下室に、硬い床を打ち鳴らす靴音だけが響いていた。
「……っ」
〈蝿〉の口から舌打ちが漏れる。
本来、彼には摂政カイウォルに従う義務はない。
摂政とは、王宮で政務を執る人間である。それに対して、〈蝿〉の属する〈七つの大罪〉は、神殿に拠点を置く研究機関。まったく別系統の組織だ。
勿論、王宮にしろ、神殿にしろ、頂点に立つのは王である。だからカイウォルとしては、摂政という王の代理の職にある自分には、〈蝿〉に指図する資格があると言いたいのだろう。しかし、それはとんでもない間違いだ。
〈悪魔〉とは、『真の王から創世神話の真実を告げられ、それをもとに研究を行う者』だ。
〈悪魔〉たちは、打ち明けられた王族の『秘密』を決して外部に漏らさぬ誓いの証として『契約』を交わす。口外したら死を約束すると、脳に刻み込まれる。
だが『契約』は、王との主従関係の契りではない。あくまでも取り引きであり、『秘密』の流布を恐れる用心深い王が保険をかけているだけだ。
では、何ゆえに研究者たちが、命を預けるような『契約』を受け入れてまで〈悪魔〉となるのかといえば、見返りに魅力があるからだ。
王が提供する、潤沢な資金。どんなに人の道を外れた研究をしても許される、絶対の加護。蓄積された門外不出の技術に触れられる、唯一の手段……。
天秤の皿の左右に、命と見返りを載せたとき、そのままで見返りに傾く者はまずいない。けれど、命の皿から『良心』という分銅を取り除くことができたなら……。命の皿は、あっけないほど簡単に軽くなる。
すなわち、〈悪魔〉とは、『研究のために、魂を捧げた者』。
〈七つの大罪〉の研究者が、『悪魔』と呼ばれる所以だ。
しかし、あの摂政は禁秘の技術の崇高さも、研究への高潔なる情熱も、まるで理解していない。カイウォルの頭にあるのは、権力にまつわる利害関係だけだ。
奴は、我欲の塊だ。
〈蝿〉は、ふんと鼻を鳴らす。非常に不快であった。
それでも〈蝿〉がカイウォルを立ててやるのは、本来の姿の〈七つの大罪〉が失われ、彼を蘇らせたホンシュアも死んだ今、彼の生活の保証をしているのがカイウォルだからである。
恒久的な関係を持つつもりなど毛頭ないが、彼は、ある意味で『まだ、生まれたばかり』だ。現状について、知らないことが多すぎる。『独り立ち』するまで、もう少し時間がほしい。
だから、手を組む。
〈蝿〉は、カイウォルに『ライシェン』を提供する。
カイウォルは、〈蝿〉に資金と安全を保証する。
対等な関係であるはずだ。――それが、高慢な王族に通じるわけもないが。
そして、上流階級の人間を相手にする場合、適当に機嫌をとっておいたほうが扱いやすいことなど、〈蝿〉は百も承知していた。
彼は、がりがりと掻きむしるように頭を掻いた。そして何気なく、抜けて指に絡まった髪を見やる。
黒い毛に混じり、白髪が一本、きらりと光った。
「……」
三十代の記憶を持つ彼にとって、五十路手前のこの体は、肉体的にも精神的にも苦痛だった。研究日誌を付ける際に、老眼が混じっていることに気づいた日には、おぞましさに吐き気すらもよおした。
こんな『自分』という存在を作ったホンシュアを恨んだ。
何もかもが宙ぶらりんなまま、勝手に死んだ彼女が憎かった。
そして、姿を見たこともないホンシュアの本体、鷹刀セレイエを呪った。
すべての元凶は、『デヴァイン・シンフォニア計画』を作った、鷹刀セレイエだ。
彼女は今どこにいて、何をしているのか。
彼女は間違いなく、王族と深い繋がりがある。それは、『ライシェン』が証明している。
〈蝿〉は『ライシェン』の硝子ケースの前で立ち止まり、じっと彼を見つめた。白金の髪の胎児は、培養液に体を預け、夢見るように眠っていた。
経過は順調だった。あと少しで凍結保存できるだろう。
ここで初めて、〈蝿〉は、ほんの少し表情を緩めた。
『ライシェン』は、摂政カイウォルへの切り札という『駒』ではあるが、同時に〈蝿〉の大切な研究の成果でもある。彼なりの愛情を注いでいた。
〈蝿〉が足を止めたことで、研究室は静けさを取り戻した。ほぼ無音となった室内を、空気清浄機の運転音が低くうなりを上げる。それに混じり、階段を降りてくる足音が、わずかに聞こえてきた。
斑目タオロンが来たのだろう。
〈悪魔〉でも王族でもない人間に、硝子ケースに入った〈神の御子〉を見られるわけにはいかない。〈蝿〉は、『ライシェン』に黒い布を掛けた。
そして、机に向かって書き物をしているふりをしていると、ほどなくしてタオロンが研究室の扉を叩く。
「待っていましたよ」
〈蝿〉は平坦な声で出迎えた。本当は待ちわびていたなど、おくびにも出さない。
「まだ館の中に客がいるようだが、今でいいのか?」
「構いません。もう摂政殿下は、研究室の視察を終えられましたからね」
淡々と、そう答える。
タオロンのことは、先ほど〈蝿〉が呼びつけた。彼を連れて、『ミンウェイ』を迎えに行くためである。
あんな埃っぽい部屋に、いつまでも彼女を置いておけるわけがない。一刻も早く、この清浄な研究室に戻すべきだった。
――〈蝿〉は、摂政が研究室に来ると聞いて、『ミンウェイ』を隠すことを考えた。あの男の目に『ミンウェイ』の姿が映るなど、想像しただけで虫唾が走ったからだ。
そして、ここに移り住んだばかりのころに見つけた、王妃の支度部屋に彼女を連れて行くことを思いついた。豪華な衣装や、立派な化粧台のある、彼女にふさわしい美しい部屋だった。
それが今朝、数カ月ぶりに訪れて驚いた。
すっかり埃にまみれていた。かといって、今更、場所を変える余裕もなく、そのまま彼女を置いてきてしまったのだ……。
『ライシェン』には、布を掛けてタオロンの目を誤魔化すにとどめ、『ミンウェイ』のことは手間を掛けて、丁重に別室に移す。ここに、ふたつの硝子ケースに対する、〈蝿〉の想いの差が如実に現れていた。
「それでは行きましょうか」
〈蝿〉が白衣の裾を翻すと、タオロンもあとに続いて研究室を出た。
狭く暗い地下通路に、ふたつの足音が木霊していた。
しばらく行くと、階段にたどり着く。上階に繋がる、唯一の手段だ。
地上の階にはエレベーターが完備されているが、地下には通っていない。地下の研究室は〈蝿〉がこの館に居を構えるにあたり、あとから作られたものであり、もとからあるエレベーターを伸ばすのが困難だったためだ。
そして、この階段こそが、『ミンウェイ』の移動に、タオロンが必要となる理由だった。
『ミンウェイ』の大型の硝子ケースには、相応の重量がある。運搬にはストレッチャーが不可欠なのだが、車輪は階段を越えられない。
故に、ここだけは、ふたりがかりで人の手で、となるわけだ。
今まで、〈蝿〉は階段に不便を感じたことはなかった。勿論、エレベーターのほうが自室との行き来が楽であろうが、この老化した体を少しでも鍛えるためには、かえって健康的で良いとすら思っていた。
しかし、今日だけは別だった。
〈蝿〉は、神経質な眉間に皺を寄せる。
小生意気な貴族の子供に、さも当然とばかりに車椅子を運ばされたのを思い出したのだ。
あの子供は、藤咲メイシアの異母弟だ。〈蝿〉のことを知っていて、わざと人夫の扱いをしたのだ。小賢しさに、はらわたが煮えくり返る。
そう――。
あの子供は、『藤咲メイシア』の異母弟なのだ。
摂政カイウォルが、あの餓鬼を囲い込もうとするのには政治的な意図もあろうが、『デヴァイン・シンフォニア計画』とも無関係ではないだろう。
摂政は、藤咲メイシアが生きていることを知っていた。
もしや奴も『藤咲メイシアの正体』を知っているのだろうか……?
〈蝿〉の内部を焦りの感情が駆け抜ける。
そうであれば、摂政がなんらかの行動に移る前に、藤咲メイシアを手に入れる必要がある――!
「……っ」
知らずのうちに肩に力が入っていたことに気づき、〈蝿〉は自嘲した。今は、『ミンウェイ』を迎えに行くところだ。険しい顔は似合わない。
冷静さを取り戻し、後ろにいるタオロンに不審に思われなかったかを、少しだけ気に掛ける。イノシシ坊やになんと思われようとも構わないのだが、余裕のないところを他人に見せるのは、彼の美学に反するからだ。
背後の様子を探り……〈蝿〉は首をかしげた。
タオロンの気配が揺れていた。
口数の多い男ではないので、黙々とついてくるだけなのは不思議ではない。しかし、妙な緊張感を身にまとっている。無理に心を落ち着けようとして、かえって気を乱しているのが明らかだった。
「どうかされましたか?」
「……っ! いや……何も!」
振り返った〈蝿〉に、タオロンは大仰な素振りで答えた。
それは、ルイフォンたちが来ていることを聞いた彼が、平常心でいられなかったためなのだが、当然のことながら〈蝿〉はそんなことを知らない。
脅えたようにも見えるその仕草に、だから〈蝿〉は勘違いをした。これから迎えに行く『ミンウェイ』に、タオロンは憎悪と畏怖を抱いているのであると――。
今朝、『ミンウェイ』を王妃の部屋に連れて行くとき、彼女を初めて見たタオロンは、〈蝿〉に憤怒の表情をぶつけてきた。
おそらく、彼女を人体実験の被験者か何かだと思ったのだろう。だから、視察に来るという摂政の目から、彼女を隠そうとしている。そう解釈したのだ。
タオロンは、〈七つの大罪〉の技術を『人として許されない』と言って嫌悪している。いつだったか、彼の怪我の治癒に〈七つの大罪〉の技術を用いたと教えたら、自分の傷跡を穢らわしいものを見る目で睨みつけていた。
それでも『ミンウェイ』を運んでいる間、口ではひとこともなかった。
自分の立場をわきまえていて、余計なことを言ってはならぬと分かっているのだ。
典型的な『非捕食者』だ。これでは斑目一族にいいように利用されていたのも、仕方ないといえよう。
〈蝿〉は、タオロンに憐れすら覚える。
娘さえ人質に取っていれば、非常に従順な部下であることを〈蝿〉は誰よりもよく知っている。だからこそ、こうして『ミンウェイ』を運ぶのにも、金で雇った私兵ではなくタオロンを使っているのだ。
条件つきであるのは承知していたが、〈蝿〉はタオロンを信頼していた。
「『彼女』は、私の妻ですよ」
わずかに笑みをこぼしながら、〈蝿〉は告げた。
わざわざ、タオロンに教えてやる必要はないのは分かっている。ただ、得体の知れない不気味な『もの』を見る目を、彼女に向けてほしくなかったのだ。
「二十歳になる前に亡くなりましたけどね」
「――!」
「禁忌に触れたと、私を責めますか?」
「……っ、俺は――」
〈蝿〉の問いに、タオロンはうめくような低い声を漏らし、途中で唇を噛んでうつむく。
もとより、どんな返答も期待していない。だが、これでタオロンは、彼女のことを『人』として見るようになる。そういう男だ。
実のところ、あの『ミンウェイ』が何者なのかは、〈蝿〉も知らない。
彼女は、彼がホンシュアによって蘇らされたときから、彼のそばに居た。彼が目覚めた手術台の近くに、彼女の硝子ケースが置かれていたのだ。
彼が知っていることは、それだけだ。けれども、彼女がミンウェイである以上、彼の愛する者だった。
押し黙ったままのタオロンを残し、〈蝿〉は踵を返そうとした。そのとき、野太い声が「〈蝿〉」と呼び止めた。
「死んだ〈天使〉ホンシュアが、俺に尋ねたことがある」
「〈蛇〉が? あなたに何を?」
タオロンの口から出るにしては、意外な名前だった。〈蝿〉は、にわかに興味を抱く。
「『もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったら、生き返らせたいか』――と」
「……!」
それは、〈蝿〉が――ヘイシャオが、希ったことだ。
心を撃ち砕かれたかのように、〈蝿〉の動きが止まった。
そしてタオロンもまた、次の句を詰まらせていた。猪突猛進の彼にしては珍しいことだった。
「……つまり、『彼女』は……。いや、なんでもねぇ……」
何かを振り切るように頭を振り、タオロンは太い眉に力を込めて言葉を打ち切る。
沈黙が流れた。
ホンシュアは何故、そんなことをタオロンに問うたのだろう。〈蝿〉はそう思い、すぐに答えに行き着く。
「ああ……、そうでした。あなたも妻を亡くされていましたね」
その呟きは、特にタオロンに向けたものではなかったのだが、そばにいた彼は当然、自分に向けられたものだと解釈した。
「『妻』じゃねぇよ。俺は、籍も入れてやれなかった。――糞が……」
毒づいて、そっぽを向く。地下通路の薄暗さに隠されているが、おそらく最愛の人を想う顔をしているのだろう。
妻に尽くせなかったことを後悔しているのだ。……彼も。
でも――。
「あなたは『生き返らせたいとは思わない』と、答えたのでしょう?」
〈蝿〉の断言に、タオロンは目を見開いた。
「ああ。……何故、分かった?」
「簡単なことです――」
不器用で直情的な彼が、禁忌の技術を受け入れるわけがない。
「――あなたが『悪魔』ではないからですよ」
それだけ告げると、〈蝿〉は階段を登り始めた。
上階から漏れてきた光が〈蝿〉を照らし、黒い影を濃く伸ばした。それは、まるで悪魔の翼のようであった。
〈蝿〉は、やれやれとばかりに溜め息をついた。
先ほどは、この神聖な研究室に、俗人が土足で踏み込んできた。許しがたい蛮行であった。
白衣の長い裾を翻し、〈蝿〉は研究室を大股に歩き回る。抑えきれない苛立ちを鎮めようと、彼の足は無意識のうちに動いていた。
それは、自分の領域を侵された、獣の習性とよく似ていた。他者の気配の残る場所を、獣であれば自分の臭いで清めるように、摂政とその客の貴族が存在した痕跡を〈蝿〉は足音でもって消し去ろうとする。
窓のない地下室に、硬い床を打ち鳴らす靴音だけが響いていた。
「……っ」
〈蝿〉の口から舌打ちが漏れる。
本来、彼には摂政カイウォルに従う義務はない。
摂政とは、王宮で政務を執る人間である。それに対して、〈蝿〉の属する〈七つの大罪〉は、神殿に拠点を置く研究機関。まったく別系統の組織だ。
勿論、王宮にしろ、神殿にしろ、頂点に立つのは王である。だからカイウォルとしては、摂政という王の代理の職にある自分には、〈蝿〉に指図する資格があると言いたいのだろう。しかし、それはとんでもない間違いだ。
〈悪魔〉とは、『真の王から創世神話の真実を告げられ、それをもとに研究を行う者』だ。
〈悪魔〉たちは、打ち明けられた王族の『秘密』を決して外部に漏らさぬ誓いの証として『契約』を交わす。口外したら死を約束すると、脳に刻み込まれる。
だが『契約』は、王との主従関係の契りではない。あくまでも取り引きであり、『秘密』の流布を恐れる用心深い王が保険をかけているだけだ。
では、何ゆえに研究者たちが、命を預けるような『契約』を受け入れてまで〈悪魔〉となるのかといえば、見返りに魅力があるからだ。
王が提供する、潤沢な資金。どんなに人の道を外れた研究をしても許される、絶対の加護。蓄積された門外不出の技術に触れられる、唯一の手段……。
天秤の皿の左右に、命と見返りを載せたとき、そのままで見返りに傾く者はまずいない。けれど、命の皿から『良心』という分銅を取り除くことができたなら……。命の皿は、あっけないほど簡単に軽くなる。
すなわち、〈悪魔〉とは、『研究のために、魂を捧げた者』。
〈七つの大罪〉の研究者が、『悪魔』と呼ばれる所以だ。
しかし、あの摂政は禁秘の技術の崇高さも、研究への高潔なる情熱も、まるで理解していない。カイウォルの頭にあるのは、権力にまつわる利害関係だけだ。
奴は、我欲の塊だ。
〈蝿〉は、ふんと鼻を鳴らす。非常に不快であった。
それでも〈蝿〉がカイウォルを立ててやるのは、本来の姿の〈七つの大罪〉が失われ、彼を蘇らせたホンシュアも死んだ今、彼の生活の保証をしているのがカイウォルだからである。
恒久的な関係を持つつもりなど毛頭ないが、彼は、ある意味で『まだ、生まれたばかり』だ。現状について、知らないことが多すぎる。『独り立ち』するまで、もう少し時間がほしい。
だから、手を組む。
〈蝿〉は、カイウォルに『ライシェン』を提供する。
カイウォルは、〈蝿〉に資金と安全を保証する。
対等な関係であるはずだ。――それが、高慢な王族に通じるわけもないが。
そして、上流階級の人間を相手にする場合、適当に機嫌をとっておいたほうが扱いやすいことなど、〈蝿〉は百も承知していた。
彼は、がりがりと掻きむしるように頭を掻いた。そして何気なく、抜けて指に絡まった髪を見やる。
黒い毛に混じり、白髪が一本、きらりと光った。
「……」
三十代の記憶を持つ彼にとって、五十路手前のこの体は、肉体的にも精神的にも苦痛だった。研究日誌を付ける際に、老眼が混じっていることに気づいた日には、おぞましさに吐き気すらもよおした。
こんな『自分』という存在を作ったホンシュアを恨んだ。
何もかもが宙ぶらりんなまま、勝手に死んだ彼女が憎かった。
そして、姿を見たこともないホンシュアの本体、鷹刀セレイエを呪った。
すべての元凶は、『デヴァイン・シンフォニア計画』を作った、鷹刀セレイエだ。
彼女は今どこにいて、何をしているのか。
彼女は間違いなく、王族と深い繋がりがある。それは、『ライシェン』が証明している。
〈蝿〉は『ライシェン』の硝子ケースの前で立ち止まり、じっと彼を見つめた。白金の髪の胎児は、培養液に体を預け、夢見るように眠っていた。
経過は順調だった。あと少しで凍結保存できるだろう。
ここで初めて、〈蝿〉は、ほんの少し表情を緩めた。
『ライシェン』は、摂政カイウォルへの切り札という『駒』ではあるが、同時に〈蝿〉の大切な研究の成果でもある。彼なりの愛情を注いでいた。
〈蝿〉が足を止めたことで、研究室は静けさを取り戻した。ほぼ無音となった室内を、空気清浄機の運転音が低くうなりを上げる。それに混じり、階段を降りてくる足音が、わずかに聞こえてきた。
斑目タオロンが来たのだろう。
〈悪魔〉でも王族でもない人間に、硝子ケースに入った〈神の御子〉を見られるわけにはいかない。〈蝿〉は、『ライシェン』に黒い布を掛けた。
そして、机に向かって書き物をしているふりをしていると、ほどなくしてタオロンが研究室の扉を叩く。
「待っていましたよ」
〈蝿〉は平坦な声で出迎えた。本当は待ちわびていたなど、おくびにも出さない。
「まだ館の中に客がいるようだが、今でいいのか?」
「構いません。もう摂政殿下は、研究室の視察を終えられましたからね」
淡々と、そう答える。
タオロンのことは、先ほど〈蝿〉が呼びつけた。彼を連れて、『ミンウェイ』を迎えに行くためである。
あんな埃っぽい部屋に、いつまでも彼女を置いておけるわけがない。一刻も早く、この清浄な研究室に戻すべきだった。
――〈蝿〉は、摂政が研究室に来ると聞いて、『ミンウェイ』を隠すことを考えた。あの男の目に『ミンウェイ』の姿が映るなど、想像しただけで虫唾が走ったからだ。
そして、ここに移り住んだばかりのころに見つけた、王妃の支度部屋に彼女を連れて行くことを思いついた。豪華な衣装や、立派な化粧台のある、彼女にふさわしい美しい部屋だった。
それが今朝、数カ月ぶりに訪れて驚いた。
すっかり埃にまみれていた。かといって、今更、場所を変える余裕もなく、そのまま彼女を置いてきてしまったのだ……。
『ライシェン』には、布を掛けてタオロンの目を誤魔化すにとどめ、『ミンウェイ』のことは手間を掛けて、丁重に別室に移す。ここに、ふたつの硝子ケースに対する、〈蝿〉の想いの差が如実に現れていた。
「それでは行きましょうか」
〈蝿〉が白衣の裾を翻すと、タオロンもあとに続いて研究室を出た。
狭く暗い地下通路に、ふたつの足音が木霊していた。
しばらく行くと、階段にたどり着く。上階に繋がる、唯一の手段だ。
地上の階にはエレベーターが完備されているが、地下には通っていない。地下の研究室は〈蝿〉がこの館に居を構えるにあたり、あとから作られたものであり、もとからあるエレベーターを伸ばすのが困難だったためだ。
そして、この階段こそが、『ミンウェイ』の移動に、タオロンが必要となる理由だった。
『ミンウェイ』の大型の硝子ケースには、相応の重量がある。運搬にはストレッチャーが不可欠なのだが、車輪は階段を越えられない。
故に、ここだけは、ふたりがかりで人の手で、となるわけだ。
今まで、〈蝿〉は階段に不便を感じたことはなかった。勿論、エレベーターのほうが自室との行き来が楽であろうが、この老化した体を少しでも鍛えるためには、かえって健康的で良いとすら思っていた。
しかし、今日だけは別だった。
〈蝿〉は、神経質な眉間に皺を寄せる。
小生意気な貴族の子供に、さも当然とばかりに車椅子を運ばされたのを思い出したのだ。
あの子供は、藤咲メイシアの異母弟だ。〈蝿〉のことを知っていて、わざと人夫の扱いをしたのだ。小賢しさに、はらわたが煮えくり返る。
そう――。
あの子供は、『藤咲メイシア』の異母弟なのだ。
摂政カイウォルが、あの餓鬼を囲い込もうとするのには政治的な意図もあろうが、『デヴァイン・シンフォニア計画』とも無関係ではないだろう。
摂政は、藤咲メイシアが生きていることを知っていた。
もしや奴も『藤咲メイシアの正体』を知っているのだろうか……?
〈蝿〉の内部を焦りの感情が駆け抜ける。
そうであれば、摂政がなんらかの行動に移る前に、藤咲メイシアを手に入れる必要がある――!
「……っ」
知らずのうちに肩に力が入っていたことに気づき、〈蝿〉は自嘲した。今は、『ミンウェイ』を迎えに行くところだ。険しい顔は似合わない。
冷静さを取り戻し、後ろにいるタオロンに不審に思われなかったかを、少しだけ気に掛ける。イノシシ坊やになんと思われようとも構わないのだが、余裕のないところを他人に見せるのは、彼の美学に反するからだ。
背後の様子を探り……〈蝿〉は首をかしげた。
タオロンの気配が揺れていた。
口数の多い男ではないので、黙々とついてくるだけなのは不思議ではない。しかし、妙な緊張感を身にまとっている。無理に心を落ち着けようとして、かえって気を乱しているのが明らかだった。
「どうかされましたか?」
「……っ! いや……何も!」
振り返った〈蝿〉に、タオロンは大仰な素振りで答えた。
それは、ルイフォンたちが来ていることを聞いた彼が、平常心でいられなかったためなのだが、当然のことながら〈蝿〉はそんなことを知らない。
脅えたようにも見えるその仕草に、だから〈蝿〉は勘違いをした。これから迎えに行く『ミンウェイ』に、タオロンは憎悪と畏怖を抱いているのであると――。
今朝、『ミンウェイ』を王妃の部屋に連れて行くとき、彼女を初めて見たタオロンは、〈蝿〉に憤怒の表情をぶつけてきた。
おそらく、彼女を人体実験の被験者か何かだと思ったのだろう。だから、視察に来るという摂政の目から、彼女を隠そうとしている。そう解釈したのだ。
タオロンは、〈七つの大罪〉の技術を『人として許されない』と言って嫌悪している。いつだったか、彼の怪我の治癒に〈七つの大罪〉の技術を用いたと教えたら、自分の傷跡を穢らわしいものを見る目で睨みつけていた。
それでも『ミンウェイ』を運んでいる間、口ではひとこともなかった。
自分の立場をわきまえていて、余計なことを言ってはならぬと分かっているのだ。
典型的な『非捕食者』だ。これでは斑目一族にいいように利用されていたのも、仕方ないといえよう。
〈蝿〉は、タオロンに憐れすら覚える。
娘さえ人質に取っていれば、非常に従順な部下であることを〈蝿〉は誰よりもよく知っている。だからこそ、こうして『ミンウェイ』を運ぶのにも、金で雇った私兵ではなくタオロンを使っているのだ。
条件つきであるのは承知していたが、〈蝿〉はタオロンを信頼していた。
「『彼女』は、私の妻ですよ」
わずかに笑みをこぼしながら、〈蝿〉は告げた。
わざわざ、タオロンに教えてやる必要はないのは分かっている。ただ、得体の知れない不気味な『もの』を見る目を、彼女に向けてほしくなかったのだ。
「二十歳になる前に亡くなりましたけどね」
「――!」
「禁忌に触れたと、私を責めますか?」
「……っ、俺は――」
〈蝿〉の問いに、タオロンはうめくような低い声を漏らし、途中で唇を噛んでうつむく。
もとより、どんな返答も期待していない。だが、これでタオロンは、彼女のことを『人』として見るようになる。そういう男だ。
実のところ、あの『ミンウェイ』が何者なのかは、〈蝿〉も知らない。
彼女は、彼がホンシュアによって蘇らされたときから、彼のそばに居た。彼が目覚めた手術台の近くに、彼女の硝子ケースが置かれていたのだ。
彼が知っていることは、それだけだ。けれども、彼女がミンウェイである以上、彼の愛する者だった。
押し黙ったままのタオロンを残し、〈蝿〉は踵を返そうとした。そのとき、野太い声が「〈蝿〉」と呼び止めた。
「死んだ〈天使〉ホンシュアが、俺に尋ねたことがある」
「〈蛇〉が? あなたに何を?」
タオロンの口から出るにしては、意外な名前だった。〈蝿〉は、にわかに興味を抱く。
「『もしも、死んだ人間を生き返らせる方法があったら、生き返らせたいか』――と」
「……!」
それは、〈蝿〉が――ヘイシャオが、希ったことだ。
心を撃ち砕かれたかのように、〈蝿〉の動きが止まった。
そしてタオロンもまた、次の句を詰まらせていた。猪突猛進の彼にしては珍しいことだった。
「……つまり、『彼女』は……。いや、なんでもねぇ……」
何かを振り切るように頭を振り、タオロンは太い眉に力を込めて言葉を打ち切る。
沈黙が流れた。
ホンシュアは何故、そんなことをタオロンに問うたのだろう。〈蝿〉はそう思い、すぐに答えに行き着く。
「ああ……、そうでした。あなたも妻を亡くされていましたね」
その呟きは、特にタオロンに向けたものではなかったのだが、そばにいた彼は当然、自分に向けられたものだと解釈した。
「『妻』じゃねぇよ。俺は、籍も入れてやれなかった。――糞が……」
毒づいて、そっぽを向く。地下通路の薄暗さに隠されているが、おそらく最愛の人を想う顔をしているのだろう。
妻に尽くせなかったことを後悔しているのだ。……彼も。
でも――。
「あなたは『生き返らせたいとは思わない』と、答えたのでしょう?」
〈蝿〉の断言に、タオロンは目を見開いた。
「ああ。……何故、分かった?」
「簡単なことです――」
不器用で直情的な彼が、禁忌の技術を受け入れるわけがない。
「――あなたが『悪魔』ではないからですよ」
それだけ告げると、〈蝿〉は階段を登り始めた。
上階から漏れてきた光が〈蝿〉を照らし、黒い影を濃く伸ばした。それは、まるで悪魔の翼のようであった。