残酷な描写あり
7.万華鏡の星の巡りに-3
――――!?
菱形の刃の先が〈蝿〉の背中に届く瞬間、奴の体が素早く動いた。
「嘘だろ……」
ルイフォンの唇が、かすれた声を漏らす。
〈蝿〉は完全に無防備だった。
けれど奴は、刃の生み出す、かすかな風圧を感じ取った。
白衣の背中は、前へと向かう。
無我夢中で、倒れ込む。
「『ミンウェイ』!」
〈蝿〉は、硝子ケースごと『彼女』を抱きしめた。――飛んでくる凶刃から、最愛の者を守ろうと……。
その光景を、ルイフォンは呆然と見つめる。
白髪混じりの髪をかすめ、緩やかな曲線の軌道を描きながら、菱形の刃は静かに落下していった……。
失敗した。
まさかの出来ごとだった。
〈蝿〉の全神経は、『彼女』のみに向けられていた。ルイフォンの存在には、まるで気づいていなかった。
ただ、目の前に『彼女』がいたから。
だから、危険の気配を感じた瞬間に、身を挺して『彼女』を庇おうとした。
その行動が、毒刃からの回避に繋がった。
結果として、『彼女』が〈蝿〉を守ったのだ。
それは、切なすぎる〈蝿〉と『彼女』の情愛――。
「……」
ルイフォンは無意識に奥歯を噛みしめた。
――けれど、負けるわけにはいかない。
彼は、予備の刃を袖口に仕込む。そのとき、〈蝿〉がゆらりと体を起こした。
「鷹刀の子猫……」
長い白衣の裾を翻し、振り返る。
その顔は、まさに『悪魔』。禍々しく、妖しく。あらゆる憎悪を煮詰め、濃厚で純粋な『負』を極めたかのような、玲瓏な魔の美しさを宿している。
「『ミンウェイ』を争いに巻き込む貴様は、万死に値する!」
低い声を轟かせ、〈蝿〉はルイフォンの死出を宣告した。
背には怨恨の陽炎が揺らめいている。それは漆黒の翼にも見え、ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
このまま続けて二投目の刃を打ち込んだところで、〈蝿〉は必ずよけるだろう。だからルイフォンは、フェイクのためのナイフを構えた。一か八かの接近戦を挑むふりをして近づき、接触と同時に〈蝿〉の皮膚に直接、毒刃を叩き込む策だ。
――多少の怪我は、覚悟の上……。
ルイフォンは腰を落とし、力を溜める。それに合わせるかのように、〈蝿〉もまた無言で構えをとった。
水を打ったような静寂が広がる。
〈蝿〉は本来、戦う者ではないという。
だが体躯は、鷹刀の血族だけあって立派だ。気配に敏感で、身が軽く、体術にも優れている。病弱であった妻のために、体を鍛えることよりも、研究に勤しむことを優先しただけなのだ。
睨み合っているだけで、迫力に押される。〈蝿〉は徒手空拳。けれど、そもそも格が違う。
攻めあぐね、額に冷や汗を浮かべたとき、壁の姿見が、きらりと銀光を反射させた。ルイフォンの背後で、何かが光ったのだ。
「!?」
ルイフォンが反応するよりも早く、〈蝿〉の視線が動く。
ひと呼吸遅れて振り返ったルイフォンが見たものは、刀を振り上げ、一直線に〈蝿〉に向かって走るリュイセンの姿だった。
「タオロン!」
〈蝿〉は素早く、手駒の名を呼ぶ。
ことの成り行きに圧倒され、傍観者となっていたタオロンが、びくりと体を震わせた。
「娘が大切なら、小倅を殺せっ!」
その命に、タオロンは、心臓をえぐり抜かれたかのように愕然とする。
「殺れっ!」
「――!」
次の瞬間。
絶望をまとったタオロンが、リュイセンを追った。
しかし、それでタオロンの刀が、リュイセンの神速に届くはずもない。だから〈蝿〉は床を蹴る。倒れていた椅子を拾い上げ、化粧台の鏡に、思い切り叩きつける――!
殺意に満ちた〈蝿〉の手元から、高く澄んだ音色が響き渡った。
「!」
リュイセンの目の前を、粉々になった鏡の破片が流星となって飛んでいく。
襲いかかってくる鋭利な星屑を、一刀しか持たぬ『神速の双刀使い』は払いのける。
数多の光の欠片が、互いを映し合いながら散っていく。細やかな輝きは、まるで万華鏡。
そして――。
「すまん!」
タオロンの悲痛の咆哮。
光の乱舞に足止めされた主のもとへ、双刀の片割れが帰ってくる。背後から、運命の糸を断ち斬る刃となって……。
万華鏡の中を赤が散り、乱反射によって無限に広がっていく。
リュイセンの体が、崩れ落ちた。
タオロンの瞳から、透明な涙がこぼれ落ちた。
そのとき――……。
部屋中のすべての輝きを一点に集めたかのように……、金の鈴が煌めきを放つ。
烈風と化したルイフォンが、駆け抜けた。
菱形の刃を固く握りしめ、その手に全体重を載せ、全身全霊でもって〈蝿〉を貫く――!
「……っ!」
〈蝿〉の口から、鈍いうめきが上がった。
肉を裂く、確かな感触。反撃を警戒し、転がるようにして場を離れたルイフォンは、しかし、わずかに顔をしかめた。
本当は、脇腹を狙っていた。だが、すんでのところで体をひねられ、防がれた。
それでも〈蝿〉の腕には、長袖の上から、菱形の刃が深々と突き刺さっている。白衣の白が、血の赤で染め上げられていく。
そう。
リュイセンは陽動を買って出てくれたのだ。
正面から対峙するのでは、ルイフォンでは〈蝿〉に勝てない。だから、リュイセンが体を張って、〈蝿〉の注意を引きつけてくれた。あらかじめ打ち合わせておいたわけではないのに、ルイフォンには兄貴分の心が手に取るように分かった。
「こんなもので……」
〈蝿〉は腕に刺さった刃を引き抜き、途中で顔色を変える。
すぐさま白衣を脱ぎ、傷口を強く吸って、血を吐き出す。
「毒が塗ってありましたね?」
「答えてやる義理はない!」
叫びながら、ルイフォンは〈蝿〉にナイフで挑みかかる。せっかく打ち込んだ毒を、吸い出させるわけにはいかない。
倒す必要はないのだ。毒が回るまで、毒抜きをする暇を与えなければよい。
ルイフォンは軽やかに〈蝿〉に飛びかかり、迎撃の蹴りを食らう前に、さっと距離を取る。その際、床に伏したままのリュイセンを、ちらりと見やる。
リュイセン……!
心の中で、ルイフォンは兄貴分の名を呼ぶ。
神速を誇るリュイセンなら、すんでのところで致命傷は避けられたはずだ。
だが、タオロンの本気の一刀は凄まじかった。傷は、かなり深いだろう。一刻も早く手当をしてやらねば、手遅れになりかねない……。
一方〈蝿〉は、毒抜きの作業を邪魔しては逃げ回るルイフォンに対し、苛立ちもあらわに舌打ちをした。
「タオロン、刀をよこしなさい!」
太い腕をだらりと垂らし、魂を抜かれたような状態のタオロンを怒鳴りつける。
ルイフォンは、はっと顔色を変えた。
貧民街で対峙したとき、〈蝿〉は双刀に近い形の、細身の刀を自在に扱っていた。ルイフォンなど足元にも及ばぬ使い手であり、死を覚悟したほどだった。
先にこちらの動きを止めてから、毒抜きに専念するつもりだろうか。
ルイフォンはそう考え、すぐに否定する。だったら、タオロンには『刀をよこせ』と言うのではなく、『ルイフォンを攻撃せよ』と命じればよいのだ。
困惑に、足が止まる。
その向こうでは、タオロンが、のろのろと刀を持つ手を上げていた。
〈蝿〉に向かって放り投げようとして、彼は、刀身から滴る血を目の当たりにする。軽いはずの双刀が、ずしりときたらしい。罪の重さを噛み締め、彼は巨躯を震わせる。
「タオロン!」
動きの鈍いタオロンを突き飛ばし、〈蝿〉が強引に刀を奪う。
まずい! と身構えたルイフォンの前で、〈蝿〉は双刀の刃を自分の腕にあてた。
「!?」
驚愕に見開いたルイフォンの瞳に、鮮血が映り込む。
〈蝿〉は、苦痛に顔を歪めながらも、毒に侵された自らの肉をえぐり取っていた。ぼたぼたと流れ落ちる血液が、豪奢な絨毯を穢していく。
「……」
ルイフォンは青ざめ、声を失う。
血みどろの腕を物ともせずに、〈蝿〉は、脱ぎ捨てた白衣を拾い上げた。刀で器用に切り裂き、止血用の紐を作る。上腕をきつく縛り、傷口には包帯のように巻きつけた。
その間、ルイフォンは、凍りついたように身じろぎひとつできない……。
処置を終えた〈蝿〉が、何ごともなかったかのようにルイフォンに声を掛けた。
「鷹刀の子猫。勝負です」
双刀の片割れを手に、〈蝿〉は嗤った。
出血はまだ止まっておらず、巻きつけた布に赤い色がにじんでいく。なのに、奴の口調には、どこか余裕があった。
本能的な危険を感じ、ルイフォンは、わずかに後ずさる。
「ですが、その前に質問です」
「質問?」
ルイフォンは眉をひそめた。
「私は気づいたのですよ。……あなたは、『ミンウェイ』のケースの設定を変更しませんでした。それは、何故ですか?」
「……え?」
思わぬ問いに、ルイフォンは虚を衝かれた。
操作パネルは、光の加減で見えにくくなっていただけだ。目を凝らすか、手で影を作ってやるかで読めるようになる。おそらく〈蝿〉は、ルイフォンが最初に投げた毒刃をかわしたあと、すぐに確認したのだろう。
しかし何故、今更こんなことを尋ねるのか……?
「適正値のままでした。――どうしてですか?」
重ねて問う〈蝿〉に、ルイフォンは戸惑いと苛立ちがないまぜになり、鼻に皺を寄せる。
「そんなの、当然だろ」
鬱陶しげに言ってから、これでは『悪魔』には分からないだろうと考え直し、ルイフォンは付け加える。諸々の怒りを込めて、高圧的に――。
「俺は、お前とは違って、悪人ではないからだ」
「なるほど。如何にも、あなたらしい答えですね」
〈蝿〉は、くっくっと喉の奥を鳴らした。
失血のためか、額が、頬が、透き通るように青白い。けれど、鷹刀の血族であることを如実に示すその顔が、壮絶までの魔性の美しさを放った。
ルイフォンの直感が、警鐘を鳴らす。――その先を言わせてはならぬと。
だが、遅かった。
「それならば――」
魅惑の低音が響く。
「タオロンの娘は、あなた方にとっても、充分に人質として有効――ということですね」
「!」
ルイフォンは息を呑む。
「違う……! ――俺は……!」
そのとき、途切れ途切れの声が、必死に割り込んだ。
「ルイ……、フォン……!」
床に伏していたリュイセンが、よろめきながら体を起こす。
「リュイセン!?」
兄貴分は重傷のはずだ。額には冷や汗がびっしりと浮かんでいる。唇の色は青みがかっており、黄金比の美貌には陰りが見えた。
なのに彼は両の足で、しかと立った。
「馬鹿野郎……! こいつの言葉に……、耳を貸すな!」
恐ろしい気迫がほとばしり、白刃が煌めく。
まばゆい銀光が勢いよく円を描き、華麗に舞い、〈蝿〉に斬りかかる。
「この死にぞこないが!」
〈蝿〉が、無傷のほうの片手で、双刀の片割れを振るう。
紫電が爆ぜた。
ひとつの刀を雷で双つに斬り裂いたかのような双子の刀。ふた振りの刀はぶつかり合い、再び、ひとつの影を形作る。
だがそれは、共にひとつの鞘に収まるためではなく、互いを滅ぼすため――!
「くっ……」
重傷を負っていたリュイセンが押される。
「リュイセン!」
ルイフォンはナイフを携え、〈蝿〉に向かって走り出す。
――刹那。リュイセンの絶叫が響いた。
「違うだろうっ!」
「え……?」
「逃げるんだ!」
耳を疑った。
兄貴分が何を言っているのか、理解できない。
「なんで……? まだ……、だって……」
リュイセンは重傷を負ってしまったが、ルイフォンはほぼ無傷だ。
それに対して〈蝿〉は、かなり失血しており、顔色が悪い。止血が必要であるし、完全に毒が抜けたかどうかも分からない。
「一度引いて、やり直せ!」
リュイセンが、撤退を判断した。
敗走を決意した。
「何故……?」
呟きながら、ルイフォンは気づく。
最悪の選択から、自分が目をそむけたことを――。
ファンルゥの命を盾に取られたら、ルイフォンとリュイセンも、タオロンのように〈蝿〉に逆らえなくなってしまう。
だから、逃げるしかない。
そして、重傷を負ったリュイセンは、逃げられる状態ではない。
つまり――。
「俺を置いて、逃げろ!」
リュイセンの腕は震えていた。
限界だった。
〈蝿〉が、にやりと口角を上げる。
そして。
リュイセンの肩から胸へと閃光が走り、一瞬遅れて、血の華が咲いた。
「ルイフォン、行け――!」
倒れながらも、リュイセンは〈蝿〉に足をかけて巻き込み、慌てる相手もろともに床を転がる。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
心は、ここに留まりたいと叫んだ。
まだ何か策はあるはずだと訴えた。
ルイフォンが、くるりと背を向けると、一本に編んだ髪が大きく思いを薙ぎ払った。金の鈴が胸元に飛び込み、持ち主の心臓を打つ。
――リュイセンの持つ、天性の野生の勘は、決して間違えない。
自分の感情よりも、兄貴分の理性を信じた。
いつもと逆だ。
ルイフォンは、壁の姿見をナイフで割りながら、部屋をあとにする。
鏡の破片によって、少しでも、あとを追いにくくなればいい。――それは、ただの言い訳だ。
無性に、何かを粉々に砕きたかっただけだ。
銀色の欠片が飛び散り、光を跳ね返しながら乱舞する。
時々刻々と形を変えていく光の紋様は、まるで万華鏡を覗いているかのよう。
ひとたび崩れた形は、二度と戻ることはない……。
この館は、摂政が貴族を接待中だ。〈蝿〉の行動は制限されている。
廊下に出てしまえば、奴は派手に騒ぎ立てて追ってくることはできない。
――だから、逃げろ。
リュイセンの思いを抱き、ルイフォンは走る。
最後に見た兄貴分の顔は――。
満足そうに、微笑んでいた…………。
~ 第五章 了 ~
菱形の刃の先が〈蝿〉の背中に届く瞬間、奴の体が素早く動いた。
「嘘だろ……」
ルイフォンの唇が、かすれた声を漏らす。
〈蝿〉は完全に無防備だった。
けれど奴は、刃の生み出す、かすかな風圧を感じ取った。
白衣の背中は、前へと向かう。
無我夢中で、倒れ込む。
「『ミンウェイ』!」
〈蝿〉は、硝子ケースごと『彼女』を抱きしめた。――飛んでくる凶刃から、最愛の者を守ろうと……。
その光景を、ルイフォンは呆然と見つめる。
白髪混じりの髪をかすめ、緩やかな曲線の軌道を描きながら、菱形の刃は静かに落下していった……。
失敗した。
まさかの出来ごとだった。
〈蝿〉の全神経は、『彼女』のみに向けられていた。ルイフォンの存在には、まるで気づいていなかった。
ただ、目の前に『彼女』がいたから。
だから、危険の気配を感じた瞬間に、身を挺して『彼女』を庇おうとした。
その行動が、毒刃からの回避に繋がった。
結果として、『彼女』が〈蝿〉を守ったのだ。
それは、切なすぎる〈蝿〉と『彼女』の情愛――。
「……」
ルイフォンは無意識に奥歯を噛みしめた。
――けれど、負けるわけにはいかない。
彼は、予備の刃を袖口に仕込む。そのとき、〈蝿〉がゆらりと体を起こした。
「鷹刀の子猫……」
長い白衣の裾を翻し、振り返る。
その顔は、まさに『悪魔』。禍々しく、妖しく。あらゆる憎悪を煮詰め、濃厚で純粋な『負』を極めたかのような、玲瓏な魔の美しさを宿している。
「『ミンウェイ』を争いに巻き込む貴様は、万死に値する!」
低い声を轟かせ、〈蝿〉はルイフォンの死出を宣告した。
背には怨恨の陽炎が揺らめいている。それは漆黒の翼にも見え、ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
このまま続けて二投目の刃を打ち込んだところで、〈蝿〉は必ずよけるだろう。だからルイフォンは、フェイクのためのナイフを構えた。一か八かの接近戦を挑むふりをして近づき、接触と同時に〈蝿〉の皮膚に直接、毒刃を叩き込む策だ。
――多少の怪我は、覚悟の上……。
ルイフォンは腰を落とし、力を溜める。それに合わせるかのように、〈蝿〉もまた無言で構えをとった。
水を打ったような静寂が広がる。
〈蝿〉は本来、戦う者ではないという。
だが体躯は、鷹刀の血族だけあって立派だ。気配に敏感で、身が軽く、体術にも優れている。病弱であった妻のために、体を鍛えることよりも、研究に勤しむことを優先しただけなのだ。
睨み合っているだけで、迫力に押される。〈蝿〉は徒手空拳。けれど、そもそも格が違う。
攻めあぐね、額に冷や汗を浮かべたとき、壁の姿見が、きらりと銀光を反射させた。ルイフォンの背後で、何かが光ったのだ。
「!?」
ルイフォンが反応するよりも早く、〈蝿〉の視線が動く。
ひと呼吸遅れて振り返ったルイフォンが見たものは、刀を振り上げ、一直線に〈蝿〉に向かって走るリュイセンの姿だった。
「タオロン!」
〈蝿〉は素早く、手駒の名を呼ぶ。
ことの成り行きに圧倒され、傍観者となっていたタオロンが、びくりと体を震わせた。
「娘が大切なら、小倅を殺せっ!」
その命に、タオロンは、心臓をえぐり抜かれたかのように愕然とする。
「殺れっ!」
「――!」
次の瞬間。
絶望をまとったタオロンが、リュイセンを追った。
しかし、それでタオロンの刀が、リュイセンの神速に届くはずもない。だから〈蝿〉は床を蹴る。倒れていた椅子を拾い上げ、化粧台の鏡に、思い切り叩きつける――!
殺意に満ちた〈蝿〉の手元から、高く澄んだ音色が響き渡った。
「!」
リュイセンの目の前を、粉々になった鏡の破片が流星となって飛んでいく。
襲いかかってくる鋭利な星屑を、一刀しか持たぬ『神速の双刀使い』は払いのける。
数多の光の欠片が、互いを映し合いながら散っていく。細やかな輝きは、まるで万華鏡。
そして――。
「すまん!」
タオロンの悲痛の咆哮。
光の乱舞に足止めされた主のもとへ、双刀の片割れが帰ってくる。背後から、運命の糸を断ち斬る刃となって……。
万華鏡の中を赤が散り、乱反射によって無限に広がっていく。
リュイセンの体が、崩れ落ちた。
タオロンの瞳から、透明な涙がこぼれ落ちた。
そのとき――……。
部屋中のすべての輝きを一点に集めたかのように……、金の鈴が煌めきを放つ。
烈風と化したルイフォンが、駆け抜けた。
菱形の刃を固く握りしめ、その手に全体重を載せ、全身全霊でもって〈蝿〉を貫く――!
「……っ!」
〈蝿〉の口から、鈍いうめきが上がった。
肉を裂く、確かな感触。反撃を警戒し、転がるようにして場を離れたルイフォンは、しかし、わずかに顔をしかめた。
本当は、脇腹を狙っていた。だが、すんでのところで体をひねられ、防がれた。
それでも〈蝿〉の腕には、長袖の上から、菱形の刃が深々と突き刺さっている。白衣の白が、血の赤で染め上げられていく。
そう。
リュイセンは陽動を買って出てくれたのだ。
正面から対峙するのでは、ルイフォンでは〈蝿〉に勝てない。だから、リュイセンが体を張って、〈蝿〉の注意を引きつけてくれた。あらかじめ打ち合わせておいたわけではないのに、ルイフォンには兄貴分の心が手に取るように分かった。
「こんなもので……」
〈蝿〉は腕に刺さった刃を引き抜き、途中で顔色を変える。
すぐさま白衣を脱ぎ、傷口を強く吸って、血を吐き出す。
「毒が塗ってありましたね?」
「答えてやる義理はない!」
叫びながら、ルイフォンは〈蝿〉にナイフで挑みかかる。せっかく打ち込んだ毒を、吸い出させるわけにはいかない。
倒す必要はないのだ。毒が回るまで、毒抜きをする暇を与えなければよい。
ルイフォンは軽やかに〈蝿〉に飛びかかり、迎撃の蹴りを食らう前に、さっと距離を取る。その際、床に伏したままのリュイセンを、ちらりと見やる。
リュイセン……!
心の中で、ルイフォンは兄貴分の名を呼ぶ。
神速を誇るリュイセンなら、すんでのところで致命傷は避けられたはずだ。
だが、タオロンの本気の一刀は凄まじかった。傷は、かなり深いだろう。一刻も早く手当をしてやらねば、手遅れになりかねない……。
一方〈蝿〉は、毒抜きの作業を邪魔しては逃げ回るルイフォンに対し、苛立ちもあらわに舌打ちをした。
「タオロン、刀をよこしなさい!」
太い腕をだらりと垂らし、魂を抜かれたような状態のタオロンを怒鳴りつける。
ルイフォンは、はっと顔色を変えた。
貧民街で対峙したとき、〈蝿〉は双刀に近い形の、細身の刀を自在に扱っていた。ルイフォンなど足元にも及ばぬ使い手であり、死を覚悟したほどだった。
先にこちらの動きを止めてから、毒抜きに専念するつもりだろうか。
ルイフォンはそう考え、すぐに否定する。だったら、タオロンには『刀をよこせ』と言うのではなく、『ルイフォンを攻撃せよ』と命じればよいのだ。
困惑に、足が止まる。
その向こうでは、タオロンが、のろのろと刀を持つ手を上げていた。
〈蝿〉に向かって放り投げようとして、彼は、刀身から滴る血を目の当たりにする。軽いはずの双刀が、ずしりときたらしい。罪の重さを噛み締め、彼は巨躯を震わせる。
「タオロン!」
動きの鈍いタオロンを突き飛ばし、〈蝿〉が強引に刀を奪う。
まずい! と身構えたルイフォンの前で、〈蝿〉は双刀の刃を自分の腕にあてた。
「!?」
驚愕に見開いたルイフォンの瞳に、鮮血が映り込む。
〈蝿〉は、苦痛に顔を歪めながらも、毒に侵された自らの肉をえぐり取っていた。ぼたぼたと流れ落ちる血液が、豪奢な絨毯を穢していく。
「……」
ルイフォンは青ざめ、声を失う。
血みどろの腕を物ともせずに、〈蝿〉は、脱ぎ捨てた白衣を拾い上げた。刀で器用に切り裂き、止血用の紐を作る。上腕をきつく縛り、傷口には包帯のように巻きつけた。
その間、ルイフォンは、凍りついたように身じろぎひとつできない……。
処置を終えた〈蝿〉が、何ごともなかったかのようにルイフォンに声を掛けた。
「鷹刀の子猫。勝負です」
双刀の片割れを手に、〈蝿〉は嗤った。
出血はまだ止まっておらず、巻きつけた布に赤い色がにじんでいく。なのに、奴の口調には、どこか余裕があった。
本能的な危険を感じ、ルイフォンは、わずかに後ずさる。
「ですが、その前に質問です」
「質問?」
ルイフォンは眉をひそめた。
「私は気づいたのですよ。……あなたは、『ミンウェイ』のケースの設定を変更しませんでした。それは、何故ですか?」
「……え?」
思わぬ問いに、ルイフォンは虚を衝かれた。
操作パネルは、光の加減で見えにくくなっていただけだ。目を凝らすか、手で影を作ってやるかで読めるようになる。おそらく〈蝿〉は、ルイフォンが最初に投げた毒刃をかわしたあと、すぐに確認したのだろう。
しかし何故、今更こんなことを尋ねるのか……?
「適正値のままでした。――どうしてですか?」
重ねて問う〈蝿〉に、ルイフォンは戸惑いと苛立ちがないまぜになり、鼻に皺を寄せる。
「そんなの、当然だろ」
鬱陶しげに言ってから、これでは『悪魔』には分からないだろうと考え直し、ルイフォンは付け加える。諸々の怒りを込めて、高圧的に――。
「俺は、お前とは違って、悪人ではないからだ」
「なるほど。如何にも、あなたらしい答えですね」
〈蝿〉は、くっくっと喉の奥を鳴らした。
失血のためか、額が、頬が、透き通るように青白い。けれど、鷹刀の血族であることを如実に示すその顔が、壮絶までの魔性の美しさを放った。
ルイフォンの直感が、警鐘を鳴らす。――その先を言わせてはならぬと。
だが、遅かった。
「それならば――」
魅惑の低音が響く。
「タオロンの娘は、あなた方にとっても、充分に人質として有効――ということですね」
「!」
ルイフォンは息を呑む。
「違う……! ――俺は……!」
そのとき、途切れ途切れの声が、必死に割り込んだ。
「ルイ……、フォン……!」
床に伏していたリュイセンが、よろめきながら体を起こす。
「リュイセン!?」
兄貴分は重傷のはずだ。額には冷や汗がびっしりと浮かんでいる。唇の色は青みがかっており、黄金比の美貌には陰りが見えた。
なのに彼は両の足で、しかと立った。
「馬鹿野郎……! こいつの言葉に……、耳を貸すな!」
恐ろしい気迫がほとばしり、白刃が煌めく。
まばゆい銀光が勢いよく円を描き、華麗に舞い、〈蝿〉に斬りかかる。
「この死にぞこないが!」
〈蝿〉が、無傷のほうの片手で、双刀の片割れを振るう。
紫電が爆ぜた。
ひとつの刀を雷で双つに斬り裂いたかのような双子の刀。ふた振りの刀はぶつかり合い、再び、ひとつの影を形作る。
だがそれは、共にひとつの鞘に収まるためではなく、互いを滅ぼすため――!
「くっ……」
重傷を負っていたリュイセンが押される。
「リュイセン!」
ルイフォンはナイフを携え、〈蝿〉に向かって走り出す。
――刹那。リュイセンの絶叫が響いた。
「違うだろうっ!」
「え……?」
「逃げるんだ!」
耳を疑った。
兄貴分が何を言っているのか、理解できない。
「なんで……? まだ……、だって……」
リュイセンは重傷を負ってしまったが、ルイフォンはほぼ無傷だ。
それに対して〈蝿〉は、かなり失血しており、顔色が悪い。止血が必要であるし、完全に毒が抜けたかどうかも分からない。
「一度引いて、やり直せ!」
リュイセンが、撤退を判断した。
敗走を決意した。
「何故……?」
呟きながら、ルイフォンは気づく。
最悪の選択から、自分が目をそむけたことを――。
ファンルゥの命を盾に取られたら、ルイフォンとリュイセンも、タオロンのように〈蝿〉に逆らえなくなってしまう。
だから、逃げるしかない。
そして、重傷を負ったリュイセンは、逃げられる状態ではない。
つまり――。
「俺を置いて、逃げろ!」
リュイセンの腕は震えていた。
限界だった。
〈蝿〉が、にやりと口角を上げる。
そして。
リュイセンの肩から胸へと閃光が走り、一瞬遅れて、血の華が咲いた。
「ルイフォン、行け――!」
倒れながらも、リュイセンは〈蝿〉に足をかけて巻き込み、慌てる相手もろともに床を転がる。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
心は、ここに留まりたいと叫んだ。
まだ何か策はあるはずだと訴えた。
ルイフォンが、くるりと背を向けると、一本に編んだ髪が大きく思いを薙ぎ払った。金の鈴が胸元に飛び込み、持ち主の心臓を打つ。
――リュイセンの持つ、天性の野生の勘は、決して間違えない。
自分の感情よりも、兄貴分の理性を信じた。
いつもと逆だ。
ルイフォンは、壁の姿見をナイフで割りながら、部屋をあとにする。
鏡の破片によって、少しでも、あとを追いにくくなればいい。――それは、ただの言い訳だ。
無性に、何かを粉々に砕きたかっただけだ。
銀色の欠片が飛び散り、光を跳ね返しながら乱舞する。
時々刻々と形を変えていく光の紋様は、まるで万華鏡を覗いているかのよう。
ひとたび崩れた形は、二度と戻ることはない……。
この館は、摂政が貴族を接待中だ。〈蝿〉の行動は制限されている。
廊下に出てしまえば、奴は派手に騒ぎ立てて追ってくることはできない。
――だから、逃げろ。
リュイセンの思いを抱き、ルイフォンは走る。
最後に見た兄貴分の顔は――。
満足そうに、微笑んでいた…………。
~ 第五章 了 ~