残酷な描写あり
刹那の比翼
『比翼の鳥』というけれど、そんなものは存在しないの――。
従兄のヘイシャオが私の婚約者なのだと聞かされたとき、私は五つかそこらの子供だった。
「ミンウェイには、まだ分からないわよね……?」
教えてくれたユイラン義姉さんが、困ったような顔をしていたことはよく覚えている。
ユイラン義姉さんは、ヘイシャオの年の離れた姉で、私の従姉。物心つく前に母を亡くしていた私にとって、母親代わりのお姉さんだった。
「私、ヘイシャオのお嫁さんになるの?」
「……そうよ」
ユイラン義姉さんの顔が陰ったことに、幼い私は気づかなかった。
狂気にまみれた私の一族は、血族を〈贄〉として〈神〉に捧げる風習があった。
〈神〉が鷹刀の濃い血を好むため、一族は代々近親婚を繰り返す。そして、成人しても、なかなか子を為すことができなかった者から〈贄〉に選ばれる。だから、結婚は重要だった。
勿論、そのときの私は、何も知らなかったけれど――。
『お嫁さん』は、『旦那様』に尽くさなければならない。
そう思い込んでいた私は、ひたすらヘイシャオにつきまとった。私なりに、甲斐甲斐しく彼に尽くしたのだ。
破けた彼のズボンをセロハンテープで補修したり、何故か彼の部屋に大量にあった蝉の抜け殻を綺麗に片付けたり、私の手作りの泥団子を彼が食べてくれるまで涙目でじっと見つめていたり……。
…………。
……記憶の彼方にまで、追いやりたい思い出だ。
けれど、ヘイシャオのほうだって、私の背中に蜥蜴を入れたり、お気に入りの髪留めを隠したり、さんざん意地悪を返してきた。
よく彼とつるんでいたエルファン兄さんは、ちっとも助けてくれなかった。それどころか、『お前たち、仲がいいな』なんて呑気なことを言いながら、口元をくいっと上げて笑っていた。
私は、ヘイシャオが大嫌いだった。
いつも泣きながら、彼にされたことをユイラン義姉さんに訴えていた。
でも――。
あるとき、私は熱を出した。
生まれつき体の弱い私が臥せることは珍しくなかったから、その日も、いつも通り、ひとりで寝かされていた。
そこに、ヘイシャオがふらりと現れた。
「君がいないと、物足りないから」
「え……?」
「早く良くなれよ」
ぶっきらぼうにそう言って、野原で摘んだ花を置いていった。
その刹那から。
私は、ヘイシャオが大好きになった。
それがどんなに幸せなことか。ユイラン義姉さんが、ずっと年上の血族に嫁いでいったとき、私は思い知らされた。
ヘイシャオも、エルファン兄さんも気づいていなかったけれど、ユイラン義姉さんと護衛のチャオラウは相思相愛だった。
けれど、ふたりとも互いに想いを告げることはなかっただろう。
〈七つの大罪〉に逆らえば、ユイラン義姉さんは〈贄〉にされ、手を取り合って逃げようものなら、チャオラウは殺される。
鷹刀とは、そういう一族だった。
私のお父さん、イーレオは、そんな鷹刀を変えようとしていた。
そしてエルファン兄さんが、ヘイシャオが、チャオラウが……。私の周りの皆が、〈七つの大罪〉からの解放を望んでいた。
時は流れ――。
〈七つの大罪〉の詳しい情報を得るために、お父さんは十代のころから、密かに〈悪魔〉に名を連ねていたことを、私は知った。
そしてまたヘイシャオが、濃すぎる血からくる私の病を治すために〈悪魔〉となって研究を始めた。私だけでなく、一族全体のためになることだからと私を説き伏せて。
そんなふたりの〈悪魔〉は、『真実』にたどり着いていた。
けれど、『契約』に縛られて語ることはできないと言う。だから、エルファン兄さんとチャオラウが、危険を犯して『真実』の一端を手に入れてきた。
自然という『神』に対して生贄を差し出し、災害からの無事を祈願する行為は、世界中の古い伝承に残っている。鷹刀の〈贄〉の慣習も、そんな、どこにでもありそうな人身御供の文化だと信じていた。
けれど、『真実』は少し違った。
〈神〉とは、この国の王。
〈七つの大罪〉の正体は、王の私設研究機関。
そして王家にとって、鷹刀の血は特別な役割を持つものらしい。
故に、歴代の王たちは、鷹刀に〈贄〉を要求し、代わりに手厚く庇護する。
『闇の研究組織〈七つの大罪〉』が作られたのは、ごく最近のことだが、神話の時代からずっと、形を変えながら、王家と鷹刀は秘密の主従関係にあった。
この歪んだ共生のために、現代においてなお、鷹刀の総帥となった者は〈贄〉などという忌まわしい因習を継承するのだ。
鷹刀が大華王国一の凶賊であり続けるのは、国王が裏から手を回しているため。
そもそも凶賊という呼称自体が、本来は鷹刀のみに与えられた、『王国の闇を統べる一族』を示す言葉であるという。それが、いつの間にか『ならず者の集まり』の意味を持つようになったそうだ。
ある日のこと。
「ミンウェイ」
ヘイシャオが私の名を呼んだ。
私はベッドから身を起こそうとして、彼にやんわりと止められる。そして彼は、私の枕元にしゃがみ込み、横になったままの私に目線を合わせてくれた。
「お義父さんが、ついに悲願を叶えたよ。総帥を討ち取った。これからは、お義父さんが鷹刀を導いてくれる」
「……お父さんが、ついに……」
「エルファンも、予定通り総帥の後継者を討った。これで、彼が次期総帥の座に就くことに異論を唱える者はいないだろう」
「ああ……、うん。そうね……」
私が毛布の中から血色の悪い手を出すと、ヘイシャオはぎゅっと握りしめた。私は、本当は彼の頬に触れ、彼を包み込んであげたかったのだけれど、彼は、ただ穏やかに微笑んでいた。
エルファン兄さんが殺した『後継者』は、ヘイシャオの父親だ。総帥の腰巾着のような人物だったけれど、ヘイシャオと仲が悪いわけではなかった。
血族で争うということは、そういうことだ。
何より、お父さんが弑した総帥は、お父さんの実の父親なのだから――。
親殺しの、同族殺しになる。
身近な者たちに決意を語ったとき、お父さんは、そう自嘲していた。
けれど、お父さんは総帥を許せなかった。当然だと思う。
――〈神〉は、鷹刀の濃い血を望む。
だから、濃い血の子供を生み出した者を贔屓にし、鷹刀の総帥にと推す。そうして、のし上がったのが、現在の総帥だった。
彼は、自分の娘に子供を産ませた。
その子供が私のお父さん、イーレオだった。
お父さんが反旗を翻したきっかけは、恋人を殺されたことだと聞いている。けれど、そもそもお父さんは自分の出生を憎んでいた。
自分が生まれたせいで、おぞましいほどに愚かな総帥を作り出してしまったと、悔やんでいた……。
お父さんは、総帥を支持していた人間を徹底的に排除するだろう。そうしないと、今度はいつ、自分が寝首を掻かれるか分からない。
おそらくは、血族のほとんどを失うことになる。〈七つの大罪〉を後ろ盾に甘い汁を吸ってきた鷹刀の者たちは、〈七つの大罪〉を恐れつつも、結局のところ、多くが現状維持を望んでいたのだから。
「ミンウェイ」
薬品の匂いのする指先が、私の瞳に溜まった涙を払う。
幼いころは、同じ年頃のエルファン兄さんと双子のようにそっくりだったヘイシャオは、武人然とした兄さんとは違い、すっかり白衣の似合う医者になっていた。
彼は、私が泣いている理由を問わない。もし訊かれたら、私は困ってしまっただろう。私自身、分からないのだから。
「お義父さんは素晴らしい人だよ。尊敬している」
優しく、柔らかな低音が私を包む。
「ただ強いだけじゃない。真に一族のことを考えてくれる人だ」
「……うん」
私も、そう思う。
悪逆非道な総帥を排しても、〈贄〉を求める〈神〉が――国王が、鷹刀を解放しなければ意味がない。だから、総帥殺害の決行に移るよりも先に、お父さんは国王との交渉を済ませていた。
それには、とてつもなく長い年月を要した。すなわち、国王の代替わりを待ったのだ。
〈悪魔〉として王宮や神殿の出入りを許されたばかりの若き日のお父さんは、老いた王に早々に見切りをつけた。そして代わりに、幼い王子の教育係を買って出た。
それが、現国王シルフェン。彼が即位するまで、お父さんは耐え抜いた。
卑劣な懐柔だと揶揄され、あるいは洗脳であると批難されるかもしれない。でも、狂っているのは古きものたちのほうだ。
「――……」
私の心の中を、いろいろな出来ごとが蘇る。
国王は、無条件で応じたわけではなかった。
必然かもしれないが、〈贄〉の代わりを要求した。
だからお父さんは、『大切な人』を犠牲にして、未来永劫〈贄〉の代わりとなるものを作り出す『技術』を編み出した。
私も大好きだった『あの人』を思うと、胸が苦しくなる。
白い枕カバーに涙の染みが広がっていく。そんな私にヘイシャオが手を伸ばし、愛おしげに髪を梳いてくれる。
犠牲なら、他にも幾らもある。
私には詳しい状況は教えてもらえなかったけれど、ある作戦の際には、チャオラウの兄夫婦が亡くなった。生まれたばかりの娘を遺して逝ってしまった。
叔父であるチャオラウに引き取られたあの子は、どうしているだろう。エルファン兄さんと再婚したユイラン義姉さんが、とても心配していた。
「お義父さんは鷹刀の未来を守ったんだ。たとえ、今の栄華を失ったとしても、鷹刀にとって、必要なことだった」
「うん、分かっている。……ただ、ちょっと戸惑っているだけ。これから鷹刀がどう変わっていくのか、想像もつかなくて……。ほんの少し、不安なの……」
私の声は震えていた。
お父さんが渇望した、何ものにも支配されない日々がこれから始まるというのに、私の心は晴れやかとは、ほど遠かった。
ヘイシャオの腕が、寝ている私を毛布の上から抱きしめる。
「ミンウェイ。俺は、お義父さんは正しいと思っている。鷹刀の総帥は、お義父さんこそがふさわしい……」
「ヘイシャオ?」
私を包む、彼の掌が震えていた。
「どうしたの、ヘイシャオ」
彼の様子が変だった。
注意して思い返せば、さっきから何かに追い立てられるように、お父さんを褒め称えている気がする。
「……ミンウェイ。俺は本当に、心の底から、お義父さんのことを尊敬しているんだ。それは間違いない。信じてほしい」
「え? ええ。それは、分かっているわ。お父さんもヘイシャオのことを大切に思っているわ」
「ああ、知っている。血筋的にいえば、俺はどちらかといえば『敵対者』に近いのに、お義父さんは俺を身内と思ってくれている。……だけど――ミンウェイ」
ヘイシャオの静かな黒い瞳が、じっと私を捕らえた。
「俺は鷹刀を抜けて、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉として生きる道を選びたい」
「――!」
私の目が、大きく見開かれた。
「お義父さんは――新たな鷹刀は、〈七つの大罪〉を否定し、〈七つの大罪〉と袂を分かつことになる。そのとき、〈悪魔〉の俺が鷹刀を名乗るわけにはいかない。道理が通らない。お義父さんに迷惑が掛かる」
「……」
「けれど、俺は〈悪魔〉をやめる気はない」
成長するにつれ、私の体は、どんどん自由が効かなくなっていった。今では、床に臥している時間のほうが長いのではないかと思う。
それでもヘイシャオの研究のおかげで、過去の同じ症状の血族よりも、ずっと具合が良いのだ。食事だって摂れるし、調子の良いときは庭を散歩することだってできる。
「私のため……ね」
「違う! 俺のためだ。俺が、君を失いたくない!」
ヘイシャオの腕に、ぐっと力が入った。
私を強く抱きしめてくれる優しい胸。大好きな大好きなヘイシャオの鼓動を感じる。
「ミンウェイ、聞いてくれ。確かに、〈七つの大罪〉は、鷹刀に〈贄〉を強いた非道な組織だ。けど、あそこの技術は――研究の環境は、他のどんな場所にも敵わない」
「ヘイシャオ……」
「鷹刀には、大切な人たちがいる。俺は、お義父さんが作る新しい鷹刀を、この目で見たい。……でも、俺にとって一番なのは、ミンウェイ――君だ」
聞き慣れた低い声が、苦しげに哭く。けれど、そこには、ひとつの揺らぎもなかった。
「俺は鷹刀よりも、君を選ぶ」
濁りのない、澄んだ音色が、体温を通して伝わってくる。
「ミンウェイ。俺と一緒に、鷹刀を抜けてほしい」
迷いのない、まっすぐで綺麗な目が私を包み込んでいた。
ああ、そうか。
私は分かっていたんだ。
私の涙は、鷹刀との別れを惜しむ涙だったんだ。
私の体は、二十歳まで生きられないだろう。
私はいずれ、ヘイシャオを遺して逝くことになる。
だから、私が言うべき台詞は『何を馬鹿なことを言っているの?』であるべきだ。
ヘイシャオは、鷹刀を出てはいけない。
彼を独りにしてはいけない。
なのに――。
「……うん」
残酷な私の唇が、この世で一番、無邪気な願いを唱える。
「私、ヘイシャオと生きたい……」
比翼の鳥のように――。
従兄のヘイシャオが私の婚約者なのだと聞かされたとき、私は五つかそこらの子供だった。
「ミンウェイには、まだ分からないわよね……?」
教えてくれたユイラン義姉さんが、困ったような顔をしていたことはよく覚えている。
ユイラン義姉さんは、ヘイシャオの年の離れた姉で、私の従姉。物心つく前に母を亡くしていた私にとって、母親代わりのお姉さんだった。
「私、ヘイシャオのお嫁さんになるの?」
「……そうよ」
ユイラン義姉さんの顔が陰ったことに、幼い私は気づかなかった。
狂気にまみれた私の一族は、血族を〈贄〉として〈神〉に捧げる風習があった。
〈神〉が鷹刀の濃い血を好むため、一族は代々近親婚を繰り返す。そして、成人しても、なかなか子を為すことができなかった者から〈贄〉に選ばれる。だから、結婚は重要だった。
勿論、そのときの私は、何も知らなかったけれど――。
『お嫁さん』は、『旦那様』に尽くさなければならない。
そう思い込んでいた私は、ひたすらヘイシャオにつきまとった。私なりに、甲斐甲斐しく彼に尽くしたのだ。
破けた彼のズボンをセロハンテープで補修したり、何故か彼の部屋に大量にあった蝉の抜け殻を綺麗に片付けたり、私の手作りの泥団子を彼が食べてくれるまで涙目でじっと見つめていたり……。
…………。
……記憶の彼方にまで、追いやりたい思い出だ。
けれど、ヘイシャオのほうだって、私の背中に蜥蜴を入れたり、お気に入りの髪留めを隠したり、さんざん意地悪を返してきた。
よく彼とつるんでいたエルファン兄さんは、ちっとも助けてくれなかった。それどころか、『お前たち、仲がいいな』なんて呑気なことを言いながら、口元をくいっと上げて笑っていた。
私は、ヘイシャオが大嫌いだった。
いつも泣きながら、彼にされたことをユイラン義姉さんに訴えていた。
でも――。
あるとき、私は熱を出した。
生まれつき体の弱い私が臥せることは珍しくなかったから、その日も、いつも通り、ひとりで寝かされていた。
そこに、ヘイシャオがふらりと現れた。
「君がいないと、物足りないから」
「え……?」
「早く良くなれよ」
ぶっきらぼうにそう言って、野原で摘んだ花を置いていった。
その刹那から。
私は、ヘイシャオが大好きになった。
それがどんなに幸せなことか。ユイラン義姉さんが、ずっと年上の血族に嫁いでいったとき、私は思い知らされた。
ヘイシャオも、エルファン兄さんも気づいていなかったけれど、ユイラン義姉さんと護衛のチャオラウは相思相愛だった。
けれど、ふたりとも互いに想いを告げることはなかっただろう。
〈七つの大罪〉に逆らえば、ユイラン義姉さんは〈贄〉にされ、手を取り合って逃げようものなら、チャオラウは殺される。
鷹刀とは、そういう一族だった。
私のお父さん、イーレオは、そんな鷹刀を変えようとしていた。
そしてエルファン兄さんが、ヘイシャオが、チャオラウが……。私の周りの皆が、〈七つの大罪〉からの解放を望んでいた。
時は流れ――。
〈七つの大罪〉の詳しい情報を得るために、お父さんは十代のころから、密かに〈悪魔〉に名を連ねていたことを、私は知った。
そしてまたヘイシャオが、濃すぎる血からくる私の病を治すために〈悪魔〉となって研究を始めた。私だけでなく、一族全体のためになることだからと私を説き伏せて。
そんなふたりの〈悪魔〉は、『真実』にたどり着いていた。
けれど、『契約』に縛られて語ることはできないと言う。だから、エルファン兄さんとチャオラウが、危険を犯して『真実』の一端を手に入れてきた。
自然という『神』に対して生贄を差し出し、災害からの無事を祈願する行為は、世界中の古い伝承に残っている。鷹刀の〈贄〉の慣習も、そんな、どこにでもありそうな人身御供の文化だと信じていた。
けれど、『真実』は少し違った。
〈神〉とは、この国の王。
〈七つの大罪〉の正体は、王の私設研究機関。
そして王家にとって、鷹刀の血は特別な役割を持つものらしい。
故に、歴代の王たちは、鷹刀に〈贄〉を要求し、代わりに手厚く庇護する。
『闇の研究組織〈七つの大罪〉』が作られたのは、ごく最近のことだが、神話の時代からずっと、形を変えながら、王家と鷹刀は秘密の主従関係にあった。
この歪んだ共生のために、現代においてなお、鷹刀の総帥となった者は〈贄〉などという忌まわしい因習を継承するのだ。
鷹刀が大華王国一の凶賊であり続けるのは、国王が裏から手を回しているため。
そもそも凶賊という呼称自体が、本来は鷹刀のみに与えられた、『王国の闇を統べる一族』を示す言葉であるという。それが、いつの間にか『ならず者の集まり』の意味を持つようになったそうだ。
ある日のこと。
「ミンウェイ」
ヘイシャオが私の名を呼んだ。
私はベッドから身を起こそうとして、彼にやんわりと止められる。そして彼は、私の枕元にしゃがみ込み、横になったままの私に目線を合わせてくれた。
「お義父さんが、ついに悲願を叶えたよ。総帥を討ち取った。これからは、お義父さんが鷹刀を導いてくれる」
「……お父さんが、ついに……」
「エルファンも、予定通り総帥の後継者を討った。これで、彼が次期総帥の座に就くことに異論を唱える者はいないだろう」
「ああ……、うん。そうね……」
私が毛布の中から血色の悪い手を出すと、ヘイシャオはぎゅっと握りしめた。私は、本当は彼の頬に触れ、彼を包み込んであげたかったのだけれど、彼は、ただ穏やかに微笑んでいた。
エルファン兄さんが殺した『後継者』は、ヘイシャオの父親だ。総帥の腰巾着のような人物だったけれど、ヘイシャオと仲が悪いわけではなかった。
血族で争うということは、そういうことだ。
何より、お父さんが弑した総帥は、お父さんの実の父親なのだから――。
親殺しの、同族殺しになる。
身近な者たちに決意を語ったとき、お父さんは、そう自嘲していた。
けれど、お父さんは総帥を許せなかった。当然だと思う。
――〈神〉は、鷹刀の濃い血を望む。
だから、濃い血の子供を生み出した者を贔屓にし、鷹刀の総帥にと推す。そうして、のし上がったのが、現在の総帥だった。
彼は、自分の娘に子供を産ませた。
その子供が私のお父さん、イーレオだった。
お父さんが反旗を翻したきっかけは、恋人を殺されたことだと聞いている。けれど、そもそもお父さんは自分の出生を憎んでいた。
自分が生まれたせいで、おぞましいほどに愚かな総帥を作り出してしまったと、悔やんでいた……。
お父さんは、総帥を支持していた人間を徹底的に排除するだろう。そうしないと、今度はいつ、自分が寝首を掻かれるか分からない。
おそらくは、血族のほとんどを失うことになる。〈七つの大罪〉を後ろ盾に甘い汁を吸ってきた鷹刀の者たちは、〈七つの大罪〉を恐れつつも、結局のところ、多くが現状維持を望んでいたのだから。
「ミンウェイ」
薬品の匂いのする指先が、私の瞳に溜まった涙を払う。
幼いころは、同じ年頃のエルファン兄さんと双子のようにそっくりだったヘイシャオは、武人然とした兄さんとは違い、すっかり白衣の似合う医者になっていた。
彼は、私が泣いている理由を問わない。もし訊かれたら、私は困ってしまっただろう。私自身、分からないのだから。
「お義父さんは素晴らしい人だよ。尊敬している」
優しく、柔らかな低音が私を包む。
「ただ強いだけじゃない。真に一族のことを考えてくれる人だ」
「……うん」
私も、そう思う。
悪逆非道な総帥を排しても、〈贄〉を求める〈神〉が――国王が、鷹刀を解放しなければ意味がない。だから、総帥殺害の決行に移るよりも先に、お父さんは国王との交渉を済ませていた。
それには、とてつもなく長い年月を要した。すなわち、国王の代替わりを待ったのだ。
〈悪魔〉として王宮や神殿の出入りを許されたばかりの若き日のお父さんは、老いた王に早々に見切りをつけた。そして代わりに、幼い王子の教育係を買って出た。
それが、現国王シルフェン。彼が即位するまで、お父さんは耐え抜いた。
卑劣な懐柔だと揶揄され、あるいは洗脳であると批難されるかもしれない。でも、狂っているのは古きものたちのほうだ。
「――……」
私の心の中を、いろいろな出来ごとが蘇る。
国王は、無条件で応じたわけではなかった。
必然かもしれないが、〈贄〉の代わりを要求した。
だからお父さんは、『大切な人』を犠牲にして、未来永劫〈贄〉の代わりとなるものを作り出す『技術』を編み出した。
私も大好きだった『あの人』を思うと、胸が苦しくなる。
白い枕カバーに涙の染みが広がっていく。そんな私にヘイシャオが手を伸ばし、愛おしげに髪を梳いてくれる。
犠牲なら、他にも幾らもある。
私には詳しい状況は教えてもらえなかったけれど、ある作戦の際には、チャオラウの兄夫婦が亡くなった。生まれたばかりの娘を遺して逝ってしまった。
叔父であるチャオラウに引き取られたあの子は、どうしているだろう。エルファン兄さんと再婚したユイラン義姉さんが、とても心配していた。
「お義父さんは鷹刀の未来を守ったんだ。たとえ、今の栄華を失ったとしても、鷹刀にとって、必要なことだった」
「うん、分かっている。……ただ、ちょっと戸惑っているだけ。これから鷹刀がどう変わっていくのか、想像もつかなくて……。ほんの少し、不安なの……」
私の声は震えていた。
お父さんが渇望した、何ものにも支配されない日々がこれから始まるというのに、私の心は晴れやかとは、ほど遠かった。
ヘイシャオの腕が、寝ている私を毛布の上から抱きしめる。
「ミンウェイ。俺は、お義父さんは正しいと思っている。鷹刀の総帥は、お義父さんこそがふさわしい……」
「ヘイシャオ?」
私を包む、彼の掌が震えていた。
「どうしたの、ヘイシャオ」
彼の様子が変だった。
注意して思い返せば、さっきから何かに追い立てられるように、お父さんを褒め称えている気がする。
「……ミンウェイ。俺は本当に、心の底から、お義父さんのことを尊敬しているんだ。それは間違いない。信じてほしい」
「え? ええ。それは、分かっているわ。お父さんもヘイシャオのことを大切に思っているわ」
「ああ、知っている。血筋的にいえば、俺はどちらかといえば『敵対者』に近いのに、お義父さんは俺を身内と思ってくれている。……だけど――ミンウェイ」
ヘイシャオの静かな黒い瞳が、じっと私を捕らえた。
「俺は鷹刀を抜けて、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉として生きる道を選びたい」
「――!」
私の目が、大きく見開かれた。
「お義父さんは――新たな鷹刀は、〈七つの大罪〉を否定し、〈七つの大罪〉と袂を分かつことになる。そのとき、〈悪魔〉の俺が鷹刀を名乗るわけにはいかない。道理が通らない。お義父さんに迷惑が掛かる」
「……」
「けれど、俺は〈悪魔〉をやめる気はない」
成長するにつれ、私の体は、どんどん自由が効かなくなっていった。今では、床に臥している時間のほうが長いのではないかと思う。
それでもヘイシャオの研究のおかげで、過去の同じ症状の血族よりも、ずっと具合が良いのだ。食事だって摂れるし、調子の良いときは庭を散歩することだってできる。
「私のため……ね」
「違う! 俺のためだ。俺が、君を失いたくない!」
ヘイシャオの腕に、ぐっと力が入った。
私を強く抱きしめてくれる優しい胸。大好きな大好きなヘイシャオの鼓動を感じる。
「ミンウェイ、聞いてくれ。確かに、〈七つの大罪〉は、鷹刀に〈贄〉を強いた非道な組織だ。けど、あそこの技術は――研究の環境は、他のどんな場所にも敵わない」
「ヘイシャオ……」
「鷹刀には、大切な人たちがいる。俺は、お義父さんが作る新しい鷹刀を、この目で見たい。……でも、俺にとって一番なのは、ミンウェイ――君だ」
聞き慣れた低い声が、苦しげに哭く。けれど、そこには、ひとつの揺らぎもなかった。
「俺は鷹刀よりも、君を選ぶ」
濁りのない、澄んだ音色が、体温を通して伝わってくる。
「ミンウェイ。俺と一緒に、鷹刀を抜けてほしい」
迷いのない、まっすぐで綺麗な目が私を包み込んでいた。
ああ、そうか。
私は分かっていたんだ。
私の涙は、鷹刀との別れを惜しむ涙だったんだ。
私の体は、二十歳まで生きられないだろう。
私はいずれ、ヘイシャオを遺して逝くことになる。
だから、私が言うべき台詞は『何を馬鹿なことを言っているの?』であるべきだ。
ヘイシャオは、鷹刀を出てはいけない。
彼を独りにしてはいけない。
なのに――。
「……うん」
残酷な私の唇が、この世で一番、無邪気な願いを唱える。
「私、ヘイシャオと生きたい……」
比翼の鳥のように――。