残酷な描写あり
運命の糸
「お父様と異母弟さんを助けたいのなら、それしかないと思うわ」
私の言葉に、藤咲メイシアは全身を震わせた。美しくも可愛らしい顔は土気色。黒曜石の瞳には涙すら浮かべている。
当然だろう。
貴族の深窓の令嬢に対し、凶賊に身を売れと言ったのだ。それは、死にも等しい宣告のはずだ。
私は派手な色合いで描いた唇をくっと上げ、如何にも毒々しい女を演じる。
彼女が鷹刀に向かうことが、私自身の願いだなんて、感づかれてはならない。どこかの回し者を疑われたら、彼女は警戒して、この家を出ないだろう。
だから、今の私は、あくまでも対岸の火事を楽しむような、無責任な輩――。
メイシアの目から、ひと筋の涙がこぼれた。声を上げず、瞬きすらもせずに、彼女はただ人形のような顔で泣いていた。
いくらなんでも無謀だっただろうか……。
平然とした顔を装いながら、私は内心で焦る。祈るような気持ちで、じっと彼女を見つめる。
メイシアが鷹刀に行きさえすれば、あとはうまくいくのだ。
『わけありの貴族など追い返せ』と言い出すであろう、私の父エルファンは、現在、倭国に行っている。真面目っ子で、文句の多い異母弟のリュイセンも一緒だ。
このふたりさえ屋敷にいなければ、大丈夫。従姉のミンウェイは間違いなく同情してくれるだろうし、総帥である祖父イーレオは喜んで彼女を迎え入れる。
そして、異父弟のルイフォンは……。
「ホンシュア」
メイシアの声が、私の思考を遮った。涙声でありながらも、凛と響く声だった。
「そうすれば……父と異母弟は助かるんですね……」
潤んだ瞳だった。今にも、また新たな涙がこぼれ落ちそう。なのに、私のことを食い入るように見つめる、強い瞳だった。
「ええ、そうよ」
「――私、鷹刀一族のもとに参ります」
鈴の音の声が、空気を裂いた。涙を拭い、それまでの惑いを断ち切るかのように頭を振れば、長い黒絹の髪が艶やかに舞う。
メイシアは、桜だ。
嫋やかで儚げで、そよ風にすら翻弄されてしまいそうな、薄紅色の花。けれど、何ものにも揺るぐことのない、芯の強い幹。このふたつを併せ持つ、優美な桜の化身だ。
ヤンイェンが言っていた通りの子だ。
メイシアになら、安心してライシェンを託すことができる――!
「ホンシュア?」
歓喜に包まれ、思わず泣き笑いの顔になった私に、メイシアは不審げに首をかしげた。
「メイシア、ありがとう。……ルイフォンを――ライシェンを……よろしくね」
私の背から、光が噴き出した。
無数の細い光の糸が、白金に輝きながら勢いよくあふれ出る。互いに絡み合い、網の目のように繋がり、広がっていく。そして時々、糸の内部をひときわ強い光が駆け抜け、煌めきが伝搬する。
〈天使〉の羽だ。
白金に照らされたメイシアの頬が、透き通るように青白く見える。それは、もともとの色ではなく、驚愕に染められた結果だ。
勿論、この記憶は消しておく。彼女が覚えているのは、仕立て屋に唆されたところまで。凶賊の屋敷に乗り込むという、暴挙を決意したところまでだ。
私は、光の羽を緩やかに波打たせ、そろそろとメイシアへと伸ばしていく。非現実的な光景を前に、彼女は身じろぎもしない。それは、別におかしなことではない。彼女に限らず、〈天使〉の羽を見た、たいていの人間がそんな反応を示す。
人は、この光を無意識に神聖なものと感じるらしい。初めは誰もが驚くが、次第に魅了されていく。
――この光の糸が、死んだ王の脳の神経細胞からできたものだなんて、誰が信じるだろう。
網目状の構造は、神経回路そのもの。光の強弱は、ただの電気信号に過ぎない。〈天使〉は、羽という接続装置を介して人間に侵入するクラッカーなのだから……。
私の羽がメイシアを包み込む。幾重にも光の糸が巻かれ、彼女は光の繭に抱かれる。
メイシアに刻むのは、『私』の記憶。
王族の血を色濃く引く彼女の脳の容量は、並の人間よりも遥かに大きい。だから、普段は使われない深層の記憶域に『私』を潜ませておくことができる。
でも、彼女に書き込むのはそれだけだ。
命令を使えば、面倒な策など弄さずとも、私の駒として踊ってくれるのは分かっている。けれど、そのままのメイシアで、ルイフォンと出逢ってほしい。
目と目が合った瞬間に、ふたりは恋に落ちる――なんてことはないだろう。
ルイフォンが好きなのは、強い魂だ。
どう考えたって、ルイフォンが初めて見る彼女は、凶賊の総帥を前に脅えた顔をする貴族の箱入り娘でしかない。
メイシアにしてみても、我儘で強引なルイフォンに戸惑うばかりだろう。
だけど、必ず惹かれ合う。私が選んだ、ふたりだから。歪んだ命令なんかより、ずっと強固な絆で結ばれる。
必要なのは、ふたりが出逢うことだけ。
それで、すべてが始まる。
私の仕組んだ運命の輪が――『デヴァイン・シンフォニア計画』が廻り出す。
――……。
最後にひとつだけ、私はメイシアに嘘を刻み、『お守り』と思い込ませたペンダントを、彼女の首にそっと掛けた。
「……うっ」
背中が熱い。まるで炎に灼かれているかのよう……。
私は急いで、冷却剤を口にする。
このホンシュアの体は、一般人だ。主人を守ることができなかった責任で自害しようとしていた侍女は、私の『デヴァイン・シンフォニア計画』を知り、協力を申し出てくれた。
ホンシュアの体は、セレイエのように王族の血が流れているわけではない。〈天使〉化してしまったら、長くは保たないことは分かっていた。
けれど、まさかこれほどまで脆いとは思わなかった。
私は、私の知識による最適な侵入で発熱量を最小限に抑えているが、これでは、いきなり〈天使〉にされた一般人が、闇雲に羽を使って、あっという間に熱暴走を起こすのは当然だ。お母さんが躍起になって、私やルイフォンに自分の技術を授けようとした理由がよく分かる。
「……」
メイシアなら、ライシェンを守り抜くことができる。
〈天使〉化しても、『私』の知識があれば、熱暴走を起こすことはない。
「……でも、これは『罪』」
私の乾いた唇が、ぼそりと漏らす。
『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』――『神』として生まれたライシェンに捧げる交響曲であり、『命に対する冒涜』。
それでも、私は願わずにはいられなかった。
私のライシェンが世界を愛することを。
私のライシェンが世界に愛されることを――。
私が選んだ、ふたりに託す。
貴族の娘と凶賊の息子。
天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いを私は紡ぐ。
この光の糸は、運命の糸。
人の運命は、天球儀を巡る輪環。
そして私は、本来なら交わることのなかった、ふたりの軌道を重ね合わせる。
私の言葉に、藤咲メイシアは全身を震わせた。美しくも可愛らしい顔は土気色。黒曜石の瞳には涙すら浮かべている。
当然だろう。
貴族の深窓の令嬢に対し、凶賊に身を売れと言ったのだ。それは、死にも等しい宣告のはずだ。
私は派手な色合いで描いた唇をくっと上げ、如何にも毒々しい女を演じる。
彼女が鷹刀に向かうことが、私自身の願いだなんて、感づかれてはならない。どこかの回し者を疑われたら、彼女は警戒して、この家を出ないだろう。
だから、今の私は、あくまでも対岸の火事を楽しむような、無責任な輩――。
メイシアの目から、ひと筋の涙がこぼれた。声を上げず、瞬きすらもせずに、彼女はただ人形のような顔で泣いていた。
いくらなんでも無謀だっただろうか……。
平然とした顔を装いながら、私は内心で焦る。祈るような気持ちで、じっと彼女を見つめる。
メイシアが鷹刀に行きさえすれば、あとはうまくいくのだ。
『わけありの貴族など追い返せ』と言い出すであろう、私の父エルファンは、現在、倭国に行っている。真面目っ子で、文句の多い異母弟のリュイセンも一緒だ。
このふたりさえ屋敷にいなければ、大丈夫。従姉のミンウェイは間違いなく同情してくれるだろうし、総帥である祖父イーレオは喜んで彼女を迎え入れる。
そして、異父弟のルイフォンは……。
「ホンシュア」
メイシアの声が、私の思考を遮った。涙声でありながらも、凛と響く声だった。
「そうすれば……父と異母弟は助かるんですね……」
潤んだ瞳だった。今にも、また新たな涙がこぼれ落ちそう。なのに、私のことを食い入るように見つめる、強い瞳だった。
「ええ、そうよ」
「――私、鷹刀一族のもとに参ります」
鈴の音の声が、空気を裂いた。涙を拭い、それまでの惑いを断ち切るかのように頭を振れば、長い黒絹の髪が艶やかに舞う。
メイシアは、桜だ。
嫋やかで儚げで、そよ風にすら翻弄されてしまいそうな、薄紅色の花。けれど、何ものにも揺るぐことのない、芯の強い幹。このふたつを併せ持つ、優美な桜の化身だ。
ヤンイェンが言っていた通りの子だ。
メイシアになら、安心してライシェンを託すことができる――!
「ホンシュア?」
歓喜に包まれ、思わず泣き笑いの顔になった私に、メイシアは不審げに首をかしげた。
「メイシア、ありがとう。……ルイフォンを――ライシェンを……よろしくね」
私の背から、光が噴き出した。
無数の細い光の糸が、白金に輝きながら勢いよくあふれ出る。互いに絡み合い、網の目のように繋がり、広がっていく。そして時々、糸の内部をひときわ強い光が駆け抜け、煌めきが伝搬する。
〈天使〉の羽だ。
白金に照らされたメイシアの頬が、透き通るように青白く見える。それは、もともとの色ではなく、驚愕に染められた結果だ。
勿論、この記憶は消しておく。彼女が覚えているのは、仕立て屋に唆されたところまで。凶賊の屋敷に乗り込むという、暴挙を決意したところまでだ。
私は、光の羽を緩やかに波打たせ、そろそろとメイシアへと伸ばしていく。非現実的な光景を前に、彼女は身じろぎもしない。それは、別におかしなことではない。彼女に限らず、〈天使〉の羽を見た、たいていの人間がそんな反応を示す。
人は、この光を無意識に神聖なものと感じるらしい。初めは誰もが驚くが、次第に魅了されていく。
――この光の糸が、死んだ王の脳の神経細胞からできたものだなんて、誰が信じるだろう。
網目状の構造は、神経回路そのもの。光の強弱は、ただの電気信号に過ぎない。〈天使〉は、羽という接続装置を介して人間に侵入するクラッカーなのだから……。
私の羽がメイシアを包み込む。幾重にも光の糸が巻かれ、彼女は光の繭に抱かれる。
メイシアに刻むのは、『私』の記憶。
王族の血を色濃く引く彼女の脳の容量は、並の人間よりも遥かに大きい。だから、普段は使われない深層の記憶域に『私』を潜ませておくことができる。
でも、彼女に書き込むのはそれだけだ。
命令を使えば、面倒な策など弄さずとも、私の駒として踊ってくれるのは分かっている。けれど、そのままのメイシアで、ルイフォンと出逢ってほしい。
目と目が合った瞬間に、ふたりは恋に落ちる――なんてことはないだろう。
ルイフォンが好きなのは、強い魂だ。
どう考えたって、ルイフォンが初めて見る彼女は、凶賊の総帥を前に脅えた顔をする貴族の箱入り娘でしかない。
メイシアにしてみても、我儘で強引なルイフォンに戸惑うばかりだろう。
だけど、必ず惹かれ合う。私が選んだ、ふたりだから。歪んだ命令なんかより、ずっと強固な絆で結ばれる。
必要なのは、ふたりが出逢うことだけ。
それで、すべてが始まる。
私の仕組んだ運命の輪が――『デヴァイン・シンフォニア計画』が廻り出す。
――……。
最後にひとつだけ、私はメイシアに嘘を刻み、『お守り』と思い込ませたペンダントを、彼女の首にそっと掛けた。
「……うっ」
背中が熱い。まるで炎に灼かれているかのよう……。
私は急いで、冷却剤を口にする。
このホンシュアの体は、一般人だ。主人を守ることができなかった責任で自害しようとしていた侍女は、私の『デヴァイン・シンフォニア計画』を知り、協力を申し出てくれた。
ホンシュアの体は、セレイエのように王族の血が流れているわけではない。〈天使〉化してしまったら、長くは保たないことは分かっていた。
けれど、まさかこれほどまで脆いとは思わなかった。
私は、私の知識による最適な侵入で発熱量を最小限に抑えているが、これでは、いきなり〈天使〉にされた一般人が、闇雲に羽を使って、あっという間に熱暴走を起こすのは当然だ。お母さんが躍起になって、私やルイフォンに自分の技術を授けようとした理由がよく分かる。
「……」
メイシアなら、ライシェンを守り抜くことができる。
〈天使〉化しても、『私』の知識があれば、熱暴走を起こすことはない。
「……でも、これは『罪』」
私の乾いた唇が、ぼそりと漏らす。
『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』――『神』として生まれたライシェンに捧げる交響曲であり、『命に対する冒涜』。
それでも、私は願わずにはいられなかった。
私のライシェンが世界を愛することを。
私のライシェンが世界に愛されることを――。
私が選んだ、ふたりに託す。
貴族の娘と凶賊の息子。
天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いを私は紡ぐ。
この光の糸は、運命の糸。
人の運命は、天球儀を巡る輪環。
そして私は、本来なら交わることのなかった、ふたりの軌道を重ね合わせる。