残酷な描写あり
8.姫君からの使者-3
小洒落た木製の扉を開けると、そこは落ち着いたバーのようであった。
蔦の這う窓格子の隙間からは柔らかな陽射しが差し込み、穏やかな光が優しく店内を満たしている。奥のカウンターの棚には、繊細なフォルムを誇る、色とりどりの瓶が並べられ、磨き上げられたグラスが客の来訪を待ちわびていた。
そして、ゆったりとしたソファーの狭間で、箒を手にした少女がひとり――。
「タオロン様……!?」
ぱっちりとした愛らしい目をいっぱいに見開き、彼女はタオロンを凝視していた。内なる驚愕の度合いを示すかのように、高くポニーテールにしたくるくるの巻き毛が、大きく揺れている。
いきなり名前を呼んできた少女に、タオロンは戸惑った。
何か言葉を返さなければ、後ろにいる見張りの男に不審に思われる。――そう焦るのだが、喉が張り付いて声が出ない。
そんな調子のタオロンには構わず、少女は柔らかに微笑んだ。
「お久しぶりです」
さっと近くのソファーに箒を立て掛け、優雅に一礼する。可愛らしさの中に気品が加わり、ただの町娘とは違う空気を匂わせた。
軽やかに近づいてくる彼女に、タオロンは、ようやく、しどろもどろに「ああ」と答える。
この少女が『馴染みの女』役なのだろうか?
タオロンがぎこちなく笑いかけると、彼女は、彼の懐にぐぐっと遠慮なく入ってきた。か弱い女性を相手に拳を振るうことなどあり得ないが、武人の彼としては、この間合いは落ち着かない。
「タオロン様、ばつの悪そうなお顔ですよ?」
小柄な彼女が、背伸びをするようにしてタオロンの顔を覗き込むと、反射的に体が引けた。
しまった――!
『馴染みの女』なのだから、抱きしめなければいけなかったのでは!?
――だが、可憐な見た目に反し、少女には妙な迫力があった。武の者なら『闘気』とでも呼ぶべきそれを撒き散らす彼女を相手に、抱きしめるどころか、指一本、触れてはならない気がする……。
「ルイリンが泣いていました」
「……!?」
「他人の恋路に余計な口出しはいけませんが、さすがに親友としては、おとなしいあの子の代わりに、ひとことくらい申し上げたいわ。――今回はまた、随分とご無沙汰でしたね?」
少女が上目遣いに睨んでくる。可愛らしいのに、恐ろしい。
「……あ、ああ……、……すまん」
気づけば、勝手に口が謝っていた。
――と、同時に、これまでのタオロンのギクシャクとした態度は、このやりとりですっかり自然なものとなっていた。
つまり、この少女は『馴染みの女』ではなくて、その親友、という役回りなのだ。そして、『馴染みの女』の名前は『ルイリン』。
――『ルイリン』……?
タオロンの眉がぴくりと動く。そのとき、すかさず少女が口を開き、彼が言葉を発するのを封じた。
「ごめんなさい。言い過ぎました」
恥じらうように視線を下げ、頬を染める。先ほどまでの威圧感は、嘘のように消え去り、そうなると、親友思いの優しい少女にしか見えない。
背後から、見張りの男の狼狽を感じた。
タオロンの豪腕ならひとひねり、といったふうな華奢な少女に対し、巨躯を丸めてたじたじなのだから当然だろう。約束していた『いい思い』が取り消しになることを恐れているだけかもしれないが、少なくとも、目の前の少女が一芝居打っているとは、夢にも思うまい。
ともかく、何か会話を続けたほうがよいのだろう。
そんな思いが頭をよぎるが、無骨なタオロンの口から、気の利いた台詞が出てくるわけもない。表情の読みにくい浅黒い肌の下で困り顔になるタオロンに、少女はふわりと包み込むような笑顔を浮かべた。
「安心してください。ルイリンは、タオロン様が面倒なお仕事をなさっているのだと、ちゃんと理解していますよ。――勿論、私も」
少女のぱっちりとした大きな瞳が、かすかに細められた。
「!?」
刹那に発せられた肉食獣の煌めきは、決して気のせいではないだろう。武人の彼が、見逃すはずがない。
困惑するタオロンをよそに、少女は、彼の脇をすっとすり抜けた。その瞬間、タオロンと少女のふたりに当たっていたはずの見えないスポットライトは、タオロンを置き去りにして、少女を追いかけ始める。
堂々たる主演女優が如く、少女は、まっすぐに舞台を歩く。
舞台袖に追いやられたタオロンは、どういうことだ? と。巻毛のポニーテールを求めて、後ろを振り返った。
すると――。
そこには、丁寧にお辞儀をする少女と、いきなり傍観者から舞台に引き上げられて面食らっている、見張りの男の姿があった。
「はじめまして。スーリンと申します」
少女――スーリンが、男に向かって可愛らしく微笑む。
小柄な彼女が、わずかに首を傾けて男を見上げると、くるくるの髪が踊るように流れ、細い首筋が男の目を惹き寄せた。両手の指を軽く絡み合わせた仕草が、なで肩の嫋やかさをそれとなく強調する。
庇護欲を掻き立てるような愛らしさに、男の喉仏がごくりと動いた。『いい思い』の約束が頭を巡ったのだろう。男の視線が、あからさまな欲望の色でスーリンを舐める。
思わず身を乗り出しかけた男に、スーリンは申し訳なさそうに眉を曇らせた。
「タオロン様が、夜ではなく、昼間にいらした意味。おひとりではなく、お連れの方がいらっしゃる意味。――察しております」
「……あ?」
持って回った言い方に、勢い込んでいた男は戸惑う。要するに『娼館が時間外なのもお構いなしに来たのは今しか機会がないからで、同僚を連れて来たってことは、ふたりで結託して仕事中に抜けてきたってことでしょ?』と言っているのだが、あいにく男は、機知という言葉とは無縁だった。
それは、スーリンも承知の上。単に、本来なら場違いである男に対し、聡明な高級娼婦という『格』を印象づけるためだ。彼女は、誰にでも媚を売り、気安くしなだれかかるような安い店の女ではないのだと。
とはいえ、これでは埒が明かないので、彼女は噛み砕いて言を継ぐ。
「上役の方に知られたら、あなたもお叱りを受けてしまうお立場なのでしょう?」
「……は? あ、ああ……、……?」
スーリンの意図が読めず、男は曖昧な相槌を返す。
やがて男は、お高い女は自分などを相手にしたくないのだと思いあたり、不快げに鼻に皺を寄せた。やはり、〈蝿〉に報告してやろう、と。
そのとき――。
スーリンが、とろけるような笑みをこぼした。
「――なのに、黙って、タオロン様を見守ってくださるあなた様に、ルイリンの親友として感謝申し上げます」
「……!?」
まるで見惚れているかのような、うっとりとした眼差しでスーリンが男を見つめてきた。
そのへんの娼婦とは違う、器量も頭脳も上等な女が、自分に好意を持っている。そんな錯覚を起こすのに充分な熱量。男は一転して、胸と鼻の穴を期待に膨らませた。
スーリンは男に一歩、近寄った。
手を伸ばせば、すぐに届くような距離。
けれど、吐息を感じるには、あと一歩が必要な距離。
男の心を浮き立たせ、しかし、もどかしく物足りない。絶妙な位置だ。
「まぁ、なんだな。タオロンの奴が可哀想になってよ」
『いい思い』に釣られて、ほいほい乗ってきただけなのだが、男は、いつの間にかタオロンのためにひと肌脱いだ気になっていた。
「お優しいんですね」
花がほころぶように、スーリンが微笑む。
そして、顔を赤らめながら、彼女はもじもじと告げた。
「あの、タオロン様がルイリンと逢っている間、あなたは私と一緒に、別のお部屋で待っているのでは駄目ですか? ルイリンをタオロン様とふたりきりにしてあげたいの……」
今までと比べて、少しだけ砕けた口調になって、スーリンがねだる。もとより、そのつもりの男に否やはない。
「当たり前じゃねぇか。野暮なこと言うなよ」
猪突猛進の馬鹿の同僚のために、危険を犯して手助けをしたら、その男気に極上の女が惚れ込んできた。――スーリンが見せた幻に、男はいとも簡単に囚われた。
スーリンは、ごく自然に最後の一歩を詰める。
けれど、彼女からは男に触れない。恥ずかしげに男を見つめ、男が抱き寄せてくれるのを待ち望んでいるのだという、大いなる幻想の夢を紡ぐ。
迷わず、肩に手を回してきた男に、スーリンは内心でほくそ笑んだ。この男は完全に落とした。タオロンが外で『ルイリン』と逢っていたことは、口が裂けても言わないであろう――と。
一方、このスーリンの独壇場を固唾を呑んで見守っていたタオロンは、だらだらと脂汗を流していた。
……怖い。
剛の者の彼が、手足を震わせていた。
世の中には、決して逆らってはいけない相手がいるのだと、思わずにはいられなかった……。
「ルイリンを呼んでくるわね」
すっかり親しげな調子になったスーリンが、奥の階段を登っていく。
その後ろ姿を見送り、タオロンがちらりと横を見やれば、スーリンの恐ろしさに気づいていない見張りの男が、だらしのない顔で鼻の下を伸ばしていた。
ほどなくして、階上から人の動く気配を感じる。
「内緒、内緒! とにかく、来て!」
スーリンの弾んだ声が響く。タオロンが来ていることは秘密にしている、という設定なのだろう。
タオロンは、はっと顔色を変えた。
『馴染みの女』は、どこかの部屋で待っていて、タオロンがそこに行くのではないのか?
見張りの男に『馴染みの女』の姿を見せることで、より信用を得ようとしているのは分かる。しかし、『馴染みの女』は――。
そのとき、階段にふたつの影が現れた。
先に立つのは、スーリン。うきうきと軽やかな足取りで、段を踏み鳴らす。
そして、もうひとりは――。
長いスカートの裾を気にしながら、しずしずと降りてきた人物を目にしたとき、タオロンは息を呑んだ。
はっと目を引くような、端正な顔の美少女。
目元がややきつく感じられるが、それも彼女の魅力のうちだ。緩やかに波打つ長い黒髪は後ろに垂らし、そのうちのひと房を青い飾り紐で結わえている。
ただ、小柄なスーリンと比べて、すらりと背が高く、それを気にしているかのような自信なさげな猫背で……。
「ル、ルイフォ……」
言い掛けて、タオロンは慌てて口を閉ざした。そして、もぞもぞと「ルイリン……」と言い直す。
隣では、見張りの男がぴゅうと尻上がりの口笛を吹いた。タオロンの相手が、想像以上の美少女だったからだろう。
「ルイリン! タオロン様が来てくださったのよ!」
あくまでも、親友思いの少女を演じるスーリン。その満面の笑顔は、タオロンには悪魔の微笑にしか見えない。
ルイリン――こと、ルイフォンは、タオロンと目があった瞬間にばっと顔を赤く染め、くるりと背中を向けた。飾り紐が勢いになびき、その中心に留められていた金の鈴がきらりと光る。
そのまま彼女――彼は、スカートを翻し、今、降りてきた階段を再び駆け上がった。
「あっ、ルイリン! ちょ、ちょっと、何、照れているのよ!」
焦ったようにスーリンが叫ぶ。
「タオロン様、追いかけて!」
あっけにとられていたタオロンは、スーリンのひとことに我に返った。追い立てられるように促され、慌ててルイリン――ルイフォンを追いかける。
「しっかり可愛がってやれよ!」
背後から、見張りの男がとんでもない激励の言葉をくれた……。
蔦の這う窓格子の隙間からは柔らかな陽射しが差し込み、穏やかな光が優しく店内を満たしている。奥のカウンターの棚には、繊細なフォルムを誇る、色とりどりの瓶が並べられ、磨き上げられたグラスが客の来訪を待ちわびていた。
そして、ゆったりとしたソファーの狭間で、箒を手にした少女がひとり――。
「タオロン様……!?」
ぱっちりとした愛らしい目をいっぱいに見開き、彼女はタオロンを凝視していた。内なる驚愕の度合いを示すかのように、高くポニーテールにしたくるくるの巻き毛が、大きく揺れている。
いきなり名前を呼んできた少女に、タオロンは戸惑った。
何か言葉を返さなければ、後ろにいる見張りの男に不審に思われる。――そう焦るのだが、喉が張り付いて声が出ない。
そんな調子のタオロンには構わず、少女は柔らかに微笑んだ。
「お久しぶりです」
さっと近くのソファーに箒を立て掛け、優雅に一礼する。可愛らしさの中に気品が加わり、ただの町娘とは違う空気を匂わせた。
軽やかに近づいてくる彼女に、タオロンは、ようやく、しどろもどろに「ああ」と答える。
この少女が『馴染みの女』役なのだろうか?
タオロンがぎこちなく笑いかけると、彼女は、彼の懐にぐぐっと遠慮なく入ってきた。か弱い女性を相手に拳を振るうことなどあり得ないが、武人の彼としては、この間合いは落ち着かない。
「タオロン様、ばつの悪そうなお顔ですよ?」
小柄な彼女が、背伸びをするようにしてタオロンの顔を覗き込むと、反射的に体が引けた。
しまった――!
『馴染みの女』なのだから、抱きしめなければいけなかったのでは!?
――だが、可憐な見た目に反し、少女には妙な迫力があった。武の者なら『闘気』とでも呼ぶべきそれを撒き散らす彼女を相手に、抱きしめるどころか、指一本、触れてはならない気がする……。
「ルイリンが泣いていました」
「……!?」
「他人の恋路に余計な口出しはいけませんが、さすがに親友としては、おとなしいあの子の代わりに、ひとことくらい申し上げたいわ。――今回はまた、随分とご無沙汰でしたね?」
少女が上目遣いに睨んでくる。可愛らしいのに、恐ろしい。
「……あ、ああ……、……すまん」
気づけば、勝手に口が謝っていた。
――と、同時に、これまでのタオロンのギクシャクとした態度は、このやりとりですっかり自然なものとなっていた。
つまり、この少女は『馴染みの女』ではなくて、その親友、という役回りなのだ。そして、『馴染みの女』の名前は『ルイリン』。
――『ルイリン』……?
タオロンの眉がぴくりと動く。そのとき、すかさず少女が口を開き、彼が言葉を発するのを封じた。
「ごめんなさい。言い過ぎました」
恥じらうように視線を下げ、頬を染める。先ほどまでの威圧感は、嘘のように消え去り、そうなると、親友思いの優しい少女にしか見えない。
背後から、見張りの男の狼狽を感じた。
タオロンの豪腕ならひとひねり、といったふうな華奢な少女に対し、巨躯を丸めてたじたじなのだから当然だろう。約束していた『いい思い』が取り消しになることを恐れているだけかもしれないが、少なくとも、目の前の少女が一芝居打っているとは、夢にも思うまい。
ともかく、何か会話を続けたほうがよいのだろう。
そんな思いが頭をよぎるが、無骨なタオロンの口から、気の利いた台詞が出てくるわけもない。表情の読みにくい浅黒い肌の下で困り顔になるタオロンに、少女はふわりと包み込むような笑顔を浮かべた。
「安心してください。ルイリンは、タオロン様が面倒なお仕事をなさっているのだと、ちゃんと理解していますよ。――勿論、私も」
少女のぱっちりとした大きな瞳が、かすかに細められた。
「!?」
刹那に発せられた肉食獣の煌めきは、決して気のせいではないだろう。武人の彼が、見逃すはずがない。
困惑するタオロンをよそに、少女は、彼の脇をすっとすり抜けた。その瞬間、タオロンと少女のふたりに当たっていたはずの見えないスポットライトは、タオロンを置き去りにして、少女を追いかけ始める。
堂々たる主演女優が如く、少女は、まっすぐに舞台を歩く。
舞台袖に追いやられたタオロンは、どういうことだ? と。巻毛のポニーテールを求めて、後ろを振り返った。
すると――。
そこには、丁寧にお辞儀をする少女と、いきなり傍観者から舞台に引き上げられて面食らっている、見張りの男の姿があった。
「はじめまして。スーリンと申します」
少女――スーリンが、男に向かって可愛らしく微笑む。
小柄な彼女が、わずかに首を傾けて男を見上げると、くるくるの髪が踊るように流れ、細い首筋が男の目を惹き寄せた。両手の指を軽く絡み合わせた仕草が、なで肩の嫋やかさをそれとなく強調する。
庇護欲を掻き立てるような愛らしさに、男の喉仏がごくりと動いた。『いい思い』の約束が頭を巡ったのだろう。男の視線が、あからさまな欲望の色でスーリンを舐める。
思わず身を乗り出しかけた男に、スーリンは申し訳なさそうに眉を曇らせた。
「タオロン様が、夜ではなく、昼間にいらした意味。おひとりではなく、お連れの方がいらっしゃる意味。――察しております」
「……あ?」
持って回った言い方に、勢い込んでいた男は戸惑う。要するに『娼館が時間外なのもお構いなしに来たのは今しか機会がないからで、同僚を連れて来たってことは、ふたりで結託して仕事中に抜けてきたってことでしょ?』と言っているのだが、あいにく男は、機知という言葉とは無縁だった。
それは、スーリンも承知の上。単に、本来なら場違いである男に対し、聡明な高級娼婦という『格』を印象づけるためだ。彼女は、誰にでも媚を売り、気安くしなだれかかるような安い店の女ではないのだと。
とはいえ、これでは埒が明かないので、彼女は噛み砕いて言を継ぐ。
「上役の方に知られたら、あなたもお叱りを受けてしまうお立場なのでしょう?」
「……は? あ、ああ……、……?」
スーリンの意図が読めず、男は曖昧な相槌を返す。
やがて男は、お高い女は自分などを相手にしたくないのだと思いあたり、不快げに鼻に皺を寄せた。やはり、〈蝿〉に報告してやろう、と。
そのとき――。
スーリンが、とろけるような笑みをこぼした。
「――なのに、黙って、タオロン様を見守ってくださるあなた様に、ルイリンの親友として感謝申し上げます」
「……!?」
まるで見惚れているかのような、うっとりとした眼差しでスーリンが男を見つめてきた。
そのへんの娼婦とは違う、器量も頭脳も上等な女が、自分に好意を持っている。そんな錯覚を起こすのに充分な熱量。男は一転して、胸と鼻の穴を期待に膨らませた。
スーリンは男に一歩、近寄った。
手を伸ばせば、すぐに届くような距離。
けれど、吐息を感じるには、あと一歩が必要な距離。
男の心を浮き立たせ、しかし、もどかしく物足りない。絶妙な位置だ。
「まぁ、なんだな。タオロンの奴が可哀想になってよ」
『いい思い』に釣られて、ほいほい乗ってきただけなのだが、男は、いつの間にかタオロンのためにひと肌脱いだ気になっていた。
「お優しいんですね」
花がほころぶように、スーリンが微笑む。
そして、顔を赤らめながら、彼女はもじもじと告げた。
「あの、タオロン様がルイリンと逢っている間、あなたは私と一緒に、別のお部屋で待っているのでは駄目ですか? ルイリンをタオロン様とふたりきりにしてあげたいの……」
今までと比べて、少しだけ砕けた口調になって、スーリンがねだる。もとより、そのつもりの男に否やはない。
「当たり前じゃねぇか。野暮なこと言うなよ」
猪突猛進の馬鹿の同僚のために、危険を犯して手助けをしたら、その男気に極上の女が惚れ込んできた。――スーリンが見せた幻に、男はいとも簡単に囚われた。
スーリンは、ごく自然に最後の一歩を詰める。
けれど、彼女からは男に触れない。恥ずかしげに男を見つめ、男が抱き寄せてくれるのを待ち望んでいるのだという、大いなる幻想の夢を紡ぐ。
迷わず、肩に手を回してきた男に、スーリンは内心でほくそ笑んだ。この男は完全に落とした。タオロンが外で『ルイリン』と逢っていたことは、口が裂けても言わないであろう――と。
一方、このスーリンの独壇場を固唾を呑んで見守っていたタオロンは、だらだらと脂汗を流していた。
……怖い。
剛の者の彼が、手足を震わせていた。
世の中には、決して逆らってはいけない相手がいるのだと、思わずにはいられなかった……。
「ルイリンを呼んでくるわね」
すっかり親しげな調子になったスーリンが、奥の階段を登っていく。
その後ろ姿を見送り、タオロンがちらりと横を見やれば、スーリンの恐ろしさに気づいていない見張りの男が、だらしのない顔で鼻の下を伸ばしていた。
ほどなくして、階上から人の動く気配を感じる。
「内緒、内緒! とにかく、来て!」
スーリンの弾んだ声が響く。タオロンが来ていることは秘密にしている、という設定なのだろう。
タオロンは、はっと顔色を変えた。
『馴染みの女』は、どこかの部屋で待っていて、タオロンがそこに行くのではないのか?
見張りの男に『馴染みの女』の姿を見せることで、より信用を得ようとしているのは分かる。しかし、『馴染みの女』は――。
そのとき、階段にふたつの影が現れた。
先に立つのは、スーリン。うきうきと軽やかな足取りで、段を踏み鳴らす。
そして、もうひとりは――。
長いスカートの裾を気にしながら、しずしずと降りてきた人物を目にしたとき、タオロンは息を呑んだ。
はっと目を引くような、端正な顔の美少女。
目元がややきつく感じられるが、それも彼女の魅力のうちだ。緩やかに波打つ長い黒髪は後ろに垂らし、そのうちのひと房を青い飾り紐で結わえている。
ただ、小柄なスーリンと比べて、すらりと背が高く、それを気にしているかのような自信なさげな猫背で……。
「ル、ルイフォ……」
言い掛けて、タオロンは慌てて口を閉ざした。そして、もぞもぞと「ルイリン……」と言い直す。
隣では、見張りの男がぴゅうと尻上がりの口笛を吹いた。タオロンの相手が、想像以上の美少女だったからだろう。
「ルイリン! タオロン様が来てくださったのよ!」
あくまでも、親友思いの少女を演じるスーリン。その満面の笑顔は、タオロンには悪魔の微笑にしか見えない。
ルイリン――こと、ルイフォンは、タオロンと目があった瞬間にばっと顔を赤く染め、くるりと背中を向けた。飾り紐が勢いになびき、その中心に留められていた金の鈴がきらりと光る。
そのまま彼女――彼は、スカートを翻し、今、降りてきた階段を再び駆け上がった。
「あっ、ルイリン! ちょ、ちょっと、何、照れているのよ!」
焦ったようにスーリンが叫ぶ。
「タオロン様、追いかけて!」
あっけにとられていたタオロンは、スーリンのひとことに我に返った。追い立てられるように促され、慌ててルイリン――ルイフォンを追いかける。
「しっかり可愛がってやれよ!」
背後から、見張りの男がとんでもない激励の言葉をくれた……。