残酷な描写あり
1.月影を屠る朝の始まりを-2
大きく開かれた窓から、夜風が舞い込む。
記憶には刻まれておらぬのに、いつの間にか白くなっていた髪がなびき、月光を浴びて銀色に輝く。
窓際にたたずんだ〈蝿〉は、部屋の扉にじっと視線を注いでいた。正確には、その手前。床に置かれた香炉から立ち昇る、独特な臭いを放つ薄い煙の筋に。
舞い上がるにつれて緩やかに広がっていく微粒子が、〈蝿〉の髪と同じく月影を弾いていた。散乱した光が作る幻想的な情景に、〈蝿〉はすっと目を細める。
廊下をうろついていた気配は、先ほど遠ざかっていった。
どうやら様子を見に来ただけのようだ。もしかしたら〈蝿〉が起きていることに気づいて慌てて去っていったのかもしれないが、扉に鍵が掛けられている以上、どのみちリュイセンは朝まで彼に手を出せない。
夜が明けるころには、この煙が部屋中に充満している。そして、〈蝿〉が扉を開けた瞬間に、毒煙は風下に向かって流れ出し、廊下にいるリュイセンを襲う。
〈蝿〉はそこで、鼻に皺を寄せた。
残念ながら、〈蝿〉のこの体は、毒に慣れていない。だから、このままでは彼も毒の餌食となる。防塵マスクが必要だった。
この体であるがために、ルイフォンとの対決の際には、毒刃を受けた腕の肉をえぐる羽目になった。無論、天才医師たる彼の技術によって、傷はとうに完治しているが、あの屈辱は忘れられない。
彼が『〈蝿〉』であるからには、彼の体は毒が効かないものであるべきなのだ。
ルイフォンとの一件があってから、少しずつ慣らしているのだが、しかし、一朝一夕にどうこうなるものではない。
憮然とした顔で、戸棚から防塵マスクを取ろうとしたときだった。
がちゃり――。
扉の開く音がした。
戸棚に手を伸ばしていた、すなわち、扉から目を離していた〈蝿〉は、その音を右肩の方向から聞いた。
「!?」
鍵が掛かっているはずの扉が開いた――!?
不意打ちで、横っ面をはたかれたような衝撃だった。
驚愕に体を返せば、視界に飛び込んできたのは、内側に向かって乱暴に開け放たれた豪奢な扉。そして、猪突猛進に転がり込んでくる、巌のような巨体。
「タオロン!?」
窓からの夜風が、部屋を漂っていた毒香を乗せ、扉へと押し寄せる。死を誘う臭いが、乱入者たるタオロンを襲う。
タオロンの太い眉がしかめられた。
しかし、彼は動じることなく、あたりに視線を走らせた。そして、床に置かれた白磁の香炉を見つけると、巨躯に似合わぬ軽やかさで跳び上がり、重力を加えた逞しい足で問答無用に踏みつける。
ぱりん……。
タオロンの巨体に、華奢な香炉はひとたまりもない。繊細な音を立てて、粉々に砕け散った。
「……」
何が起きたのか。
高い知性を誇るはずの〈蝿〉が、にわかには理解できなかった。
一方、タオロンは煙が完全に消えたのを確認すると、ふらりと足をもつれさせた。懸命に転倒をこらえようとするものの、踏ん張りがきかない。受け身を取ることすらできず、そのまま叩きつけられるように、勢いよく床に倒れ込んだ。
このときになって初めて、〈蝿〉は、タオロンが赤いバンダナで口元を覆っていることに気づいた。いつもは、刈り上げた短髪を抑えるように額に巻いているそれである。
「タオロン。あなたは、この部屋に毒があると知っていたのですか?」
思わず尋ねたが、訊くまでもないだろう。それに、口のきける状態ではないはずだ。
しかし、タオロンは苦しげに顔を歪めながらも、こう答えた。
「俺は……、血路を……開いた……まで……だ」
呼吸が荒い。毒香を吸い込んだためだ。
なのに彼は、清々しくにやりと笑う。無骨な大男のくせに童顔で、まるでいたずらに成功した子供のようである。
朝まで掛けて充分量の毒にするつもりであったから、致死量には至らないだろう。だが、常人ならば、とっくに意識を手放しているはずだ。頑強な巨体の為せる業ということか。彼の強靭さには驚嘆する。
医者の性で、脳内でそんな分析をしていた〈蝿〉は、ふと重要な言葉を聞き流しそうになっていたことに気づいた。
「……『血路』? どういう意味ですか?」
〈蝿〉の問いに、タオロンは部屋の外に向かって顎をしゃくった。
促されるように視線をやれば、開かれたままの扉から、廊下の窓が全開になっているのが見えた。靄のように立ち込めていた毒香は、虚空の淵のような北の空に呑み込まれ、あとかたもない。
だが、それだけだ。
「いったい、なんだと……」
重ねて問おうとしたときだった。
今まで何も感じなかった壁の向こうから、突如、豪然たる覇気が膨れ上がった。
「――!?」
〈蝿〉の肩が、無意識に跳ねた。
何者かが近づいてくる。足音は聞こえなくとも、〈蝿〉には、はっきりとそれが分かる。
そして――。
扉口に長身の影が現れた。
窓からの月光によって黄金比の美貌が明るく照らし出され、〈蝿〉は息を呑む。
「リュイセン……?」
彼以外あり得ない。否、間違いなく彼だ。
だのに見た瞬間、〈蝿〉には、彼が見知らぬ存在に思えた。
何故なら、そこにいたのは、〈蝿〉に昏い憎悪を燃やす若造ではなく、猛き狼であったから。
月明かりの中でも、ひと目で貴人のためのものと分かる美しい絹の衣服を身にまとい、堂々たる歩みで緋毛氈の廊下から迫り来る。長い上着の裾を優雅になびかせ、他を睥睨するように進み征く様には、王者の風格が漂う。
リュイセンは、床に横たわるタオロンに向かって「すまない」と深く頭を下げた。
毒のためにか、タオロンはうまく声を出せなかったようであるが、笑顔で目を細める。それがどんな意味であるのかは不明だったが、気持ちは通じたのだろう。リュイセンが「ありがとう」と応えた。
そして、リュイセンは〈蝿〉と対峙した。
「〈蝿〉――」
人を惹きつける、魅惑の低音が響いた。
「俺は、鷹刀の後継者として、お前を裁きに来た」
双刀を宿したような双眸が、冷厳と〈蝿〉を見据え、無慈悲に宣告する。
肩で揃えられた黒髪が夜風に舞い、闇に解けた。その姿は、まさに鷹刀一族の血統を象徴するかのような、恐ろしくも美しい魔性。
「は……? あなたが『鷹刀の後継者』?」
侮蔑の色合いで、思い切り鼻で笑った。そのつもりだった。なのに、〈蝿〉の声はかすれていた。
彼に畏れなど感じていない。そんなことは断じて認めない。
〈蝿〉は語気を強める。
「一族を裏切ったあなたに、鷹刀を名乗る資格はないでしょう?」
〈蝿〉のほうこそ発する資格もない弾劾に、しかし、リュイセンは恥じ入るように目を伏せた。静かに「ああ」と肯定し、それから、ゆっくりと面を上げる。
「俺は、本来なら許されないような罪を犯した。だが、ルイフォンが手を差し伸べてくれた」
「ルイフォン……? あの子猫が、何をしたというのですか?」
その問いに、自慢の弟分なのだと言わんばかりに、リュイセンは誇らしげに口元を緩める。
「あいつは〈七つの大罪〉のデータベースに侵入して、ミンウェイの『秘密』を、ミンウェイに明かした」
「――!」
〈蝿〉は眦を吊り上げ、息を呑んだ。そんな彼に、リュイセンは淡々と告げる。
「そして、もはや俺がお前に従う理由はないと。だから、鷹刀の後継者として、お前との決着をつけてほしいと。――それを手柄に、一族に戻れと……言ってくれた」
「な……! 何を勝手なことを……! 子猫の分際で!」
唇をわななかせ、口汚く罵りながらも、〈蝿〉の背中を冷や汗が伝っていく。
〈蝿〉は、盤石な大地の上に立っているはずだった。
だが、それは思い違いであったらしい。彼の足元にあったのは、本当は海を漂う氷山。ふとした瞬間に脆く崩れ落ちる。地面ですらない。
「あの子猫は、いったい、どうやってあなたと……」
動揺に視界を揺らせば、床の上の巨体が目に入る。
「!」
数日前、〈蝿〉はタオロンに外出を許可した。あのとき、ルイフォンと連絡を取ったのだ。タオロンに対しては、娘に渡した腕輪に毒針が仕掛けてあると脅していたはずだが、真っ赤な嘘だと気づかれたのだろう。
しかし、武人のリュイセンとタオロンだけでは、ここまで見事な連携は取れまい。頭脳が必要だ。
――メイシアだ。
〈蝿〉は悟った。
どのような手段を使ったのかは分からない。だが、あの小娘が裏で糸を引いていた。それで辻褄が合う。
「つまり、あなたは、いつの間にか鷹刀の者たちと通じていた、というわけですね」
「そういうことだ」
「それで? 私を殺しに来たと?」
〈蝿〉は、神経質な声を張り上げた。
今や彼の足元は崩れ落ち、慌てて下がった狭い空間で、片足を浮かせながらかろうじて耐えているようなものだ。
それでも、彼が彼であるのなら、『生』を諦めてはならないのだ。たとえ還る場所がどこにもなくとも、彼は『生』を享けた存在であるのだから。
「私の持っている毒は、さきほどタオロンに踏みつけられたものがすべてではありませんよ?」
〈蝿〉は挑発的に嗤う。
それは嘘ではない。
だが、戸棚に入っている毒を取らせてくれるほど、リュイセンは甘くはないだろう。だから、虚勢だった。
睨みつけるような視線の先で、リュイセンは無言のまま。穏やかな表情で、その瞳に〈蝿〉を映す。
照明が落とされ、月影が支配する室内では、美貌の細部までは判然としない。だからだろう。リュイセンの父親である、エルファンに見つめられているような気がしてならなかった。
無論、錯覚だ。
けれど、〈蝿〉の記憶の中では、親友たる義兄は、いまだ青年のままなのだ。あのころに還ったような幻影に惑わされそうになる。
不意に……、リュイセンの唇が動いた。
そして、〈蝿〉に呼びかけた。
「ヘイシャオ」
「――!?」
一瞬、空耳かと思った。
思わず、『エルファン』と返しそうになるのを、〈蝿〉は必死にこらえる。
目の前にいるのはリュイセンだ。いくらエルファンにしか見えなくとも、時間は巻き戻ったりなどしない。
「毒じゃなくて、刀を取れよ」
好戦的な口調であるのに、深く低い声はどこか優しげで……、〈蝿〉は戸惑う。
「刀……?」
「ああ」
リュイセンは頷き、そして、唐突に語り始める。
「俺はルイフォンに、お前の寝込みを襲うよう指示されていた。だが、あいにく、お前は起きていた」
「? あなたは、いきなり何を……?」
「しかも、お前は俺たちの存在に気づいて、毒で対抗しようとした。――だから、俺たちはいったん引いて……、そこで、俺は冷静になって考えた」
エルファンにそっくりの声質であるが、とつとつとした喋り方は似ても似つかない。エルファンなら、もっと力強く、理路整然と話すだろう。その差異に〈蝿〉は安堵の息を吐く。
「それで? あなたの話は支離滅裂で、要領を得ません」
呆れ返ったような〈蝿〉の口調に、リュイセンは困ったような笑みを浮かべた。
「すまん。俺は、あまり説明が得意じゃない。けど、聞いてくれ」
律儀に謝るリュイセンは滑稽であったが、それ以上、〈蝿〉に口を挟ませるほど間抜けでもなかったらしい。すぐに言を継ぐ。
「俺は『後継者』として、お前を粛清しに来たんだ。ならば鷹刀の名にかけて、寝込みを襲うなどという、不意打ちのような卑怯な真似をすべきではない」
「……」
リュイセンの意図が読めず、〈蝿〉は眉をひそめた。
作戦通りにはいかず、こうして正面から〈蝿〉と対峙していることに対して、大義名分をかざした言い訳をしたいのだろうか。
だが、それなら相手が違う。〈蝿〉ではなく、ルイフォンに弁明すべきだ。わざわざ〈蝿〉に説明する理由が分からない。
警戒の色をあらわにした〈蝿〉に、しかし、リュイセンは構わずに続ける。
「もし俺が、『俺個人』として、『俺の大事な人たちを傷つけた〈七つの大罪〉の〈悪魔〉』を屠りに来たのなら、不意打ちで構わないだろう。けど、俺は『後継者』であることを選んだ。そして――」
リュイセンはわずかに顎を上げ、薄闇に双眸を光らせる。
ぐいと張った胸元で、錦糸の刺繍が存在感を主張するかのように月影を弾いた。静かな威圧を放つ立ち姿に、〈蝿〉の肌が本能的に粟立つ。
「お前には『血族』としての最期を与えたい」
闇を斬り裂くような、明朗な声。
刹那、〈蝿〉の心臓が跳ねた。
「血……族……?」
そのひとことに、郷愁が押し寄せる。
ミンウェイと共に、一族を去ったことに後悔はない。けれど、夢に見るのはいつだって、大切な人たちと過ごした幼いころの日々だった。
傍から見れば、〈七つの大罪〉の支配下にあった一族は、その恩恵を巡って血で血を洗う、碌でもない場所だった。それでも――否、だからこそ、志を同じくする者たちの結束は特別だった。
元気に飛び跳ねるミンウェイが明るく笑い、見栄っ張りのエルファンが妙に大人びた口調で話す。姉のユイランがいて、付かず離れずチャオラウが控えていて、飄々とした顔のイーレオが皆を見守る……。
「……――ふん」
憧憬のような思いを掻き消そうと、〈蝿〉は、思い切り小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「何をふざけたことを言っているのですか?」
リュイセンの眼差しをぴしゃりと跳ねのけ、〈蝿〉は冷ややかに口の端を上げる。
「私は鷹刀を捨てました。……そもそも『私』は、鷹刀セレイエによって作られた、『天才医師〈蝿〉』の『〈影〉』ではありませんか」
作られたときから『〈蝿〉』だ。『〈蝿〉』としての能力だけを求められていた。『ヘイシャオ』ではない。
『〈蝿〉』に、還るところなどないのだ。
リュイセンは「ああ、そうだな」と、静かに肯定した。
「鷹刀での会議のときは、俺が一番、『〈蝿〉は『作られた駒』なんだから、血族としての情なんか掛けるべきではない』と主張していたな」
「……」
正直すぎる告白に、〈蝿〉は気色ばんだ。
だが、リュイセンは変わらぬ調子で、とつとつと告げる。
「ルイフォンが過去の『死んだヘイシャオ』のことを調べ、メイシアが受け取った記憶から知った、現在の『お前』のことを俺に教えてくれた」
「ほぅ、それで? 私に情でも湧きましたか?」
憐れみなど要らない。惨めなだけだ。
だから、挑発するかのように嘲笑えば、今までの穏やかさを返上して、リュイセンが激昂する。
「ふざけんな! どんな話を聞いても、お前が極悪非道な最低野郎だという事実は変わらねぇよ!」
一転して、獰猛な狼が牙をむいた。
なんの話をしたいのやら、まったくもって理解不能だ。
やれやれ、と。〈蝿〉が肩をすくめたときだった。
「――けど!」
リュイセンの喉から、苦しげな叫びがほとばしった。
「俺は、お前を……、一族に戻してやりたいと思った……」
「……は?」
心底、わけが分からない。あのエルファンの息子が、どうしてここまで論理性に欠けるのか。混乱や狼狽を飛び越え、もはや憂慮、いや憐憫の域だ。
「理屈じゃねぇんだよ! 俺は、お前を一族に戻すべきだと思ったから、そうしたいだけだ。――かといって、お前を許すわけじゃねぇ! 俺は、絶対にお前を許せない。お前は、許されない罪を犯した!」
「……罪、ですか」
いったい、何が罪だというのだろう?
〈蝿〉は、ただ、生きたいと願っただけだ。
首をかしげる〈蝿〉に、リュイセンは鋭く言葉を叩きつける。
「ああ、罪だ。他人を不幸にした罪だ! だから、お前は裁かれる存在だ!」
リュイセンの黒髪が、ぞわりと逆立った。
叫び終え、そこでやっと、熱くなりすぎていた自分に気づいたらしい。知らずに怒らせていたであろう肩を下ろし、小さく息を吐いて呼吸を整える。
それから、リュイセンは改めて〈蝿〉に向き直った。
「お前の裁きを、凶賊の流儀でやってやる。……そうすることで、お前を一族に戻してやる」
「なるほど」
ここまで来て、ようやく〈蝿〉は得心がいった。リュイセンが言いたいのは、要はこういうことだ。
「凶賊の流儀とは、力こそ正義。強い者にこそ、弱い者を裁く権利がある。だから、正々堂々、刃を交えよう、と。――そう言いたいのですね」
「そうだ」
リュイセンは深々と頷いた。
そして、『鷹刀の後継者』を名乗る狼が、正義の鉄槌を下さんと挑みかかる。
「ヘイシャオ、刀を取れ。――お前の最期を『〈蝿〉』で終わらせたくないのならな……!」
記憶には刻まれておらぬのに、いつの間にか白くなっていた髪がなびき、月光を浴びて銀色に輝く。
窓際にたたずんだ〈蝿〉は、部屋の扉にじっと視線を注いでいた。正確には、その手前。床に置かれた香炉から立ち昇る、独特な臭いを放つ薄い煙の筋に。
舞い上がるにつれて緩やかに広がっていく微粒子が、〈蝿〉の髪と同じく月影を弾いていた。散乱した光が作る幻想的な情景に、〈蝿〉はすっと目を細める。
廊下をうろついていた気配は、先ほど遠ざかっていった。
どうやら様子を見に来ただけのようだ。もしかしたら〈蝿〉が起きていることに気づいて慌てて去っていったのかもしれないが、扉に鍵が掛けられている以上、どのみちリュイセンは朝まで彼に手を出せない。
夜が明けるころには、この煙が部屋中に充満している。そして、〈蝿〉が扉を開けた瞬間に、毒煙は風下に向かって流れ出し、廊下にいるリュイセンを襲う。
〈蝿〉はそこで、鼻に皺を寄せた。
残念ながら、〈蝿〉のこの体は、毒に慣れていない。だから、このままでは彼も毒の餌食となる。防塵マスクが必要だった。
この体であるがために、ルイフォンとの対決の際には、毒刃を受けた腕の肉をえぐる羽目になった。無論、天才医師たる彼の技術によって、傷はとうに完治しているが、あの屈辱は忘れられない。
彼が『〈蝿〉』であるからには、彼の体は毒が効かないものであるべきなのだ。
ルイフォンとの一件があってから、少しずつ慣らしているのだが、しかし、一朝一夕にどうこうなるものではない。
憮然とした顔で、戸棚から防塵マスクを取ろうとしたときだった。
がちゃり――。
扉の開く音がした。
戸棚に手を伸ばしていた、すなわち、扉から目を離していた〈蝿〉は、その音を右肩の方向から聞いた。
「!?」
鍵が掛かっているはずの扉が開いた――!?
不意打ちで、横っ面をはたかれたような衝撃だった。
驚愕に体を返せば、視界に飛び込んできたのは、内側に向かって乱暴に開け放たれた豪奢な扉。そして、猪突猛進に転がり込んでくる、巌のような巨体。
「タオロン!?」
窓からの夜風が、部屋を漂っていた毒香を乗せ、扉へと押し寄せる。死を誘う臭いが、乱入者たるタオロンを襲う。
タオロンの太い眉がしかめられた。
しかし、彼は動じることなく、あたりに視線を走らせた。そして、床に置かれた白磁の香炉を見つけると、巨躯に似合わぬ軽やかさで跳び上がり、重力を加えた逞しい足で問答無用に踏みつける。
ぱりん……。
タオロンの巨体に、華奢な香炉はひとたまりもない。繊細な音を立てて、粉々に砕け散った。
「……」
何が起きたのか。
高い知性を誇るはずの〈蝿〉が、にわかには理解できなかった。
一方、タオロンは煙が完全に消えたのを確認すると、ふらりと足をもつれさせた。懸命に転倒をこらえようとするものの、踏ん張りがきかない。受け身を取ることすらできず、そのまま叩きつけられるように、勢いよく床に倒れ込んだ。
このときになって初めて、〈蝿〉は、タオロンが赤いバンダナで口元を覆っていることに気づいた。いつもは、刈り上げた短髪を抑えるように額に巻いているそれである。
「タオロン。あなたは、この部屋に毒があると知っていたのですか?」
思わず尋ねたが、訊くまでもないだろう。それに、口のきける状態ではないはずだ。
しかし、タオロンは苦しげに顔を歪めながらも、こう答えた。
「俺は……、血路を……開いた……まで……だ」
呼吸が荒い。毒香を吸い込んだためだ。
なのに彼は、清々しくにやりと笑う。無骨な大男のくせに童顔で、まるでいたずらに成功した子供のようである。
朝まで掛けて充分量の毒にするつもりであったから、致死量には至らないだろう。だが、常人ならば、とっくに意識を手放しているはずだ。頑強な巨体の為せる業ということか。彼の強靭さには驚嘆する。
医者の性で、脳内でそんな分析をしていた〈蝿〉は、ふと重要な言葉を聞き流しそうになっていたことに気づいた。
「……『血路』? どういう意味ですか?」
〈蝿〉の問いに、タオロンは部屋の外に向かって顎をしゃくった。
促されるように視線をやれば、開かれたままの扉から、廊下の窓が全開になっているのが見えた。靄のように立ち込めていた毒香は、虚空の淵のような北の空に呑み込まれ、あとかたもない。
だが、それだけだ。
「いったい、なんだと……」
重ねて問おうとしたときだった。
今まで何も感じなかった壁の向こうから、突如、豪然たる覇気が膨れ上がった。
「――!?」
〈蝿〉の肩が、無意識に跳ねた。
何者かが近づいてくる。足音は聞こえなくとも、〈蝿〉には、はっきりとそれが分かる。
そして――。
扉口に長身の影が現れた。
窓からの月光によって黄金比の美貌が明るく照らし出され、〈蝿〉は息を呑む。
「リュイセン……?」
彼以外あり得ない。否、間違いなく彼だ。
だのに見た瞬間、〈蝿〉には、彼が見知らぬ存在に思えた。
何故なら、そこにいたのは、〈蝿〉に昏い憎悪を燃やす若造ではなく、猛き狼であったから。
月明かりの中でも、ひと目で貴人のためのものと分かる美しい絹の衣服を身にまとい、堂々たる歩みで緋毛氈の廊下から迫り来る。長い上着の裾を優雅になびかせ、他を睥睨するように進み征く様には、王者の風格が漂う。
リュイセンは、床に横たわるタオロンに向かって「すまない」と深く頭を下げた。
毒のためにか、タオロンはうまく声を出せなかったようであるが、笑顔で目を細める。それがどんな意味であるのかは不明だったが、気持ちは通じたのだろう。リュイセンが「ありがとう」と応えた。
そして、リュイセンは〈蝿〉と対峙した。
「〈蝿〉――」
人を惹きつける、魅惑の低音が響いた。
「俺は、鷹刀の後継者として、お前を裁きに来た」
双刀を宿したような双眸が、冷厳と〈蝿〉を見据え、無慈悲に宣告する。
肩で揃えられた黒髪が夜風に舞い、闇に解けた。その姿は、まさに鷹刀一族の血統を象徴するかのような、恐ろしくも美しい魔性。
「は……? あなたが『鷹刀の後継者』?」
侮蔑の色合いで、思い切り鼻で笑った。そのつもりだった。なのに、〈蝿〉の声はかすれていた。
彼に畏れなど感じていない。そんなことは断じて認めない。
〈蝿〉は語気を強める。
「一族を裏切ったあなたに、鷹刀を名乗る資格はないでしょう?」
〈蝿〉のほうこそ発する資格もない弾劾に、しかし、リュイセンは恥じ入るように目を伏せた。静かに「ああ」と肯定し、それから、ゆっくりと面を上げる。
「俺は、本来なら許されないような罪を犯した。だが、ルイフォンが手を差し伸べてくれた」
「ルイフォン……? あの子猫が、何をしたというのですか?」
その問いに、自慢の弟分なのだと言わんばかりに、リュイセンは誇らしげに口元を緩める。
「あいつは〈七つの大罪〉のデータベースに侵入して、ミンウェイの『秘密』を、ミンウェイに明かした」
「――!」
〈蝿〉は眦を吊り上げ、息を呑んだ。そんな彼に、リュイセンは淡々と告げる。
「そして、もはや俺がお前に従う理由はないと。だから、鷹刀の後継者として、お前との決着をつけてほしいと。――それを手柄に、一族に戻れと……言ってくれた」
「な……! 何を勝手なことを……! 子猫の分際で!」
唇をわななかせ、口汚く罵りながらも、〈蝿〉の背中を冷や汗が伝っていく。
〈蝿〉は、盤石な大地の上に立っているはずだった。
だが、それは思い違いであったらしい。彼の足元にあったのは、本当は海を漂う氷山。ふとした瞬間に脆く崩れ落ちる。地面ですらない。
「あの子猫は、いったい、どうやってあなたと……」
動揺に視界を揺らせば、床の上の巨体が目に入る。
「!」
数日前、〈蝿〉はタオロンに外出を許可した。あのとき、ルイフォンと連絡を取ったのだ。タオロンに対しては、娘に渡した腕輪に毒針が仕掛けてあると脅していたはずだが、真っ赤な嘘だと気づかれたのだろう。
しかし、武人のリュイセンとタオロンだけでは、ここまで見事な連携は取れまい。頭脳が必要だ。
――メイシアだ。
〈蝿〉は悟った。
どのような手段を使ったのかは分からない。だが、あの小娘が裏で糸を引いていた。それで辻褄が合う。
「つまり、あなたは、いつの間にか鷹刀の者たちと通じていた、というわけですね」
「そういうことだ」
「それで? 私を殺しに来たと?」
〈蝿〉は、神経質な声を張り上げた。
今や彼の足元は崩れ落ち、慌てて下がった狭い空間で、片足を浮かせながらかろうじて耐えているようなものだ。
それでも、彼が彼であるのなら、『生』を諦めてはならないのだ。たとえ還る場所がどこにもなくとも、彼は『生』を享けた存在であるのだから。
「私の持っている毒は、さきほどタオロンに踏みつけられたものがすべてではありませんよ?」
〈蝿〉は挑発的に嗤う。
それは嘘ではない。
だが、戸棚に入っている毒を取らせてくれるほど、リュイセンは甘くはないだろう。だから、虚勢だった。
睨みつけるような視線の先で、リュイセンは無言のまま。穏やかな表情で、その瞳に〈蝿〉を映す。
照明が落とされ、月影が支配する室内では、美貌の細部までは判然としない。だからだろう。リュイセンの父親である、エルファンに見つめられているような気がしてならなかった。
無論、錯覚だ。
けれど、〈蝿〉の記憶の中では、親友たる義兄は、いまだ青年のままなのだ。あのころに還ったような幻影に惑わされそうになる。
不意に……、リュイセンの唇が動いた。
そして、〈蝿〉に呼びかけた。
「ヘイシャオ」
「――!?」
一瞬、空耳かと思った。
思わず、『エルファン』と返しそうになるのを、〈蝿〉は必死にこらえる。
目の前にいるのはリュイセンだ。いくらエルファンにしか見えなくとも、時間は巻き戻ったりなどしない。
「毒じゃなくて、刀を取れよ」
好戦的な口調であるのに、深く低い声はどこか優しげで……、〈蝿〉は戸惑う。
「刀……?」
「ああ」
リュイセンは頷き、そして、唐突に語り始める。
「俺はルイフォンに、お前の寝込みを襲うよう指示されていた。だが、あいにく、お前は起きていた」
「? あなたは、いきなり何を……?」
「しかも、お前は俺たちの存在に気づいて、毒で対抗しようとした。――だから、俺たちはいったん引いて……、そこで、俺は冷静になって考えた」
エルファンにそっくりの声質であるが、とつとつとした喋り方は似ても似つかない。エルファンなら、もっと力強く、理路整然と話すだろう。その差異に〈蝿〉は安堵の息を吐く。
「それで? あなたの話は支離滅裂で、要領を得ません」
呆れ返ったような〈蝿〉の口調に、リュイセンは困ったような笑みを浮かべた。
「すまん。俺は、あまり説明が得意じゃない。けど、聞いてくれ」
律儀に謝るリュイセンは滑稽であったが、それ以上、〈蝿〉に口を挟ませるほど間抜けでもなかったらしい。すぐに言を継ぐ。
「俺は『後継者』として、お前を粛清しに来たんだ。ならば鷹刀の名にかけて、寝込みを襲うなどという、不意打ちのような卑怯な真似をすべきではない」
「……」
リュイセンの意図が読めず、〈蝿〉は眉をひそめた。
作戦通りにはいかず、こうして正面から〈蝿〉と対峙していることに対して、大義名分をかざした言い訳をしたいのだろうか。
だが、それなら相手が違う。〈蝿〉ではなく、ルイフォンに弁明すべきだ。わざわざ〈蝿〉に説明する理由が分からない。
警戒の色をあらわにした〈蝿〉に、しかし、リュイセンは構わずに続ける。
「もし俺が、『俺個人』として、『俺の大事な人たちを傷つけた〈七つの大罪〉の〈悪魔〉』を屠りに来たのなら、不意打ちで構わないだろう。けど、俺は『後継者』であることを選んだ。そして――」
リュイセンはわずかに顎を上げ、薄闇に双眸を光らせる。
ぐいと張った胸元で、錦糸の刺繍が存在感を主張するかのように月影を弾いた。静かな威圧を放つ立ち姿に、〈蝿〉の肌が本能的に粟立つ。
「お前には『血族』としての最期を与えたい」
闇を斬り裂くような、明朗な声。
刹那、〈蝿〉の心臓が跳ねた。
「血……族……?」
そのひとことに、郷愁が押し寄せる。
ミンウェイと共に、一族を去ったことに後悔はない。けれど、夢に見るのはいつだって、大切な人たちと過ごした幼いころの日々だった。
傍から見れば、〈七つの大罪〉の支配下にあった一族は、その恩恵を巡って血で血を洗う、碌でもない場所だった。それでも――否、だからこそ、志を同じくする者たちの結束は特別だった。
元気に飛び跳ねるミンウェイが明るく笑い、見栄っ張りのエルファンが妙に大人びた口調で話す。姉のユイランがいて、付かず離れずチャオラウが控えていて、飄々とした顔のイーレオが皆を見守る……。
「……――ふん」
憧憬のような思いを掻き消そうと、〈蝿〉は、思い切り小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「何をふざけたことを言っているのですか?」
リュイセンの眼差しをぴしゃりと跳ねのけ、〈蝿〉は冷ややかに口の端を上げる。
「私は鷹刀を捨てました。……そもそも『私』は、鷹刀セレイエによって作られた、『天才医師〈蝿〉』の『〈影〉』ではありませんか」
作られたときから『〈蝿〉』だ。『〈蝿〉』としての能力だけを求められていた。『ヘイシャオ』ではない。
『〈蝿〉』に、還るところなどないのだ。
リュイセンは「ああ、そうだな」と、静かに肯定した。
「鷹刀での会議のときは、俺が一番、『〈蝿〉は『作られた駒』なんだから、血族としての情なんか掛けるべきではない』と主張していたな」
「……」
正直すぎる告白に、〈蝿〉は気色ばんだ。
だが、リュイセンは変わらぬ調子で、とつとつと告げる。
「ルイフォンが過去の『死んだヘイシャオ』のことを調べ、メイシアが受け取った記憶から知った、現在の『お前』のことを俺に教えてくれた」
「ほぅ、それで? 私に情でも湧きましたか?」
憐れみなど要らない。惨めなだけだ。
だから、挑発するかのように嘲笑えば、今までの穏やかさを返上して、リュイセンが激昂する。
「ふざけんな! どんな話を聞いても、お前が極悪非道な最低野郎だという事実は変わらねぇよ!」
一転して、獰猛な狼が牙をむいた。
なんの話をしたいのやら、まったくもって理解不能だ。
やれやれ、と。〈蝿〉が肩をすくめたときだった。
「――けど!」
リュイセンの喉から、苦しげな叫びがほとばしった。
「俺は、お前を……、一族に戻してやりたいと思った……」
「……は?」
心底、わけが分からない。あのエルファンの息子が、どうしてここまで論理性に欠けるのか。混乱や狼狽を飛び越え、もはや憂慮、いや憐憫の域だ。
「理屈じゃねぇんだよ! 俺は、お前を一族に戻すべきだと思ったから、そうしたいだけだ。――かといって、お前を許すわけじゃねぇ! 俺は、絶対にお前を許せない。お前は、許されない罪を犯した!」
「……罪、ですか」
いったい、何が罪だというのだろう?
〈蝿〉は、ただ、生きたいと願っただけだ。
首をかしげる〈蝿〉に、リュイセンは鋭く言葉を叩きつける。
「ああ、罪だ。他人を不幸にした罪だ! だから、お前は裁かれる存在だ!」
リュイセンの黒髪が、ぞわりと逆立った。
叫び終え、そこでやっと、熱くなりすぎていた自分に気づいたらしい。知らずに怒らせていたであろう肩を下ろし、小さく息を吐いて呼吸を整える。
それから、リュイセンは改めて〈蝿〉に向き直った。
「お前の裁きを、凶賊の流儀でやってやる。……そうすることで、お前を一族に戻してやる」
「なるほど」
ここまで来て、ようやく〈蝿〉は得心がいった。リュイセンが言いたいのは、要はこういうことだ。
「凶賊の流儀とは、力こそ正義。強い者にこそ、弱い者を裁く権利がある。だから、正々堂々、刃を交えよう、と。――そう言いたいのですね」
「そうだ」
リュイセンは深々と頷いた。
そして、『鷹刀の後継者』を名乗る狼が、正義の鉄槌を下さんと挑みかかる。
「ヘイシャオ、刀を取れ。――お前の最期を『〈蝿〉』で終わらせたくないのならな……!」