残酷な描写あり
3.崇き狼の宣誓-1
〈蝿〉の死から、一夜明けた早朝。
鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、執務室の窓辺に立ち、外の景色を見るともなしに眺めていた。
濃い緑をまとった桜の大樹が、眩しい朝陽に透かされて金色に輝き、夏の暑さに染まる前の涼やかな風が、ざわざわと枝葉を奏でていく。
「……結局、会えずじまいだったな」
開け放たれた窓から空を仰ぎ、イーレオは、ぽつりと漏らした。
最後まで、〈蝿〉と――ヘイシャオの記憶と、相まみえることはなかった。それでよかったのだと思うし、やはり、会いたかったようにも思う。
〈蝿〉にしろ、ヘイシャオにしろ、イーレオと意見を異にすることはあっても、敵であったことは一度もなかった。ずっと変わらず、イーレオの大切な一族であり、娘婿だった。勿論、総帥という立場上、それを口にすることは許されなかったのだけれども。
蒼天から降り注ぐ光と風とを受け、イーレオの黒髪が艷やかに流れる。それはまるで、彼の哀悼の思いが流れていく様子を、可視化したかのようでもあった。
「ありがとう」
イーレオは、天に向かって謝意を述べる。
〈蝿〉は、メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解き放った。
それは同時に、〈悪魔〉の〈獅子〉であったイーレオの『契約』をも無効にした。
この余波は、決して偶然などではない。聡明なヘイシャオの〈影〉であれば、当然、気づいていたはず。意図してのことだったはずだ。
約三十年前、イーレオは〈七つの大罪〉から――王族から、一族を解放した。
しかし彼は、彼を信じ、慕い、ついてきてくれた者たちに、何も説明することができなかった。〈悪魔〉の『契約』に縛られていたためである。
何がどうなって、自由の身になれたのか。そもそも一族は、なんのために〈贄〉にされ続けてきたのか。――エルファンやチャオラウといった、イーレオのすぐそばで、彼を支えてきてくれた者たちは、気になって仕方がなかったであろう。
だが、彼らも『契約』のことは承知していたから、イーレオに真実を求めなかった。済んだ過去のことであると割り切ってくれた。
そうして、長い年月、忘れたふりをしてくれていた。
「ヘイシャオ……、俺も解放されたよ」
〈悪魔〉の『契約』から、そして、鷹刀の者たちに一族の過去を黙し続けるという、孤独から。
勿論、リュイセンやルイフォンといった、若い世代には興味のない話だったろう。――それでいい。これは、年寄りの感傷に過ぎない。
「――リュイセンには……、憶えていてもらうべきか」
魅惑の低音をゆるりと響かせ、イーレオは口元をほころばせた。
〈蝿〉との最後の勝負のとき、リュイセンは、高潔なる断罪者として君臨した。イーレオの想像を超えた、絶対の王者の振る舞いだった。だからこそ、〈蝿〉も屈した。
見事だった。
リュイセンは紛うことなく、鷹刀の未来を統べる王だ。
優しさを求心力に、歴代で最高の……。
そして――。
「お前が、最後の総帥だ」
自室で眠っているであろうリュイセンに、イーレオは呼びかける。
リュイセンは、自分が一族の幕を下ろすのだと決意した。
自分の未熟さを痛感しているためにか、まだ正式に宣誓したわけではないけれど、彼がそのつもりであることをイーレオは知っている。
鷹刀の終焉を飾るリュイセンには、一族がそれまで紡いできた過去を憶えていてほしいと願う。未来はいきなり生まれるものではなく、先人の流してきた血と、受け継いできた血を重ね合わせることで作られていくのだから。
かつて盲目の王は、護衛の鷹刀一族が、ほんの一時でもそばから離れることを許さなかった。それを信頼と呼べば聞こえはよいが、単に隷属を強いただけだった。
勿論、初代の王には、確かに信頼があっただろう。しかし、時代を経るごとに、鷹刀一族が〈贄〉、すなわち〈冥王〉に喰わせるための『餌』であることから、家畜の如く軽視されていったのだ。
王の先祖が、神の『供物』として捧げられた歴史と似ているのは、あるいは偶然ではないのかもしれない。他の者を虐げることで、恨みを晴らしていたのだ。
その関係を変えたのが、イーレオも歴史の上でしか知らない、大昔の鷹刀の総帥だ。
彼によって、鷹刀一族は『護衛』という名の奴隷から独立した。そして、〈贄〉の提供の代償として、鷹刀一族にあらゆる便宜を図ることを王に約束させた。
『凶賊』という『地位』は、そのときに、もぎ取った。鷹刀一族にのみ、与えられた『王国の闇を統べる一族』という称号である。――いつの間にか『ならず者の集まり』の意味を持つ蔑称になってしまっていたが。
『表』の王家と対になる、『裏』の鷹刀。――鷹刀一族は、王国の闇を支配する、もうひとつの王家だった。
イーレオは、それを〈贄〉の廃止と引き換えに返上した。
今度はリュイセンが『凶賊』の肩書きを捨て、鷹の一族は名実ともに、もとの自由な市井の一市民に戻る。
幾千もの時を経て、やっと……。
ふと、イーレオは廊下に気配を感じた。おそらく次期総帥たる長子エルファンだろう。
昨日の夕刻、『リュイセンの処遇について話がある』と持ちかけられた。その時点で、エルファンの弁は聞いたのであるが、イーレオは『互いに一晩、考えよう』と切り上げた。
「エルファンの奴、疲れていただろうに、随分と朝が早いな」
あいつも年寄りの仲間入りか、とイーレオは苦笑し、開け放たれていた窓をぴたりと閉めた。
そして、執務室は完全防音となった。
午後になった。
まもなく執務室にて、報告の会議が始まる。
リュイセンは緊張の面持ちで廊下を歩いていた。黄金比の美貌は彫像のように硬く、しなやかなはずの肉体も機械人形のようにぎこちない。
だが、それも仕方のないことといえよう。
報告とは、詳しい状況を知らない相手に、経緯と結末を子細に説明する行為であり、今回の場合、単独行動を続けてきたリュイセンが何をしてきたかを釈明することを示す。
……要するに、リュイセンの吊し上げの会に他ならない。
生真面目な彼は、午前中いっぱい掛けて原稿を用意した。それでも、口が達者ではないために、皆に迷惑を掛けるであろうことは目に見えている。
気が重い。
なし崩しに皆と共にあの庭園を脱出し、そのまま鷹刀一族の屋敷の門をくぐってしまったが、リュイセンは裏切り者だ。責任を取る必要がある。
ルイフォンによれば、リュイセンがメイシアをさらった直後、追放が言い渡されたらしい。だが、〈蝿〉を下したことで追放は解かれたという。――リュイセンのいない場所での出来ごとなので、彼としては実感が沸かないし、どう捉えたらよいものかも分からない。
ともかく、この会議で、何かしらの処分が言い渡されるはずだ。それが道理というものだ。
どんな処分を言い渡されたとしても、たとえ、死をもってケジメをつけろと命じられたとしても、従う覚悟はある。
可能性として一番高いのは、後継者の地位の剥奪だと思われるが、そうであったとしても甘んじて受け入れよう。〈蝿〉に『未来の総帥』として一族を託されたのだが――。
「……いや」
リュイセンは立ち止まり、首を振った。
どんなに時間が掛かってもいい。イーレオと一族に、総帥にふさわしい人間であると認めてもらえるまで努力をしよう。
何故なら、〈蝿〉に誓ったのだから。――『私にお任せください』と。
「おい。いきなり立ち止まって、どうした?」
突然、背後から耳障りな甲高い声が響き、リュイセンは心臓が止まりそうになった。
「緋扇!?」
リュイセンが振り返ると、胡散臭そうな三白眼が「よお」と歪められる。
気配に敏いリュイセンが、こんな至近距離にまで接近を許すとは。しかも、相手があの緋扇シュアンであるとは……。気の重い会議を前に、相当、落ち着きを失っていたようである。
「なんで、お前がここにいるんだ?」
「あれ、聞いていないのか? 俺は、ハオリュウの代理だ」
「?」
シュアンとハオリュウは、復讐のために手を結んだのだ。だから、〈蝿〉との決着がついた今、シュアンが使い走りをする義理はないはずである。……いや、そういう問題ではなく、今回の会議はリュイセンの弁明と処分のための、身内だけの会議ではなかったのか――?
リュイセンが首をかしげていると、シュアンも察したらしい。理由を教えてくれた。
「〈蝿〉の件は決着がついたが、今後も変わらず、俺がハオリュウの子守りをすることになってな。それで、イーレオさんに挨拶の電話を入れたら、今日の会議に出るようにと言われたのさ。なんでも、メイシア嬢から『デヴァイン・シンフォニア計画』についての説明があるんだと」
「そうなのか……?」
リュイセンが自室に籠もって原稿を作っていた間に、他の者たちには連絡が行っていたのだろうか? あるいは、上の空だった彼が、単に聞き逃していただけかもしれないが……。
確かに、『デヴァイン・シンフォニア計画』の話が出るとなれば、ハオリュウは無関係ではないだろう。異母姉のメイシアが巻き込まえている上に、彼自身、摂政に女王の婚約者に――すなわち、『ライシェン』の『父親』になるように持ちかけられている。
『ライシェン』が、こちらの手に移った現在、摂政がハオリュウに対して、どんな態度を取ってくるのかは分からない。だが、ハオリュウとしては、やはり『デヴァイン・シンフォニア計画』の情報は欲しいだろう。
「それじゃ、俺は先に行くぜ」
シュアンが手を振りながら去っていく。
姿勢の悪い、どうにも冴えない背中を見送りながら、リュイセンは礼を言うのを忘れていたことに気づいた。
信じられないことだが、一族とルイフォンを裏切ったリュイセンに対し、シュアンが誰よりも先に、手を差し伸べてくれたのだという。『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』だと。
「緋扇……!」
しかし、呼び止めようとしたときには、もう彼の姿は消えていた。
仕方ない。会議のあとにでも、また声を掛けよう。ともかく、まずはこの会議を乗り切ることが先決だ。
リュイセンは気持ちを引き締め、歩き出した。
……案の定、会議は長時間に及んだ。
その原因の大半が、リュイセンの説明能力の稚拙さに依るものであった。
後日、ルイフォンには『メイシアに出した飯の内容なんてものは、わざわざ報告しなくていいんだ』と、溜め息混じりに、たしなめられた。
一方で、メイシアによる『デヴァイン・シンフォニア計画』の詳説は分かりやすく、彼女の聡明さが際立った。リュイセンとしては穴があったら入りたいくらいである。
ただ、最後にルイフォンが付け加えたひとこと――「要するに、セレイエは俺たちに『ライシェン』のことを丸投げしたというわけだ」には唖然とした。
「すまない。『ライシェン』がこの屋敷にいるだけで、鷹刀は潜在的な危険に晒されている。――近いうちに必ず、方針を打ち出す。少し待ってほしい」
メイシアの手を取り、そう言って頭を下げた弟分の姿は、悔しいけれども格好よかった。負けるものかと思う。
だから、報告とそれに対する質疑応答が落ち着いたとき、リュイセンは自ら切り出した。
「総帥。よろしいでしょうか」
その呼びかけに、ひとり掛けのソファーで優雅に足を組んでいたイーレオは、姿勢を変えず、目線だけを動かした。何もかもを見透かしたような瞳に、リュイセンは、ごくりと唾を呑む。
「なんだ? 言ってみろ」
イーレオの許可が出ると、リュイセンはソファーから立ち上がった。膝を屈し、床に手を付く。
「私は、許されざる裏切り行為を働きました。誠に申し訳ございません。――如何ような処罰も覚悟しております。どうか、御沙汰をお願いいたします」
すらりとした背を腰から綺麗に折り曲げ、額が絨毯をこする直前でぴたりと止める。そのまま時が凍ったように、リュイセンは微動だにしない。
「――なるほど。お前は、今回の件の責任を取るというわけだな」
「はい」
凪いだように静かなイーレオの低い声に、リュイセンは、はっきりと答えた。
「一族の者たちは、お前の裏切り行為に激しく動揺している。俺も、このまま放置するわけにはいかぬと考えていた」
リュイセンは頭を下げたまま、「申し訳ございません」と声を絞り出す。
「俺だけじゃない。エルファンもだ。『リュイセンの処遇について、提案がある』と、昨日の夕方、わざわざ俺のところに来た」
「父上が……!?」
意外だった。なんとなく――であるが、この手のことに、父は口出ししないような気がしていたのだ。
「エルファン」
イーレオが、共犯者の目でエルファンを見やる。
それを受け、エルファンが口の端を上げた。軽く声もたてて笑っていたのだが、不可聴音が如き低音はたいして響かず、平伏のため顔を見ていないリュイセンは、エルファンが笑んだことに、まるで気づかない。
「リュイセン」
イーレオと同じ声質。けれど、感情の消え失せた氷のような音質。
父エルファンの声に、リュイセンは身を引き締める。
「私は、次期総帥の座を退く」
「……?」
「今後は、お前が次期総帥となり、一族をまとめていけ」
「!?」
冷たく耳朶を打つ声に、リュイセンは思わず面を上げた。黄金比の美貌を崩し、ぽかんと口を開けたまま固まる。
驚愕のリュイセンをまるで意に介さず、エルファンは淡々と続けた。
「これは、総帥と私が、よくよく話し合った上での決定だ。異論は許さぬ」
鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、執務室の窓辺に立ち、外の景色を見るともなしに眺めていた。
濃い緑をまとった桜の大樹が、眩しい朝陽に透かされて金色に輝き、夏の暑さに染まる前の涼やかな風が、ざわざわと枝葉を奏でていく。
「……結局、会えずじまいだったな」
開け放たれた窓から空を仰ぎ、イーレオは、ぽつりと漏らした。
最後まで、〈蝿〉と――ヘイシャオの記憶と、相まみえることはなかった。それでよかったのだと思うし、やはり、会いたかったようにも思う。
〈蝿〉にしろ、ヘイシャオにしろ、イーレオと意見を異にすることはあっても、敵であったことは一度もなかった。ずっと変わらず、イーレオの大切な一族であり、娘婿だった。勿論、総帥という立場上、それを口にすることは許されなかったのだけれども。
蒼天から降り注ぐ光と風とを受け、イーレオの黒髪が艷やかに流れる。それはまるで、彼の哀悼の思いが流れていく様子を、可視化したかのようでもあった。
「ありがとう」
イーレオは、天に向かって謝意を述べる。
〈蝿〉は、メイシアを〈悪魔〉の『契約』から解き放った。
それは同時に、〈悪魔〉の〈獅子〉であったイーレオの『契約』をも無効にした。
この余波は、決して偶然などではない。聡明なヘイシャオの〈影〉であれば、当然、気づいていたはず。意図してのことだったはずだ。
約三十年前、イーレオは〈七つの大罪〉から――王族から、一族を解放した。
しかし彼は、彼を信じ、慕い、ついてきてくれた者たちに、何も説明することができなかった。〈悪魔〉の『契約』に縛られていたためである。
何がどうなって、自由の身になれたのか。そもそも一族は、なんのために〈贄〉にされ続けてきたのか。――エルファンやチャオラウといった、イーレオのすぐそばで、彼を支えてきてくれた者たちは、気になって仕方がなかったであろう。
だが、彼らも『契約』のことは承知していたから、イーレオに真実を求めなかった。済んだ過去のことであると割り切ってくれた。
そうして、長い年月、忘れたふりをしてくれていた。
「ヘイシャオ……、俺も解放されたよ」
〈悪魔〉の『契約』から、そして、鷹刀の者たちに一族の過去を黙し続けるという、孤独から。
勿論、リュイセンやルイフォンといった、若い世代には興味のない話だったろう。――それでいい。これは、年寄りの感傷に過ぎない。
「――リュイセンには……、憶えていてもらうべきか」
魅惑の低音をゆるりと響かせ、イーレオは口元をほころばせた。
〈蝿〉との最後の勝負のとき、リュイセンは、高潔なる断罪者として君臨した。イーレオの想像を超えた、絶対の王者の振る舞いだった。だからこそ、〈蝿〉も屈した。
見事だった。
リュイセンは紛うことなく、鷹刀の未来を統べる王だ。
優しさを求心力に、歴代で最高の……。
そして――。
「お前が、最後の総帥だ」
自室で眠っているであろうリュイセンに、イーレオは呼びかける。
リュイセンは、自分が一族の幕を下ろすのだと決意した。
自分の未熟さを痛感しているためにか、まだ正式に宣誓したわけではないけれど、彼がそのつもりであることをイーレオは知っている。
鷹刀の終焉を飾るリュイセンには、一族がそれまで紡いできた過去を憶えていてほしいと願う。未来はいきなり生まれるものではなく、先人の流してきた血と、受け継いできた血を重ね合わせることで作られていくのだから。
かつて盲目の王は、護衛の鷹刀一族が、ほんの一時でもそばから離れることを許さなかった。それを信頼と呼べば聞こえはよいが、単に隷属を強いただけだった。
勿論、初代の王には、確かに信頼があっただろう。しかし、時代を経るごとに、鷹刀一族が〈贄〉、すなわち〈冥王〉に喰わせるための『餌』であることから、家畜の如く軽視されていったのだ。
王の先祖が、神の『供物』として捧げられた歴史と似ているのは、あるいは偶然ではないのかもしれない。他の者を虐げることで、恨みを晴らしていたのだ。
その関係を変えたのが、イーレオも歴史の上でしか知らない、大昔の鷹刀の総帥だ。
彼によって、鷹刀一族は『護衛』という名の奴隷から独立した。そして、〈贄〉の提供の代償として、鷹刀一族にあらゆる便宜を図ることを王に約束させた。
『凶賊』という『地位』は、そのときに、もぎ取った。鷹刀一族にのみ、与えられた『王国の闇を統べる一族』という称号である。――いつの間にか『ならず者の集まり』の意味を持つ蔑称になってしまっていたが。
『表』の王家と対になる、『裏』の鷹刀。――鷹刀一族は、王国の闇を支配する、もうひとつの王家だった。
イーレオは、それを〈贄〉の廃止と引き換えに返上した。
今度はリュイセンが『凶賊』の肩書きを捨て、鷹の一族は名実ともに、もとの自由な市井の一市民に戻る。
幾千もの時を経て、やっと……。
ふと、イーレオは廊下に気配を感じた。おそらく次期総帥たる長子エルファンだろう。
昨日の夕刻、『リュイセンの処遇について話がある』と持ちかけられた。その時点で、エルファンの弁は聞いたのであるが、イーレオは『互いに一晩、考えよう』と切り上げた。
「エルファンの奴、疲れていただろうに、随分と朝が早いな」
あいつも年寄りの仲間入りか、とイーレオは苦笑し、開け放たれていた窓をぴたりと閉めた。
そして、執務室は完全防音となった。
午後になった。
まもなく執務室にて、報告の会議が始まる。
リュイセンは緊張の面持ちで廊下を歩いていた。黄金比の美貌は彫像のように硬く、しなやかなはずの肉体も機械人形のようにぎこちない。
だが、それも仕方のないことといえよう。
報告とは、詳しい状況を知らない相手に、経緯と結末を子細に説明する行為であり、今回の場合、単独行動を続けてきたリュイセンが何をしてきたかを釈明することを示す。
……要するに、リュイセンの吊し上げの会に他ならない。
生真面目な彼は、午前中いっぱい掛けて原稿を用意した。それでも、口が達者ではないために、皆に迷惑を掛けるであろうことは目に見えている。
気が重い。
なし崩しに皆と共にあの庭園を脱出し、そのまま鷹刀一族の屋敷の門をくぐってしまったが、リュイセンは裏切り者だ。責任を取る必要がある。
ルイフォンによれば、リュイセンがメイシアをさらった直後、追放が言い渡されたらしい。だが、〈蝿〉を下したことで追放は解かれたという。――リュイセンのいない場所での出来ごとなので、彼としては実感が沸かないし、どう捉えたらよいものかも分からない。
ともかく、この会議で、何かしらの処分が言い渡されるはずだ。それが道理というものだ。
どんな処分を言い渡されたとしても、たとえ、死をもってケジメをつけろと命じられたとしても、従う覚悟はある。
可能性として一番高いのは、後継者の地位の剥奪だと思われるが、そうであったとしても甘んじて受け入れよう。〈蝿〉に『未来の総帥』として一族を託されたのだが――。
「……いや」
リュイセンは立ち止まり、首を振った。
どんなに時間が掛かってもいい。イーレオと一族に、総帥にふさわしい人間であると認めてもらえるまで努力をしよう。
何故なら、〈蝿〉に誓ったのだから。――『私にお任せください』と。
「おい。いきなり立ち止まって、どうした?」
突然、背後から耳障りな甲高い声が響き、リュイセンは心臓が止まりそうになった。
「緋扇!?」
リュイセンが振り返ると、胡散臭そうな三白眼が「よお」と歪められる。
気配に敏いリュイセンが、こんな至近距離にまで接近を許すとは。しかも、相手があの緋扇シュアンであるとは……。気の重い会議を前に、相当、落ち着きを失っていたようである。
「なんで、お前がここにいるんだ?」
「あれ、聞いていないのか? 俺は、ハオリュウの代理だ」
「?」
シュアンとハオリュウは、復讐のために手を結んだのだ。だから、〈蝿〉との決着がついた今、シュアンが使い走りをする義理はないはずである。……いや、そういう問題ではなく、今回の会議はリュイセンの弁明と処分のための、身内だけの会議ではなかったのか――?
リュイセンが首をかしげていると、シュアンも察したらしい。理由を教えてくれた。
「〈蝿〉の件は決着がついたが、今後も変わらず、俺がハオリュウの子守りをすることになってな。それで、イーレオさんに挨拶の電話を入れたら、今日の会議に出るようにと言われたのさ。なんでも、メイシア嬢から『デヴァイン・シンフォニア計画』についての説明があるんだと」
「そうなのか……?」
リュイセンが自室に籠もって原稿を作っていた間に、他の者たちには連絡が行っていたのだろうか? あるいは、上の空だった彼が、単に聞き逃していただけかもしれないが……。
確かに、『デヴァイン・シンフォニア計画』の話が出るとなれば、ハオリュウは無関係ではないだろう。異母姉のメイシアが巻き込まえている上に、彼自身、摂政に女王の婚約者に――すなわち、『ライシェン』の『父親』になるように持ちかけられている。
『ライシェン』が、こちらの手に移った現在、摂政がハオリュウに対して、どんな態度を取ってくるのかは分からない。だが、ハオリュウとしては、やはり『デヴァイン・シンフォニア計画』の情報は欲しいだろう。
「それじゃ、俺は先に行くぜ」
シュアンが手を振りながら去っていく。
姿勢の悪い、どうにも冴えない背中を見送りながら、リュイセンは礼を言うのを忘れていたことに気づいた。
信じられないことだが、一族とルイフォンを裏切ったリュイセンに対し、シュアンが誰よりも先に、手を差し伸べてくれたのだという。『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』だと。
「緋扇……!」
しかし、呼び止めようとしたときには、もう彼の姿は消えていた。
仕方ない。会議のあとにでも、また声を掛けよう。ともかく、まずはこの会議を乗り切ることが先決だ。
リュイセンは気持ちを引き締め、歩き出した。
……案の定、会議は長時間に及んだ。
その原因の大半が、リュイセンの説明能力の稚拙さに依るものであった。
後日、ルイフォンには『メイシアに出した飯の内容なんてものは、わざわざ報告しなくていいんだ』と、溜め息混じりに、たしなめられた。
一方で、メイシアによる『デヴァイン・シンフォニア計画』の詳説は分かりやすく、彼女の聡明さが際立った。リュイセンとしては穴があったら入りたいくらいである。
ただ、最後にルイフォンが付け加えたひとこと――「要するに、セレイエは俺たちに『ライシェン』のことを丸投げしたというわけだ」には唖然とした。
「すまない。『ライシェン』がこの屋敷にいるだけで、鷹刀は潜在的な危険に晒されている。――近いうちに必ず、方針を打ち出す。少し待ってほしい」
メイシアの手を取り、そう言って頭を下げた弟分の姿は、悔しいけれども格好よかった。負けるものかと思う。
だから、報告とそれに対する質疑応答が落ち着いたとき、リュイセンは自ら切り出した。
「総帥。よろしいでしょうか」
その呼びかけに、ひとり掛けのソファーで優雅に足を組んでいたイーレオは、姿勢を変えず、目線だけを動かした。何もかもを見透かしたような瞳に、リュイセンは、ごくりと唾を呑む。
「なんだ? 言ってみろ」
イーレオの許可が出ると、リュイセンはソファーから立ち上がった。膝を屈し、床に手を付く。
「私は、許されざる裏切り行為を働きました。誠に申し訳ございません。――如何ような処罰も覚悟しております。どうか、御沙汰をお願いいたします」
すらりとした背を腰から綺麗に折り曲げ、額が絨毯をこする直前でぴたりと止める。そのまま時が凍ったように、リュイセンは微動だにしない。
「――なるほど。お前は、今回の件の責任を取るというわけだな」
「はい」
凪いだように静かなイーレオの低い声に、リュイセンは、はっきりと答えた。
「一族の者たちは、お前の裏切り行為に激しく動揺している。俺も、このまま放置するわけにはいかぬと考えていた」
リュイセンは頭を下げたまま、「申し訳ございません」と声を絞り出す。
「俺だけじゃない。エルファンもだ。『リュイセンの処遇について、提案がある』と、昨日の夕方、わざわざ俺のところに来た」
「父上が……!?」
意外だった。なんとなく――であるが、この手のことに、父は口出ししないような気がしていたのだ。
「エルファン」
イーレオが、共犯者の目でエルファンを見やる。
それを受け、エルファンが口の端を上げた。軽く声もたてて笑っていたのだが、不可聴音が如き低音はたいして響かず、平伏のため顔を見ていないリュイセンは、エルファンが笑んだことに、まるで気づかない。
「リュイセン」
イーレオと同じ声質。けれど、感情の消え失せた氷のような音質。
父エルファンの声に、リュイセンは身を引き締める。
「私は、次期総帥の座を退く」
「……?」
「今後は、お前が次期総帥となり、一族をまとめていけ」
「!?」
冷たく耳朶を打つ声に、リュイセンは思わず面を上げた。黄金比の美貌を崩し、ぽかんと口を開けたまま固まる。
驚愕のリュイセンをまるで意に介さず、エルファンは淡々と続けた。
「これは、総帥と私が、よくよく話し合った上での決定だ。異論は許さぬ」