残酷な描写あり
1.颶風の到来-1
桜の大樹が、ざわざわと葉擦れの音色を奏でる。
大華王国一の凶賊、鷹刀一族の屋敷に、夏の調べが流れていく。
庭の主にふさわしく威風堂々とした巨木は、密に重なり合った枝葉で陽光を遮り、涼やかな濃い影を落としていた。それでも時たま、風に揺れた梢の隙間から陽射しがこぼれ、それがかえって太陽を凝縮したかのように眩く煌めく。
熱気に彩られた夏の庭にて、ルイフォンは額から滴り落ちる汗もそのままに、猫の目をかっと見開き、リュイセンの隙を探っていた。兄貴分に、武術の稽古をつけてもらっているのだ。
いくら非戦闘員だからといって、いざというときにメイシアを守れないようでは情けない。彼は以前、他ならぬリュイセンにメイシアをさらわれた。あのときは、まるで歯が立たずに斬り捨てられた。
勿論、この先、メイシアを危険な状況に陥らせる気は毛頭ないのだが、何ごとに対しても備えは重要だ。強敵を前にしたときに、敵わぬまでも、せめて彼女を逃がせるだけの技倆は身につけておくべきだろう。
リュイセンは愛刀を構えたまま、微動だにしない。両の手と一体化したかのような双刀の間合いに、徒手空拳のルイフォンは攻めあぐねていた。ルイフォンにとって不利な状況設定であるが、それは、彼が体を張らねばならないときは、相手が完全武装で、こちらは丸腰に決まっているからだ。
「どうした、ルイフォン?」
挑発するわけでなく、ただ弟分が動かないから尋ねた。リュイセンとしては、そんなところだろう。
しかし、肩まであった髪をばっさりと切った兄貴分の面差しは、彼の父エルファンや、叔父である〈蝿〉とよく似ており、威圧に満ちていた。鋭角的な輪郭が強調され、黄金比の美貌が凄みを帯びる。
彼が中途半端な長さに髪を伸ばしていたのは、そのほうが落ち着いた印象を与えると、幼いころ、ミンウェイに言われたためらしい。だが、次期総帥となり、気持ちを新たにした、といったところか。……単に、暑かったからかもしれないが。
ルイフォンは、すっと腰を落とす。
実践であれば、夏の陽射しに照りつけられて乾ききった足元の土や、桜の影がつくる明暗を利用して、相手の目をくらませることを考える。しかし、これはルイフォンの体を鍛えるための純粋な戦闘訓練だ。奇策に頼ったら意味がない。
彼は勢いよく地を蹴った。
地面がえぐれ、水気を失い黄緑がかった芝と、干からびた土が宙を舞う。
野生の獣のような、しなやかな動きで、瞬時に間合いを詰めた。背中で編まれた髪が、彼のあとを追いかけるように風を薙ぐ。毛先を留める青い飾り紐の中央で、金の鈴がぎらりと輝いた。
リュイセンの双刀が放つ、鋭利な銀光を恐れず、一気に懐に入り込み――。
「痛ってぇ……」
……またしても、一瞬で地面に落とされた。
「なんでだよ……」
ルイフォンが大の字になって体を投げ出すと、暑さに負けて枯れた芝が、ふわりと浮き上がる。
何がどうなったのか、まるで理解できない。打ち身はあるものの、傷はないのだ。臨戦態勢をとっていた兄貴分の双刀は、いったいどんな軌道を描いたというのだろう?
「そろそろ、体力の限界か? だんだん動きが鈍くなっているぞ」
炎天下にありながら、涼し気な顔でリュイセンが微笑む。普段、空調の効きすぎた仕事部屋で生活しているルイフォンからすれば、信じられないような化け物である。
とはいえ、『何かあったとき、そこが快適な空間とは限らないから』と言って、ルイフォンのほうから、わざわざこの過酷な環境での鍛錬を申し込んだのだ。悪く言っては、ばちが当たる。
そのとき。
「ちょっと、あなたたち! 真夏の昼間に、馬鹿なことしないの!」
「ん?」
迫力ある美声に上体を起こせば、きらきらとした透明な光の雫が、ルイフォンの頭上から降り注がれた。
「うわっ!? ――冷てっ……」
ずぶ濡れになりながら見やれば、放水用のホースを手にしたミンウェイが仁王立ちになっている。火照った体に、冷水は生き返るような心地よさであるが、少々、水流が強く、地味に痛い。
「ルイフォン! いくら鍛えたいからといって、無茶をすればいいってものじゃないのよ!」
ミンウェイは水を止め、腕に提げていた袋から電解質飲料のボトルを投げてきた。せっかくの美女を台無しにして角を生やしているが、面倒見のよさは相変わらずである。
「ほら、リュイセンも!」
彼女は、涼しげに結い上げた髪を揺らしながら、つかつかとリュイセンに近づく。「えいっ」と小さな掛け声と共に背伸びをして、彼の頬に、よく冷えた電解質飲料のボトルをぺたりと押しつけた。
その瞬間、リュイセンの美貌がびくりと震えた。それは、ミンウェイの差し入れが、ひやりと肌を刺したためなのか。それとも、至近距離から漂った、彼女の草の香のせいなのか……。
ほんの刹那の間をおいて、リュイセンが「ありがとう」と優しげな笑みを浮かべる。
そんなふたりを、ルイフォンは電解質飲料で喉を潤しながら、芝生から見上げていた。
大柄のリュイセンの傍らに、すらりと背の高いミンウェイの麗姿が並ぶと、実に絵になる。特に最近、リュイセンのまとう雰囲気は包容力にあふれ、顔つきも大人びてきた。ミンウェイのほうも、今まで、どことなく見えない壁があったのだが、それが綺麗に払拭された気がする。
歳はリュイセンのほうが、だいぶ下であるが、そんな些末な問題を気にするほうがおかしいだろう。
――美男美女で、お似合いだな。
声に出さずに独り言つルイフォンの耳に、ミンウェイの棘のある声が響いた。
「リュイセン、『できるだけ早く、目を通しておくように』って言った書類、ほったらかしでしょう!」
「す、すまん! あとで、必ず!」
立派な体躯をすぼめ、リュイセンが頭を下げる。
……まぁ、尻に敷かれているけど。
ルイフォンは苦笑する。
さて、この空間から、どうやって自然に抜け出そうか。
画策を始めた彼の目に、実にちょうどいいタイミングで、屋敷のほうから近づいてくるメイシアの姿が映った。ミンウェイの助手のときは私服姿なのだが、今はメイド服なので、厨房の手伝いの途中――おそらく、お茶にしようと呼びに来てくれたのだろう。
「メイシア!」
彼が勢いよく立ち上がると、背中で編まれた髪が跳ね、水滴を撒き散らした。ぐっしょりと重くなったシャツからも、ぼたぼたと水が垂れてくる。
「ルイフォン!? タオル、持ってくる!」
濡れ鼠の彼に驚いたメイシアが、慌てて踵を返す。
「いいって! こんなのすぐに乾くから!」
水を含み、いつも以上に癖の強くなった前髪を掻き上げ、ルイフォンはメイシアを追いかける。――追いかけるふりをして、そっとこの場を去ろうとした。
しかし――。
まっすぐに屋敷に向かうものと思われたメイシアは、ルイフォンの視線の少し先で立ち止まる。そして、彼女のあとから歩いてきたらしい人物に頭を下げた。
「エルファン様、申し訳ございません。ただちに、ルイフォンの着替えを用意してまいります」
「ああ、分かっている。……だが、そんなに甲斐甲斐しくルイフォンの世話など焼かなくともよいであろう? お前は、あいつの召使いではないのだからな」
そう返したのは、次期総帥の位をリュイセンに譲り、今は前から担当していた諜報関係の仕事に専念しているエルファンである。今のやり取りからすると、どうやら、エルファンはルイフォンに用事があり、メイシアに案内してもらってきた、ということのようだ。
いつもの無表情がやや渋面なのは、ルイフォンに尽くしてくれるメイシアに、エルファンなりの気遣いやら、申し訳なさがあるためらしい。ルイフォンだって、メイシアには本当に感謝している。彼にはもったいないくらいの相手であるが、誰にも渡すつもりはない。
「エルファン、何かあったんだな?」
ルイフォンが駆け寄り、単刀直入に尋ねると、エルファンは表情を変えぬままに低い声で答えた。
「摂政に動きがあった」
「!」
息を呑んだルイフォンのそばで、エルファンは少し離れたところへと視線を移す。
「リュイセンとミンウェイも、執務室に来い」
濡れた服を着替え、執務室に急行すれば、既に皆が揃っていた。
総帥イーレオに、護衛のチャオラウ。
先ほどまで一緒だった、リュイセンとミンウェイが並んで座っており、メイド服姿のままのメイシアが冷えたお茶を配っている。
そして、今回の会議の招集をかけたエルファンが、感情の読めぬ顔で腕を組んでいた。
ルイフォンが「遅れました」と会釈して着席すると、イーレオが早速とばかりに口を開く。
「王宮に潜入させていた者から連絡があったとの、エルファンの報告だ。――エルファン」
「はい」
玲瓏な声が響くと、場の空気が緊張を帯びた。
鷹刀一族は、イーレオが総帥となったときから、〈七つの大罪〉――すなわち、王家との関係を絶っている。しかし、凶賊という組織を運営する以上、国の動向には常に注意を払っておく必要がある。そのため、前々から息の掛かった者を王宮に配置していたのであるが、この春以降、更に人員を増やしていた。
「菖蒲の館にあった〈蝿〉の研究室が爆破され、『ライシェン』と〈蝿〉が消えた件に関して、摂政は鷹刀の仕業だと確信している――正確には、セレイエが鷹刀に匿われており、彼女の指示で動いたと考えていることは、以前にも報告した。そして今回、摂政は、セレイエの手掛かりを求めて、鷹刀の屋敷を家宅捜索することに決めたらしい」
その瞬間、一同のまとう雰囲気の色が変わった。
それは、摂政を恐れる弱腰の色合いではない。ついに――否、『やっと』、その気になったのかと、鈍重な摂政への嘲りすら含んだ覇気にあふれた彩りである。
「メイシアが鷹刀に来たときみたいに、また警察隊が屋敷を取り囲んで、押し寄せてくるのか」
猫の目をすっと細め、ルイフォンは好戦的に口の端を上げた。
メイシアが天上の貴族の世界から、地に棲む凶賊の彼のもとへと舞い降りてきたときも、鷹刀一族の屋敷は軍靴に蹂躙された。凶悪な凶賊に誘拐された貴族令嬢を救い出すという名目で、警察隊が乗り込んできたのである。
「それで、摂政はどんな口実を思いついたんだ?」
如何な摂政といえど、なんの理由もなしに家宅捜索はできまい。あくまでも建て前に過ぎないが、何かしらの難癖をでっち上げたはずだ。
ルイフォンの問いに、エルファンは眉間に皺を寄せた。
「今回は警察隊ではなく、近衛隊が出動する」
「え?」
警察隊なら、厄介ではあるものの、軽くあしらえるという感覚がある。何故なら、凶賊にとって警察隊は、腐れ縁のような間柄だからだ。しかし、国の威信を背負った近衛隊となると、話が変わってくる。
前例のない相手であるために、ルイフォンはどう捉えたらよいのか戸惑った。それは他の者たちも同じようで、微妙な空気となった執務室に、エルファンの声だけが淡々と響く。
「摂政の言い分は、こうだ」
摂政は、凶賊に狙われている『国宝級の科学者』を菖蒲の庭園で保護していたのだが、何者かに拉致された。
その直前、科学者は不可解な行動を取った。
『身辺警護のために私費で雇っていた者の中に間者が混じっており、大事な研究が盗まれた。そいつを逃さないために、門を閉じてくれ』と、門衛に連絡する一方で、『客人を招くので、その車は失礼のないように中へ通せ』と命じたのである。
これはすなわち、盗まれた研究を盾に科学者は脅され、外部で待機していた『客人』こと、科学者を狙っていた凶賊によって連れ去られたものと考えられる。
そして、『客人』の顔を目撃した近衛隊員の証言からすると、犯人が鷹刀一族の者であることは、ほぼ間違いない――。
「『国宝級の科学者』――つまり〈蝿〉が、近衛隊の警護対象だったから、今回の家宅捜索は、近衛隊の管轄であるらしい」
説明を終えたエルファンに、ルイフォンはすかさず口を挟んだ。
「ちょっと待てよ。『客人』の顔を見たって……あのとき、俺たちの車はスモークガラスだったよな? しかも全員、それとなく顔を隠すように気をつけていたはずだ」
「だから、お前がさっき言った通り、これはただの『口実』だ。〈蝿〉――ヘイシャオの〈影〉が、実際に取った行動をうまく繋ぎ合わせて、それらしく作り上げた妄言に過ぎん」
「……っ、そういうことか」
実に、よく整合性の取れた『作り話』だった。そう認めるのも面白くなくて、ルイフォンは鼻を鳴らす。
「更に、事情聴取と称して、総帥である父上に出頭を要請するつもりらしい」
当然といえば、当然の流れだろう。
「けど、そういうのって『任意』だろ? 拒否だな」
当のイーレオを差し置き、ルイフォンが一蹴した。あの摂政なら、高圧的に権力を振りかざしてくると分かりきってはいたが、やはり不快だったのだ。
しかし、ひとり掛けのソファーで優雅に頬杖を付いていたイーレオが、にやりと口角を上げた。まるで、ルイフォンがそう言い出すことを見越しての、『掛かったな』とばかりの仕草である。
「親父?」
ルイフォンは眉をひそめた。
「〈猫〉。鷹刀としては応じるつもりだ」
「――!?」
予想外の言葉に、ルイフォンは刹那、耳を疑う。
彼を『〈猫〉』の名で呼ぶということは、すなわち、『鷹刀』ではない者は口を出すな、という牽制だ。
「どうしてだよ!?」
ルイフォンは鋭く叫び、牙をむいた。
大華王国一の凶賊、鷹刀一族の屋敷に、夏の調べが流れていく。
庭の主にふさわしく威風堂々とした巨木は、密に重なり合った枝葉で陽光を遮り、涼やかな濃い影を落としていた。それでも時たま、風に揺れた梢の隙間から陽射しがこぼれ、それがかえって太陽を凝縮したかのように眩く煌めく。
熱気に彩られた夏の庭にて、ルイフォンは額から滴り落ちる汗もそのままに、猫の目をかっと見開き、リュイセンの隙を探っていた。兄貴分に、武術の稽古をつけてもらっているのだ。
いくら非戦闘員だからといって、いざというときにメイシアを守れないようでは情けない。彼は以前、他ならぬリュイセンにメイシアをさらわれた。あのときは、まるで歯が立たずに斬り捨てられた。
勿論、この先、メイシアを危険な状況に陥らせる気は毛頭ないのだが、何ごとに対しても備えは重要だ。強敵を前にしたときに、敵わぬまでも、せめて彼女を逃がせるだけの技倆は身につけておくべきだろう。
リュイセンは愛刀を構えたまま、微動だにしない。両の手と一体化したかのような双刀の間合いに、徒手空拳のルイフォンは攻めあぐねていた。ルイフォンにとって不利な状況設定であるが、それは、彼が体を張らねばならないときは、相手が完全武装で、こちらは丸腰に決まっているからだ。
「どうした、ルイフォン?」
挑発するわけでなく、ただ弟分が動かないから尋ねた。リュイセンとしては、そんなところだろう。
しかし、肩まであった髪をばっさりと切った兄貴分の面差しは、彼の父エルファンや、叔父である〈蝿〉とよく似ており、威圧に満ちていた。鋭角的な輪郭が強調され、黄金比の美貌が凄みを帯びる。
彼が中途半端な長さに髪を伸ばしていたのは、そのほうが落ち着いた印象を与えると、幼いころ、ミンウェイに言われたためらしい。だが、次期総帥となり、気持ちを新たにした、といったところか。……単に、暑かったからかもしれないが。
ルイフォンは、すっと腰を落とす。
実践であれば、夏の陽射しに照りつけられて乾ききった足元の土や、桜の影がつくる明暗を利用して、相手の目をくらませることを考える。しかし、これはルイフォンの体を鍛えるための純粋な戦闘訓練だ。奇策に頼ったら意味がない。
彼は勢いよく地を蹴った。
地面がえぐれ、水気を失い黄緑がかった芝と、干からびた土が宙を舞う。
野生の獣のような、しなやかな動きで、瞬時に間合いを詰めた。背中で編まれた髪が、彼のあとを追いかけるように風を薙ぐ。毛先を留める青い飾り紐の中央で、金の鈴がぎらりと輝いた。
リュイセンの双刀が放つ、鋭利な銀光を恐れず、一気に懐に入り込み――。
「痛ってぇ……」
……またしても、一瞬で地面に落とされた。
「なんでだよ……」
ルイフォンが大の字になって体を投げ出すと、暑さに負けて枯れた芝が、ふわりと浮き上がる。
何がどうなったのか、まるで理解できない。打ち身はあるものの、傷はないのだ。臨戦態勢をとっていた兄貴分の双刀は、いったいどんな軌道を描いたというのだろう?
「そろそろ、体力の限界か? だんだん動きが鈍くなっているぞ」
炎天下にありながら、涼し気な顔でリュイセンが微笑む。普段、空調の効きすぎた仕事部屋で生活しているルイフォンからすれば、信じられないような化け物である。
とはいえ、『何かあったとき、そこが快適な空間とは限らないから』と言って、ルイフォンのほうから、わざわざこの過酷な環境での鍛錬を申し込んだのだ。悪く言っては、ばちが当たる。
そのとき。
「ちょっと、あなたたち! 真夏の昼間に、馬鹿なことしないの!」
「ん?」
迫力ある美声に上体を起こせば、きらきらとした透明な光の雫が、ルイフォンの頭上から降り注がれた。
「うわっ!? ――冷てっ……」
ずぶ濡れになりながら見やれば、放水用のホースを手にしたミンウェイが仁王立ちになっている。火照った体に、冷水は生き返るような心地よさであるが、少々、水流が強く、地味に痛い。
「ルイフォン! いくら鍛えたいからといって、無茶をすればいいってものじゃないのよ!」
ミンウェイは水を止め、腕に提げていた袋から電解質飲料のボトルを投げてきた。せっかくの美女を台無しにして角を生やしているが、面倒見のよさは相変わらずである。
「ほら、リュイセンも!」
彼女は、涼しげに結い上げた髪を揺らしながら、つかつかとリュイセンに近づく。「えいっ」と小さな掛け声と共に背伸びをして、彼の頬に、よく冷えた電解質飲料のボトルをぺたりと押しつけた。
その瞬間、リュイセンの美貌がびくりと震えた。それは、ミンウェイの差し入れが、ひやりと肌を刺したためなのか。それとも、至近距離から漂った、彼女の草の香のせいなのか……。
ほんの刹那の間をおいて、リュイセンが「ありがとう」と優しげな笑みを浮かべる。
そんなふたりを、ルイフォンは電解質飲料で喉を潤しながら、芝生から見上げていた。
大柄のリュイセンの傍らに、すらりと背の高いミンウェイの麗姿が並ぶと、実に絵になる。特に最近、リュイセンのまとう雰囲気は包容力にあふれ、顔つきも大人びてきた。ミンウェイのほうも、今まで、どことなく見えない壁があったのだが、それが綺麗に払拭された気がする。
歳はリュイセンのほうが、だいぶ下であるが、そんな些末な問題を気にするほうがおかしいだろう。
――美男美女で、お似合いだな。
声に出さずに独り言つルイフォンの耳に、ミンウェイの棘のある声が響いた。
「リュイセン、『できるだけ早く、目を通しておくように』って言った書類、ほったらかしでしょう!」
「す、すまん! あとで、必ず!」
立派な体躯をすぼめ、リュイセンが頭を下げる。
……まぁ、尻に敷かれているけど。
ルイフォンは苦笑する。
さて、この空間から、どうやって自然に抜け出そうか。
画策を始めた彼の目に、実にちょうどいいタイミングで、屋敷のほうから近づいてくるメイシアの姿が映った。ミンウェイの助手のときは私服姿なのだが、今はメイド服なので、厨房の手伝いの途中――おそらく、お茶にしようと呼びに来てくれたのだろう。
「メイシア!」
彼が勢いよく立ち上がると、背中で編まれた髪が跳ね、水滴を撒き散らした。ぐっしょりと重くなったシャツからも、ぼたぼたと水が垂れてくる。
「ルイフォン!? タオル、持ってくる!」
濡れ鼠の彼に驚いたメイシアが、慌てて踵を返す。
「いいって! こんなのすぐに乾くから!」
水を含み、いつも以上に癖の強くなった前髪を掻き上げ、ルイフォンはメイシアを追いかける。――追いかけるふりをして、そっとこの場を去ろうとした。
しかし――。
まっすぐに屋敷に向かうものと思われたメイシアは、ルイフォンの視線の少し先で立ち止まる。そして、彼女のあとから歩いてきたらしい人物に頭を下げた。
「エルファン様、申し訳ございません。ただちに、ルイフォンの着替えを用意してまいります」
「ああ、分かっている。……だが、そんなに甲斐甲斐しくルイフォンの世話など焼かなくともよいであろう? お前は、あいつの召使いではないのだからな」
そう返したのは、次期総帥の位をリュイセンに譲り、今は前から担当していた諜報関係の仕事に専念しているエルファンである。今のやり取りからすると、どうやら、エルファンはルイフォンに用事があり、メイシアに案内してもらってきた、ということのようだ。
いつもの無表情がやや渋面なのは、ルイフォンに尽くしてくれるメイシアに、エルファンなりの気遣いやら、申し訳なさがあるためらしい。ルイフォンだって、メイシアには本当に感謝している。彼にはもったいないくらいの相手であるが、誰にも渡すつもりはない。
「エルファン、何かあったんだな?」
ルイフォンが駆け寄り、単刀直入に尋ねると、エルファンは表情を変えぬままに低い声で答えた。
「摂政に動きがあった」
「!」
息を呑んだルイフォンのそばで、エルファンは少し離れたところへと視線を移す。
「リュイセンとミンウェイも、執務室に来い」
濡れた服を着替え、執務室に急行すれば、既に皆が揃っていた。
総帥イーレオに、護衛のチャオラウ。
先ほどまで一緒だった、リュイセンとミンウェイが並んで座っており、メイド服姿のままのメイシアが冷えたお茶を配っている。
そして、今回の会議の招集をかけたエルファンが、感情の読めぬ顔で腕を組んでいた。
ルイフォンが「遅れました」と会釈して着席すると、イーレオが早速とばかりに口を開く。
「王宮に潜入させていた者から連絡があったとの、エルファンの報告だ。――エルファン」
「はい」
玲瓏な声が響くと、場の空気が緊張を帯びた。
鷹刀一族は、イーレオが総帥となったときから、〈七つの大罪〉――すなわち、王家との関係を絶っている。しかし、凶賊という組織を運営する以上、国の動向には常に注意を払っておく必要がある。そのため、前々から息の掛かった者を王宮に配置していたのであるが、この春以降、更に人員を増やしていた。
「菖蒲の館にあった〈蝿〉の研究室が爆破され、『ライシェン』と〈蝿〉が消えた件に関して、摂政は鷹刀の仕業だと確信している――正確には、セレイエが鷹刀に匿われており、彼女の指示で動いたと考えていることは、以前にも報告した。そして今回、摂政は、セレイエの手掛かりを求めて、鷹刀の屋敷を家宅捜索することに決めたらしい」
その瞬間、一同のまとう雰囲気の色が変わった。
それは、摂政を恐れる弱腰の色合いではない。ついに――否、『やっと』、その気になったのかと、鈍重な摂政への嘲りすら含んだ覇気にあふれた彩りである。
「メイシアが鷹刀に来たときみたいに、また警察隊が屋敷を取り囲んで、押し寄せてくるのか」
猫の目をすっと細め、ルイフォンは好戦的に口の端を上げた。
メイシアが天上の貴族の世界から、地に棲む凶賊の彼のもとへと舞い降りてきたときも、鷹刀一族の屋敷は軍靴に蹂躙された。凶悪な凶賊に誘拐された貴族令嬢を救い出すという名目で、警察隊が乗り込んできたのである。
「それで、摂政はどんな口実を思いついたんだ?」
如何な摂政といえど、なんの理由もなしに家宅捜索はできまい。あくまでも建て前に過ぎないが、何かしらの難癖をでっち上げたはずだ。
ルイフォンの問いに、エルファンは眉間に皺を寄せた。
「今回は警察隊ではなく、近衛隊が出動する」
「え?」
警察隊なら、厄介ではあるものの、軽くあしらえるという感覚がある。何故なら、凶賊にとって警察隊は、腐れ縁のような間柄だからだ。しかし、国の威信を背負った近衛隊となると、話が変わってくる。
前例のない相手であるために、ルイフォンはどう捉えたらよいのか戸惑った。それは他の者たちも同じようで、微妙な空気となった執務室に、エルファンの声だけが淡々と響く。
「摂政の言い分は、こうだ」
摂政は、凶賊に狙われている『国宝級の科学者』を菖蒲の庭園で保護していたのだが、何者かに拉致された。
その直前、科学者は不可解な行動を取った。
『身辺警護のために私費で雇っていた者の中に間者が混じっており、大事な研究が盗まれた。そいつを逃さないために、門を閉じてくれ』と、門衛に連絡する一方で、『客人を招くので、その車は失礼のないように中へ通せ』と命じたのである。
これはすなわち、盗まれた研究を盾に科学者は脅され、外部で待機していた『客人』こと、科学者を狙っていた凶賊によって連れ去られたものと考えられる。
そして、『客人』の顔を目撃した近衛隊員の証言からすると、犯人が鷹刀一族の者であることは、ほぼ間違いない――。
「『国宝級の科学者』――つまり〈蝿〉が、近衛隊の警護対象だったから、今回の家宅捜索は、近衛隊の管轄であるらしい」
説明を終えたエルファンに、ルイフォンはすかさず口を挟んだ。
「ちょっと待てよ。『客人』の顔を見たって……あのとき、俺たちの車はスモークガラスだったよな? しかも全員、それとなく顔を隠すように気をつけていたはずだ」
「だから、お前がさっき言った通り、これはただの『口実』だ。〈蝿〉――ヘイシャオの〈影〉が、実際に取った行動をうまく繋ぎ合わせて、それらしく作り上げた妄言に過ぎん」
「……っ、そういうことか」
実に、よく整合性の取れた『作り話』だった。そう認めるのも面白くなくて、ルイフォンは鼻を鳴らす。
「更に、事情聴取と称して、総帥である父上に出頭を要請するつもりらしい」
当然といえば、当然の流れだろう。
「けど、そういうのって『任意』だろ? 拒否だな」
当のイーレオを差し置き、ルイフォンが一蹴した。あの摂政なら、高圧的に権力を振りかざしてくると分かりきってはいたが、やはり不快だったのだ。
しかし、ひとり掛けのソファーで優雅に頬杖を付いていたイーレオが、にやりと口角を上げた。まるで、ルイフォンがそう言い出すことを見越しての、『掛かったな』とばかりの仕草である。
「親父?」
ルイフォンは眉をひそめた。
「〈猫〉。鷹刀としては応じるつもりだ」
「――!?」
予想外の言葉に、ルイフォンは刹那、耳を疑う。
彼を『〈猫〉』の名で呼ぶということは、すなわち、『鷹刀』ではない者は口を出すな、という牽制だ。
「どうしてだよ!?」
ルイフォンは鋭く叫び、牙をむいた。