残酷な描写あり
2.暗雲を解かした綾のような-1
摂政による家宅捜索に備え、一族ではないルイフォンとメイシアは屋敷を出る。――そう決まった翌日には、ふたりは移動先である草薙家を訪れていた。
洒落た門扉の前で車が停まると、「いらっしゃい!」と、一人娘のクーティエが可憐な声で出迎えてくれた。彼女は素早く門を開け、待ちわびていたことを全身で表すかのように、軽やかに躍り出た。
彼女の動きに併せ、両耳の上で高く結い上げた黒髪と、それを飾るシルクサテンのリボンが流れるように舞う。まだ午前とはいえ、じりじりとした夏の暑さが漂う中、彼女の周りだけ、涼やかな風が巻き起こった。
「ようこそ、草薙家へ!」
母親のシャンリーと同じく舞い手であるクーティエは、家へと続く、緩やかな勾配のアプローチに向かって、ぴんと美しく腕を伸ばす。
クーティエだけではない。そこには、レイウェンとシャンリー夫妻にユイランの姿があり、草薙家の人々が勢揃いしていた。
ルイフォンは笑顔で挨拶をしつつ、内心では苦い思いがこみ上げた。
一家総出での出迎えは、ルイフォンたちを歓迎している――という体を取りつつ、車の運転をしてきてくれたチャオラウに会うためだ。
勿論、チャオラウはこのあとすぐに屋敷に戻る。鷹刀一族に不穏が迫っているというときに、一服していくようにと勧めたところで、長居をする性格ではないだろう。それが分かっているから、全員で門まで来たのだ。
摂政が動き出した今、護衛であるチャオラウは、イーレオのそばを離れるべきではない。家宅捜索の日は数日後だという情報が入っているが、予定が変わる可能性は皆無ではないのだ。
しかし、イーレオは『ルイフォンたちを草薙家まで送っていくように』と、チャオラウに命じ、チャオラウは眉をひそめつつも断らなかった。
これから何が起こるか分からない。今生の別れとなる可能性もある。だから、顔だけでも見せておけ。――そんなイーレオの心遣いを無下にするほど、チャオラウも愚かではなかったのだ。
養女のシャンリーを前に、相変わらずの仏頂面。しかし、彼がきちんと運転席から降りてきて言葉を交わしているという事実が、良いことであるはずなのに、ルイフォンには、やるせなく感じられる……。
「それでは。私はこれにて、鷹刀に戻ります」
ルイフォンとメイシアがトランクから荷物を出し終えると、チャオラウが暇を告げた。
シャンリーの体が強張る。男装の麗人と謳われる、凛々しい顔が歪む。心なしか目が腫れぼったく見えるのは気のせいではないだろう。以前、『リュイセンが死んだかもしれない』という報をもたらしたときの様子から、彼女が意外に涙もろいことを、ルイフォンは知っている。
そんな彼女の肩を、夫のレイウェンがそっと抱き寄せた。
チャオラウが破顔する。それは、この場にふさわしい表情ではなかったが、養女に向かって『果報者め』と安堵する、満足げな顔だった。
「義父上、鷹刀をお願いいたします」
「承知いたしました」
甘やかでありながらも、鋭く冴え渡ったレイウェンの低音に、チャオラウは口元を引き締め、一礼する。
レイウェンは「ありがとうございます」と応じると、シャンリーの肩に手を回したまま、流れるような身のこなしで、すっと横に動いた。決して強引ではない、優雅な振る舞いであるのだが、どこか不自然で――。
ルイフォンが違和感に首をかしげたとき、レイウェンが『なんでもないふりをしてくれ』と目配せをしてきた。
そして。
チャオラウの前には、取り残されたようにユイランがたたずんでいた。
ユイランは、惹き寄せられるようにチャオラウを見上げる。結い上げられた銀髪が揺れ、陽の光を透かしてきらきらと輝く。
「チャオラウ……」
切れ長の目がすっと細められた。白髪混じりの長い睫毛がきらりと光る。
「…………皆を、頼みます」
涼やかな美声が奏でられると、チャオラウは立派な体躯を誇示するように胸を張った。
「お任せください。ユイラン様」
恐れを知らぬ猛者の顔で、朗らかに笑う。
チャオラウがぐっと口角を上げたとき、ルイフォンは初めて、彼の無精髭が今日は綺麗に剃られていることと、彼らの想いに気づいた。
チャオラウの運転する車が小さくなっていくのを見送っていると、出し抜けに野太い声が聞こえてきた。
「社長! 荷物運びに参りました!」
ルイフォンが振り返ると、家へと続くアプローチの勾配を大きな影が下ってくるのが見えた。
浅黒い肌の小山のような巨漢と、その肩にちょこんと乗った小さな女の子――タオロンとファンルゥの父娘である。タイミングよく現れたことから察するに、どうやら、チャオラウとの水入らずの挨拶の邪魔にならないよう、どこかで待機を命じられていたらしい。
〈蝿〉の庭園を出たあと、タオロンはレイウェンの経営する警備会社に就職した。約束通り、この家に住み込みで働いていて、彼が仕事に行っている間は、シャンリーかユイランが、ファンルゥの面倒を見ている。
「ご苦労様。ありがとう」
レイウェンが柔らかな笑みで応えると、タオロンは「いえ」と慌てたように手を振った。
「俺もファンルゥも、早くルイフォンたちに会いたかったですから」
そう言って、嬉しそうに白い歯を見せる。
「ねぇ、パパ!」
ファンルゥが、タオロンの額に巻かれた赤いバンダナを引っ張った。タオロンは「すまん、すまん」と言って、娘を肩から降ろす。
「メイシア! 会いたかったぁ!」
子供特有の高い声を響かせ、ファンルゥがメイシアへと駆け寄る。元気な癖っ毛が跳ね、その髪に結ばれたシルクサテンのリボンが踊った。
メイシアが「あ!」と声を上げるのと同時に、ファンルゥは、その場でくるりと一回転する。
「見て! クーちゃんと、お揃いなの!」
得意げに笑うファンルゥの隣に、クーティエが並んでポーズを取る。ふたりは同じ髪飾りと、同じデザインのシャツとミニスカートを身に着けており、まるで仲の良い姉妹のようであった。
「ふたりとも、凄く可愛い!」
メイシアの声も、つられたように浮かれる。
そんな和気あいあいとした再会に、湿った顔をしていたユイランの口元がほころぶ。そういえば、ファンルゥが草薙家に来るという話が出たとき、彼女は『元気な女の子に服を作ってあげられる』と張り切っていたのだ。
女性たちの話の輪に入るのも気後れして、ルイフォンが少し離れたところで微笑ましげに見守っていると、大きな影がぬっと近づいてきた。
「ルイフォン、お前のおかげだ。ありがとなぁ」
巨漢のタオロンが、ひと回り小さくなったかと思うほどに、深々と頭を下げてきた。なんとなく、涙ぐんでいるようにも感じられる。
「俺たちは今、夢のような生活を送っている」
「おいおい。感謝なら、俺じゃなくてシャンリーやレイウェンに」
「勿論、姐さんと社長には、頭が上がらない。……しかも、強い」
急に声色が変わり、タオロンが大真面目に告げる。武を頼りに生きてきた彼としては、強さは人間を評価する上で、重要な要因らしい。
「姐さんには勝てなくとも、かろうじて負けねぇくらいにはもっていけるようになった。だが、社長が鬼神のように強い。いつも完敗だ。あの外見で、どうして……ああ、いや、人を見かけで判断しちゃいけねぇけどよ」
ルイフォンは苦笑した。タオロンの言いたいことは分かる。鷹刀一族の美麗な容姿に、物腰の柔らかさが加わったレイウェンは、荒事とは、ほど遠い印象なのだ。
しかし、レイウェンは強い。
ルイフォンも話に聞いただけなのであるが、レイウェンは一族を抜ける際、一族最強といわれるチャオラウとの決闘を制している。つまり、相当の使い手のはずだ。
「それからよ」
タオロンの弾んだ声が続く。彼とは長い付き合いというわけではないのだが、いつになく饒舌な気がした。
「銃器の扱いも習っている。もう凶賊じゃねぇからよ。俺は、どんな武器でも使いこなせる立派な警備員になるぜ」
太い眉がぐっと寄り、強い意志を示す。その顔に、ルイフォンは思わず呟く。
「よかったな。……本当に」
「ありがとな」
タオロンは満面の笑みで返した。
これまでの彼は、たとえ豪快に笑っていても、どこか切羽詰まったような余裕のなさが感じられた。それが今は、実にのびのびとした良い顔をしていた。
「さて。暑いですし、そろそろ移動しましょう」
レイウェンが魅惑の低音を響かせた。その涼しげで甘やかな笑みから、ルイフォンはふと思う。
――皆の雰囲気を明るくするために、レイウェンは、このタイミングでタオロンたちを呼んだのではないだろうか。
ただの邪推だろうか? そう思ったとき、レイウェンの長身がすっと寄ってきた。
「ルイフォン、あとで私の書斎に来てほしい。話をしたい」
「!?」
彼の父エルファンとそっくりな、感情の読めない声でそっと耳打ちをすると、何ごともなかったかのようにレイウェンは去っていった。
案内された部屋での荷解きもそこそこに、ルイフォンはレイウェンの書斎を訪れた。本当は、もう少し片付けてからのつもりであったのだが、気もそぞろな彼に、メイシアが「こっちは大丈夫だから」と送り出してくれたのだ。
「よく来てくれたね」
壁一面、本で埋め尽くされた部屋であった。ルイフォンの仕事部屋の壁も、専門書でぎっしりであるが、レイウェンの書斎は経営から服飾関係、武術にまで多岐に渡っている。
奥の机で書き物をしていたレイウェンは立ち上がり、手前のソファーへとルイフォンを誘った。ルイフォンが促されるままに腰を下ろすと、レイウェンは柔らかな所作で、音もなく向かいに座る。
その瞬間、ルイフォンの背筋が伸びた。
よく見慣れた生粋の鷹刀一族の顔貌に、鍛えられた大柄の体躯。――なのに、レイウェンのまとう雰囲気は穏やかで、微塵にも威圧がない。この顔の者は多かれ少なかれ高圧的で、自己主張が強いのが当たり前のルイフォンにとっては、非常に落ち着かない。
……人当たりがよいほうが、逆に居心地が悪いって、どういうことだよ?
自分自身に突っ込むが、内心の声は誰かに聞こえるわけもなく、相槌を打つ者も、茶々を入れる者もないままに、不自然な彼の息遣いだけが表に出された。
「それで、話ってなんだ?」
余計な考えを振り払うように、ルイフォンは自分から切り出す。
「父上が、摂政殿下の事情聴取に応じると聞いたよ。……総帥の祖父上でもなく、次期総帥となったリュイセンでもなくて、父上が行くのだと。そのあたりのことを――鷹刀の皆の様子を詳しく教えてほしいんだ」
ほんの少し眉を寄せつつ、レイウェンが静かに告げた。
「あ……。そうか、そうだよな」
ルイフォンは拍子抜けした。
改まって呼び出したからには、レイウェンのほうから何か重大な話でも持ちかけてくるのかと思っていたのだが、逆にレイウェンのほうが知りたがっていたとは……。
よく考えれば、一族から『絶縁』の扱いになっているレイウェンには、詳しい情報がいかないのだった。彼にしてみれば、現状は気がかりでならないのだろう。
「分かった」
ルイフォンは快諾し、昨日の会議の経緯を話し始めた。
「――なるほどね」
長い指を口元に添え、思案するようにレイウェンが呟いた。魅惑の声質は変わらぬものの、いつもの甘やかさに欠けている。
ルイフォンは不安を覚え、反射的に口走った。
「エルファンは無策で出掛けるわけじゃない。拒否できるものに、わざわざ応じる以上、そのほうが利点があると踏んだはずだ」
……ただ、その策が、会議の場で堂々と言えるほどの妙案ではないだけだ。
続けて言おうとした言葉を、ルイフォンは呑み込む。
唇を噛んだ彼に、レイウェンは柔らかな眼差しを向けた。けれど、その顔は苦笑しているようにも見え、ルイフォンはどきりとする。
見透かされているのだ。
イーレオとエルファンの判断を信じつつも、一抹の不安を拭いきれずにいるルイフォンの心の内を――。
レイウェンはルイフォンの顔を覗き込み、そっと語りかけるように口を開く。
「祖父上と父上は、摂政殿下に、なんらかの交渉を持ちかけようと考えているんだろうね」
洒落た門扉の前で車が停まると、「いらっしゃい!」と、一人娘のクーティエが可憐な声で出迎えてくれた。彼女は素早く門を開け、待ちわびていたことを全身で表すかのように、軽やかに躍り出た。
彼女の動きに併せ、両耳の上で高く結い上げた黒髪と、それを飾るシルクサテンのリボンが流れるように舞う。まだ午前とはいえ、じりじりとした夏の暑さが漂う中、彼女の周りだけ、涼やかな風が巻き起こった。
「ようこそ、草薙家へ!」
母親のシャンリーと同じく舞い手であるクーティエは、家へと続く、緩やかな勾配のアプローチに向かって、ぴんと美しく腕を伸ばす。
クーティエだけではない。そこには、レイウェンとシャンリー夫妻にユイランの姿があり、草薙家の人々が勢揃いしていた。
ルイフォンは笑顔で挨拶をしつつ、内心では苦い思いがこみ上げた。
一家総出での出迎えは、ルイフォンたちを歓迎している――という体を取りつつ、車の運転をしてきてくれたチャオラウに会うためだ。
勿論、チャオラウはこのあとすぐに屋敷に戻る。鷹刀一族に不穏が迫っているというときに、一服していくようにと勧めたところで、長居をする性格ではないだろう。それが分かっているから、全員で門まで来たのだ。
摂政が動き出した今、護衛であるチャオラウは、イーレオのそばを離れるべきではない。家宅捜索の日は数日後だという情報が入っているが、予定が変わる可能性は皆無ではないのだ。
しかし、イーレオは『ルイフォンたちを草薙家まで送っていくように』と、チャオラウに命じ、チャオラウは眉をひそめつつも断らなかった。
これから何が起こるか分からない。今生の別れとなる可能性もある。だから、顔だけでも見せておけ。――そんなイーレオの心遣いを無下にするほど、チャオラウも愚かではなかったのだ。
養女のシャンリーを前に、相変わらずの仏頂面。しかし、彼がきちんと運転席から降りてきて言葉を交わしているという事実が、良いことであるはずなのに、ルイフォンには、やるせなく感じられる……。
「それでは。私はこれにて、鷹刀に戻ります」
ルイフォンとメイシアがトランクから荷物を出し終えると、チャオラウが暇を告げた。
シャンリーの体が強張る。男装の麗人と謳われる、凛々しい顔が歪む。心なしか目が腫れぼったく見えるのは気のせいではないだろう。以前、『リュイセンが死んだかもしれない』という報をもたらしたときの様子から、彼女が意外に涙もろいことを、ルイフォンは知っている。
そんな彼女の肩を、夫のレイウェンがそっと抱き寄せた。
チャオラウが破顔する。それは、この場にふさわしい表情ではなかったが、養女に向かって『果報者め』と安堵する、満足げな顔だった。
「義父上、鷹刀をお願いいたします」
「承知いたしました」
甘やかでありながらも、鋭く冴え渡ったレイウェンの低音に、チャオラウは口元を引き締め、一礼する。
レイウェンは「ありがとうございます」と応じると、シャンリーの肩に手を回したまま、流れるような身のこなしで、すっと横に動いた。決して強引ではない、優雅な振る舞いであるのだが、どこか不自然で――。
ルイフォンが違和感に首をかしげたとき、レイウェンが『なんでもないふりをしてくれ』と目配せをしてきた。
そして。
チャオラウの前には、取り残されたようにユイランがたたずんでいた。
ユイランは、惹き寄せられるようにチャオラウを見上げる。結い上げられた銀髪が揺れ、陽の光を透かしてきらきらと輝く。
「チャオラウ……」
切れ長の目がすっと細められた。白髪混じりの長い睫毛がきらりと光る。
「…………皆を、頼みます」
涼やかな美声が奏でられると、チャオラウは立派な体躯を誇示するように胸を張った。
「お任せください。ユイラン様」
恐れを知らぬ猛者の顔で、朗らかに笑う。
チャオラウがぐっと口角を上げたとき、ルイフォンは初めて、彼の無精髭が今日は綺麗に剃られていることと、彼らの想いに気づいた。
チャオラウの運転する車が小さくなっていくのを見送っていると、出し抜けに野太い声が聞こえてきた。
「社長! 荷物運びに参りました!」
ルイフォンが振り返ると、家へと続くアプローチの勾配を大きな影が下ってくるのが見えた。
浅黒い肌の小山のような巨漢と、その肩にちょこんと乗った小さな女の子――タオロンとファンルゥの父娘である。タイミングよく現れたことから察するに、どうやら、チャオラウとの水入らずの挨拶の邪魔にならないよう、どこかで待機を命じられていたらしい。
〈蝿〉の庭園を出たあと、タオロンはレイウェンの経営する警備会社に就職した。約束通り、この家に住み込みで働いていて、彼が仕事に行っている間は、シャンリーかユイランが、ファンルゥの面倒を見ている。
「ご苦労様。ありがとう」
レイウェンが柔らかな笑みで応えると、タオロンは「いえ」と慌てたように手を振った。
「俺もファンルゥも、早くルイフォンたちに会いたかったですから」
そう言って、嬉しそうに白い歯を見せる。
「ねぇ、パパ!」
ファンルゥが、タオロンの額に巻かれた赤いバンダナを引っ張った。タオロンは「すまん、すまん」と言って、娘を肩から降ろす。
「メイシア! 会いたかったぁ!」
子供特有の高い声を響かせ、ファンルゥがメイシアへと駆け寄る。元気な癖っ毛が跳ね、その髪に結ばれたシルクサテンのリボンが踊った。
メイシアが「あ!」と声を上げるのと同時に、ファンルゥは、その場でくるりと一回転する。
「見て! クーちゃんと、お揃いなの!」
得意げに笑うファンルゥの隣に、クーティエが並んでポーズを取る。ふたりは同じ髪飾りと、同じデザインのシャツとミニスカートを身に着けており、まるで仲の良い姉妹のようであった。
「ふたりとも、凄く可愛い!」
メイシアの声も、つられたように浮かれる。
そんな和気あいあいとした再会に、湿った顔をしていたユイランの口元がほころぶ。そういえば、ファンルゥが草薙家に来るという話が出たとき、彼女は『元気な女の子に服を作ってあげられる』と張り切っていたのだ。
女性たちの話の輪に入るのも気後れして、ルイフォンが少し離れたところで微笑ましげに見守っていると、大きな影がぬっと近づいてきた。
「ルイフォン、お前のおかげだ。ありがとなぁ」
巨漢のタオロンが、ひと回り小さくなったかと思うほどに、深々と頭を下げてきた。なんとなく、涙ぐんでいるようにも感じられる。
「俺たちは今、夢のような生活を送っている」
「おいおい。感謝なら、俺じゃなくてシャンリーやレイウェンに」
「勿論、姐さんと社長には、頭が上がらない。……しかも、強い」
急に声色が変わり、タオロンが大真面目に告げる。武を頼りに生きてきた彼としては、強さは人間を評価する上で、重要な要因らしい。
「姐さんには勝てなくとも、かろうじて負けねぇくらいにはもっていけるようになった。だが、社長が鬼神のように強い。いつも完敗だ。あの外見で、どうして……ああ、いや、人を見かけで判断しちゃいけねぇけどよ」
ルイフォンは苦笑した。タオロンの言いたいことは分かる。鷹刀一族の美麗な容姿に、物腰の柔らかさが加わったレイウェンは、荒事とは、ほど遠い印象なのだ。
しかし、レイウェンは強い。
ルイフォンも話に聞いただけなのであるが、レイウェンは一族を抜ける際、一族最強といわれるチャオラウとの決闘を制している。つまり、相当の使い手のはずだ。
「それからよ」
タオロンの弾んだ声が続く。彼とは長い付き合いというわけではないのだが、いつになく饒舌な気がした。
「銃器の扱いも習っている。もう凶賊じゃねぇからよ。俺は、どんな武器でも使いこなせる立派な警備員になるぜ」
太い眉がぐっと寄り、強い意志を示す。その顔に、ルイフォンは思わず呟く。
「よかったな。……本当に」
「ありがとな」
タオロンは満面の笑みで返した。
これまでの彼は、たとえ豪快に笑っていても、どこか切羽詰まったような余裕のなさが感じられた。それが今は、実にのびのびとした良い顔をしていた。
「さて。暑いですし、そろそろ移動しましょう」
レイウェンが魅惑の低音を響かせた。その涼しげで甘やかな笑みから、ルイフォンはふと思う。
――皆の雰囲気を明るくするために、レイウェンは、このタイミングでタオロンたちを呼んだのではないだろうか。
ただの邪推だろうか? そう思ったとき、レイウェンの長身がすっと寄ってきた。
「ルイフォン、あとで私の書斎に来てほしい。話をしたい」
「!?」
彼の父エルファンとそっくりな、感情の読めない声でそっと耳打ちをすると、何ごともなかったかのようにレイウェンは去っていった。
案内された部屋での荷解きもそこそこに、ルイフォンはレイウェンの書斎を訪れた。本当は、もう少し片付けてからのつもりであったのだが、気もそぞろな彼に、メイシアが「こっちは大丈夫だから」と送り出してくれたのだ。
「よく来てくれたね」
壁一面、本で埋め尽くされた部屋であった。ルイフォンの仕事部屋の壁も、専門書でぎっしりであるが、レイウェンの書斎は経営から服飾関係、武術にまで多岐に渡っている。
奥の机で書き物をしていたレイウェンは立ち上がり、手前のソファーへとルイフォンを誘った。ルイフォンが促されるままに腰を下ろすと、レイウェンは柔らかな所作で、音もなく向かいに座る。
その瞬間、ルイフォンの背筋が伸びた。
よく見慣れた生粋の鷹刀一族の顔貌に、鍛えられた大柄の体躯。――なのに、レイウェンのまとう雰囲気は穏やかで、微塵にも威圧がない。この顔の者は多かれ少なかれ高圧的で、自己主張が強いのが当たり前のルイフォンにとっては、非常に落ち着かない。
……人当たりがよいほうが、逆に居心地が悪いって、どういうことだよ?
自分自身に突っ込むが、内心の声は誰かに聞こえるわけもなく、相槌を打つ者も、茶々を入れる者もないままに、不自然な彼の息遣いだけが表に出された。
「それで、話ってなんだ?」
余計な考えを振り払うように、ルイフォンは自分から切り出す。
「父上が、摂政殿下の事情聴取に応じると聞いたよ。……総帥の祖父上でもなく、次期総帥となったリュイセンでもなくて、父上が行くのだと。そのあたりのことを――鷹刀の皆の様子を詳しく教えてほしいんだ」
ほんの少し眉を寄せつつ、レイウェンが静かに告げた。
「あ……。そうか、そうだよな」
ルイフォンは拍子抜けした。
改まって呼び出したからには、レイウェンのほうから何か重大な話でも持ちかけてくるのかと思っていたのだが、逆にレイウェンのほうが知りたがっていたとは……。
よく考えれば、一族から『絶縁』の扱いになっているレイウェンには、詳しい情報がいかないのだった。彼にしてみれば、現状は気がかりでならないのだろう。
「分かった」
ルイフォンは快諾し、昨日の会議の経緯を話し始めた。
「――なるほどね」
長い指を口元に添え、思案するようにレイウェンが呟いた。魅惑の声質は変わらぬものの、いつもの甘やかさに欠けている。
ルイフォンは不安を覚え、反射的に口走った。
「エルファンは無策で出掛けるわけじゃない。拒否できるものに、わざわざ応じる以上、そのほうが利点があると踏んだはずだ」
……ただ、その策が、会議の場で堂々と言えるほどの妙案ではないだけだ。
続けて言おうとした言葉を、ルイフォンは呑み込む。
唇を噛んだ彼に、レイウェンは柔らかな眼差しを向けた。けれど、その顔は苦笑しているようにも見え、ルイフォンはどきりとする。
見透かされているのだ。
イーレオとエルファンの判断を信じつつも、一抹の不安を拭いきれずにいるルイフォンの心の内を――。
レイウェンはルイフォンの顔を覗き込み、そっと語りかけるように口を開く。
「祖父上と父上は、摂政殿下に、なんらかの交渉を持ちかけようと考えているんだろうね」