残酷な描写あり
3.表裏一体の末裔たち-2
エルファンは、摂政の遣いに案内され、エレベーターで上階へと向かっていた。
地下の近衛隊員たちのことは、勿論、殺していない。
彼らが王族の『秘密』を知ったところで、鷹刀一族には、なんの不利益もないのだ。無用な殺生はすべきではないだろう。『秘密』の漏洩で困るのは、王族である。せいぜい、摂政が頭を悩ませればよいことだ。
だから、すぐに『冗談だ』と告げて、低く嗤った。
しかし、近衛隊員たちは無様なほどに震え上がり、一番若い隊員などすっかり腰を抜かしていた。摂政はといえば『恩を売りつけられたのかと思いましたよ』と、雅やかに返してきた。一考の余地はありましたのに、と暗に含ませた、惜しむような声色であった。
……エルファンの遊び心は、どうやら、誰にも理解してもらえなかったようである。
やがて、エレベーターが止まり、緋毛氈の敷かれた廊下に降りた。
貴人の棲み家など、どこも似たようなものなのかもしれないが、なんとなく〈蝿〉が潜伏していた、あの菖蒲の館に似ている。そんなことを思いながら、遣いの背を追っていくと、連れて行かれた場所は、金箔で縁取られた白塗りの扉の前であった。
既視感のある装飾に、エルファンは嗤笑する。
その声に、遣いの者が何ごとかと顔を強張らせつつ、「こちらです」と告げた。
「案内、ご苦労だったな」
軽く礼を述べると、エルファンは漆黒の長い裾をはためかせる。そして、遣いが取っ手に手を掛けるよりも先に、自ら扉を開いた。
足を踏み入れた瞬間、純白の世界が広がった。
部屋を覆う白壁は、高い天井から燦然と降り注ぐシャンデリアの光によって、より一層、皓く輝く。複雑な綾模様を描く、毛足の長い絨毯は、織り込まれた金糸によって、時折、光の筋が走っていくかのように煌めいた。
目に映るものすべてが白く、エルファンは遠近感を失いそうになる。天上の国にでも迷い込んでしまったのかと錯覚しそうな、この部屋の名を、彼は最近、覚えたばかりであった。
「『天空の間』――か」
魔性の美貌を閃かせ、静かに独り言つ。
菖蒲の館で〈蝿〉が王族の『秘密』を告げた部屋も、『天空の間』であった。
『神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋』であるのだと、もと貴族のメイシアが説明してくれた。貴族や王族なら、自分の屋敷に、ひと部屋は作るのだとか。
それを踏まえ、〈蝿〉は『神との密談の場』だと揶揄した。『〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉は、防音のよく効いた天空の間で〈悪魔〉たちと会っていた』――と。
地下牢獄から、天上の国に河岸を変えるとは、摂政も、また随分と極端なもてなしをするものだと、扉の前では思わず嗤いがこみ上げた。しかし、『表』と『裏』の王家の者の対面の場として考えれば、存外ふさわしいのやもしれぬ、などとエルファンは思い直す。
「おや、『天空の間』をご存知でしたか」
奥のほうから、ゆったりとした雅やかな声が流れてきた。鷹刀一族の持つ、魅惑の低音とは声質が異なるが、人を惹きつけてやまない、蠱惑の旋律である。
金の縁取りで装飾された純白のソファーに、ひとりの貴人が腰掛けていた。部屋に溶け込むような、金刺繍の施された白い略装姿だが、髪と瞳は闇に沈むように黒い。
『太陽を中心に星々が引き合い、銀河を形作るように。カイウォル殿下を軸に人々が寄り合い、世界が回る』――そんな言葉で語られる、摂政カイウォル、その人である。
年の頃は、長男のレイウェンと同じくらいか。エルファンにとっては、まだまだ若造であるが、盛りを過ぎた我が身を鑑みれば、油断ならない相手ともいえる。
繊細で美麗な容姿に、冷静で明晰な頭脳。加えて、見る者に強烈な畏敬の念を抱かせる、不可思議な魅力。
天に二物も、三物も与えられた王兄は、王族という選民意識の強さが鼻につくが、為政者としては先王よりも、よほど有能であると、貴族の藤咲家当主ハオリュウも認めるほどだ。
しかし、唯一、〈神の御子〉の外見を持たないがゆえに、彼には王位継承権がない。
エルファンは黙って奥に進んだ。
カイウォルにしても、特に言葉はない。
既に名も素性も承知している以上、互いに挨拶など必要ないと判断したのだ。このあたり、ふたりは似た者同士であるのかもしれなかった。――ただし、同族嫌悪となるであろうが。
「かつて『鷹の一族』と呼ばれた一族の話を思い出しましたよ」
部下の近衛隊員たちの愚から、先手を取ることの重要性を学んだのだろうか。
エルファンが向かいのソファーに座るや否や、カイウォルが口火を切った。柔らかな語り口であるが、黒い瞳は蔑むような色合いを帯びている。
「ほう」
エルファンは胡乱げに片眉を上げた。
「王家とは縁故ある一族です。何しろ、この国の創世神話に謳われし、古き一族なのですから」
カイウォルは自分の口元に指先を当て、雅やかにくすりと笑う。そして、おもむろに、創世神話を詠み上げた。
この国には神がいる。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、天空の神フェイレン。
神は、この地を治めるために、王族を創り出した。
王族の血筋には、時折り神の姿を写した赤子が生まれる。彼の者こそが国を治める宿命を背負った王である。
王は、天空の神フェイレンの代理人。
地上のあらゆることを見通す瞳を持ち、王の前では、どんな罪人も自らの罪過を告白せずにはいられない――。
「神話に出てくる『罪人』。彼こそが『鷹の一族』の者であり、鷹刀一族の始祖ですね」
居丈高に、カイウォルが告げる。
なるほど、と。エルファンは思った。
王族の『秘密』を知る鷹刀一族のことを、カイウォルは蔑ろにできない。故に、創世神話に謳われるほどの由緒ある一族であると、ひとまず認めた。だが一方で、貴種である王家とは身分が違うと、貶めようとしているのだ。
如何にも、高貴な人間の考え方だ。
「創世神話の『罪人』か。――ああ。確かに、鷹刀を指すのだと聞いている」
エルファンは低く喉を鳴らした。
平然と受け答えているが、その言い伝えは、実は先日、知ったばかりである。
〈蝿〉は王族の『秘密』を明かす際、話の途中で息絶えたときの保険として、ルイフォンに記憶媒体を託した。その中身は王族の『秘密』のみならず、〈悪魔〉の〈蝿〉が知り得た、ありとあらゆる情報の宝庫であり、件の創世神話の謂れもまた記されていたのだ。
「つまらぬことを言うな」
情報を与えてくれた〈蝿〉に感謝しつつ、エルファンは余裕の顔で一笑に付した。
「『供物』として飼われていた先天性白皮症の王族の祖先は、警護役であった鷹刀の祖先の『記憶を読み取り』、古の王朝への謀反の『罪』を暴いた。そして、密告されたくなければ、手を組むようにと迫った」
エルファンは憎悪を込めて、一段と低く、声を響かせる。
「それが、現王朝の始まりだ。故に、『罪人』の記述が神話に残された。それだけのことだ。鷹刀が罪人なら、共に古の王朝を斃した王族も罪人だろう?」
もともと、この創世神話は、王族の悪意に満ちているのだ。武功を挙げた鷹の一族が、王族を差し置いて民心を集めぬようにと、あえて『罪人』と記し、蔑みの対象としたのだから――。
「どうやら、鷹刀一族が、古き伝承を語り継いでいることは確かなようですね」
カイウォルは、あくまでも高飛車な態度は崩さず、演技じみた仕草で感嘆の息をついた。
「ふむ。王族の『秘密』を知る我が一族が、『もうひとつの王家』であることを疑っていたのか」
やや呆れたようにエルファンが口を開けば、カイウォルは美麗な眉を不快げに寄せる。
「鷹刀一族は、『〈贄〉として、王家に仕えていた』と伝え聞いております。それが、『裏』の王家などと言われても、私としてはどう捉えたらよいものやら……」
すっと目を細め、カイウォルは含み笑いを漏らした。〈冥王〉の『餌』の分際で、おこがましいというわけだ。
実に王族らしい、高慢な仕草だった。
しかし、エルファンが気を昂らせることはなかった。それどころか、王位継承権を持たない王兄が、現在の王家を唯一無二と主張する様など、彼の目には滑稽だとしか映らなかった。
「くだらない創世神話まで持ち出して、そんなに躍起にならなくともよいだろう。王族の立場からすれば『もうひとつの王家』などを認めるわけにはいかないことくらい、私だって承知している」
口の端を上げ、低く喉を震わせる。
白い部屋の中で、異質な黒い正装の肩が揺れた。それはまるで、エルファンを中心に昏い闇が広がるかのよう。
「神話など無意味だろう? 神などというものは存在しないのだからな」
「何を言いたいのですか?」
『神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋』である天空の間で、堂々と神を否定するエルファンに、カイウォルは蛮族を見る目で問う。
「そのままの意味だ。白金の髪、青灰色の瞳を持つ〈神の御子〉の姿は、先天性白皮症によるもの。神に選ばれた人間だからではない。――だが」
エルファンは、意味ありげに言葉を切った。
漆黒の眼差しが、同じ色合いを持つカイウォルの瞳を捕らえる。
「創世神話の記述のために、この国では、黒髪黒目の人間は王にはなれない」
純白の空間に、ぽとりと落とされた、墨のような低音。
そのひとことがカイウォルを指すことは、説明するまでもなかった。
刹那。
時が凍りつく。
カイウォルの黒い眼は見開かれたまま、動きを止める。
――エルファンは思う。
王兄カイウォルにとって、創世神話は呪詛でしかないだろう。どんなに天賦の才があり、それを超える努力があったとしても、彼は決して王にはなれないのだから。
故に、たとえ鷹刀一族を貶めるためであっても、彼が創世神話を口にすることは屈辱であるはずだ。
「……私に、何か思うところがおありのようですね。ですが、そのような話をするために、この場を設けたわけではありません」
錦糸のような黒髪をさらりと払い、カイウォルは冷ややかに告げた。揺さぶりをかけられたのだと気づいたのだ。
けれど、激昂はしない。それが、カイウォルという人間の矜持のようだった。
「そうだな」
エルファンは素直に引いた。創世神話の解釈談義は、カイウォルの人となりを知るためのよい余興ではあったが、本題ではない。
「話を戻しましょう」
仕切り直しだと、カイウォルが声を上げた。
正面から向き合えば、大柄な鷹刀一族の直系であるエルファンと比べ、カイウォルは頭ひとつ分とまではいわないものの、明らかに目線が低い。しかも、親子ほどにも年齢に開きがある。
しかし、命じる者の口調だった。
「先ほど、あなたは地下で『王族の『秘密』を外部に漏らされたくなければ、鷹刀一族から手を引けと、警告に来た』と言いましたね」
それを言ったのはカイウォルだ。エルファンは否定はしていないが、肯定もしていない。だが、混ぜ返したところで、話が滞るだけなので曖昧に頷いた。
「口外して構いませんよ」
雅やかな微笑を浮かべ、カイウォルは断言した。
「王族の『秘密』など、好きに広めるがよいでしょう。凶賊の言うことなど誰も信じやしません。信じたところで、『人の心が読める』となれば、それはそれで王の神性が高まるというものです。王家としては、何も困ることはありません」
蠱惑の旋律が、柔らかに告げる。澄ました美貌は、むしろ優しげで、彼の言葉をきちんと聞いていなければ、交友を深めたいと言われたのかと勘違いしそうだ。
そう来たか――と、エルファンは無表情に受け止めた。
実のところ、王族の『秘密』をちらつかせたところで、まるきり相手にされない可能性は充分に考えていた。だが、ふたりきりでの対面に応じたので、少しは効果があったのかと期待していたのだ。
「ふむ。では、王が先天性白皮症だの、クローンだのと言われても構わぬと」
王の神性を穢す話題なら、貧しい平民や自由民たちが好むだろうと匂わせ、嘲りを含んだ口調で探りを入れる。
「そのようなことを吹聴すれば、不敬罪だと咎められ、窮地に陥るのは鷹刀一族のほうですよ。この国を治める、王家の力を侮らないでいただきたいですね」
カイウォルは澄ました顔で答え、ゆったりとした声で続けた。
「王家と鷹刀一族には、不干渉の約束があるとのことですが、それは、先王陛下による個人的な約束です。現在の王家とは、なんの関係もありません。そもそも、それは〈贄〉についてのみの約束でしょう?」
「勝手なことをぬかすな」
エルファンは不快げに顔をしかめるが、それはあくまでも演技である。
カイウォルの弁は、まったくもってその通りなのだ。『王家は、不干渉の不文律を犯した』などと、エルファンは地下で憤慨してみせたが、あれは単に、カイウォルと直接、話をつける場を設けるための、いわば言いがかりだった。
なので、対面の叶った今となっては流してよい話なのだが、王族のカイウォルにしてみれば、凶賊如きに非難され、気分を害していたらしい。捨て置くことはできなかったようだ。
「先王陛下と鷹刀イーレオの関係が特別だっただけです。――王位を継ぐためだけに作られたクローンである先王は、周りからの愛情に恵まれませんでした。そんな彼の孤独を埋めるように、イーレオは教育係として近づき、歓心を得て、鷹刀一族に肩入れさせただけです」
すげない物言いに、エルファンは苦笑した。
カイウォルにとって、先王とは父親だ。冷淡な態度から察するに、不仲であったという噂は本当らしい。〈神の御子〉として生まれることができなかったカイウォルには、〈神の御子〉であるからこそ生を享けたクローンの父王は受け容れがたいものということか。
とはいえ、そもそも『人の心が読める』能力を持った相手と、仲良くやれるほうが奇特なのかもしれない。そう考えると、イーレオは偉大といえるのだが、あの父ならば、さもありなんと、エルファンは思った。
ともかく。
父親同士が不干渉の約束を交わしたのと同じように、エルファンとカイウォルの間で、不干渉の約束を取りつける。
もっとも、カイウォルの性格では、不干渉の『約束』は不可能であろう。
だから、『牽制』なり『脅迫』なりで、カイウォルを黙らせる。――これが、エルファンに課せられた命題であり、事情聴取に応じた目的だった。
真の『交渉』は、これからだ。
エルファンは不敵な笑みを浮かべ、しかし……と、カイウォルを見やり、首をかしげた。
この天空の間は、密室だ。
隠しカメラはあるかもしれないが、人が隠れている気配はない。武の達人であるエルファンがその気になれば、カイウォルの命など一瞬で奪える。
防音のきいた部屋で、凶賊とふたりきり。一国の摂政の行動としては、あまりにも不用心ではないだろうか。
何故だ?
部屋に案内されたときは、王族の『秘密』を外部に漏らさぬためだと考えた。しかし、カイウォルは『秘密』が知られても構わぬと言う。
エルファンが本能的な危険を感じたとき、カイウォルの蠱惑の声が響いた。
「あなたからの話は、もうよいでしょう。――そろそろ、私の話をさせてください」
人を惹き寄せてやまない微笑が、エルファンを強引に捕らえる。
「あなたもご存知の通り、私は〈蝿〉の名で呼ばれる、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉の行方を探しております。ですが、実はもうひとり、探している〈悪魔〉がいるのです」
カイウォルの言葉を聞いた瞬間、エルファンの脳裏に『セレイエ』の名が浮かんだ。
心臓が、どきりと跳ねる。
握りしめた掌の中で、汗がにじむ。
しかし、常からの無表情は伊達ではなく、エルファンの氷の美貌は揺るがなかった。何食わぬ顔で「ほう」と相槌を打つ。
案の定、カイウォルの次の台詞は、予想通りのものであった。
「〈蛇〉の名で呼ばれる〈悪魔〉。――あなたの娘である、鷹刀セレイエを探しています」
カイウォルは、鷹刀一族がセレイエを匿っていると疑っている。今までは、表立って探している素振りを見せなかったが、身内であるエルファンとの対面を好機と捉え、直接、尋ねることで探りを入れる策に出たのだろう。
「セレイエは、確かに私の娘だが、〈七つの大罪〉に加わった時点で絶縁している。――鷹刀にとって、〈七つの大罪〉は仇のようなものだからな。もう十年近く、消息を知らん」
「そうですか。もしや、実家に身を寄せていたら、と思ったのですが……」
わずかに眉を寄せ、カイウォルは深い溜め息をつく。憂いを帯びたような顔に、エルファンは胸騒ぎを覚えた。
「すまぬな」
セレイエの話題を切り上げようと、エルファンは短く発する。しかし、カイウォルは被せるように告げた。
「鷹刀セレイエは、〈神の御子〉の男子を産みました」
「!」
エルファンは息を呑んだ。
その事実を、まさかカイウォルのほうから明かしてくるとは、想像もしていなかった。
「名前は、ライシェン。現女王を退け、玉座に就くべき真の王です。――なのに、彼女は子供を連れて、王宮から姿を消しました。子供を奪われると思ったのでしょうね」
最後のひとことは、セレイエを思いやるような優しい響きをしており、軽く伏せられた瞼に、やるせなさを感じる睫毛が並ぶ。カイウォルをよく知らない人間には、まるきりの善人にしか見えない振る舞いだった。
エルファンには、カイウォルの意図が分からなかった。
だが、この対面の場に、密室を選んだことだけは納得した。『ライシェン』は、外部に漏れてはならない存在だ。
「この件は、勿論、国家の機密事項ですが、他でもない、あなたの娘のことなので、お話しいたしました。――しかし……」
ゆるりと。カイウォルの顎がしゃくり上げられた。
雅やかでありながらも禍々しく、この国に君臨する貴人は嗤う。
「あまり、驚かれていませんね。――そうですか。既に、ライシェンのことを、ご存知だったのですね」
地下の近衛隊員たちのことは、勿論、殺していない。
彼らが王族の『秘密』を知ったところで、鷹刀一族には、なんの不利益もないのだ。無用な殺生はすべきではないだろう。『秘密』の漏洩で困るのは、王族である。せいぜい、摂政が頭を悩ませればよいことだ。
だから、すぐに『冗談だ』と告げて、低く嗤った。
しかし、近衛隊員たちは無様なほどに震え上がり、一番若い隊員などすっかり腰を抜かしていた。摂政はといえば『恩を売りつけられたのかと思いましたよ』と、雅やかに返してきた。一考の余地はありましたのに、と暗に含ませた、惜しむような声色であった。
……エルファンの遊び心は、どうやら、誰にも理解してもらえなかったようである。
やがて、エレベーターが止まり、緋毛氈の敷かれた廊下に降りた。
貴人の棲み家など、どこも似たようなものなのかもしれないが、なんとなく〈蝿〉が潜伏していた、あの菖蒲の館に似ている。そんなことを思いながら、遣いの背を追っていくと、連れて行かれた場所は、金箔で縁取られた白塗りの扉の前であった。
既視感のある装飾に、エルファンは嗤笑する。
その声に、遣いの者が何ごとかと顔を強張らせつつ、「こちらです」と告げた。
「案内、ご苦労だったな」
軽く礼を述べると、エルファンは漆黒の長い裾をはためかせる。そして、遣いが取っ手に手を掛けるよりも先に、自ら扉を開いた。
足を踏み入れた瞬間、純白の世界が広がった。
部屋を覆う白壁は、高い天井から燦然と降り注ぐシャンデリアの光によって、より一層、皓く輝く。複雑な綾模様を描く、毛足の長い絨毯は、織り込まれた金糸によって、時折、光の筋が走っていくかのように煌めいた。
目に映るものすべてが白く、エルファンは遠近感を失いそうになる。天上の国にでも迷い込んでしまったのかと錯覚しそうな、この部屋の名を、彼は最近、覚えたばかりであった。
「『天空の間』――か」
魔性の美貌を閃かせ、静かに独り言つ。
菖蒲の館で〈蝿〉が王族の『秘密』を告げた部屋も、『天空の間』であった。
『神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋』であるのだと、もと貴族のメイシアが説明してくれた。貴族や王族なら、自分の屋敷に、ひと部屋は作るのだとか。
それを踏まえ、〈蝿〉は『神との密談の場』だと揶揄した。『〈七つの大罪〉の頂点に立つ〈神〉は、防音のよく効いた天空の間で〈悪魔〉たちと会っていた』――と。
地下牢獄から、天上の国に河岸を変えるとは、摂政も、また随分と極端なもてなしをするものだと、扉の前では思わず嗤いがこみ上げた。しかし、『表』と『裏』の王家の者の対面の場として考えれば、存外ふさわしいのやもしれぬ、などとエルファンは思い直す。
「おや、『天空の間』をご存知でしたか」
奥のほうから、ゆったりとした雅やかな声が流れてきた。鷹刀一族の持つ、魅惑の低音とは声質が異なるが、人を惹きつけてやまない、蠱惑の旋律である。
金の縁取りで装飾された純白のソファーに、ひとりの貴人が腰掛けていた。部屋に溶け込むような、金刺繍の施された白い略装姿だが、髪と瞳は闇に沈むように黒い。
『太陽を中心に星々が引き合い、銀河を形作るように。カイウォル殿下を軸に人々が寄り合い、世界が回る』――そんな言葉で語られる、摂政カイウォル、その人である。
年の頃は、長男のレイウェンと同じくらいか。エルファンにとっては、まだまだ若造であるが、盛りを過ぎた我が身を鑑みれば、油断ならない相手ともいえる。
繊細で美麗な容姿に、冷静で明晰な頭脳。加えて、見る者に強烈な畏敬の念を抱かせる、不可思議な魅力。
天に二物も、三物も与えられた王兄は、王族という選民意識の強さが鼻につくが、為政者としては先王よりも、よほど有能であると、貴族の藤咲家当主ハオリュウも認めるほどだ。
しかし、唯一、〈神の御子〉の外見を持たないがゆえに、彼には王位継承権がない。
エルファンは黙って奥に進んだ。
カイウォルにしても、特に言葉はない。
既に名も素性も承知している以上、互いに挨拶など必要ないと判断したのだ。このあたり、ふたりは似た者同士であるのかもしれなかった。――ただし、同族嫌悪となるであろうが。
「かつて『鷹の一族』と呼ばれた一族の話を思い出しましたよ」
部下の近衛隊員たちの愚から、先手を取ることの重要性を学んだのだろうか。
エルファンが向かいのソファーに座るや否や、カイウォルが口火を切った。柔らかな語り口であるが、黒い瞳は蔑むような色合いを帯びている。
「ほう」
エルファンは胡乱げに片眉を上げた。
「王家とは縁故ある一族です。何しろ、この国の創世神話に謳われし、古き一族なのですから」
カイウォルは自分の口元に指先を当て、雅やかにくすりと笑う。そして、おもむろに、創世神話を詠み上げた。
この国には神がいる。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、天空の神フェイレン。
神は、この地を治めるために、王族を創り出した。
王族の血筋には、時折り神の姿を写した赤子が生まれる。彼の者こそが国を治める宿命を背負った王である。
王は、天空の神フェイレンの代理人。
地上のあらゆることを見通す瞳を持ち、王の前では、どんな罪人も自らの罪過を告白せずにはいられない――。
「神話に出てくる『罪人』。彼こそが『鷹の一族』の者であり、鷹刀一族の始祖ですね」
居丈高に、カイウォルが告げる。
なるほど、と。エルファンは思った。
王族の『秘密』を知る鷹刀一族のことを、カイウォルは蔑ろにできない。故に、創世神話に謳われるほどの由緒ある一族であると、ひとまず認めた。だが一方で、貴種である王家とは身分が違うと、貶めようとしているのだ。
如何にも、高貴な人間の考え方だ。
「創世神話の『罪人』か。――ああ。確かに、鷹刀を指すのだと聞いている」
エルファンは低く喉を鳴らした。
平然と受け答えているが、その言い伝えは、実は先日、知ったばかりである。
〈蝿〉は王族の『秘密』を明かす際、話の途中で息絶えたときの保険として、ルイフォンに記憶媒体を託した。その中身は王族の『秘密』のみならず、〈悪魔〉の〈蝿〉が知り得た、ありとあらゆる情報の宝庫であり、件の創世神話の謂れもまた記されていたのだ。
「つまらぬことを言うな」
情報を与えてくれた〈蝿〉に感謝しつつ、エルファンは余裕の顔で一笑に付した。
「『供物』として飼われていた先天性白皮症の王族の祖先は、警護役であった鷹刀の祖先の『記憶を読み取り』、古の王朝への謀反の『罪』を暴いた。そして、密告されたくなければ、手を組むようにと迫った」
エルファンは憎悪を込めて、一段と低く、声を響かせる。
「それが、現王朝の始まりだ。故に、『罪人』の記述が神話に残された。それだけのことだ。鷹刀が罪人なら、共に古の王朝を斃した王族も罪人だろう?」
もともと、この創世神話は、王族の悪意に満ちているのだ。武功を挙げた鷹の一族が、王族を差し置いて民心を集めぬようにと、あえて『罪人』と記し、蔑みの対象としたのだから――。
「どうやら、鷹刀一族が、古き伝承を語り継いでいることは確かなようですね」
カイウォルは、あくまでも高飛車な態度は崩さず、演技じみた仕草で感嘆の息をついた。
「ふむ。王族の『秘密』を知る我が一族が、『もうひとつの王家』であることを疑っていたのか」
やや呆れたようにエルファンが口を開けば、カイウォルは美麗な眉を不快げに寄せる。
「鷹刀一族は、『〈贄〉として、王家に仕えていた』と伝え聞いております。それが、『裏』の王家などと言われても、私としてはどう捉えたらよいものやら……」
すっと目を細め、カイウォルは含み笑いを漏らした。〈冥王〉の『餌』の分際で、おこがましいというわけだ。
実に王族らしい、高慢な仕草だった。
しかし、エルファンが気を昂らせることはなかった。それどころか、王位継承権を持たない王兄が、現在の王家を唯一無二と主張する様など、彼の目には滑稽だとしか映らなかった。
「くだらない創世神話まで持ち出して、そんなに躍起にならなくともよいだろう。王族の立場からすれば『もうひとつの王家』などを認めるわけにはいかないことくらい、私だって承知している」
口の端を上げ、低く喉を震わせる。
白い部屋の中で、異質な黒い正装の肩が揺れた。それはまるで、エルファンを中心に昏い闇が広がるかのよう。
「神話など無意味だろう? 神などというものは存在しないのだからな」
「何を言いたいのですか?」
『神に祈りを捧げ、神と対話するための部屋』である天空の間で、堂々と神を否定するエルファンに、カイウォルは蛮族を見る目で問う。
「そのままの意味だ。白金の髪、青灰色の瞳を持つ〈神の御子〉の姿は、先天性白皮症によるもの。神に選ばれた人間だからではない。――だが」
エルファンは、意味ありげに言葉を切った。
漆黒の眼差しが、同じ色合いを持つカイウォルの瞳を捕らえる。
「創世神話の記述のために、この国では、黒髪黒目の人間は王にはなれない」
純白の空間に、ぽとりと落とされた、墨のような低音。
そのひとことがカイウォルを指すことは、説明するまでもなかった。
刹那。
時が凍りつく。
カイウォルの黒い眼は見開かれたまま、動きを止める。
――エルファンは思う。
王兄カイウォルにとって、創世神話は呪詛でしかないだろう。どんなに天賦の才があり、それを超える努力があったとしても、彼は決して王にはなれないのだから。
故に、たとえ鷹刀一族を貶めるためであっても、彼が創世神話を口にすることは屈辱であるはずだ。
「……私に、何か思うところがおありのようですね。ですが、そのような話をするために、この場を設けたわけではありません」
錦糸のような黒髪をさらりと払い、カイウォルは冷ややかに告げた。揺さぶりをかけられたのだと気づいたのだ。
けれど、激昂はしない。それが、カイウォルという人間の矜持のようだった。
「そうだな」
エルファンは素直に引いた。創世神話の解釈談義は、カイウォルの人となりを知るためのよい余興ではあったが、本題ではない。
「話を戻しましょう」
仕切り直しだと、カイウォルが声を上げた。
正面から向き合えば、大柄な鷹刀一族の直系であるエルファンと比べ、カイウォルは頭ひとつ分とまではいわないものの、明らかに目線が低い。しかも、親子ほどにも年齢に開きがある。
しかし、命じる者の口調だった。
「先ほど、あなたは地下で『王族の『秘密』を外部に漏らされたくなければ、鷹刀一族から手を引けと、警告に来た』と言いましたね」
それを言ったのはカイウォルだ。エルファンは否定はしていないが、肯定もしていない。だが、混ぜ返したところで、話が滞るだけなので曖昧に頷いた。
「口外して構いませんよ」
雅やかな微笑を浮かべ、カイウォルは断言した。
「王族の『秘密』など、好きに広めるがよいでしょう。凶賊の言うことなど誰も信じやしません。信じたところで、『人の心が読める』となれば、それはそれで王の神性が高まるというものです。王家としては、何も困ることはありません」
蠱惑の旋律が、柔らかに告げる。澄ました美貌は、むしろ優しげで、彼の言葉をきちんと聞いていなければ、交友を深めたいと言われたのかと勘違いしそうだ。
そう来たか――と、エルファンは無表情に受け止めた。
実のところ、王族の『秘密』をちらつかせたところで、まるきり相手にされない可能性は充分に考えていた。だが、ふたりきりでの対面に応じたので、少しは効果があったのかと期待していたのだ。
「ふむ。では、王が先天性白皮症だの、クローンだのと言われても構わぬと」
王の神性を穢す話題なら、貧しい平民や自由民たちが好むだろうと匂わせ、嘲りを含んだ口調で探りを入れる。
「そのようなことを吹聴すれば、不敬罪だと咎められ、窮地に陥るのは鷹刀一族のほうですよ。この国を治める、王家の力を侮らないでいただきたいですね」
カイウォルは澄ました顔で答え、ゆったりとした声で続けた。
「王家と鷹刀一族には、不干渉の約束があるとのことですが、それは、先王陛下による個人的な約束です。現在の王家とは、なんの関係もありません。そもそも、それは〈贄〉についてのみの約束でしょう?」
「勝手なことをぬかすな」
エルファンは不快げに顔をしかめるが、それはあくまでも演技である。
カイウォルの弁は、まったくもってその通りなのだ。『王家は、不干渉の不文律を犯した』などと、エルファンは地下で憤慨してみせたが、あれは単に、カイウォルと直接、話をつける場を設けるための、いわば言いがかりだった。
なので、対面の叶った今となっては流してよい話なのだが、王族のカイウォルにしてみれば、凶賊如きに非難され、気分を害していたらしい。捨て置くことはできなかったようだ。
「先王陛下と鷹刀イーレオの関係が特別だっただけです。――王位を継ぐためだけに作られたクローンである先王は、周りからの愛情に恵まれませんでした。そんな彼の孤独を埋めるように、イーレオは教育係として近づき、歓心を得て、鷹刀一族に肩入れさせただけです」
すげない物言いに、エルファンは苦笑した。
カイウォルにとって、先王とは父親だ。冷淡な態度から察するに、不仲であったという噂は本当らしい。〈神の御子〉として生まれることができなかったカイウォルには、〈神の御子〉であるからこそ生を享けたクローンの父王は受け容れがたいものということか。
とはいえ、そもそも『人の心が読める』能力を持った相手と、仲良くやれるほうが奇特なのかもしれない。そう考えると、イーレオは偉大といえるのだが、あの父ならば、さもありなんと、エルファンは思った。
ともかく。
父親同士が不干渉の約束を交わしたのと同じように、エルファンとカイウォルの間で、不干渉の約束を取りつける。
もっとも、カイウォルの性格では、不干渉の『約束』は不可能であろう。
だから、『牽制』なり『脅迫』なりで、カイウォルを黙らせる。――これが、エルファンに課せられた命題であり、事情聴取に応じた目的だった。
真の『交渉』は、これからだ。
エルファンは不敵な笑みを浮かべ、しかし……と、カイウォルを見やり、首をかしげた。
この天空の間は、密室だ。
隠しカメラはあるかもしれないが、人が隠れている気配はない。武の達人であるエルファンがその気になれば、カイウォルの命など一瞬で奪える。
防音のきいた部屋で、凶賊とふたりきり。一国の摂政の行動としては、あまりにも不用心ではないだろうか。
何故だ?
部屋に案内されたときは、王族の『秘密』を外部に漏らさぬためだと考えた。しかし、カイウォルは『秘密』が知られても構わぬと言う。
エルファンが本能的な危険を感じたとき、カイウォルの蠱惑の声が響いた。
「あなたからの話は、もうよいでしょう。――そろそろ、私の話をさせてください」
人を惹き寄せてやまない微笑が、エルファンを強引に捕らえる。
「あなたもご存知の通り、私は〈蝿〉の名で呼ばれる、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉の行方を探しております。ですが、実はもうひとり、探している〈悪魔〉がいるのです」
カイウォルの言葉を聞いた瞬間、エルファンの脳裏に『セレイエ』の名が浮かんだ。
心臓が、どきりと跳ねる。
握りしめた掌の中で、汗がにじむ。
しかし、常からの無表情は伊達ではなく、エルファンの氷の美貌は揺るがなかった。何食わぬ顔で「ほう」と相槌を打つ。
案の定、カイウォルの次の台詞は、予想通りのものであった。
「〈蛇〉の名で呼ばれる〈悪魔〉。――あなたの娘である、鷹刀セレイエを探しています」
カイウォルは、鷹刀一族がセレイエを匿っていると疑っている。今までは、表立って探している素振りを見せなかったが、身内であるエルファンとの対面を好機と捉え、直接、尋ねることで探りを入れる策に出たのだろう。
「セレイエは、確かに私の娘だが、〈七つの大罪〉に加わった時点で絶縁している。――鷹刀にとって、〈七つの大罪〉は仇のようなものだからな。もう十年近く、消息を知らん」
「そうですか。もしや、実家に身を寄せていたら、と思ったのですが……」
わずかに眉を寄せ、カイウォルは深い溜め息をつく。憂いを帯びたような顔に、エルファンは胸騒ぎを覚えた。
「すまぬな」
セレイエの話題を切り上げようと、エルファンは短く発する。しかし、カイウォルは被せるように告げた。
「鷹刀セレイエは、〈神の御子〉の男子を産みました」
「!」
エルファンは息を呑んだ。
その事実を、まさかカイウォルのほうから明かしてくるとは、想像もしていなかった。
「名前は、ライシェン。現女王を退け、玉座に就くべき真の王です。――なのに、彼女は子供を連れて、王宮から姿を消しました。子供を奪われると思ったのでしょうね」
最後のひとことは、セレイエを思いやるような優しい響きをしており、軽く伏せられた瞼に、やるせなさを感じる睫毛が並ぶ。カイウォルをよく知らない人間には、まるきりの善人にしか見えない振る舞いだった。
エルファンには、カイウォルの意図が分からなかった。
だが、この対面の場に、密室を選んだことだけは納得した。『ライシェン』は、外部に漏れてはならない存在だ。
「この件は、勿論、国家の機密事項ですが、他でもない、あなたの娘のことなので、お話しいたしました。――しかし……」
ゆるりと。カイウォルの顎がしゃくり上げられた。
雅やかでありながらも禍々しく、この国に君臨する貴人は嗤う。
「あまり、驚かれていませんね。――そうですか。既に、ライシェンのことを、ご存知だったのですね」