残酷な描写あり
4.和やかなる星影の下に-2
「『ライシェン』を、草薙家の子に……?」
ルイフォンは、猫の目を丸くして固まった。まったく想像もしていなかった話に、声を失ったのだ。
それはメイシアも同じだったようで、彼女は隣で小さく息を呑んだまま、口元に手を当てている。窓の外からの虫の歌だけが、涼やかに広がっていった。
「そんなに意外だったか?」
「あ、いや……。ほら、レイウェンとシャンリーは『一族を抜けるときに、鷹刀と縁を切ることを誓ったから』って言ってさ。今までずっと、事情は知っていても、見守ることに徹していたから……」
「――ルイフォン」
肩を怒らせたシャンリーが、叱りつけるような声色を響かせた。
反射的に、ルイフォンは猫背をぴんと伸ばす。その反動で、毛先を飾る金の鈴が跳ねた。
「『ライシェン』は、セレイエの子供だ。レイウェンと私にとっては『異母妹の遺児』にあたる。――『甥』なんだよ。お前たちと、同じ立場だ」
「――っ!」
「すっかり忘れていた、って顔だな」
シャンリーの苦笑は、とても静かだった。
彼女らしくもなく、いっそ平坦といったほうが正しいくらいの穏やかさ。……だからこそ、内に抑えたセレイエへの強い思いが――異母妹を亡くした深い悲しみが垣間見える。
「……すまん」
思わず、謝罪が口を衝いて出た。
自分だけが、セレイエと兄弟姉妹のような気がしていた。だから、セレイエは、息子を異父弟に託して、逝ったのだと。
「セレイエは俺の異父姉だけど、レイウェンとも異母兄妹なんだよな……」
ぼやくような呟きに、シャンリーは「そうだよ」と、語調を強めて頷く。
「他所の凶賊に襲われて、セレイエが〈天使〉の力を暴走させて……、安全のために、セレイエが離れて暮らすようになるまで――私たちは鷹刀の屋敷で一緒に育った。あとから生まれたお前には、実感が湧かないだろうが、大事な異母妹だ」
「……」
ルイフォンは、なんとも言えずに押し黙る。
不意に、メイシアが彼の服の端をぎゅっと握ってきた。どうしたのかと見やれば、もう片方の手で自分の胸元を押さえながら、切なげな顔でシャンリーを見つめている。
「セレイエさんの記憶が、シャンリーさんの言葉に反応しています。『大好きなお姉ちゃん』だって……」
シャンリーが、はっと顔色を変えた。
「すまん! 大丈夫か!? セレイエの記憶が表に出てくると、具合いが悪くなるんだろう?」
「あ、いえ。具合いが悪くなるというよりも、混乱してしまうことがあるだけで……。でも、今は平気です。切ないけれど、温かいんです。セレイエさんが、シャンリーさんたちをとても大切に思っていたのが伝わってきます」
「そうか、よかった。……ありがとう」
安堵の息を吐き、シャンリーは柔らかに笑う。それから、気合いを入れるかのように、口元をきゅっと引き締めた。
「なら、『ライシェン』が草薙家の子になったとしても、セレイエは喜んでくれるはずだな。だって、セレイエは『ライシェン』に、王になる道と、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道を考えていたんだろう?」
「あ、ああ……」
ルイフォンは、戸惑いながらも肯定する。それを弾みに、シャンリーが声高に続けた。
「そして、セレイエは、養父母の候補として、とりあえず、お前たちを選んだ。けど、それは絶対ではなかったはずだ」
その通りだ。
ルイフォンとメイシアが恋仲にならなかった場合には、『ライシェン』に愛のある環境を与えてくれれば、それでよいと願っていた。
「セレイエがお前たちを選んだ理由は、『ライシェン』と血の繋がりという縁があること。それから、メイシアが〈天使〉になることで、あらゆる危険から『ライシェン』を守り抜ける力を得られること――だったよな?」
シャンリーの問いかけに、メイシアがおずおずと頷く。
その瞬間、ルイフォンは鋭く目を光らせ、弾かれたように叫んだ。
「メイシアは、〈天使〉なんかにならない!」
華奢な肩を抱き寄せ、その手で黒絹の髪をくしゃりと撫でる。
セレイエの命を賭けた願いと、自身の『〈天使〉になりたくない』という思いの狭間で、メイシアは苦しんだ。優しい彼女のことだから、落ち着いたように見えても、本当は今も悩んでいることだろう。だから、彼女の心が罪悪感に侵されたりしないようにと、ルイフォンは強く否定する。
必死の形相の彼に、シャンリーが、ぷっと吹き出した。
「おいおい、そんなに睨むな。――私も、メイシアが〈天使〉になる必要はないと思っているよ。さすがに、それはセレイエの我儘が過ぎる」
からからと笑いながら、シャンリーは、メイシアの肩を抱くルイフォンの手に目を細めた。満足げに口の端を上げてから、すっと真顔に戻る。
「だが、メイシアが〈天使〉にならないのなら、セレイエが期待した強力な守りの力はなくなる。単に『ライシェン』の血縁という意味でなら、お前たちと、私たちの条件は同じだ。――ならば、『ライシェン』が草薙家の子になるというのも、悪くないんじゃないか?」
「――!」
悪くないどころではないだろう。
武術の心得のあるレイウェンとシャンリーは頼もしいし、何より、クーティエという一女のある彼らなら、養育者として申し分ない。ルイフォンたちよりも、よほど適任、よほど現実的だ。
あまりにも、ありがたい申し出に、ルイフォンとメイシアは半ば呆然としていた。張りのあるシャンリーの声が、未来に向かって、ふたりの背中をそっと押し出す。
「急かしているわけじゃないよ。あくまでも、選択肢のひとつとして、頭の片隅に入れておいてほしい、ってだけだ。だいたい、『ライシェン』の父親とも、相談が必要だろう?」
「あ……、そうだよな……」
『ライシェン』の未来について、真剣に考えなければならない。
摂政の動向が気になると言って、なんとなく先延ばしにしていたが、できるだけ早く、父親のヤンイェンと会う段取りをつけるべきだ。
セレイエの計画では、『ライシェン』は、とりあえず王として誕生し、それが不幸な道だと思われたら、〈天使〉となったメイシアが王宮から掻っさらう――などという、とんでもないものだった。
しかし、メイシアを〈天使〉にしないと決めた以上、『ライシェン』の誕生の前に、『王』か『平凡な子供』を選ぶ必要がある。その判断に、父親であるヤンイェンの意見は不可欠だろう。
――果たして、どんな未来が、『ライシェン』にとって幸せなのか。
あの小さな赤子が硝子ケースから出て、青灰色の瞳に世界を映し、白金の髪を揺らして笑う……。
そのとき、ルイフォンの心に、ふっと昏い影がよぎった。
……自分は、あの赤子を『可愛い』と思えるのだろうか?
湧き出た疑念に動揺し、おそらく無意識に安心を求めたのだろう。ルイフォンは、隣のメイシアに視線を走らせる。
すると、彼女もまた眉を曇らせ、彼を見つめていた。黒曜石の瞳は惑いに揺れ、そこに映り込んだ彼の顔も、昏く沈んでいる。
「……レイウェンの言った通りだな」
奇妙な色合いを帯びた室内に、シャンリーの声が静かに響いた。
性別不詳の整った顔からは感情が失せ、続く言葉は淡々と無慈悲――。
「具体的な『ライシェン』の未来を示したら、お前たちの足はすくみ、ためらいを見せる。――お前たちの中で、『ライシェン』は『人』ではなくて、『もの』だから……」
「――え?」
歌うような声は、彼女の剣舞の如く流麗だった。
ルイフォンの耳にも鮮やかに聞こえ……だのに、彼は言葉の意味を理解できなかった。まるで不可思議な舞に翻弄されたかのように、ルイフォンは狼狽し、シャンリーの顔を凝視する。
シャンリーは、溜め息をひとつ落とした。それから、いつもの強気な表情に戻り、「いいか?」と、鋭く斬り込むように身を乗り出した。
「決して、お前たちを責めているわけじゃないぞ。――けどな」
険しい声の前置きに、空気が張り詰める。
「もし、お前たちが、『ライシェン』をセレイエに託された『子供』だと思っているなら、一緒に草薙家に連れてきているはずなんだ。そりゃ、やむを得ず、鷹刀に置いてくるしかなかった、という話は聞いている。けど、情があるのなら、常に気にかけて、心配しているものなんだよ。でも、お前たちからは、そんな感じはしない」
「!」
ルイフォンとメイシアは、同時に息を呑んだ。
そして、ふと、〈蝿〉を思い出す。
彼は、硝子ケースの中で眠ったままの『ミンウェイ』を、それはそれは大切にしていた……。
「けどな……。お前たちにとって、『ライシェン』が『もの』であるのは、仕方のないことだ。だって、お前たちは、『デヴァイン・シンフォニア計画』に苦しめられてきた。――メイシアの家族も、この計画の犠牲になった……」
シャンリーの目が、悼むように伏せられる。
「メイシアの父親は亡くなったのに、原因となった『ライシェン』が生き返るのは、解せないだろう? 話を聞いただけの私だって、理不尽だと思うんだ。お前たちが、素直に『ライシェン』を受け入れられないのは、当たり前のことなんだよ」
メイシアの体が震えた。
小さく「私……」と呟いたまま、血の気の失せた唇が動きを止める。ルイフォンは、彼女の細い腰を引き寄せ、包み込むように抱きしめた。
彼の胸に倒れ込んできた華奢な体は、夏の気温に反し、凍えているように感じられた。無論、錯覚に決まっているが、ルイフォンは自分の熱を分け与えようと、両腕に力を込める。
そんなふたりに、シャンリーは切なげに顔を歪めた。
「お前たちに『ライシェン』の未来を――幸せを託すのは、酷だよ。セレイエだって、『デヴァイン・シンフォニア計画』が、こんなことになるとは思っていなかったはずだ」
口調の険しさとは裏腹に、シャンリーの言葉は優しさであふれていた。
心の底に沈んでいた昏さをすくい上げ、音にして聞かせながらも、それでいいのだと強く訴える。
「無理をするな」
シャンリーが微笑む。
「『ライシェン』は、草薙家の子になればいい」
『ライシェン』も、『お前たち』も、幸せになるために――。
ルイフォンの腕の中で、メイシアの呼吸が揺れた。彼の背に回された手が、髪先を留める金の鈴に触れ、一本に編まれた髪にくしゃりと絡める。
ルイフォンもまた、彼女の黒絹の髪に、すっと指を通した。優しく掬い取るようにして、くしゃりと撫でる。
互いにまだ、『弱い』存在なのだと、実感する。
――けれど、『ふたり』なら……。
メイシアはルイフォンを仰ぎ見た。まっすぐな黒曜石の瞳に、彼も目線で応える。
そして、ふたりは、同時に頭を下げた。
「シャンリー、俺たちのために言ってくれて、ありがとう」
ゆっくりと。
ルイフォンは、テノールを響かせる。
「――けど。俺たちは、ふたりで考えて、肚を据えて『ライシェン』と向き合うと決めたんだ。なのに、俺たちはまだ『ライシェン』のために何もしてやっていない。……だから、まずは、自分たちの力で足掻いてみるべきだと思う。シャンリーの申し出について考えるのは、それからだ」
「ルイフォン……」
戸惑うように、シャンリーは瞳を瞬かせた。
「シャンリーさんのお話は、本当にありがたいと思います。けれど、今、それに甘えてしまったら、まだ何もしていない私たちは、楽をする道を選んだだけになってしまいます。……それはきっと『違う』と思うんです」
迷いのない澄んだ声で、メイシアがルイフォンのテノールを繋ぐ。
ルイフォンはメイシアの手を握りしめ、わずかに逡巡した。……けれども、静かに続ける。
「〈蝿〉は、『ライシェン』の『処分』をも口にした」
「!」
シャンリーが顔色を変えた。しかし、ルイフォンは畳み掛ける。
「命と向き合い続けた『ヘイシャオの記憶』の言葉は、決して軽くはないはずだ。そして、『ライシェン』には、そう言わせるだけの背景がある。――でも、俺たちとしては、『ライシェン』には、『人』としての幸せを贈ってやりたいと思っている」
ルイフォンに同意するように、メイシアが頷く。それを弾みに、ルイフォンは決然と告げる。
「なのに、俺たちは『ライシェン』を『もの』扱いしていた。可哀想だよな。改めるよ。――俺たちは、本当にこれからなんだ」
覇気に満ちた顔で、ルイフォンは笑う。どこに続くか分からない、遠い道を見据えながら――。
その瞬間、シャンリーは呆気に取られたような間抜けな顔になり、やがて、面目なさそうに、ベリーショートの頭をがりがりと掻いた。
「なんか、綺麗にまとめられちまったな」
「悪ぃ」
「別にいいさ。――ただ、お前たちは何もかも、ふたりきりで背負いすぎだと、言いたかったんだ。もっと、レイウェンと私を頼ってほしい。……『きょうだい』だろう?」
「ああ、そうだな」
ルイフォンは即答した。シャンリーが、どんな意味で『きょうだい』と言ったのかは不明だが、肯定以外の答えなど、あるはずもなかった。
シャンリーは、はにかむように破顔し、ひと呼吸を置いてから続ける。
「それにな、『ライシェン』を草薙家の子にしたいというのは、お前たちのためでも、『ライシェン』のためでもない。私たち自身が『ライシェン』に来てほしいんだ」
「え?」
「『ライシェン』のことを聞いたとき、そんな星の巡り合わせもあるのかなと思ったよ」
謎めいた笑みを浮かべ、彼女は視線を窓へと移す。
「ちょっと、庭に出ないか? ……星が、綺麗だと思うんだ」
思っていたよりも、外は涼しかった。
心地の良い風が吹き、隣にいるメイシアの長い黒髪を巻き上げ、その毛先が、ルイフォンの半袖の腕を滑るように流れていく。
明るかった室内から出たばかりの瞳には、あたり一面が深い闇だった。その分、あちこちで奏でられる夏の虫の歌が、より鮮明に聞こえる気がした。
ルイフォンはメイシアの手を取り、指を絡め合わせ、夜目の効くシャンリーの気配を追っていく。しばらくすると、彼の目でも、星明かりを捕らえることができるようになってきた。
シャンリーが立ち止まり、「このへんでいいか」と、すとんと芝生に座り込む。
彼女に倣い、ルイフォンとメイシアも腰を下ろした。ちくちくとした草の感触がして、水気を含んだ匂いがほのかに漂う。
ふと気づけば、頭上は満天の星空だった。
「綺麗……」
軽く肩が触れ合う位置から、メイシアが感嘆を漏らす。
「ああ、綺麗だろう」
シャンリーは両手を後ろに付き、紺碧の空を仰いでいた。
「あの星の中のひとつが、私たちの子供なんだ。――生まれることもなく、死んでしまった、クーティエの弟か妹だ」
「――!?」
ルイフォンは、びくりと身を動かした。
その音に虫たちが驚いたのか、彼らの歌声がやみ、まるで時が止まったかのように、世界が凍りつく。
「驚かせて悪いな」
シャンリーが、くすりと笑った。
「流産したんだ。まだ、ほんの初期のころに」
笑うべきことではないはずなのに、彼女は星を見つめながら、愛しげに微笑む。
「転んだとかじゃなくて、自然なもの。どんな夫婦にも一定の確率で起こり得る、逃れようもない、ただの不運だ」
ルイフォンもメイシアも、何も言えず、沈黙が訪れた。
星が瞬く。
シャンリーに応え、まるで微笑み返すかのように。
「運が悪かっただけなんだ。……なのに、レイウェンは、そう思うことができなかった。自分の体に流れる、生粋の鷹刀の血のせいだと言い張った。自分を責めて、責めて……、あのときのレイウェンは見ていられなかったよ」
「……」
幼いころ、生まれたばかりの弟の死を目の当たりにしたレイウェンは、人一倍、血族に対する思いが強い。
そんな彼が、妻に宿った小さな命を失ったらどうなるか……想像は容易だった。
「レイウェンは強い男だ。けど、血族に関してだけは、どうしようもなく脆い。愛が強すぎるから、弱いんだ。……仕方ないよな」
その言葉に、ルイフォンは数日前、非の打ち所のないレイウェンの弱点を知りたいと、タオロンとふざけあったことを思い出した。
ずきりと、胸が痛む。
レイウェンの弱点なら、とっくに知っていたのだ。彼はルイフォンを異母弟だと喜び、ずっと見守ってくれていたのだから。
シャンリーはまた、ふっと笑った。
芝に付けていた手を放し、ベリーショートの髪を掻き上げる。
「レイウェンのことばかり言っていたら、不公平だな。……うん。私も脆くて、弱い。私たちは、同じことを繰り返したくないと思った。――だから、クーティエは、ひとりっ子なんだよ」
ルイフォンは、はっと息を呑んだ。
異様なまでに兄弟にこだわるレイウェンなら、娘に兄弟を、と思うはずなのに。
どうして、今まで気づかなかったのだろう……。
「セレイエが死んだと伝えられて、レイウェンは物凄く、ふさぎ込んだ。そして、遺された『ライシェン』について、実の父が育てるのが難しそうなら、草薙家に来てもらうのはどうか、と言ったんだ」
シャンリーは、紺碧の空へと両手を伸ばす。
舞い手らしく、指先まで綺麗に伸ばした腕で、星空を抱く。
「勿論、『ライシェン』をあの子の代わりにするつもりはないよ。あの子は、あの子。『ライシェン』は、『ライシェン』だ」
虫たちの奏でる旋律に乗って、思いが空へと流れていく。
「ただ、そういう運命が巡ってきたなら、草薙家に来い、ってだけだ。――うんと可愛がってやるから」
シャンリーは目元を緩め、柔らかに微笑んだ。
その顔は、どきりとするほどに優しげで、まるで慈愛に満ちた聖母のよう。普段、男装の麗人と謳われている彼女と、姿形は同じであるのに、まったく別の女だった。
不意に、メイシアの黒髪が風になびき、ルイフォンの頬に触れた。
彼は何気なく隣を見やり、メイシアの双眸で星が揺らめいていることに気づいた。
そっと彼女を抱き寄せる。彼女の頭が、こつんと彼の肩に載せられる。
そして、そのまま。
星降る夜に、静かな虫の歌が流れ続けた。
~ 第一章 了 ~
ルイフォンは、猫の目を丸くして固まった。まったく想像もしていなかった話に、声を失ったのだ。
それはメイシアも同じだったようで、彼女は隣で小さく息を呑んだまま、口元に手を当てている。窓の外からの虫の歌だけが、涼やかに広がっていった。
「そんなに意外だったか?」
「あ、いや……。ほら、レイウェンとシャンリーは『一族を抜けるときに、鷹刀と縁を切ることを誓ったから』って言ってさ。今までずっと、事情は知っていても、見守ることに徹していたから……」
「――ルイフォン」
肩を怒らせたシャンリーが、叱りつけるような声色を響かせた。
反射的に、ルイフォンは猫背をぴんと伸ばす。その反動で、毛先を飾る金の鈴が跳ねた。
「『ライシェン』は、セレイエの子供だ。レイウェンと私にとっては『異母妹の遺児』にあたる。――『甥』なんだよ。お前たちと、同じ立場だ」
「――っ!」
「すっかり忘れていた、って顔だな」
シャンリーの苦笑は、とても静かだった。
彼女らしくもなく、いっそ平坦といったほうが正しいくらいの穏やかさ。……だからこそ、内に抑えたセレイエへの強い思いが――異母妹を亡くした深い悲しみが垣間見える。
「……すまん」
思わず、謝罪が口を衝いて出た。
自分だけが、セレイエと兄弟姉妹のような気がしていた。だから、セレイエは、息子を異父弟に託して、逝ったのだと。
「セレイエは俺の異父姉だけど、レイウェンとも異母兄妹なんだよな……」
ぼやくような呟きに、シャンリーは「そうだよ」と、語調を強めて頷く。
「他所の凶賊に襲われて、セレイエが〈天使〉の力を暴走させて……、安全のために、セレイエが離れて暮らすようになるまで――私たちは鷹刀の屋敷で一緒に育った。あとから生まれたお前には、実感が湧かないだろうが、大事な異母妹だ」
「……」
ルイフォンは、なんとも言えずに押し黙る。
不意に、メイシアが彼の服の端をぎゅっと握ってきた。どうしたのかと見やれば、もう片方の手で自分の胸元を押さえながら、切なげな顔でシャンリーを見つめている。
「セレイエさんの記憶が、シャンリーさんの言葉に反応しています。『大好きなお姉ちゃん』だって……」
シャンリーが、はっと顔色を変えた。
「すまん! 大丈夫か!? セレイエの記憶が表に出てくると、具合いが悪くなるんだろう?」
「あ、いえ。具合いが悪くなるというよりも、混乱してしまうことがあるだけで……。でも、今は平気です。切ないけれど、温かいんです。セレイエさんが、シャンリーさんたちをとても大切に思っていたのが伝わってきます」
「そうか、よかった。……ありがとう」
安堵の息を吐き、シャンリーは柔らかに笑う。それから、気合いを入れるかのように、口元をきゅっと引き締めた。
「なら、『ライシェン』が草薙家の子になったとしても、セレイエは喜んでくれるはずだな。だって、セレイエは『ライシェン』に、王になる道と、優しい養父母のもとで平凡な子供として生きる道を考えていたんだろう?」
「あ、ああ……」
ルイフォンは、戸惑いながらも肯定する。それを弾みに、シャンリーが声高に続けた。
「そして、セレイエは、養父母の候補として、とりあえず、お前たちを選んだ。けど、それは絶対ではなかったはずだ」
その通りだ。
ルイフォンとメイシアが恋仲にならなかった場合には、『ライシェン』に愛のある環境を与えてくれれば、それでよいと願っていた。
「セレイエがお前たちを選んだ理由は、『ライシェン』と血の繋がりという縁があること。それから、メイシアが〈天使〉になることで、あらゆる危険から『ライシェン』を守り抜ける力を得られること――だったよな?」
シャンリーの問いかけに、メイシアがおずおずと頷く。
その瞬間、ルイフォンは鋭く目を光らせ、弾かれたように叫んだ。
「メイシアは、〈天使〉なんかにならない!」
華奢な肩を抱き寄せ、その手で黒絹の髪をくしゃりと撫でる。
セレイエの命を賭けた願いと、自身の『〈天使〉になりたくない』という思いの狭間で、メイシアは苦しんだ。優しい彼女のことだから、落ち着いたように見えても、本当は今も悩んでいることだろう。だから、彼女の心が罪悪感に侵されたりしないようにと、ルイフォンは強く否定する。
必死の形相の彼に、シャンリーが、ぷっと吹き出した。
「おいおい、そんなに睨むな。――私も、メイシアが〈天使〉になる必要はないと思っているよ。さすがに、それはセレイエの我儘が過ぎる」
からからと笑いながら、シャンリーは、メイシアの肩を抱くルイフォンの手に目を細めた。満足げに口の端を上げてから、すっと真顔に戻る。
「だが、メイシアが〈天使〉にならないのなら、セレイエが期待した強力な守りの力はなくなる。単に『ライシェン』の血縁という意味でなら、お前たちと、私たちの条件は同じだ。――ならば、『ライシェン』が草薙家の子になるというのも、悪くないんじゃないか?」
「――!」
悪くないどころではないだろう。
武術の心得のあるレイウェンとシャンリーは頼もしいし、何より、クーティエという一女のある彼らなら、養育者として申し分ない。ルイフォンたちよりも、よほど適任、よほど現実的だ。
あまりにも、ありがたい申し出に、ルイフォンとメイシアは半ば呆然としていた。張りのあるシャンリーの声が、未来に向かって、ふたりの背中をそっと押し出す。
「急かしているわけじゃないよ。あくまでも、選択肢のひとつとして、頭の片隅に入れておいてほしい、ってだけだ。だいたい、『ライシェン』の父親とも、相談が必要だろう?」
「あ……、そうだよな……」
『ライシェン』の未来について、真剣に考えなければならない。
摂政の動向が気になると言って、なんとなく先延ばしにしていたが、できるだけ早く、父親のヤンイェンと会う段取りをつけるべきだ。
セレイエの計画では、『ライシェン』は、とりあえず王として誕生し、それが不幸な道だと思われたら、〈天使〉となったメイシアが王宮から掻っさらう――などという、とんでもないものだった。
しかし、メイシアを〈天使〉にしないと決めた以上、『ライシェン』の誕生の前に、『王』か『平凡な子供』を選ぶ必要がある。その判断に、父親であるヤンイェンの意見は不可欠だろう。
――果たして、どんな未来が、『ライシェン』にとって幸せなのか。
あの小さな赤子が硝子ケースから出て、青灰色の瞳に世界を映し、白金の髪を揺らして笑う……。
そのとき、ルイフォンの心に、ふっと昏い影がよぎった。
……自分は、あの赤子を『可愛い』と思えるのだろうか?
湧き出た疑念に動揺し、おそらく無意識に安心を求めたのだろう。ルイフォンは、隣のメイシアに視線を走らせる。
すると、彼女もまた眉を曇らせ、彼を見つめていた。黒曜石の瞳は惑いに揺れ、そこに映り込んだ彼の顔も、昏く沈んでいる。
「……レイウェンの言った通りだな」
奇妙な色合いを帯びた室内に、シャンリーの声が静かに響いた。
性別不詳の整った顔からは感情が失せ、続く言葉は淡々と無慈悲――。
「具体的な『ライシェン』の未来を示したら、お前たちの足はすくみ、ためらいを見せる。――お前たちの中で、『ライシェン』は『人』ではなくて、『もの』だから……」
「――え?」
歌うような声は、彼女の剣舞の如く流麗だった。
ルイフォンの耳にも鮮やかに聞こえ……だのに、彼は言葉の意味を理解できなかった。まるで不可思議な舞に翻弄されたかのように、ルイフォンは狼狽し、シャンリーの顔を凝視する。
シャンリーは、溜め息をひとつ落とした。それから、いつもの強気な表情に戻り、「いいか?」と、鋭く斬り込むように身を乗り出した。
「決して、お前たちを責めているわけじゃないぞ。――けどな」
険しい声の前置きに、空気が張り詰める。
「もし、お前たちが、『ライシェン』をセレイエに託された『子供』だと思っているなら、一緒に草薙家に連れてきているはずなんだ。そりゃ、やむを得ず、鷹刀に置いてくるしかなかった、という話は聞いている。けど、情があるのなら、常に気にかけて、心配しているものなんだよ。でも、お前たちからは、そんな感じはしない」
「!」
ルイフォンとメイシアは、同時に息を呑んだ。
そして、ふと、〈蝿〉を思い出す。
彼は、硝子ケースの中で眠ったままの『ミンウェイ』を、それはそれは大切にしていた……。
「けどな……。お前たちにとって、『ライシェン』が『もの』であるのは、仕方のないことだ。だって、お前たちは、『デヴァイン・シンフォニア計画』に苦しめられてきた。――メイシアの家族も、この計画の犠牲になった……」
シャンリーの目が、悼むように伏せられる。
「メイシアの父親は亡くなったのに、原因となった『ライシェン』が生き返るのは、解せないだろう? 話を聞いただけの私だって、理不尽だと思うんだ。お前たちが、素直に『ライシェン』を受け入れられないのは、当たり前のことなんだよ」
メイシアの体が震えた。
小さく「私……」と呟いたまま、血の気の失せた唇が動きを止める。ルイフォンは、彼女の細い腰を引き寄せ、包み込むように抱きしめた。
彼の胸に倒れ込んできた華奢な体は、夏の気温に反し、凍えているように感じられた。無論、錯覚に決まっているが、ルイフォンは自分の熱を分け与えようと、両腕に力を込める。
そんなふたりに、シャンリーは切なげに顔を歪めた。
「お前たちに『ライシェン』の未来を――幸せを託すのは、酷だよ。セレイエだって、『デヴァイン・シンフォニア計画』が、こんなことになるとは思っていなかったはずだ」
口調の険しさとは裏腹に、シャンリーの言葉は優しさであふれていた。
心の底に沈んでいた昏さをすくい上げ、音にして聞かせながらも、それでいいのだと強く訴える。
「無理をするな」
シャンリーが微笑む。
「『ライシェン』は、草薙家の子になればいい」
『ライシェン』も、『お前たち』も、幸せになるために――。
ルイフォンの腕の中で、メイシアの呼吸が揺れた。彼の背に回された手が、髪先を留める金の鈴に触れ、一本に編まれた髪にくしゃりと絡める。
ルイフォンもまた、彼女の黒絹の髪に、すっと指を通した。優しく掬い取るようにして、くしゃりと撫でる。
互いにまだ、『弱い』存在なのだと、実感する。
――けれど、『ふたり』なら……。
メイシアはルイフォンを仰ぎ見た。まっすぐな黒曜石の瞳に、彼も目線で応える。
そして、ふたりは、同時に頭を下げた。
「シャンリー、俺たちのために言ってくれて、ありがとう」
ゆっくりと。
ルイフォンは、テノールを響かせる。
「――けど。俺たちは、ふたりで考えて、肚を据えて『ライシェン』と向き合うと決めたんだ。なのに、俺たちはまだ『ライシェン』のために何もしてやっていない。……だから、まずは、自分たちの力で足掻いてみるべきだと思う。シャンリーの申し出について考えるのは、それからだ」
「ルイフォン……」
戸惑うように、シャンリーは瞳を瞬かせた。
「シャンリーさんのお話は、本当にありがたいと思います。けれど、今、それに甘えてしまったら、まだ何もしていない私たちは、楽をする道を選んだだけになってしまいます。……それはきっと『違う』と思うんです」
迷いのない澄んだ声で、メイシアがルイフォンのテノールを繋ぐ。
ルイフォンはメイシアの手を握りしめ、わずかに逡巡した。……けれども、静かに続ける。
「〈蝿〉は、『ライシェン』の『処分』をも口にした」
「!」
シャンリーが顔色を変えた。しかし、ルイフォンは畳み掛ける。
「命と向き合い続けた『ヘイシャオの記憶』の言葉は、決して軽くはないはずだ。そして、『ライシェン』には、そう言わせるだけの背景がある。――でも、俺たちとしては、『ライシェン』には、『人』としての幸せを贈ってやりたいと思っている」
ルイフォンに同意するように、メイシアが頷く。それを弾みに、ルイフォンは決然と告げる。
「なのに、俺たちは『ライシェン』を『もの』扱いしていた。可哀想だよな。改めるよ。――俺たちは、本当にこれからなんだ」
覇気に満ちた顔で、ルイフォンは笑う。どこに続くか分からない、遠い道を見据えながら――。
その瞬間、シャンリーは呆気に取られたような間抜けな顔になり、やがて、面目なさそうに、ベリーショートの頭をがりがりと掻いた。
「なんか、綺麗にまとめられちまったな」
「悪ぃ」
「別にいいさ。――ただ、お前たちは何もかも、ふたりきりで背負いすぎだと、言いたかったんだ。もっと、レイウェンと私を頼ってほしい。……『きょうだい』だろう?」
「ああ、そうだな」
ルイフォンは即答した。シャンリーが、どんな意味で『きょうだい』と言ったのかは不明だが、肯定以外の答えなど、あるはずもなかった。
シャンリーは、はにかむように破顔し、ひと呼吸を置いてから続ける。
「それにな、『ライシェン』を草薙家の子にしたいというのは、お前たちのためでも、『ライシェン』のためでもない。私たち自身が『ライシェン』に来てほしいんだ」
「え?」
「『ライシェン』のことを聞いたとき、そんな星の巡り合わせもあるのかなと思ったよ」
謎めいた笑みを浮かべ、彼女は視線を窓へと移す。
「ちょっと、庭に出ないか? ……星が、綺麗だと思うんだ」
思っていたよりも、外は涼しかった。
心地の良い風が吹き、隣にいるメイシアの長い黒髪を巻き上げ、その毛先が、ルイフォンの半袖の腕を滑るように流れていく。
明るかった室内から出たばかりの瞳には、あたり一面が深い闇だった。その分、あちこちで奏でられる夏の虫の歌が、より鮮明に聞こえる気がした。
ルイフォンはメイシアの手を取り、指を絡め合わせ、夜目の効くシャンリーの気配を追っていく。しばらくすると、彼の目でも、星明かりを捕らえることができるようになってきた。
シャンリーが立ち止まり、「このへんでいいか」と、すとんと芝生に座り込む。
彼女に倣い、ルイフォンとメイシアも腰を下ろした。ちくちくとした草の感触がして、水気を含んだ匂いがほのかに漂う。
ふと気づけば、頭上は満天の星空だった。
「綺麗……」
軽く肩が触れ合う位置から、メイシアが感嘆を漏らす。
「ああ、綺麗だろう」
シャンリーは両手を後ろに付き、紺碧の空を仰いでいた。
「あの星の中のひとつが、私たちの子供なんだ。――生まれることもなく、死んでしまった、クーティエの弟か妹だ」
「――!?」
ルイフォンは、びくりと身を動かした。
その音に虫たちが驚いたのか、彼らの歌声がやみ、まるで時が止まったかのように、世界が凍りつく。
「驚かせて悪いな」
シャンリーが、くすりと笑った。
「流産したんだ。まだ、ほんの初期のころに」
笑うべきことではないはずなのに、彼女は星を見つめながら、愛しげに微笑む。
「転んだとかじゃなくて、自然なもの。どんな夫婦にも一定の確率で起こり得る、逃れようもない、ただの不運だ」
ルイフォンもメイシアも、何も言えず、沈黙が訪れた。
星が瞬く。
シャンリーに応え、まるで微笑み返すかのように。
「運が悪かっただけなんだ。……なのに、レイウェンは、そう思うことができなかった。自分の体に流れる、生粋の鷹刀の血のせいだと言い張った。自分を責めて、責めて……、あのときのレイウェンは見ていられなかったよ」
「……」
幼いころ、生まれたばかりの弟の死を目の当たりにしたレイウェンは、人一倍、血族に対する思いが強い。
そんな彼が、妻に宿った小さな命を失ったらどうなるか……想像は容易だった。
「レイウェンは強い男だ。けど、血族に関してだけは、どうしようもなく脆い。愛が強すぎるから、弱いんだ。……仕方ないよな」
その言葉に、ルイフォンは数日前、非の打ち所のないレイウェンの弱点を知りたいと、タオロンとふざけあったことを思い出した。
ずきりと、胸が痛む。
レイウェンの弱点なら、とっくに知っていたのだ。彼はルイフォンを異母弟だと喜び、ずっと見守ってくれていたのだから。
シャンリーはまた、ふっと笑った。
芝に付けていた手を放し、ベリーショートの髪を掻き上げる。
「レイウェンのことばかり言っていたら、不公平だな。……うん。私も脆くて、弱い。私たちは、同じことを繰り返したくないと思った。――だから、クーティエは、ひとりっ子なんだよ」
ルイフォンは、はっと息を呑んだ。
異様なまでに兄弟にこだわるレイウェンなら、娘に兄弟を、と思うはずなのに。
どうして、今まで気づかなかったのだろう……。
「セレイエが死んだと伝えられて、レイウェンは物凄く、ふさぎ込んだ。そして、遺された『ライシェン』について、実の父が育てるのが難しそうなら、草薙家に来てもらうのはどうか、と言ったんだ」
シャンリーは、紺碧の空へと両手を伸ばす。
舞い手らしく、指先まで綺麗に伸ばした腕で、星空を抱く。
「勿論、『ライシェン』をあの子の代わりにするつもりはないよ。あの子は、あの子。『ライシェン』は、『ライシェン』だ」
虫たちの奏でる旋律に乗って、思いが空へと流れていく。
「ただ、そういう運命が巡ってきたなら、草薙家に来い、ってだけだ。――うんと可愛がってやるから」
シャンリーは目元を緩め、柔らかに微笑んだ。
その顔は、どきりとするほどに優しげで、まるで慈愛に満ちた聖母のよう。普段、男装の麗人と謳われている彼女と、姿形は同じであるのに、まったく別の女だった。
不意に、メイシアの黒髪が風になびき、ルイフォンの頬に触れた。
彼は何気なく隣を見やり、メイシアの双眸で星が揺らめいていることに気づいた。
そっと彼女を抱き寄せる。彼女の頭が、こつんと彼の肩に載せられる。
そして、そのまま。
星降る夜に、静かな虫の歌が流れ続けた。
~ 第一章 了 ~