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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
2.枷鎖に囚われし運命-2
 シュアンが意識を失いそうになるたびに、看守たちは水道のホースを手に取り、顔面に向かって勢いよく放水した。叩きつけるような水流に、傷だらけの体がのけぞり、四肢の鎖がきしみを上げる。ぼさぼさ頭は濡れそぼち、まるで別人の様相で水をしたたらせた。

「――っ」

 夏とはいえ、陰湿なコンクリートで閉ざされた空間の水は、刺すように冷たかった。冬であったら、あっという間に凍えていたことだろう。

「俺は……悪くねぇ……。斑目一族が……上官に……指示……。俺は……騙され……」

 シュアンは壊れた機械人形のように、同じ台詞を繰り返す。

 声を出すために息を吐くと、胸に鋭い痛みが走った。はりつけにされているため、触って確認することはできないが、肋骨が何本か折れているようだった。

 肺や心臓にまで損傷が及べば、めでたく、この世とおさらばできる。

 こみ上げてくる笑いを抑えようと、不自然な呼吸をすれば、更なる激痛がシュアンを襲った。これは本格的に大血管でも破裂したかと、彼は歓喜に震える。

 思い通りにことが進み、シュアンは愉快でたまらなかった。決して楽な最期ではあるまいに、彼は満足気に口角を上げる。

 そして、三白眼を巡らせる。殴打によって片目のまぶたが腫れ上がり、隻眼の視界は歪んでいたが、監視カメラの存在は、しかと捉えられた。

 卑劣な摂政は、看守が人質シュアンを嬲り殺しにしても、その死を隠してハオリュウを脅迫しようとするだろう。

 だが、心配は要らない。

 シュアンの死は、確実にハオリュウに届く。

 ルイフォンが――『情報屋〈フェレース〉』が伝えてくれる。

フェレース〉がシュアンの逮捕を知るのは、時間の問題だろう。そして、今までの〈フェレース〉の行動を考えれば、彼は間違いなく、監視カメラを支配下に置く。すなわち、シュアンの状況は筒抜けになるという寸法だ。

 故に。摂政はシュアンの死を隠蔽できず、ハオリュウは摂政に従わない。

フェレース〉の持論の通り、『情報を制する者が勝つ』というわけだ。

フェレース〉は――ルイフォンは、必ずやハオリュウの力になってくれる。

 何も、心配は要らない。

 ――頼んだぞ、ルイフォン。

 シュアンは瞳を閉じ、口元を緩めた。

 皮下出血をしているのだろうか。急速に血の気が失せていくのを感じる。それに伴い、全身から力が抜け落ちた。枷によって、かろうじて体が支えられている。

 とても『良い』状態だ。

 朦朧とする意識の中で、シュアンは考える。

 五感が麻痺しているため、正確な時間の経過は感じ取れないが、まだ看守が交代していないところをみると、今は夕刻といったところだろう。

 夜になれば――次の看守に替わるころには、〈フェレース〉の耳に情報が入ることだろう。そして、そのころには、シュアンの死が、カメラ越しに見えてくることだろう……。





 がくりと項垂うなだれたシュアンの顔に、看守たちが水を放つ。

 しかし、ついぞ無反応となった。

「こいつ、意外にしぶとかったな」

 白目をむいたシュアンの額を小突きながら、看守のひとりが感嘆の声を上げる。すると、もうひとりも大きく頷いた。

「ほら、見ろよぉ。俺の手に豆ができちまったぜ」

 鞭を握っていた手を開き、誇示するように相方に見せつける。実のところ、豆まではできていなかったが、確かに掌の表面は赤くなっており、薄く皮がむけていた。

「そのくらい、たいしたことねぇだろ。唾でもつけておけよ。それより、俺の拳のほうが、骨に来ているぜ。手首もガクガクだ」

「俺だって、手首がいてぇよ。こいつ、皮が厚いんだよぉ」

「あぁ、なるほど。さすがつらの皮が厚い野郎って、わけだ」

 何が可笑おかしいのか、ふたりの間で、どっと笑いが起こる。

「けどよぉ。狂犬の奴、『助けてくれぇ』なんて、情けねぇ声を出しているくせに、『いてぇ』って言わねぇんだよなぁ。こいつ、絶対、ヤクやっているぜぇ?」

ちげぇねぇ。だって、こいつ、斑目の手先だったんだろう?」

 遊びがいのある玩具は久しぶりだったためか、看守たちは興奮さめやらぬ様子であった。

 そして、一応は、取り調べの尋問員でもある彼らは、『緋扇シュアンは、斑目一族と癒着していた』と、報告書に書いたのであった。





 体の芯が、熱い……。

 全身が、バラバラになりそうだ……。

 骨折のためであろう。シュアンは発熱していた。苦しさのあまり、荒い息を吐き出せば、その直後、灼熱の激痛に見舞われる。

「――っ」

 反射的に、彼は目を見開いた。

 はりつけの体はそのままに、あたりは、しんと静まり返っていた。狂気をまとった、あの看守たちはいない。シュアンが気を失ったため、詰め所に戻ったようだ。

 安堵の息をつきかけたところで、胸郭の負傷により、呼吸に痛みが伴うことを思い出した。加えて、看守たちは、彼に死をもたらしてくれる『有り難い』存在であることにも考えが至り、はて、それでは現状は望ましくないのか? 看守たちを呼び戻すべきなのか? などという、間の抜けた疑問が浮かぶ。

 しかし、それも一瞬のこと。疲れ果てた彼の体は、それ以上の覚醒を許さず、重いまぶたが下りてくる。

 夢うつつの中。焦点の合わぬ、揺れる視界の端に、緩やかに波打つ長い黒髪の幻影を見た。

 記憶から漂う、柔らかな草の香が、ほのかに鼻腔をくすぐる。

 馬鹿が付くほどのお人好しで、鬱陶しいくらいのお節介。愚かしいまでの優しさをき散らす、彼女の……。



『俺はろくな死に方をしねぇんだろうなと、常に思っている』



 菖蒲の館で〈ムスカ〉が死んだあと、シュアンは彼女にそう言った。ファンルゥの――『小さな女の子』のために、〈ムスカ〉が用意した部屋での出来ごとだ。

 あの日。彼女は、それまでの半生との別れを迎えた。

 能動的に別れを『告げた』のではなく、受動的に『迎えた』である。彼女にしてみれば、心の整理がつかないうちに、別れのほうから突然やってきたように感じたはずだ。

 彼女は『未来これからをどう生きればいいのか』と、彼に問うた。

 だから彼は、自分のことを語った。



『先輩と殴り合ってたもとを分かったときも、先輩のほうが正しいと理解していながら、俺は立ち止まれなかった。俺は『狂犬』と呼ばれるほどに、荒れまくっていた』



『――でも……、俺は最近、ようやく自分の進むべき道を見つけた気がする。俺がすべきことをすための、まっとうな道筋をな』



 おそらく、彼女は知らないだろう。

 彼が、それまでの半生に別れを告げ、迷いのない道を選び取れたのは、暑苦しいまでに図々しく他人ひとを思う、彼女に影響されてのことであると。

 弱いくせに強くあろうと挑む、彼女の懸命さが、ローヤン先輩と肩を組み、高らかに絵空事をうたっていた、あの日々を思い出させてくれた。

 彼女は、彼の人生を――運命を変えてくれた恩人なのだ。

 その結果、枷鎖かさはりつけにされている現状があったとしても、後悔はまったくない。

 ――……なんで、俺は今、ミンウェイのことを考えているんだろうなぁ……?

 恋慕の情? それは違うだろう、とシュアンは苦笑する。

 リュイセンには恋仇と目され、蛇蝎の如く嫌われていたが、シュアンは別に、彼女を手に入れたいなどとは思わない。

 強いていうのなら、この感情は、感謝と恩義。

 陳腐な表現であるが、彼女が幸せであれば、シュアンはそれで満足だ。

 自分は幸せになってはいけないと思い込んでいた彼女が、幸せを望むようになるのは、簡単なことではないはずだから。

 ――ミンウェイに『穏やかな日常』を……。

 祈りと共に、シュアンの視界は暗転した。





 ぎいぃ……。

 鉄格子の扉がきしみを上げた。耳障りな音に、シュアンは薄目を開ける。

 見知らぬ顔が、ふたつ。

 どうやら看守が交代したようだ。新しい死刑囚玩具に興味津々といった様子で、シュアンのそばに近づいてくる。そして、問答無用で、顔面を殴りつけてきた。

「よぉ、狂犬犬コロ! 起きろよ! 餌だぞ!」

 がなり声と痛みが、同時にシュアンを襲う。口腔内が切れ、血の味が広がった。

「お前が収監されたっていう連絡が、うまくいってなかったみたいでよ。俺が気づかなきゃ、お前は今晩、餌抜きになるところだったんだぜ? ありがたく思えよ」

 看守は、がさつな動作で後ろを振り返り、もうひとりの看守がコンクリートの床に食事のトレイを置くのを示した。しかし、鎖を緩める気配はない。まずは暴行挨拶ということだろう。

 シュアンは監視カメラに目を走らせた。

 ――ルイフォン、頼んだぞ!

 心の中で呼びかける。

 ここで、うまいこと看守の嗜虐心をくすぐれば、めでたく絶命できる。……そのくらい弱っている自信があった。

 彼は片目しか開かぬ三白眼を虚ろに細め、看守を見やる。

「飯……、くれるんじゃねぇのか? ここから……下ろしてくれよ」

 哀れにかすれた声で訴える。実のところ、息をするだけで胸部が痛み、食べ物のことなど考えただけでも吐き気がした。

「あぁ? まずは、おめぇ、自分の罪を告白しなきゃなぁ!」

 看守はシュアンの顎に手をかけ、ぐいと上を向かせた。

 シュアンは脅えきった表情を作り、ぶるぶると震えてみせた。媚びるような上目遣いで相手を窺い、卑屈に口の端を上げる。こうなったら『狂犬』の名も形無かたなし、如何いかにも『負け犬』といったていである。

「……斑目一族が……、俺は……上官に騙されて……」

「そうじゃねぇだろ! 貴族シャトーアっちまったんだろ!?」

 せせら笑いとともに、強烈な一撃パンチが頬に叩き込まれた。

「――っ」

 声にならない声を上げ、シュアンの頭がのけぞる。後ろの壁に打ちつけられ、意識が吹き飛びそうになる。それを意思の力でその場に留め、彼は心で叫ぶ。

 ――ハオリュウ、任せたぞ!

 あの奇天烈キテレツな少年当主が権力者になれば、少しはマシな世の中になるだろう……。

 くらくらと定まらぬ視界の中、シュアンは奇跡的に監視カメラを捉え、微笑を浮かべた。

 そして、彼の思考は、白濁した世界に呑まれていく。

 浮遊感に包まれながら、シュアンは看守たちが自分に暴行を加えていくのを、まるで他人ひとごとのように感じていた。

 やがて、シュアンの五感は徐々にり切れ、完全に途切れようと……――そのときだった。

「これはいったい、どういうことですか!?」

 怒気をはらんだ若い男の声が、コンクリートに反響した。有無を言わせぬ高圧的な物言いでありながら、魅入られるような気品に満ちている。事実、下卑た笑いを浮かべていた看守たちが、思わず背筋をぴんと伸ばしてかしこまるほどの蠱惑の旋律であった。

 唐突に変化した空気に、失いかけていたシュアンの意識が引き戻された。

「すぐに、医者の手配を」

 衣擦れの気配で、声のぬしが背後を振り返ったのを感じた。口調からして、部下を従えていたのだろう。

 わずかに目を開けたシュアンの視界に、警察隊の高官の制服を身にまとい、目深まぶかにかぶった制帽で顔を隠した男の姿が飛び込んできた。男は、看守たちが開け放しにしていた鉄格子の扉をくぐり抜け、独房の中に入ってくる。どう考えても、こんな掃き溜めなどとは無縁の人物であろうに、場違いを物ともしない所作である。

 シュアンの心臓が、どきりと高鳴った。

 ――まさか……?

 だらりと頭をうなだれたまま気絶を装い、シュアンは男の様子を窺う。

 男は、苛立たしげでありながらも、雅やかさを失わない歩調で、はりつけの壁の前に立った。無造作に右手を近づけてきたかと思うと、強引にシュアンの前髪を掻き上げる。白い礼装用の手袋が、暴行で受けた傷の血で染まった。

「……」

 男の指先に無言の挑発を感じ、シュアンは腫れ上がっていないほうのまぶたを静かに開いた。

 視線と視線がぶつかり合う。

 片目だけの三白眼と、すべてを呑み込むような奈落の黒い瞳。

 ――摂政……カイウォル……!

 シュアンは腹の底で、その名に毒づく。

 身分を隠し、この監獄に自然に入り込むためだろう。警察隊の制服姿であったが、典雅な美貌は見間違えようもなかった。

 摂政もまた、あらわになったシュアンの顔に呟く。

「報告を受けたときは、信じられませんでしたが、確かに、あのときの介添えですね」

 会食のとき、シュアンは整髪料で髪を撫でつけ、『目つきの鋭い切れ者』の変装をしていた。髪を上げることで、摂政はあの容貌を再現したのだ。

「警察隊の腐敗は聞き及んでおりましたが、これほどまでとは……」

 溜め息混じりの摂政の言葉は、囚人が暴行を受けていることか、警察隊員であったシュアンが貴族シャトーア殺しの犯人であることか。――シュアンにとっては、どうでもよいことであった。

 シュアンは、ただ黙って、濁りきった三白眼に摂政を映す。気持ちの上では、唾を吐きかけてやりたいところであったが、呼吸すら激痛を伴う彼には、どだい無理な話であり、そもそも、ここは沈黙を保つべき場であろう。

「緋扇シュアン――警察隊学校を首席で卒業。将来を嘱望され、望めば近衛隊入りも可能であったにも関わらず、あえて警察隊を、それも凶賊ダリジィンの担当部署を希望した変わり者。多少、短慮なところはあるものの、正義感にあふれた好青年。……ある汚職事件に関わるまでは――と、報告書にありました」

 澄ました美麗な顔で、反応を探るかのように、淡々と摂政が告げる。対してシュアンは、いつの時代の話だと、鼻に皺を寄せた。

「ハオリュウ君との接点は、メイシア嬢の誘拐事件のときなのでしょう? あなたは恩義ある先輩の名誉のために、ハオリュウ君に書状を書いてもらった。――あの事件には不審な点が多いですが、それもこれも、あの鷹刀セレイエが裏で糸を引いていたからですね」

「……」

 シュアンに答える義理はない。無論、摂政も彼に答えを期待していない。故に、一方的な話が続く。

「『狂犬』と呼ばれる人間が何故、ハオリュウ君の庇護を買って出るのか。疑問だったのですが、あなたの経歴を調べて納得しましたよ。むしろ、『忠犬』ですね。ハオリュウ君を羨ましく思いますよ」

 雅やかな笑みを浮かべると、摂政はきびすを返しつつ、宣告する。

「死刑囚とはいえ、囚人に危害を加えるとは言語道断です。この監獄は、即刻、閉鎖いたします。緋扇シュアン、あなたには別の獄に移っていただきます。無論、怪我の手当はいたしましょう」

「!」

 待て――と。

 シュアンの心が叫んだ。

 ――それじゃあ、俺はハオリュウの枷になっちまう……! 

 そう思った瞬間、彼は大きく息を吸い込んだ。

 わずかな呼吸すら、激痛に変わる胸だ。大量の空気を送り込めば……。



「――――!」



 片目の腫れた三白眼が、極限まで見開かれた。それまで、かろうじて上げられていた首が、かくりと垂れる。

 はりつけの体が、だらんと生気を失った。

「お、おいっ……?」

 異常に気づいた看守が、狼狽の声を上げた。背後の気配に、立ち去ろうとしていた摂政が振り返る。

「なっ!? ただちに医者を! この者を死なせてはなりません!」

 蠱惑の旋律が血相を変え、金切り声となって響き渡る。

 混乱の渦に呑まれる牢獄の中、シュアンの口元だけが、穏やかにほころんでいた。

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