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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
6.硝子の華の情愛-1
 高い煉瓦の外塀に囲まれた、鷹刀一族の屋敷。

 屈強なる門衛たちに守られた、大華王国一の凶賊ダリジィンの居城は、しかし、その堅牢さに陰りが見え始めている。――そういわざるを得ないと、次期総帥となったリュイセンは思う。

 自室のバルコニーから屋敷の庭を一望し、彼はひとつ。

「天下の鷹刀が、ただ手をこまねいているだけとは……」 

 不甲斐なさに毒づき、美麗な顔を歪めた。

 現在、一族が直面している敵は、武力では攻めてこない。権力を振りかざし、策をろうする。武を頼みとする凶賊ダリジィンにとっては、厄介な相手だ。

 ――否。

 たとえ凶賊ダリジィンでなくとも、立ち向かうのは困難な人物といえるだろう。

 何しろ、相手は、この国の最高権力者、摂政カイウォルなのだから。

 リュイセンは、この夏の初めに短く切りそろえた髪を掻き上げ、昨晩の出来ごとを思い返した――。





 夕食が終わり、各人が部屋でくつろぐ、宵の口のことであった。

 兄レイウェンのもとに身を寄せているルイフォンから、緊急の連絡が入った。鷹刀一族とも懇意にしている、緋扇シュアンが逮捕されたとのことだった。死刑囚のための監獄に入れられ、彼の命は風前の灯だという。

 弟分はシュアンを助ける方策を練るために、鷹刀一族の情報網による情報収集の協力を依頼してきた。しかし、その第一報のすぐあとに、慌てたように前言を撤回した。



貴族シャトーアの厳月家、先代当主の暗殺』という、シュアンの罪状は事実だ。しかし今、この時期タイミングでの逮捕は、明らかに別の意図がある。狙いは、鷹刀一族かもしれない。

 だから、鷹刀は動くな。



 一族の中枢たる者たちが執務室に集められ、その知らせを聞いたとき、リュイセンは即座にソファーから立ち上がった。シュアン救出の舵取りをするルイフォンのもとへ、駆けつけようとしたのだ。

 因縁浅からぬ緋扇シュアンの危機に、静観は性に合わない。しかも、彼の逮捕は、鷹刀一族が遠因である可能性が濃厚だという――。

『動くな』などという言葉は、もとより、リュイセンの耳には入らない。

 険しい顔で制止をかけたのは、総帥たる祖父イーレオだった。「次期総帥という立場を考えろ」と、普段の飄々とした様子とは掛け離れた、荒々しい怒気をはらんだ声が轟いた。

 ひとまず解散となったあと、リュイセンは、そのまま自室に戻る気分になれず、ふらふらと夜の廊下を歩いていた。自分の中に渦巻く嵐を鎮めたかったのだ。

 そんなとき、父エルファンが、闇から湧き出てきたかのように音もなく背後から現れ、彼を呼び止めた。

「お前は何故、緋扇のために動こうとした?」

 奴のことは、嫌っていただろう?

 暗にそう告げているのは分かったが、氷の美貌は不思議と、どこかぬるんでいた。とはいえ、玲瓏と響く魅惑の低音は、いつも通りの静けさをたたえており、感情を読み取ることはできない。

「個人的な心情を言えば、緋扇のことは好きではありません。……ですが、俺は、彼に死んでほしくない――そう思ったら、体が勝手に動いていた。それだけです」

 まったく論理的でない答えだった。口にしてから、リュイセンは自己嫌悪に陥る。

 しかし、父は「そうか」と、ふっと口元をほころばせた。

 冷徹とうたわれる父の顔が……緩んだ。リュイセンは自分の目を疑ったが、『神速の双刀使い』の異名二つ名を持つ彼は、動体視力が良いのだ。見間違いなどではない。

 呆然としている間に、かつての『神速の双刀使い』である父の背中は、長い廊下の遥か彼方へと消えてしまった。しんと静まり返った夜闇の中には、開け放たれた窓から舞い込む、葉擦れの音が残されるのみ。

「……」

 次期総帥の位を下りてから、父から流れる風が柔らかくなったように感じるのは、きっと気のせいではないだろう。

 リュイセンは、夜風に誘われるように窓辺に立った。

 外を見やれば、闇に沈んだ庭のあちこちに、まるで蛍が飛び交うかのように、ほのかな外灯の光が散らばっていた。

 そして、視界の片隅に、ひときわ白く浮かび上がる、明かりの灯された硝子の温室。

 リュイセンは先ほど、薄着のまま、ふらふらと庭を歩くミンウェイの影を目撃した。以前は上着を持って追いかけたのだが、今は硝子の城に吸い込まれていくまで、黙って、その後ろ姿を見守っていた。

 彼女は、ひとりになりたいのだろう。

 ――ひとりきりで、緋扇シュアンのことを考えたいのだろう……。

 リュイセンは、最後にシュアンと交わした会話を思い出す。



『あんたは『尊敬に値する馬鹿』だ』

『なっ――!』

 喧嘩を売っているとしか思えない言葉だった。

 ……けれど、シュアンの三白眼がいつになく切なげで、リュイセンは戸惑った。

『あんたなら、あの危なっかしいお人好しが無茶をしても、体を張って止めてやれるだろう』

『――え?』

『頑張れよ、次期総帥』

 どことなく揶揄の混じったような、いつもの軽薄な口調でそう告げて、シュアンは走り出した。ちょうどそのとき、強い夏風が吹き、シュアンのいる風上から、彼の呟きが流れてきた。



『ミンウェイに、――――――を……頼む』



 静かに祈る濁声だみごえが、耳に残っている。

「あいつ……、この事態を予期していたんだな……」

 リュイセンは、切なげに目を細めた。

 つやめく黒髪を緩やかに波打たせた、愛しいひとの姿がまぶたに浮かぶ。

 そうして、どのくらいの星霜時間、儚げな硝子の光を見つめ続けていただろうか……。

 やがて、リュイセンは歩き出す。行き先は、自室ではない。少し前に退室してきたばかりの執務室である。

「祖父上。――いえ、総帥。提案がございます」

 そんな口上から切り出したリュイセンの提案――嘆願に、イーレオは瞠目した。しかし、静かな溜め息をひとつ落とすと、厳然たる面持ちとなり、こう答えた。

「鷹刀の総帥の名において、お前の提案を許可する」

「ありがとうございます!」

「だが、お前の思った通りにいくかどうかは難しいぞ? ……あの子は、かたくなだからな」

「……はい」 

 もっともな言葉に、リュイセンの顔が陰りを帯びる。

「あと、もうひと押し。あの子の背中を強く押し出す『何か』が、あればいいんだがな……」

「……少し、考えます」

 イーレオの弁は、まったくもって正しかった。自分の至らなさを痛感し、リュイセンの肩が落とされる。執務室の戸を叩いたときの勢いとは打って変わっての、意気消沈といったていである。

「それよりも……。お前は、本当にそれでよいのか?」

 深い海を思わせる慈愛の瞳が、じっとリュイセンを捕らえた。すると、リュイセンは、それまでの陰りを一瞬にして払拭し、黄金比の美貌を煌めかせ、イーレオの視線をまっすぐに受け止める。

「俺は、やるべきだと思ったことをやるまでです」

 高潔なる響きで、揺るぎなく、決然と告げる。

 リュイセンが、リュイセンである限り、これは譲れぬ彼のり方だ。

 イーレオは「お前らしいな」と、柔らかに笑んだ。その表情は、不思議なことに、嬉しげにも寂しげにも見え、リュイセンは惹き込まれたように目を離せない。

 故に。

 イーレオの背後に控えていた護衛のチャオラウが、無精髭に覆われた口元をわずかに揺らしたことは――さすがのリュイセンも気づかなかった。





 その後、だいぶ夜が深まってから、ルイフォンからの続報が入った。

 弟分の読みは正しく、緋扇シュアンの逮捕は、鷹刀一族を追い詰め、『ライシェン』を手に入れようとしている摂政の仕業だった。王族フェイラには逆らえない貴族シャトーアのハオリュウを脅迫するための、駒にされたのだ。

 牢獄の看守による拷問だか私刑だかに遭い、シュアンは現在、重傷だという。様子を見に来た摂政が止めなければ、死んでいたらしい。間一髪のところで、一命を取りとめたそうだ。

 人質として利用するためには、シュアンには生きていてもらわなければ困るという、摂政側の事情は理解できるが、投獄を命じた張本人が庇護に回るとは、なんとも皮肉な話である。ともあれ、差し迫った命の危険という意味では、現段階では安心してよいとのことだった。

 そして、シュアン救出の相談をするために、ハオリュウが極秘のうちに草薙家に移動したと伝えられた。貴族シャトーアの当主が、平民バイスアの家に寝泊まりするなど、世間では考えられないことであるが、『しばらく屋敷を空ける』と執事に言い残してやってきたらしい。

 疲弊の激しいハオリュウは、リュイセンの兄と義姉あねに一服盛られ、眠りに落ちた。乱暴だが、正しい判断だろう。

 だから、すべては夜が明けてから――。

 昨日の深夜に受けた連絡が最後で、そのあとどうなったのかはようとして知れない。

 ……もう、とっくに夜は明けた。

 もうすぐ、昼になる。

 自分が焦れても仕方がない。それよりも、昨晩イーレオに言われた『もうひと押し』を考えねばと思いつつ、リュイセンは歯噛みする。

「……動くな――か……」

 一族特有の魅惑の低音に、溜め息が混じる。

 摂政は、鷹刀一族を滅ぼさんと、虎視眈々と狙っている。ハオリュウとシュアンは、その巻き添えを食らっただけだ。

 リュイセンの双眸に映る、バルコニーからの景色は、輝かしい夏の陽光を燦々と浴びながらも、色あせて見えた。

 そのとき、リュイセンの携帯端末がメッセージの着信を伝えてきた。

 差出人は――ルイフォン。

 リュイセンは、即座に内容を確認する。



『作戦が決まった。鷹刀一族総帥と次期総帥に相談したい』



「相談……?」

 いったい、何を……?

 リュイセンは、ごくりと唾を呑み込む。

 ともかく、執務室だ。

 ルイフォンは、祖父イーレオとリュイセンのふたりだけを『役職名』で指名した。その上で『相談したい』と言ってきた。

 リュイセンは長身を翻し、神速の勢いで部屋を飛び出した。





「ミンウェイ様」

 料理長の呼びかけに、ミンウェイは、はっと顔を上げた。

 どうやら、また意識がどこかに飛んでいたらしい。気づけば、常に朗らかなはずの料理長の福相が、渋面を作っていた。

 いつもの事務連絡のために厨房を訪れたのだが、話の途中でミンウェイが、ふらりと倒れそうになったのは、つい先ほどのこと。その際、料理長は、その恰幅のよさからは想像もできないほどの素早さで彼女を支え、問答無用で椅子に座らせた。

 そして今、彼女の前には、料理長特製の栄養満点スムージーが置かれている。今朝の食事が、まともに喉を通らなかったことは、当然のことながら、彼にはお見通しなのだ。

「ミンウェイ様。少し、横になられたほうがいいですよ。昨日は、一睡もされていないのでしょう?」

「……」

「警察隊の緋扇シュアンが、逮捕されたそうですからね」

「……っ」

 畳み掛けられた言葉に、ミンウェイは柳眉を跳ね上げた。

 昨晩のシュアン逮捕の報は、箝口令が敷かれているわけではないので、料理長が知っていても不思議ではない。そもそも、朝食の話題に上っていたのだ。自然と、彼の耳にも入っていたことだろう。

 しかし、何故、シュアンの件と、ミンウェイの不調とを結びつけるのだろうか?

「昨日は、深夜に緊急の招集があったから、よく眠れなかっただけよ。緋扇さんとは、何も関係ないわ」

 ぴしゃりと言ってのけてから、ミンウェイは自分の主張の齟齬おかしさに気づいた。

 夜中の呼び出しは、シュアンの逮捕が原因だ。だから、シュアンと寝不足の間には、立派に因果関係が成立する。料理長は、少しも間違ったことなど言っていない……はずだ。……たぶん。……本当に?

 …………。

 ただでさえ意識が朦朧としているのに、更に何かを考えるなんて勘弁してほしい。

 ミンウェイはテーブルに両肘を付き、痛みをこらえるかのように掌で頭を押さえた。つやを欠いた黒髪が波打ち、乾いた草の香が広がる。

「ルイフォン様のところへ、行かれないのですか?」

 正面に、人の座る気配がした。うつむいたままでも、料理長の肉に埋もれた小さな目に、優しく見つめられているのを感じる。

貴族シャトーアのハオリュウさんまで、ご自分の屋敷を空けて、緋扇を助ける算段を立てに行ったのでしょう?」

 まるで耳元で囁くような、穏やかな響き。なのに、ミンウェイの心は、激しく揺さぶられる。

「……私が行っても、役に立たないわ」

 思わず、ぽろりと漏れたのは、胸の内の裏返し。

 そのことに気づく前に、彼女の無意識がさっと心に目隠しをした。

 ――そうではない。自分の言うべき台詞は、もっと別のものだ。

 ミンウェイは、前言を打ち消すように強気に、けれど、かすれた声を張り上げる。

「何を言っているのよ。鷹刀は動くな――って、ルイフォンが口を酸っぱくして警告しているじゃない」

 生粋の鷹刀の血統であり、総帥の補佐まで務める彼女は、まごうことなく一族の中枢に位置する者だ。すなわち、軽々しく動いてはいけない立場である。

 料理長の雰囲気に呑まれ、あやうく奇妙な波にさらわれるところであった。人柄が体型に表れているかのようでいて、その実、彼は油断ならない曲者くせものだ。だいたい、凶賊ダリジィンの屋敷に身を置く者が、真に善人であるはずもない。

「ルイフォンが、なんとかしてくれるわ……」

 その呟きは、料理長に向けたふりを装いつつ、本当は自分に言い聞かせていることを、彼女は理解していなかった。だから、料理長の次のひとことに対して、彼女はあまりにも無防備だった。

「そのルイフォン様から良い知らせが来ないから、ミンウェイ様は眠れないのでしょう?」

「!」

 料理長! と、叫ぼうとした。けれど、声が出なかった。ミンウェイは下を向いたまま、凍りつく。

「今回の件、ルイフォン様は『鷹刀は動くな』という判断を下されました。ならば、鷹刀こちらへは逐一、報告を寄越したりはしませんよ」

「……っ」

 確かに、ルイフォンの性格ならそうだろう。彼は、優先順位の低いことに対しては、疎かになりがちだ。つまり、今回のことは、何か起きても事後報告。――すべては後の祭りということも……。

 心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。わけの分からない感情に押し流されそうになり、ミンウェイは必死になって言葉を紡ぐ。

「……だったら連絡が来るまで、鷹刀は、おとなしく待つべきよ。私が騒いでも仕方ないわ。緋扇さんのことを心配しているのは、皆、同じだもの。――私だけが特別じゃない……」

 まるで、自らを説き伏せるかのように、ミンウェイは肩を震わせる。

 そのとき、頭上から、男の太い声が落ちてきた。



「ミンウェイ様は、特別ですよ」



 料理長――ではない。

 もっと低く、無愛想な響きだ。

 反射的に顔を上げ、ミンウェイは「え……?」と、切れ長の瞳をまたたかせる。

「チャオラウ……?」

 総帥の護衛の彼が、どうして厨房こんなところにいるのだろう?

 勿論、彼もこの屋敷の住人であるのだから、おかしいということはない。しかし、それにしても珍しい……。

「――とは言っても、緋扇は、口が裂けても、想いを打ち明けたりはせんでしょうがな」

 チャオラウの無精髭が、あざ笑うように揺れた。

「おおかた、自分には後ろ暗いことが多いし、この先もどうなるか分からない――なんてことを考えているんですよ。ミンウェイ様を巻き込むのが怖くて、何もできない臆病者です」

「チャオラウ? なんの話?」

 眉を寄せるミンウェイに、チャオラウは口調を崩さずに畳み掛ける。

「イーレオ様に向かって、『鷹刀は、ミンウェイ様に対して過保護すぎて、もはや虐待だ』などと噛みついてきたくせに、自分で守り切る自信がないから、肝心なところで逃げている。――情けない、腰抜け野郎ですよ」

「――!」

 直感的に、悟った。

 料理長とチャオラウは、共犯グルだ。ふたりして、ミンウェイに揺さぶりを掛けている。

 ――流される!

 唐突に、名前の知らない恐怖に襲われた。弾かれたように立ち上がると、がたん、と音を立てて椅子が倒れる。

 視界の端に、料理長の気遣いのスムージーが映った。彼女は、それを一気に飲み干し、「ご馳走様」と告げて、逃げるように厨房をあとにした。

「……少々、話の流れが強引すぎたか」

 ミンウェイの背中を見送りながら、チャオラウが無精髭の顎を掻く。

「恐ろしく不自然でしたが、はなからあなたに話術など期待していませんよ。――それより」

 後ろから声をかけてきた料理長が、不意に福相を歪めた。その顔は、とても善人とは思えぬ、底意地の悪いものであった。

「さすが、初恋を半世紀もこじらせている男は、言うことが辛辣ですね」

「なっ!?」

 料理長の言葉に、チャオラウの眉が吊り上がる。

「あの青二才は、自分を見るようですか?」

「ほざけ!」

 チャオラウの拳が、料理長の腹を狙う。

 しかし、料理長は白い前掛けをはためかせ、その下に隠した余った肉を軽やかに揺らしながら、鷹刀一族最強の男の攻撃を鮮やかにかわしたのだった。

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