残酷な描写あり
8.運命を拓く誓約-4
草薙家の広い庭に、燦々と陽光が降り注ぐ。
緑の芝生が熱気を弾き、ふたつの影が陽炎のように揺らめく。
均整の取れた逞しい長身と、線の細い未熟な体躯。
レイウェンとハオリュウ――文字通り、大人と子供ほども違うふたりが、等しく夏空にその身を晒す。
ルイフォンたち観客は、木陰のベンチに下がるよう指示されていた。
草薙家の住人であるクーティエやシャンリーは勿論、シュアンとミンウェイ、ルイフォンとメイシアという、現在この家に厄介になっている面々が揃っている。
ただし、住み込みで働いているタオロンだけは、娘のファンルゥを連れて遊びに出かけてもらった。小さなファンルゥへの説明が難しいことが理由であるが、純粋に、たまには父娘で遠出をするのも悪くはなかろう、と。
隣に座るメイシアが、ルイフォンのシャツの端をそっと握ってきた。だから彼は、彼女の髪をくしゃりと撫でる。レイウェンには、メイシアは見ないほうがいいと言われたこの決闘であるが、彼女は黒曜石の瞳に、異母弟の勇姿をしかと映していた。
凛と背筋を伸ばした、綺麗な立ち姿だった。無論、かなり無理をしているはずだ。足の悪いハオリュウは、その姿勢を保つだけで精いっぱいだろう。
不意に、ルイフォンの頭上から、葉擦れのざわめきが落ちてきた。
涼しげな調べに包まれ、隣のベンチに座っていたクーティエの髪飾りのリボンが、ひらひらと舞い踊る。
自由な風は、彼女のもとから気ままに流れゆき、ハオリュウの黒絹の髪を巻き上げた。
「皆様。お立ち会いくださり、どうもありがとうございます」
絹の貴公子は、丁寧にお辞儀をした。
彼は、ゆっくりと皆の顔を見渡し、言を継ぐ。
「この決闘が終わったら、きちんと事情をご説明いたします。ですから、僕がどんな姿になっても、決して止めないでください」
もし、途中で邪魔をする気なら、今のうちに出ていってほしい――言外にそう告げていた。
彼は、くるりと踵を返し、レイウェンと向き合う。
「レイウェンさん、よろしくお願いいたします」
「あなたの『誓約』に掛けて、全力でお相手いたします」
ふたりが同時に一礼し、決闘が始まった。
地に倒れたハオリュウを前に、レイウェンは動きを止めた。
手にしたナイフを勢いよく振るい、鮮血を払い落とす。緑の芝が、赤に染まった。
「勝負ありましたね」
魅惑の低音には、普段の甘やかさの欠片もなかった。眉ひとつ動かさぬ美貌は、冷酷な魔性そのもの。
「まだ……です!」
対するハオリュウの顔は、瞼は青く腫れ上がり、頬には赤い線のような切り傷が走っていた。体を起こそうとするものの、何度も殴られた腹を押さえる右手は、半袖から覗く上腕が真っ赤に染まり、左は関節が外され、ぶらんとしている。もとから不自由な足は、思うように動かないようで、反対側の足首も、不自然に曲げられた角度から骨折が疑われた。
「立ち上がれなくては、お話になりません」
「それでも……です!」
額の汗は、気温によるものか、痛みからくるものか。瞳に流れ込んだそれは、やたらと染みた。不快感に目をつぶれば、まるで悔し涙のように滲み出る。
ハオリュウは最後の力を振り絞って地を転がり、血の滴る右腕で、傍らに立つレイウェンの足に組みついた。
「!?」
ほんの刹那、レイウェンは目を見開いた。
しかし、次の瞬間には、横たわるハオリュウの鼻先の地面に、ナイフが突き立てられた。刃先に触れた芝が散り、本能的な恐怖にハオリュウの身が縮む――が、意地で悲鳴を堪える。
「負けを認めろ」
レイウェンとは思えぬ、ドスの利いた声が轟いた。
「嫌です!」
「続ければ、後遺症の残る怪我になる。だから、終わりだ」
険しい声であったが、それはレイウェンの心からの懇願だった。ハオリュウは、はっと息を呑み、即座に謝罪した。
「……すみません。――僕の負けです」
ハオリュウの宣言によって、決闘は終わった。
結果は、初めから明らかであったように、ハオリュウの惨敗……。
レイウェンが膝を付き、ハオリュウの関節を戻す。それから、医療鞄を持ったミンウェイに合図を送ると、誰よりも先にクーティエが飛んできた。
「ハオリュウ! ハオリュウ!」
「クーティエ、……ごめんね。負けたよ」
地面にへたり込み、ぽろぽろと涙をこぼす彼女に、ハオリュウは悔しげに謝る。
「ハオリュウ、『ごめん』って――。そんなこと言ったって、父上は……」
「そうだね。もと鷹刀一族の後継者だったレイウェンさんに、僕ごときが勝てるわけがない。――でも、初めから負けるつもりだったら、決闘なんか申し込まないよ」
「ハオリュウ……!」
クーティエのリボンが、ハオリュウの胸へと舞い降りる。ハオリュウは頭上のレイウェンへと視線を走らせ、彼が横を向いたのを確認すると、全身の痛みを押して、彼女の体を抱き寄せた。
やがて、他の面々もぞろぞろとやってきて、ふたりを取り囲む。
「ベッドに運ぶ前に、ここで足首を固定しちゃうから、動かないで」
ミンウェイがごそごそと添え木の準備を始めると、脇からシュアンが顔を出した。そして、驚きも呆れも通り越し、感心の域に到達した声を上げる。
「おぉ、酷ぇな。あんた、まるで暴漢に襲われたみたいだぞ」
その発言に、蒼白な顔をしたメイシアの手を硬く握っていたルイフォンが、すかさず口を挟んだ。
「それでいいんだろ? ハオリュウは『俺』に襲われたことになるんだからさ」
皆の目線が、一斉にルイフォンへと集まる。
「どういうことよ!」
広い庭にクーティエの叫びが響き渡り、芝生に倒れたままのハオリュウが彼女の服を引いた。
「クーティエ。心配させて悪かった。説明するよ。つまりね……」
……………………。
「種明かしをしてしまえば、この決闘は、どう考えたって茶番にしかならない。――でも、茶番だと言いたくなかったから、内緒にした。……ごめん」
ハオリュウは面目なさそうにクーティエに告げ、穏やかに苦笑した。
「僕は真剣に戦った。……確かに、僕には『大怪我を負う必要がある』。だから、僕はこの特殊な状況を利用して、武の達人であるレイウェンさんに、まったく武術の心得のない僕の挑戦を受けてもらった。けれど、それは、この決闘に負けていい、ってことじゃない。――僕は、本気で勝ちたかった」
「ハオリュウ……」
「悔しいけど、僕は、まだまだだ。――けど、この次は盤上遊戯か何かでの勝負にするから、僕が勝つよ」
ハオリュウは傷だらけの顔を上げ、好戦的な眼差しでレイウェンを見やる。
レイウェンは心底、不快げに眉を寄せ、冷ややかに口の端を上げた。
「私は盤上遊戯も得意ですよ?」
「このようなお見苦しい姿を御前に晒し、殿下のお目を穢すこと、どうかお許しください」
摂政カイウォルの執務室を訪れた、藤咲家当主ハオリュウは、車椅子の上から頭を垂れた。
彼の片足はギプスで固定されており、片腕は包帯でぐるぐる巻きにされている。伏した状態でも、腫れ上がった瞼の青痣が前髪を押しのけて覗き見え、頬に当てられたガーゼが顔の輪郭をひと回り大きくしていた。
まるで暴漢に襲われたかのような風体である。
何ごとがあったのかと、カイウォルが問おうとしたとき、ハオリュウは低頭したまま、静かに続けた。
「私は殿下のお言葉通り、『ライシェン』の隠し場所を探るため、我が異母姉メイシアを誑かし、自殺に追い込んだ鷹刀ルイフォンめと接触いたしました」
確かに、カイウォルは、そのように命じた。
ハオリュウが鷹刀一族と通じていることは明白であったから、腹心と思われる緋扇シュアンを人質として捕らえ、ハオリュウを意のままに操ろうとしたのだ。
しかし、緋扇シュアンは獄中で死んだ。看守の暴行がもとで命を落としたのであるが、どうやら、ハオリュウの枷にならぬようにと、わざと看守を挑発していたらしい。最期は、折れた骨が肺を突くように、故意に転んだのだという。事実上の自死である。
シュアンの忠臣ぶりには驚嘆したが、同時に、カイウォルの目論見は台無しとなった。
では、こうして現れたハオリュウは、いったい何を告げるのか?
雅やかな美貌はそのままに、カイウォルは警戒の眼差しで、目の前の傷だらけの少年を見やる。
「私は、鷹刀ルイフォンに『異母姉を死に追いやった罪は不問に付すから、鷹刀一族が奪った国家の至宝『ライシェン』について語るように』と申し付けました。すると、あろうことか、鷹刀ルイフォンは『藤咲家こそが、メイシアを追い詰めた。メイシアは、藤咲家に殺された。お前はメイシアの仇だ!』と、懐からナイフを取り出し、私に襲いかかってきたのです」
そう言って、ハオリュウは、ゆっくりと面を上げる。
薬品の匂いがツンと鼻につき、まるで見せつけるかのように、生々しい傷跡がカイウォルの目に飛び込んできた。腹にも厚く包帯が巻かれているのか、服の下が不自然に膨らんでおり、ハオリュウは、痛みを堪えるかのように左手を添える。
「いつもならば、護衛をそばに控えさせているのですが、あのときは国家の極秘事項である『ライシェン』の話をするつもりでしたから、席を外させておりました。そのため、私はどうすることもできず……。――結果、鷹刀ルイフォンから『ライシェン』の隠し場所を聞き出すことは叶いませんでした。誠に申し訳ございません」
「!」
そう来たか――と。カイウォルの眉が、ぴくりと動いた。
雅やかさを乱した彼を尻目に、ハオリュウは、よろよろと車椅子から立ち上がる。そして、倒れ込むように床に手を付いた。
「殿下のご期待に応えることができず、弁明の言葉もございません。『ライシェン』の情報は、国家の存亡に関わる重大事と知りながら、私の力が及ばず……申し訳ございません」
平伏するハオリュウの腕が――真っ白な包帯が、じわじわと赤く染まっていく。傷口が開き、血が滲んできたのだ。
カイウォルは、ごくりと唾を呑んだ。
この一幕は、狂言だ。
何故なら、ハオリュウの異母姉メイシアは、生きているのだから。互いにそれを知りつつ、暗黙の了解で、芝居を続けているのだ。
しかし、ハオリュウの怪我は、偽装ではなく真実。彼は虚構のために、自らを傷つけた。
たった十二歳の少年が……。
空恐ろしいものを感じ、カイウォルの胸中がざわめく。そんな彼の内心をよそに、ハオリュウは言を継ぐ。
「『ライシェン』なくしては、平民の血を引く私めが、女王陛下の婚約者という大任を務めるわけにはまいりません。つきましては、誠に遺憾ながら、婚約者の件はご辞退申し上げます」
「――!」
常に尊大に構えるべき摂政のカイウォルが、明確に顔色を変えた。
ハオリュウが婚約者の件を快く思っていないことは百も承知していた。しかし、貴族は王族に逆らえない。断れば角が立つ。
そこを、ハオリュウは正論でもって、鮮やかに覆した……。
言葉を失うカイウォルに、ハオリュウは畳み掛ける。
「殿下……。私を痛めつけながらも、鷹刀ルイフォンは泣いておりました。あれは異母姉を想う涙でした。……世間知らずの異母姉は、見知らぬ世界に惑わされただけにすぎないのかもしれません。しかし、彼女もまた、本気で彼を想っていたことは、異母弟の私の目にも明らかでした……」
小心で善良な、凡人そのものの顔で、ハオリュウは苦しげに声を震わせた。
「鷹刀ルイフォンを傷害の罪で訴えることも考えましたが、天国の異母姉の気持ちを思うと踏み切ることができず……、また、異母姉が凶賊と恋仲であったことを蒸し返すのは、我が藤咲家としても望ましくありません。ですから、このことは私の胸の内に納めることにいたしました」
「!」
情に流されたふりをして、ハオリュウに先手を打たれたことに、カイウォルは気づく。
平民のルイフォンが貴族のハオリュウに危害を加えたのなら、それなりの罪に問われる。そして、ルイフォンが未成年であることを理由に、父親である鷹刀一族総帥イーレオに何かしらの圧力を掛けることも可能だっただろう。しかし、それをハオリュウは未然に封じた。
不意に――。
ひざまずいていたハオリュウの体が、ぐらりと傾いだ。重傷を押して無理をしたためだ。なんとか堪えようと足掻くが、あえなく床に倒れる。
さすがのカイウォルも、話を切り上げるべきだと判断したときだった。
「ハオリュウ様!」
車椅子を押していた介助の者が、血相を変えて叫んだ。
その者は、雲上人たるカイウォルに無礼とならぬよう、まずは額を床にこすりつけて平伏し、それから主人へと近づく。
――そう。
カイウォルは、ハオリュウに介助者の同行を許可していた。事前にハオリュウから、車椅子が必要である、との連絡を受けていたのだ。前回は杖すらも使わずに歩いていたが、また足の調子が悪くなったのかと、その程度に捉えていた。
カイウォルの関心は、腹心を亡くしたハオリュウの肚にあった。
だから今まで、車椅子を押してきた人物の顔など、まるで興味がなかった。至近距離にいながらも、まったく視界に入っていなかったのである。
しかし、ハオリュウを抱き上げた介助者の顔を見た瞬間、カイウォルの目は釘付けになった。
「――緋扇……シュアン……?」
生き返っている――!?
まさか、そんな馬鹿な……!
それは、あまりにも非科学的だと、カイウォルは自分の考えを打ち消す。
そうではない。
看守を買収して、死んだと思わせて助け出したのだ。
即座に、してやられたと思い……次の瞬間、緋扇シュアンが、全治数ヶ月の大怪我を負っていたことを思い出す。
半死半生の重傷だった。牢に繋がれたシュアンを、カイウォルはその目で確認している。
しかし、目の前の男には傷ひとつない……。
カイウォルの背に、戦慄が走る。
「介添えの者よ。名は、なんという?」
王族たるカイウォルが、臣下の使用人に名前を尋ねるなど、あってはならないことのはずだった。介助の者は驚きに三白眼を見開き、慌てたように頭を垂れる。
「緋扇シュアンと申します」
豪奢な部屋に、まったくもって不釣り合いな濁声が流れた。
甲高く、軽薄そうな響きは、あたかも本人の耳にのみ心地よく聞こえる、調子外れの鼻歌のようであった。
「死者を蘇らせる――技術……ですか」
ハオリュウを退室させ、誰もいない執務室で、カイウォルは独り言ちた。
どっと冷や汗が流れ、自分が緊張していたことに気づく。
たった十二歳の少年当主を相手に、この国の最高権力者たる彼が身構えるのは、実に滑稽といえた。しかし、カイウォル自身は、それを可笑しなこととは思わなかった。
ハオリュウは、血筋しか誇れるもののない王族たちや、安穏とした今の栄華が永遠に続くものと信じている貴族たちとは、一線を画する。彼に流れる平民の血は、下種の証ではなく多様性を表し、若さは未熟さではなく可能性を示すのだ。
つい最近まで、ハオリュウを歯牙にも掛けなかったカイウォルとしては、自分の目は節穴だったと反省せざるを得ない。
味方にすれば、この上なく頼もしいであろうが、敵に回したら恐ろしく厄介。
これが、ハオリュウに対する、現在の評価だ。
正直なところ、喉から手が出るほど欲しい人材である。
だが、残念なことに、ハオリュウは鷹刀一族と懇意にしている。カイウォルとは相容れぬ、『裏』の王家を名乗る、あの一族と。
その証拠に、彼の溺愛する異母姉メイシアが、あの鷹刀セレイエの異父弟、ルイフォンのもとにいる。何がどう繋がってそうなったのかは、まるで不明なのだが、これは厳然たる事実だ。
「〈七つの大罪〉と鷹刀一族……」
神殿とは関わりのなかったカイウォルにとって、どちらも謎に包まれた存在だった。先日、鷹刀セレイエの父親、エルファンに釘を差されて以来、扱いには慎重になっている。
「それから……、『デヴァイン・シンフォニア計画』――でしたね」
現女王――カイウォルの妹アイリーが、十五歳の誕生日を迎える少し前。
鷹刀セレイエの〈影〉となった、侍女のホンシュアが、カイウォルの前に現れた。彼女は、殺されたライシェンを、ヤンイェンと女王の間の御子として――次代の王として、誕生させるのだと告げた。
「……貴女の身勝手に、この国を巻き込まないでください」
人を惹きつけてやまないはずの蠱惑の旋律が、ひび割れた音色で奏でられた。
~ 第二章 了 ~
緑の芝生が熱気を弾き、ふたつの影が陽炎のように揺らめく。
均整の取れた逞しい長身と、線の細い未熟な体躯。
レイウェンとハオリュウ――文字通り、大人と子供ほども違うふたりが、等しく夏空にその身を晒す。
ルイフォンたち観客は、木陰のベンチに下がるよう指示されていた。
草薙家の住人であるクーティエやシャンリーは勿論、シュアンとミンウェイ、ルイフォンとメイシアという、現在この家に厄介になっている面々が揃っている。
ただし、住み込みで働いているタオロンだけは、娘のファンルゥを連れて遊びに出かけてもらった。小さなファンルゥへの説明が難しいことが理由であるが、純粋に、たまには父娘で遠出をするのも悪くはなかろう、と。
隣に座るメイシアが、ルイフォンのシャツの端をそっと握ってきた。だから彼は、彼女の髪をくしゃりと撫でる。レイウェンには、メイシアは見ないほうがいいと言われたこの決闘であるが、彼女は黒曜石の瞳に、異母弟の勇姿をしかと映していた。
凛と背筋を伸ばした、綺麗な立ち姿だった。無論、かなり無理をしているはずだ。足の悪いハオリュウは、その姿勢を保つだけで精いっぱいだろう。
不意に、ルイフォンの頭上から、葉擦れのざわめきが落ちてきた。
涼しげな調べに包まれ、隣のベンチに座っていたクーティエの髪飾りのリボンが、ひらひらと舞い踊る。
自由な風は、彼女のもとから気ままに流れゆき、ハオリュウの黒絹の髪を巻き上げた。
「皆様。お立ち会いくださり、どうもありがとうございます」
絹の貴公子は、丁寧にお辞儀をした。
彼は、ゆっくりと皆の顔を見渡し、言を継ぐ。
「この決闘が終わったら、きちんと事情をご説明いたします。ですから、僕がどんな姿になっても、決して止めないでください」
もし、途中で邪魔をする気なら、今のうちに出ていってほしい――言外にそう告げていた。
彼は、くるりと踵を返し、レイウェンと向き合う。
「レイウェンさん、よろしくお願いいたします」
「あなたの『誓約』に掛けて、全力でお相手いたします」
ふたりが同時に一礼し、決闘が始まった。
地に倒れたハオリュウを前に、レイウェンは動きを止めた。
手にしたナイフを勢いよく振るい、鮮血を払い落とす。緑の芝が、赤に染まった。
「勝負ありましたね」
魅惑の低音には、普段の甘やかさの欠片もなかった。眉ひとつ動かさぬ美貌は、冷酷な魔性そのもの。
「まだ……です!」
対するハオリュウの顔は、瞼は青く腫れ上がり、頬には赤い線のような切り傷が走っていた。体を起こそうとするものの、何度も殴られた腹を押さえる右手は、半袖から覗く上腕が真っ赤に染まり、左は関節が外され、ぶらんとしている。もとから不自由な足は、思うように動かないようで、反対側の足首も、不自然に曲げられた角度から骨折が疑われた。
「立ち上がれなくては、お話になりません」
「それでも……です!」
額の汗は、気温によるものか、痛みからくるものか。瞳に流れ込んだそれは、やたらと染みた。不快感に目をつぶれば、まるで悔し涙のように滲み出る。
ハオリュウは最後の力を振り絞って地を転がり、血の滴る右腕で、傍らに立つレイウェンの足に組みついた。
「!?」
ほんの刹那、レイウェンは目を見開いた。
しかし、次の瞬間には、横たわるハオリュウの鼻先の地面に、ナイフが突き立てられた。刃先に触れた芝が散り、本能的な恐怖にハオリュウの身が縮む――が、意地で悲鳴を堪える。
「負けを認めろ」
レイウェンとは思えぬ、ドスの利いた声が轟いた。
「嫌です!」
「続ければ、後遺症の残る怪我になる。だから、終わりだ」
険しい声であったが、それはレイウェンの心からの懇願だった。ハオリュウは、はっと息を呑み、即座に謝罪した。
「……すみません。――僕の負けです」
ハオリュウの宣言によって、決闘は終わった。
結果は、初めから明らかであったように、ハオリュウの惨敗……。
レイウェンが膝を付き、ハオリュウの関節を戻す。それから、医療鞄を持ったミンウェイに合図を送ると、誰よりも先にクーティエが飛んできた。
「ハオリュウ! ハオリュウ!」
「クーティエ、……ごめんね。負けたよ」
地面にへたり込み、ぽろぽろと涙をこぼす彼女に、ハオリュウは悔しげに謝る。
「ハオリュウ、『ごめん』って――。そんなこと言ったって、父上は……」
「そうだね。もと鷹刀一族の後継者だったレイウェンさんに、僕ごときが勝てるわけがない。――でも、初めから負けるつもりだったら、決闘なんか申し込まないよ」
「ハオリュウ……!」
クーティエのリボンが、ハオリュウの胸へと舞い降りる。ハオリュウは頭上のレイウェンへと視線を走らせ、彼が横を向いたのを確認すると、全身の痛みを押して、彼女の体を抱き寄せた。
やがて、他の面々もぞろぞろとやってきて、ふたりを取り囲む。
「ベッドに運ぶ前に、ここで足首を固定しちゃうから、動かないで」
ミンウェイがごそごそと添え木の準備を始めると、脇からシュアンが顔を出した。そして、驚きも呆れも通り越し、感心の域に到達した声を上げる。
「おぉ、酷ぇな。あんた、まるで暴漢に襲われたみたいだぞ」
その発言に、蒼白な顔をしたメイシアの手を硬く握っていたルイフォンが、すかさず口を挟んだ。
「それでいいんだろ? ハオリュウは『俺』に襲われたことになるんだからさ」
皆の目線が、一斉にルイフォンへと集まる。
「どういうことよ!」
広い庭にクーティエの叫びが響き渡り、芝生に倒れたままのハオリュウが彼女の服を引いた。
「クーティエ。心配させて悪かった。説明するよ。つまりね……」
……………………。
「種明かしをしてしまえば、この決闘は、どう考えたって茶番にしかならない。――でも、茶番だと言いたくなかったから、内緒にした。……ごめん」
ハオリュウは面目なさそうにクーティエに告げ、穏やかに苦笑した。
「僕は真剣に戦った。……確かに、僕には『大怪我を負う必要がある』。だから、僕はこの特殊な状況を利用して、武の達人であるレイウェンさんに、まったく武術の心得のない僕の挑戦を受けてもらった。けれど、それは、この決闘に負けていい、ってことじゃない。――僕は、本気で勝ちたかった」
「ハオリュウ……」
「悔しいけど、僕は、まだまだだ。――けど、この次は盤上遊戯か何かでの勝負にするから、僕が勝つよ」
ハオリュウは傷だらけの顔を上げ、好戦的な眼差しでレイウェンを見やる。
レイウェンは心底、不快げに眉を寄せ、冷ややかに口の端を上げた。
「私は盤上遊戯も得意ですよ?」
「このようなお見苦しい姿を御前に晒し、殿下のお目を穢すこと、どうかお許しください」
摂政カイウォルの執務室を訪れた、藤咲家当主ハオリュウは、車椅子の上から頭を垂れた。
彼の片足はギプスで固定されており、片腕は包帯でぐるぐる巻きにされている。伏した状態でも、腫れ上がった瞼の青痣が前髪を押しのけて覗き見え、頬に当てられたガーゼが顔の輪郭をひと回り大きくしていた。
まるで暴漢に襲われたかのような風体である。
何ごとがあったのかと、カイウォルが問おうとしたとき、ハオリュウは低頭したまま、静かに続けた。
「私は殿下のお言葉通り、『ライシェン』の隠し場所を探るため、我が異母姉メイシアを誑かし、自殺に追い込んだ鷹刀ルイフォンめと接触いたしました」
確かに、カイウォルは、そのように命じた。
ハオリュウが鷹刀一族と通じていることは明白であったから、腹心と思われる緋扇シュアンを人質として捕らえ、ハオリュウを意のままに操ろうとしたのだ。
しかし、緋扇シュアンは獄中で死んだ。看守の暴行がもとで命を落としたのであるが、どうやら、ハオリュウの枷にならぬようにと、わざと看守を挑発していたらしい。最期は、折れた骨が肺を突くように、故意に転んだのだという。事実上の自死である。
シュアンの忠臣ぶりには驚嘆したが、同時に、カイウォルの目論見は台無しとなった。
では、こうして現れたハオリュウは、いったい何を告げるのか?
雅やかな美貌はそのままに、カイウォルは警戒の眼差しで、目の前の傷だらけの少年を見やる。
「私は、鷹刀ルイフォンに『異母姉を死に追いやった罪は不問に付すから、鷹刀一族が奪った国家の至宝『ライシェン』について語るように』と申し付けました。すると、あろうことか、鷹刀ルイフォンは『藤咲家こそが、メイシアを追い詰めた。メイシアは、藤咲家に殺された。お前はメイシアの仇だ!』と、懐からナイフを取り出し、私に襲いかかってきたのです」
そう言って、ハオリュウは、ゆっくりと面を上げる。
薬品の匂いがツンと鼻につき、まるで見せつけるかのように、生々しい傷跡がカイウォルの目に飛び込んできた。腹にも厚く包帯が巻かれているのか、服の下が不自然に膨らんでおり、ハオリュウは、痛みを堪えるかのように左手を添える。
「いつもならば、護衛をそばに控えさせているのですが、あのときは国家の極秘事項である『ライシェン』の話をするつもりでしたから、席を外させておりました。そのため、私はどうすることもできず……。――結果、鷹刀ルイフォンから『ライシェン』の隠し場所を聞き出すことは叶いませんでした。誠に申し訳ございません」
「!」
そう来たか――と。カイウォルの眉が、ぴくりと動いた。
雅やかさを乱した彼を尻目に、ハオリュウは、よろよろと車椅子から立ち上がる。そして、倒れ込むように床に手を付いた。
「殿下のご期待に応えることができず、弁明の言葉もございません。『ライシェン』の情報は、国家の存亡に関わる重大事と知りながら、私の力が及ばず……申し訳ございません」
平伏するハオリュウの腕が――真っ白な包帯が、じわじわと赤く染まっていく。傷口が開き、血が滲んできたのだ。
カイウォルは、ごくりと唾を呑んだ。
この一幕は、狂言だ。
何故なら、ハオリュウの異母姉メイシアは、生きているのだから。互いにそれを知りつつ、暗黙の了解で、芝居を続けているのだ。
しかし、ハオリュウの怪我は、偽装ではなく真実。彼は虚構のために、自らを傷つけた。
たった十二歳の少年が……。
空恐ろしいものを感じ、カイウォルの胸中がざわめく。そんな彼の内心をよそに、ハオリュウは言を継ぐ。
「『ライシェン』なくしては、平民の血を引く私めが、女王陛下の婚約者という大任を務めるわけにはまいりません。つきましては、誠に遺憾ながら、婚約者の件はご辞退申し上げます」
「――!」
常に尊大に構えるべき摂政のカイウォルが、明確に顔色を変えた。
ハオリュウが婚約者の件を快く思っていないことは百も承知していた。しかし、貴族は王族に逆らえない。断れば角が立つ。
そこを、ハオリュウは正論でもって、鮮やかに覆した……。
言葉を失うカイウォルに、ハオリュウは畳み掛ける。
「殿下……。私を痛めつけながらも、鷹刀ルイフォンは泣いておりました。あれは異母姉を想う涙でした。……世間知らずの異母姉は、見知らぬ世界に惑わされただけにすぎないのかもしれません。しかし、彼女もまた、本気で彼を想っていたことは、異母弟の私の目にも明らかでした……」
小心で善良な、凡人そのものの顔で、ハオリュウは苦しげに声を震わせた。
「鷹刀ルイフォンを傷害の罪で訴えることも考えましたが、天国の異母姉の気持ちを思うと踏み切ることができず……、また、異母姉が凶賊と恋仲であったことを蒸し返すのは、我が藤咲家としても望ましくありません。ですから、このことは私の胸の内に納めることにいたしました」
「!」
情に流されたふりをして、ハオリュウに先手を打たれたことに、カイウォルは気づく。
平民のルイフォンが貴族のハオリュウに危害を加えたのなら、それなりの罪に問われる。そして、ルイフォンが未成年であることを理由に、父親である鷹刀一族総帥イーレオに何かしらの圧力を掛けることも可能だっただろう。しかし、それをハオリュウは未然に封じた。
不意に――。
ひざまずいていたハオリュウの体が、ぐらりと傾いだ。重傷を押して無理をしたためだ。なんとか堪えようと足掻くが、あえなく床に倒れる。
さすがのカイウォルも、話を切り上げるべきだと判断したときだった。
「ハオリュウ様!」
車椅子を押していた介助の者が、血相を変えて叫んだ。
その者は、雲上人たるカイウォルに無礼とならぬよう、まずは額を床にこすりつけて平伏し、それから主人へと近づく。
――そう。
カイウォルは、ハオリュウに介助者の同行を許可していた。事前にハオリュウから、車椅子が必要である、との連絡を受けていたのだ。前回は杖すらも使わずに歩いていたが、また足の調子が悪くなったのかと、その程度に捉えていた。
カイウォルの関心は、腹心を亡くしたハオリュウの肚にあった。
だから今まで、車椅子を押してきた人物の顔など、まるで興味がなかった。至近距離にいながらも、まったく視界に入っていなかったのである。
しかし、ハオリュウを抱き上げた介助者の顔を見た瞬間、カイウォルの目は釘付けになった。
「――緋扇……シュアン……?」
生き返っている――!?
まさか、そんな馬鹿な……!
それは、あまりにも非科学的だと、カイウォルは自分の考えを打ち消す。
そうではない。
看守を買収して、死んだと思わせて助け出したのだ。
即座に、してやられたと思い……次の瞬間、緋扇シュアンが、全治数ヶ月の大怪我を負っていたことを思い出す。
半死半生の重傷だった。牢に繋がれたシュアンを、カイウォルはその目で確認している。
しかし、目の前の男には傷ひとつない……。
カイウォルの背に、戦慄が走る。
「介添えの者よ。名は、なんという?」
王族たるカイウォルが、臣下の使用人に名前を尋ねるなど、あってはならないことのはずだった。介助の者は驚きに三白眼を見開き、慌てたように頭を垂れる。
「緋扇シュアンと申します」
豪奢な部屋に、まったくもって不釣り合いな濁声が流れた。
甲高く、軽薄そうな響きは、あたかも本人の耳にのみ心地よく聞こえる、調子外れの鼻歌のようであった。
「死者を蘇らせる――技術……ですか」
ハオリュウを退室させ、誰もいない執務室で、カイウォルは独り言ちた。
どっと冷や汗が流れ、自分が緊張していたことに気づく。
たった十二歳の少年当主を相手に、この国の最高権力者たる彼が身構えるのは、実に滑稽といえた。しかし、カイウォル自身は、それを可笑しなこととは思わなかった。
ハオリュウは、血筋しか誇れるもののない王族たちや、安穏とした今の栄華が永遠に続くものと信じている貴族たちとは、一線を画する。彼に流れる平民の血は、下種の証ではなく多様性を表し、若さは未熟さではなく可能性を示すのだ。
つい最近まで、ハオリュウを歯牙にも掛けなかったカイウォルとしては、自分の目は節穴だったと反省せざるを得ない。
味方にすれば、この上なく頼もしいであろうが、敵に回したら恐ろしく厄介。
これが、ハオリュウに対する、現在の評価だ。
正直なところ、喉から手が出るほど欲しい人材である。
だが、残念なことに、ハオリュウは鷹刀一族と懇意にしている。カイウォルとは相容れぬ、『裏』の王家を名乗る、あの一族と。
その証拠に、彼の溺愛する異母姉メイシアが、あの鷹刀セレイエの異父弟、ルイフォンのもとにいる。何がどう繋がってそうなったのかは、まるで不明なのだが、これは厳然たる事実だ。
「〈七つの大罪〉と鷹刀一族……」
神殿とは関わりのなかったカイウォルにとって、どちらも謎に包まれた存在だった。先日、鷹刀セレイエの父親、エルファンに釘を差されて以来、扱いには慎重になっている。
「それから……、『デヴァイン・シンフォニア計画』――でしたね」
現女王――カイウォルの妹アイリーが、十五歳の誕生日を迎える少し前。
鷹刀セレイエの〈影〉となった、侍女のホンシュアが、カイウォルの前に現れた。彼女は、殺されたライシェンを、ヤンイェンと女王の間の御子として――次代の王として、誕生させるのだと告げた。
「……貴女の身勝手に、この国を巻き込まないでください」
人を惹きつけてやまないはずの蠱惑の旋律が、ひび割れた音色で奏でられた。
~ 第二章 了 ~