残酷な描写あり
2.高楼の雲上人たち-2
ヤンイェンに案内された隣室は、控え室のような場所らしく、ゆったりとした豪奢なソファーと繊細な彫刻の施された小さなテーブル、そして、全身が映るような立派な姿見が置かれていた。
いずれも最高級の逸品であるが、そんなものに気後れするようなルイフォンではない。彼は、できるだけ鏡から目を背けつつ、勧められるままに、堂々とソファーに腰を下ろす。
その瞬間、ヤンイェンの気配が、わずかに揺らいだ。
王族のヤンイェンよりも先に座ったのが、まずかったのだろうか。しかし、『どうぞ』と言ったよな? と、ルイフォンは不審げに顔をしかめる。
「セレイエには男兄弟しかいないと聞いていたから、従姉の『ミンウェイ』が来てくれたのかと思っていたのだけれど……」
「は?」
唐突に響いてきた、戸惑いに揺れる音律に、ルイフォンは反射的に眉を跳ね上げた。
「『ミンウェイ』は、確かセレイエよりも年上のはずだし、では、君はいったい誰なのか、ずっと悩んでいたよ。まさかと思って、その可能性は否定していたのだけどね。――『ルイフォン』?」
肩をすくめるようにも見える仕草で、ヤンイェンが姿見を示す。
ルイフォンが先ほど意識的に目をそらした鏡の中では、可憐なる美少女が豪快にどっかりと、大きく足を開いてソファーに座っていた。
「――!」
ルイフォンは、頭を抱え、ぐしゃぐしゃと前髪を掻き上げ……そうになり、すんでのところで思いとどまる。今日の彼の髪型は、ユイランの仲良しの美容師の手による芸術品なので、おいそれと崩してはならないのだ。
「ルイフォン……だね? セレイエの異父弟の」
失態と取り乱し、返事の遅れたルイフォンに、ヤンイェンは「ここは、王が使う部屋だから、盗聴器や監視カメラの心配は要らないよ」とそっと囁く。
そういう問題ではないのだが、ともあれ、説明をせずとも素性を察してもらえたなら、話が早くて助かったと解釈すべきだろう。
ルイフォンは地声のテノールで「ああ」と肯定する。万一のときのために少しだけ練習をしておいた、高めの裏声は必要ない。――鏡像の『美少女』が、どんなに儚げで可愛らしくとも、だ。
「ルイフォン……。……さすが異父弟だな。セレイエに、そっくりだ……」
まるで膝から崩れるように、ヤンイェンは向かいのソファーに腰を下ろした。肩を丸めてうなだれ、ルイフォンが気づいたときには、それまでの飄々とした端麗な美貌が、悲痛に歪んでいた。
祈るように組み合わされた指先に目線を落とし、ヤンイェンは独り言つ。
「何から訊いたら……、何から話したら……いいんだろう……。……ああ、いや。何よりも先に、私は君に謝るべきだ……」
「謝る?」
「セレイエは、私のせいで死んだ」
不意に上げられた陰りを帯びた面差しと、深潭の闇を凝縮したような黒い視線。
行き場のない憎悪をもてあますかのように、ヤンイェンは奥歯を噛みしめる。
「私と出逢ったから、――私が愛したから、彼女は死んだ」
険しさすら感じる音律で、ヤンイェンは断言する。
「けれど、私は彼女と出逢ったことも、彼女を愛したことも、後悔していない。……彼女が死んだことだけを後悔している」
「ヤンイェン……」
相手の名を呟いてから、『殿下』という敬称を付け加えなければ不敬罪になることに、ルイフォンは気づいた。だが、当の本人が気にしている様子もないので、そのまま口をつぐむ。
ルイフォンの顔を見つめ、ヤンイェンは切なげに微笑む。
まるで、哭いているかのように。
「セレイエは、私が殺したも同然だよ。……異父弟の君には、私を恨む権利がある」
「……」
ルイフォンは唇を噛み、ゆっくりと首を振った。
「俺には、あなたに謝ってもらうようなことは何もない」
ヤンイェンに会ったら、何を差し置いても『デヴァイン・シンフォニア計画』の話をせねばと、そればかりを考えていた。『ライシェン』に示されたふたつの未来――『王』と『平凡な子供』。父親として、そのどちらを望むのか。
それから、セレイエが命と引き替えに手に入れたライシェンの記憶について、ルイフォンたちの姿勢を明確に示す。
すなわち、『ライシェン』の肉体に記憶を入れるために、誰かを〈天使〉にすることには反対であること。そもそも、死者を蘇らせるような、自然の理に反する〈七つの大罪〉の技術に対しては否定的であることを鮮明にする。
その結果、ヤンイェンと敵対することになったとしても、それはそれで構わない。――そういう肚だった。
だが――。
……違うだろ。
ルイフォンは口元を引き締め、猫背を伸ばす。
「ヤンイェン。セレイエを――異父姉を愛してくれて、ありがとうございました」
異父姉は、幸せだった。
最期がどうであれ、彼女に後悔はなかった。
だから、異父弟として、義兄に初めに言うべき言葉は、感謝だ。たとえ、その先の話し合いで決別したとしても、それが礼儀だ。
「ルイフォン……」
頭を下げたルイフォンに、ヤンイェンの瞳が驚きに見開かれる。やがて、そっと目を伏せ、「そう言ってくれて、ありがとう」と、深みのある声が落とされた。
哀悼の空気の中で、ルイフォンは静かにテノールを響かせる。
「俺とセレイエは、わりと歳の離れた異父姉弟で、セレイエは、俺が十歳になる前には家を出ていた。けど、幼いころの思い出は、それなりにある」
感傷的なことを言うのは、自分らしくないなと、内心で苦笑しつつ、ルイフォンの口は自然に動いた。初対面のヤンイェンが、あまりにも自然に、親しげに『ルイフォン』と名を呼ぶから、異父弟としての、異父姉への思いを告げたいと思ったのだ。きっと異父姉は、何度もヤンイェンに、異父弟のことを語ったのであろうから――。
「セレイエは、ずっと年下の子供の俺を相手に、いつも本気でクラッキング勝負を仕掛けてくるような異父姉だった。俺のほうも、絶対にセレイエを負かしてやると躍起になって噛みついた。――なんのかんの言って、対等に扱ってくれるセレイエが、俺は好きだった」
仲の良い姉弟だったと思う。
我儘で自己中心的なくせに、詰めのところで厳しくなりきれない、脆さと優しさを持った異父姉。緻密で巧妙なプログラムを得意とするくせに、本人は完璧とは、ほど遠く。『細かいことは気にしない!』と、姉弟の声が揃うのが不思議と楽しかった。
「セレイエが家を出てからは、顔を合わせるのは、ごくたまに、セレイエが気まぐれに実家に帰ってきたときくらいになった」
すぐそばにいたはずの異父姉は、次第に知らない人になっていった。
「セレイエは、自分が外で何をしているのか、俺にはまるで語らなかった。俺も薄情な子供で、セレイエの暮らしになんて、まったく興味がなかった。セレイエは独立したんだから、セレイエの自由だろ、って。――疑問にすら思わなかった」
ルイフォンの声が沈む。愚かな子供だったと。
「今なら分かる。〈七つの大罪〉に身を置いたセレイエは、俺には迂闊なことを言えなかっただけだ」
これは、ルイフォンの後悔だ。
もう少し、自分が積極的に情報を得ていれば、今とは違った未来があったのではないか――と。
「思い返せば、俺が布団に入るのを見計らうようにして、母さんとセレイエが口論を始めることが何度もあった。せっかく実家に帰ってきたのに、セレイエの奴、何やってんだよ? って、思っていた。そのうち、母さんが『セレイエは貴族の男と駆け落ちした』なんて言い出すから、『ああ、なるほど……』なんて、納得しちまっていた」
胸の奥が痛み、喉が熱くなっているのを感じた。
それを堪えて、ルイフォンは言を継ぐ。
「ヤンイェン。さっき、あなたは『セレイエは死んだ』と言った。……セレイエは、最後に、あなたに逢うことができたんだな?」
メイシアが受け取ったホンシュアの記憶からでは、セレイエの最期は確認できない。
だから、問う。
セレイエは思い残すことなく、逝くことができたのか。
……セレイエは、本当にもう、この世の人間ではないのか。
「ああ。――そうだよ」
ヤンイェンの喉が、苦しげに、こくりと動いた。
「セレイエは、最後に私のところに来てくれた。私の腕の中で……息を引き取った」
両手を見つめ、失われた想い人を包み込むかのように虚空を掻き抱き、ヤンイェンは静かに告げる。
「セレイエの亡骸は、密かにライシェンの霊廟に移した。私は幽閉の身だったけれど、少しくらいは私に融通をきかせてくれる者もいたから、母子を一緒に眠らせるくらいのことはしてやれた」
切なげに語るヤンイェンの言葉に、ルイフォンは固く拳を握りしめた。
セレイエの死は、とうの昔に受け入れていたはずだった。
なのに、激しく動揺している自分に驚く。
やはり、心の片隅では、セレイエの死を信じていなかったのだろう。それが、ヤンイェンの証言によって、一縷の望みも絶たれたのだ。
「ヤンイェン……、俺の異父姉をありがとな」
絞り出すようにして声を出し、ルイフォンは無理やりに口角を上げる。
「セレイエの奴、最後まで自分の好きなように、我儘を通しやがった……」
テノールの語尾が、独白として立ち消えようとしたとき……。
――その声をすくい上げるかのように、ヤンイェンが頭を振った。
「まだ、『最後』ではないだろう?」
それまでとは打って変わった、不可思議な強さを持った声色だった。
急に雰囲気の変わったヤンイェンに、ルイフォンは「え?」と瞳を瞬かせる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』」
ヤンイェンの口から紡がれた声は、麗らかな日和を思わせる、優しげな響きで。
けれど、ルイフォンの思考は、蠱惑の音律に魅入られたように凍りつく。
「君は、セレイエの遺した『デヴァイン・シンフォニア計画』を知っているのだろう? そうでなければ、私のところに来たりはしないはずだ」
「!」
ルイフォンの背に戦慄が走った。
猫の目に、知れず、鋭い光が宿る。
――ヤンイェンは、やはり、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを知っていた。
ハオリュウが推測した通り、セレイエは最後に、自分の命と引き替えに組み上げた『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを、ヤンイェンに伝えてから死んだのだ。
――となれば、ヤンイェンは、どう動く……?
ルイフォンの体は無意識に強張り、身構える。
「君の性格は、セレイエからよく聞いている。――だからね。君が私の前に現れたときには、私は君に罵倒されるのだろうと、覚悟していたよ」
「……は?」
微笑みを崩さぬまま、朗らかに打ち明けるヤンイェンに、ルイフォンは目を点にした。
目の前の御仁は、穏やかで理性的に見えるのだが、掴みどころがない。そういえば、メイシアから初めてヤンイェンのことを聞いたとき『浮世離れした不思議な方』と言っていたような気がする。
「だって、よく考えてごらんよ。セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』を作ったのは、私が先王陛下を殺害したことが原因だろう?」
「あ? そうか……、そうなるのか……」
ヤンイェンとセレイエは、ライシェンが殺されてすぐのころから蘇生を計画していたが、それは、三人でひっそりと暮らすためだったと、記憶を受け取ったメイシアから聞いている。『デヴァイン・シンフォニア計画』のような、国を巻き込むような大掛かりなことは考えていなかったと。
つまり、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、独りきりになってしまったセレイエが、失った過去を取り戻し、幽閉された未来を救うためのものなのだ。
「ルイフォン」
にこやかな呼びかけに、ルイフォンは異次元へと飛びかけていた意識を慌ててもとに戻す。
「君にとっての私は、必ずしも、好意的に受け入れられる人間ではないはずだ」
「へ!?」
声色を裏切るような台詞に、ルイフォンの口から、思わず滑稽なほどに間抜けな声が飛び出た。そんな彼にヤンイェンは、変わらぬ調子のまま、「そんな、大げさな反応をしないでおくれよ」と、困ったように苦笑を漏らす。
「君にしてみれば、『デヴァイン・シンフォニア計画』なんて厄介ごとでしかなくて、その原因となった私は、迷惑そのものだ。……だからね、初めに君と、わだかまりなく、セレイエの話ができて嬉しかったよ」
わずかに照れたような、典麗な仕草で黒髪を掻き上げ、ヤンイェンは口元をほころばせる。
しかし――。
「でも、ここまでだ」
穏やかなのに、どこか冷淡な、蠱惑の音律。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、おかしなことになっているのだろう?」
ヤンイェンは眉根を寄せ、瞳に陰りを落とした。細められた目線の先は、ルイフォンが身に着けている、セレイエのペンダントに向けられている。
「君のもとに、そのペンダントがある以上、君とメイシアさんの出逢いは無事に果たされたはずだ。けれど、メイシアさんは身を投げ、助けようとした父君のコウレンさんまでもが崖から落ちて亡くなったと聞いた。――いったい、何が起きているんだ?」
ヤンイェンはルイフォンの顔を覗き込むように首を傾けた。緩やかにまとめられていた髪が、はらりとひと房、頬に落ち、濃い影を作る。
「君が、私のもとを訪れたのは、『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を伝えるため。――違うかい?」
「!」
ヤンイェンとの会話は、雑談の小径を通り抜けながらも、きちんと本来の目的地に向かっていたようであった。
いずれも最高級の逸品であるが、そんなものに気後れするようなルイフォンではない。彼は、できるだけ鏡から目を背けつつ、勧められるままに、堂々とソファーに腰を下ろす。
その瞬間、ヤンイェンの気配が、わずかに揺らいだ。
王族のヤンイェンよりも先に座ったのが、まずかったのだろうか。しかし、『どうぞ』と言ったよな? と、ルイフォンは不審げに顔をしかめる。
「セレイエには男兄弟しかいないと聞いていたから、従姉の『ミンウェイ』が来てくれたのかと思っていたのだけれど……」
「は?」
唐突に響いてきた、戸惑いに揺れる音律に、ルイフォンは反射的に眉を跳ね上げた。
「『ミンウェイ』は、確かセレイエよりも年上のはずだし、では、君はいったい誰なのか、ずっと悩んでいたよ。まさかと思って、その可能性は否定していたのだけどね。――『ルイフォン』?」
肩をすくめるようにも見える仕草で、ヤンイェンが姿見を示す。
ルイフォンが先ほど意識的に目をそらした鏡の中では、可憐なる美少女が豪快にどっかりと、大きく足を開いてソファーに座っていた。
「――!」
ルイフォンは、頭を抱え、ぐしゃぐしゃと前髪を掻き上げ……そうになり、すんでのところで思いとどまる。今日の彼の髪型は、ユイランの仲良しの美容師の手による芸術品なので、おいそれと崩してはならないのだ。
「ルイフォン……だね? セレイエの異父弟の」
失態と取り乱し、返事の遅れたルイフォンに、ヤンイェンは「ここは、王が使う部屋だから、盗聴器や監視カメラの心配は要らないよ」とそっと囁く。
そういう問題ではないのだが、ともあれ、説明をせずとも素性を察してもらえたなら、話が早くて助かったと解釈すべきだろう。
ルイフォンは地声のテノールで「ああ」と肯定する。万一のときのために少しだけ練習をしておいた、高めの裏声は必要ない。――鏡像の『美少女』が、どんなに儚げで可愛らしくとも、だ。
「ルイフォン……。……さすが異父弟だな。セレイエに、そっくりだ……」
まるで膝から崩れるように、ヤンイェンは向かいのソファーに腰を下ろした。肩を丸めてうなだれ、ルイフォンが気づいたときには、それまでの飄々とした端麗な美貌が、悲痛に歪んでいた。
祈るように組み合わされた指先に目線を落とし、ヤンイェンは独り言つ。
「何から訊いたら……、何から話したら……いいんだろう……。……ああ、いや。何よりも先に、私は君に謝るべきだ……」
「謝る?」
「セレイエは、私のせいで死んだ」
不意に上げられた陰りを帯びた面差しと、深潭の闇を凝縮したような黒い視線。
行き場のない憎悪をもてあますかのように、ヤンイェンは奥歯を噛みしめる。
「私と出逢ったから、――私が愛したから、彼女は死んだ」
険しさすら感じる音律で、ヤンイェンは断言する。
「けれど、私は彼女と出逢ったことも、彼女を愛したことも、後悔していない。……彼女が死んだことだけを後悔している」
「ヤンイェン……」
相手の名を呟いてから、『殿下』という敬称を付け加えなければ不敬罪になることに、ルイフォンは気づいた。だが、当の本人が気にしている様子もないので、そのまま口をつぐむ。
ルイフォンの顔を見つめ、ヤンイェンは切なげに微笑む。
まるで、哭いているかのように。
「セレイエは、私が殺したも同然だよ。……異父弟の君には、私を恨む権利がある」
「……」
ルイフォンは唇を噛み、ゆっくりと首を振った。
「俺には、あなたに謝ってもらうようなことは何もない」
ヤンイェンに会ったら、何を差し置いても『デヴァイン・シンフォニア計画』の話をせねばと、そればかりを考えていた。『ライシェン』に示されたふたつの未来――『王』と『平凡な子供』。父親として、そのどちらを望むのか。
それから、セレイエが命と引き替えに手に入れたライシェンの記憶について、ルイフォンたちの姿勢を明確に示す。
すなわち、『ライシェン』の肉体に記憶を入れるために、誰かを〈天使〉にすることには反対であること。そもそも、死者を蘇らせるような、自然の理に反する〈七つの大罪〉の技術に対しては否定的であることを鮮明にする。
その結果、ヤンイェンと敵対することになったとしても、それはそれで構わない。――そういう肚だった。
だが――。
……違うだろ。
ルイフォンは口元を引き締め、猫背を伸ばす。
「ヤンイェン。セレイエを――異父姉を愛してくれて、ありがとうございました」
異父姉は、幸せだった。
最期がどうであれ、彼女に後悔はなかった。
だから、異父弟として、義兄に初めに言うべき言葉は、感謝だ。たとえ、その先の話し合いで決別したとしても、それが礼儀だ。
「ルイフォン……」
頭を下げたルイフォンに、ヤンイェンの瞳が驚きに見開かれる。やがて、そっと目を伏せ、「そう言ってくれて、ありがとう」と、深みのある声が落とされた。
哀悼の空気の中で、ルイフォンは静かにテノールを響かせる。
「俺とセレイエは、わりと歳の離れた異父姉弟で、セレイエは、俺が十歳になる前には家を出ていた。けど、幼いころの思い出は、それなりにある」
感傷的なことを言うのは、自分らしくないなと、内心で苦笑しつつ、ルイフォンの口は自然に動いた。初対面のヤンイェンが、あまりにも自然に、親しげに『ルイフォン』と名を呼ぶから、異父弟としての、異父姉への思いを告げたいと思ったのだ。きっと異父姉は、何度もヤンイェンに、異父弟のことを語ったのであろうから――。
「セレイエは、ずっと年下の子供の俺を相手に、いつも本気でクラッキング勝負を仕掛けてくるような異父姉だった。俺のほうも、絶対にセレイエを負かしてやると躍起になって噛みついた。――なんのかんの言って、対等に扱ってくれるセレイエが、俺は好きだった」
仲の良い姉弟だったと思う。
我儘で自己中心的なくせに、詰めのところで厳しくなりきれない、脆さと優しさを持った異父姉。緻密で巧妙なプログラムを得意とするくせに、本人は完璧とは、ほど遠く。『細かいことは気にしない!』と、姉弟の声が揃うのが不思議と楽しかった。
「セレイエが家を出てからは、顔を合わせるのは、ごくたまに、セレイエが気まぐれに実家に帰ってきたときくらいになった」
すぐそばにいたはずの異父姉は、次第に知らない人になっていった。
「セレイエは、自分が外で何をしているのか、俺にはまるで語らなかった。俺も薄情な子供で、セレイエの暮らしになんて、まったく興味がなかった。セレイエは独立したんだから、セレイエの自由だろ、って。――疑問にすら思わなかった」
ルイフォンの声が沈む。愚かな子供だったと。
「今なら分かる。〈七つの大罪〉に身を置いたセレイエは、俺には迂闊なことを言えなかっただけだ」
これは、ルイフォンの後悔だ。
もう少し、自分が積極的に情報を得ていれば、今とは違った未来があったのではないか――と。
「思い返せば、俺が布団に入るのを見計らうようにして、母さんとセレイエが口論を始めることが何度もあった。せっかく実家に帰ってきたのに、セレイエの奴、何やってんだよ? って、思っていた。そのうち、母さんが『セレイエは貴族の男と駆け落ちした』なんて言い出すから、『ああ、なるほど……』なんて、納得しちまっていた」
胸の奥が痛み、喉が熱くなっているのを感じた。
それを堪えて、ルイフォンは言を継ぐ。
「ヤンイェン。さっき、あなたは『セレイエは死んだ』と言った。……セレイエは、最後に、あなたに逢うことができたんだな?」
メイシアが受け取ったホンシュアの記憶からでは、セレイエの最期は確認できない。
だから、問う。
セレイエは思い残すことなく、逝くことができたのか。
……セレイエは、本当にもう、この世の人間ではないのか。
「ああ。――そうだよ」
ヤンイェンの喉が、苦しげに、こくりと動いた。
「セレイエは、最後に私のところに来てくれた。私の腕の中で……息を引き取った」
両手を見つめ、失われた想い人を包み込むかのように虚空を掻き抱き、ヤンイェンは静かに告げる。
「セレイエの亡骸は、密かにライシェンの霊廟に移した。私は幽閉の身だったけれど、少しくらいは私に融通をきかせてくれる者もいたから、母子を一緒に眠らせるくらいのことはしてやれた」
切なげに語るヤンイェンの言葉に、ルイフォンは固く拳を握りしめた。
セレイエの死は、とうの昔に受け入れていたはずだった。
なのに、激しく動揺している自分に驚く。
やはり、心の片隅では、セレイエの死を信じていなかったのだろう。それが、ヤンイェンの証言によって、一縷の望みも絶たれたのだ。
「ヤンイェン……、俺の異父姉をありがとな」
絞り出すようにして声を出し、ルイフォンは無理やりに口角を上げる。
「セレイエの奴、最後まで自分の好きなように、我儘を通しやがった……」
テノールの語尾が、独白として立ち消えようとしたとき……。
――その声をすくい上げるかのように、ヤンイェンが頭を振った。
「まだ、『最後』ではないだろう?」
それまでとは打って変わった、不可思議な強さを持った声色だった。
急に雰囲気の変わったヤンイェンに、ルイフォンは「え?」と瞳を瞬かせる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』」
ヤンイェンの口から紡がれた声は、麗らかな日和を思わせる、優しげな響きで。
けれど、ルイフォンの思考は、蠱惑の音律に魅入られたように凍りつく。
「君は、セレイエの遺した『デヴァイン・シンフォニア計画』を知っているのだろう? そうでなければ、私のところに来たりはしないはずだ」
「!」
ルイフォンの背に戦慄が走った。
猫の目に、知れず、鋭い光が宿る。
――ヤンイェンは、やはり、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを知っていた。
ハオリュウが推測した通り、セレイエは最後に、自分の命と引き替えに組み上げた『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを、ヤンイェンに伝えてから死んだのだ。
――となれば、ヤンイェンは、どう動く……?
ルイフォンの体は無意識に強張り、身構える。
「君の性格は、セレイエからよく聞いている。――だからね。君が私の前に現れたときには、私は君に罵倒されるのだろうと、覚悟していたよ」
「……は?」
微笑みを崩さぬまま、朗らかに打ち明けるヤンイェンに、ルイフォンは目を点にした。
目の前の御仁は、穏やかで理性的に見えるのだが、掴みどころがない。そういえば、メイシアから初めてヤンイェンのことを聞いたとき『浮世離れした不思議な方』と言っていたような気がする。
「だって、よく考えてごらんよ。セレイエが『デヴァイン・シンフォニア計画』を作ったのは、私が先王陛下を殺害したことが原因だろう?」
「あ? そうか……、そうなるのか……」
ヤンイェンとセレイエは、ライシェンが殺されてすぐのころから蘇生を計画していたが、それは、三人でひっそりと暮らすためだったと、記憶を受け取ったメイシアから聞いている。『デヴァイン・シンフォニア計画』のような、国を巻き込むような大掛かりなことは考えていなかったと。
つまり、『デヴァイン・シンフォニア計画』は、独りきりになってしまったセレイエが、失った過去を取り戻し、幽閉された未来を救うためのものなのだ。
「ルイフォン」
にこやかな呼びかけに、ルイフォンは異次元へと飛びかけていた意識を慌ててもとに戻す。
「君にとっての私は、必ずしも、好意的に受け入れられる人間ではないはずだ」
「へ!?」
声色を裏切るような台詞に、ルイフォンの口から、思わず滑稽なほどに間抜けな声が飛び出た。そんな彼にヤンイェンは、変わらぬ調子のまま、「そんな、大げさな反応をしないでおくれよ」と、困ったように苦笑を漏らす。
「君にしてみれば、『デヴァイン・シンフォニア計画』なんて厄介ごとでしかなくて、その原因となった私は、迷惑そのものだ。……だからね、初めに君と、わだかまりなく、セレイエの話ができて嬉しかったよ」
わずかに照れたような、典麗な仕草で黒髪を掻き上げ、ヤンイェンは口元をほころばせる。
しかし――。
「でも、ここまでだ」
穏やかなのに、どこか冷淡な、蠱惑の音律。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、おかしなことになっているのだろう?」
ヤンイェンは眉根を寄せ、瞳に陰りを落とした。細められた目線の先は、ルイフォンが身に着けている、セレイエのペンダントに向けられている。
「君のもとに、そのペンダントがある以上、君とメイシアさんの出逢いは無事に果たされたはずだ。けれど、メイシアさんは身を投げ、助けようとした父君のコウレンさんまでもが崖から落ちて亡くなったと聞いた。――いったい、何が起きているんだ?」
ヤンイェンはルイフォンの顔を覗き込むように首を傾けた。緩やかにまとめられていた髪が、はらりとひと房、頬に落ち、濃い影を作る。
「君が、私のもとを訪れたのは、『デヴァイン・シンフォニア計画』の現状を伝えるため。――違うかい?」
「!」
ヤンイェンとの会話は、雑談の小径を通り抜けながらも、きちんと本来の目的地に向かっていたようであった。