残酷な描写あり
天命の楔
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する〈神の御子〉。
天空神フェイレンの姿を写して生まれた彼の者が、神の代理人として、国を治める王となる。
それが、創世神話に記されし、我が大華王国の金科玉条である。
裏を返せば、たとえ王の子として生まれようとも、神の異色を持たぬ者には、王位継承権は与えられないということだ。
〈神の御子〉が数多く存在した古き時代においては、この制度に、なんの支障もなかった。しかし、世代を重ね、〈神の御子〉が生まれにくくなってくると、次代の王を産み出すことは、王に課せられた重大な使命となっていった。
その結果、『過去の王のクローン』を世継ぎとする王が出てきたのは、必然だったといえよう。
我が父シルフェンも、そうして作り出された『過去の王のクローン』だった。
王位を継ぐためだけに生を享けた彼は、『親』である父王から、ひとかけらの愛情も注がれなかったという。なれば、己の出自を疎んだ彼が、自分は決してクローンには手を出すまいと心に誓ったとしても、なんの不思議もなかろう。
そんな彼に胸を痛めていたのが、彼より十歳ほど年長の『姉』にあたる、〈神の御子〉の王女だった。
古くは、王は男子と決められていたが、近代では『仮初めの王』として、女子が玉座に就くこともできる。つまり、彼女は、『弟』が生まれなければ、王冠を戴く運命だった。
しかし、女王は軽んじられる上に、早く次代の〈神の御子〉を産むよう強要される。それを不憫に思った父王が、『弟』を作ったというわけだ。
いわば、自分の身代わりとして生まれた『弟』に、『姉』は深い罪悪感を抱いた。そして、有力な貴族に降嫁されるまで、ひたむきに『弟』を可愛がった。
そして、月日は流れ――。
王の崩御により、『弟』は即位し、新たな王となる。
それと前後して、彼は降嫁した『姉』が、婚家で虐げられていることを知った。ほぼ盲目であった彼女は幽閉同然の扱いを受け、また、〈神の御子〉を産むようにと責め立てられていたらしい。
彼は、彼女を夫と離縁させ、身分も王族に戻して、神殿に常駐する神官長に任命した。
一方、王となった彼も、世継ぎの〈神の御子〉に恵まれずに困っていた。子供は、王妃との間に娘がふたり。他に、複数の愛妾が、男女合わせて幾人も子を産んだが、皆、黒髪黒目であった。
そこで、『姉』は『弟』に申し出る。
〈神の御子〉同士であれば、〈神の御子〉の子供が生まれる確率は、ぐっと高くなる。あまり丈夫ではない自分の体は、四人の娘の出産で疲弊しているが、あとひとりならば産めると医者は言っている。
『だから、賭けてみませんか?』
そうして、私が生まれた。
戸籍上は、〈神の御子〉の元王女が、夫と離縁する直前に宿した子。
一部の人間の推測の中では、〈神の御子〉を求めた王が、実姉を手籠めにして産ませた、禁忌の子。
父と母が、縋る思いで、私に一縷の望みを託したというのに、私は、白金の髪と青灰色の瞳を持って生まれてくることができなかった。
勿論、誰も私を責めたりはしない。それどころか、愛しまれたと思う。
私の両親は、とても優しい気質の人間なのだ。
王妃の長男と、私の誕生日が、ほぼ同じであるのも、その一端だ。私が〈神の御子〉として生まれた暁には、王妃が双子を産んだことにして、妃としての立場を守ってやろうと画策していたのだ。
そんな気遣いを王妃がどう感じたかは、私は知らない。ただ、少なくとも、成長した長男が、『双子』になるはずだった『異母兄弟』を毛嫌いしていることは事実であると思う。
たとえ歪みがあったとしても、私の誕生には、確かに愛があった。
けれど――。
両親の期待を裏切って、黒髪黒目で生まれてきた私に、いったい、なんの価値があるというのだろう?
時が過ぎ、王妃が〈神の御子〉の女子を出産し、力尽きたように息を引き取った。やっと責務を果たせたと、穏やかな顔で眠りについたまま目覚めなかったのだという。
残された〈神の御子〉の王女の将来を憂い、私の母は、何かにつけて彼女を神殿に招いては世話を焼いた。
私も、歳の離れた異母妹を可愛がった。彼女は、私の代わりに〈神の御子〉として生まれてきたような気がして、なんとかして彼女に報いたいと思った。
私の母が、父に抱いた罪悪感のような気持ちを、私も異母妹に対して感じていたのかもしれない。
そして、私が二十歳になったころ。
体の弱かった母が亡くなり、私が神官長――すなわち、〈七つの大罪〉の事実上の最高責任者――の位に就いた。
〈七つの大罪〉に新たな〈悪魔〉を迎える、という連絡が入ったのは、それから、まもなくのことであった。
神殿の『天空の間』で、新入りの〈悪魔〉が私の目通りを待っている。
私は、なんとも名状しがたい気持ちで、その場へと向かっていた。
〈悪魔〉になりたい、などと申し出る者は、どこか心が欠けているものだ。そうでなければ、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術と引き換えだとしても、『契約』を結んだりはしない。
だが、今度の〈悪魔〉は極めて異例、極めて異色の経歴の持ち主なのだ。
私は事前に渡された調査書の内容を反芻し、眉間に皺を寄せながら、天空の間の白い扉を開いた。
「――!?」
その瞬間、私は息を呑んだ。
純白の部屋に、白金の光が広がっていた。
互いに絡み合い繋がり合う、数多の白金の糸が、その輝きを強く弱くと、変化させながら、舞うように揺らめく。
まるで、光を紡いで作られた翼が、羽ばたくが如く……。
幻想的な光景に魅入られ、惹き寄せられるように光の流れを辿れば、そこに、白金の羽をまとった、神々しいばかりの天使がいた。
そう――。
彼女は、〈天使〉だ。
この世で唯一の、生まれながらの〈天使〉、鷹刀セレイエ。
かつて、実験体でありながら、〈天使〉の力を自在に使いこなしたことによって、〈七つの大罪〉で大きな権力を握った『伝説の〈天使〉、〈猫〉』の娘。
そして、彼女の足元には、ひとりの男が転がされていた。〈七つの大罪〉の要注意人物として、ブラックリストに載っている〈悪魔〉だ。彼は、セレイエの背から放たれた光の糸に絡め取られ、拘束されていた。
どうやら、新顔の噂を聞きつけ、この天空の間を訪れたらしい。
好奇心が強いことは、〈悪魔〉として、決して悪いことではないのだが、如何せん、問題行動の多い男だ。おおかた、セレイエに、ちょっかいを出して返り討ちにあった、というところだろう。意識を失っているようで、ぴくりとも動かない。
「君が新しく加わった〈悪魔〉? 私はヤンイェン。〈七つの大罪〉の運営を一任されている。よろしく」
この状況において、初めの挨拶が定型文でよいのかと自問しながら、私は周囲に『人当たりがよい』と言われる麗らかな笑顔を彼女に向けた。生い立ちのせいか、私は自分の『個人』としての感情を表に出すことを、己に禁じているふしがあるらしい。
のちに、このときの私について、セレイエは『変な人だと思った』と明かしてくれた。
『怒られるかと思ったのよね。〈天使〉の力は、むやみに使うなと、よく母に叱られていたから。でも、何も言われなかったから、じゃあ、神官長は何ごとにも動じない人なのかしら? と思ったのだけど……、でも、違ったわね?』――と。
……ともあれ。
私に声を掛けられた彼女は、艶やかな黒髪をなびかせ、振り返る。
「こちらこそ。私は、鷹刀セレイエ。知っていると思うけど、〈猫〉の娘で、もと〈悪魔〉の〈獅子〉の孫にあたるわ」
覇気に満ちた瞳が印象的な、とても美しい少女だった。
歳は、もうすぐ十五歳になると、調査書にあった。だが、彫像のように整った面差しは、彼女をもう少し年上に見せた。もっとも、繊細な硝子細工のような体つきからすると、やはりそのくらいの年齢で正しいのだろう。
「さっそくだけど、〈七つの大罪〉での注意事項などを……」
私は、彼女をソファーへと促そうとして、そのためには、まず、床の男をどうにかすべきだと気づく。誰か人を呼ぶか、と思案していると、彼女がくすりと笑った。
「彼から情報を貰ったから、〈七つの大罪〉のことなら、だいたい分かっているわ」
彼女は拘束した男に目線を落とし、それから、彼と自身とを繋ぐ羽を示す。
「!」
〈天使〉とは、羽――すなわち、背中から放たれる白金の糸を接続装置にして、人間の脳という記憶装置に侵入するクラッカーだ。彼女にとって、羽で拘束した〈悪魔〉から、〈七つの大罪〉の情報を入手するのは容易いことだろう。
しかし、羽は、限度を超えて酷使すれば、熱暴走を起こす。そのまま、死に至ることだって珍しくもないのだ。むやみに使うものではない。
顔色を変えた私に、セレイエは得意げに口角を上げた。
「このくらいなら、まったく問題ないわ。私にとっては、呼吸をするようなものよ」
紅を塗っていない唇が、ぞくりと妖しく光る。それは、魔性と呼ばれる鷹刀一族の血筋ゆえか。
当惑する私に、彼女は重ねて告げる。
「とても不思議なのよ。この神殿に来てから、羽から力が溢れてくるの。懐かしいような、温かな感じがして……。なのに、その逆の、肌が粟立つような感覚もあるのよ」
彼女の言葉に、私は、はっとした。
「そうか。君は〈冥王〉の影響を受けやすいんだね」
彼女の出自は、特殊なのだ。〈冥王〉から力を与えられるものと、奪われるもの。両方の血を引いている。
「『〈冥王〉』?」
「ああ、それは……」
どのように説明すれば、分かりやすいだろうか。
私が即答できないでいるうちに、彼女の「なるほどね」という声が響く。
「〈天使〉の羽の根源は、〈冥王〉なのね。だから、神殿では、楽に力を振るえる。――けど、私の中の鷹刀の血が、血族を喰らってきた〈冥王〉を警戒している」
端的にまとめられた内容に、私が目を見開くと、彼女は床に転がる男を細い顎でしゃくる。
「彼から得た情報をもとに、推測しただけよ」
明晰な頭脳を披露した彼女は、自信家の顔を覗かせる。そんなところは、年相応で可愛らしく思えた。
「凄いね、君は」
微笑ましさに、素直な気持ちで呟けば、彼女は嬉しそうに口元を緩めた。
「王族の負荷を分散させるために誕生した連携構成、〈冥王〉――ね。凄く興味深いわ。やはり、〈七つの大罪〉は面白いわね」
それから、彼女は、きらきらと輝く瞳で、私を見上げる。
「私は自分の力について知りたいの。――母は、〈天使〉の力を暴走させないための知識は教えてくれても、それ以上のことは口を閉ざすから。だから、私は〈七つの大罪〉に来たのよ。まず初めに、母を〈天使〉にした〈蠍〉という〈悪魔〉の研究報告書を見たいわ」
無邪気な探究心が、彼女を駆り立てているのだと思った。
だが、それは私の勘違いだと、じきに気づいた。
〈七つの大罪〉から資金を渡された〈悪魔〉たちは、好きな場所に、自分の研究所を構えるのが通例だ。けれど、セレイエには、表向きは『神官長付きの神官』という役職を与えて、神殿に住まわせた。
彼女の当面の目的が〈蠍〉の研究の解析であるため、個人の研究所を持つよりも〈七つの大罪〉のデータベースのある神殿で活動するほうが理に適っていたし、しっかりしているようには見えるが、やはり、こんな年若い少女をひとりにする気にはなれなかったのだ。
〈悪魔〉となった彼女には、〈蛇〉の名が与えられた。しかし、私は彼女をセレイエの名で呼んでいた。
「私は、自分を否定したくないから、〈七つの大罪〉に入ったのよ」
セレイエが〈悪魔〉となってから、しばらく経ったころ。
彼女は、ふと、そんなことを言った。
「私は三歳のときに、初めて羽を出したの。異母兄と義姉と私の、子どもたち三人だけで遊びに出かけていたときに、鷹刀と敵対する凶賊に襲われたから……」
彼女の異母兄と義姉は、当時、まだ十歳ほどであったらしい。だが、子供とはいえ、鷹刀の将来の担い手として武術の心得があった。ふたりは、異母妹を守りながら、勇猛果敢に刀を振るったという。
されど、多勢に無勢。そして、幼い異母妹は、どうしたって足手まといになる。彼らは徐々に追い込まれていった。
「血まみれになって倒れる異母兄と義姉を見た瞬間、私の中で何かが弾けたの。気づいたら、背中から光が吹き出していたわ」
淡々とした口調で、無表情な顔で。凪いだ湖面のようなセレイエが告げる。
「私は怒りに任せて、すべての敵の脳に心臓を破裂させる命令を書き込んだの。――訓練もなしに、滅茶苦茶なことをしたのよ。当然、熱暴走を起こして、死線をさまよったわ。……けど、おにいちゃんと、おねえちゃんを守ることができたの」
大人びた雰囲気を持つセレイエの声が、語尾のあたりで幼子のような片言となり、危うげに揺れた。
「セレイエ?」
狼狽する私に構わず、彼女は続ける。
「〈天使〉の力がなかったら、三人とも殺されていたんだから……。――でも、私のせいで、家族は、ばらばらになったのよ」
ぽつりと落とされた告白は、揺れる息に溶けて消えた。
伏せられた瞼は、あまりにも儚く……、私は固唾を呑んで、彼女の話に耳を傾ける。
「私が、凶賊に身を置き続ければ、いつ、また危険な目に遭うとも限らない。次こそは、熱暴走で命を落とすかもしれない――そう言われて、私は母と共に、鷹刀の外に出されたのよ」
彼女が語るところによれば、愛人であった彼女の母は、もうすぐ父と結婚することになっていたらしい。しかも、それを強く勧めていたのが、異母兄の母親である正妻で、離縁の準備中だったという。
今ひとつ理解し難い、複雑な家庭であるが、とても仲が良かったことは間違いない。
その家族が、壊れた。
重い吐息が、部屋の中に沈んでいく。
「異母兄は、今でも後悔しているわ。自分が弱かったために、異母妹が〈天使〉として目覚めてしまったんだ、って。でも、そうじゃない。私は生まれつき〈天使〉だったんだから、この運命は変わらなかったのよ」
何かを払うように頭を振り、彼女は鋭い眼差しで、前を見据えた。
「実験体として、後天的に〈天使〉になった母は、この力を悪しきものとして否定するわ。そのくせ、母は、自分は特別に高い〈天使〉の適性を持っているけど、娘の私は半分だけ――母の血の分だけしか適性がないから、危なっかしい、って言うのよ。でもね、私は初めから〈天使〉だったの。生まれつきよ。この力を含めて、『私』なのよ」
おそらく無意識に、であろう。
彼女は、自分は先天的な〈天使〉なのだ――という意味合いの言葉を繰り返した。
まるで、自分に言い聞かせるかのように。
「私が〈天使〉だと分かったから、家族が、ばらばらになったんじゃないわ。私が、いつ熱暴走を起こすか分からないから、よ。だから、私は、この〈七つの大罪〉で、〈天使〉について研究をするの。〈天使〉は危険じゃないって。……だって、私は『私』で、いいはずなんだから!」
ぐっと顎を突き出し、彼女は好戦的に嗤う。
……けれど、その瞳の奥は揺れていた。
心細さを無理やり隠した、脅えた素顔が透けて見える。
彼女は〈天使〉という、持って生まれた自分の業を受け入れようと、必至に足掻いているのだ。
そして、〈天使〉である自分と向き合うために、〈七つの大罪〉に来た。
自分は無価値だと諦め、無意味に生きてきた私とは違う。
彼女は強い――否。強くあろうとしている。
その生き方に……、――私の魂が震えた。
「辛かったね、セレイエ」
羽を持って、生まれてきたことが。
私が、白金の髪と青灰色の瞳を持たずに生まれてきたことと、同じように。
――刹那。
彼女は、わなわなと唇を震わせ、眦を吊り上げた。
「なっ!? 今まで何を聞いていたのよ!? だから、私はっ……」
強がりで自信家で、負けず嫌いの彼女には、『辛かったね』という言葉は、同情のように聞こえたのだろう。
そうではない。
私は、ただ、彼女に寄り添いたいと思っただけだ。
どう言えば、伝わるだろうか。
私は眉間に皺を寄せ、じっと彼女の姿を瞳に映す。大人びた勝ち気な美貌を、安らいだ年相応の笑顔にするための言葉を探す。
彼女にしてみれば、唐突に、しかも無遠慮に凝視された、なのであろう。不快感もあらわに、私の視線から逃れるべく体を引こうとした。
そのとき、私の脳裏に名文句が閃く。
「君の力は、君のお異母兄さんやお義姉さんの『刀』と同じだよ」
セレイエは、家族が大好きなのだ。この言葉なら、きっと響くだろう。
案の定、彼女は「え……?」と、動きを止めた。
「誰かを傷つけることもあるけれど、誰かを守ることもできる。そして、どちらも鍛錬を積まなければ、使いこなすことはできない」
「…………」
「君のお異母兄さんたちに、武術の素質があったように、君には〈天使〉の素質があった――それだけのことだよ。けど、〈天使〉が珍しすぎて、誰も、こんな単純なことに気づかなかったんだね」
「!」
セレイエの肩が、びくりと上がる。
「君の言う通りだよ。〈天使〉であることも含めて、君は君。――〈天使〉の研究のため、〈七つの大罪〉にまで来た君は、凄い努力家だ。私は、君を尊敬するよ」
「わ……、わ、たし……」
見開かれた瞳から、大粒の涙が、ぽろりと零れた。
「……辛……かった……わ。ずっと……。悲しかった……。どうして、って……、いつ……も、思っていた……」
堰を切ったように溢れ出した涙は止まらず、彼女は幼子のように泣きじゃくる。
彼女はずっと、離れ離れになった家族に対して、罪悪感を抱いていたのだ。
勿論、家族の誰も、彼女を責めたりはしていないだろう。だが、他でもない、彼女自身が自分を責め続けていたのだ。
そして、ずっと堪えていた。――ひとりきりで。
「セレイエ」
私は彼女の名を呼び、小さな異母妹が、べそをかいたときにするように、そっと抱き寄せた。背中を優しく、とんとん、と叩く。こうすると異母妹は安心するのか、すぐに泣き止むのだ。
しかし、セレイエは異母妹ではなかった。
彼女は泣き止むどころか、私にしがみついて号泣した。
温かな重みが、胸に収まる。
空虚だった私の心が、満たされていくような気がした。
やがて、涙が枯れ果てたのであろう。セレイエは、おずおずと頭を上げた。
そして、照れたように笑う。
とても、可愛らしい顔で。
「ありがとう」
その瞬間――。
私の中に『個人』としての強い感情が芽生えた。
きっと、このとき。
私は初めて、『人』になったのだ。
天空神フェイレンの姿を写して生まれた彼の者が、神の代理人として、国を治める王となる。
それが、創世神話に記されし、我が大華王国の金科玉条である。
裏を返せば、たとえ王の子として生まれようとも、神の異色を持たぬ者には、王位継承権は与えられないということだ。
〈神の御子〉が数多く存在した古き時代においては、この制度に、なんの支障もなかった。しかし、世代を重ね、〈神の御子〉が生まれにくくなってくると、次代の王を産み出すことは、王に課せられた重大な使命となっていった。
その結果、『過去の王のクローン』を世継ぎとする王が出てきたのは、必然だったといえよう。
我が父シルフェンも、そうして作り出された『過去の王のクローン』だった。
王位を継ぐためだけに生を享けた彼は、『親』である父王から、ひとかけらの愛情も注がれなかったという。なれば、己の出自を疎んだ彼が、自分は決してクローンには手を出すまいと心に誓ったとしても、なんの不思議もなかろう。
そんな彼に胸を痛めていたのが、彼より十歳ほど年長の『姉』にあたる、〈神の御子〉の王女だった。
古くは、王は男子と決められていたが、近代では『仮初めの王』として、女子が玉座に就くこともできる。つまり、彼女は、『弟』が生まれなければ、王冠を戴く運命だった。
しかし、女王は軽んじられる上に、早く次代の〈神の御子〉を産むよう強要される。それを不憫に思った父王が、『弟』を作ったというわけだ。
いわば、自分の身代わりとして生まれた『弟』に、『姉』は深い罪悪感を抱いた。そして、有力な貴族に降嫁されるまで、ひたむきに『弟』を可愛がった。
そして、月日は流れ――。
王の崩御により、『弟』は即位し、新たな王となる。
それと前後して、彼は降嫁した『姉』が、婚家で虐げられていることを知った。ほぼ盲目であった彼女は幽閉同然の扱いを受け、また、〈神の御子〉を産むようにと責め立てられていたらしい。
彼は、彼女を夫と離縁させ、身分も王族に戻して、神殿に常駐する神官長に任命した。
一方、王となった彼も、世継ぎの〈神の御子〉に恵まれずに困っていた。子供は、王妃との間に娘がふたり。他に、複数の愛妾が、男女合わせて幾人も子を産んだが、皆、黒髪黒目であった。
そこで、『姉』は『弟』に申し出る。
〈神の御子〉同士であれば、〈神の御子〉の子供が生まれる確率は、ぐっと高くなる。あまり丈夫ではない自分の体は、四人の娘の出産で疲弊しているが、あとひとりならば産めると医者は言っている。
『だから、賭けてみませんか?』
そうして、私が生まれた。
戸籍上は、〈神の御子〉の元王女が、夫と離縁する直前に宿した子。
一部の人間の推測の中では、〈神の御子〉を求めた王が、実姉を手籠めにして産ませた、禁忌の子。
父と母が、縋る思いで、私に一縷の望みを託したというのに、私は、白金の髪と青灰色の瞳を持って生まれてくることができなかった。
勿論、誰も私を責めたりはしない。それどころか、愛しまれたと思う。
私の両親は、とても優しい気質の人間なのだ。
王妃の長男と、私の誕生日が、ほぼ同じであるのも、その一端だ。私が〈神の御子〉として生まれた暁には、王妃が双子を産んだことにして、妃としての立場を守ってやろうと画策していたのだ。
そんな気遣いを王妃がどう感じたかは、私は知らない。ただ、少なくとも、成長した長男が、『双子』になるはずだった『異母兄弟』を毛嫌いしていることは事実であると思う。
たとえ歪みがあったとしても、私の誕生には、確かに愛があった。
けれど――。
両親の期待を裏切って、黒髪黒目で生まれてきた私に、いったい、なんの価値があるというのだろう?
時が過ぎ、王妃が〈神の御子〉の女子を出産し、力尽きたように息を引き取った。やっと責務を果たせたと、穏やかな顔で眠りについたまま目覚めなかったのだという。
残された〈神の御子〉の王女の将来を憂い、私の母は、何かにつけて彼女を神殿に招いては世話を焼いた。
私も、歳の離れた異母妹を可愛がった。彼女は、私の代わりに〈神の御子〉として生まれてきたような気がして、なんとかして彼女に報いたいと思った。
私の母が、父に抱いた罪悪感のような気持ちを、私も異母妹に対して感じていたのかもしれない。
そして、私が二十歳になったころ。
体の弱かった母が亡くなり、私が神官長――すなわち、〈七つの大罪〉の事実上の最高責任者――の位に就いた。
〈七つの大罪〉に新たな〈悪魔〉を迎える、という連絡が入ったのは、それから、まもなくのことであった。
神殿の『天空の間』で、新入りの〈悪魔〉が私の目通りを待っている。
私は、なんとも名状しがたい気持ちで、その場へと向かっていた。
〈悪魔〉になりたい、などと申し出る者は、どこか心が欠けているものだ。そうでなければ、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術と引き換えだとしても、『契約』を結んだりはしない。
だが、今度の〈悪魔〉は極めて異例、極めて異色の経歴の持ち主なのだ。
私は事前に渡された調査書の内容を反芻し、眉間に皺を寄せながら、天空の間の白い扉を開いた。
「――!?」
その瞬間、私は息を呑んだ。
純白の部屋に、白金の光が広がっていた。
互いに絡み合い繋がり合う、数多の白金の糸が、その輝きを強く弱くと、変化させながら、舞うように揺らめく。
まるで、光を紡いで作られた翼が、羽ばたくが如く……。
幻想的な光景に魅入られ、惹き寄せられるように光の流れを辿れば、そこに、白金の羽をまとった、神々しいばかりの天使がいた。
そう――。
彼女は、〈天使〉だ。
この世で唯一の、生まれながらの〈天使〉、鷹刀セレイエ。
かつて、実験体でありながら、〈天使〉の力を自在に使いこなしたことによって、〈七つの大罪〉で大きな権力を握った『伝説の〈天使〉、〈猫〉』の娘。
そして、彼女の足元には、ひとりの男が転がされていた。〈七つの大罪〉の要注意人物として、ブラックリストに載っている〈悪魔〉だ。彼は、セレイエの背から放たれた光の糸に絡め取られ、拘束されていた。
どうやら、新顔の噂を聞きつけ、この天空の間を訪れたらしい。
好奇心が強いことは、〈悪魔〉として、決して悪いことではないのだが、如何せん、問題行動の多い男だ。おおかた、セレイエに、ちょっかいを出して返り討ちにあった、というところだろう。意識を失っているようで、ぴくりとも動かない。
「君が新しく加わった〈悪魔〉? 私はヤンイェン。〈七つの大罪〉の運営を一任されている。よろしく」
この状況において、初めの挨拶が定型文でよいのかと自問しながら、私は周囲に『人当たりがよい』と言われる麗らかな笑顔を彼女に向けた。生い立ちのせいか、私は自分の『個人』としての感情を表に出すことを、己に禁じているふしがあるらしい。
のちに、このときの私について、セレイエは『変な人だと思った』と明かしてくれた。
『怒られるかと思ったのよね。〈天使〉の力は、むやみに使うなと、よく母に叱られていたから。でも、何も言われなかったから、じゃあ、神官長は何ごとにも動じない人なのかしら? と思ったのだけど……、でも、違ったわね?』――と。
……ともあれ。
私に声を掛けられた彼女は、艶やかな黒髪をなびかせ、振り返る。
「こちらこそ。私は、鷹刀セレイエ。知っていると思うけど、〈猫〉の娘で、もと〈悪魔〉の〈獅子〉の孫にあたるわ」
覇気に満ちた瞳が印象的な、とても美しい少女だった。
歳は、もうすぐ十五歳になると、調査書にあった。だが、彫像のように整った面差しは、彼女をもう少し年上に見せた。もっとも、繊細な硝子細工のような体つきからすると、やはりそのくらいの年齢で正しいのだろう。
「さっそくだけど、〈七つの大罪〉での注意事項などを……」
私は、彼女をソファーへと促そうとして、そのためには、まず、床の男をどうにかすべきだと気づく。誰か人を呼ぶか、と思案していると、彼女がくすりと笑った。
「彼から情報を貰ったから、〈七つの大罪〉のことなら、だいたい分かっているわ」
彼女は拘束した男に目線を落とし、それから、彼と自身とを繋ぐ羽を示す。
「!」
〈天使〉とは、羽――すなわち、背中から放たれる白金の糸を接続装置にして、人間の脳という記憶装置に侵入するクラッカーだ。彼女にとって、羽で拘束した〈悪魔〉から、〈七つの大罪〉の情報を入手するのは容易いことだろう。
しかし、羽は、限度を超えて酷使すれば、熱暴走を起こす。そのまま、死に至ることだって珍しくもないのだ。むやみに使うものではない。
顔色を変えた私に、セレイエは得意げに口角を上げた。
「このくらいなら、まったく問題ないわ。私にとっては、呼吸をするようなものよ」
紅を塗っていない唇が、ぞくりと妖しく光る。それは、魔性と呼ばれる鷹刀一族の血筋ゆえか。
当惑する私に、彼女は重ねて告げる。
「とても不思議なのよ。この神殿に来てから、羽から力が溢れてくるの。懐かしいような、温かな感じがして……。なのに、その逆の、肌が粟立つような感覚もあるのよ」
彼女の言葉に、私は、はっとした。
「そうか。君は〈冥王〉の影響を受けやすいんだね」
彼女の出自は、特殊なのだ。〈冥王〉から力を与えられるものと、奪われるもの。両方の血を引いている。
「『〈冥王〉』?」
「ああ、それは……」
どのように説明すれば、分かりやすいだろうか。
私が即答できないでいるうちに、彼女の「なるほどね」という声が響く。
「〈天使〉の羽の根源は、〈冥王〉なのね。だから、神殿では、楽に力を振るえる。――けど、私の中の鷹刀の血が、血族を喰らってきた〈冥王〉を警戒している」
端的にまとめられた内容に、私が目を見開くと、彼女は床に転がる男を細い顎でしゃくる。
「彼から得た情報をもとに、推測しただけよ」
明晰な頭脳を披露した彼女は、自信家の顔を覗かせる。そんなところは、年相応で可愛らしく思えた。
「凄いね、君は」
微笑ましさに、素直な気持ちで呟けば、彼女は嬉しそうに口元を緩めた。
「王族の負荷を分散させるために誕生した連携構成、〈冥王〉――ね。凄く興味深いわ。やはり、〈七つの大罪〉は面白いわね」
それから、彼女は、きらきらと輝く瞳で、私を見上げる。
「私は自分の力について知りたいの。――母は、〈天使〉の力を暴走させないための知識は教えてくれても、それ以上のことは口を閉ざすから。だから、私は〈七つの大罪〉に来たのよ。まず初めに、母を〈天使〉にした〈蠍〉という〈悪魔〉の研究報告書を見たいわ」
無邪気な探究心が、彼女を駆り立てているのだと思った。
だが、それは私の勘違いだと、じきに気づいた。
〈七つの大罪〉から資金を渡された〈悪魔〉たちは、好きな場所に、自分の研究所を構えるのが通例だ。けれど、セレイエには、表向きは『神官長付きの神官』という役職を与えて、神殿に住まわせた。
彼女の当面の目的が〈蠍〉の研究の解析であるため、個人の研究所を持つよりも〈七つの大罪〉のデータベースのある神殿で活動するほうが理に適っていたし、しっかりしているようには見えるが、やはり、こんな年若い少女をひとりにする気にはなれなかったのだ。
〈悪魔〉となった彼女には、〈蛇〉の名が与えられた。しかし、私は彼女をセレイエの名で呼んでいた。
「私は、自分を否定したくないから、〈七つの大罪〉に入ったのよ」
セレイエが〈悪魔〉となってから、しばらく経ったころ。
彼女は、ふと、そんなことを言った。
「私は三歳のときに、初めて羽を出したの。異母兄と義姉と私の、子どもたち三人だけで遊びに出かけていたときに、鷹刀と敵対する凶賊に襲われたから……」
彼女の異母兄と義姉は、当時、まだ十歳ほどであったらしい。だが、子供とはいえ、鷹刀の将来の担い手として武術の心得があった。ふたりは、異母妹を守りながら、勇猛果敢に刀を振るったという。
されど、多勢に無勢。そして、幼い異母妹は、どうしたって足手まといになる。彼らは徐々に追い込まれていった。
「血まみれになって倒れる異母兄と義姉を見た瞬間、私の中で何かが弾けたの。気づいたら、背中から光が吹き出していたわ」
淡々とした口調で、無表情な顔で。凪いだ湖面のようなセレイエが告げる。
「私は怒りに任せて、すべての敵の脳に心臓を破裂させる命令を書き込んだの。――訓練もなしに、滅茶苦茶なことをしたのよ。当然、熱暴走を起こして、死線をさまよったわ。……けど、おにいちゃんと、おねえちゃんを守ることができたの」
大人びた雰囲気を持つセレイエの声が、語尾のあたりで幼子のような片言となり、危うげに揺れた。
「セレイエ?」
狼狽する私に構わず、彼女は続ける。
「〈天使〉の力がなかったら、三人とも殺されていたんだから……。――でも、私のせいで、家族は、ばらばらになったのよ」
ぽつりと落とされた告白は、揺れる息に溶けて消えた。
伏せられた瞼は、あまりにも儚く……、私は固唾を呑んで、彼女の話に耳を傾ける。
「私が、凶賊に身を置き続ければ、いつ、また危険な目に遭うとも限らない。次こそは、熱暴走で命を落とすかもしれない――そう言われて、私は母と共に、鷹刀の外に出されたのよ」
彼女が語るところによれば、愛人であった彼女の母は、もうすぐ父と結婚することになっていたらしい。しかも、それを強く勧めていたのが、異母兄の母親である正妻で、離縁の準備中だったという。
今ひとつ理解し難い、複雑な家庭であるが、とても仲が良かったことは間違いない。
その家族が、壊れた。
重い吐息が、部屋の中に沈んでいく。
「異母兄は、今でも後悔しているわ。自分が弱かったために、異母妹が〈天使〉として目覚めてしまったんだ、って。でも、そうじゃない。私は生まれつき〈天使〉だったんだから、この運命は変わらなかったのよ」
何かを払うように頭を振り、彼女は鋭い眼差しで、前を見据えた。
「実験体として、後天的に〈天使〉になった母は、この力を悪しきものとして否定するわ。そのくせ、母は、自分は特別に高い〈天使〉の適性を持っているけど、娘の私は半分だけ――母の血の分だけしか適性がないから、危なっかしい、って言うのよ。でもね、私は初めから〈天使〉だったの。生まれつきよ。この力を含めて、『私』なのよ」
おそらく無意識に、であろう。
彼女は、自分は先天的な〈天使〉なのだ――という意味合いの言葉を繰り返した。
まるで、自分に言い聞かせるかのように。
「私が〈天使〉だと分かったから、家族が、ばらばらになったんじゃないわ。私が、いつ熱暴走を起こすか分からないから、よ。だから、私は、この〈七つの大罪〉で、〈天使〉について研究をするの。〈天使〉は危険じゃないって。……だって、私は『私』で、いいはずなんだから!」
ぐっと顎を突き出し、彼女は好戦的に嗤う。
……けれど、その瞳の奥は揺れていた。
心細さを無理やり隠した、脅えた素顔が透けて見える。
彼女は〈天使〉という、持って生まれた自分の業を受け入れようと、必至に足掻いているのだ。
そして、〈天使〉である自分と向き合うために、〈七つの大罪〉に来た。
自分は無価値だと諦め、無意味に生きてきた私とは違う。
彼女は強い――否。強くあろうとしている。
その生き方に……、――私の魂が震えた。
「辛かったね、セレイエ」
羽を持って、生まれてきたことが。
私が、白金の髪と青灰色の瞳を持たずに生まれてきたことと、同じように。
――刹那。
彼女は、わなわなと唇を震わせ、眦を吊り上げた。
「なっ!? 今まで何を聞いていたのよ!? だから、私はっ……」
強がりで自信家で、負けず嫌いの彼女には、『辛かったね』という言葉は、同情のように聞こえたのだろう。
そうではない。
私は、ただ、彼女に寄り添いたいと思っただけだ。
どう言えば、伝わるだろうか。
私は眉間に皺を寄せ、じっと彼女の姿を瞳に映す。大人びた勝ち気な美貌を、安らいだ年相応の笑顔にするための言葉を探す。
彼女にしてみれば、唐突に、しかも無遠慮に凝視された、なのであろう。不快感もあらわに、私の視線から逃れるべく体を引こうとした。
そのとき、私の脳裏に名文句が閃く。
「君の力は、君のお異母兄さんやお義姉さんの『刀』と同じだよ」
セレイエは、家族が大好きなのだ。この言葉なら、きっと響くだろう。
案の定、彼女は「え……?」と、動きを止めた。
「誰かを傷つけることもあるけれど、誰かを守ることもできる。そして、どちらも鍛錬を積まなければ、使いこなすことはできない」
「…………」
「君のお異母兄さんたちに、武術の素質があったように、君には〈天使〉の素質があった――それだけのことだよ。けど、〈天使〉が珍しすぎて、誰も、こんな単純なことに気づかなかったんだね」
「!」
セレイエの肩が、びくりと上がる。
「君の言う通りだよ。〈天使〉であることも含めて、君は君。――〈天使〉の研究のため、〈七つの大罪〉にまで来た君は、凄い努力家だ。私は、君を尊敬するよ」
「わ……、わ、たし……」
見開かれた瞳から、大粒の涙が、ぽろりと零れた。
「……辛……かった……わ。ずっと……。悲しかった……。どうして、って……、いつ……も、思っていた……」
堰を切ったように溢れ出した涙は止まらず、彼女は幼子のように泣きじゃくる。
彼女はずっと、離れ離れになった家族に対して、罪悪感を抱いていたのだ。
勿論、家族の誰も、彼女を責めたりはしていないだろう。だが、他でもない、彼女自身が自分を責め続けていたのだ。
そして、ずっと堪えていた。――ひとりきりで。
「セレイエ」
私は彼女の名を呼び、小さな異母妹が、べそをかいたときにするように、そっと抱き寄せた。背中を優しく、とんとん、と叩く。こうすると異母妹は安心するのか、すぐに泣き止むのだ。
しかし、セレイエは異母妹ではなかった。
彼女は泣き止むどころか、私にしがみついて号泣した。
温かな重みが、胸に収まる。
空虚だった私の心が、満たされていくような気がした。
やがて、涙が枯れ果てたのであろう。セレイエは、おずおずと頭を上げた。
そして、照れたように笑う。
とても、可愛らしい顔で。
「ありがとう」
その瞬間――。
私の中に『個人』としての強い感情が芽生えた。
きっと、このとき。
私は初めて、『人』になったのだ。