残酷な描写あり
9.泡沫の出逢いの先で
やがて、リュイセンの運転する車は、目的の庭園に到着した。
園内の目立たないところに建てられた小屋が、神殿の『天空の間』へと繋がる地下通路の入り口であるらしい。
駐車場で車を停め、アイリーは黒装束姿に戻った。だから、今は白金の髪はフードで覆われ、青灰色の瞳はサングラスの奥に隠されている。
眩しさを感じやすい瞳の彼女が、夕暮れどきにサングラスを掛けたら、どのように見えるのかは分からない。けれど、なんとなく、足元がおぼつかなくなるような気がして、リュイセンは、そっと彼女の手を取った。
長身の彼と、小柄な彼女と。
高さの違う指先が、ぎくしゃくと繋がれ、黄昏色の世界を並んで歩く。
「リュイセン、今日はありがとう」
遠くに小屋が見えてくると、アイリーが静かに口を開いた。
もうすぐ、別れのときだ。
どちらからともなく立ち止まり、互いに向き合う。
夕闇を帯びた風が、ふたりの間を吹き抜ける。アイリーは、フードが脱げてしまわないように気をつけながら、ゆっくりとリュイセンを見上げた。
「初めてのドライブ、凄く楽しかったわ」
「俺も楽しかった。ありがとう」
こんな決まり文句のような台詞ではなく、もっと彼女の心に響く言葉を残したい。けれど、口下手なリュイセンの頭には、まるで何も浮かばなかった。
……それで正しいのだと、自分に言い聞かせた。
彼女は『女王陛下』なのだ。
たとえ、『最後の王』となり、のちに自由を得たとしても、現時点の彼女は『女王』。
今は、余計なことを考えてはいけない。それは、彼女のためにならないし、彼のためにもならない。
別に、彼女とは、今日だけで終わる縁ではない。だから、このまま黙って手を振ればいい――。
そのとき、アイリーが硬い声で叫んだ。
「ね、ねぇ、リュイセン……!」
慌てたような早口は、リュイセンの挨拶を遮るため。勿論、彼は、そんなことを知る由もない。
彼はただ、『陽が陰っているから大丈夫』と言って、フェイスカバーを外したままにした彼女の白い頬が、黄昏に染められて赤みを帯びていると思っただけ。――断じて、自分を見つめているからではない。その証拠に、彼女の視線は無機質ではないか、と。
「あ、あのね、『最後の総帥』と『最後の王』って、運命的な組み合わせだと思わない?」
胸が踊るような、心地の良い響きだった。
はにかむような仕草が、論理的な思考を努めていたリュイセンの心に漣を立てる。
……彼女の声は、『恋する乙女』のそれだった。
「アイリー……」
リュイセンの心臓が、早鐘を打ち始める。
『最後の総帥』と『最後の王』――共に、久遠に続くと思われた、創世神話からの流れに、終止符を打つ者。確かに彼女の言う通り、運命めいた響きをしている。
だが、初めに『最後の総帥』と『最後の王』という言葉を持ち出してきたのは、他ならぬリュイセンなのだ。
自分が『最後の総帥』なら、アイリーは『最後の王』になればいい。何故なら、鷹刀と王族は、共に黴の生えた悪しき因習に縛られた一族なのだから。――そんな思いで、『最後の王』と口にした。
それだけの安易な発想。
運命などではなくて……――リュイセンが強く、望んだものだ。
彫像のように押し黙ってしまったリュイセンを前に、アイリーが鋭く息を呑んだ。
「なんでもないわ。――そ、それじゃ、またね!」
くるりと踵を返し、黒づくめの背中が、ひとりで小屋へと向かう。
「あ、おい。待て!」
小走りに去ろうとする肩を、リュイセンは神速で掴んだ。
「きゃぁっ」
「すまん!」
謝りつつも、素早く前に回り込み、彼女の行く手に立ちふさがる。
小柄な彼女は、彼よりも頭ふたつ分は小さい。
暴力にも等しい体格差で引き止めるのは、卑劣な行為だ。そんなことは分かっている。けれど、このまま彼女を見送ることなど、できるはずもなかった。
「アイリー」
彼の呼びかけに、彼女の体が、びくりと動く。
自分の低音が、時に必要以上の威圧を与えることを理解しているリュイセンは、『しまった』と思いつつ、ここで引くわけにはいかなかった。
今日のドライブは、彼女の小さな願いを叶えるための泡沫の夢だ。
陽炎が見せる、幻影と同じ。
仮初めにも恋人のように振る舞えば、免疫のない彼女が錯覚を起こすことは予測できた。ましてや、運命めいた関係なんぞを匂わされたら、すっかり、その気になってしまうのも無理はない。
けれど、彼女が見ているものは、あくまでも幻の恋人なのだ。虚像で、彼女の心を縛りたくはない――。
「お前は俺に、夢と理想を見ているだけなんだよ」
「…………」
先ほど、乱暴に肩を掴まれたからだろう。アイリーのサングラスは、ずり落ち、その隙間から、まっすぐな瞳が覗いていた。黄昏を浴びた虹彩は、黒でもなければ、青灰色でもない。
不思議な色合いにリュイセンが戸惑っていると、円らであるはずの眼が、にわかに尖っていった。
「見くびらないで!」
長身の彼に向かって、彼女が、ぐっと顎を突き出せば、目深に被っていたフードが吹き飛ぶ。外気に晒された白金の髪が、黄昏色に染まる。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を持った〈神の御子〉が、外見を変えた。
「アイリー……?」
目の前にいるのは、間違いなく彼女であるはずで。
けれど、今までの彼女とは、どこか印象が異なっていて。
誰そ彼時とは、よくぞ言ったものだ――などと、場違いな感想を抱きながら、リュイセンは彼女に魅入られる。
彼女は大きく息を吸い込み、尖らせていた目を、ぎゅっと瞑った。それから、意を決したように、リュイセンに抱きついてきた。
「!?」
「わ、私は……、ちょっと優しくされたからって、誰にでもついていくような……、その……、……こ、子供じゃないんだから!」
華奢な肩を震わせ、彼女は腕の力を強める。ぴたりと触れた体から、早鐘の鼓動が伝わってくる。
……その純情な心こそが、危ういんだ。
リュイセンは黄金比の美貌を歪め、渋面となった。
なまじ、自分のほうこそ彼女に惹かれている自覚があるだけに、リュイセンにしてみれば、たちが悪い。
どう言えば理解してもらえるだろうかと、頭を悩ませていると、背中に回された彼女の手が、すっと動いた。
脇腹に近い、低い位置から斜め上に。
肩先に向かって、爪先立ちになりながら……袈裟懸けに。
「――!」
「分かっているわよ。リュイセンから見れば、私なんか、ずっと年下の子供で、危なっかしくて仕方ないんでしょう!? でも、私は、ちゃんと現実のリュイセンという人を見ているつもりよ」
ぷうっと頬を膨らませながら、彼女は拗ねたように唇を尖らせる。けれども、シャツ越しに感じる指先は、どこまでも優しく、彼の背中の刀痕をなぞる。
彼女はこの傷跡を『勲章』と呼んで、彼の生き方を認めてくれたのだ。
リュイセンの心に、横っ面を叩かれたような衝撃が走った。
「……アイリー、俺は……」
思わず口を開いたものの、その先の言葉が続かない。
彼女は、彼の背中を撫でていた手を自分の腰へと移した。そして、明らかに虚勢と分かる、強気の笑顔を振りまく。
「思ったんだけど、リュイセンって過保護だわ」
「!?」
「それから、責任感が強すぎるの。自分がしっかりしなきゃって、ひとりで頑張り過ぎちゃうのよ」
口では毅然としながらも、サングラスの下の瞳は、ちらちらと不安げに、リュイセンの様子を窺っている。ただでさえ鼻眼鏡となっている上に、身長差があるため、目線が丸見えなのだ。
「だって、リュイセンは律儀で、生真面目で、融通が利かなくて、不器用で、要領が悪くて、損ばかりしていて、劣等感まみれで……」
彼へと向かって、彼女が指先を伸ばす。
懸命な爪先立ちで近づいてくる掌に、彼は無意識に惹き寄せられ、腰を屈める。すると、小さな両手が首の後ろに、するりと回された。
「――凄く、優しいの」
彼の耳には、かすれた囁きを。
彼の唇には、ぎこちない口づけを。
精いっぱいの背伸びで、彼女は想いを紡ぐ。
――――!
次の瞬間、彼女の体が崩れ落ちた。
「アイリー!」
リュイセンは神速で、彼女を支える。
筋肉に触れていたから、分かる。
倒れた原因は、無理な姿勢でバランスを崩したため。――そして、極度の緊張のため。
「無茶をするな。いくらなんでも、突っ走り過ぎだろう!?」
腕の中のアイリーに、リュイセンは苛立ち混じりの低音を落とす。
今までミンウェイひと筋だった彼は、特定の恋人を作ったことはない。しかし、それは女性と無縁だった、という意味ではないのだ。
鷹刀の美麗な容姿を持つ上に、一族の後継者という立場がくれば、敬遠されることもあるものの、近づいてくる女だって、あとを絶たない。結果として、いったいどういう星回りなのか、修羅場の場数だけは踏んでいる。
故に、いくらリュイセンが鈍くても、直感で分かる。
アイリーの好意は本物でも、積極的な行為は無茶の証明。――無茶の裏には、必ず理由がある。
「……酷いわ、リュイセン。私は無茶なんて……」
ぷうっと剥れようとして、彼女は失敗した。瞳から涙が零れ、頬の空気が抜けてしまったのだ。
リュイセンは、わずかに逡巡し、それから、アイリーの肩を抱き寄せた。禁じ手として封じていたことだが、ここで胸を貸さないのは人道に悖ると、自分を説き伏せた。
小さな頭が、ことんと胸に寄りかかる。華奢な体は、彼の両腕の中に、すっぽりと収まった。
「……私ね、恋というものをしてみたかったの」
「――へ?」
唐突な発言に、思わず呆けた声が出た。
しまったと、慌てて非礼を詫びようとしたら、あまりにも正直な反応だったためか、リュイセンが口を開くよりも先に、彼女がぷっと吹き出す。
「リュイセン、忘れちゃったの? 今のままだったら、私は血の繋がったヤンイェンお異母兄様と結婚させられちゃうのよ?」
「あ……」
そういえば、ハオリュウを手駒にしたかった摂政は、『女王が、異母兄との結婚なんて嫌。好きな人と恋愛をしたい、と言って泣いている』と説明して、女王の婚約者にならないかという話を持ちかけたのだった。
てっきり摂政の作り話だと思っていたのだが、『女王の涙』の部分に脚色を感じるものの、まったくの嘘でもなかったらしい。
リュイセンは、どんな顔をしたらよいのか分からなかった。
「国民に対して、既に婚約の発表は為されているわ。ただ、『ライシェン』のこととか、カイウォルお兄様の思惑とか、いろいろ、ごちゃごちゃしていて、まだ正式な婚約の儀が済んでいない、というだけ」
「……」
その状況は、リュイセンだって把握している。何故なら、『デヴァイン・シンフォニア計画』と密接に関係する事柄なのだから。
ただ、今までは、『女王』が赤の他人であったため、我不関焉と思っていただけだ。
「私ね、小さいころ、相手がヤンイェンお異母兄様なら、恋愛はできないけど別にいいかなって、思っていたの。……ほら、話したでしょう? お異母兄様のお母様――私の伯母様に当たる方は、降嫁した婚家で〈神の御子〉を産むように強要され続けた、って。……お異母兄様となら、そんなことにはならないから」
ぽつり、ぽつりと声を落とし、最後の台詞で、アイリーは複雑な笑みを浮かべた。見覚えのある諦観の表情に、リュイセンの心が痛む。
「でもね、お異母兄様がセレイエと出逢って、恋に落ちて。私は、恋というものに憧れたわ。ふたりの関係は、綺麗なだけじゃない、共犯者のような恋だったけど――でも、羨ましかったの。……だからね」
不意に、彼女は強気の口調を取り戻す。
「リュイセンの『共犯者』になって、近衛隊を追い返したのは楽しかったわ」
「それで、あのとき、いきなり『共犯者』なんて言い出したのか」
得心するリュイセンに、アイリーは「うん!」と、子供のように声を弾ませる。
「今日一日、リュイセンと一緒にいて、凄く楽しかったわ。夢だったドライブにも連れていってもらったし、女王様じゃない『私』と、リュイセンは、たくさん話をしてくれたの。――ううん、それだけじゃないわ」
アイリーは顔を上げ、まっすぐにリュイセンを見つめる。
「リュイセンと出逢って、私は自分の未来を決めたの。――今まで、周りに流されるままに女王様になった私だけど、これから自分の意志で、『最後の王』になる、って」
ぽん、と。
黄昏の中に、白蓮の花が咲く。
あり得ないはずの、景色が広がる。
「これだけのことがあって、私がリュイセンに寄せる想いが、どうして恋じゃないと言えるの?」
「…………っ」
今日一日、リュイセンは彼女と一緒にいた。
だから、知っている。
彼女は、無邪気に夢見る少女ではない。
真実を――現実を求める者だ。それ故に、鷹刀一族の屋敷を訪れたのだから。
あどけなさのために見落とされがちだが、進むべき道を見誤らないようにと必死に足掻く、不器用で懸命な、立派なひとりの人間だ。
「アイリー」
リュイセンは名を呼び、彼女の肩を抱き寄せる。身の丈に合わない重責を負った、双肩を。
「俺にも、お前にも、背負っているものがある」
彼の言葉に、緊張の面持ちの彼女が、こくりと頷いた。
「俺は『最後の総帥』への道を、自ら望んで引き受けた。その責を果たすことは、俺の誇りだ。……そして、お前は、俺よりもずっと大変な『最後の王』を選ぶという」
「わ、私も、誇りを持って責任を果たすわ」
声を震わせながらも、強気の口調で応える彼女に、リュイセンは口元をほころばせる。
「俺たちは、決して自分の立場から逃げることはできないし、逃げる気もない」
貴族を捨ててルイフォンのもとに飛び込んでいったメイシアと、一族を抜けて『鷹刀の対等な協力者』となったルイフォンのように。
あるいは、自由民となったシュアンと、彼と共に在ることを決めたミンウェイのように。
身ひとつで動き回れる、自由な恋人たちにはなれない。
だからこそ築くことのできる、特別な絆だってあるはずだ。
「アイリー、俺たちは『共犯者』になろう」
「……え、う、うん! ……でも、どんな『共犯』なの?」
「自分の運命を、自分で決める共犯者だ」
そう言って、リュイセンは、目線のまるで違うアイリーをふわりと抱き上げる。
そして、きょとんとしている彼女から、先ほど奪われた唇を奪い返した。
黄昏色の世界を、ふたりで並んで歩く。
長身の彼と、小柄な彼女と。
高さの違う指先が、互いに互いを求め合う。その足元からは、長く伸びた影が重なり合い、ふたりの行く手で寄り添っていた。
~ 第四章 了 ~
園内の目立たないところに建てられた小屋が、神殿の『天空の間』へと繋がる地下通路の入り口であるらしい。
駐車場で車を停め、アイリーは黒装束姿に戻った。だから、今は白金の髪はフードで覆われ、青灰色の瞳はサングラスの奥に隠されている。
眩しさを感じやすい瞳の彼女が、夕暮れどきにサングラスを掛けたら、どのように見えるのかは分からない。けれど、なんとなく、足元がおぼつかなくなるような気がして、リュイセンは、そっと彼女の手を取った。
長身の彼と、小柄な彼女と。
高さの違う指先が、ぎくしゃくと繋がれ、黄昏色の世界を並んで歩く。
「リュイセン、今日はありがとう」
遠くに小屋が見えてくると、アイリーが静かに口を開いた。
もうすぐ、別れのときだ。
どちらからともなく立ち止まり、互いに向き合う。
夕闇を帯びた風が、ふたりの間を吹き抜ける。アイリーは、フードが脱げてしまわないように気をつけながら、ゆっくりとリュイセンを見上げた。
「初めてのドライブ、凄く楽しかったわ」
「俺も楽しかった。ありがとう」
こんな決まり文句のような台詞ではなく、もっと彼女の心に響く言葉を残したい。けれど、口下手なリュイセンの頭には、まるで何も浮かばなかった。
……それで正しいのだと、自分に言い聞かせた。
彼女は『女王陛下』なのだ。
たとえ、『最後の王』となり、のちに自由を得たとしても、現時点の彼女は『女王』。
今は、余計なことを考えてはいけない。それは、彼女のためにならないし、彼のためにもならない。
別に、彼女とは、今日だけで終わる縁ではない。だから、このまま黙って手を振ればいい――。
そのとき、アイリーが硬い声で叫んだ。
「ね、ねぇ、リュイセン……!」
慌てたような早口は、リュイセンの挨拶を遮るため。勿論、彼は、そんなことを知る由もない。
彼はただ、『陽が陰っているから大丈夫』と言って、フェイスカバーを外したままにした彼女の白い頬が、黄昏に染められて赤みを帯びていると思っただけ。――断じて、自分を見つめているからではない。その証拠に、彼女の視線は無機質ではないか、と。
「あ、あのね、『最後の総帥』と『最後の王』って、運命的な組み合わせだと思わない?」
胸が踊るような、心地の良い響きだった。
はにかむような仕草が、論理的な思考を努めていたリュイセンの心に漣を立てる。
……彼女の声は、『恋する乙女』のそれだった。
「アイリー……」
リュイセンの心臓が、早鐘を打ち始める。
『最後の総帥』と『最後の王』――共に、久遠に続くと思われた、創世神話からの流れに、終止符を打つ者。確かに彼女の言う通り、運命めいた響きをしている。
だが、初めに『最後の総帥』と『最後の王』という言葉を持ち出してきたのは、他ならぬリュイセンなのだ。
自分が『最後の総帥』なら、アイリーは『最後の王』になればいい。何故なら、鷹刀と王族は、共に黴の生えた悪しき因習に縛られた一族なのだから。――そんな思いで、『最後の王』と口にした。
それだけの安易な発想。
運命などではなくて……――リュイセンが強く、望んだものだ。
彫像のように押し黙ってしまったリュイセンを前に、アイリーが鋭く息を呑んだ。
「なんでもないわ。――そ、それじゃ、またね!」
くるりと踵を返し、黒づくめの背中が、ひとりで小屋へと向かう。
「あ、おい。待て!」
小走りに去ろうとする肩を、リュイセンは神速で掴んだ。
「きゃぁっ」
「すまん!」
謝りつつも、素早く前に回り込み、彼女の行く手に立ちふさがる。
小柄な彼女は、彼よりも頭ふたつ分は小さい。
暴力にも等しい体格差で引き止めるのは、卑劣な行為だ。そんなことは分かっている。けれど、このまま彼女を見送ることなど、できるはずもなかった。
「アイリー」
彼の呼びかけに、彼女の体が、びくりと動く。
自分の低音が、時に必要以上の威圧を与えることを理解しているリュイセンは、『しまった』と思いつつ、ここで引くわけにはいかなかった。
今日のドライブは、彼女の小さな願いを叶えるための泡沫の夢だ。
陽炎が見せる、幻影と同じ。
仮初めにも恋人のように振る舞えば、免疫のない彼女が錯覚を起こすことは予測できた。ましてや、運命めいた関係なんぞを匂わされたら、すっかり、その気になってしまうのも無理はない。
けれど、彼女が見ているものは、あくまでも幻の恋人なのだ。虚像で、彼女の心を縛りたくはない――。
「お前は俺に、夢と理想を見ているだけなんだよ」
「…………」
先ほど、乱暴に肩を掴まれたからだろう。アイリーのサングラスは、ずり落ち、その隙間から、まっすぐな瞳が覗いていた。黄昏を浴びた虹彩は、黒でもなければ、青灰色でもない。
不思議な色合いにリュイセンが戸惑っていると、円らであるはずの眼が、にわかに尖っていった。
「見くびらないで!」
長身の彼に向かって、彼女が、ぐっと顎を突き出せば、目深に被っていたフードが吹き飛ぶ。外気に晒された白金の髪が、黄昏色に染まる。
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を持った〈神の御子〉が、外見を変えた。
「アイリー……?」
目の前にいるのは、間違いなく彼女であるはずで。
けれど、今までの彼女とは、どこか印象が異なっていて。
誰そ彼時とは、よくぞ言ったものだ――などと、場違いな感想を抱きながら、リュイセンは彼女に魅入られる。
彼女は大きく息を吸い込み、尖らせていた目を、ぎゅっと瞑った。それから、意を決したように、リュイセンに抱きついてきた。
「!?」
「わ、私は……、ちょっと優しくされたからって、誰にでもついていくような……、その……、……こ、子供じゃないんだから!」
華奢な肩を震わせ、彼女は腕の力を強める。ぴたりと触れた体から、早鐘の鼓動が伝わってくる。
……その純情な心こそが、危ういんだ。
リュイセンは黄金比の美貌を歪め、渋面となった。
なまじ、自分のほうこそ彼女に惹かれている自覚があるだけに、リュイセンにしてみれば、たちが悪い。
どう言えば理解してもらえるだろうかと、頭を悩ませていると、背中に回された彼女の手が、すっと動いた。
脇腹に近い、低い位置から斜め上に。
肩先に向かって、爪先立ちになりながら……袈裟懸けに。
「――!」
「分かっているわよ。リュイセンから見れば、私なんか、ずっと年下の子供で、危なっかしくて仕方ないんでしょう!? でも、私は、ちゃんと現実のリュイセンという人を見ているつもりよ」
ぷうっと頬を膨らませながら、彼女は拗ねたように唇を尖らせる。けれども、シャツ越しに感じる指先は、どこまでも優しく、彼の背中の刀痕をなぞる。
彼女はこの傷跡を『勲章』と呼んで、彼の生き方を認めてくれたのだ。
リュイセンの心に、横っ面を叩かれたような衝撃が走った。
「……アイリー、俺は……」
思わず口を開いたものの、その先の言葉が続かない。
彼女は、彼の背中を撫でていた手を自分の腰へと移した。そして、明らかに虚勢と分かる、強気の笑顔を振りまく。
「思ったんだけど、リュイセンって過保護だわ」
「!?」
「それから、責任感が強すぎるの。自分がしっかりしなきゃって、ひとりで頑張り過ぎちゃうのよ」
口では毅然としながらも、サングラスの下の瞳は、ちらちらと不安げに、リュイセンの様子を窺っている。ただでさえ鼻眼鏡となっている上に、身長差があるため、目線が丸見えなのだ。
「だって、リュイセンは律儀で、生真面目で、融通が利かなくて、不器用で、要領が悪くて、損ばかりしていて、劣等感まみれで……」
彼へと向かって、彼女が指先を伸ばす。
懸命な爪先立ちで近づいてくる掌に、彼は無意識に惹き寄せられ、腰を屈める。すると、小さな両手が首の後ろに、するりと回された。
「――凄く、優しいの」
彼の耳には、かすれた囁きを。
彼の唇には、ぎこちない口づけを。
精いっぱいの背伸びで、彼女は想いを紡ぐ。
――――!
次の瞬間、彼女の体が崩れ落ちた。
「アイリー!」
リュイセンは神速で、彼女を支える。
筋肉に触れていたから、分かる。
倒れた原因は、無理な姿勢でバランスを崩したため。――そして、極度の緊張のため。
「無茶をするな。いくらなんでも、突っ走り過ぎだろう!?」
腕の中のアイリーに、リュイセンは苛立ち混じりの低音を落とす。
今までミンウェイひと筋だった彼は、特定の恋人を作ったことはない。しかし、それは女性と無縁だった、という意味ではないのだ。
鷹刀の美麗な容姿を持つ上に、一族の後継者という立場がくれば、敬遠されることもあるものの、近づいてくる女だって、あとを絶たない。結果として、いったいどういう星回りなのか、修羅場の場数だけは踏んでいる。
故に、いくらリュイセンが鈍くても、直感で分かる。
アイリーの好意は本物でも、積極的な行為は無茶の証明。――無茶の裏には、必ず理由がある。
「……酷いわ、リュイセン。私は無茶なんて……」
ぷうっと剥れようとして、彼女は失敗した。瞳から涙が零れ、頬の空気が抜けてしまったのだ。
リュイセンは、わずかに逡巡し、それから、アイリーの肩を抱き寄せた。禁じ手として封じていたことだが、ここで胸を貸さないのは人道に悖ると、自分を説き伏せた。
小さな頭が、ことんと胸に寄りかかる。華奢な体は、彼の両腕の中に、すっぽりと収まった。
「……私ね、恋というものをしてみたかったの」
「――へ?」
唐突な発言に、思わず呆けた声が出た。
しまったと、慌てて非礼を詫びようとしたら、あまりにも正直な反応だったためか、リュイセンが口を開くよりも先に、彼女がぷっと吹き出す。
「リュイセン、忘れちゃったの? 今のままだったら、私は血の繋がったヤンイェンお異母兄様と結婚させられちゃうのよ?」
「あ……」
そういえば、ハオリュウを手駒にしたかった摂政は、『女王が、異母兄との結婚なんて嫌。好きな人と恋愛をしたい、と言って泣いている』と説明して、女王の婚約者にならないかという話を持ちかけたのだった。
てっきり摂政の作り話だと思っていたのだが、『女王の涙』の部分に脚色を感じるものの、まったくの嘘でもなかったらしい。
リュイセンは、どんな顔をしたらよいのか分からなかった。
「国民に対して、既に婚約の発表は為されているわ。ただ、『ライシェン』のこととか、カイウォルお兄様の思惑とか、いろいろ、ごちゃごちゃしていて、まだ正式な婚約の儀が済んでいない、というだけ」
「……」
その状況は、リュイセンだって把握している。何故なら、『デヴァイン・シンフォニア計画』と密接に関係する事柄なのだから。
ただ、今までは、『女王』が赤の他人であったため、我不関焉と思っていただけだ。
「私ね、小さいころ、相手がヤンイェンお異母兄様なら、恋愛はできないけど別にいいかなって、思っていたの。……ほら、話したでしょう? お異母兄様のお母様――私の伯母様に当たる方は、降嫁した婚家で〈神の御子〉を産むように強要され続けた、って。……お異母兄様となら、そんなことにはならないから」
ぽつり、ぽつりと声を落とし、最後の台詞で、アイリーは複雑な笑みを浮かべた。見覚えのある諦観の表情に、リュイセンの心が痛む。
「でもね、お異母兄様がセレイエと出逢って、恋に落ちて。私は、恋というものに憧れたわ。ふたりの関係は、綺麗なだけじゃない、共犯者のような恋だったけど――でも、羨ましかったの。……だからね」
不意に、彼女は強気の口調を取り戻す。
「リュイセンの『共犯者』になって、近衛隊を追い返したのは楽しかったわ」
「それで、あのとき、いきなり『共犯者』なんて言い出したのか」
得心するリュイセンに、アイリーは「うん!」と、子供のように声を弾ませる。
「今日一日、リュイセンと一緒にいて、凄く楽しかったわ。夢だったドライブにも連れていってもらったし、女王様じゃない『私』と、リュイセンは、たくさん話をしてくれたの。――ううん、それだけじゃないわ」
アイリーは顔を上げ、まっすぐにリュイセンを見つめる。
「リュイセンと出逢って、私は自分の未来を決めたの。――今まで、周りに流されるままに女王様になった私だけど、これから自分の意志で、『最後の王』になる、って」
ぽん、と。
黄昏の中に、白蓮の花が咲く。
あり得ないはずの、景色が広がる。
「これだけのことがあって、私がリュイセンに寄せる想いが、どうして恋じゃないと言えるの?」
「…………っ」
今日一日、リュイセンは彼女と一緒にいた。
だから、知っている。
彼女は、無邪気に夢見る少女ではない。
真実を――現実を求める者だ。それ故に、鷹刀一族の屋敷を訪れたのだから。
あどけなさのために見落とされがちだが、進むべき道を見誤らないようにと必死に足掻く、不器用で懸命な、立派なひとりの人間だ。
「アイリー」
リュイセンは名を呼び、彼女の肩を抱き寄せる。身の丈に合わない重責を負った、双肩を。
「俺にも、お前にも、背負っているものがある」
彼の言葉に、緊張の面持ちの彼女が、こくりと頷いた。
「俺は『最後の総帥』への道を、自ら望んで引き受けた。その責を果たすことは、俺の誇りだ。……そして、お前は、俺よりもずっと大変な『最後の王』を選ぶという」
「わ、私も、誇りを持って責任を果たすわ」
声を震わせながらも、強気の口調で応える彼女に、リュイセンは口元をほころばせる。
「俺たちは、決して自分の立場から逃げることはできないし、逃げる気もない」
貴族を捨ててルイフォンのもとに飛び込んでいったメイシアと、一族を抜けて『鷹刀の対等な協力者』となったルイフォンのように。
あるいは、自由民となったシュアンと、彼と共に在ることを決めたミンウェイのように。
身ひとつで動き回れる、自由な恋人たちにはなれない。
だからこそ築くことのできる、特別な絆だってあるはずだ。
「アイリー、俺たちは『共犯者』になろう」
「……え、う、うん! ……でも、どんな『共犯』なの?」
「自分の運命を、自分で決める共犯者だ」
そう言って、リュイセンは、目線のまるで違うアイリーをふわりと抱き上げる。
そして、きょとんとしている彼女から、先ほど奪われた唇を奪い返した。
黄昏色の世界を、ふたりで並んで歩く。
長身の彼と、小柄な彼女と。
高さの違う指先が、互いに互いを求め合う。その足元からは、長く伸びた影が重なり合い、ふたりの行く手で寄り添っていた。
~ 第四章 了 ~