note.7 歌は心。
嫌な瘴気が高速で迫って来るのがわかる。
何度経験しても慣れることのない肌触りだ。澄んだ水瓶に、墨を流すような。
『フェンリル型だな』
キーロイの助言が聞こえるが早いか、イデオは背中に垂らした純白の、裏地は燃える臙脂のマントを引き抜いた。
「来るなら、来い」
視界はほぼ闇。
木々が身を揺らすざわめき。
ノーアウィーンという世界に、異変が起きてから現れるようになった怪異――それを人々は魔物と呼んだ。
魔物は形こそあれ、この世のすべての光を飲み込んでしまうくらいの黒色をしている。眼や爪や牙、体内に至るまでが黒い。流れる血もタールのよう。
魔物が現れるまではのどかで平和そのものだったノーアウィーンは、大小さまざまな国が個人の国間の行き来を自由としていた。商人はもちろん旅人も入国出国自由。
貿易は盛んに行われ、得手不得手を補い合いながら、世界全体が助け合って生きていた時代の話だ。
そんなノーアウィーン世界の異変は、魔物だけではない。大部分は天変地異である。
無軌道に移動する水脈。各地の活火山の噴火。それに伴う海面上昇、水温の上昇、地形変化など。住む地を奪われたり、食糧難を余儀なくされた。
後に民衆は生き延びるため、少しでも豊かな国や地域へ移動を開始する。
しかしそこからが第二の苦難であった。
各国有力な王侯貴族、知事や識者及び学者、憲兵将校など、インフラを司る人物たちまでが騙し合い、人身売買や矛盾した取引を行うようになる。
民衆の心は離れていき、自分たちで何とかするしかないと思うものの、困窮した者から次々に命を落とした。
小は個人、大は国まで。その屍を横目に生きるために盗み、殺しは当たり前。平時なら到底許せぬ悪事に手を染めていった。
疑心暗鬼の時代へ突入し、現在に至る。
「フ・イルフォ・ル・ベグ! 焼き尽くしてやる!」
モルツワーバ山間の森に、俄かに昼間のような明るさが訪れる。イデオのマント裏地が黄金の輝きを放っていた。見る間に突っ込んでくる魔物を、闘牛士のごとき半身で受けて立つ。
『上だな』
だが真向にはやって来ず、魔物は俊敏に木々の間を跳ねまわって頭上へ跳んだ。
金色の光すら返さない黒い牙が、イデオに襲い掛かる。
「見飽きてた動きだ。フ・イルフォ・タン・リベル!」
その瞬間、マントから直径一メートル程度の火球が放たれた。それはさながら小さな太陽。おぞましく開かれた魔物の口内へ吸い込まれる。
断末魔すら許さぬといった劫火は一瞬の間に魔物を炭に変えた。あっという間に塵となってしまった魔物だったものは、パラパラと中空に散り、夜の風に流されていった。
「……こんなに小さくしても毎度異臭は残していくな。最期の最期まで忌々しい」
マントを羽織り直しながら、イデオは手で顔の前を煽ぐ。
『当然の化学反応だ、気にするな。大して害はない。それより周囲に人はいないか?』
「ああ、たぶん。森も焼きすぎてないし、最小限だったと思う」
イデオは火球の眩さにやられた目を顰めながら周囲を確認した。
『さすが、わしの発明した装置! 操作性、動作性、コード入力からの反応速度、それから火力! 文句無しじゃな!』
「先を急ごう」
『こら待て! わしを褒めんか! 崇め奉らんか!』
美しかったあの時代はもう帰っては来ない。
ノーアウィーンの住人は新しい時代を創世するために、苦しみ、もがき、恨んだり悩んだりしながら、現状手探りの生活をしている。
[▶▶ other track ▶ play now]
リッチーはやる気満々だ。つぶらな瞳がらんらんとしている。
この目論見が必ず成功すると確信しているから尚更である。
「僕はこの線の端を持てば良いんだよね?」
「あ、ああ」
そんなリッチーに対して、キングは少々戸惑っていた。
(俺の歌を求められてるのは、すっげえーすっげえーすっげえぇぇぇぇぇー嬉しいけど……何だろうな、この違和感は……)
楽器や演奏のための機器を取りに、一度リッチーの家に戻った。
と言っても、すぐ真向かいなので、ドアを開けっぱなしで手分けして親方の家に運び込んだだけだ。
ちょろっと聞いた通り、リッチーは見た目より力持ちだった。
(ライブ前の搬入みたいだったから面白かったな。リッチーも楽しそうだし、まあいっか)
コンセントの位置を一切気にしなくていいのは便利かもしれない。
隣にリッチーが居れば、いつでもどこでもライブ会場になるのだから。
「キング、準備出来た?」
「ああ、さっきチューニングしたばっかだし、もういける。リッチーは平気か?」
「僕もいけるよ!」
今回のライブ会場は親方の家の居間なのだが、これはアウェーを感じるステージだ。
モルット族の体躯が小さいだけに部屋も小さい作りになっている。それ故に、客席はほぼ目の前みたいなものだ。ライブハウスの最前列よりも近い。
それに当り前だが、ライティングも無い。
だからこそ、親方の顔色がよくわかってしまうし、こちらも具に観察されているのを肌で感じる。
(表情はあんまり読めねえけど、歓迎されてないライブなのは重々承知。今までもそんなこと数えきれないほどあったしな)
キングは右肩をぐるぐる回して、ピックを構えた。
「さっきの感じでいくから、リッチーよろしく」
「うん!」
(本当に、いい笑顔してくれるな、リッチーは)
曲は先程と同じ。
その選曲になったのはリッチーのためだ。
自由に放電できると言っても、なにがしかのエネルギーを消費しているはずである。あまりリッチーの負担になるようなことはさせたくなかった。
同じ曲ならリッチーも比較的勝手がわかるだろう。
すうっと息を吸って、イントロから歌に入っていく。
(リッチーは俺のファン、って思っていいのかな。期待に応えたい……俺の歌を、何者にもなれなかった俺の音楽を、特別だと言ってくれたんだ……!)
ゆったりとしたバラードだ。
誰かに聞かせたくて作った歌。
三人の聴衆が耳を傾けている。
傷んだ心を支えられるような力が、歌に込められる。
(そう、歌わなきゃならんのに……何か、腹に力が入らねえ……おかしいな、何でだ……?)
歌は心。
歌手の間では空気のように当たり前すぎた共通認識。
同時に、もっとも重たい意味を持つ言葉。
だが、今のキングは気持ちだけが先走っていた。
思うように歌えない。
(これじゃ響かねえ……こんな弱い声じゃ、届かな、い……ダメなんだ……)
視界がぼやけている。揺れている景色に焦点が合わない。
ピックが指の間から滑り落ちるのを感じていた。
(やべ……意識、が……)
Aサビに入る前、キングは倒れた。
何度経験しても慣れることのない肌触りだ。澄んだ水瓶に、墨を流すような。
『フェンリル型だな』
キーロイの助言が聞こえるが早いか、イデオは背中に垂らした純白の、裏地は燃える臙脂のマントを引き抜いた。
「来るなら、来い」
視界はほぼ闇。
木々が身を揺らすざわめき。
ノーアウィーンという世界に、異変が起きてから現れるようになった怪異――それを人々は魔物と呼んだ。
魔物は形こそあれ、この世のすべての光を飲み込んでしまうくらいの黒色をしている。眼や爪や牙、体内に至るまでが黒い。流れる血もタールのよう。
魔物が現れるまではのどかで平和そのものだったノーアウィーンは、大小さまざまな国が個人の国間の行き来を自由としていた。商人はもちろん旅人も入国出国自由。
貿易は盛んに行われ、得手不得手を補い合いながら、世界全体が助け合って生きていた時代の話だ。
そんなノーアウィーン世界の異変は、魔物だけではない。大部分は天変地異である。
無軌道に移動する水脈。各地の活火山の噴火。それに伴う海面上昇、水温の上昇、地形変化など。住む地を奪われたり、食糧難を余儀なくされた。
後に民衆は生き延びるため、少しでも豊かな国や地域へ移動を開始する。
しかしそこからが第二の苦難であった。
各国有力な王侯貴族、知事や識者及び学者、憲兵将校など、インフラを司る人物たちまでが騙し合い、人身売買や矛盾した取引を行うようになる。
民衆の心は離れていき、自分たちで何とかするしかないと思うものの、困窮した者から次々に命を落とした。
小は個人、大は国まで。その屍を横目に生きるために盗み、殺しは当たり前。平時なら到底許せぬ悪事に手を染めていった。
疑心暗鬼の時代へ突入し、現在に至る。
「フ・イルフォ・ル・ベグ! 焼き尽くしてやる!」
モルツワーバ山間の森に、俄かに昼間のような明るさが訪れる。イデオのマント裏地が黄金の輝きを放っていた。見る間に突っ込んでくる魔物を、闘牛士のごとき半身で受けて立つ。
『上だな』
だが真向にはやって来ず、魔物は俊敏に木々の間を跳ねまわって頭上へ跳んだ。
金色の光すら返さない黒い牙が、イデオに襲い掛かる。
「見飽きてた動きだ。フ・イルフォ・タン・リベル!」
その瞬間、マントから直径一メートル程度の火球が放たれた。それはさながら小さな太陽。おぞましく開かれた魔物の口内へ吸い込まれる。
断末魔すら許さぬといった劫火は一瞬の間に魔物を炭に変えた。あっという間に塵となってしまった魔物だったものは、パラパラと中空に散り、夜の風に流されていった。
「……こんなに小さくしても毎度異臭は残していくな。最期の最期まで忌々しい」
マントを羽織り直しながら、イデオは手で顔の前を煽ぐ。
『当然の化学反応だ、気にするな。大して害はない。それより周囲に人はいないか?』
「ああ、たぶん。森も焼きすぎてないし、最小限だったと思う」
イデオは火球の眩さにやられた目を顰めながら周囲を確認した。
『さすが、わしの発明した装置! 操作性、動作性、コード入力からの反応速度、それから火力! 文句無しじゃな!』
「先を急ごう」
『こら待て! わしを褒めんか! 崇め奉らんか!』
美しかったあの時代はもう帰っては来ない。
ノーアウィーンの住人は新しい時代を創世するために、苦しみ、もがき、恨んだり悩んだりしながら、現状手探りの生活をしている。
[▶▶ other track ▶ play now]
リッチーはやる気満々だ。つぶらな瞳がらんらんとしている。
この目論見が必ず成功すると確信しているから尚更である。
「僕はこの線の端を持てば良いんだよね?」
「あ、ああ」
そんなリッチーに対して、キングは少々戸惑っていた。
(俺の歌を求められてるのは、すっげえーすっげえーすっげえぇぇぇぇぇー嬉しいけど……何だろうな、この違和感は……)
楽器や演奏のための機器を取りに、一度リッチーの家に戻った。
と言っても、すぐ真向かいなので、ドアを開けっぱなしで手分けして親方の家に運び込んだだけだ。
ちょろっと聞いた通り、リッチーは見た目より力持ちだった。
(ライブ前の搬入みたいだったから面白かったな。リッチーも楽しそうだし、まあいっか)
コンセントの位置を一切気にしなくていいのは便利かもしれない。
隣にリッチーが居れば、いつでもどこでもライブ会場になるのだから。
「キング、準備出来た?」
「ああ、さっきチューニングしたばっかだし、もういける。リッチーは平気か?」
「僕もいけるよ!」
今回のライブ会場は親方の家の居間なのだが、これはアウェーを感じるステージだ。
モルット族の体躯が小さいだけに部屋も小さい作りになっている。それ故に、客席はほぼ目の前みたいなものだ。ライブハウスの最前列よりも近い。
それに当り前だが、ライティングも無い。
だからこそ、親方の顔色がよくわかってしまうし、こちらも具に観察されているのを肌で感じる。
(表情はあんまり読めねえけど、歓迎されてないライブなのは重々承知。今までもそんなこと数えきれないほどあったしな)
キングは右肩をぐるぐる回して、ピックを構えた。
「さっきの感じでいくから、リッチーよろしく」
「うん!」
(本当に、いい笑顔してくれるな、リッチーは)
曲は先程と同じ。
その選曲になったのはリッチーのためだ。
自由に放電できると言っても、なにがしかのエネルギーを消費しているはずである。あまりリッチーの負担になるようなことはさせたくなかった。
同じ曲ならリッチーも比較的勝手がわかるだろう。
すうっと息を吸って、イントロから歌に入っていく。
(リッチーは俺のファン、って思っていいのかな。期待に応えたい……俺の歌を、何者にもなれなかった俺の音楽を、特別だと言ってくれたんだ……!)
ゆったりとしたバラードだ。
誰かに聞かせたくて作った歌。
三人の聴衆が耳を傾けている。
傷んだ心を支えられるような力が、歌に込められる。
(そう、歌わなきゃならんのに……何か、腹に力が入らねえ……おかしいな、何でだ……?)
歌は心。
歌手の間では空気のように当たり前すぎた共通認識。
同時に、もっとも重たい意味を持つ言葉。
だが、今のキングは気持ちだけが先走っていた。
思うように歌えない。
(これじゃ響かねえ……こんな弱い声じゃ、届かな、い……ダメなんだ……)
視界がぼやけている。揺れている景色に焦点が合わない。
ピックが指の間から滑り落ちるのを感じていた。
(やべ……意識、が……)
Aサビに入る前、キングは倒れた。