保健室が盛況だという 後編
目を覚ますと、見知らぬ部屋だった。
鼻につくツンとした匂いは薬だろうか。全体的に白っぽい部屋で、床も清潔だと分かるが、部屋の隅に僅かな薄暗さが燻っているのがなんとも気味悪い。
身動きが取れない。身体に白い布がぐるぐると巻かれている。
どうやら私は椅子に縛り付けられているようで――。
「やあ、おはよう。気分はどうだい?」
「!?」
思わずがたりと椅子が音を立てる。声の主が目の前にしゃがみ込んでいた。紺色の上着に茶色の髪。顔の半分が髪に覆われているが、口元はにこにことしていて上機嫌だ。
「気分。良い訳なかろうが」
「そうかそうか。それは何よりだよ」
彼女はからからと笑いながら的外れなことを言う。
「そんな事よりこれを解け。離せ」
がたがたと椅子を揺らして声をあげる、が、白い布は身体に纏わり付くように伸び縮みするばかり。少女はそれを見ても笑みを崩さない。
「離して欲しいなら、話してもらおうじゃないか」
「――何を」
「お前の正体は大体分かったから――目的、だな」
後ろからの声に振り返る。首が回る範囲に限度はあったが、視界に黒ずくめの少年を捉えた。帽子から覗くのは、射貫くような金色の三白眼。手には彼の腕ほどの長さを持つ刀。赤銅色の鞘に朱の下緒。
彼の物ではない。私の刀だ。
「は。それだけで私の正体を知るなど、できる物か」
ぎり、と奥歯を鳴らして睨み付けると、少年もまた睨み返してきた。
「本当にそうだと思うか?」
にやり、と口の端を上げ少年は言う。刀をくるりと器用に回す。
「まずは噂話」
少年は刀に視線を落とす。彼の親指が鍔に触れる。
「すばしこくて姿が捉えられない影。きっと風ってのもサクラの聞き間違いじゃないだろう」
「……」
「次。目撃証言。刀は、これだ」
少年が手にした刀を掲げる。
「小さな狐。大きさはさておき、狐には変わりない……まあ、大きさも普通の狐に比べれば小柄な方か? 許容範囲だ」
「何を」
根拠に、と言おうとして目に入ったのは大きな姿見だった。
両脇から、紫の髪をした少年と少女が不思議そうに覗いている。その間に座らされている私の姿は、そこにはっきりと映し出されていた。
鋼色の毛。錆色の瞳。黒と水色を重ねた狩衣。そこから垂れて揺れる尻尾。
服を着た狐。
それはまさに自身の姿。
「そして最後」
動揺して音を立てた椅子を無視し、少年の視線は私を通り過ぎ、部屋の奥へと投げられる。
「ヤツヅリ。最近の保健室利用状況は?」
少年の言葉の先を向く。少女を通り越した先には、白く長い上着を着た男がいた。ヤツヅリと呼ばれた彼は橙の眼鏡を上げて「えーっと」と眠たげな目で紙束をめくる。
「今月前半と後半の比較だと――怪我人は2倍。病人が1.5倍。怪我は切り傷多数。原因は不明。打撲や擦り傷の記載もあるけど、何かが飛び出してきて転んだとか、何かにぶつかったとか、具体的な原因がよく分からない。同様に原因不明としよう。病人だけど、風邪でもないのに気分が悪くなったと運び込まれて休む生徒の数も増加してる」
ふう、とため息をついて紙束をから目を離す。
深緑の瞳が、少年を見た。
「こんなところでどうかな?」
「十分――これでお前の正体は予想がつく」
すらりと刀が鞘から抜かれる音がした。振り返ることはできない。それよりも早く、首筋にぴたりと刃が当てられる感触がした。
「構え太刀――転じてかまいたち。お前のその姿からすると……飯綱。管狐」
違うか? と少年は問う。
「……その通り、だ」
ここで正体を偽った所で何一つ事態は好転しない。素直に認めると、首元の刀がすい、と引かれた。後ろでかちん、と鞘にしまう音がする。
「――それでさ」
今度は目の前にしゃがみ込んだままだった少女がにっこりと問いかけてきた。
「君はどうして学校内で生徒に危害を加えたのかそろそろ教えてもらっても良いかな?」
「……」
答えるかどうか、一瞬悩んだ。
だが、この場での優位は彼らにある。囚われ、武器もない今、できることなどたかが知れている。
「……薬だ」
「薬?」
首を傾げると少女の髪がさらりと揺れた。瞳が垣間見えそうな気がしたが、見える事は無かった。
「お前達の言う通り、私は管狐。かまいたちでも構わぬ。薬が尽きた故、材料を求めて緑多いこの場所へと降りた」
「材料……オレの畑を荒らしてたのはそう言う訳か」
「畑? あれが畑……だと?」
「えっ。なにそれ傷つく」
ただの庭草だと思っていたが、あれは畑であったらしい。確かに草の育ちは良いと思っていたが……。
「まあいい」
「オレは良くない」
不満げな声を無視して話を進める。
「それで、材料をを求め敷地を彷徨っていたのだが、どうにも外へ出られぬ」
「オレの話無視!?」
彼の声には誰も答えず、ふーん、と少女が頬杖をついて頷く。
「でもそれは、生徒達に危害を加えた理由にはならないね」
危害。先程挙げられた怪我や病の事だろう。
「……ここは人が多い。どうしても避けられぬ事が何度かあった。転倒はそれが原因であろうが、病についてはなんとも言えぬ」
「なんとも」
繰り返す少女の髪が揺れた。
「管狐は悪意の媒介となり得る存在でもあるが、ここに私の意志は介在せぬ。何かの拍子で悪意に触れたのだろう」
その場合、大体は話を口にした主へと戻るか、明確に示された相手へと飛ぶ。だが、そこまで説明する必要は無いと勝手に判断した。
「ふむ……それじゃあ切り傷はどうだい?」
「爪を引っ掛けたか。数度、大人数から逃れる為に太刀を浴びせた事はある」
本来なら、と言葉を繋ぐ。
「直後に薬を塗って怪我など治してしまうのだが。生憎それを尽かしておる」
「ふんふん。なるほど。だからヤツヅリ君の畑を漁って材料を集めてた。と」
うむ、と頷く。
「ある程度材料は集まった。あとは山でも森でも、どこかで静かに薬を作る――そのつもりであったが」
「でも、出られなかった訳だね?」
再度頷くと、彼女は相槌を打つように数度頷いた。
何度も試みたが、この学校から出ることは叶わなかった。
「うんうん。つまりは君も“この学校"に影響されてしまったのだな」
「……どういう事だ?」
何を言ったのか理解が及ばず瞬きをしているうちに、彼女はよいしょと立ち上がる。
「ここはね。“噂話が多い学校"なんだ」
ぱたん、ぱたん、と足音を響かせて椅子を囲むようにを歩き出す。
「学校の生徒が噂をしたら、ここに定着してしまう。逆もまた然りさ。ボク達の存在が定着したら、その噂は何かしらの形でこの学校に根付いたと言っても過言ではない」
小さな椅子を一周するのに、そう時間はかからない。彼女はすぐに目の前に戻ってきた。
「ボク達はね――」
そう言って部屋全体を示すように両腕を広げる。
「この学校の噂によって成り立つ者。噂話に縛り付けられている存在。ボクだけじゃない。この部屋に居る全員がそうだ」
つまり、と彼女は言う。
「君もまた然り、と言う訳さ。しかもここは生徒達が立ち入ることができない校舎――裏側だ。校内に滞在する内、最近交わされる噂に絡め取られ、この学校から出て行けなくなり、こっち側へと迷い込んでしまった」
そういう事ではないかな。と彼女は説明の文句を締めた。
「ならば……私はもうここから離れられぬと言うことか?」
行く当てもなかったが、突然このような場所で残りを過ごせと言われても、戸惑いしかない。
少女はそれを読み取ったのだろう。ちっちっち、と指を振って「そんな事ないさ」と言い切った。
「何故だ。私の事はもう噂と化していると。絡め取られた存在だと。そう言っていたではないか」
「ああ、言ったね」
でも、と彼女は楽しげに口を開く。
「外に出ることは、できないわけじゃないよ。でも、それには条件がいくつか必要……っていうのは置いとくとして。君の場合はもっと簡単だ」
降られた指がまた揺れる。
「君の噂はまだ出来上がったばかりだ。今、一番語られているから、引き止める力が強いってだけだ。だから、このまま身を潜めて静かにしていれば、いつしか噂はなくなり――ここから解放されるのではないか、という可能性は残っている」
まあ。と彼女の言葉は続く。余程話好きらしい。次々と言葉が流れてくる。
「しばしの逗留だとでも思いたまえよ。悪さをしないならボク達だって君に危害を与えることはないと約束するよ」
「楽しそうに包帯でぐるぐる巻きにしといて説得力も何もないぞ」
後ろから少年の声がする。なるほど、これは彼女が巻いたものらしい。
「保険さ保険。ボクはこの学校に――生徒に危害を与えないと約束するなら、こんな物すぐに切ってやるとも」
それでどうだい、と彼女は問う。
「私も、元より誰かに危害を与えるつもりなどなかった。あの太刀に誓って、以降はそのような行動も控えよう」
「オレの畑は?」
「私はアレを畑とは認めん」
「あのなあ! あれはカムフラージュのためにああしてるだけであって……!」
「ヤツヅリ。お前の庭については今はどうでもいいから黙ってろ」
黒い少年の一言で、彼は「うぐ」と言葉を詰まらせた。
「あはははは! 良いだろう。後でハナブサさんにも話をしにいこうじゃないか。じゃあ、まずはその包帯切ってあげよう。ちょっとヤツヅリ君、ハサミ借りるよ」
言うが早いか、彼女は手近な所にあったハサミを手にした。
□ ■ □
「……ねえ、ヤミくん。代わりにやってあげなよ」
「いや、あのハナに近付いて火傷したくない」
「ヤミくんって時々ハナくんに酷く冷たいよね。分かるけど」
「単なる自衛だよ自衛」
「そっか……って、ハナくん、ハサミそんなしゃきしゃき言わせて近寄っちゃダメだって!」
目の前でにこにことハサミを動かすハナに、ヤツヅリも遠くから声をかける。
椅子に縛られた狐は、まるでこれから改造手術でも受けそうな、恐怖で青ざめた……動物の顔だから青ざめたとか分からないが。ともかくそんな、目の前の存在に恐怖感を抱いていることは間違いない表情をしていた。
「ちょ……やめ……!」
「ふっふっふ。いいじゃないか。なあにちょっとその布を切るだけさ。痛くしないから安心したまえよ」
「安心できるか! そんな扱いで服でも切られたら……あーーーーっ!?」
保健室に、悲痛な声が響き渡った。
□ ■ □
「――なるほどね。話は分かった。とりあえずは噂話が収まるまでこの学校に居るといいよ」
理科室。淡い色の髪と布で顔の半分を隠した少年――ハナブサは、狐を目の前にしてそう言った。
「ありがたい」
「その後どうするかは自由にすれば良い。外から来たなら、また外へ出ることも可能だろうからね」
「それは先刻も聞いたが……本当か?」
「うん。そうだね。外から来た者は、学校内で生まれた存在に比べてずっとここから離れやすい。君もきっと離れられる日がくるよ」
ハナブサは湯飲みを両手で包んで、穏やかに頷いた。
「それまでは……そうだね。ヤツヅリと一緒に居るといいんじゃないかな。彼は薬草に詳しい。君の欲しい薬も一緒に作ってくれるだろう」
「ああ」
こっくりと頷くと、ハナブサは「そうだ」と湯呑みを置いた。
「ここに住むのなら――名前を聞いておこう。呼び名の希望があれば教えて欲しい」
他にも希望があったら言って、と彼は付け足す。
そうだな、と狐は少しだけ考えた。
「……タヅナ。だろうか」
「タヅナ」
ハナブサが繰り返すと、狐――タヅナはうむと頷いた。
「私は見ての通り狐だ。管狐として過ごした時期もある――先程の少年。ヤミと言ったか。アイツは私をかまいたちと呼んだ。それもまた事実」
少しだけタヅナは言葉を咀嚼する。
「私はこれまで誰かに使われてきた。そうでない時は風に吹かれて生きてきた。だから――」
そこから先をタヅナが言う事はなかった。
ハナブサもそこを深く聞きはしない。いつも通り穏やかな笑みで、右手を差し出す。
「手袋で悪いけど――タヅナ。これからよろしく」
□ ■ □
「で。君はどうしてオレの部屋に居るの?」
薬草を抱え、頬に土を付けたヤツヅリは、部屋に入るなり心底不思議そうな顔をした。
「これからここでしばらく世話になる。部屋は要らぬと言ったら、ハナブサがしばらくお前の所で世話になれと勧めてくれた」
「えー……」
「不満げだな」
「そりゃ不満だよ」
「もちろんタダでとは言わぬ。お前の薬草育成は手伝ってやる。私が知る限りの薬の知識も共有しよう」
「マジで!?」
ヤツヅリの目がぱあっ、と輝いた。
「分かったよ仕方ないなあ」
「声が不抜けとるぞ」
「……うるさい。明日から君が荒らしてくれた畑の修復が待ってるんだ。作業しながら話してもらうからな」
「分かった」
「じゃ、今日はもう寝るとして……寝床用意するから少し待ってて。布団とか持ってくる」
「いや、布団はいい」
「?」
タヅナは古びた薬箱をひとつ手に取り、ぱか、と蓋を開ける。
空っぽのそれをしばらく覗き込み、頷いた。
「私の住処はこれでいい」
「え」
「忘れたか?」
そう言いながら箱を手近な棚の上に置く。
「私は管狐だ。これでも十分広いくらいだ――ただ」
「ただ?」
「あの太刀――風切だけはこの箱に持ち込むことはできぬから、そこの隅で良い。置かせてもらえまいか」
タヅナが視線で指した先には、鞘にしっかりと収まった刀があった。
「ん。それくらいなら」
「感謝する」
その言葉を背に、ヤツヅリは白衣を椅子の背に掛け、寝る支度を調える。全ての用意が整った時、ひとつ聞き忘れた事を思い出した。
「ところで、君の名前……」
そこにはもう、誰も居ない。
ただ、蓋の閉じた薬箱がひとつ静かに置かれていた。
鼻につくツンとした匂いは薬だろうか。全体的に白っぽい部屋で、床も清潔だと分かるが、部屋の隅に僅かな薄暗さが燻っているのがなんとも気味悪い。
身動きが取れない。身体に白い布がぐるぐると巻かれている。
どうやら私は椅子に縛り付けられているようで――。
「やあ、おはよう。気分はどうだい?」
「!?」
思わずがたりと椅子が音を立てる。声の主が目の前にしゃがみ込んでいた。紺色の上着に茶色の髪。顔の半分が髪に覆われているが、口元はにこにことしていて上機嫌だ。
「気分。良い訳なかろうが」
「そうかそうか。それは何よりだよ」
彼女はからからと笑いながら的外れなことを言う。
「そんな事よりこれを解け。離せ」
がたがたと椅子を揺らして声をあげる、が、白い布は身体に纏わり付くように伸び縮みするばかり。少女はそれを見ても笑みを崩さない。
「離して欲しいなら、話してもらおうじゃないか」
「――何を」
「お前の正体は大体分かったから――目的、だな」
後ろからの声に振り返る。首が回る範囲に限度はあったが、視界に黒ずくめの少年を捉えた。帽子から覗くのは、射貫くような金色の三白眼。手には彼の腕ほどの長さを持つ刀。赤銅色の鞘に朱の下緒。
彼の物ではない。私の刀だ。
「は。それだけで私の正体を知るなど、できる物か」
ぎり、と奥歯を鳴らして睨み付けると、少年もまた睨み返してきた。
「本当にそうだと思うか?」
にやり、と口の端を上げ少年は言う。刀をくるりと器用に回す。
「まずは噂話」
少年は刀に視線を落とす。彼の親指が鍔に触れる。
「すばしこくて姿が捉えられない影。きっと風ってのもサクラの聞き間違いじゃないだろう」
「……」
「次。目撃証言。刀は、これだ」
少年が手にした刀を掲げる。
「小さな狐。大きさはさておき、狐には変わりない……まあ、大きさも普通の狐に比べれば小柄な方か? 許容範囲だ」
「何を」
根拠に、と言おうとして目に入ったのは大きな姿見だった。
両脇から、紫の髪をした少年と少女が不思議そうに覗いている。その間に座らされている私の姿は、そこにはっきりと映し出されていた。
鋼色の毛。錆色の瞳。黒と水色を重ねた狩衣。そこから垂れて揺れる尻尾。
服を着た狐。
それはまさに自身の姿。
「そして最後」
動揺して音を立てた椅子を無視し、少年の視線は私を通り過ぎ、部屋の奥へと投げられる。
「ヤツヅリ。最近の保健室利用状況は?」
少年の言葉の先を向く。少女を通り越した先には、白く長い上着を着た男がいた。ヤツヅリと呼ばれた彼は橙の眼鏡を上げて「えーっと」と眠たげな目で紙束をめくる。
「今月前半と後半の比較だと――怪我人は2倍。病人が1.5倍。怪我は切り傷多数。原因は不明。打撲や擦り傷の記載もあるけど、何かが飛び出してきて転んだとか、何かにぶつかったとか、具体的な原因がよく分からない。同様に原因不明としよう。病人だけど、風邪でもないのに気分が悪くなったと運び込まれて休む生徒の数も増加してる」
ふう、とため息をついて紙束をから目を離す。
深緑の瞳が、少年を見た。
「こんなところでどうかな?」
「十分――これでお前の正体は予想がつく」
すらりと刀が鞘から抜かれる音がした。振り返ることはできない。それよりも早く、首筋にぴたりと刃が当てられる感触がした。
「構え太刀――転じてかまいたち。お前のその姿からすると……飯綱。管狐」
違うか? と少年は問う。
「……その通り、だ」
ここで正体を偽った所で何一つ事態は好転しない。素直に認めると、首元の刀がすい、と引かれた。後ろでかちん、と鞘にしまう音がする。
「――それでさ」
今度は目の前にしゃがみ込んだままだった少女がにっこりと問いかけてきた。
「君はどうして学校内で生徒に危害を加えたのかそろそろ教えてもらっても良いかな?」
「……」
答えるかどうか、一瞬悩んだ。
だが、この場での優位は彼らにある。囚われ、武器もない今、できることなどたかが知れている。
「……薬だ」
「薬?」
首を傾げると少女の髪がさらりと揺れた。瞳が垣間見えそうな気がしたが、見える事は無かった。
「お前達の言う通り、私は管狐。かまいたちでも構わぬ。薬が尽きた故、材料を求めて緑多いこの場所へと降りた」
「材料……オレの畑を荒らしてたのはそう言う訳か」
「畑? あれが畑……だと?」
「えっ。なにそれ傷つく」
ただの庭草だと思っていたが、あれは畑であったらしい。確かに草の育ちは良いと思っていたが……。
「まあいい」
「オレは良くない」
不満げな声を無視して話を進める。
「それで、材料をを求め敷地を彷徨っていたのだが、どうにも外へ出られぬ」
「オレの話無視!?」
彼の声には誰も答えず、ふーん、と少女が頬杖をついて頷く。
「でもそれは、生徒達に危害を加えた理由にはならないね」
危害。先程挙げられた怪我や病の事だろう。
「……ここは人が多い。どうしても避けられぬ事が何度かあった。転倒はそれが原因であろうが、病についてはなんとも言えぬ」
「なんとも」
繰り返す少女の髪が揺れた。
「管狐は悪意の媒介となり得る存在でもあるが、ここに私の意志は介在せぬ。何かの拍子で悪意に触れたのだろう」
その場合、大体は話を口にした主へと戻るか、明確に示された相手へと飛ぶ。だが、そこまで説明する必要は無いと勝手に判断した。
「ふむ……それじゃあ切り傷はどうだい?」
「爪を引っ掛けたか。数度、大人数から逃れる為に太刀を浴びせた事はある」
本来なら、と言葉を繋ぐ。
「直後に薬を塗って怪我など治してしまうのだが。生憎それを尽かしておる」
「ふんふん。なるほど。だからヤツヅリ君の畑を漁って材料を集めてた。と」
うむ、と頷く。
「ある程度材料は集まった。あとは山でも森でも、どこかで静かに薬を作る――そのつもりであったが」
「でも、出られなかった訳だね?」
再度頷くと、彼女は相槌を打つように数度頷いた。
何度も試みたが、この学校から出ることは叶わなかった。
「うんうん。つまりは君も“この学校"に影響されてしまったのだな」
「……どういう事だ?」
何を言ったのか理解が及ばず瞬きをしているうちに、彼女はよいしょと立ち上がる。
「ここはね。“噂話が多い学校"なんだ」
ぱたん、ぱたん、と足音を響かせて椅子を囲むようにを歩き出す。
「学校の生徒が噂をしたら、ここに定着してしまう。逆もまた然りさ。ボク達の存在が定着したら、その噂は何かしらの形でこの学校に根付いたと言っても過言ではない」
小さな椅子を一周するのに、そう時間はかからない。彼女はすぐに目の前に戻ってきた。
「ボク達はね――」
そう言って部屋全体を示すように両腕を広げる。
「この学校の噂によって成り立つ者。噂話に縛り付けられている存在。ボクだけじゃない。この部屋に居る全員がそうだ」
つまり、と彼女は言う。
「君もまた然り、と言う訳さ。しかもここは生徒達が立ち入ることができない校舎――裏側だ。校内に滞在する内、最近交わされる噂に絡め取られ、この学校から出て行けなくなり、こっち側へと迷い込んでしまった」
そういう事ではないかな。と彼女は説明の文句を締めた。
「ならば……私はもうここから離れられぬと言うことか?」
行く当てもなかったが、突然このような場所で残りを過ごせと言われても、戸惑いしかない。
少女はそれを読み取ったのだろう。ちっちっち、と指を振って「そんな事ないさ」と言い切った。
「何故だ。私の事はもう噂と化していると。絡め取られた存在だと。そう言っていたではないか」
「ああ、言ったね」
でも、と彼女は楽しげに口を開く。
「外に出ることは、できないわけじゃないよ。でも、それには条件がいくつか必要……っていうのは置いとくとして。君の場合はもっと簡単だ」
降られた指がまた揺れる。
「君の噂はまだ出来上がったばかりだ。今、一番語られているから、引き止める力が強いってだけだ。だから、このまま身を潜めて静かにしていれば、いつしか噂はなくなり――ここから解放されるのではないか、という可能性は残っている」
まあ。と彼女の言葉は続く。余程話好きらしい。次々と言葉が流れてくる。
「しばしの逗留だとでも思いたまえよ。悪さをしないならボク達だって君に危害を与えることはないと約束するよ」
「楽しそうに包帯でぐるぐる巻きにしといて説得力も何もないぞ」
後ろから少年の声がする。なるほど、これは彼女が巻いたものらしい。
「保険さ保険。ボクはこの学校に――生徒に危害を与えないと約束するなら、こんな物すぐに切ってやるとも」
それでどうだい、と彼女は問う。
「私も、元より誰かに危害を与えるつもりなどなかった。あの太刀に誓って、以降はそのような行動も控えよう」
「オレの畑は?」
「私はアレを畑とは認めん」
「あのなあ! あれはカムフラージュのためにああしてるだけであって……!」
「ヤツヅリ。お前の庭については今はどうでもいいから黙ってろ」
黒い少年の一言で、彼は「うぐ」と言葉を詰まらせた。
「あはははは! 良いだろう。後でハナブサさんにも話をしにいこうじゃないか。じゃあ、まずはその包帯切ってあげよう。ちょっとヤツヅリ君、ハサミ借りるよ」
言うが早いか、彼女は手近な所にあったハサミを手にした。
□ ■ □
「……ねえ、ヤミくん。代わりにやってあげなよ」
「いや、あのハナに近付いて火傷したくない」
「ヤミくんって時々ハナくんに酷く冷たいよね。分かるけど」
「単なる自衛だよ自衛」
「そっか……って、ハナくん、ハサミそんなしゃきしゃき言わせて近寄っちゃダメだって!」
目の前でにこにことハサミを動かすハナに、ヤツヅリも遠くから声をかける。
椅子に縛られた狐は、まるでこれから改造手術でも受けそうな、恐怖で青ざめた……動物の顔だから青ざめたとか分からないが。ともかくそんな、目の前の存在に恐怖感を抱いていることは間違いない表情をしていた。
「ちょ……やめ……!」
「ふっふっふ。いいじゃないか。なあにちょっとその布を切るだけさ。痛くしないから安心したまえよ」
「安心できるか! そんな扱いで服でも切られたら……あーーーーっ!?」
保健室に、悲痛な声が響き渡った。
□ ■ □
「――なるほどね。話は分かった。とりあえずは噂話が収まるまでこの学校に居るといいよ」
理科室。淡い色の髪と布で顔の半分を隠した少年――ハナブサは、狐を目の前にしてそう言った。
「ありがたい」
「その後どうするかは自由にすれば良い。外から来たなら、また外へ出ることも可能だろうからね」
「それは先刻も聞いたが……本当か?」
「うん。そうだね。外から来た者は、学校内で生まれた存在に比べてずっとここから離れやすい。君もきっと離れられる日がくるよ」
ハナブサは湯飲みを両手で包んで、穏やかに頷いた。
「それまでは……そうだね。ヤツヅリと一緒に居るといいんじゃないかな。彼は薬草に詳しい。君の欲しい薬も一緒に作ってくれるだろう」
「ああ」
こっくりと頷くと、ハナブサは「そうだ」と湯呑みを置いた。
「ここに住むのなら――名前を聞いておこう。呼び名の希望があれば教えて欲しい」
他にも希望があったら言って、と彼は付け足す。
そうだな、と狐は少しだけ考えた。
「……タヅナ。だろうか」
「タヅナ」
ハナブサが繰り返すと、狐――タヅナはうむと頷いた。
「私は見ての通り狐だ。管狐として過ごした時期もある――先程の少年。ヤミと言ったか。アイツは私をかまいたちと呼んだ。それもまた事実」
少しだけタヅナは言葉を咀嚼する。
「私はこれまで誰かに使われてきた。そうでない時は風に吹かれて生きてきた。だから――」
そこから先をタヅナが言う事はなかった。
ハナブサもそこを深く聞きはしない。いつも通り穏やかな笑みで、右手を差し出す。
「手袋で悪いけど――タヅナ。これからよろしく」
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「で。君はどうしてオレの部屋に居るの?」
薬草を抱え、頬に土を付けたヤツヅリは、部屋に入るなり心底不思議そうな顔をした。
「これからここでしばらく世話になる。部屋は要らぬと言ったら、ハナブサがしばらくお前の所で世話になれと勧めてくれた」
「えー……」
「不満げだな」
「そりゃ不満だよ」
「もちろんタダでとは言わぬ。お前の薬草育成は手伝ってやる。私が知る限りの薬の知識も共有しよう」
「マジで!?」
ヤツヅリの目がぱあっ、と輝いた。
「分かったよ仕方ないなあ」
「声が不抜けとるぞ」
「……うるさい。明日から君が荒らしてくれた畑の修復が待ってるんだ。作業しながら話してもらうからな」
「分かった」
「じゃ、今日はもう寝るとして……寝床用意するから少し待ってて。布団とか持ってくる」
「いや、布団はいい」
「?」
タヅナは古びた薬箱をひとつ手に取り、ぱか、と蓋を開ける。
空っぽのそれをしばらく覗き込み、頷いた。
「私の住処はこれでいい」
「え」
「忘れたか?」
そう言いながら箱を手近な棚の上に置く。
「私は管狐だ。これでも十分広いくらいだ――ただ」
「ただ?」
「あの太刀――風切だけはこの箱に持ち込むことはできぬから、そこの隅で良い。置かせてもらえまいか」
タヅナが視線で指した先には、鞘にしっかりと収まった刀があった。
「ん。それくらいなら」
「感謝する」
その言葉を背に、ヤツヅリは白衣を椅子の背に掛け、寝る支度を調える。全ての用意が整った時、ひとつ聞き忘れた事を思い出した。
「ところで、君の名前……」
そこにはもう、誰も居ない。
ただ、蓋の閉じた薬箱がひとつ静かに置かれていた。