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作者: 小説書き123456
一話
 足底に感じる砂利を強く踏みしめる。 踏ん張りが利くように姿勢を下げる。

 心臓はその瞬間に向けて徐々に鼓動を落ち着かしてそのときを待ち続ける。

 やがて合図の音が響き渡る。 

 瞬間、全てがスローモーションに。

けれど躍動する筋肉を隅々まで感じる。

 夢中で身体を動かす。 腕を力いっぱい振って。

 足に力を入れてひたすら。 ひたすらに。 

 やがて身体の中の酸素が無くなっていき、ギシギシと肉体が軋む音が聞こえてくるがそこで大きく歯を食いしばるのだ。

 思うことはただ一つ。 

 早く。 もっと早く。 さらに早く。 さらに! さらに!

 やがて白いテープを身体に巻きつけながらゴールを走り抜ける。 

フラッグがあがり、それは私が一番だということを表していた。

 徐々に速度を落としていってやっと止まったときに大きく口を開いて思いっきり空気を吸う。

 その瞬間が私の好きな時間。 限界を越えたときに感じる肌に滲む汗の感触を楽しみながら私は精一杯呼吸した。

 

 気づくと視界は薄暗かった。 見慣れた乳白色とカーテンから漏れる光によって天井は青白く見えた。

「ああ、…夢」

 一言呟くと、ゆっくりベッドから起き出した。

 瞬間、鋭い痛みが走る。

 思わずそこに手を触れると、すぺすぺとした感触の包帯が右足首に巻かれている。

「駄目ね…まだ慣れてないなんて」 

 呟いてそこを撫でながらゆっくりと手元に置かれた松葉杖を持って右足に負担が掛からないように立ち上がる。
 
 あの夢はいつの時のだっただろう?

 新人戦? 県大会? それともいつの時のでもない夢の中でのコースだったのか?

 いずれにしても関係ない。 

もう私は走れないのだから。

 痛み自体は昔から続いていた。 

けれどせっかく取れたレギュラーを逃したくなくてテーピングや痛み止めで乗り越えてきた。

 けれどそれが効かなくなって、それでも走り続けていたときに私の好きなことは唐突に途切れてしまった。

『アキレス腱が切れ掛かっています』

 練習中に倒れこんだ私が運び込まれた病院の先生は言いづらそうにそういった。

 最初は大したことないって思った。 ううん、そう思いたかった。

「あの…それで治るにはどれくらいですか?」

 私の問いかけに医者は視線を下に向けて、

「リハビリを重ねれば一般生活には支障がでないようにはなると思いますが…」

 それが答えだった。 

 私が大好きだったことは永遠に失われてしまった。

 最初は希望を持っていた。 辛いリハビリを続けても走るどころか歩くことすらおぼつかない。

 あんなにも自由自在に動かせていた自分の脚がまるで他人のようにぎこちない。

 少し酷使すればやってくる痛みは薬無しではとても耐えることの出来ないほどにひどく、それは私が僅かに持っていた希望を当たり前のように砕いて跡形の無いものへと変えてしまった。

『陸上だけが全てじゃないよ』

『新しい趣味を探せばいいじゃない』

 周囲の人たちはそう言ってくれた。

 もちろんそれは私のことを気遣ってくれた優しさゆえの言葉だということはわかっている。

 でも子供の頃からやってきたことがある日何の覚悟もなく出来なくなったというのに、そう簡単に代わりが見つけられると思っているのだろうか?

 善意の言葉に悪意の感情など返せるはずもなく、そう言われるたびに私はぎこちなく笑顔を返すことだけしかできなかった。

 でも自分でもわかっている。 このままで良いはずが無い。 

 だけど…けれども…そうわかっているのに次の一歩が踏み出せないのはどうしてだろう?

 答えはわかりきっている。

 納得など出来ないからだ。 でも私が納得しようが否定しようが私の足は昔のように動いてはくれない。 

 それだけは確実なのだ。 

 私は宙ぶらりんだ。 心もそのあり方も。 ただただ風に揺れる木の葉のようにフラフラと空中で揺らいでいるだけ。

 醒めた脳内でどこか他人事のようにそう感じている。

 ピンポ~ン。 

 インターホンが鳴る音が聞こえる。 母は今日はパートで家に居ない。 家の中に居るのは不恰好にヨチヨチとしか歩けない私だけ。

 玄関まで行くことが億劫なので居留守を使ってしまおうか? 

 そう思ったが、携帯に掛かってきた着信によってそれを出来ないことを理解した。

 
 
「近くまで来たからさ…亜里抄のこと、気になって」

 そうカーペットの上に置かれたクッションの上に座り込んで祥子がニカリと笑っている。

 須藤祥子。 私の友達で、一番仲の良かった子。 そして陸上部でのライバルでもあった。

 私と同じ中距離層のランナーで共に競い合っていた親友。

 二年生の時に二人同時にレギュラーになったときは部活の後に学校の自販機でジュースで乾杯をした。

 今となっては心を僅かにかきむしる思い出を思い出す。

「…足の調子はどう?」

 なんでもことのないような言い方とは裏腹にその笑顔と言葉は硬い。 いつもずっと一緒に居たからこそ気づいてしまうその皮肉には私も苦笑してしまう。

「まだまだ…かな、リハビリを続けていければ…もしかしたら…」

 本当はそんなことは出来ないとわかっているのに嘘をついてしまう。 唯一の親友だからこそ本当のことを言えないこともあるのだなと私はそのときに初めて気づいた。

「…そうなんだ、早くよくなるといいね」

 私の嘘に気づいているのかいないのか? 祥子の笑顔はいつもどおりに戻った。

 果たしてこれは演技なのだろうか? それとも本当の笑顔なのだろうか?

 昔のような会話を繰り返しながらそんなことを考えている自分が嫌だ。

 学校のことや試験のこと、共通の友達に出来た彼氏の話。 昔のことのように語り合っている。

 けれど決して部活の話はしない。 

 祥子はきっと次の大会でもレギュラーなのだろう。 私の怪我のことを思って陸上の話はしてこない。

 その気遣いを嬉しいと思うと同時にどうしても煩わしさを感じてしまう。

 本当は叫びたい。

 やめて! 上っ面で接してくるのは! 私が走れなくなったのにあなたはどうして走れるの? 

 自分の中の汚い思いと言葉が心の中で生まれてくる。

 辛い。 辛いけれど、それを発してしまうことなんて出来ない。

 我慢しないと…我慢しないと…大丈夫、辛いことには慣れているもの。

 タイムが中々縮まらない時だって、自分より早い子に出会った時だって耐えてきた。

 それだけじゃない。 足が痛くたって私は辛い練習をして大会にだって出れた。
  
 あの痛みに比べればこれくらい耐えられる。 耐えられるはず。

「え~、そうなんだ…おかしいね!」

 祥子が話してくれた友達の失敗話を聞きながらそれらをねじ伏せて私は精一杯笑って返した。

 ふと頬に誰かの手が触れた。 それは祥子の手だった。

「大丈夫だよ、きっと私が想像も出来ないくらい辛いってことはわかってるから我慢しなくていいんだよ」

「ええっ?急にどうしたの?」

 誤魔化そうと渾身の力で笑みを造ろうとしたけれど、頬に触れた指先が私から流れた涙を掬い取る。

「泣きながら無理に笑うなんてしなくていいよ、上っ面じゃなくて本音で話そう…ねっ?」

 どうやら私の我慢は思っていたよりも弱かったようで、うまく誤魔化して笑っているつもりが、実際のところは泣いていたようだ。

 そして気づいた。 私が上っ面で話さないでと思っていると同時に祥子は同じ気持ちでいて、でもそれに気づかないふりで私に接してくれていたのだということに。

「ご、ごめん…ね…私…」

「大丈夫、大丈夫だよ」

 泣きじゃくる私のあとからあとから流れてくる涙を祥子はその綺麗な指先で何度も拭ってくれた。 

 その流れ出る涙によって指先も指全体も、そして手首まで濡れても何度も何度も拭ってくれた。

 それが嬉しかった。 そうしてくれることで私の中の嫌な部分ごととけていくような気にすらなれた。

「ねえ…窓、開けてもいい?」

 ひとしきり泣きじゃくって、落ち着いた頃を見計らって祥子がそう言った。

「え?う、うん…」

 『よいしょっと』と言いながらベッドに上がりカーテンを轢いて祥子が窓を開けた。

 窓が開いた瞬間、一陣の風が私の頬を撫でる。

 涙の後がヒヤリとした後に乾いていくのを感じた。

「あはっ、やっぱり外の匂いって良いね」

 振り替えた祥子の本当の笑顔を見て私は子供のようにまた泣いた。

 

「足、痛くない?」

「うん、大丈夫…久しぶりに外に出た」

「あはは、あまり出ないと太っちゃうよ」

 左肩を支えられながら祥子の言葉に本当の言葉で返した。 遠慮の無い言葉がまた私を嬉しくしてくれる。

 あの後、また少し話した後、祥子を誘って私は近くの公園へと向かった。

 怪我をしてからはなるべく出ないようにしていたけれど、祥子が言ったようにやっぱり外の匂いは良い。

 少し前まではよくここで練習を兼ねて二人で一緒に走った公園は当たり前だけれど昔と全く同じで、それが私の心を落ち着かせてくれた。

「ねえ、大丈夫だから…あそこのペンチのところまで一人で行ってくれる?」

「うん、わかったよ」

 唐突な私の提案にも小気味良く祥子は応えてくれた。

 支えを失った瞬間、少しだけバランスを崩したけれど、何とか持ちこたえられた。

 祥子は真剣な瞳でそれを見てくれている。

 また勇気が湧いて出た。 私は一、二度深呼吸をして息を整える。 

 それは本番前にしていた緊張をほぐす為の私だけの方法。

 やがて準備が出来たのを確信して私は歩き出した。

 松葉杖を付きながら、ゆっくりと不恰好にヨロヨロとした足取りだったけれど確実に少しずつ親友との距離は縮んでいく。

 あと少し、あと十歩。 あと五歩。 あと三歩。 あと…一歩。

 私の右足は崩れることなくゴールへと辿り着くことが出来た。

「おめでとう、ちゃんと完走できたね」

 親友の胸に顔をうずめながら、頭の上から響く声に『…うん』と私は答えた。

 今まで走っていた距離のほんの百分の一だけれど、私は完走することが出来たのだ。

 慣れない松葉杖のせいだろうか? いままでのブランクのせいだろうか? 

 荒く息を吐き、背中にジワリと染みた汗で服がくっ付く感触を楽しむ。

 疾走とは程遠い。 歩くよりも遅かったけれど。

  ああ、あの時と同じように私の身体は全力で走った後の心地よい汗の香りに包まれていた。
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