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作者: 霜月かつろう
懐かしい景色 その9
「それで具体的にこれからの話をしたいんですけど。立花さん? 大丈夫ですか?」

 この人はいつも人の心配をしているなと思ってしまうくらいには上里コーチの大丈夫ですか。を聞いている。心配させている琥珀も琥珀なのだろうが、それ以上に上里コーチの人柄が出ている。

 アリスちゃんたちのレッスンが終わるのを優太とふたり。朝ごはんをスケートリンクとなりのコンビニで買って食べてスケートリンクの待合室で上里コーチを待っていた。優太は鮭のおにぎり。琥珀もおにぎりだ。味は梅干し。練習終わりに学校に行く途中で毎回食べていたのを懐かしく思ってしまった。でも今は一個。昔は二個だった。

 上里コーチはそんな琥珀たちを見つけて慌ててテーブルを挟んだ向かい側の椅子に座った。スケートリンクの椅子はスケート靴を履いた状態を想定しているのか普段の椅子よりも高く、靴を脱いでしまった今は足が地面につかずに宙に浮いている。この感覚が昔から好きだった。靴を脱いだ開放感と一緒にふわふわしているちょっとだけの達成感。優太なんかは自分で上るのも大変そうだった。普段の靴も脱がしてあげて家の中のようにあぐらをかいてくつろいでいる。上里コーチはスケート靴のままなのでしっかりと地面に足がついてるみたいだ。

 おっといけない。そんなことより、話をするために待っていたのだ。

「あっ。いえ。大丈夫です。それで具体的というのは?」
「まずは、練習会でのお手伝いの話です。今日の感じでどうでしたか?」

 泣かれてしまったけれど、それだけで嫌になったわけではない。むしろまた来てくれるならちゃんと滑れるようにしてあげたいと思う。

「上里コーチさえ良ければ続けさせてください」
「あ、ありがとうございます。人手不足だったんで助かります。たまにああやって初心者が来てくれるので相手をしてあげたいんですがそれだけってわけにもいかなくて」

 そりゃそうだ。選手になりたいと一括りにしても実力差はある。マンツーマンでレッスンをすることなんてトップレベルの選手たちしかできないことだ。コーチの報酬は時間単位で決まる。ひとりでコーチを専有するということはそういうことだ。だからある程度の人数がまとまって練習することがほとんどだ。その中には当然、今日の女の子のように手をかけなければならない子だっている。そんなときに琥珀のような人手は助かるのだ。琥珀としても子どもたちに技術を教える自信はないので、これくらいが丁度いい。

「こちらこそありがとうございます。優太とふたりどうしていいかわからなかったので仕事があるだけでも助かります。遠慮なく任せてください」

 とは言うものの泣かせてしまったばかりだ。自信満々と言う訳にもいかない。

「ではレッスンの方は今後もよろしくお願いします。それで、もうひとつ。対抗戦の件なのですが。立花さんには元選手枠でトップバッターなわけなんですが」

 五人対五人で行うフィギュアスケートとしてはよくわからない形式の大会は商店街の対抗戦ならではだ。いかにもローカルなものを感じる。

 そしてその五人にはそれぞれに枠が存在する。元選手、現役選手、商店街から三人。計五人だ。元選手がトップバッター。現役選手がラストを飾る。それが伝統ではある。それは受けたときから分かっていたことだ。だから上里コーチが気にしているのもきっとそこじゃない。

「曲とか、衣装とか。どうしますか?」

 まあ。そうだよね。そこを決めないといけないですよね。
 一応、考えてはいたのだけれど現役時代に使っていたものをそのままでいいかなと思っていた。忘れてしまったところも所々あるのだけれど、新しく演技や衣装を作り直すだけの実力も体力もありはしない。

「昔のを使いまわそうかと思ってます」

 そうするしかないのだけれど。それはそれで問題がある。

「やはりそうですよね。まだ数ヶ月ありますが。練習に割ける時間も限られますからね。それがいいと思います。しかしよかった。昔の衣装をまだ持っていらしたんですね。レンタルだったり捨ててしまったりしてる人も多いので、ちょっとだけ心配でした。あとは失礼ですが体型も」

 ひとつ目の問題がそれだ。選手だった頃と比べて体の締りはなくなっている。幸い満足な食事を続けられているわけではないので大幅に増えてはいないだろうがどの程度筋力が落ちてしまっているかは気になるところだ。しかし半年もあるしある程度なら制御できるはずだ。

「ご実家にあるんですか? 靴もそうですよね」

 そして重要なのがそのふたつ目の問題。

 何もなかったように家に帰って、なんてことのない感じで必要なものを持ち出したいがそれが出来るのであれば今みたいな生活はしていない。

「そうです。ちょっと今は両親が忙しいみたいで帰るタイミングがないんてすが、近いうちに必ず帰ります」

 上里コーチには怪しく聞こえただろうな。海藤さんからどこまで聞いているんだろうか。確かめたくもない。

「分かりました。それまでは貸靴でいきましょう。でも気をつけてくださいね。昨日みたいなことが続くと心配なんで」

 ある程度、察してくれているのだろう。優しく微笑んでくれる。それに思わずドキッとしてしまう。恋心みたいなもんじゃない。芸能人を目の前にしたみたいな、そんな気持ちにさせるのだ。選手時代はモテただろうな。それは娘のアリスちゃんからも見て取れる。奥さんはものすごい美人なはずだ。

「ありがとうございます。必ず本番までには間に合わせますので」

 気が重いだけ。嫌味のひとつやふたつを覚悟して出向けばいいだけ。そのはずなのだ。

「えっと。無理しないでくださいね。他の方法もあると思いますので。こちらからお願いしているのもあるのでなんとかする方法も考えますから」

 そこまで気にしてもらうと琥珀もそんなことで尻込みしていられないなと思う。

「大丈夫です。なんとかします。自分のことですから。それくらいはさせてください」

 なんでもかんでもお世話になりっぱなしというのはこれからのことを考えるとなんとかしなきゃと思う。

 なんだかここのところなんとかしなきゃってばかり思っている。でもその通りなのだ。なんとかしなきゃ。今は助けてもらっているだけ。それだけではいつかはまた露頭に迷ってしまう。それは嫌というほど学んだじゃないか。

 優太の小さな手を握る自分の手に力が入る。

「ママ?」

 そのことに気がついて話がつまらなくてぼーっとしていた優太が琥珀を見上げる。

「あっ。ごめんね。痛かったよね」
「ううん。大丈夫」

 ああ。優太に心配させてばっかりだ。きっと大丈夫じゃない。優太だって不安を感じているはずなのに。もう強がらせてしまっている。

「た、立花さん」

 上里コーチが慌て始めた。いったいどうしたというのだ。

「ママ。悲しいの?」

 優太まで妙なことを言い始める。私がどうしたというのだ。

「これ使ってください」

 上里コーチがどこからかハンカチを取り出した。こういうのも持ち歩いているんだな。でもなんでハンカチ?

 そこでようやく頬を伝うものに気がついて。ハッとした。
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