憧れのその先 その11
「まったく。しつこいよね。出ていったら出ていったらで戻ってこないか。なんてさ。都合が良すぎると思わない?」
あれから一般滑走の時間にスケートリンクに足を運ぶ気にもならなかったのだけれど、貸切練習を欠席するわけにもいかないので気乗りしないまま辿り着いた先で待っていた琥珀さんは荒れていた。
「そんなこと言われたんですか?」
「言われたのよ。おおかた新しい人に振られたんでしょ。それですぐに戻ろうとする辺りどうなのかと思うけどね。きっと誰でもいいのよ」
そんなことがあるのか。信じられやしない。それに気になることもある。
「それで、どうするんですか?」
「どうもしないわ。このまま。しつこいから海藤さんが追っ払ってた、それにしても情けない姿だったなぁ」
苦虫を噛み潰したように顔を歪めている。それを見て気になった。
「なんでそんな人と一緒にいたんですか」
琥珀さんがそんなに軽い人だとは思っていなかった。だから優太くんを連れているのを見た時、なんとも言えない感情も抱きもした。琥珀さんは変わってしまったんだ。そんな気がしてならなかった。
「聞いちゃう?」
「聞いちゃいます」
優太くんがポカンとこちらの言動にちくいち反応しているがきっと中身まではわかっていないはずだ。
美鶴だって正直言えば聞きたくない。聞いたことにより憧れ続けていた琥珀さんが壊れてしまう。そう思っていた。
「聞きたいんです。琥珀さんのこと、もっと」
「そんなこと真顔で言われるとなんか照れちゃうね。そういうのあの人から聞きたかったな」
あの人とはきっと優太くんの父親のことだろう。
「好きなんですか?」
琥珀さんはちょっとだけ困ったような顔して悩んでいるのか押し黙った。
「好きじゃないよ。それも好きじゃなかっただね」
「えっ」
「驚かないでよ。私だって驚いているんだから」
そんな事を言われたって驚く。そんなことがあるのか。
「私がスケートしかしてこなかったのは知ってるでしょ? だから大学に入って全部がキラキラしてみてたし、楽しいと思った。そうしているうちに、ずっとそばにいてくれる人の存在に気がついたの。それがあの人。一緒にいると安心したし、離れると不安になった。でも、よくよく考えてみればそれは全部あの人の思惑のままだったんだ。それで気づいたらお腹の中に優太がいた。親は大激怒。あの人は一緒にいようとは言ってくれたけど、あれは面倒事になるのを嫌がったんだと思う。その証拠に籍は入れてくれなかった。けれど離れることはできなかったの。そりゃそうよ。優太がいるんだもん。ふたりだけで生きていく自信なんてなかった」
それを聞いてどう答えればいいのか。美鶴には想像もつかない世界の話だ。到底その人生に近づくことは出来ない。
「それよりもあの頃の私にとってはあの人がすべてだったから。それを失いたくなかったんだ。でも、捨てられた。ほんっと、ぜんぶが消えた気がした。でもね。当もなくフラフラと歩いていたはずなのに気がついたらスケートリンクにいるんだもん。自分でもびっくりしちゃった。それにね。優太はずっと手の中にいたんだよ。突然飛び出してたくさん歩いて。でもなにも言わなくて黙ってついてきてくれてた。そしたらね、ちゃんとしなくちゃって。思ったんだ」
琥珀さんがキョトンとしている優太くんのほっぺをつつく。まるでマシュマロのような弾力の見た目だ。一緒になってつつきたくなるけど、ぐっと堪えた。
「そしたらね。なんだかわからないけど、上手くいくようになったんだ。海藤さんに声を掛けられて、住む場所が見つかって。仕事を手伝い始めて。またスケートが出来るようになった。なんかね不思議なんだ。ひとりで考えてた時はなにもできなかったのに。気づいたらこんな周りに人がいるなんてね。びっくりだよ」
「だとしたら、私はあの人に感謝しなくちゃならないんですかね」
「なんでよ? 美鶴ちゃんにもなにかしたのあいつ?」
そうじゃない。そうじゃないんだ。
「だって琥珀さんにまた会う機会をくれたじゃないですか」
キョトンとした顔が優太くんそっくりで思わず笑ってしまった。なんでか知らないけど琥珀さんも笑う。そして一緒になって優太くんも笑っていた。
「さっ。練習時間だぞー」
海藤さんは変わることない。でもきっと海藤さんがいなきゃ琥珀さんもここにはいないし、先日のことだって海藤さんが出て行かなきゃどうなったか分からない。
海藤さんはもう氷の上に立っていてみんなが来るのを待っていたみたいだ。すれちがいざまに会釈しながらお礼する。
「ありがとうございます」
「は? なんのことだ?」
そりゃそうだろって反応だ。
「なんでもないですぅ」
ついついはしゃいでしまう。まるで中学生の頃にもどったみたいだ。心が躍る。
「おいおい、気をつけろっていつも言ってるだろうが」
「流石に海藤さん先生過ぎやしません?」
琥珀さんが言いたいことを言ってくれる。心配性なんだから。そう一歩足を踏み出した途端、足がツルッと滑った。頭が後ろに落ちていくのがわかった。
こんなに滑ったことはない。なんで。どうして。そう、理由を探している間に身体も倒れ始める。
「あぶねぇ!」
海藤さんの声が聞こえた。同時に浮遊感が消えた。同時に妙な音がした。鈍く何かを叩きつけたような音。
「っ!」
海藤さんが声にならない低くて鈍い声を上げるのと同時に、衝撃がない程度に氷の上に寝かされた。
身体が冷やされていくのを感じつつも海藤さんが小さくうめいているのがわかった。なにが起こったのか。それを確認するのがあまりにも怖くて、美鶴は身体が冷えていくのを感じながらも動くことが出来なかった。
あれから一般滑走の時間にスケートリンクに足を運ぶ気にもならなかったのだけれど、貸切練習を欠席するわけにもいかないので気乗りしないまま辿り着いた先で待っていた琥珀さんは荒れていた。
「そんなこと言われたんですか?」
「言われたのよ。おおかた新しい人に振られたんでしょ。それですぐに戻ろうとする辺りどうなのかと思うけどね。きっと誰でもいいのよ」
そんなことがあるのか。信じられやしない。それに気になることもある。
「それで、どうするんですか?」
「どうもしないわ。このまま。しつこいから海藤さんが追っ払ってた、それにしても情けない姿だったなぁ」
苦虫を噛み潰したように顔を歪めている。それを見て気になった。
「なんでそんな人と一緒にいたんですか」
琥珀さんがそんなに軽い人だとは思っていなかった。だから優太くんを連れているのを見た時、なんとも言えない感情も抱きもした。琥珀さんは変わってしまったんだ。そんな気がしてならなかった。
「聞いちゃう?」
「聞いちゃいます」
優太くんがポカンとこちらの言動にちくいち反応しているがきっと中身まではわかっていないはずだ。
美鶴だって正直言えば聞きたくない。聞いたことにより憧れ続けていた琥珀さんが壊れてしまう。そう思っていた。
「聞きたいんです。琥珀さんのこと、もっと」
「そんなこと真顔で言われるとなんか照れちゃうね。そういうのあの人から聞きたかったな」
あの人とはきっと優太くんの父親のことだろう。
「好きなんですか?」
琥珀さんはちょっとだけ困ったような顔して悩んでいるのか押し黙った。
「好きじゃないよ。それも好きじゃなかっただね」
「えっ」
「驚かないでよ。私だって驚いているんだから」
そんな事を言われたって驚く。そんなことがあるのか。
「私がスケートしかしてこなかったのは知ってるでしょ? だから大学に入って全部がキラキラしてみてたし、楽しいと思った。そうしているうちに、ずっとそばにいてくれる人の存在に気がついたの。それがあの人。一緒にいると安心したし、離れると不安になった。でも、よくよく考えてみればそれは全部あの人の思惑のままだったんだ。それで気づいたらお腹の中に優太がいた。親は大激怒。あの人は一緒にいようとは言ってくれたけど、あれは面倒事になるのを嫌がったんだと思う。その証拠に籍は入れてくれなかった。けれど離れることはできなかったの。そりゃそうよ。優太がいるんだもん。ふたりだけで生きていく自信なんてなかった」
それを聞いてどう答えればいいのか。美鶴には想像もつかない世界の話だ。到底その人生に近づくことは出来ない。
「それよりもあの頃の私にとってはあの人がすべてだったから。それを失いたくなかったんだ。でも、捨てられた。ほんっと、ぜんぶが消えた気がした。でもね。当もなくフラフラと歩いていたはずなのに気がついたらスケートリンクにいるんだもん。自分でもびっくりしちゃった。それにね。優太はずっと手の中にいたんだよ。突然飛び出してたくさん歩いて。でもなにも言わなくて黙ってついてきてくれてた。そしたらね、ちゃんとしなくちゃって。思ったんだ」
琥珀さんがキョトンとしている優太くんのほっぺをつつく。まるでマシュマロのような弾力の見た目だ。一緒になってつつきたくなるけど、ぐっと堪えた。
「そしたらね。なんだかわからないけど、上手くいくようになったんだ。海藤さんに声を掛けられて、住む場所が見つかって。仕事を手伝い始めて。またスケートが出来るようになった。なんかね不思議なんだ。ひとりで考えてた時はなにもできなかったのに。気づいたらこんな周りに人がいるなんてね。びっくりだよ」
「だとしたら、私はあの人に感謝しなくちゃならないんですかね」
「なんでよ? 美鶴ちゃんにもなにかしたのあいつ?」
そうじゃない。そうじゃないんだ。
「だって琥珀さんにまた会う機会をくれたじゃないですか」
キョトンとした顔が優太くんそっくりで思わず笑ってしまった。なんでか知らないけど琥珀さんも笑う。そして一緒になって優太くんも笑っていた。
「さっ。練習時間だぞー」
海藤さんは変わることない。でもきっと海藤さんがいなきゃ琥珀さんもここにはいないし、先日のことだって海藤さんが出て行かなきゃどうなったか分からない。
海藤さんはもう氷の上に立っていてみんなが来るのを待っていたみたいだ。すれちがいざまに会釈しながらお礼する。
「ありがとうございます」
「は? なんのことだ?」
そりゃそうだろって反応だ。
「なんでもないですぅ」
ついついはしゃいでしまう。まるで中学生の頃にもどったみたいだ。心が躍る。
「おいおい、気をつけろっていつも言ってるだろうが」
「流石に海藤さん先生過ぎやしません?」
琥珀さんが言いたいことを言ってくれる。心配性なんだから。そう一歩足を踏み出した途端、足がツルッと滑った。頭が後ろに落ちていくのがわかった。
こんなに滑ったことはない。なんで。どうして。そう、理由を探している間に身体も倒れ始める。
「あぶねぇ!」
海藤さんの声が聞こえた。同時に浮遊感が消えた。同時に妙な音がした。鈍く何かを叩きつけたような音。
「っ!」
海藤さんが声にならない低くて鈍い声を上げるのと同時に、衝撃がない程度に氷の上に寝かされた。
身体が冷やされていくのを感じつつも海藤さんが小さくうめいているのがわかった。なにが起こったのか。それを確認するのがあまりにも怖くて、美鶴は身体が冷えていくのを感じながらも動くことが出来なかった。