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作者: 霜月かつろう
キミのことが分からない その1
 スッと扉を開けると温度差で風の流れが自然と生まれる。その風に逆らうように足を踏み入れた先は氷を張るために外気どころか建物内に比べても随分とひんやりとしている特別な空間だ。それも朝一番の貸切練習となれば一晩かけて冷やされた空気は格段に身体に刺激を与える。

 それと同時に鼻孔を突く独特な匂いがやってくる。

 この匂いが割と好きなんだ。上里芳樹はいつだったかそう言った覚えがある。

 氷を整えるために走ったであろうガソリン車の匂いはスケートリンク独特の物だ。熱しられたそれに比べて突き刺すように脳を刺激する。まるで目を覚ませと言われているようなその匂いに誘われるまま氷の上へ足を運ぶ。

 今日は無理を言って少しだけ早く滑らせてもらっている。

『いつもお世話になってるから。特別だよ』

 スケートリンクを管理する人に声をかけてもらえて、それだけでちょっと心が軽くなった。

 自分の心の重さなんて自分でも分かりっこないのにな。

 滑り始めた靴。それに釣られるように引っ張られる身体のバランスを取りながら前に進む。悪くない。感覚としては現役選手だった頃よりも研ぎ澄まされている気がする。

 実際の所。身体はなまっているし、昔ほど筋力もない。トリプルジャンプを跳ぶのはほぼ無理。ダブルジャンプだったらおそらくだけど跳べると思っているが、数年やってこなかったことに自信は持てない。

 それよりもと、足の底に意識を集中させる。芳樹にとってこれは儀式みたいなものだった。いま足のどの部分で滑っているかを細かく感じる。大雑把な部分ではなく確固たる自信をもってここだと思える箇所がある。

 そこに体重を乗せることが出来たときの快感が現役時代から忘れられなくて未だに時間を作ってはこうやって確認をしている。

『スケートがない人生なんてもう考えられないから』

 つい最近、言葉にした芳樹の想いだ。半分くらいその言葉には呪いが込められている。スケートがない人生を歩むことは出来ないのだ。とそれは芳樹自身が一番よく分かっている。

「ああ。くそっ」

 そうやって考えてしまうことを振り切るようにスピードを上げていく。フィギュアスケートとは言え、全力で氷を蹴り続ければ速度は増していく。キンキンに冷えた氷の上は特によく冷えて、よく滑る。

 空気が抵抗だと実感できる速度になるが足を止めることはしない。流れる空気が首の隙間から胴体に入り込み身体を冷やしていく。しかしそれ以上に動かし続ける身体からは熱が発していくのもわかる。

 足の裏の感覚は悪くない。足を踏み込み度に加速するのがわかる。氷にエッジが食い込み氷を徐々に溶かしながらエッジを前に押し進める。久々に跳んでしまおうか。

 右足を出しかかと同士をくっつけるように左足を置く。その時点で身体は後ろを向く。宙に浮いた右足を左足の隣に置いて、左足を浮かしてから靴の中央辺り。ちょうど土踏まずの位置にエッジを持ってくる。右足に体重をかけて。アルファベットのTの字のようにしたら左足を思いっきり踏み出して両手を引く。

 ここで足の裏に意識を集中し一番滑る箇所を探る。エッジは左側に倒し反時計回りに孤を描きながら氷を傷つけていく。

 後ろにある両腕と右足を前に持ってくる。それらのエネルギーが上へと向かったその瞬間にエッジは先端のギザギザへと差し掛かるように体重移動。そうすることで急ブレーキがかかりそれも上の方向へエネルギーに変換。

 すると身体は宙へと浮かぶ。孤を描いていた影響で身体は左回りに回り始める。それに抵抗することなく前に放たれた両腕と踏み切った左足を体の下に持ってきている左足つまり身体の軸へと巻き取るように細くなるイメージで身体を絞る。

 遠心力で身体は高速に回り始め、二周回ったところで身体を止めるために両腕を横に開き右足での着地に備える。

 ががががが。

 氷を削りながらの着地は下手くそな証拠だ。勢いも余って身体のバランスを崩しそのまま氷へと転がる。ツルツルの氷は身体を滑らせ。まるでカーリングのように氷の上をしばらく滑ったあと止まった。

 もう。こんなものだよな。

 スケートでしか生きていけないのに。スケートの実力は落ちるばかり。年相応に衰えていく身体をどうすることもできやしない。

 天井を見上げるように大の字になる。氷に接しているのだからすごい勢いで身体から熱が奪われていく。

 このまま凍ってしまいたい。そう思っても。もう間もなく入ってくるであろう教え子たちを心配させるわけにもいかない。起きなくてはならないのに起きたくない。

 スケートと共にある人生ならこのまま氷と一緒になってもいいんじゃないか。そんな馬鹿な考えを振り払うように芳樹は立ち上がった。練習後であれば転んだりなんかすれば氷の削れかすがまとわりついているのだけれど。製氷後にはそんなことは起きない。ちょっと濡れるくらいだ。

「おはようございます!」

 朝早いから生徒たちの顔もそれぞれ。まだ、眠そうに目をこすりながらの子もいればすでにスイッチを入れ終えてやる気満々な子もいる。その中に淡々と氷の上に足を踏み入れるアリスの姿を見て鼓動が早くなるのがわかった。

 氷の上に乗ろうとする姿が随分と似てきた。面影を見つけるたびに思い出してしまう。

「おはよう」

 近くまで来ていつも通りあいさつをするアリスを注意することもなくなった。本来であればコーチと選手。そこの線引きはちゃんとすべきだと最初の頃はきちんと挨拶をするように言っていたのだがそれも聞き入れてもらえなかった

 あまり甘くするようだとえこひいきだとか、周りから言われかねない。それが原因で生徒が減る危険性もあった。それでもそんなことにならなかったのはアリスに対してあまりにも他人のように接しているからだろう。それくらいにアリスを腫物を扱うように対応してしまっている。

「ああ。おはよう。今日はちゃんと朝食を食べてきたか」
「うん」

 親子のようで少し距離を感じるその会話も周りからどう見られているのか分かったものではない。でもアリスの神秘的な印象はそれすらも特別なものに見えるらしく、なんか苦言を呈されたことはない。

 陸上で準備運動を済ませてきている生徒たちは氷と今日のコンディションを確認するために反時計回りでスケートリンクの外側を周り始める。それにより固まっていた空気が大きく動き始めて。一日が始まったような気にさせてくれる。このリンクも芳樹自身もだ。

 五分ほど滑らせて身体が暖まってきたころで全員に声を掛けてスケートリンクの端っこ、楕円の長い線を使えるように皆を並ばせる。

 基礎的なステップの練習を行い、それからスピン、ジャンプと移行していく。それぞれ各生徒の課題を思い起こしながら、適切に指導できるようにしていく。とはいっても、全体練習だとレベルがまちまち過ぎて、一斉に指導できないことも多い。細かいところは個別レッスンの時間を使って行うしかないが、それだってその生徒の方針によっては大きく異なってくる。

 例えばだ。

 国体、もしくはもっと先を目指しているのであれば、時間もお金も掛かってくる。そうではなくて自分のできる範囲でやっていくので満足であれば、全体練習のみなんて生徒もいる。そこは自由だ。こちらから強制することはできない。家庭の事情もあるだろう。

 こちらかある程度の方針を勧めることはできるが決定するのはその生徒と家族だ。結局、周りの負担が大きいスポーツなのだとたまに思う。

 貸切練習の時間には制限があり、望んだ練習方法を取れない。早朝や夜遅くなることだってある程度は仕方がない。それに貸し切るための料金にレッスン料。大会に参加するのであれば衣装、遠征費。それに加えて追加で個人レッスンをお願いされればそれ相応の報酬を請求する。

 生活のために仕方ないし、この相場を勝手に崩すことは業界全体に迷惑も掛かる以上、芳樹にはどうしてあげることもできない。ただ、精一杯に指導するだけだ。

 世知辛い世界だ。自分の思い通りに練習できる環境なんてほぼ用意できない。そんなのはオリンピックに出られる可能性がある一部の選手だけ。

 それに関してアリスは正直、恵まれている。加えて彼女の才能がここまで実力を押し上げた。生徒の中で一段と目立つ滑りをしている娘の姿をつい視線で追ってしまう。

 ほんと。そっくりだ。滑り方も、態度も、その才能も。レッスン中に余計なことを考えすぎてはいけないと。大きく息を吸い込んで肺に冷たい空気を取り入れて気合を入れなおした。

「よし。次のステップ行くよ」

 見え隠れするその影を振り払うように芳樹は声をスケートリンクへと響かせた。
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