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作者: 霜月かつろう
キミのことが分からない その6
「あの。身体を温めるってどうすればいんでしょう?」

 不安そうに聞いてきたのは望月くんだ。今は対戦相手の坂口さんが演技している。立花さんと対照的に白を基調としたフリルがたくさんついた衣装は彼女にとても似合っていた。普段コーチ同士として顔を合わせることしかしないからその姿に若干の気まずさも感じつつ見ている余裕もないので、休憩室で商店街のメンバーと最終確認をしていた。

 立花さんと川島くんはまだ戻ってこない。おそらく坂口さんの演技を観ているのだろう。

「いったんはいつも通りに滑ってみてください。でも、きっと緊張もあるから普段と違う感触になると思います。それに焦らず落ち着いて、その感覚を大事にしながら五、六周滑ってください。そのあとは一通りジャンプとスピンを確認したあと演技内容をやれるところまで滑ってください。それで時間は来ちゃうと思います」

 立花さんは経験者なので自分のペースで練習してもらったが、六分間しかない時間を初心者に自由にしろと言われても戸惑っている間に終わってしまう。ちゃんと細かく指示しておく。

 聞いてきたのは望月くんだけれど、後ろで笹木さんも頷いている。

「きっとあっという間なので、悔いのないようにね」

 緊張をほぐしてあげたいのに、反対に緊張するようなことを言ってしまった。ふたりの表情がピリっとしたのが分かる。

 歓声とともに大きな拍手が聞こえる。高坂さんの演技が終わったのだろう。

「よし。じゃあ行こうか」

 みんな緊張しているのか黙ったまま頷いた。

「あっ。みんな頑張ってね」
「がんばれー」

 立花さんと優太くんが出迎えてくれる。その後ろにいる川島くんもいる。それで少しは緊張がほぐれたのかみんなの表情に笑みがこぼれる。ホントにいいチームだ。このメンバーで対抗戦に出場できてよかったと思う。

『それで続きまして商店街の練習開始です。練習時間は六分です』

 アナウンスが流れ、北商店街と合わせて六人が順番に氷の上へ入っていく。この六人がそれぞれ二分ずつの演技を行う。対戦の組み合わせはなくて、北と南。どちらが良かったかを観客に判断してもらうだけだ。その形式からチーム戦とも言えなくもない。どちらにせよ特殊なルール過ぎて普段の経験は役に立たない。

 三人が同じ近しい速度で滑っているのを見て思わず笑みが溢れる。緊張しているので知り合いが近くにいないと不安なのだろう。

 外から見ているとよく分かるのだがスケートリンクは意外と広い。それを六人で滑れば空間の余裕は大きい。それがスピードもゆっくりな初心者集団ならなおさらだ。

『一番滑走。川島良二さん。二番滑走……』

 滑走順のアナウンスが始まった。川島くん、笹木さん。望月くん。先攻はこちらなのでみんなの後に北商店街のメンバーが滑る。北商店街はこちらよりひと回りもふた回りも歳を重ねている。こちらが若すぎるだけなのだが、やっぱり目立つ。去年までと反対だからって言うのもある。去年まではこちらの方が歳上だった。

 ようやくみんながバラバラに滑り始める。動きはそれぞれ硬いけれど身体はよく動いている。悪くなさそうだ。

 川島良二。

 この中で最初に滑るのは彼だ。最初はどうなることかと思っていたがどうにか形になった。川島くんは頑張った。ほぼ毎日のようにスケートリンクに通い滑っていた。その成果も出始めている。きっと滑っていて楽しい時期だ。毎日成長を感じられるだろう。

 そうは言っても周りの人たちのほうがまだまだ上手だ。いくら頑張っても限界はある。それは滑っている本人が一番実感しているはずだ。普通に滑っていても誰にも追いつけていない。スピードが単純に出ていないのだ。それは単に力の問題ではない。

 いかに一歩の力を減速させずに滑り続けるかが大事なのだ。抵抗が大きければいくら力強く蹴ってもすぐにスピードは落ちてしまう。だから抵抗を減らすためにスケートが一番滑るところに乗れるかどうかなのだがそれが突き詰めれば難しい。日々の練習の中で少しずつ重ねていくしか無い。足の裏の感覚を研ぎ澄ませ常にベストコンディションなところを探れるかだ。芳樹だってそれは難しく未だに納得して滑れたことはない。

 それでも川島くんは腐らずに前だけを見て滑っている。それは集中している証拠だろう。

 川島くんの衣装は芳樹が前に着ていたものだ。サイズが合ってなによりだった。男子フィギュアスケーターというのが少ないのもあってちょうどいい衣装を用意するのは女子に比べると格段に難易度が上がる。

 紺の中でも深めの色合いがベースで落ち着いたものを選んだ。もっとキラキラしたものが良いと思ったのだが恥ずかしくて無理と断られてしまったのだ。いわゆる王子様系統の衣装では抵抗があったらしい。

 だからといって今の衣装も目立たない訳ではない。右肩から左腹に向けて羽根があしらってあるし、そこかしこに散りばめられたスパンコールは照明の光を反射している。

『練習時間残り一分です』

 六分間の練習時間なんてあっという間に過ぎてしまう。みんなの様子を見守っていたらアナウンスが流れてちょっとだけ焦る。川島くんを呼び寄せて呼吸を整えさせなければならないからだ。

 視線を送るとこちらに気づいたようなので手招きする。慌ててこちらに動こうとしたので他の人にぶつかりそうになって謝りながらこちらへ来るが、焦りすぎて滑るというよりか走っているに近い動きになっている。

「とりあえず、深呼吸して落ち着こうか」

 声も出さずにそのまま大きく息を吸い込むもんだからむせてしまった。落ち着くように再び促してから一緒になって深呼吸をしてみせる。

「だ、大丈夫です。落ち着きました」
「そう? じゃあ。最初に跳ぶジャンプは?」
「る。ルッツです」

 慌てているものの少しは落ち着いてきたみたいだ。ルッツはバックで跳ぶジャンプの中では最も難しいとされるジャンプ。今回の川島くんの中でも最高難易度だ。

「そうだね。それで一回落ち着いてほしいんだけど。さっきまで立花さんと坂口さんが演技してた。一緒に見てたもんね」
「はい。つくづくふたりがどれくらいすごいか実感してます。それが同じ氷の上に自分も立つんですよ。未だに信じられません」
「そうかもね。あの、それで、言いにくいんだけど。観客がどうしても期待しちゃってるんだ。ふたりの演技に迫力があったから」

 それは言い難いことだけど言っておかなきゃいけないことだきっとどれだけ川島くんが自分の限界を越えた演技をしても観客の受けが良いとは思えない。だからといって演技が小さくなってしまってはどんどんと盛り下がってしまうだろう。そうなればそのあとに滑る人たちにとってもいい影響ではない。

「そうですよね。だれも僕になんて期待してないですよね」
「そ、そういう訳じゃ……」

 ここまで頑張ってきたのだから卑下になることはない。けれど、だからと言ってどうやって奮起させればいいのかも分からなくなってしまった。そんな会話を遮るように隣から人影が近づいてきた。

「なに当たり前のこと言ってるのよ。私たちがどれだけ滑ってると思ってるわけ? ねっ。琥珀」
「えっ。ああ。そうだね。でも気にすることないよ。川島くん頑張ってたし」

 近づいてきたのは靴を脱ぎ終えて戻ってきた坂口さんと立花さんだ。坂口さんは川島くんの事を気にしているが、立花さんは優太くんの相手が忙しそうだ。

「あっ、でもね」

 優太くんを抱えて立花さんが川島くんのもとへと近づいた。

「川島くんの演技を楽しみにしている人もきっといるはずだから。大丈夫だよ。ね。優太」
「うん。たのしみ!」

 優太くんは言わされている感じもあるけど、川島くんはそう捉えなかったのか驚いた顔をしている。これまでにないくらい目を見開いている。

「まっ。そう言うこと。ひねくれものの良二には難しいかもしれないけど、ちゃんと受け止めてきなここからの二分間それができるのはあんたしかいないんだから」
「はっ。対抗戦だって言うのに敵に塩を送るのかよ。まっ。でもわかったよ。そうなんだな。それがふたりがやってきたことなんだな」

 川島くんは振り返るとスケートリンクの中央辺りを見つめている。自分が立っている姿を想像しているのだろうか。

『練習時間終了です。選手のみなさまはリンクサイドにお上がりください』

 アナウンスが流れて川島くん以外の人たちが次々とリンクサイドへ上がっていく。身体を冷やさないように動き続けるように口だけで指示すると川島くんと向きあう。同時にアナウンスが続けて流れる。

『一番滑走。川島良二さん。栄口南商店街』

 名前を呼ばれて肩に力が入るのが分かった。それに気づかないふりをする。

「ちょっとは覚悟できたみたいだね」
「ええ。おかげさまで。僕にもあれやってくださいよ」

 急に川島くんは後ろを向くと上を見上げた。どうやら先ほど立花さんにやっていたのを見ていたらしい。川島くんには遠慮なく左肩に手を置かせてもらう。

「毎日練習してきたことを一番知っているのは自分だと思います。そのことを忘れないで。心を込めて行ってきてください」

 スッと肩から手が離れた。

「先生がんばってねー」「ファイトだよー」

 川島くんが出ていくと客席から声援が飛んできた。思いがけなかったのか客席に視線を送って確認すると手を振って返している。

「あれでもパソコン教室の先生としては人気あるんですよ。川島くん」

 補足するように呟いてくれたのは立花さんだ。坂口さんはいなくなっている。勝負相手の所に長い時間いるのは立場的にできないのだろう。

「そうみたいだね。おかげで本当に覚悟も決まったみたいだ」
「ほんとひねくれてるんですから」

 懐かしむように呟く立花さんの声色が珍しく低めで普段とは違う印象の笑い方をしている、もしかしたら昔は今みたいな感じじゃなかったのかもと、余計なことを考えてしまう。今の感じは優太くんがいるからだろうな、きっと。

 話していたら音楽が流れ始めた。ちょっと前に流行ったアニメーション映画のテーマ曲。立花さんとは違ってこちらのふたりは結ばれる。それを象徴するかのように最初からアップテンポだ。最初はぎこちなかった滑り出しもスムーズに始まった。

 曲調のノリがいいのも相まって観客席から手拍子が鳴り始めた。最初はまばらだったのに段々と数も増えて揃っていく。

 まったく。心配する必要なんてなかったじゃないか。川島くんの人気を侮っていたのは自分の方だった。ただ普段の大会では味わえない感覚なのも確かだ。観客のほとんどが知り合いだもな。

 スピードが付いてきて最初に跳ぶのがルッツジャンプだ。つま先を使うトゥージャンプの中のひとつで難しい部類に入るジャンプだ。初心者は長い助走を使う。まずはバックになる必要があるのだが、実は川島くんが地味に苦手としている部分だ。

 前に向いている足に対して身体を大きくひねって反対の足でバックに切り替えられるようにかかととかかとをくっつけるようにして足を置く。反対の足を離せば上手に切り替えられるのだけれど、身体が硬かったりすると足を置くのが難しかったりもする。

「よしっ」

 思わず声に出てしまった。それは一緒に練習を見続けていた立花さんも同じようで思わず顔を見合してしまった。

 次はそのままルッツジャンプの準備姿勢へ入る。まっすぐ後ろに滑りながら左足に体重を乗せる。そのスケートの刃は若干だけど左側に倒してもいる。身体の外側に体重を乗せながらジャンプで跳ぶのはその流れに逆らうように反対側へ飛ぶのがルッツジャンプの特徴だ。

 滑っている足の膝を曲げながら右足は後ろへまっすぐと伸ばす。そのままつま先をついて勢いを上の方向へ変化させてやる。それから右足を軸として巻き込むように回転する。とまあ、川島くんが跳ぶのは一回転だ。そこまで精密に動かなくてもある程度の形になる。

 それを証明するかのように宙に舞った川島くんは足を半分開きながらくるりと一回転して右足で着地。フィニッシュの形をとりながら右手はガッツポーズしてしまっていた。抑えきれなくて出てしまったのだろう。

 それは感情が観客まで届くきっかけにもなったようで、立花さんと変わらないくらいの拍手が鳴り響いた。

 自分の事じゃないのに芳樹は鳥肌が立ってしまう。きっと川島くんも同じようにゾクゾクしているはずだ。これが初めての体験であればなおさらだ。

 あとのジャンプはそれほど、不安視することもない。落ち着いてみてられる。スピンもなんとか規定回数を回ることが出来た。

 終始楽しそうな曲調は観客たちからも好評なのだろう。盛り上がり続けたまま最後のシットスピンに入る。シットスピンはその名の通り座った姿勢のスピンだ。

 明らかにへとへとになっているが、曲が終わるまでは止まることは許されない。それは川島くんも短い期間でしっかりと学んでいる。

 でも、だからと言って体力が続くとは限らない。川島くんは座った姿勢を維持できずに反対足を氷の上についてしまった。でも、回ることを止めずに両足で回り続けてフィニッシュした。

「先生かっこいいよー」「よくがんばったー」「サイコーだよ」

 音楽が止まるのと同時に声援が飛ぶ。拍手も一緒だ。川島くんはスケートリンクの中央に移動すると観客に向かってあいさつをすると、こちらに戻ってきた。そうしている間にも北商店街の人のアナウンスが行われている。

「お疲れ様です」
「はは。こんなにも疲れるんですね本番って。自分の体力の無さが嫌になっちゃいますよ」
「練習以上に力が入ってたんですよ。慣れるまではそんなもんです」
「慣れたくはないですね。でも楽しかったです。こんな自分でもあんなに声援を貰えるんですね」
「ちゃんと先生してた証拠です。癖になるでしょう? また来年も出場したくなってきたでしょう?」
「冗談ですよね?」

 そう笑いながら休むように移動を促す。笹木さんの番まで少し時間がある。そう考えていたら次の音楽が鳴り始めて演技が始まった。
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