R-15
傾く心
十一月三十日 午前六時十一分
捜査員用のマンションのリビングに俺は一人でいた。ペアの加藤奈緒が不在の相澤裕典は一人で外出している。
玄関の鍵が開く音がして、ドアが開いて閉じられた。施錠されて靴を脱ぐ音がする。
俺は右手にあるリビングのドアを視界に入れながら書類に目を通していた。
「ただいま戻りました」
リビングの扉を開けた加藤奈緒はベージュのスカートスーツに黒のインナーを着ていて、大きくカールした髪を一つにまとめて横に流している。
――声が、弾んでるな。
加藤は俺の姿を見て目を細めた。
「おはよう。ずいぶん早いねー」
「……何をしてらっしゃるんですか? ああ、髪型も変わってますね」
俺はパイプ椅子を後ろにして立ち、片脚を座面に乗せて脚を曲げたり伸ばしながら書類を読み、コーヒーを飲んでいる。
「ブルガリアンスクワットだよ」
「……ええ、そうですね」
「この前、署の階段を二段飛ばしで五階まで上がったら脚がプルプルしてさ、鍛えてるんだよ」
「そうですか」
「髪は弟の所に昨日の夜行ってきたよ。頭がすっごく寒い」
「んふふ……」
俺はコーヒーをテーブルに置き、書類を加藤に手渡そうと右手に持ち替えて手を伸ばした。それを俺の前に来て受け取ろうとした加藤が手を出した所で、俺は引っ込めた。
「どうだった? 早い出勤って、どう解釈すればいいのかな」
「仕事熱心だと解釈なさればいいかと」
――なるほどね。
「俺はもう手を引くから」
「えっ?」
「……俺は相澤に、『奈緒ちゃんの恋をきちんと終わらせてあげるのもいい男だよ』って、言ったからね」
加藤は目も口も、何一つ動かさない。参ったな。なら畳み込むか。もう加藤は心に決めたはずだ。
「何だったら、俺が奈緒ちゃんの第三の男になろうか?」
加藤の目が微かに動いた。やっぱり決めたんだ。
「ふふっ、どうしたのよ。あー、でもいいや。聞かない。後は自分で決めなよ。ね、奈緒ちゃん」
加藤に書類を渡し、加藤が下がったところで俺はまたブルガリアンスクワットの続きを始めた。そして続ける。
「ここんとこ続けて彼女に会ったけど、二回連続でおあずけ食らってさ、ただの男になってるでしょ、俺。だから第三の男を演じるのも迫真の演技が出来ると思うよ。だから、どう?」
その言葉に加藤は目を見開いて驚いている。
「彼女……? えっ……?」
「俺の恋人だよ」
「……あの、松永さんは特定の恋人を作らない方だと……」
加藤は明らかに動揺している。珍しいな。そう思いながら俺は続けた。
「彼女に男がいる間はただの男。でも、彼女がフリーの時の俺はいい男なんだよ」
回りくどいいい方に加藤は眉根を寄せて考え込んでいる。
「奈緒ちゃん。話するから座って」
そう言って俺は後ろの脚を下ろし、太ももをさすりながらキッチンへ向かった。
◇
加藤の前にコーヒーを置いた。スティックシュガーとミルクも。
俺は加藤の正面に座る。
「この話は相澤だけが知ってるし、相澤だけが俺の彼女と会ったことがある」
いつか加藤に優衣香の話をしようと思っていたが、今日すべきだと俺は思った。加藤は葉梨に気持ちが傾いてるから。
「俺ね、十四歳の時に好きになった同級生の女の子のことが今でも好きなんだよ」
「……じゅう、よん?」
「そう。中二だよ」
優衣香が実家の隣であることは伏せて、優衣香と俺のことを話し始めた。
十五歳の時にラブレターを渡したこと、警察官になってからはなかなか会えなかったけど、ずっと好きでいて、二十二歳の時にもう一度告白したけど優衣香に恋人がいてまたダメだったこと、俺がデキ婚する時に優衣香の前で大泣きしたこと、優衣香に恋人がいても遊びに行っていたこと、恋人と別れたら口説いて、それを三十七歳になった今でも続けていることを話した。
「奈緒ちゃんって、そういうリアクションするんだね。本気でびっくりしてるね」
「……当たり前じゃないですか」
「ふふっ、そうだよね」
目を丸くしたり、口を開けたままで目が動くなど、初めて見る加藤の顔が面白い。
「この前ね、彼女が初めて俺を好きって言ってくれた」
「えっ?」
「彼女に男がいない時だけ彼女の体に触れるけど、強く抱きしめたのはこの前が初めて」
「えっ……」
「キスもこの前初めてした」
「……そうなんですか」
「ふふっ。十年前から定期的に彼女の家に行って、風呂入って、着替えも置いてあるのに、この前初めて彼女のベッドで寝たんだよ」
「……そう、ですか」
「あ、何もしてないよ。彼女が腕枕してくれたから、そこで初めて強く抱きしめた。でもそれ以上のことは何もしてない。おあずけ食らってすっごく辛い。ふふっ」
加藤は『いい男とただの男』の時の俺を知っている。それとの整合性を脳内で取っているのだろうか、何かに気づくと小さく頷いている。
「俺はね、彼女が結婚したら潔く諦めようとしたけど、いつまで経っても彼女が結婚しなかった」
俺のその言葉は、七年前に自分が言った言葉と同じだと気づいたのだろう。小さく溜め息を漏らして、『だからお話してくれたんですね』と言った。
「もちろんそれもある。でも、俺が言いたいのはね、俺は二十三年も彼女だけを想い続けた。奈緒ちゃんも長いよね。だから奈緒ちゃんがどうにかすれば、相澤だって気持ちは動くってことを言いたい」
加藤の目の動きが止まった。
「それと、奈緒ちゃんは自分を愛してくれる男って今までいたことないでしょ? 自分のことを真剣に考えてる男って意味だよ。そんな男が自分を求めてるって……どう、だった?」
加藤は動揺している。何があったのかはわからないが、葉梨は昨夜もいい男だったのだろう。
「俺は、一人の相手を長く想い続けた者同士としてね、奈緒ちゃんも幸せになって欲しい」
顔を上げて俺の目を見た加藤は、頬を緩ませた。
「奈緒ちゃん、葉梨とのこと、話してくれたら嬉しいな。出来れば生々しい話」
「また土下座したいんですか?」
「したくないです。スミマセン」
加藤と笑い合ったが、加藤の笑顔は今まで見たことのない笑顔をしている。笑うと片方にエクボが出来るとは知らなかった。
『一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男ですよ』
そう加藤は言っていたが、葉梨は加藤を一晩で夢中にさせたのか。美女が野獣に恋をしている。
「じゃ、葉梨に聞くよ」
「お好きにどうぞ」
「で、バラすような男なら損切りする、ということでいいのかな?」
「ええ、そうです。さすが松永さん」
「ふふっ。いい男を損切りは惜しいんじゃないの?」
口元を緩めた加藤の目は、今まで見たことのない目をしていた。初めて見る幸せそうな加藤が微笑ましくて、俺の頬も緩んだ気がした。
― 第3章・了 ―
捜査員用のマンションのリビングに俺は一人でいた。ペアの加藤奈緒が不在の相澤裕典は一人で外出している。
玄関の鍵が開く音がして、ドアが開いて閉じられた。施錠されて靴を脱ぐ音がする。
俺は右手にあるリビングのドアを視界に入れながら書類に目を通していた。
「ただいま戻りました」
リビングの扉を開けた加藤奈緒はベージュのスカートスーツに黒のインナーを着ていて、大きくカールした髪を一つにまとめて横に流している。
――声が、弾んでるな。
加藤は俺の姿を見て目を細めた。
「おはよう。ずいぶん早いねー」
「……何をしてらっしゃるんですか? ああ、髪型も変わってますね」
俺はパイプ椅子を後ろにして立ち、片脚を座面に乗せて脚を曲げたり伸ばしながら書類を読み、コーヒーを飲んでいる。
「ブルガリアンスクワットだよ」
「……ええ、そうですね」
「この前、署の階段を二段飛ばしで五階まで上がったら脚がプルプルしてさ、鍛えてるんだよ」
「そうですか」
「髪は弟の所に昨日の夜行ってきたよ。頭がすっごく寒い」
「んふふ……」
俺はコーヒーをテーブルに置き、書類を加藤に手渡そうと右手に持ち替えて手を伸ばした。それを俺の前に来て受け取ろうとした加藤が手を出した所で、俺は引っ込めた。
「どうだった? 早い出勤って、どう解釈すればいいのかな」
「仕事熱心だと解釈なさればいいかと」
――なるほどね。
「俺はもう手を引くから」
「えっ?」
「……俺は相澤に、『奈緒ちゃんの恋をきちんと終わらせてあげるのもいい男だよ』って、言ったからね」
加藤は目も口も、何一つ動かさない。参ったな。なら畳み込むか。もう加藤は心に決めたはずだ。
「何だったら、俺が奈緒ちゃんの第三の男になろうか?」
加藤の目が微かに動いた。やっぱり決めたんだ。
「ふふっ、どうしたのよ。あー、でもいいや。聞かない。後は自分で決めなよ。ね、奈緒ちゃん」
加藤に書類を渡し、加藤が下がったところで俺はまたブルガリアンスクワットの続きを始めた。そして続ける。
「ここんとこ続けて彼女に会ったけど、二回連続でおあずけ食らってさ、ただの男になってるでしょ、俺。だから第三の男を演じるのも迫真の演技が出来ると思うよ。だから、どう?」
その言葉に加藤は目を見開いて驚いている。
「彼女……? えっ……?」
「俺の恋人だよ」
「……あの、松永さんは特定の恋人を作らない方だと……」
加藤は明らかに動揺している。珍しいな。そう思いながら俺は続けた。
「彼女に男がいる間はただの男。でも、彼女がフリーの時の俺はいい男なんだよ」
回りくどいいい方に加藤は眉根を寄せて考え込んでいる。
「奈緒ちゃん。話するから座って」
そう言って俺は後ろの脚を下ろし、太ももをさすりながらキッチンへ向かった。
◇
加藤の前にコーヒーを置いた。スティックシュガーとミルクも。
俺は加藤の正面に座る。
「この話は相澤だけが知ってるし、相澤だけが俺の彼女と会ったことがある」
いつか加藤に優衣香の話をしようと思っていたが、今日すべきだと俺は思った。加藤は葉梨に気持ちが傾いてるから。
「俺ね、十四歳の時に好きになった同級生の女の子のことが今でも好きなんだよ」
「……じゅう、よん?」
「そう。中二だよ」
優衣香が実家の隣であることは伏せて、優衣香と俺のことを話し始めた。
十五歳の時にラブレターを渡したこと、警察官になってからはなかなか会えなかったけど、ずっと好きでいて、二十二歳の時にもう一度告白したけど優衣香に恋人がいてまたダメだったこと、俺がデキ婚する時に優衣香の前で大泣きしたこと、優衣香に恋人がいても遊びに行っていたこと、恋人と別れたら口説いて、それを三十七歳になった今でも続けていることを話した。
「奈緒ちゃんって、そういうリアクションするんだね。本気でびっくりしてるね」
「……当たり前じゃないですか」
「ふふっ、そうだよね」
目を丸くしたり、口を開けたままで目が動くなど、初めて見る加藤の顔が面白い。
「この前ね、彼女が初めて俺を好きって言ってくれた」
「えっ?」
「彼女に男がいない時だけ彼女の体に触れるけど、強く抱きしめたのはこの前が初めて」
「えっ……」
「キスもこの前初めてした」
「……そうなんですか」
「ふふっ。十年前から定期的に彼女の家に行って、風呂入って、着替えも置いてあるのに、この前初めて彼女のベッドで寝たんだよ」
「……そう、ですか」
「あ、何もしてないよ。彼女が腕枕してくれたから、そこで初めて強く抱きしめた。でもそれ以上のことは何もしてない。おあずけ食らってすっごく辛い。ふふっ」
加藤は『いい男とただの男』の時の俺を知っている。それとの整合性を脳内で取っているのだろうか、何かに気づくと小さく頷いている。
「俺はね、彼女が結婚したら潔く諦めようとしたけど、いつまで経っても彼女が結婚しなかった」
俺のその言葉は、七年前に自分が言った言葉と同じだと気づいたのだろう。小さく溜め息を漏らして、『だからお話してくれたんですね』と言った。
「もちろんそれもある。でも、俺が言いたいのはね、俺は二十三年も彼女だけを想い続けた。奈緒ちゃんも長いよね。だから奈緒ちゃんがどうにかすれば、相澤だって気持ちは動くってことを言いたい」
加藤の目の動きが止まった。
「それと、奈緒ちゃんは自分を愛してくれる男って今までいたことないでしょ? 自分のことを真剣に考えてる男って意味だよ。そんな男が自分を求めてるって……どう、だった?」
加藤は動揺している。何があったのかはわからないが、葉梨は昨夜もいい男だったのだろう。
「俺は、一人の相手を長く想い続けた者同士としてね、奈緒ちゃんも幸せになって欲しい」
顔を上げて俺の目を見た加藤は、頬を緩ませた。
「奈緒ちゃん、葉梨とのこと、話してくれたら嬉しいな。出来れば生々しい話」
「また土下座したいんですか?」
「したくないです。スミマセン」
加藤と笑い合ったが、加藤の笑顔は今まで見たことのない笑顔をしている。笑うと片方にエクボが出来るとは知らなかった。
『一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男ですよ』
そう加藤は言っていたが、葉梨は加藤を一晩で夢中にさせたのか。美女が野獣に恋をしている。
「じゃ、葉梨に聞くよ」
「お好きにどうぞ」
「で、バラすような男なら損切りする、ということでいいのかな?」
「ええ、そうです。さすが松永さん」
「ふふっ。いい男を損切りは惜しいんじゃないの?」
口元を緩めた加藤の目は、今まで見たことのない目をしていた。初めて見る幸せそうな加藤が微笑ましくて、俺の頬も緩んだ気がした。
― 第3章・了 ―