R-15
幕間 涙の理由
『この前、相澤が子供の時の写真を見せてくれたんですよ。今は体格がいいですけど、子供の時の……ふふっ、顔はゴリラなんですけど、ちびゴリラはゴリラじゃなかったんです。ふふっ。松永さんは相澤のちびゴリラの写真、見たことあります?』
相澤は産まれた時から呼吸器疾患で入退院を繰り返し、小学校に入った時は背が一番低かったと言っていた。だが、小学二年生から署の少年柔道に通うようになって、よく食べるようになったら丈夫な体になって背も伸びたと言っていた。
相澤が警察官になりたいと思った理由は聞く必要がなかったが、加藤が警察官になりたいと思った理由は何なのかと思って聞いた時、加藤はこう答えた。
「父方も母方も公務員が多くて、私の両親も公務員です。でも、警察だけはなぜかいなかったんです。だからです」
◇◇◇
三年前、山野花緒里が所属する署の管内で俺は仕事をしていた。
約半年間だったが、毎日、山野がいる交番の前を必ず通らなくてはならず、立番している山野の顔だけは覚えていた。
ある日、深夜に所轄へ行くと山野から挨拶をされた。よく見かける俺が同業だと知って挨拶をと思ったと言ったが、その時の山野の目は面倒な色恋沙汰を想起させるものだった。
俺が信頼している同業女性は加藤を含めて数人いるが、そのうちの一人に連絡を取ると、加藤が山野の署にいると言うので、加藤へ翌々日に連絡を取った。だが、加藤と俺が仲がいいことを調べていた山野は、すでに加藤へ連絡を取っていたようで、加藤は俺にこう言った。
『松永さんは特定の恋人を作らない方で、同業に手を出さないとも山野に伝えました。諦めるように山野へ言いました。でも無理でした。山野は本気です』
俺は二十四歳の時に、一つ下の同業と遊びのつもりで関係を持ったが、その女が妊娠したから責任を取って結婚した。だが産まれた子が俺の子ではなく、離婚した。
離婚後の俺は、『女を食い散らかす男』と言われるようになった。優衣香に男がいる時は女遊びをするし、それが激しいのも事実だし、弁明する理由もない。むしろそれで同業は寄って来なくなるし、合コンでも事前にそれを知って、それでもいいと割り切っている女だけが来るから便利だった。
俺は優衣香だけが好きで、他の女に心が揺らぐようなことはなかった。だから他の女に本気になられても、その気持ちに応えられないことが嫌だった。心が痛むのがただ嫌だった。
山野は加藤に俺の連絡先を教えてもらおうと何度もお願いしたようだが、加藤は断っていた。別の経路からも山野から連絡先を教えて欲しいと言われたと連絡が来ていたが、俺は拒否した。
山野は連絡先がダメならと、俺に手紙を書いて寄越した。加藤経由で渡された手紙は、ラブレターなのに長封筒に入れられていて、縦書きの便箋には香が焚きしめてあった。香水ではなく、香だった。手紙には美しい字で、ひたむきな想いが綴られていた。
真面目な子なんだなと心が痛んだが、加藤へ連絡して『断ると伝えてくれ』と言った。それ以外に何も言う必要もなかった。同業には絶対に手を出さない、俺はそう決めていたから。
加藤から山野へ伝えたという連絡以降は何もなく、山野は諦めたのだろうと思っていた。
相変わらず山野の交番の前は毎日通り、山野が立番している時もあったが、視線を感じても俺は無視した。
ある日、山野の交番の管轄にある駅前の裏通りを歩いていると、緊走のパトカーが俺を追い抜いていって約三十メートル先で停まった。
そのパトカーから山野が降りてきたが、俺の姿を見た山野は俺に向かって走ってきた。ペアは反対方向へ行ったが、山野がいないことにすぐ気づいて振り向いて山野を見た。
俺の前まで来た山野は手紙を出した。宛名に俺の名前が書かれた長封筒を俺に手渡そうとするが、ペアは山野を追いかけて来ていて、大声で山野を呼んでいた。
走り寄るペアは俺と山野の姿を見て怪訝な顔をしている。
俺はその男性警察官とは面識はなかったから、この手紙は彼に見られてはならない、俺はそう考えて山野から受け取り、すぐに隠した。
近寄ったものの状況が掴めないそのペアに俺は手帳を見せ、『用は済んだ』とだけ言って、山野を連れて行くよう促した。
数日後、やっと時間が取れて一人になった俺は、山野のその手紙を読んだ。
美しい字で紡いである言葉は婉曲表現だったが、要はセフレでいいから自分と関係を持って欲しいと書いてあった。
『松永さんは体の関係ならいいと言うだろうから、それでいいのなら、松永さんにそう言えと加藤さんに言われた』
この言葉は、もちろん手紙では婉曲表現だったが、言ってることは同じだった。
遊びの女が本気になって、セフレでもいいからと縋ってくることは過去にあった。そんなものには慣れていたはずだったが、俺は山野の手紙を読み終わる頃には全身の血が凍りつくような感覚に陥っていた。
俺はすぐに相澤に連絡を取り、俺がいることは伏せて加藤へ官舎に呼べと指示した。
数日後、官舎へやって来た加藤は俺がいることを特に気にする様子はなかったが、山野の手紙を見せると表情を変えた。
そこで初めて、相澤に山野の件を話し、山野の手紙も見せた。手紙を渡された日付、時間、場所、状況を相澤と加藤に話したが、加藤は事件を知っているから呆然としていた。相澤にはスマートフォンで山野が臨場した事件のネットニュースの画面を見せた。
『小学二年生の男子児童が男にランドセルを掴まれ、走行中の車の前に投げ飛ばされて車と接触。全治二週間の軽傷』
相澤は目に飛び込んだニュースのタイトルから目線をずらして加藤を見た。だがそれは仲のいい同期に向ける目ではなかった。
加藤は、相澤のその目に動揺した。初めて見たのだろう。下を向いて、手を握りしめていた。
俺は加藤の隣に座り、優しく加藤に話しかけた。
「奈緒ちゃん、あのね……俺はね、奈緒ちゃんにはね、同じ女性として、先輩として、山野にやってやれることがあったと――」
俺は思うんだ――。
そう続けて加藤に反省を促そうとした。
おそらく加藤と山野花緒里の間に何かがあり、不本意ながら結果としてこうなったのだろうと思っていた。だから加藤を傷つけてはならないと思って、優しく諭すように声音を柔らかくして言おうとしたが、加藤の反応は違っていた。
「でもっ!! それを選んだのは山野です!! 私には関係ないですっ!!」
俺は加藤の長い髪を掴んで引き倒した。
加藤に馬乗りになり、両手首を床に抑え付けた。
一瞬にして視界が変わり、俺を見上げる加藤は目を見開いて、唇を震わせていた。
「放り投げられた男の子の気持ちって、どんなだったろうな。怖かったろうな。泣いてただろうな。でもよ、おまわりさんが男とヤリてえからって助けに来てくれなかったんだよ」
俺の言葉に顔を歪め、涙が溢れ出す加藤に、俺は何の感情も抱かず、ただ見下ろしていた。
俺は、加藤が許せなかった。
為すべきことをしなかった加藤が許せなかった。
自分がどれだけ守られて来たかすらわかっていない加藤が許せなかった。
加藤は相澤に縋るように顔を向けたが、相澤は自分を冷めた目で見ているだけだった。そんな相澤に絶望したのだろう、腕に込めていた力は、指先の力は、静かに抜けていった。
俺は加藤から手を離し、体からも離れた。
相澤と目が合ったが、相澤は悲しいのか、怒りなのか、多分どちらもなのだろうと思うような表情をしていた。
優しい相澤も加藤が許せなかった。
だが加藤は仲のいい同期だ。優しい裕くんは、加藤を見て、歯を食いしばって、手を握りしめて、また加藤を見て、溜め息を吐いてから立ち上がった。
涙を流して咳き込む加藤のそばへ行き、加藤を抱き起こして、胸に抱いて、腕の中で泣く加藤の背中を撫でた。
天井を見上げる相澤は、唇を噛み締めていた。
俺はその姿を見て、父が寄越した電話をふと思い出した。寝起きの俺の耳に流れ込んだ、父の弾んだ明るい声を。
『もしもし、お父さんだけど、あのさ、敬志にね、お父さん、伝えたいことがあって電話しちゃった。ごめんね』
『でね、今日ね、連絡が来たんだけど、採用試験の面接で松永雅志さんのような優しい警察官になりたいですって言ってくれた子がいたって話、前にしたでしょ? その子がね、採用されたんだよ。お父さん嬉しくて嬉しくて。ふふふっ』
『そうそう。腕を掴まれて車道に放り投げられた子。お父さんがずっと抱っこしてあげてた子ね。細くて小さくて、ずっと泣いてた子だったなあ』
『ふふふっ、お父さんがきっかけで警察官になりたいと言ってくれた初めての子なんだよ。ふふふっ、お父さんすごく嬉しい』
『でね、その子は敬志の三つ下で、名前は相澤裕典くんって言うから、いつか紹介するからさ、仲良くしてあげて欲しいんだよ』
「裕くん、後はよろしくね」
そう言って、俺は部屋を出た。
相澤は産まれた時から呼吸器疾患で入退院を繰り返し、小学校に入った時は背が一番低かったと言っていた。だが、小学二年生から署の少年柔道に通うようになって、よく食べるようになったら丈夫な体になって背も伸びたと言っていた。
相澤が警察官になりたいと思った理由は聞く必要がなかったが、加藤が警察官になりたいと思った理由は何なのかと思って聞いた時、加藤はこう答えた。
「父方も母方も公務員が多くて、私の両親も公務員です。でも、警察だけはなぜかいなかったんです。だからです」
◇◇◇
三年前、山野花緒里が所属する署の管内で俺は仕事をしていた。
約半年間だったが、毎日、山野がいる交番の前を必ず通らなくてはならず、立番している山野の顔だけは覚えていた。
ある日、深夜に所轄へ行くと山野から挨拶をされた。よく見かける俺が同業だと知って挨拶をと思ったと言ったが、その時の山野の目は面倒な色恋沙汰を想起させるものだった。
俺が信頼している同業女性は加藤を含めて数人いるが、そのうちの一人に連絡を取ると、加藤が山野の署にいると言うので、加藤へ翌々日に連絡を取った。だが、加藤と俺が仲がいいことを調べていた山野は、すでに加藤へ連絡を取っていたようで、加藤は俺にこう言った。
『松永さんは特定の恋人を作らない方で、同業に手を出さないとも山野に伝えました。諦めるように山野へ言いました。でも無理でした。山野は本気です』
俺は二十四歳の時に、一つ下の同業と遊びのつもりで関係を持ったが、その女が妊娠したから責任を取って結婚した。だが産まれた子が俺の子ではなく、離婚した。
離婚後の俺は、『女を食い散らかす男』と言われるようになった。優衣香に男がいる時は女遊びをするし、それが激しいのも事実だし、弁明する理由もない。むしろそれで同業は寄って来なくなるし、合コンでも事前にそれを知って、それでもいいと割り切っている女だけが来るから便利だった。
俺は優衣香だけが好きで、他の女に心が揺らぐようなことはなかった。だから他の女に本気になられても、その気持ちに応えられないことが嫌だった。心が痛むのがただ嫌だった。
山野は加藤に俺の連絡先を教えてもらおうと何度もお願いしたようだが、加藤は断っていた。別の経路からも山野から連絡先を教えて欲しいと言われたと連絡が来ていたが、俺は拒否した。
山野は連絡先がダメならと、俺に手紙を書いて寄越した。加藤経由で渡された手紙は、ラブレターなのに長封筒に入れられていて、縦書きの便箋には香が焚きしめてあった。香水ではなく、香だった。手紙には美しい字で、ひたむきな想いが綴られていた。
真面目な子なんだなと心が痛んだが、加藤へ連絡して『断ると伝えてくれ』と言った。それ以外に何も言う必要もなかった。同業には絶対に手を出さない、俺はそう決めていたから。
加藤から山野へ伝えたという連絡以降は何もなく、山野は諦めたのだろうと思っていた。
相変わらず山野の交番の前は毎日通り、山野が立番している時もあったが、視線を感じても俺は無視した。
ある日、山野の交番の管轄にある駅前の裏通りを歩いていると、緊走のパトカーが俺を追い抜いていって約三十メートル先で停まった。
そのパトカーから山野が降りてきたが、俺の姿を見た山野は俺に向かって走ってきた。ペアは反対方向へ行ったが、山野がいないことにすぐ気づいて振り向いて山野を見た。
俺の前まで来た山野は手紙を出した。宛名に俺の名前が書かれた長封筒を俺に手渡そうとするが、ペアは山野を追いかけて来ていて、大声で山野を呼んでいた。
走り寄るペアは俺と山野の姿を見て怪訝な顔をしている。
俺はその男性警察官とは面識はなかったから、この手紙は彼に見られてはならない、俺はそう考えて山野から受け取り、すぐに隠した。
近寄ったものの状況が掴めないそのペアに俺は手帳を見せ、『用は済んだ』とだけ言って、山野を連れて行くよう促した。
数日後、やっと時間が取れて一人になった俺は、山野のその手紙を読んだ。
美しい字で紡いである言葉は婉曲表現だったが、要はセフレでいいから自分と関係を持って欲しいと書いてあった。
『松永さんは体の関係ならいいと言うだろうから、それでいいのなら、松永さんにそう言えと加藤さんに言われた』
この言葉は、もちろん手紙では婉曲表現だったが、言ってることは同じだった。
遊びの女が本気になって、セフレでもいいからと縋ってくることは過去にあった。そんなものには慣れていたはずだったが、俺は山野の手紙を読み終わる頃には全身の血が凍りつくような感覚に陥っていた。
俺はすぐに相澤に連絡を取り、俺がいることは伏せて加藤へ官舎に呼べと指示した。
数日後、官舎へやって来た加藤は俺がいることを特に気にする様子はなかったが、山野の手紙を見せると表情を変えた。
そこで初めて、相澤に山野の件を話し、山野の手紙も見せた。手紙を渡された日付、時間、場所、状況を相澤と加藤に話したが、加藤は事件を知っているから呆然としていた。相澤にはスマートフォンで山野が臨場した事件のネットニュースの画面を見せた。
『小学二年生の男子児童が男にランドセルを掴まれ、走行中の車の前に投げ飛ばされて車と接触。全治二週間の軽傷』
相澤は目に飛び込んだニュースのタイトルから目線をずらして加藤を見た。だがそれは仲のいい同期に向ける目ではなかった。
加藤は、相澤のその目に動揺した。初めて見たのだろう。下を向いて、手を握りしめていた。
俺は加藤の隣に座り、優しく加藤に話しかけた。
「奈緒ちゃん、あのね……俺はね、奈緒ちゃんにはね、同じ女性として、先輩として、山野にやってやれることがあったと――」
俺は思うんだ――。
そう続けて加藤に反省を促そうとした。
おそらく加藤と山野花緒里の間に何かがあり、不本意ながら結果としてこうなったのだろうと思っていた。だから加藤を傷つけてはならないと思って、優しく諭すように声音を柔らかくして言おうとしたが、加藤の反応は違っていた。
「でもっ!! それを選んだのは山野です!! 私には関係ないですっ!!」
俺は加藤の長い髪を掴んで引き倒した。
加藤に馬乗りになり、両手首を床に抑え付けた。
一瞬にして視界が変わり、俺を見上げる加藤は目を見開いて、唇を震わせていた。
「放り投げられた男の子の気持ちって、どんなだったろうな。怖かったろうな。泣いてただろうな。でもよ、おまわりさんが男とヤリてえからって助けに来てくれなかったんだよ」
俺の言葉に顔を歪め、涙が溢れ出す加藤に、俺は何の感情も抱かず、ただ見下ろしていた。
俺は、加藤が許せなかった。
為すべきことをしなかった加藤が許せなかった。
自分がどれだけ守られて来たかすらわかっていない加藤が許せなかった。
加藤は相澤に縋るように顔を向けたが、相澤は自分を冷めた目で見ているだけだった。そんな相澤に絶望したのだろう、腕に込めていた力は、指先の力は、静かに抜けていった。
俺は加藤から手を離し、体からも離れた。
相澤と目が合ったが、相澤は悲しいのか、怒りなのか、多分どちらもなのだろうと思うような表情をしていた。
優しい相澤も加藤が許せなかった。
だが加藤は仲のいい同期だ。優しい裕くんは、加藤を見て、歯を食いしばって、手を握りしめて、また加藤を見て、溜め息を吐いてから立ち上がった。
涙を流して咳き込む加藤のそばへ行き、加藤を抱き起こして、胸に抱いて、腕の中で泣く加藤の背中を撫でた。
天井を見上げる相澤は、唇を噛み締めていた。
俺はその姿を見て、父が寄越した電話をふと思い出した。寝起きの俺の耳に流れ込んだ、父の弾んだ明るい声を。
『もしもし、お父さんだけど、あのさ、敬志にね、お父さん、伝えたいことがあって電話しちゃった。ごめんね』
『でね、今日ね、連絡が来たんだけど、採用試験の面接で松永雅志さんのような優しい警察官になりたいですって言ってくれた子がいたって話、前にしたでしょ? その子がね、採用されたんだよ。お父さん嬉しくて嬉しくて。ふふふっ』
『そうそう。腕を掴まれて車道に放り投げられた子。お父さんがずっと抱っこしてあげてた子ね。細くて小さくて、ずっと泣いてた子だったなあ』
『ふふふっ、お父さんがきっかけで警察官になりたいと言ってくれた初めての子なんだよ。ふふふっ、お父さんすごく嬉しい』
『でね、その子は敬志の三つ下で、名前は相澤裕典くんって言うから、いつか紹介するからさ、仲良くしてあげて欲しいんだよ』
「裕くん、後はよろしくね」
そう言って、俺は部屋を出た。