R-15
敵意と希望
午前七時四十六分
優衣香のマンションを出て始発に乗り、着替えを取りに官舎へ寄ってから捜査員用のマンションに戻って来た。
リビングのテーブルで加藤、相澤、葉梨、本城の四人は事務処理をしている。
コートを脱いでハンガーにかけていると加藤が俺の服を見ていることに気づいた。
「ん? どうかした?」
「そのTシャツ……」
このTシャツは優衣香が俺に買ってくれたものだ。下に白い長袖Tシャツを着ている。
黄色い看板のマッチョしかいないジムで数量限定販売されたもので、マッチョしかいないジムのサークルロゴはあまり目立たない黒いTシャツだ。ロゴが浮かび上がったデザインでカッコいいから俺はウッキウキだ。
優衣香には部屋着にしろと言われたが、ウッキウキで着て来た。だからこちらを見ている加藤にだけ見えるよう、俺は片目を瞑り、小指を立てた。
「んふっ」
「なんだよ、笑うなよ」
「すいま……んふっ」
加藤が笑い出し、他の捜査員も俺を見たが、相澤が俺のTシャツを見て、『あっ』と言った。
相澤は、優衣香がマッチョしかいないジムに通っていることを知っていたのだろうか。相澤が何を見たのか後で聞いてみようと思ったが、想定外のことを言った。
「加藤も同じの持って……」
「んふふふっ……」
「……え、加藤と俺、ペアルックなの?」
「あー、いえ……違います」
「ん? 何よ?」
加藤も相澤も俺の顔つきを見て、昨夜何があったのか察しているのだろう。何も言わないので俺が何度か聞くと、相澤は着ているウインドブレーカーのファスナーを開けた。
「……ペアルックだ」
「うれしいですね」
相澤は抑揚のない声でそう言うが、元々は加藤のTシャツだと言っていた。
「加藤はなんでこれ持ってんの?」
「買ったからです」
「どこで?」
「ジムです」
――もしかして奈緒ちゃんもマッチョ会員なの?
「マッチョしかいないジムに通ってんの?」
「いけませんか?」
「いけなくないです」
――どうしてぼくのまわりには強い女の子しかいないのかな。
「そのジムにいる男性って、ウザい奴がいないんです。筋肉かプロテインの話しかしないので」
――プロテインの話もするんだ。
せっかく優衣香が俺に選んでくれたTシャツは優衣香とペアルックだったのに、相澤ともペアルックになってちょっと悲しいけど、まあ裕くんとならいいかと思っていたら葉梨が声をかけてきた。
「俺も同じの持ってます」
――なにさ! マッチョのバカ! ぼくが何したって言うんだ!
「……じゃあ、みんなでペアルックってことで」
そう言ってそれぞれの顔を見ていると、本城が声を掛けてきた。
「俺、前に販売した分を持ってて、くたびれてきたから部屋着にしてます」
――本城昇太、お前がくたびれるがよい。
なんだろうか、この胸にこみ上げてくる感情は。
俺は優衣香からTシャツを貰ってウッキウキだったのに。優衣香とペアルックでウッキウキだったのに。Tシャツに頬ずりして優衣香に若干引かれたけどウッキウキだったのに。
マッチョしかいないジムで売ってるTシャツだから誰かしらと被ることはあるだろう。だが、同僚とここまで被るのは奇跡なのではないだろうか。
「あの、松永さん、ペアルックって言葉、古いですよ」
「えっ、そうなの?」
言い出した加藤以外の三人の顔を見ると、『ハハッ、知ってるよ、そんなこと当たり前じゃないか』というフリをしてるのに目が泳いでいる。
――君たちは警察官なのに、それじゃだめだと思うよ?
「今は何て言うの?」
「リンクコーデとかお揃いコーデですね」
また三人の顔を見ると、また目を泳がせていた。これは逮捕容疑が固まった後にマニアックな特別法の存在を知った時の顔だ。
――あれって、捜査が振り出しに戻るわけではないけど、ちょっぴり哀しくなるよね。
◇
午前八時三十一分
今日は昼過ぎに玲緒奈さんが来るからと、皆溜め込んだ事務処理を必死に終わらせようとしている。
相澤にハンバーガー屋の朝メニュー食いに行こうと誘ったが、事務処理が終わらないからと断られた。
――もう! 裕くんはいつもそうなんだから!
「加藤、一緒に行かねえ?」
「無理です」
「何でよ? お前は終わってるだろ?」
「総、仕、上、げ、しなきゃいけないので」
「総仕上げ」
「そうです」
気持ちもわからなくはないから加藤と行くのは諦めようと思い、葉梨と本城を見ると、葉梨と目が合った。
「あと五分頂ければ、ご一緒出来ます」
――さすが熊! ゴリラとは違うね! ってあれ?
葉梨はノートパソコンで隠すように、俺にハンドサインを送っている。
――話がある、と。なんだろうか。
「うん、待ってるね!」
そう言った俺は待っている間に掃除をすることにした。なんで座敷童子の抜け毛が靴箱にあるのかと、さっきなんとも言えない気持ちになったから、俺は掃除をする。
廊下と男性捜査員用の仮眠室の掃除だが、このマンションにも短髪天然パーマの座敷童子がいるようだ。座敷童子の抜け毛の機動力にいつも驚かされるが、座敷童子だから仕方ない。
◇
午前八時五十八分
ハンバーガー屋までの道すがら、葉梨の話を聞いていた俺は、脳内の妄想カタログのページをめくっていた。まあ、要は現実逃避だ。玲緒奈さんが捜査に加わるからと現実逃避で優衣香に会いに行き、妄想カタログにたくさんページが増えたなとルンルン気分でマンションに戻って来たのに、また現実逃避しなきゃならないのか。相澤が加藤の前で合コンの話をしたという。
――いいよ、優衣香のおっぱい揉んだから土下座くらいしてやるよ。
「ゴリラめ」
「ただですね、あの……もしかして、相澤さん、俺と加藤さんのことを知ってるんじゃないかと思いまして……」
――さすが葉梨くんだね! ぼくもそう思ってる!
「なんで? 何か言われたの?」
「いや、合コンの話をした時に、違和感があったので」
「ふーん」
「加藤さんが言わせたのかとも思いました」
相澤が合コンの話をしたタイミングと、加藤の表情に違和感があったという。二人だけがわかる符牒があるのではとも葉梨は言った。
「今回は二年ぶりだけど、一緒に仕事することもあったから二人だけの符牒もあるよ。それに仲のいい同期だし」
「あの、もしかして、加藤さんの男って、相澤さんなんですか?」
「んなわけねえだろ。相澤の好みってポンコツ野川みたいな小動物だぞ? 女教師モノに食指は動かねえよ」
――葉梨は俺を試してる。
「葉梨、お前、本当に加藤のこと、好きか?」
「えっ、はい」
おそらく、須藤さん経由で相澤は加藤と葉梨の関係を知ったのだろう。加藤が話したとも考えられるが。
雪の日、電車が止まった影響で相澤は加藤の家に行った。滞在時間は六時間程か。話し合いも出来ただろう。だが俺はその件も含めて、相澤と加藤の関係にもう何も言わないし聞かないと決めた。
もちろん葉梨と加藤の関係も、と言いたい所だが、こっちはそうもいかない。だって俺が二人がデート出来るようにしたから。責任がある。
それに、恋する奈緒ちゃんのウッキウキな姿は微笑ましいから見ていたい。
「お前は秘密を守るか?」
「はい」
俺と葉梨の背丈はあまり変わらない。立っていて目線を下にやらずに話せるのは、今は葉梨だけだ。
返事をした葉梨の目の奥の色を探る。
葉梨は信用出来ると思った。
「相澤と加藤の関係については、否定も肯定もしない」
俺の返事の意味を考えているのだろうか。表情も目も変わらないが、返事をしない。
「葉梨、あの――」
「諦めた方がいいですか?」
それはお前が決めろよ、と言いかけたが、目の奥に不安そうな色を湛える葉梨に、俺は言えなかった。
嫉妬も憎悪も目の奥になく、ただ不安そうにしている。欲しいものを手に入れかけているのに、手放さなくてはならない苦悩は俺にもわかる。辛いだろう。
――加藤のことを、真剣に考えてるんだ。
「葉梨、あのさ……お前は、加藤を待ってやることは、出来るか? 俺は……待ってやって欲しいと、思ってる」
伏せていた目を上げて、俺の目を見た葉梨の目には明るさが戻った。
――どうなるかは知らないよ。
「葉梨、俺は加藤の味方なんだよ。俺は加藤の相手がお前ならいいだろうと思って、時間を作ってやった。それだけは、覚えておいて」
俺の目を見て、元気に『はい』と言って頷いた葉梨の口元にエクボが出来て、俺の頬は緩んだ。
――玲緒奈さんは、相澤と加藤をくっつけるために十年以上も奔走してるけどね。
「頑張れよ」
俺は葉梨の肩を叩いて、ハンバーガー屋へまた歩き始めた。
― 第6章・了 ―
優衣香のマンションを出て始発に乗り、着替えを取りに官舎へ寄ってから捜査員用のマンションに戻って来た。
リビングのテーブルで加藤、相澤、葉梨、本城の四人は事務処理をしている。
コートを脱いでハンガーにかけていると加藤が俺の服を見ていることに気づいた。
「ん? どうかした?」
「そのTシャツ……」
このTシャツは優衣香が俺に買ってくれたものだ。下に白い長袖Tシャツを着ている。
黄色い看板のマッチョしかいないジムで数量限定販売されたもので、マッチョしかいないジムのサークルロゴはあまり目立たない黒いTシャツだ。ロゴが浮かび上がったデザインでカッコいいから俺はウッキウキだ。
優衣香には部屋着にしろと言われたが、ウッキウキで着て来た。だからこちらを見ている加藤にだけ見えるよう、俺は片目を瞑り、小指を立てた。
「んふっ」
「なんだよ、笑うなよ」
「すいま……んふっ」
加藤が笑い出し、他の捜査員も俺を見たが、相澤が俺のTシャツを見て、『あっ』と言った。
相澤は、優衣香がマッチョしかいないジムに通っていることを知っていたのだろうか。相澤が何を見たのか後で聞いてみようと思ったが、想定外のことを言った。
「加藤も同じの持って……」
「んふふふっ……」
「……え、加藤と俺、ペアルックなの?」
「あー、いえ……違います」
「ん? 何よ?」
加藤も相澤も俺の顔つきを見て、昨夜何があったのか察しているのだろう。何も言わないので俺が何度か聞くと、相澤は着ているウインドブレーカーのファスナーを開けた。
「……ペアルックだ」
「うれしいですね」
相澤は抑揚のない声でそう言うが、元々は加藤のTシャツだと言っていた。
「加藤はなんでこれ持ってんの?」
「買ったからです」
「どこで?」
「ジムです」
――もしかして奈緒ちゃんもマッチョ会員なの?
「マッチョしかいないジムに通ってんの?」
「いけませんか?」
「いけなくないです」
――どうしてぼくのまわりには強い女の子しかいないのかな。
「そのジムにいる男性って、ウザい奴がいないんです。筋肉かプロテインの話しかしないので」
――プロテインの話もするんだ。
せっかく優衣香が俺に選んでくれたTシャツは優衣香とペアルックだったのに、相澤ともペアルックになってちょっと悲しいけど、まあ裕くんとならいいかと思っていたら葉梨が声をかけてきた。
「俺も同じの持ってます」
――なにさ! マッチョのバカ! ぼくが何したって言うんだ!
「……じゃあ、みんなでペアルックってことで」
そう言ってそれぞれの顔を見ていると、本城が声を掛けてきた。
「俺、前に販売した分を持ってて、くたびれてきたから部屋着にしてます」
――本城昇太、お前がくたびれるがよい。
なんだろうか、この胸にこみ上げてくる感情は。
俺は優衣香からTシャツを貰ってウッキウキだったのに。優衣香とペアルックでウッキウキだったのに。Tシャツに頬ずりして優衣香に若干引かれたけどウッキウキだったのに。
マッチョしかいないジムで売ってるTシャツだから誰かしらと被ることはあるだろう。だが、同僚とここまで被るのは奇跡なのではないだろうか。
「あの、松永さん、ペアルックって言葉、古いですよ」
「えっ、そうなの?」
言い出した加藤以外の三人の顔を見ると、『ハハッ、知ってるよ、そんなこと当たり前じゃないか』というフリをしてるのに目が泳いでいる。
――君たちは警察官なのに、それじゃだめだと思うよ?
「今は何て言うの?」
「リンクコーデとかお揃いコーデですね」
また三人の顔を見ると、また目を泳がせていた。これは逮捕容疑が固まった後にマニアックな特別法の存在を知った時の顔だ。
――あれって、捜査が振り出しに戻るわけではないけど、ちょっぴり哀しくなるよね。
◇
午前八時三十一分
今日は昼過ぎに玲緒奈さんが来るからと、皆溜め込んだ事務処理を必死に終わらせようとしている。
相澤にハンバーガー屋の朝メニュー食いに行こうと誘ったが、事務処理が終わらないからと断られた。
――もう! 裕くんはいつもそうなんだから!
「加藤、一緒に行かねえ?」
「無理です」
「何でよ? お前は終わってるだろ?」
「総、仕、上、げ、しなきゃいけないので」
「総仕上げ」
「そうです」
気持ちもわからなくはないから加藤と行くのは諦めようと思い、葉梨と本城を見ると、葉梨と目が合った。
「あと五分頂ければ、ご一緒出来ます」
――さすが熊! ゴリラとは違うね! ってあれ?
葉梨はノートパソコンで隠すように、俺にハンドサインを送っている。
――話がある、と。なんだろうか。
「うん、待ってるね!」
そう言った俺は待っている間に掃除をすることにした。なんで座敷童子の抜け毛が靴箱にあるのかと、さっきなんとも言えない気持ちになったから、俺は掃除をする。
廊下と男性捜査員用の仮眠室の掃除だが、このマンションにも短髪天然パーマの座敷童子がいるようだ。座敷童子の抜け毛の機動力にいつも驚かされるが、座敷童子だから仕方ない。
◇
午前八時五十八分
ハンバーガー屋までの道すがら、葉梨の話を聞いていた俺は、脳内の妄想カタログのページをめくっていた。まあ、要は現実逃避だ。玲緒奈さんが捜査に加わるからと現実逃避で優衣香に会いに行き、妄想カタログにたくさんページが増えたなとルンルン気分でマンションに戻って来たのに、また現実逃避しなきゃならないのか。相澤が加藤の前で合コンの話をしたという。
――いいよ、優衣香のおっぱい揉んだから土下座くらいしてやるよ。
「ゴリラめ」
「ただですね、あの……もしかして、相澤さん、俺と加藤さんのことを知ってるんじゃないかと思いまして……」
――さすが葉梨くんだね! ぼくもそう思ってる!
「なんで? 何か言われたの?」
「いや、合コンの話をした時に、違和感があったので」
「ふーん」
「加藤さんが言わせたのかとも思いました」
相澤が合コンの話をしたタイミングと、加藤の表情に違和感があったという。二人だけがわかる符牒があるのではとも葉梨は言った。
「今回は二年ぶりだけど、一緒に仕事することもあったから二人だけの符牒もあるよ。それに仲のいい同期だし」
「あの、もしかして、加藤さんの男って、相澤さんなんですか?」
「んなわけねえだろ。相澤の好みってポンコツ野川みたいな小動物だぞ? 女教師モノに食指は動かねえよ」
――葉梨は俺を試してる。
「葉梨、お前、本当に加藤のこと、好きか?」
「えっ、はい」
おそらく、須藤さん経由で相澤は加藤と葉梨の関係を知ったのだろう。加藤が話したとも考えられるが。
雪の日、電車が止まった影響で相澤は加藤の家に行った。滞在時間は六時間程か。話し合いも出来ただろう。だが俺はその件も含めて、相澤と加藤の関係にもう何も言わないし聞かないと決めた。
もちろん葉梨と加藤の関係も、と言いたい所だが、こっちはそうもいかない。だって俺が二人がデート出来るようにしたから。責任がある。
それに、恋する奈緒ちゃんのウッキウキな姿は微笑ましいから見ていたい。
「お前は秘密を守るか?」
「はい」
俺と葉梨の背丈はあまり変わらない。立っていて目線を下にやらずに話せるのは、今は葉梨だけだ。
返事をした葉梨の目の奥の色を探る。
葉梨は信用出来ると思った。
「相澤と加藤の関係については、否定も肯定もしない」
俺の返事の意味を考えているのだろうか。表情も目も変わらないが、返事をしない。
「葉梨、あの――」
「諦めた方がいいですか?」
それはお前が決めろよ、と言いかけたが、目の奥に不安そうな色を湛える葉梨に、俺は言えなかった。
嫉妬も憎悪も目の奥になく、ただ不安そうにしている。欲しいものを手に入れかけているのに、手放さなくてはならない苦悩は俺にもわかる。辛いだろう。
――加藤のことを、真剣に考えてるんだ。
「葉梨、あのさ……お前は、加藤を待ってやることは、出来るか? 俺は……待ってやって欲しいと、思ってる」
伏せていた目を上げて、俺の目を見た葉梨の目には明るさが戻った。
――どうなるかは知らないよ。
「葉梨、俺は加藤の味方なんだよ。俺は加藤の相手がお前ならいいだろうと思って、時間を作ってやった。それだけは、覚えておいて」
俺の目を見て、元気に『はい』と言って頷いた葉梨の口元にエクボが出来て、俺の頬は緩んだ。
――玲緒奈さんは、相澤と加藤をくっつけるために十年以上も奔走してるけどね。
「頑張れよ」
俺は葉梨の肩を叩いて、ハンバーガー屋へまた歩き始めた。
― 第6章・了 ―