残酷な描写あり
第二話 影無しの街
サニー(サン)・サンライトは、王都に拠点を構えるとある書店の主人の娘として生を享けた。
家業の影響か、幼い頃より本を読むのが好きだった。両親からは贈り物として度々本が与えられていたが、貪欲な子供心ゆえにそれだけでは飽き足らず、売り物である表に平積みされた書籍をこっそり立ち読みするのは序の口、非売品の書物を収めた家の書庫に入り浸り、寝食を忘れて読書に耽るなど日常茶飯事。そしてそれらの不逞を両親に見つかって大目玉を食らうまでがワンセットである。
書物に綴られる物語の数々は、彼女に様々な世界を紐解いて見せてくれた。頁をめくるたびに景色が広がり、抽象が具象に塗り替えられて心に定着してゆく。空想の中で自身を遊ばせる楽しみは、他の何にも代えがたい至福の時間だった。
やがて長じるにつれて、彼女は次第に自分でも物語を作ってみたいと思うようになっていった。
人の心を豊かに出来る本を、自分の手で生み出せたらどんなに嬉しいだろうか。
書店の子として家業を手伝う傍ら、彼女の胸奥でその想いは次第に膨らんできた。
決心して両親に打ち明けると、二人共驚きつつも娘の夢を受け入れてくれた。
そして18歳の誕生日を迎えた今年、手帳を送ると共に彼女の旅立ちを許可してくれたのだ。
『自分の目で、実際の世界を見てくると良い。物語を書くのなら、それが一番良い刺激になる』
娘の背を押す父親の眼差しは、これまで見た中で一番温かく、心地良かった。
そして彼女は、王都を出た。
不安や恐怖が無かったと言えば嘘になるが、それよりもまだ見ぬ世界に対する期待感や好奇心が勝った。
王都を出て、しばらくは当て所もなく彷徨った。外で目にするありとあらゆるものが、新鮮な感動を伴って彼女の心を満たしてくれたが、残念ながらインスピレーションが湧くまでには至らなかった。
もっと刺激を、もっと感慨を。果てしなく心を揺さぶり、魂に訴えかけてくれるような“何か”を、彼女は求め続けた。
そして先日、この地方都市アンダーイーヴズの話を耳にしたのだ。
即座に彼女は荷物をまとめ、トランクを両手に飛び出した。
この街にこそ、自分が追い求める“何か”がある。そんな希望を胸に灯して――
◆◆◆
「うわぁ……! 本当に御者さんの言った通りだ……。行けども行けども誰も居ない……」
煉瓦造りの建物が立ち並ぶ無人の街並みを、サニーは驚きで圧倒されながらひたすら歩き続けていた。
向かって左手前に見えるのは恐らく服飾店だ。ガラスを隔てた先の屋内には、人形に着せられた様々な衣服が見える。貴族御用達の高価で華やかな逸品とは異なる、庶民向けの質素で親しみやすい造りをしたカジュアルファッションが薄暗い店内で静かに寝かせられている。
反対側に見える大きな建物は写真館だろうか。写真機の姿は見えないものの、背景用のパノラマが堂々と奥に鎮座している。向かい側にある服飾店と違い、こちらは大層敷居が高そうだ。写真一枚撮るのにいくらかかるか知った時、軽く目眩を覚えたのをサニーは忘れていない。
その他にも色々見比べていくと、どうやら左側は一般市民用で右側は中流階級以上を顧客層とした店構えが続いているようだと気付いた。こうした店構えの中にも、アンダーイーヴズという街の性格が表れているようで面白い……のだが、
「やっぱり、誰も居ない……」
その何れにも、肝心の人の姿が無い。左右に長く続く建物郡の中身は千差万別様々で色んな表情を持っているのに、それを活用する存在は皆無だ。ただ動くことのない影だけが、活気のなさを慰めるように寄り添っているだけである。
広い大通りを独り占めにし、我が物顔で闊歩出来るという状況に若干の快さを覚えないでもないが、人が生活を営む場所で人気が無いのはやはり寂しいものがある。
「こんなに良い天気なのに……。家に閉じ籠もっているなんて勿体ないよ……」
頭上を仰いで、サニーは嘆息する。今日の天気は雲ひとつない快晴だ。青々とした空が何処までも広がり、太陽が優しく光を降り注いでくれている。
インドア派のサニーではあるが、外で遊ぶのも本に目を通すのと同じくらいに好んでいた。庭に植えられた大樹の傍に腰掛けて、木漏れ日を浴びながらの読書というのも風情があって良いものである。書庫に忍び込んでいるのがバレて両親から叱声を浴び、読んでいた書物を取り上げられた後には決まって外へ飛び出し、あちこち歩き回りながら不貞腐れた心を鎮めていた。それから脳裏で想い描いた空想の世界を少しでも現出させようと、良くごっこ遊びに興じたものだ。こうして旅に出たのも、その延長線上に当たると言っていいだろう。
そんなサニーにとって、この街の現状はとても物足りなく、日中は外に出ないと言われている住民達に対して歯痒さと勿体なさを感じてしまうのである。
「『影無しの街』、かぁ……。人影の絶えた街、ひっそりと静まり返った街。確かに、そんなゴーストタウンとでも呼べそうな雰囲気だけど……」
サニーは自分の足元に目を落とした。強くもなく、弱くもない程良い塩梅の陽光が、瀝青で塗装された道路の上に自分の影を色濃く落としている。
こうした人影が消えたから『影無し』と呼ばれるようになった街。
サニーはそっと、地面に伸びる自分の影に手を伸ばす。動きに合わせて影が収縮し、密度が高まった分だけ濃さも増す。人間の影はこんな風に有機的で、様々な表情を持つ。
人影が絶えた街は、廃墟も同然。先程の御者の言葉が脳裏に蘇った。
「でも、道路とかは綺麗に掃き清められてるね。夜の間に皆でお掃除してるのかな?」
サニーはきょろきょろと地面を見渡す。確かに彼女の観察通り、ゴミらしきゴミは何処にも落ちていない。たまに風に煽られて飛んできたと思しき落ち葉や砂埃は目にするが、目立つ程に汚れた街並みでは無かった。街路に等間隔で置かれた街灯も、破損しているものは一個も無い。
街が生きている証拠だった。
「勘違いしそうになるけど、やっぱりこの街ってしっかりと機能してるよね。これなら泊まれるところも探せそう」
両手から提げたトランクを持ち直しつつ、サニーはほっと安堵の息を吐く。矢も盾もたまらず急いで飛び出してきたのである。もし宿の当てが無ければ、行きあたりばったりな自分を呪いつつ泣く泣く露宿する羽目になる。
「とは言え土地勘も無いし……。このまま目星も付けずにただ彷徨い歩くのは非効率ね」
そうこうしている内に日が暮れて、懸念が現実のものとなる恐れもある。
……いや、夜になれば皆表に出てくるだろうから、その時に宿の所在を尋ねるという手もあるか。
「う〜〜ん……やっぱそれは駄目! 時間の無駄! 待ち姿勢なんて、あたしには似合わないっ!」
こうなったら、何処か適当に目についた家の扉を叩いて案内を請おう。表に出てきてはくれないかも知れないけど、きっと扉越しに会話くらい出来るハズ!
そのように思い定めて手頃な家屋を吟味しようとしたところ……。
「……あっ!?」
不意に、脇に通じる路地から誰かが姿を現した。
裏通りの陰から大通りの陽射しに出てきたのは、中年に差し掛かったと思しき婦人だった。
彼女は杖を突き、腰を曲げてまるで老人のように静々と歩いてくる。奇妙な光景だった。まだまだ働き盛りで人生の夏を謳歌しているであろう年頃に見えるのに。
……いや、奇妙なのはそれだけでは無い。何処がどうおかしいのか、はっきりとは分からないが、とにかくサニーは目の前の婦人から、何か途轍もなく異質な気配を嗅いだ。
(何だろう、この違和感……。危険とかじゃないと思うけど、何処か変って言うか、歪って言うか……)
束の間逡巡するも、このままこの出会いをスルーしてしまうのはあまりにも惜しい。
「第一街人発見……! あの〜、すみませ〜ん!」
何はともあれ、折角見つけた最初の街人である。違和感は一先ず脇においておこうと心を固め、サニーは意を決して彼女を呼び止めた。
「はい……? おや、これはこれは。お嬢さん、この街の人じゃあないね。外から来なすったのかい?」
婦人は、声を掛けられて初めてサニーの存在に気付いたらしく、一瞬驚いた顔をしたあと、表情を緩めて柔和な笑顔を浮かべた。
「そうです! あの、はじめまして! あたし、サニー・サンライトって言います! この街には旅行でやって来ましたっ!」
ハキハキと、明朗な調子でサニーは自己紹介する。婦人の顔がますます嬉しそうに綻んだ。
「あらあら、元気の良いお嬢さんねぇ。ようこそ、いらっしゃい。何もない街だけど、どうかゆっくりしてって頂戴ね」
「えへへ、ありがとうございます! あ、でもですね……。その、さっきから全然他の人を見かけなくて……。皆さん、何処に行っちゃったんでしょう?」
眉尻を下げ、困惑した表情を作りながら、さり気なくサニーは訊いてみる。街の現状について当人から話を聞ける絶好のチャンスだ。
婦人はサニーの質問を受けて、気の毒そうに答えた。
「まあまあ、知らないで来たの? この街の人達はねぇ、ちょっと理由があって、日中はあまり外を出歩かないようにしているのよ。びっくりさせちゃったのならごめんなさいねぇ」
「昼間は外に出ないって、どうしてですか?」
サニーは用心深く婦人の様子を伺った。何か動揺のようなものが表れないかと、相手の仕草に注意する。
しかし、婦人は平静な調子を崩す事なく続けた。
「大した事じゃないのよ。ただ、昔からあるこの街のしきたりのようなものなの。外の人に迷惑を掛けるような事は無いから心配しないでね」
ほほほ、と柔らかく笑う婦人。無理をして取り繕っているようには見えない。
「そうなんですか〜。でも、それならおばさんはなんで?」
「私はね、もうそのしきたりを続ける必要が無くなったから」
意味深にそう言って、婦人は何処か達観したような、遠くを見るような目をする。
気にはなったが、詮索はここらが潮時だろうと思い、サニーは無難な方向に舵を切る。
「でも良かったです、こうして街の人に出会えて。実はあたし、泊まりの予定で来ちゃったんですけど、肝心の宿の場所が分からなくて……。もしご存知でしたら教えて頂けませんか?」
「ええ、良いわよ」
二つ返事で婦人は快諾した。それからおもむろに彼方の方を指差す。
「此処を真っ直ぐ行って、三つ目の角を左に曲がって」
サニーが婦人の指し示す方向に顔を向ける。婦人の指と自分の影が伸びる先が合致しているのが、何故か印象に残った。
「そこから四軒目に『銀蘭亭』って名前の宿屋があるわ。主人は奥で休んでいるでしょうけど、扉は開いている筈だから、遠慮せずに入って呼び鈴を鳴らすと良いわよ。大丈夫、営業時間外だからって追い出されたりしないから。もし、万が一何か言われるようなら、ベニタからの紹介だって言えば分かってくれるわよ」
極めて丁寧に真心の籠もった口調でその婦人、ベニタは説明してくれる。彼女の親切さが、人情味に飢え始めていたサニーの心に温かく沁み渡った。
「あ、ありがとうございますっ! お陰で助かりました!」
感謝の気持ちを込めて精一杯お辞儀をするサニーを、ベニタは慈母のように見つめる。
「いえいえ良いのよ、これくらいはお安いご用。それじゃあ、おばちゃんはそろそろ行くわね。街での滞在を楽しんで、サニーさん」
最後まで気持ちよく笑顔を浮かべて、ベニタは杖を片手にゆっくりとその場を離れてゆく。やはり老人のように辿々しい足取りだ。
「あの……大丈夫ですか? なんだか歩きにくそうですけど、良ければ何かお力に……」
これ以上の詮索は無用、と見切りをつけたものの、やっぱりどうしてもそこは気になる。宿屋の場所を教えてくれたお礼もしたいし、このくらいの申し出はしても良いだろう。
しかし、ベニタは振り返らずに頭を振る。
「ううん、ひとりでも平気よ。気持ちだけ、受け取っておくわ」
「でも……」
「これは運命。避けられないの」
「えっ?」
最後の呟きは小さく、サニーの耳には良く聴こえなかった。
そのまま、ベニタは歩き去ってゆく。サニーはその曲がった背中を、ただ見送るしかなかった。
やがて、ベニタは出てきた道とは別の路地に入ろうと道を曲がった。
その瞬間、サニーは気付いた。最初に彼女を見た時に感じた違和感の正体に。
「影、だ……! あの人、影が無かった……!」
サニーは思い出す。先程ベニタが宿屋への行き方を説明してくれた時、彼女の指先を追って目にした、影の数。
あの時、道路の上に見えたのは、確かに自分の影だけだったのだ。
サニーは愕然として大通りへ目を戻す。
ベニタの姿は、既に路地の向こうへ消えていた。
家業の影響か、幼い頃より本を読むのが好きだった。両親からは贈り物として度々本が与えられていたが、貪欲な子供心ゆえにそれだけでは飽き足らず、売り物である表に平積みされた書籍をこっそり立ち読みするのは序の口、非売品の書物を収めた家の書庫に入り浸り、寝食を忘れて読書に耽るなど日常茶飯事。そしてそれらの不逞を両親に見つかって大目玉を食らうまでがワンセットである。
書物に綴られる物語の数々は、彼女に様々な世界を紐解いて見せてくれた。頁をめくるたびに景色が広がり、抽象が具象に塗り替えられて心に定着してゆく。空想の中で自身を遊ばせる楽しみは、他の何にも代えがたい至福の時間だった。
やがて長じるにつれて、彼女は次第に自分でも物語を作ってみたいと思うようになっていった。
人の心を豊かに出来る本を、自分の手で生み出せたらどんなに嬉しいだろうか。
書店の子として家業を手伝う傍ら、彼女の胸奥でその想いは次第に膨らんできた。
決心して両親に打ち明けると、二人共驚きつつも娘の夢を受け入れてくれた。
そして18歳の誕生日を迎えた今年、手帳を送ると共に彼女の旅立ちを許可してくれたのだ。
『自分の目で、実際の世界を見てくると良い。物語を書くのなら、それが一番良い刺激になる』
娘の背を押す父親の眼差しは、これまで見た中で一番温かく、心地良かった。
そして彼女は、王都を出た。
不安や恐怖が無かったと言えば嘘になるが、それよりもまだ見ぬ世界に対する期待感や好奇心が勝った。
王都を出て、しばらくは当て所もなく彷徨った。外で目にするありとあらゆるものが、新鮮な感動を伴って彼女の心を満たしてくれたが、残念ながらインスピレーションが湧くまでには至らなかった。
もっと刺激を、もっと感慨を。果てしなく心を揺さぶり、魂に訴えかけてくれるような“何か”を、彼女は求め続けた。
そして先日、この地方都市アンダーイーヴズの話を耳にしたのだ。
即座に彼女は荷物をまとめ、トランクを両手に飛び出した。
この街にこそ、自分が追い求める“何か”がある。そんな希望を胸に灯して――
◆◆◆
「うわぁ……! 本当に御者さんの言った通りだ……。行けども行けども誰も居ない……」
煉瓦造りの建物が立ち並ぶ無人の街並みを、サニーは驚きで圧倒されながらひたすら歩き続けていた。
向かって左手前に見えるのは恐らく服飾店だ。ガラスを隔てた先の屋内には、人形に着せられた様々な衣服が見える。貴族御用達の高価で華やかな逸品とは異なる、庶民向けの質素で親しみやすい造りをしたカジュアルファッションが薄暗い店内で静かに寝かせられている。
反対側に見える大きな建物は写真館だろうか。写真機の姿は見えないものの、背景用のパノラマが堂々と奥に鎮座している。向かい側にある服飾店と違い、こちらは大層敷居が高そうだ。写真一枚撮るのにいくらかかるか知った時、軽く目眩を覚えたのをサニーは忘れていない。
その他にも色々見比べていくと、どうやら左側は一般市民用で右側は中流階級以上を顧客層とした店構えが続いているようだと気付いた。こうした店構えの中にも、アンダーイーヴズという街の性格が表れているようで面白い……のだが、
「やっぱり、誰も居ない……」
その何れにも、肝心の人の姿が無い。左右に長く続く建物郡の中身は千差万別様々で色んな表情を持っているのに、それを活用する存在は皆無だ。ただ動くことのない影だけが、活気のなさを慰めるように寄り添っているだけである。
広い大通りを独り占めにし、我が物顔で闊歩出来るという状況に若干の快さを覚えないでもないが、人が生活を営む場所で人気が無いのはやはり寂しいものがある。
「こんなに良い天気なのに……。家に閉じ籠もっているなんて勿体ないよ……」
頭上を仰いで、サニーは嘆息する。今日の天気は雲ひとつない快晴だ。青々とした空が何処までも広がり、太陽が優しく光を降り注いでくれている。
インドア派のサニーではあるが、外で遊ぶのも本に目を通すのと同じくらいに好んでいた。庭に植えられた大樹の傍に腰掛けて、木漏れ日を浴びながらの読書というのも風情があって良いものである。書庫に忍び込んでいるのがバレて両親から叱声を浴び、読んでいた書物を取り上げられた後には決まって外へ飛び出し、あちこち歩き回りながら不貞腐れた心を鎮めていた。それから脳裏で想い描いた空想の世界を少しでも現出させようと、良くごっこ遊びに興じたものだ。こうして旅に出たのも、その延長線上に当たると言っていいだろう。
そんなサニーにとって、この街の現状はとても物足りなく、日中は外に出ないと言われている住民達に対して歯痒さと勿体なさを感じてしまうのである。
「『影無しの街』、かぁ……。人影の絶えた街、ひっそりと静まり返った街。確かに、そんなゴーストタウンとでも呼べそうな雰囲気だけど……」
サニーは自分の足元に目を落とした。強くもなく、弱くもない程良い塩梅の陽光が、瀝青で塗装された道路の上に自分の影を色濃く落としている。
こうした人影が消えたから『影無し』と呼ばれるようになった街。
サニーはそっと、地面に伸びる自分の影に手を伸ばす。動きに合わせて影が収縮し、密度が高まった分だけ濃さも増す。人間の影はこんな風に有機的で、様々な表情を持つ。
人影が絶えた街は、廃墟も同然。先程の御者の言葉が脳裏に蘇った。
「でも、道路とかは綺麗に掃き清められてるね。夜の間に皆でお掃除してるのかな?」
サニーはきょろきょろと地面を見渡す。確かに彼女の観察通り、ゴミらしきゴミは何処にも落ちていない。たまに風に煽られて飛んできたと思しき落ち葉や砂埃は目にするが、目立つ程に汚れた街並みでは無かった。街路に等間隔で置かれた街灯も、破損しているものは一個も無い。
街が生きている証拠だった。
「勘違いしそうになるけど、やっぱりこの街ってしっかりと機能してるよね。これなら泊まれるところも探せそう」
両手から提げたトランクを持ち直しつつ、サニーはほっと安堵の息を吐く。矢も盾もたまらず急いで飛び出してきたのである。もし宿の当てが無ければ、行きあたりばったりな自分を呪いつつ泣く泣く露宿する羽目になる。
「とは言え土地勘も無いし……。このまま目星も付けずにただ彷徨い歩くのは非効率ね」
そうこうしている内に日が暮れて、懸念が現実のものとなる恐れもある。
……いや、夜になれば皆表に出てくるだろうから、その時に宿の所在を尋ねるという手もあるか。
「う〜〜ん……やっぱそれは駄目! 時間の無駄! 待ち姿勢なんて、あたしには似合わないっ!」
こうなったら、何処か適当に目についた家の扉を叩いて案内を請おう。表に出てきてはくれないかも知れないけど、きっと扉越しに会話くらい出来るハズ!
そのように思い定めて手頃な家屋を吟味しようとしたところ……。
「……あっ!?」
不意に、脇に通じる路地から誰かが姿を現した。
裏通りの陰から大通りの陽射しに出てきたのは、中年に差し掛かったと思しき婦人だった。
彼女は杖を突き、腰を曲げてまるで老人のように静々と歩いてくる。奇妙な光景だった。まだまだ働き盛りで人生の夏を謳歌しているであろう年頃に見えるのに。
……いや、奇妙なのはそれだけでは無い。何処がどうおかしいのか、はっきりとは分からないが、とにかくサニーは目の前の婦人から、何か途轍もなく異質な気配を嗅いだ。
(何だろう、この違和感……。危険とかじゃないと思うけど、何処か変って言うか、歪って言うか……)
束の間逡巡するも、このままこの出会いをスルーしてしまうのはあまりにも惜しい。
「第一街人発見……! あの〜、すみませ〜ん!」
何はともあれ、折角見つけた最初の街人である。違和感は一先ず脇においておこうと心を固め、サニーは意を決して彼女を呼び止めた。
「はい……? おや、これはこれは。お嬢さん、この街の人じゃあないね。外から来なすったのかい?」
婦人は、声を掛けられて初めてサニーの存在に気付いたらしく、一瞬驚いた顔をしたあと、表情を緩めて柔和な笑顔を浮かべた。
「そうです! あの、はじめまして! あたし、サニー・サンライトって言います! この街には旅行でやって来ましたっ!」
ハキハキと、明朗な調子でサニーは自己紹介する。婦人の顔がますます嬉しそうに綻んだ。
「あらあら、元気の良いお嬢さんねぇ。ようこそ、いらっしゃい。何もない街だけど、どうかゆっくりしてって頂戴ね」
「えへへ、ありがとうございます! あ、でもですね……。その、さっきから全然他の人を見かけなくて……。皆さん、何処に行っちゃったんでしょう?」
眉尻を下げ、困惑した表情を作りながら、さり気なくサニーは訊いてみる。街の現状について当人から話を聞ける絶好のチャンスだ。
婦人はサニーの質問を受けて、気の毒そうに答えた。
「まあまあ、知らないで来たの? この街の人達はねぇ、ちょっと理由があって、日中はあまり外を出歩かないようにしているのよ。びっくりさせちゃったのならごめんなさいねぇ」
「昼間は外に出ないって、どうしてですか?」
サニーは用心深く婦人の様子を伺った。何か動揺のようなものが表れないかと、相手の仕草に注意する。
しかし、婦人は平静な調子を崩す事なく続けた。
「大した事じゃないのよ。ただ、昔からあるこの街のしきたりのようなものなの。外の人に迷惑を掛けるような事は無いから心配しないでね」
ほほほ、と柔らかく笑う婦人。無理をして取り繕っているようには見えない。
「そうなんですか〜。でも、それならおばさんはなんで?」
「私はね、もうそのしきたりを続ける必要が無くなったから」
意味深にそう言って、婦人は何処か達観したような、遠くを見るような目をする。
気にはなったが、詮索はここらが潮時だろうと思い、サニーは無難な方向に舵を切る。
「でも良かったです、こうして街の人に出会えて。実はあたし、泊まりの予定で来ちゃったんですけど、肝心の宿の場所が分からなくて……。もしご存知でしたら教えて頂けませんか?」
「ええ、良いわよ」
二つ返事で婦人は快諾した。それからおもむろに彼方の方を指差す。
「此処を真っ直ぐ行って、三つ目の角を左に曲がって」
サニーが婦人の指し示す方向に顔を向ける。婦人の指と自分の影が伸びる先が合致しているのが、何故か印象に残った。
「そこから四軒目に『銀蘭亭』って名前の宿屋があるわ。主人は奥で休んでいるでしょうけど、扉は開いている筈だから、遠慮せずに入って呼び鈴を鳴らすと良いわよ。大丈夫、営業時間外だからって追い出されたりしないから。もし、万が一何か言われるようなら、ベニタからの紹介だって言えば分かってくれるわよ」
極めて丁寧に真心の籠もった口調でその婦人、ベニタは説明してくれる。彼女の親切さが、人情味に飢え始めていたサニーの心に温かく沁み渡った。
「あ、ありがとうございますっ! お陰で助かりました!」
感謝の気持ちを込めて精一杯お辞儀をするサニーを、ベニタは慈母のように見つめる。
「いえいえ良いのよ、これくらいはお安いご用。それじゃあ、おばちゃんはそろそろ行くわね。街での滞在を楽しんで、サニーさん」
最後まで気持ちよく笑顔を浮かべて、ベニタは杖を片手にゆっくりとその場を離れてゆく。やはり老人のように辿々しい足取りだ。
「あの……大丈夫ですか? なんだか歩きにくそうですけど、良ければ何かお力に……」
これ以上の詮索は無用、と見切りをつけたものの、やっぱりどうしてもそこは気になる。宿屋の場所を教えてくれたお礼もしたいし、このくらいの申し出はしても良いだろう。
しかし、ベニタは振り返らずに頭を振る。
「ううん、ひとりでも平気よ。気持ちだけ、受け取っておくわ」
「でも……」
「これは運命。避けられないの」
「えっ?」
最後の呟きは小さく、サニーの耳には良く聴こえなかった。
そのまま、ベニタは歩き去ってゆく。サニーはその曲がった背中を、ただ見送るしかなかった。
やがて、ベニタは出てきた道とは別の路地に入ろうと道を曲がった。
その瞬間、サニーは気付いた。最初に彼女を見た時に感じた違和感の正体に。
「影、だ……! あの人、影が無かった……!」
サニーは思い出す。先程ベニタが宿屋への行き方を説明してくれた時、彼女の指先を追って目にした、影の数。
あの時、道路の上に見えたのは、確かに自分の影だけだったのだ。
サニーは愕然として大通りへ目を戻す。
ベニタの姿は、既に路地の向こうへ消えていた。