加速した
おれは自分を見る。
正確には鏡を見ているだけ。鏡に映っているのが、たまたま自分。
目的もなく鏡を見るのは好きじゃない。ふいうちは苦手だ。
いまこうして向き合っているのは、物理的な鏡そのものなのか。それとも。
映し出されて左右反転している景色と自分自身だろうか。なんなら。
おれは鏡の向こうに行きたいと願っている。
とか。
あれ?
なんか急に懐かしい感覚。そういえば、そういうような感覚って覚えがある。
鏡の向こうに行くことが夢だった、みたいな感覚。どうしようもなく空想の世界。
一瞬だけ『このまま空想にひたっていたい』と思う。コンマ秒速で脳を切り替える。
ここは試験会場なんだぞ。
いよいよ入学試験が始まるのさ。
待ちに待ったやつ。だろう?
ひとりごとは孤独なようで誰かの気配がいつもする。
いまだってそうさ。ほら。
誰が待った?
入学試験そんなの臨んだ覚えはない。
ほうら、あらわれた。
いいか試験会場ついに入学試験ここまで、たどりついたんだ。
『じゃまなんか、するなよな』おれは言う。
『そっちこそ』誰かが答える。誰かって、脳内ひとりごとの自分だけど。
ぴちょん。
どこの蛇口かわからない水滴。広く深く細長い洗面台にひびく。時間差で別の位置からも。
濡れた手はハンカチだけでは乾かせず、指と指とのあいだに湿気が残り続ける。
ティッシュペーパーなら完全に拭き取れるだろうけど。
濡れたままの手でポケットティッシュは、さわれない。
ハンカチである程度まで拭いてしまえば、これ以上は神経質レベルな気がする。
だからいつも思う、紙のような吸収率の高いハンカチがあればいいのに。
ついでに自分の細かさがイヤになるけど、周りに他人ひとりいないこの状況。
『誰に迷惑かけるでもなく、誰かにからかわれるでもない。おれが自分をイヤになる? そもそもなんの根拠があったんだっけ』
いつになく、おれは自由でワガママだ。
よりによってこんな日に。
それにしても本当に本当だ、なんだろうこの広い空間いやまあトイレなんだけど。
気合いれますか。根性みせてやる。どうでもいいや。
おれは勝つ。
それだけのこと。
緊張…してる?
してるしてないどっち。自分じゃわからない。いつもそうだ、こういう感覚わからなくなる。
家の洗面所では『緊張してるか』とたずねれば『緊張してないぜ』って答がきてた。
駅の改札を抜けてポスター貼られた掲示板のガラスうすらぼんやり自分を見たとき、
『緊張してきたな?』とたずねたら、
『そんなもんかい?』という答だった。
電車の窓に映る自分は少しやせてみえて、
『おつかれさまだな』と言うと、
『どこがなにがだ疲れてないし』と反発された。
いまはどうだ。
耳をすませば水滴ちゃぷん、心をすまして目を見開けば…暗くて眩しい。
トイレの窓は開いていて、朝の眩しさがあふれている。
対照的に洗面まわりは暗いまま。灯りはついている、ついているけれど。
そうか。この暗さが鏡に映るおれの印象を変えているのか。
街のショーウインドウのぼんやりさとは違う。車窓の暗いゆがみでもない。
広い洗面スペースのヒンヤリとした空気、ほの暗い鏡ではあるが繊細に映し出してくれている。
ぼんやりもゆがみもない。
むしろ残酷な描写力で緻密に髪の跳ねからブレザーの毛羽立ちまで容赦なく見せてくれている。
この鏡、おれんちにも欲しい。
いつになく、くっきりとした輪郭で描かれている瞳だな。おれがおれを見る、見れは見るほど凝視となり、観察を強めれば強めるだけ自分自身が反対に観察されていく。
鏡を見つめてこんなに見透かされるのは、めったにない。
もしかすると、これが…緊張なのか。と思った瞬間。
「あ」
声がして誰か来た、いや誰かが来ておれに気づいて声を発したと言うべきか。
おれは鏡を見ていたから、まさに廊下からトイレに曲がってくる瞬間をとらえることができた。
あいさつするつもりなどない。無視するつもりもないけど。
向こうは向こうで、おれに気づかない…という認識だった。
「お」
返事のように、思わず声を出してしまう。すると、
「おっぱいもんでるのか」
と言われた。
なんのことだ、と思って冷静になると鏡の中で心臓のあたりに手をあてている自分の姿。
そう見えるのか、そう見えたのか。
あらためて自分で自分を見ながら意識すると、おれは自然とブレザーのうえから自分の鼓動を探しはじめた。どこだ鼓動、だがない。あれ?
心臓ばくばくしてると思ったら、鼓動そのものを探し当てられなくて拍子抜け。
おかしいな、おかしいな、おかしいや。
と、おれにとっては数秒の世界だったはずが、
「わかるよ」
さっきの誰かが戻ってきて隣に立ち止まった。
え、もう用足したの、すんだの。それとも。
「そっちも気晴らしか」
と思わずおれは言ってしまった。
「へ!」
と鏡の中で反応される。笑ったような、嘆いたような。
ふたりの間に生まれた深い沈黙を破ったのは水道水だ。蛇口から容赦なくどばどば、おおっとと言って蛇口ひねって水量を調整している。
あわてているようで、あわてていない。
隣に並んだまま鏡を見ていると、鏡の中で目が合った。
「おっぱいもんでたろ」
と、あらためて言われる。
そういうわけじゃなかったけれど、わざわざ否定するのもなんだしな。
むしろ、へんなやつと思われるくらいが丁度いい気もしてきた。
「まあね」
おれは言う。
鏡の中で目が合ったまま、隣は隣で手を洗っている。石けんは使わずに。
ギュっと蛇口を締める気配と、さっと取り出したハンカチの白さ。しっかり折られた、ふわりと広げて、容赦なくしごく。吹き終えるとバタバタと空気に泳がしている。
「わかる」
と、言ってにやりとしてきた。さらに、
「股間に風を通すと落ち着くしな」
真顔で言ってくる。
おれは、
「だよな」
と笑わずに答えた。
なんだかずいぶんトイレに長くいる。居心地がいいわけではないが悪くもない。せかされることもないし、想定外の観察といったところ。
あくまでも自分ひとりの空間として戯れていたので、誰か他人が来たことで状況が変わった。まるでストップウォッチのスイッチがかちっと音をたててカウント始めたみたいに。
かちっ。
おれの脳裏かなり深いところでスイッチが入った気がする。
「どこかで会った?」
とハンカチをポケットにしまいながら聞いてくるので、
「かもな」
と答えてみる。おれは鏡を見たままで。隣はポケットにハンカチを格納させ終えると、鏡の中ではなくリアルに隣のおれのほうを向いた…のが、鏡の中で見えた。
「じゃ、またな」
と言って、足早に去っていく。
おれは鏡の中だけを見ていた。
正確には鏡を見ているだけ。鏡に映っているのが、たまたま自分。
目的もなく鏡を見るのは好きじゃない。ふいうちは苦手だ。
いまこうして向き合っているのは、物理的な鏡そのものなのか。それとも。
映し出されて左右反転している景色と自分自身だろうか。なんなら。
おれは鏡の向こうに行きたいと願っている。
とか。
あれ?
なんか急に懐かしい感覚。そういえば、そういうような感覚って覚えがある。
鏡の向こうに行くことが夢だった、みたいな感覚。どうしようもなく空想の世界。
一瞬だけ『このまま空想にひたっていたい』と思う。コンマ秒速で脳を切り替える。
ここは試験会場なんだぞ。
いよいよ入学試験が始まるのさ。
待ちに待ったやつ。だろう?
ひとりごとは孤独なようで誰かの気配がいつもする。
いまだってそうさ。ほら。
誰が待った?
入学試験そんなの臨んだ覚えはない。
ほうら、あらわれた。
いいか試験会場ついに入学試験ここまで、たどりついたんだ。
『じゃまなんか、するなよな』おれは言う。
『そっちこそ』誰かが答える。誰かって、脳内ひとりごとの自分だけど。
ぴちょん。
どこの蛇口かわからない水滴。広く深く細長い洗面台にひびく。時間差で別の位置からも。
濡れた手はハンカチだけでは乾かせず、指と指とのあいだに湿気が残り続ける。
ティッシュペーパーなら完全に拭き取れるだろうけど。
濡れたままの手でポケットティッシュは、さわれない。
ハンカチである程度まで拭いてしまえば、これ以上は神経質レベルな気がする。
だからいつも思う、紙のような吸収率の高いハンカチがあればいいのに。
ついでに自分の細かさがイヤになるけど、周りに他人ひとりいないこの状況。
『誰に迷惑かけるでもなく、誰かにからかわれるでもない。おれが自分をイヤになる? そもそもなんの根拠があったんだっけ』
いつになく、おれは自由でワガママだ。
よりによってこんな日に。
それにしても本当に本当だ、なんだろうこの広い空間いやまあトイレなんだけど。
気合いれますか。根性みせてやる。どうでもいいや。
おれは勝つ。
それだけのこと。
緊張…してる?
してるしてないどっち。自分じゃわからない。いつもそうだ、こういう感覚わからなくなる。
家の洗面所では『緊張してるか』とたずねれば『緊張してないぜ』って答がきてた。
駅の改札を抜けてポスター貼られた掲示板のガラスうすらぼんやり自分を見たとき、
『緊張してきたな?』とたずねたら、
『そんなもんかい?』という答だった。
電車の窓に映る自分は少しやせてみえて、
『おつかれさまだな』と言うと、
『どこがなにがだ疲れてないし』と反発された。
いまはどうだ。
耳をすませば水滴ちゃぷん、心をすまして目を見開けば…暗くて眩しい。
トイレの窓は開いていて、朝の眩しさがあふれている。
対照的に洗面まわりは暗いまま。灯りはついている、ついているけれど。
そうか。この暗さが鏡に映るおれの印象を変えているのか。
街のショーウインドウのぼんやりさとは違う。車窓の暗いゆがみでもない。
広い洗面スペースのヒンヤリとした空気、ほの暗い鏡ではあるが繊細に映し出してくれている。
ぼんやりもゆがみもない。
むしろ残酷な描写力で緻密に髪の跳ねからブレザーの毛羽立ちまで容赦なく見せてくれている。
この鏡、おれんちにも欲しい。
いつになく、くっきりとした輪郭で描かれている瞳だな。おれがおれを見る、見れは見るほど凝視となり、観察を強めれば強めるだけ自分自身が反対に観察されていく。
鏡を見つめてこんなに見透かされるのは、めったにない。
もしかすると、これが…緊張なのか。と思った瞬間。
「あ」
声がして誰か来た、いや誰かが来ておれに気づいて声を発したと言うべきか。
おれは鏡を見ていたから、まさに廊下からトイレに曲がってくる瞬間をとらえることができた。
あいさつするつもりなどない。無視するつもりもないけど。
向こうは向こうで、おれに気づかない…という認識だった。
「お」
返事のように、思わず声を出してしまう。すると、
「おっぱいもんでるのか」
と言われた。
なんのことだ、と思って冷静になると鏡の中で心臓のあたりに手をあてている自分の姿。
そう見えるのか、そう見えたのか。
あらためて自分で自分を見ながら意識すると、おれは自然とブレザーのうえから自分の鼓動を探しはじめた。どこだ鼓動、だがない。あれ?
心臓ばくばくしてると思ったら、鼓動そのものを探し当てられなくて拍子抜け。
おかしいな、おかしいな、おかしいや。
と、おれにとっては数秒の世界だったはずが、
「わかるよ」
さっきの誰かが戻ってきて隣に立ち止まった。
え、もう用足したの、すんだの。それとも。
「そっちも気晴らしか」
と思わずおれは言ってしまった。
「へ!」
と鏡の中で反応される。笑ったような、嘆いたような。
ふたりの間に生まれた深い沈黙を破ったのは水道水だ。蛇口から容赦なくどばどば、おおっとと言って蛇口ひねって水量を調整している。
あわてているようで、あわてていない。
隣に並んだまま鏡を見ていると、鏡の中で目が合った。
「おっぱいもんでたろ」
と、あらためて言われる。
そういうわけじゃなかったけれど、わざわざ否定するのもなんだしな。
むしろ、へんなやつと思われるくらいが丁度いい気もしてきた。
「まあね」
おれは言う。
鏡の中で目が合ったまま、隣は隣で手を洗っている。石けんは使わずに。
ギュっと蛇口を締める気配と、さっと取り出したハンカチの白さ。しっかり折られた、ふわりと広げて、容赦なくしごく。吹き終えるとバタバタと空気に泳がしている。
「わかる」
と、言ってにやりとしてきた。さらに、
「股間に風を通すと落ち着くしな」
真顔で言ってくる。
おれは、
「だよな」
と笑わずに答えた。
なんだかずいぶんトイレに長くいる。居心地がいいわけではないが悪くもない。せかされることもないし、想定外の観察といったところ。
あくまでも自分ひとりの空間として戯れていたので、誰か他人が来たことで状況が変わった。まるでストップウォッチのスイッチがかちっと音をたててカウント始めたみたいに。
かちっ。
おれの脳裏かなり深いところでスイッチが入った気がする。
「どこかで会った?」
とハンカチをポケットにしまいながら聞いてくるので、
「かもな」
と答えてみる。おれは鏡を見たままで。隣はポケットにハンカチを格納させ終えると、鏡の中ではなくリアルに隣のおれのほうを向いた…のが、鏡の中で見えた。
「じゃ、またな」
と言って、足早に去っていく。
おれは鏡の中だけを見ていた。