時を刻む
心臓の鼓動が時計の秒針のように骨全体に響き渡る。
時計を意識していないのに、勝手に刻まれていく。
おそらく無意識とはいえ、時間を気にしているからだ。
時間…試験の開始、その五分前。アラームは設定していないが意識が強く向いてしまっている。
とどこにいても、なにをしていても、していなくても。意識が向いている先にあるのは、試験開始の五分前という世界。それは今日に限ったことではなく、おそらく受験を決めたときから始まっている。
そもそも、いつだっけ。
塾に通い始めたのは四年生のときだけど。
中学を受験するか、と父が正式に勧めてきたときも思い出せるけど。
そういうのとは、ちがう。ちがくないけれど、なにかがちがう。そんな気がする。
自分で決意した瞬間…それがある、あったはず、そのときからストップウォッチが始動している。
おれは否応なしに、走っている。いや、奔っていると表現すべきか。どちらも「はしっている」と読むにはちがいないけど。
足をフルに働かせて走るのとはちがって、心が奔走しまくっているがゆえの、奔り。
まあ、おれは休み休み…だったけどさ。
ふいに、記憶がよみがえる。
それは塾の授業をサボったときのこと。
塾そのものからエスケープして、そのまんまやめてしまったときのこと。
走らないと間に合わない、定刻通りに発車していく電車に向かって駆け出したときのこと。
信号待ちイライラしながら地団駄ふんで可能な限りの時短を目指して、いまかいまかまだかまだかと焦っていたときのこと。
記憶は勝手だよ、ふだんまったく思い出したこともない場面ばかりだ。
走りたいな。このまま廊下。あるいは校庭。そうだ校庭って。
廊下から眺められる校庭を、あらためて見渡してみる。
トイレから出て何歩ある?
そんなもの数えないけどさ。いままでだって、ないし。たぶん。
窓に近づき、格子線の埋め込まれている透明なガラスだと気づく瞬間、
「あれ? 五歩もなかったか」
と思うのとほぼ同時、
「なんなんだこの景色この眺め、いったい…」
おれは絶句する。
いけない、いけない。
こんなことしている場合じゃない。
こんなこしていたら時間が過ぎてしまう。
腕時計を確認しようとせず、廊下や踊り場に時計があるかどうかを探そうともせずに、ただひたすら自分自身の中に稼働し続けている「刻み」を頼りに。
おれは、いったいなにを頼りにしているのだろう?
時の刻み、それも正確ではないリズム。時には自分で自分を威嚇する脈うち。
あらためて思う、いよいよだな。
いよいよ。
いよいよだ。
いよいよなんだよ。
今日まさに、その日。
その日は来た。
だが試験開始まで時間がある。まだまだある。
まだまだあると思って、つい長居してしまったようだが会場に戻ろう。あの階段教室に。試験開始まで、あと何分。
開放されたままの入り口から階段教室に飛び込む。
ぐわんと視界が広がり、天井の高さに立ちくらみそうになった。
さっきまでいたのに、さっきまでいたから慣れた気でいた。それなのに。
めまいのような、ふるえがおれを襲ってきた。
あれれ?
おれ、なんで階段教室に急いで戻ってきた…黒板横の時計は想像していたよりも遅めの時刻を指していた。
試験開始まで、まだ20分もある。
自分の席に座る、と周囲への注意が変化した。
というより、
『ずいふぶん、ひとが増えたな』
受験生ばかりだろう?
いま、目に映るすべてのひとたち、みんな受験生この学校を受験するのだろう?
なあ。
当たり前のことかもしれない。
いや、当たり前なんだ。今日は入学試験の当日だし。ここはその試験会場だ。
待ちに待った本番の当日。
なのに、まだ始まろうとさえしていない。
なぜか、どうでもいいことばかり連想してしまう。
でも。
これでいい。
これでいい、このままでいこう。
おれは、おれに語りかける。
いい感じだぞ、このままこの調子でいこうぜ。
なあ。
さて何度この教室全体を見渡しただろう。
さらに誰かが、はいってくる。
おれの席から見える、すでに着席している頭たち。後頭部も、こんなに種類があるんだね。
頭の形はもちろんのこと、髪型、服装、首まわり、露出している肌の面積の違い。
どれも、ちがう。誰もが、こんなに、ちがう。
ふいに、おれは絶叫したくなった。
『なにがフツウだよ! うそつき!!』
試験当日の服装について、父と母とは折り合いが悪かった。
「いいからちゃんとした格好をしろ」
「いいから親の言うこときいて、ちゃんとしなさい」
「なぜその服を着るんですか」
「それがふつうだからだ。ふつうの格好してけ。いいな」
「そうよ、みんなだってふつうにちゃんとした服装で来るんだから。そのときになれば、わかるわよ。ああ、おかあさんの言うとおりだった、ちゃんと親の言うこときいていてよかった。って」
うそつき。おれと同じような服装、誰もいないじゃないか。
誰かいないのかブレザーを着ていて受験会場に…と誰かを捜している時点で、おとうさんとおかあさんの言っていた「ふつう」は消滅したし、やはりあいつらはうそつきだ。
まんまと、のせられたよな。
けれど、乗ったのは自分この、おれ自身でもあるんだよね。
笑いたい。
笑い飛ばして大声で叫びたくなった。
あいかわらず窓は大きい。広いし、カーテンもでかいし。
いや、あらためて見ていると、自分が最初に把握したときの印象よりも大きくなっているように思う。
窓のサイズだけではない。
天井も高かった。さっきよりも高く感じる。
その反面、
『なんだろう、なんでなのかな~』
机が狭くなったような気がする。
おれは筆箱を振った。
からからから、と乾いた音が必要以上に響き渡る。
誰かがこっちを向くだろうか、と思ったがとりあえず見える範囲では誰からも。
けど、なんでかな。
視線を感じる。
おれよりも後ろの席からか。
かなり意識的なつよい視線だ。
よし、せえので。
「…」
おれは振り向きも渡した。
教室のうしろのほう、すぐそこに迫る壁、たしかに何人も座っている。
おれがトイレに行く前には座っていなかったひとたちが。
ふいに振り向いたおれと目が合うこともなく、誰もが別の方向を見ていた。
そのとき、
『さっきトイレで会ったやつ、あいつ。この会場には、いないな?』
と気づいた。
からだをひねっていたので、ばねが元に戻りたがるように自然に前を向き直る。
おれの視線の先には黒板、時計、静かな黒板消し、掲示板スペース、窓、窓、窓、窓、カーテン、ぐるり点在する後頭部。
さっきは気にも留めなかったけど、それそぞれの席みんなの前に出されている物には統一感がなかった。
筆箱、鉛筆あるいはシャーペンかな、消しゴム、ん? あれコンパスか。必要だったっけ。まあ、いちおうおれの筆箱にもあると思うけど。定規、分度器、それから。
と、そのとき。
大人だ。
「あー、あー、あー? いやまあ、まだだけどな。いちおう、いまここにいるみんなは聞いてくれ。
試験のとき机の上には」
説明が始まった。抜き打ちだな、おい。
時計ちらり。まだ15分くらい、あるぞ。
「みぎはじ上のほうに受験票、ちゃんと顔写真が見えるように置いて。
机には筆箱だけ。鉛筆と消しゴムだけ。色は黒のみ。
他のモノぜんぶ、しまって。
あ、それ、それな。そうそう、コンパス使わないから筆箱の中にしまって。はいらないならカバンの中にだ」
抜き打ち検査のように指示が飛ぶ。よくとおる声だ。マイク、使っていないよな。
と思った瞬間に、黒板の両サイドに黒い小箱が見え、
「あれはスピーカーだよな」
さらに天井にも円形の「これもスピーカーか」
さっきまで何度も何度も何度も同じところずっと繰り返し眺めてきたけれど、
『なんで気づかなかったんだか!!』
おれは、あせった。まじ、あせる。
見ていたのに見えていなかったものがあるだと。
グレイのスーツにメガネをかけ、少し長くて肩まで届く勢いの髪、その大人も先生なのだろう?
なぜか予備校の模擬試験の延長で、とらえていたんじゃないのか。
『今日が当日いよいよ本番まぎれもなく入学試験』と脳内で繰り返しながらも、おれはファンタジーの世界を生きていたのではないか。
急に、なにか冷めていくのを実感する。
いい感じで温まっていたなにかが一気に冷えていく。音のない扇風機で熱だけ奪われていくような、いやもうすでに熱を奪い取られているんじゃないか。
語り終えた先生が教室を出ていく。
その背中には隙が見当たらない。
おれは手元この目の前に意識を向けた、あるよな受験票、ある。まちがいなく、おれのだよな。受験番号は暗唱しているが、あらためて黙って読みあげる。うん、まちがいない。
消しゴム、カバーは取り外してある。裸の白い消しゴムだ。みっつ。ひとつだけは、使い慣れているやつ。あとのふたつは新しい。
使い慣れている消しゴムだけれど、カッターで削って白くしてある。ほどよく削り、新品のような白さが輝いて感じられる。われながら上出来じゃん?
鉛筆、転がることのない角のあるタイプ。
削ってある、磨きのかかった木の部分から香りがたちこめているようだ。
あらためて机の傷の多さに気づいた。らくがきか。いや、ちがうな。単純に彫って彫って彫りまくったかのような。
だとしたら刀かなにかで?
ひたいに風を感じた、ような気がした。
いまのは本当に見えていたものなのか。
聞こえていたものは聞こえていたのか、実在していたかそれとも。
おれは、ときどきわからなくなる。
見えたと言ってはいけないものを見てしまったのではないか。
聞こえた? と確認してはイケナイことを聞き取ってしまったのではないか、と。
会場全体の空気に変化は感じられない。
あえていうなら、ひたいに風。それくらいかな。
暖房の影響だろうか。あるいは、あけっぱなしのドアから流れ込んでくる空気そのものの冷たさ。
意識したとたんに、階段教室全体を空気が流れ続けているのがわかった。
おそらく、おれが教室に飛び込んだのは流れにうまく乗ったからだ。
廊下から流れ込んでくる冷たい空気に乗ってストーンと教室に足を一歩、一歩、無意識に足の運びにまかせて自分の席を探して…いたのだろう。
早い。
あと、7分くらいか。
と考えた次の瞬間、
「よおし。んじゃあ、はじめるぞぉ」
と静かに穏やかに、だが教室こんなに後ろの席のおれの耳元でもはっきりと聞き取れる声が現れた。
黒板の前、縞模様のスーツ、メガネかけていない、髪の流れは6:4くらいの分かれめ、黒くないが白くもない肌、きびきびとした動作、服のうえからでもそれとなく想像できる骨格と筋肉。
強い…あのひとは、強い。
だいたい、いつのまに現れたんだ。おれはずっと目を…あけていた、よなあ?
「よーし。しまって、しまって。必要なモノ以外ぜーんぶ、しまってしまって」
気づいたときには、おれの真横。
「くばるぞー」
解答用紙のようだ。
記入欄の枠組みが…いや、ちがう。これは問題文も印刷されてい…
裏返しになっているが読もうとすれば読めるだろう。だが、そんなことにエネルギーを使いたくない。
待て、待つんだ。合図がある。それまで待つんだ、おれ。
何枚ある?
ホチキス止めされているのか、折られているのか。二枚か。それとも、もう一枚あるかないか。
「よーし。いったな。いったよな全員。もちろん、まだだぞー。まだだからなー。さわるなよ」
黒板の前に先生が立っている。いや、いつのまにだろうか。先生は3人だ。手元に試験用紙を持っている先生もいる。それも少なくない量に見える。
そのとき、無言で軽く会釈しながら…誰かが。
「おー? 早く着けー。はじまんぞー」
カバンを抱えているから受験生なおかつ、いま来たところ。なのだろう。
トイレにいってました、という雰囲気ではない。
時計ちらり、ぎり5分前よりちょっとあるくらい。
「よし。時間だ」
とトレーナーのような服の先生が言う、
「簡単に説明するぞ?」
おれは腕時計を初めて意識した。デジタル表示、ぴったり5分前。で、秒が経過、秒で経過、また経過、経過、経過、秒の経過、時を刻む数字が変化。
必要もないのに、息をのんだ。
時計を意識していないのに、勝手に刻まれていく。
おそらく無意識とはいえ、時間を気にしているからだ。
時間…試験の開始、その五分前。アラームは設定していないが意識が強く向いてしまっている。
とどこにいても、なにをしていても、していなくても。意識が向いている先にあるのは、試験開始の五分前という世界。それは今日に限ったことではなく、おそらく受験を決めたときから始まっている。
そもそも、いつだっけ。
塾に通い始めたのは四年生のときだけど。
中学を受験するか、と父が正式に勧めてきたときも思い出せるけど。
そういうのとは、ちがう。ちがくないけれど、なにかがちがう。そんな気がする。
自分で決意した瞬間…それがある、あったはず、そのときからストップウォッチが始動している。
おれは否応なしに、走っている。いや、奔っていると表現すべきか。どちらも「はしっている」と読むにはちがいないけど。
足をフルに働かせて走るのとはちがって、心が奔走しまくっているがゆえの、奔り。
まあ、おれは休み休み…だったけどさ。
ふいに、記憶がよみがえる。
それは塾の授業をサボったときのこと。
塾そのものからエスケープして、そのまんまやめてしまったときのこと。
走らないと間に合わない、定刻通りに発車していく電車に向かって駆け出したときのこと。
信号待ちイライラしながら地団駄ふんで可能な限りの時短を目指して、いまかいまかまだかまだかと焦っていたときのこと。
記憶は勝手だよ、ふだんまったく思い出したこともない場面ばかりだ。
走りたいな。このまま廊下。あるいは校庭。そうだ校庭って。
廊下から眺められる校庭を、あらためて見渡してみる。
トイレから出て何歩ある?
そんなもの数えないけどさ。いままでだって、ないし。たぶん。
窓に近づき、格子線の埋め込まれている透明なガラスだと気づく瞬間、
「あれ? 五歩もなかったか」
と思うのとほぼ同時、
「なんなんだこの景色この眺め、いったい…」
おれは絶句する。
いけない、いけない。
こんなことしている場合じゃない。
こんなこしていたら時間が過ぎてしまう。
腕時計を確認しようとせず、廊下や踊り場に時計があるかどうかを探そうともせずに、ただひたすら自分自身の中に稼働し続けている「刻み」を頼りに。
おれは、いったいなにを頼りにしているのだろう?
時の刻み、それも正確ではないリズム。時には自分で自分を威嚇する脈うち。
あらためて思う、いよいよだな。
いよいよ。
いよいよだ。
いよいよなんだよ。
今日まさに、その日。
その日は来た。
だが試験開始まで時間がある。まだまだある。
まだまだあると思って、つい長居してしまったようだが会場に戻ろう。あの階段教室に。試験開始まで、あと何分。
開放されたままの入り口から階段教室に飛び込む。
ぐわんと視界が広がり、天井の高さに立ちくらみそうになった。
さっきまでいたのに、さっきまでいたから慣れた気でいた。それなのに。
めまいのような、ふるえがおれを襲ってきた。
あれれ?
おれ、なんで階段教室に急いで戻ってきた…黒板横の時計は想像していたよりも遅めの時刻を指していた。
試験開始まで、まだ20分もある。
自分の席に座る、と周囲への注意が変化した。
というより、
『ずいふぶん、ひとが増えたな』
受験生ばかりだろう?
いま、目に映るすべてのひとたち、みんな受験生この学校を受験するのだろう?
なあ。
当たり前のことかもしれない。
いや、当たり前なんだ。今日は入学試験の当日だし。ここはその試験会場だ。
待ちに待った本番の当日。
なのに、まだ始まろうとさえしていない。
なぜか、どうでもいいことばかり連想してしまう。
でも。
これでいい。
これでいい、このままでいこう。
おれは、おれに語りかける。
いい感じだぞ、このままこの調子でいこうぜ。
なあ。
さて何度この教室全体を見渡しただろう。
さらに誰かが、はいってくる。
おれの席から見える、すでに着席している頭たち。後頭部も、こんなに種類があるんだね。
頭の形はもちろんのこと、髪型、服装、首まわり、露出している肌の面積の違い。
どれも、ちがう。誰もが、こんなに、ちがう。
ふいに、おれは絶叫したくなった。
『なにがフツウだよ! うそつき!!』
試験当日の服装について、父と母とは折り合いが悪かった。
「いいからちゃんとした格好をしろ」
「いいから親の言うこときいて、ちゃんとしなさい」
「なぜその服を着るんですか」
「それがふつうだからだ。ふつうの格好してけ。いいな」
「そうよ、みんなだってふつうにちゃんとした服装で来るんだから。そのときになれば、わかるわよ。ああ、おかあさんの言うとおりだった、ちゃんと親の言うこときいていてよかった。って」
うそつき。おれと同じような服装、誰もいないじゃないか。
誰かいないのかブレザーを着ていて受験会場に…と誰かを捜している時点で、おとうさんとおかあさんの言っていた「ふつう」は消滅したし、やはりあいつらはうそつきだ。
まんまと、のせられたよな。
けれど、乗ったのは自分この、おれ自身でもあるんだよね。
笑いたい。
笑い飛ばして大声で叫びたくなった。
あいかわらず窓は大きい。広いし、カーテンもでかいし。
いや、あらためて見ていると、自分が最初に把握したときの印象よりも大きくなっているように思う。
窓のサイズだけではない。
天井も高かった。さっきよりも高く感じる。
その反面、
『なんだろう、なんでなのかな~』
机が狭くなったような気がする。
おれは筆箱を振った。
からからから、と乾いた音が必要以上に響き渡る。
誰かがこっちを向くだろうか、と思ったがとりあえず見える範囲では誰からも。
けど、なんでかな。
視線を感じる。
おれよりも後ろの席からか。
かなり意識的なつよい視線だ。
よし、せえので。
「…」
おれは振り向きも渡した。
教室のうしろのほう、すぐそこに迫る壁、たしかに何人も座っている。
おれがトイレに行く前には座っていなかったひとたちが。
ふいに振り向いたおれと目が合うこともなく、誰もが別の方向を見ていた。
そのとき、
『さっきトイレで会ったやつ、あいつ。この会場には、いないな?』
と気づいた。
からだをひねっていたので、ばねが元に戻りたがるように自然に前を向き直る。
おれの視線の先には黒板、時計、静かな黒板消し、掲示板スペース、窓、窓、窓、窓、カーテン、ぐるり点在する後頭部。
さっきは気にも留めなかったけど、それそぞれの席みんなの前に出されている物には統一感がなかった。
筆箱、鉛筆あるいはシャーペンかな、消しゴム、ん? あれコンパスか。必要だったっけ。まあ、いちおうおれの筆箱にもあると思うけど。定規、分度器、それから。
と、そのとき。
大人だ。
「あー、あー、あー? いやまあ、まだだけどな。いちおう、いまここにいるみんなは聞いてくれ。
試験のとき机の上には」
説明が始まった。抜き打ちだな、おい。
時計ちらり。まだ15分くらい、あるぞ。
「みぎはじ上のほうに受験票、ちゃんと顔写真が見えるように置いて。
机には筆箱だけ。鉛筆と消しゴムだけ。色は黒のみ。
他のモノぜんぶ、しまって。
あ、それ、それな。そうそう、コンパス使わないから筆箱の中にしまって。はいらないならカバンの中にだ」
抜き打ち検査のように指示が飛ぶ。よくとおる声だ。マイク、使っていないよな。
と思った瞬間に、黒板の両サイドに黒い小箱が見え、
「あれはスピーカーだよな」
さらに天井にも円形の「これもスピーカーか」
さっきまで何度も何度も何度も同じところずっと繰り返し眺めてきたけれど、
『なんで気づかなかったんだか!!』
おれは、あせった。まじ、あせる。
見ていたのに見えていなかったものがあるだと。
グレイのスーツにメガネをかけ、少し長くて肩まで届く勢いの髪、その大人も先生なのだろう?
なぜか予備校の模擬試験の延長で、とらえていたんじゃないのか。
『今日が当日いよいよ本番まぎれもなく入学試験』と脳内で繰り返しながらも、おれはファンタジーの世界を生きていたのではないか。
急に、なにか冷めていくのを実感する。
いい感じで温まっていたなにかが一気に冷えていく。音のない扇風機で熱だけ奪われていくような、いやもうすでに熱を奪い取られているんじゃないか。
語り終えた先生が教室を出ていく。
その背中には隙が見当たらない。
おれは手元この目の前に意識を向けた、あるよな受験票、ある。まちがいなく、おれのだよな。受験番号は暗唱しているが、あらためて黙って読みあげる。うん、まちがいない。
消しゴム、カバーは取り外してある。裸の白い消しゴムだ。みっつ。ひとつだけは、使い慣れているやつ。あとのふたつは新しい。
使い慣れている消しゴムだけれど、カッターで削って白くしてある。ほどよく削り、新品のような白さが輝いて感じられる。われながら上出来じゃん?
鉛筆、転がることのない角のあるタイプ。
削ってある、磨きのかかった木の部分から香りがたちこめているようだ。
あらためて机の傷の多さに気づいた。らくがきか。いや、ちがうな。単純に彫って彫って彫りまくったかのような。
だとしたら刀かなにかで?
ひたいに風を感じた、ような気がした。
いまのは本当に見えていたものなのか。
聞こえていたものは聞こえていたのか、実在していたかそれとも。
おれは、ときどきわからなくなる。
見えたと言ってはいけないものを見てしまったのではないか。
聞こえた? と確認してはイケナイことを聞き取ってしまったのではないか、と。
会場全体の空気に変化は感じられない。
あえていうなら、ひたいに風。それくらいかな。
暖房の影響だろうか。あるいは、あけっぱなしのドアから流れ込んでくる空気そのものの冷たさ。
意識したとたんに、階段教室全体を空気が流れ続けているのがわかった。
おそらく、おれが教室に飛び込んだのは流れにうまく乗ったからだ。
廊下から流れ込んでくる冷たい空気に乗ってストーンと教室に足を一歩、一歩、無意識に足の運びにまかせて自分の席を探して…いたのだろう。
早い。
あと、7分くらいか。
と考えた次の瞬間、
「よおし。んじゃあ、はじめるぞぉ」
と静かに穏やかに、だが教室こんなに後ろの席のおれの耳元でもはっきりと聞き取れる声が現れた。
黒板の前、縞模様のスーツ、メガネかけていない、髪の流れは6:4くらいの分かれめ、黒くないが白くもない肌、きびきびとした動作、服のうえからでもそれとなく想像できる骨格と筋肉。
強い…あのひとは、強い。
だいたい、いつのまに現れたんだ。おれはずっと目を…あけていた、よなあ?
「よーし。しまって、しまって。必要なモノ以外ぜーんぶ、しまってしまって」
気づいたときには、おれの真横。
「くばるぞー」
解答用紙のようだ。
記入欄の枠組みが…いや、ちがう。これは問題文も印刷されてい…
裏返しになっているが読もうとすれば読めるだろう。だが、そんなことにエネルギーを使いたくない。
待て、待つんだ。合図がある。それまで待つんだ、おれ。
何枚ある?
ホチキス止めされているのか、折られているのか。二枚か。それとも、もう一枚あるかないか。
「よーし。いったな。いったよな全員。もちろん、まだだぞー。まだだからなー。さわるなよ」
黒板の前に先生が立っている。いや、いつのまにだろうか。先生は3人だ。手元に試験用紙を持っている先生もいる。それも少なくない量に見える。
そのとき、無言で軽く会釈しながら…誰かが。
「おー? 早く着けー。はじまんぞー」
カバンを抱えているから受験生なおかつ、いま来たところ。なのだろう。
トイレにいってました、という雰囲気ではない。
時計ちらり、ぎり5分前よりちょっとあるくらい。
「よし。時間だ」
とトレーナーのような服の先生が言う、
「簡単に説明するぞ?」
おれは腕時計を初めて意識した。デジタル表示、ぴったり5分前。で、秒が経過、秒で経過、また経過、経過、経過、秒の経過、時を刻む数字が変化。
必要もないのに、息をのんだ。