残酷な描写あり
17-1 水面下に潜む
夏休みを暇に過ごしていた8月の頭。
日和は家から出る事も少なく、毎日夕方になると術士として外へ出る竜牙を見送る毎日になっていた。
そろそろまた図書館で勉強しようかと悩む。
夏樹に勉強を教えることを約束したし、先日誘いを断った玲から逆に誘いも受けた。
家に居ても結局時間を潰すだけで、ただ時間を持て余し過ごしていることになんだか申し訳ない気持ちになることも多い。
暇つぶしにまだ終えていなかった授業の内容をルーズリーフにまとめてばかりだ。
社会科は半分ほど終えたものの、他にはまだ生物は手をつけていない程か。
医者を目指している玲の得意分野でもあるので、やっぱり近日玲と共に図書館に向かう事にしよう。
そんなことを考えながら、日和はペンを走らせる手を止めて、ふぅ、と息を吐く。
(あ、そろそろお風呂に入る時間ですね……)
入浴の準備をしようと席を立った所で、スマートフォンが光り音を鳴らした。
電話だ。
顔のシルエットアイコンの下には奥村弥生と名前が出ている。
「……はい、もしもし」
『あっ、日和ー! 今大丈夫だった?』
「うん、大丈夫。どうしたの?」
『突然だけど明日、一緒に遊ばない?」
「あっ、明日!? 別に予定はないけど……」
『ホント!? じゃあ明日、駅に10時待ち合わせねーっ』
「駅に10時ね。わかった」
電話の先の弥生は楽しそうに「それじゃ、おやすみー!」と挨拶して電話が切れる。
あまりにも唐突で驚いてしまったが、なんだかそれも弥生らしい気がして日和は小さく笑って入浴の準備を始めた。
ふと、隣の部屋に隣接する壁を見る。
その部屋の住人はまだ帰ってこないが、そろそろ戻ってくる頃だろうか。
ここ最近は妖もそんなに出ないのか、竜牙は比較的早い時間に帰ってくる。
その理由といえば、夏は比較的妖の数が少ないのだという。
その代わりに秋冬に増えるのだと、たまに講習を開いてくれる師隼が教えてくれた。
話を聞くに、夏よりも秋冬の方が人間の心理的に弱くなりやすいらしい。
わざわざ心理学関係の書類を出して師隼は説明していたが、実際日照時間の関係が精神的な病に影響を与えていることは立証されている。
なので理論的には強ち間違いではないのかもしれない。
だからといって簡単に巡回を休める訳ではなく、毎日誰かが町に出ているのが現状だ。
それでも波音達術士は合間を縫って定期的に休んでいる…というのが今現在の状況のようだ。
そんな中、何故か竜牙だけは毎日巡回に出向き、そして帰っては眠っている生活をしている。
憑依換装はかなり力を要するらしく、睡眠をとることで消耗を減らしてはいるとは聞いた。
だったら余計に休むべきだとは思うのだが、竜牙が言うにはそういう訳にはいかないらしい。
憑依換装を体験できる訳ではなし、それがどれ程の労力となるのかはいよく分からない。
だからこそ日和として心配であるし、気が気でないし、あまり無理はしてほしくない。
寧ろ休めるのならもっと休んでほしいくらいだ。
そんな日和はというと、練如の主になったからか梅雨以降は力が溢れて体調不良を起こすこともなく、健康な日々が続いている。
以来力を渡してもいないのだが、力の供給は間に合っているのだろうかと日和は不安を覚えていた。
***
「竜牙、お前……最近焦ってないか?」
「焦る? 何にだ」
少し心配を帯びた憂い顔を見せる師隼に対し、竜牙は棘があるように返事を吐き捨てる。
眉間に皺を寄せて少し苛立っているようにも見える竜牙だが、付き合いの長い師隼は竜牙に疲労が溜まっていることに気付いていた。
「何にって……お前、女王の呪いもついているが侵食はないのか? 巡回も最近毎日出てるだろう」
「特に問題はない。最後の日に女王を倒し、呪いを解くだけだ」
「正也は大丈夫なのか?」
「ああ。特に変わった様子も無い。……強いて言うなら、最近動きが良くなったとは思う」
竜牙の返事に師隼は腕を組み俯く。
(それは……正也が竜牙の体に慣れてきているんじゃないだろうか?)
新たな不安が浮かび、師隼は顔を顰める。
竜牙は自身の体調や様子の変化に鈍感だ。
どんなに強靭で秀でた精神と肉体を持っていても、気付けないものはある。
いくら自分と同じ先祖返りだとしても、出来ることと出来ないことくらいはある。
このままだと、気付かない間に自滅してしまう未来さえ予感した。
儀式に行って死ぬ前に、術士を連れて死んでしまうかもしれない。
あるいは術士の魂すら、巻き込んでしまう可能性すらある。
「……もう良いか? 報告はした。私は帰る」
「あ、ああ……」
竜牙は踵を返し、師隼に背を向けて去っていく。
その背中をじっと見て、師隼は一つ決心をした。
「……朋貴、少しいいか?」
執務室、たった一人でいる空間に師隼は呼びかける。
大広間の方から腕に鎖を巻いた厳つい人影が現れ、「なんだ?」と声がかかった。
「……あの竜牙には、古来からの呪いがかかっている。あの呪い、どうやったら解ける?」
「呪いを解くなら解呪師に頼れ。それとは別か? なら……あれなら封印をかけて落とすことで剥離させられる」
「方法は?」
朋貴はふむ、と顎に手を当てて唸る。
少し経って苦い顔をして口を開いた。
「弱った状態でないと、難しい。あの人は精神的にもしっかりしすぎている。苦手な物、とかトラウマとかがあればなんとか」
「苦手な物……?トラウマ……。……なるほど、分かった」
状況的に難しいがやってみる価値はあるだろう。
師隼は口角を上げて深く頷く。
その表情が邪悪で悪戯な笑みのように、朋貴は感じた。
帰宅し、階段を上がると丁度日和と出くわした。
今から風呂に向かうところらしく、服を抱えて部屋を出てきたところだったようだ。
「あ、竜牙……おかえりなさいです」
「ああ……」
「えっと、最近疲れてませんか?大丈夫ですか?」
「問題ない。日和の方はどうだ? 気持ち悪さなどは抑えられているか?」
出会ってから色々あったが、最近やっと少し表情が柔らかくなった気がする少女はよく人の顔を覗いてくる。
私のことよりも自分のことを心配しろ、と言いたい。
「はい、最近はずっとなんともなくて助かってます。あの……調子が悪いなと感じたら、すぐに言って下さいね?」
「わかった。日和も何かあったら言え」
「分かりました。あ、早速なんですけど……」
頷く日和はそのまま下を向いて、何か言いづらそうにしている。
「どうした?」と聞くと顔を上げて口を開いた。
「あ、あの……明日、友達と出かけることになりました。朝から、多分夕方まで居ないと思います」
「そうか。迎えなどは要るか?」
「いえ、最近竜牙は忙しそうなので……ゆっくり休んでほしいです」
どうやら心配されているらしい。
狐面の目もあるだろうし、日和自身はある程度問題ないだろう。
竜牙は日和の好意をそのまま受け取る事にした。
「分かった。人と会うのは久しぶりだろう、楽しんで来たらいい」
「ありがとうございます。……あ、お風呂に行ってきますね」
日和は深々と頭を下げて階段を降りていく。
その背を見送って主の自室に入り、真っ直ぐに窓際に腰かけて外を眺めた。
外は暗く、星が疎らに瞬いて、窓には自分の姿が薄らと映っている。
今は少しでも休んでおこう。
最近主は中々目を覚まさない。
起きてきた時の為にも、竜牙はしばらく眠りにつくことにした。
いつもは意識のどこかでは起きていて、物音にすぐ気付けるようにしてある。
だけど今日だけは深い眠りについた。
赤いリボンを揺らして自分に振り向く少女が夢の中で笑う。
どれだけの時を越えても少女は枯れることなく花のように笑う。
だが、もう触れられない。
どれだけその面影を残した少女が近くに居たとしても、その花には二度と触れる事は出来ないのだ。
日和は家から出る事も少なく、毎日夕方になると術士として外へ出る竜牙を見送る毎日になっていた。
そろそろまた図書館で勉強しようかと悩む。
夏樹に勉強を教えることを約束したし、先日誘いを断った玲から逆に誘いも受けた。
家に居ても結局時間を潰すだけで、ただ時間を持て余し過ごしていることになんだか申し訳ない気持ちになることも多い。
暇つぶしにまだ終えていなかった授業の内容をルーズリーフにまとめてばかりだ。
社会科は半分ほど終えたものの、他にはまだ生物は手をつけていない程か。
医者を目指している玲の得意分野でもあるので、やっぱり近日玲と共に図書館に向かう事にしよう。
そんなことを考えながら、日和はペンを走らせる手を止めて、ふぅ、と息を吐く。
(あ、そろそろお風呂に入る時間ですね……)
入浴の準備をしようと席を立った所で、スマートフォンが光り音を鳴らした。
電話だ。
顔のシルエットアイコンの下には奥村弥生と名前が出ている。
「……はい、もしもし」
『あっ、日和ー! 今大丈夫だった?』
「うん、大丈夫。どうしたの?」
『突然だけど明日、一緒に遊ばない?」
「あっ、明日!? 別に予定はないけど……」
『ホント!? じゃあ明日、駅に10時待ち合わせねーっ』
「駅に10時ね。わかった」
電話の先の弥生は楽しそうに「それじゃ、おやすみー!」と挨拶して電話が切れる。
あまりにも唐突で驚いてしまったが、なんだかそれも弥生らしい気がして日和は小さく笑って入浴の準備を始めた。
ふと、隣の部屋に隣接する壁を見る。
その部屋の住人はまだ帰ってこないが、そろそろ戻ってくる頃だろうか。
ここ最近は妖もそんなに出ないのか、竜牙は比較的早い時間に帰ってくる。
その理由といえば、夏は比較的妖の数が少ないのだという。
その代わりに秋冬に増えるのだと、たまに講習を開いてくれる師隼が教えてくれた。
話を聞くに、夏よりも秋冬の方が人間の心理的に弱くなりやすいらしい。
わざわざ心理学関係の書類を出して師隼は説明していたが、実際日照時間の関係が精神的な病に影響を与えていることは立証されている。
なので理論的には強ち間違いではないのかもしれない。
だからといって簡単に巡回を休める訳ではなく、毎日誰かが町に出ているのが現状だ。
それでも波音達術士は合間を縫って定期的に休んでいる…というのが今現在の状況のようだ。
そんな中、何故か竜牙だけは毎日巡回に出向き、そして帰っては眠っている生活をしている。
憑依換装はかなり力を要するらしく、睡眠をとることで消耗を減らしてはいるとは聞いた。
だったら余計に休むべきだとは思うのだが、竜牙が言うにはそういう訳にはいかないらしい。
憑依換装を体験できる訳ではなし、それがどれ程の労力となるのかはいよく分からない。
だからこそ日和として心配であるし、気が気でないし、あまり無理はしてほしくない。
寧ろ休めるのならもっと休んでほしいくらいだ。
そんな日和はというと、練如の主になったからか梅雨以降は力が溢れて体調不良を起こすこともなく、健康な日々が続いている。
以来力を渡してもいないのだが、力の供給は間に合っているのだろうかと日和は不安を覚えていた。
***
「竜牙、お前……最近焦ってないか?」
「焦る? 何にだ」
少し心配を帯びた憂い顔を見せる師隼に対し、竜牙は棘があるように返事を吐き捨てる。
眉間に皺を寄せて少し苛立っているようにも見える竜牙だが、付き合いの長い師隼は竜牙に疲労が溜まっていることに気付いていた。
「何にって……お前、女王の呪いもついているが侵食はないのか? 巡回も最近毎日出てるだろう」
「特に問題はない。最後の日に女王を倒し、呪いを解くだけだ」
「正也は大丈夫なのか?」
「ああ。特に変わった様子も無い。……強いて言うなら、最近動きが良くなったとは思う」
竜牙の返事に師隼は腕を組み俯く。
(それは……正也が竜牙の体に慣れてきているんじゃないだろうか?)
新たな不安が浮かび、師隼は顔を顰める。
竜牙は自身の体調や様子の変化に鈍感だ。
どんなに強靭で秀でた精神と肉体を持っていても、気付けないものはある。
いくら自分と同じ先祖返りだとしても、出来ることと出来ないことくらいはある。
このままだと、気付かない間に自滅してしまう未来さえ予感した。
儀式に行って死ぬ前に、術士を連れて死んでしまうかもしれない。
あるいは術士の魂すら、巻き込んでしまう可能性すらある。
「……もう良いか? 報告はした。私は帰る」
「あ、ああ……」
竜牙は踵を返し、師隼に背を向けて去っていく。
その背中をじっと見て、師隼は一つ決心をした。
「……朋貴、少しいいか?」
執務室、たった一人でいる空間に師隼は呼びかける。
大広間の方から腕に鎖を巻いた厳つい人影が現れ、「なんだ?」と声がかかった。
「……あの竜牙には、古来からの呪いがかかっている。あの呪い、どうやったら解ける?」
「呪いを解くなら解呪師に頼れ。それとは別か? なら……あれなら封印をかけて落とすことで剥離させられる」
「方法は?」
朋貴はふむ、と顎に手を当てて唸る。
少し経って苦い顔をして口を開いた。
「弱った状態でないと、難しい。あの人は精神的にもしっかりしすぎている。苦手な物、とかトラウマとかがあればなんとか」
「苦手な物……?トラウマ……。……なるほど、分かった」
状況的に難しいがやってみる価値はあるだろう。
師隼は口角を上げて深く頷く。
その表情が邪悪で悪戯な笑みのように、朋貴は感じた。
帰宅し、階段を上がると丁度日和と出くわした。
今から風呂に向かうところらしく、服を抱えて部屋を出てきたところだったようだ。
「あ、竜牙……おかえりなさいです」
「ああ……」
「えっと、最近疲れてませんか?大丈夫ですか?」
「問題ない。日和の方はどうだ? 気持ち悪さなどは抑えられているか?」
出会ってから色々あったが、最近やっと少し表情が柔らかくなった気がする少女はよく人の顔を覗いてくる。
私のことよりも自分のことを心配しろ、と言いたい。
「はい、最近はずっとなんともなくて助かってます。あの……調子が悪いなと感じたら、すぐに言って下さいね?」
「わかった。日和も何かあったら言え」
「分かりました。あ、早速なんですけど……」
頷く日和はそのまま下を向いて、何か言いづらそうにしている。
「どうした?」と聞くと顔を上げて口を開いた。
「あ、あの……明日、友達と出かけることになりました。朝から、多分夕方まで居ないと思います」
「そうか。迎えなどは要るか?」
「いえ、最近竜牙は忙しそうなので……ゆっくり休んでほしいです」
どうやら心配されているらしい。
狐面の目もあるだろうし、日和自身はある程度問題ないだろう。
竜牙は日和の好意をそのまま受け取る事にした。
「分かった。人と会うのは久しぶりだろう、楽しんで来たらいい」
「ありがとうございます。……あ、お風呂に行ってきますね」
日和は深々と頭を下げて階段を降りていく。
その背を見送って主の自室に入り、真っ直ぐに窓際に腰かけて外を眺めた。
外は暗く、星が疎らに瞬いて、窓には自分の姿が薄らと映っている。
今は少しでも休んでおこう。
最近主は中々目を覚まさない。
起きてきた時の為にも、竜牙はしばらく眠りにつくことにした。
いつもは意識のどこかでは起きていて、物音にすぐ気付けるようにしてある。
だけど今日だけは深い眠りについた。
赤いリボンを揺らして自分に振り向く少女が夢の中で笑う。
どれだけの時を越えても少女は枯れることなく花のように笑う。
だが、もう触れられない。
どれだけその面影を残した少女が近くに居たとしても、その花には二度と触れる事は出来ないのだ。