残酷な描写あり
24 「ジェット」
子供たちと交流し、改めて一人一人の個性や特徴、性格、そしてルーシーが感じていること。
それらをもう一度よく観察しながら共に過ごした。
全ては子供たちへ宛てた手紙を書く為に。
これまでに何度も一緒に遊んだり勉強したりしていたのに、よくよく見ていたらまだ知らなかったことがたくさん出てきて驚いた。最初に感じていたイメージ、実際はどんな人柄なのか。それが一致していたり、していなかったり。
そんな風に誰かを観察したことがないので、ルーシーにとってはいい経験になったと感じている。これまでルーシーはただただ「人の顔色を伺っていただけ」だったから。
あくまで「気に障ることをしてしまわないように」、「機嫌を損ねたりしないように」、「暴言や暴力がこちらへ向かないように」という防衛本能から相手を観察していただけだった。
だが今回はその人のことを本当の意味で知ろうと思って、ずっと見続けて気付かされる。
一人の人間のことを知ろうと思うということはこういうことなのだろうかと、何かが閃くような、長年感じることのなかった感情に気付かされたような、そんな不思議な感覚。
「手紙を書いたらいい」
ニコラの何気ないこの一言がなければ、ルーシーはもしかしたら一生気付かなかったのかもしれない。
誰かのことを知るということは、人となりを知るということは、その人自身の心に触れるようなもの。
ルーシーはそんな風に捉えた。
一緒に過ごして、話して、訊ねて、答えてもらって、その人が何を思い、何を感じ、何を考えているのか。
これまで知ろうとも思わなかったこと。
人間が好きじゃないから。人間は魔女を忌み嫌うだけの存在だから。人間に干渉したら被害を受けるのは自分だから。そういった理由で今までずっと避けてきたこと。
ただ間違えてはいけないのは、共に過ごした人間がとても優しい人間だから。
魔女にも親切で、対等で、偏見のない考えを持った子供たちだったから。
だからルーシーもここまで心を開くことができたのかもしれない。それだけは確かだとルーシーは今でも思う。
他の地域に行けば、イーズデイル家にいた人間のような偏見に満ちた人種は数多く存在することだろう。
新しい人生をこの村でスタートできたことは、ルーシーにとってこの上ない幸運だった。
そしてニコラの元で目覚めることができたのも、これ以上ない幸運だということも決して忘れてはいけない。
ルーシーは自室に篭り、時々口に出しながら手紙を書いていた。
手紙を出す相手のことを思い出しながら、ゆっくり丁寧に書き綴る。文字の読み書きを覚えたばかりのルーシーには、たった数行書くだけでもとても時間がかかるし、何より体力と精神力の消耗が激しかった。
それでもルーシーは心から相手のことを思いながら書き続ける。
仕事でも命令でもなく、自分の意思で……。
***
三日後、ルーシーは再びニコラと共にスノータウンを訪れた。
今回は旅に必要な物資を揃えることを目的とした用件だ。ルーシーはてっきり長旅には荷馬車を使うものだと思っていたが、大きな荷物を背負って歩く荷運び用のロバのみだと聞いて、さすがに驚きを隠せない。
「道中、険しい山道を通ることもある。そういった道は馬車だと通れないからね。その点ロバなら人間の足で進める道なら歩くことが出来る。重たい荷物も背負ってくれるし、エサ代だって安くつく」
「でも野宿する時はどうするんですか」
「テントに決まってるだろう。旅人はみんなそうしてる」
旅をしたことのないルーシーは、ニコラとの旅がどういったものになるのか想像もつかなかった。少なくとも自分が今まで経験したことがない旅になるのは確かだ。
ニコラはメモ帳をルーシーに手渡し、書かれている材料を買ってくるようにお使いを頼んだ。そこには雑貨屋で揃うものが一通り書かれている。
主に長期間保存が効く食料、調味料といった類のものだ。
「食事は道中で作るのは当然だが、食糧が尽きたり、何かとトラブルになることもあるだろうからね。いざという時の為の非常食だよ。調味料はさすがに揃えておいた方が確実だ。町へ立ち寄る度に非常食と調味料は手持ちを確認して、その都度買い揃えることになるから、そのメモは失くさないでおくれ」
そう言うとニコラは新しいテントや長旅に必要になるものを買いに行く。
詳しくは教えてもらえなかったが、ニコラはこの村に辿り着く前に旅をしていたことを少し前に話してくれたことがあった。ルーシーはニコラが話してくれる以前にすでに村長から聞いていたが、それは一応内緒にしておいた。
村長との約束でもあったが、ニコラがせっかく自分のことを話してくれているところに水を差したくなかったからだ。ニコラはその時も徒歩でロバと旅をしていたという。
一人だった分、荷物も少ない。薬を調合する材料や調理器具など生活や調合に必要な物以外、ニコラは基本的に荷物の少ない女性だったそうだ。
その時に使っていたテントは1人用ですっかりボロボロ、穴も空いている。手入れするのは簡単だったろうが今回は体が小さいとはいえニ人旅になることを考えて、新しく購入することを決めたらしい。
旅のお供にロバを選択したのも、一人旅をしていた時にとても重宝したからだと言う。基本的に徒歩での旅だった為、一切の荷物を背負って歩くには体への負担が大きかった。
世話などを考えるとロバを連れることに多少の抵抗はあったそうだが、当時のロバの買主である旅の行商人から強く勧められて「まずはお試し」ということで購入した。
基本的に大人しく躾もされていたので、エサや水さえ与えてやればよく働いてくれた。荷物が少なくなったことで足取りも軽くなり、旅はとても快適になったそうだ。
だから長旅をする時の荷運びにはロバを、と最初から決めていたらしい。
この村では畜産に牛や羊などを見かけることはあったが、ロバはまだ見たことも触ったこともない。ニコラに借りて読んだ絵本にロバが出てくる作品があって、そのイラストで姿形を見たことはあるが恐らく実際は手描きのような感じではないのだろうと思う。
実際の大きさは? 臭いは? 歩く速度は? 水の飲み方、草の食べ方は?
本当に重たい荷物を背負わせて怒ったりしない?
突然暴れ出したりしない?
そんなことがルーシーの頭の中を駆け巡る。それだけロバのことを考えるということは、きっと自分はロバに興味津々になっているんだろうと思った。
ニコラは使い魔にカラスがいるが、飼っているという印象がない。そう考えるとニコラの家では動物を飼っていないということになる。動物と一緒に生活をするというのは、どういう感覚なのだろう。
***
その昔、ジェットという名前の大きな犬がいたことを思い出した。
大きな体、もふもふの柔らかい毛、とろんとした優しい目。ルーシーが近付くとスンスンとニオイを嗅いできて、それからほっぺたをぺろぺろと舐めてきた。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。自分のことを受け入れてくれているという感覚があったからだろう。
ジェットはルーシーにとても優しくしてくれた。母親の機嫌が悪い時、近くに来てるから早く逃げるように教えてくれたのもジェットだ。ルーシーが動物と話せることを理解した時も、誰かに話しては行けないと忠告してくれたのもジェットだった気がする。
今では随分と遠い記憶……。
「ジェット、おじいちゃんになるまで生きてたはずだけど……最期はどんなだったっけ……」
幼かったルーシーから見たらとても大きな犬で、背中に乗って走れるんじゃないかと思うほどだった。それがだんだんとルーシーが成長していくにつれて、ジェットもまた年を取り、少しずつ小さくなっていったような気がする。
いつの間にかジェットよりずっと背が高くなっていたルーシー。しゃがんで両手で顔を支えると、甘えたようにクーンと小さく鳴いてルーシーに愛情を示そうとしてくれた。
あれはそう、ジェットにエサをあげていた時だ……。
ジェットは基本的にソフィアの犬として迎えていたので、ルーシーが家族の前でジェットに触れたり一緒に遊んだりすることは禁止されていた。
しかしジェットの世話は全て使用人任せで、ソフィアがジェットにエサをあげたり排泄物の処理などは全くすることはない。一緒に遊んで、ソフィアがしたい時だけ散歩して、あとのことは全てルーシーが担当していたようなものだ。
毎日のエサやりも、雨の日の散歩も、排泄物の処理も、イーズデイルの人間がずっと蔑んできた少女に任せきりだった。ルーシーは動物の世話が上手かった、ということもある。ジェットが何かを欲している時、ルーシーならすぐに理解して動くことが出来たし、排泄のタイミングもすぐさまルーシーが察知して処理したものだ。
躾の仕方も、誰に教わったわけでもないのにルーシーがやれば完璧だった。ただひとつ、役立たずと言われ続けていたルーシーが唯一誰にも負けない特技だと。誰もが認めざるを得なかったこと。
それもそのはず。ルーシーはジェットが何をして欲しいのか、どうしたらいいのか、全て会話で解決できたからだ。ルーシーがジェットの言葉を理解できたことは、何よりの特化した能力であったし誰にも出来ない芸当だ。
だからジェットの面倒は主にルーシーが見ていたようなものである。
あの時もいつものようにジェットにエサをあげていた時だ。
ルーシーが毎日、毎回していること。だからほんの少しの違和感に気付くべきだったかもしれない。だがすっかり老犬になって自分で歩き回ることもままならなくなってしまったジェットが、お腹を空かせてエサを待っていると訴えかけていたら、少しでも早く満足してもらいたいと思うのが当然だろう。
いつもは一番下の戸棚の中に置かれているはずのエサ袋。一体誰が置いたのか、キッチンテーブルの上に無造作に置かれていた。十五歳になったルーシーなら簡単に手が届く高さになっているので、エサ袋を手に取りジェットのフードボウルに入れてやる。
横たわっていたジェットを支えて起こしてやり、口元にフードボウルを持って行く。スンスンと臭いを嗅ぐ仕草は習慣で、今では嗅覚もほとんどなくなっている。
ルーシーはエサをひとつ手に取り、飲み水とは別に取ってある水桶でエサをふやけさせ、顎(あご)が弱くなったジェットでも咀嚼(そしゃく)できるようにして、それをジェットの口に運んだ。
くちゃくちゃと音を立てて飲み込む。何度か繰り返しながらゆっくりと、ジェットのペースに合わせて根気よく食べさせてやる。
いつもはそれでエサの時間が終わるはずだった。
突然咳き込むジェット、喉に詰まらせてしまったのかと背中の辺りを軽い力で叩いてやったりさすったりするが治る気配がない。ーー様子がおかしい。
何度か咳き込んだ後、ゲェッと先ほど食べたエサを吐き出す。咽(む)せるように咳をして、また吐き出す。必死に声をかけるが返答はない。ただただ苦しそうで胸が痛くなる。何か言ってくれなければどうしようもない。
しかし今のジェットはとても話せる状態ではない様子で、焦ったルーシーは今までに出したことがないほど大きな声で助けを呼んだ。その場を離れることはできない。こんな状態のジェットを一人にさせることなんてできなかった。
ルーシーの叫び声を初めて聞いた何人かの使用人が駆けつけて、痙攣まで起こしているジェットを見て悲鳴を上げる。とにかくルーシーは必死になって医者を呼んでもらうように頼み込んだ。
この騒ぎはすぐさまイーズデイルの人間の耳に入って「ソフィアの愛犬」を救う為に、獣医ではないがかかりつけの主治医が駆けつける。獣医が到着するにはあまりにも時間がかかりすぎる為だった。
それでも医者は医者だとジェットの様子を見させる夫人、恐ろしいものを見るように固まるソフィア。苦しむジェットに寄り添うルーシーは医者に退くように言われ、ルーシーは「ジェットが助かる為ならば」とその場を離れる。
一時間後のことだった。
ジェットは動かなくなり、医者も首を振って黙り込む。
ショックを受けて立ち尽くす夫人、泣きじゃくるソフィア。
ルーシーは医者の言葉が信じられずにいた。
「毒殺だ……。これはどう見ても毒の症状によるものだ。ジェットは息を引き取ったよ」
全員がルーシーを見た。
夫人の罵倒と殴打がルーシーを襲う。
ソフィアの激しい怒りがルーシーを責め立てる。
悪しき魔女めと使用人たちが罵る。
どれだけ責められようと、酷い言葉を浴びせられようと、今のルーシーの耳には、心には届かない。
ジェットの死が受け入れられず、ルーシーは外部から与えられる痛みよりジェットを喪(うしな)った悲しみの方が強すぎた。
***
……思い出した。
もう何年も前の話なのに、思い出しただけで胸の辺りがズキズキと痛み出す。
今でもまだ、これだけ悲しむことができるだなんて思わなかったとルーシーは自重気味に笑む。
「せめて、静かに……穏やかに逝けたらよかったのに……」
ジェットのエサに毒を盛った犯人は、未だに不明なままだ……。
それらをもう一度よく観察しながら共に過ごした。
全ては子供たちへ宛てた手紙を書く為に。
これまでに何度も一緒に遊んだり勉強したりしていたのに、よくよく見ていたらまだ知らなかったことがたくさん出てきて驚いた。最初に感じていたイメージ、実際はどんな人柄なのか。それが一致していたり、していなかったり。
そんな風に誰かを観察したことがないので、ルーシーにとってはいい経験になったと感じている。これまでルーシーはただただ「人の顔色を伺っていただけ」だったから。
あくまで「気に障ることをしてしまわないように」、「機嫌を損ねたりしないように」、「暴言や暴力がこちらへ向かないように」という防衛本能から相手を観察していただけだった。
だが今回はその人のことを本当の意味で知ろうと思って、ずっと見続けて気付かされる。
一人の人間のことを知ろうと思うということはこういうことなのだろうかと、何かが閃くような、長年感じることのなかった感情に気付かされたような、そんな不思議な感覚。
「手紙を書いたらいい」
ニコラの何気ないこの一言がなければ、ルーシーはもしかしたら一生気付かなかったのかもしれない。
誰かのことを知るということは、人となりを知るということは、その人自身の心に触れるようなもの。
ルーシーはそんな風に捉えた。
一緒に過ごして、話して、訊ねて、答えてもらって、その人が何を思い、何を感じ、何を考えているのか。
これまで知ろうとも思わなかったこと。
人間が好きじゃないから。人間は魔女を忌み嫌うだけの存在だから。人間に干渉したら被害を受けるのは自分だから。そういった理由で今までずっと避けてきたこと。
ただ間違えてはいけないのは、共に過ごした人間がとても優しい人間だから。
魔女にも親切で、対等で、偏見のない考えを持った子供たちだったから。
だからルーシーもここまで心を開くことができたのかもしれない。それだけは確かだとルーシーは今でも思う。
他の地域に行けば、イーズデイル家にいた人間のような偏見に満ちた人種は数多く存在することだろう。
新しい人生をこの村でスタートできたことは、ルーシーにとってこの上ない幸運だった。
そしてニコラの元で目覚めることができたのも、これ以上ない幸運だということも決して忘れてはいけない。
ルーシーは自室に篭り、時々口に出しながら手紙を書いていた。
手紙を出す相手のことを思い出しながら、ゆっくり丁寧に書き綴る。文字の読み書きを覚えたばかりのルーシーには、たった数行書くだけでもとても時間がかかるし、何より体力と精神力の消耗が激しかった。
それでもルーシーは心から相手のことを思いながら書き続ける。
仕事でも命令でもなく、自分の意思で……。
***
三日後、ルーシーは再びニコラと共にスノータウンを訪れた。
今回は旅に必要な物資を揃えることを目的とした用件だ。ルーシーはてっきり長旅には荷馬車を使うものだと思っていたが、大きな荷物を背負って歩く荷運び用のロバのみだと聞いて、さすがに驚きを隠せない。
「道中、険しい山道を通ることもある。そういった道は馬車だと通れないからね。その点ロバなら人間の足で進める道なら歩くことが出来る。重たい荷物も背負ってくれるし、エサ代だって安くつく」
「でも野宿する時はどうするんですか」
「テントに決まってるだろう。旅人はみんなそうしてる」
旅をしたことのないルーシーは、ニコラとの旅がどういったものになるのか想像もつかなかった。少なくとも自分が今まで経験したことがない旅になるのは確かだ。
ニコラはメモ帳をルーシーに手渡し、書かれている材料を買ってくるようにお使いを頼んだ。そこには雑貨屋で揃うものが一通り書かれている。
主に長期間保存が効く食料、調味料といった類のものだ。
「食事は道中で作るのは当然だが、食糧が尽きたり、何かとトラブルになることもあるだろうからね。いざという時の為の非常食だよ。調味料はさすがに揃えておいた方が確実だ。町へ立ち寄る度に非常食と調味料は手持ちを確認して、その都度買い揃えることになるから、そのメモは失くさないでおくれ」
そう言うとニコラは新しいテントや長旅に必要になるものを買いに行く。
詳しくは教えてもらえなかったが、ニコラはこの村に辿り着く前に旅をしていたことを少し前に話してくれたことがあった。ルーシーはニコラが話してくれる以前にすでに村長から聞いていたが、それは一応内緒にしておいた。
村長との約束でもあったが、ニコラがせっかく自分のことを話してくれているところに水を差したくなかったからだ。ニコラはその時も徒歩でロバと旅をしていたという。
一人だった分、荷物も少ない。薬を調合する材料や調理器具など生活や調合に必要な物以外、ニコラは基本的に荷物の少ない女性だったそうだ。
その時に使っていたテントは1人用ですっかりボロボロ、穴も空いている。手入れするのは簡単だったろうが今回は体が小さいとはいえニ人旅になることを考えて、新しく購入することを決めたらしい。
旅のお供にロバを選択したのも、一人旅をしていた時にとても重宝したからだと言う。基本的に徒歩での旅だった為、一切の荷物を背負って歩くには体への負担が大きかった。
世話などを考えるとロバを連れることに多少の抵抗はあったそうだが、当時のロバの買主である旅の行商人から強く勧められて「まずはお試し」ということで購入した。
基本的に大人しく躾もされていたので、エサや水さえ与えてやればよく働いてくれた。荷物が少なくなったことで足取りも軽くなり、旅はとても快適になったそうだ。
だから長旅をする時の荷運びにはロバを、と最初から決めていたらしい。
この村では畜産に牛や羊などを見かけることはあったが、ロバはまだ見たことも触ったこともない。ニコラに借りて読んだ絵本にロバが出てくる作品があって、そのイラストで姿形を見たことはあるが恐らく実際は手描きのような感じではないのだろうと思う。
実際の大きさは? 臭いは? 歩く速度は? 水の飲み方、草の食べ方は?
本当に重たい荷物を背負わせて怒ったりしない?
突然暴れ出したりしない?
そんなことがルーシーの頭の中を駆け巡る。それだけロバのことを考えるということは、きっと自分はロバに興味津々になっているんだろうと思った。
ニコラは使い魔にカラスがいるが、飼っているという印象がない。そう考えるとニコラの家では動物を飼っていないということになる。動物と一緒に生活をするというのは、どういう感覚なのだろう。
***
その昔、ジェットという名前の大きな犬がいたことを思い出した。
大きな体、もふもふの柔らかい毛、とろんとした優しい目。ルーシーが近付くとスンスンとニオイを嗅いできて、それからほっぺたをぺろぺろと舐めてきた。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。自分のことを受け入れてくれているという感覚があったからだろう。
ジェットはルーシーにとても優しくしてくれた。母親の機嫌が悪い時、近くに来てるから早く逃げるように教えてくれたのもジェットだ。ルーシーが動物と話せることを理解した時も、誰かに話しては行けないと忠告してくれたのもジェットだった気がする。
今では随分と遠い記憶……。
「ジェット、おじいちゃんになるまで生きてたはずだけど……最期はどんなだったっけ……」
幼かったルーシーから見たらとても大きな犬で、背中に乗って走れるんじゃないかと思うほどだった。それがだんだんとルーシーが成長していくにつれて、ジェットもまた年を取り、少しずつ小さくなっていったような気がする。
いつの間にかジェットよりずっと背が高くなっていたルーシー。しゃがんで両手で顔を支えると、甘えたようにクーンと小さく鳴いてルーシーに愛情を示そうとしてくれた。
あれはそう、ジェットにエサをあげていた時だ……。
ジェットは基本的にソフィアの犬として迎えていたので、ルーシーが家族の前でジェットに触れたり一緒に遊んだりすることは禁止されていた。
しかしジェットの世話は全て使用人任せで、ソフィアがジェットにエサをあげたり排泄物の処理などは全くすることはない。一緒に遊んで、ソフィアがしたい時だけ散歩して、あとのことは全てルーシーが担当していたようなものだ。
毎日のエサやりも、雨の日の散歩も、排泄物の処理も、イーズデイルの人間がずっと蔑んできた少女に任せきりだった。ルーシーは動物の世話が上手かった、ということもある。ジェットが何かを欲している時、ルーシーならすぐに理解して動くことが出来たし、排泄のタイミングもすぐさまルーシーが察知して処理したものだ。
躾の仕方も、誰に教わったわけでもないのにルーシーがやれば完璧だった。ただひとつ、役立たずと言われ続けていたルーシーが唯一誰にも負けない特技だと。誰もが認めざるを得なかったこと。
それもそのはず。ルーシーはジェットが何をして欲しいのか、どうしたらいいのか、全て会話で解決できたからだ。ルーシーがジェットの言葉を理解できたことは、何よりの特化した能力であったし誰にも出来ない芸当だ。
だからジェットの面倒は主にルーシーが見ていたようなものである。
あの時もいつものようにジェットにエサをあげていた時だ。
ルーシーが毎日、毎回していること。だからほんの少しの違和感に気付くべきだったかもしれない。だがすっかり老犬になって自分で歩き回ることもままならなくなってしまったジェットが、お腹を空かせてエサを待っていると訴えかけていたら、少しでも早く満足してもらいたいと思うのが当然だろう。
いつもは一番下の戸棚の中に置かれているはずのエサ袋。一体誰が置いたのか、キッチンテーブルの上に無造作に置かれていた。十五歳になったルーシーなら簡単に手が届く高さになっているので、エサ袋を手に取りジェットのフードボウルに入れてやる。
横たわっていたジェットを支えて起こしてやり、口元にフードボウルを持って行く。スンスンと臭いを嗅ぐ仕草は習慣で、今では嗅覚もほとんどなくなっている。
ルーシーはエサをひとつ手に取り、飲み水とは別に取ってある水桶でエサをふやけさせ、顎(あご)が弱くなったジェットでも咀嚼(そしゃく)できるようにして、それをジェットの口に運んだ。
くちゃくちゃと音を立てて飲み込む。何度か繰り返しながらゆっくりと、ジェットのペースに合わせて根気よく食べさせてやる。
いつもはそれでエサの時間が終わるはずだった。
突然咳き込むジェット、喉に詰まらせてしまったのかと背中の辺りを軽い力で叩いてやったりさすったりするが治る気配がない。ーー様子がおかしい。
何度か咳き込んだ後、ゲェッと先ほど食べたエサを吐き出す。咽(む)せるように咳をして、また吐き出す。必死に声をかけるが返答はない。ただただ苦しそうで胸が痛くなる。何か言ってくれなければどうしようもない。
しかし今のジェットはとても話せる状態ではない様子で、焦ったルーシーは今までに出したことがないほど大きな声で助けを呼んだ。その場を離れることはできない。こんな状態のジェットを一人にさせることなんてできなかった。
ルーシーの叫び声を初めて聞いた何人かの使用人が駆けつけて、痙攣まで起こしているジェットを見て悲鳴を上げる。とにかくルーシーは必死になって医者を呼んでもらうように頼み込んだ。
この騒ぎはすぐさまイーズデイルの人間の耳に入って「ソフィアの愛犬」を救う為に、獣医ではないがかかりつけの主治医が駆けつける。獣医が到着するにはあまりにも時間がかかりすぎる為だった。
それでも医者は医者だとジェットの様子を見させる夫人、恐ろしいものを見るように固まるソフィア。苦しむジェットに寄り添うルーシーは医者に退くように言われ、ルーシーは「ジェットが助かる為ならば」とその場を離れる。
一時間後のことだった。
ジェットは動かなくなり、医者も首を振って黙り込む。
ショックを受けて立ち尽くす夫人、泣きじゃくるソフィア。
ルーシーは医者の言葉が信じられずにいた。
「毒殺だ……。これはどう見ても毒の症状によるものだ。ジェットは息を引き取ったよ」
全員がルーシーを見た。
夫人の罵倒と殴打がルーシーを襲う。
ソフィアの激しい怒りがルーシーを責め立てる。
悪しき魔女めと使用人たちが罵る。
どれだけ責められようと、酷い言葉を浴びせられようと、今のルーシーの耳には、心には届かない。
ジェットの死が受け入れられず、ルーシーは外部から与えられる痛みよりジェットを喪(うしな)った悲しみの方が強すぎた。
***
……思い出した。
もう何年も前の話なのに、思い出しただけで胸の辺りがズキズキと痛み出す。
今でもまだ、これだけ悲しむことができるだなんて思わなかったとルーシーは自重気味に笑む。
「せめて、静かに……穏やかに逝けたらよかったのに……」
ジェットのエサに毒を盛った犯人は、未だに不明なままだ……。