残酷な描写あり
27 「ささやかな逢瀬」
それからというもの、イーノックという雑貨屋はイーズデイル邸のある町に、そのまま居を構えた。この辺りはのどかな田舎町で、様々な商品を取り扱う彼の雑貨屋はたちまち人気の店となる。その上、男前の若者が営んでいるということから、刺激の少なかったこの町ではちょっとした評判だった。
度々イーズデイルの屋敷を訪れては、直接仕入れた商品を納品する……という建前の理由を付けて、彼はこっそりとルーシーに顔を見せに来る。「表立って仲良くしてしまっては彼に迷惑をかけてしまう」と思っているルーシーは、周囲の目を盗んでは彼と密かな逢瀬を交わしていた。
イーズデイル邸には小動物以外に味方がいない。イーノックだけが、今のルーシーにとって唯一の癒しとなるまで、そう時間はかからなかった。
いつもはネズミや小鳥などにお願いをして、周囲に誰もいないか見張ってもらっているのだが、今日はそう上手くは行かなかった。ルーシーがいつものように日課の仕事をしている時に、声をかけられる。
「やぁ、ルーシー」
「……っ!?」
ルーシーは飛び上がるほど驚いた。そこには雑貨屋としてではなく、一人の男性としてイーノックが手を振っていたのだ。玄関前で咲き乱れている花の世話をしていたメイドが、不思議そうな表情をしながらイーノックに訊ねる。
「雑貨屋のイーノックさん、でしたよね? 今日は仕入れ日ではなかったと思うのですが。新商品の案内なら、執事のロックウェルをお呼びしましょうか」
「いえいえ、今日は仕事で来たんじゃないんですよ」
「……それでは、ご用件は」
「こちらのお嬢さんに会いに来ました」
「!」
彼は突然何を言っているんだろうと、ルーシーは背筋がゾッとした。屋敷の者にルーシーと親しくしていると思われたら、彼がどう思われてしまうかわかったものじゃない。何より、せっかく雑貨の得意先となれたのに。それが全てなかったことになってしまったら、それは当然ルーシーのせいだ。
慌ててイーノックを制止しようとするが、足が竦んで思うように歩けない。いつもこうだ。屋敷の者に逆らうような行為をしようとしたら、暴力や暴言を恐れて体が拒絶反応のようなものを起こしてしまう。恐怖で足が竦んでいるのだ。
真っ青な顔でイーノックとメイドのやり取りを目にしていると、屋敷の方から透き通るような声がした。
「あら、どうかしたの?」
玄関の方を見ると、そこにはちょうど外に出てきた少女がドアを開けたまま立っていた。ウェーブがかった茶色の美しいロングヘア、象牙のように白い柔肌、愛くるしい眼差し、ぷっくりとした柔らかい唇は、疑問を投げかける時によく尖らせる癖がある。外出する予定のない日でも、彼女は綺麗で少し派手なドレスを着ている。シンプルな洋服に身を包んでいる姿を、ルーシーは見たことがない。
「……ソフィア」
軽いめまいがした。家族の者に出会うと、決まってこうなってしまう。それは他の使用人達とは違う反応だ。体ではなく本能が恐れを抱いている。決して逆らってはいけないのだと、幼い頃から教わった。それが心の奥底にまで染み付いて、目の前にするだけで自分が自分じゃなくなるような感覚に陥る。
それはまるで恐怖で固まっている自分を、上から俯瞰しているような感覚に似ていた。心と体が離れてしまったように、家族を前にすると決まってこうなってしまう。
俯瞰することでルーシーの思考は研ぎ澄まされる。即座に対応しようと、機転を働かせようとする。
「失礼いたしました、ソフィア様!」
ルーシーは深く頭を下げて、自分が出せるだけ大きな声でまずは謝罪する。ソフィアは玄関ポーチの上からルーシーを見下ろした。その表情は怒っているわけでも、侮蔑を浮かべるわけでもなく、ただ無表情にルーシーを見つめていたが、深くお辞儀をしている本人にその表情は見えていない。
「雑貨屋の方とは、以前少し会話をしただけで、決して親しいわけではございません! 今後一切、イーズデイル家と親しくなさっている方とは会話をしないように心がけます! ですので、今日のことはどうか……ご主人様には……」
「……言わないわよ。というか、何が起きているのか私にはさっぱりなんだけど?」
つまらなさそうにそうぼやくソフィアに、メイドが説明を付け加えるように話して聞かせた。
その間もソフィアはくりくりにはねている髪の毛をいじりながら、興味なさげにしている。
「雑貨屋のイーノック様が、その……ルーシーに会いに来たとおっしゃっていまして。恐らく彼は、ルーシーがどういった身分の者かご存知ないだけで……」
「銀髪に赤い目ってだけで、わかるでしょう」
至極当然、といった口調で言い放つソフィア。愛らしく、まるで天使が囁いているのかと思うほど凛としたその声から、このような言い方をされるとより刺激が強く聞こえてしまう。現にルーシーは、改めてソフィアの口から「銀髪に赤い目」という言い方をされて、心が苦しくなっていた。
その二つの特徴が、ルーシーの人生そのものを大きく狂わせている要因なのだから。
我関せず、といった表情でそっぽを向いているソフィアに対し、今すぐこの場から消えてしまいたいと言わんばかりに頭を下げたまま固まっているルーシー。そんな異様な光景を目の当たりにしたイーノックが、気まずそうになりながらも場を和ませようと口を開く。
「えっと、君は確か……イーズデイル家のご令嬢? お父様からあなたにと、貴重なピンクダイヤモンドのペンダントをプレゼントしたっていう?」
「あぁ、あのペンダントなら部屋の引き出しにしまったままだわ」
「……貴重な物ですから。おいそれと身に付けたりはしませんよね。正しい判断だと思いますよ……」
「要件はそれだけかしら?」
突き放すように、棘のある言い方をするソフィアにイーノックはたじろぐ。
ルーシーは固まったまま、二人の会話を聞いているしか出来なかった。会話中に割って入るわけにいかないからだ。
「失礼、あなたが……ソフィア嬢ですか?」
「そうよ、ソフィア・イーズデイル。そっちでずっと頭を下げている人の妹よ」
「……!? 姉妹で、いらっしゃる?」
ソフィアの口からイーノックは初めて知った。不思議はない。ルーシーはずっと明かさなかったのだ。魔女の子がイーズデイル家の者だと知られては、家族に迷惑をかけてしまう。卑しい身分である自分との関わりがないよう、ただの使用人という名目をずっと貫いて来た証だ。
だがイーノックにそこまでの事情は関係ない。この家でどのような扱いを受けているのかは、薄ぼんやりと察してはいたが、まさかイーズデイルという貴族のお嬢様という発想までは思い至らなかった。
驚きを隠せないイーノックは、口をあんぐりと開けたままルーシーとソフィアを交互に見つめる。その様子を見て、ソフィアもまた全てを察した。
「聞いてなかったの? 当然よね、うちの両親から口止めされててもおかしくないもの。そうよ、私達は姉妹よ。それが何か? 他に用がないなら帰ってくださらない? 両親に見つかったら面倒だもの」
「えっと……」
おろおろするばかりのイーノックに、ルーシーは少しだけ顔を上げて、そうするように促した。頭をうんうんと上下振って、ソフィアの言う通りにするよう訴えかける。それを見たイーノックは深くため息をつき、ソフィアに会釈した。
「お騒がせしたようで、すみませんでした。あの、ソフィアお嬢様とはこれが初対面ですよね。私はイーノックと言って、この町で雑貨屋を営んでおります。お父様からそれとなくお聞きしているかもしれませんが、お得意様のお嬢様に失礼のないよう振る舞うべきでした。申し訳ございません」
「あの娘に会いに来たんでしょ?」
「はい、そう……なのですが。もう帰った方がいいみたいなんで、失礼しますね」
「……」
両手を胸の前に組んだソフィアは、先ほどまで無表情かつまらないかという顔しか見せていなかった。しかしだんだんと不機嫌な表情が顔に出てくる。疑問を投げかける時に出る「唇を尖らせる癖」から、不機嫌でイライラしている時に見せる「への字口になる癖」へと変化していった。
「私、中途半端な人間は嫌いなの。帰るというのなら、早く帰ってくださらない?」
「はい! 失礼いたしました! それでは!」
慌てるように、イーノックはルーシーと同じくらい深くお辞儀をすると踵を返して走って行ってしまった。何の前振りもなく突然やって来たイーノックに驚いたルーシーであったが、まさかソフィアとも鉢合わせるとは思っていなくて今でも心臓がバクバクと音を立てている。
このままもう一度謝罪をして、すぐにこの場を去った方が無難だろうか。俯瞰している自分は「早くそうした方がいい」と言っている。ルーシーは上半身を直角に曲げたまま、ソフィアの姿を見ないように声を上げようとする。
しかし先に沈黙を破ったのは、ソフィアの方だった
「あなたも、迷惑なら迷惑だと言いなさいよ」
「え……」
「あなたのそういうところが大嫌いだって言ってるの。言ったでしょう! 中途半端な人間は嫌いなの!」
そう怒鳴ると、ソフィアは開いたままの玄関ドアを乱暴に閉めて、屋敷の中に戻って行った。バンっという音が響いて、その音の大きさがソフィアの怒りの大きさだと認識する。一度もソフィアの方を見ることがなかったルーシーは、妹がいなくなった今でもお辞儀の姿勢のまま固まっていた。その場にずっと居合わせていたメイドが吐き捨てるように文句を言う。
「あんたが余計なことするから、お嬢様の機嫌を損ねてしまったじゃない! どうしてくれるのよ、この無能!」
それだけ言い捨てると、メイドは足を踏み鳴らすように歩いて行くと、花の手入れの続きに戻った。ルーシーは未だに固まったままだ。唇が真一文字になるほどきつく結んで、今自分が抱いている複雑な感情が溢れてしまわないように、懸命に堪える。
これは恥ずかしさから来るものなのか、涙を堪えているのか、自分でもわからない。ただ胸の奥がもやもやとして、すぐに吹っ切れるようなものじゃないことだけはわかる。イーノックに対して? ソフィアに対して?
ただ思い当たる節があるとすれば、ソフィアにイーノックとの関係を知られたことだろう。これだけはどうしても秘密にしておきたかった。何より自分が心を開いた相手を失うのが怖かった。
イーズデイル家の人間は、ルーシーから何かを奪うのが大好きだ。嬉々として奪って、捨てていく。
イーノックとの関係が知られて、もしルーシーが原因で取引が無くなってしまったら?
そうなったら彼に何と謝罪すればいいんだろう。何も持たない自分では、代わりのものを差し出すことなんて出来ない。取引が無くなれば、ルーシーに「ついでに」会いに来ることもない。彼との逢瀬は終わりを告げるだろう。
この複雑な感情は、それを恐れているから抱いているものだったんだろうか?
どこか釈然としないと思いつつ、ルーシーは重たい足取りで仕事に戻って行った。
それからイーノックが仕事以外で会いに来ることは無くなった。もしこの間のように、「ルーシーに会いに来た」というだけの要件だと家の者に知られてしまったら、とてつもなく面倒なことになる……とイーノックも身に染みて学んだからだろう。
しかしルーシーはそれが最善だと思っている。彼にとって一番最善なことは、「ルーシーに会わない」というものだが、あえてそれを考えないようにしていた。ルーシーにとって、ただ一人だけの話し相手を失いたくなかったからだ。
そういった逢瀬は、およそ五年も続いた。とても長い間、彼との関係を続けられた。これはルーシーにとって、とても信じ難いものだ。
どうやらソフィアはイーノックとルーシーとの関係を、両親に告げ口しなかったらしい。そのおかげで今の関係が続けられたということになる。どういった風の吹き回しなのか、ソフィアはイーノックとの関係を見て見ぬ振りをしているように感じられたのだ。
『ソフィアは知ってるよ。君があの人間の男と会ってるの。窓から見ていたもの』
小鳥が教えてくれた。
ルーシーがイーノックと会うのは、屋敷の周辺ではなく、そこから離れた納屋の裏手だ。そこは庭師しか利用しないので、他の使用人が来ることは滅多にない。それに屋敷から少し離れているので、納屋の裏手ならば回り込まないといけない死角となっている。
ソフィアはイーノックと二人で納屋へ歩いて行くのを、窓から覗き見ていたと小鳥が教えてくれたのだ。それを知っていてなぜ邪魔しないのか。今もなお両親にそのことを話さないのか、その真意はわからない。でもそのおかげで、ルーシーは屋敷での扱いがどんなにひどくても、イーノックの笑顔を見れば、優しい声を聞けば、元気が湧いてきた。
心の中でソフィアに感謝しつつ、今日もまた彼と逢瀬を交わしていた時だった。
「君はイーズデイルの長女なんだろう? だったらこの家は誰が継ぐことになるんだい」
「……私じゃないことだけは確かよ。きっとソフィアがお婿様をもらって、イーズデイル家を継ぐことになると思うわ」
何気ない会話だと思っていた。時々、彼の口からイーズデイルに関することを聞かれるが、それは話のネタとして聞かれているだけなのだと、ルーシーは思っていた。しかしルーシーが十四歳、十五歳と、女性が結婚出来る年齢が近付くにつれ、その話題がだんだんと増えていったのは確かだ。
ルーシーは自分が結婚なんて出来るわけがないと、そう疑わなかった。自分は一生イーズデイルの奉公人として死ぬまで尽くすものだと思っていたから。だからイーノックの言葉を聞いても、なかなか実感が湧かなかった。
イーノックは突然、ルーシーの両手を取って、頬を赤らめながら告白する。
「僕と結婚しよう、ルーシー。君をこのイーズデイルの呪いから解放してあげたいんだ!」
それは夢にも思っていない言葉だった。
ルーシーはイーノックを心から信じていた。長い年月をかけて、ずっと自分を支えてくれたイーノックのことを、このプロポーズを聞いたことによって、初めて気付かされる。
きっと、この感情が「愛」なのだと。
今まで誰にも愛されることのなかった自分が、誰かに愛され、誰かを愛する瞬間がーー今、ようやく訪れたのだ。
度々イーズデイルの屋敷を訪れては、直接仕入れた商品を納品する……という建前の理由を付けて、彼はこっそりとルーシーに顔を見せに来る。「表立って仲良くしてしまっては彼に迷惑をかけてしまう」と思っているルーシーは、周囲の目を盗んでは彼と密かな逢瀬を交わしていた。
イーズデイル邸には小動物以外に味方がいない。イーノックだけが、今のルーシーにとって唯一の癒しとなるまで、そう時間はかからなかった。
いつもはネズミや小鳥などにお願いをして、周囲に誰もいないか見張ってもらっているのだが、今日はそう上手くは行かなかった。ルーシーがいつものように日課の仕事をしている時に、声をかけられる。
「やぁ、ルーシー」
「……っ!?」
ルーシーは飛び上がるほど驚いた。そこには雑貨屋としてではなく、一人の男性としてイーノックが手を振っていたのだ。玄関前で咲き乱れている花の世話をしていたメイドが、不思議そうな表情をしながらイーノックに訊ねる。
「雑貨屋のイーノックさん、でしたよね? 今日は仕入れ日ではなかったと思うのですが。新商品の案内なら、執事のロックウェルをお呼びしましょうか」
「いえいえ、今日は仕事で来たんじゃないんですよ」
「……それでは、ご用件は」
「こちらのお嬢さんに会いに来ました」
「!」
彼は突然何を言っているんだろうと、ルーシーは背筋がゾッとした。屋敷の者にルーシーと親しくしていると思われたら、彼がどう思われてしまうかわかったものじゃない。何より、せっかく雑貨の得意先となれたのに。それが全てなかったことになってしまったら、それは当然ルーシーのせいだ。
慌ててイーノックを制止しようとするが、足が竦んで思うように歩けない。いつもこうだ。屋敷の者に逆らうような行為をしようとしたら、暴力や暴言を恐れて体が拒絶反応のようなものを起こしてしまう。恐怖で足が竦んでいるのだ。
真っ青な顔でイーノックとメイドのやり取りを目にしていると、屋敷の方から透き通るような声がした。
「あら、どうかしたの?」
玄関の方を見ると、そこにはちょうど外に出てきた少女がドアを開けたまま立っていた。ウェーブがかった茶色の美しいロングヘア、象牙のように白い柔肌、愛くるしい眼差し、ぷっくりとした柔らかい唇は、疑問を投げかける時によく尖らせる癖がある。外出する予定のない日でも、彼女は綺麗で少し派手なドレスを着ている。シンプルな洋服に身を包んでいる姿を、ルーシーは見たことがない。
「……ソフィア」
軽いめまいがした。家族の者に出会うと、決まってこうなってしまう。それは他の使用人達とは違う反応だ。体ではなく本能が恐れを抱いている。決して逆らってはいけないのだと、幼い頃から教わった。それが心の奥底にまで染み付いて、目の前にするだけで自分が自分じゃなくなるような感覚に陥る。
それはまるで恐怖で固まっている自分を、上から俯瞰しているような感覚に似ていた。心と体が離れてしまったように、家族を前にすると決まってこうなってしまう。
俯瞰することでルーシーの思考は研ぎ澄まされる。即座に対応しようと、機転を働かせようとする。
「失礼いたしました、ソフィア様!」
ルーシーは深く頭を下げて、自分が出せるだけ大きな声でまずは謝罪する。ソフィアは玄関ポーチの上からルーシーを見下ろした。その表情は怒っているわけでも、侮蔑を浮かべるわけでもなく、ただ無表情にルーシーを見つめていたが、深くお辞儀をしている本人にその表情は見えていない。
「雑貨屋の方とは、以前少し会話をしただけで、決して親しいわけではございません! 今後一切、イーズデイル家と親しくなさっている方とは会話をしないように心がけます! ですので、今日のことはどうか……ご主人様には……」
「……言わないわよ。というか、何が起きているのか私にはさっぱりなんだけど?」
つまらなさそうにそうぼやくソフィアに、メイドが説明を付け加えるように話して聞かせた。
その間もソフィアはくりくりにはねている髪の毛をいじりながら、興味なさげにしている。
「雑貨屋のイーノック様が、その……ルーシーに会いに来たとおっしゃっていまして。恐らく彼は、ルーシーがどういった身分の者かご存知ないだけで……」
「銀髪に赤い目ってだけで、わかるでしょう」
至極当然、といった口調で言い放つソフィア。愛らしく、まるで天使が囁いているのかと思うほど凛としたその声から、このような言い方をされるとより刺激が強く聞こえてしまう。現にルーシーは、改めてソフィアの口から「銀髪に赤い目」という言い方をされて、心が苦しくなっていた。
その二つの特徴が、ルーシーの人生そのものを大きく狂わせている要因なのだから。
我関せず、といった表情でそっぽを向いているソフィアに対し、今すぐこの場から消えてしまいたいと言わんばかりに頭を下げたまま固まっているルーシー。そんな異様な光景を目の当たりにしたイーノックが、気まずそうになりながらも場を和ませようと口を開く。
「えっと、君は確か……イーズデイル家のご令嬢? お父様からあなたにと、貴重なピンクダイヤモンドのペンダントをプレゼントしたっていう?」
「あぁ、あのペンダントなら部屋の引き出しにしまったままだわ」
「……貴重な物ですから。おいそれと身に付けたりはしませんよね。正しい判断だと思いますよ……」
「要件はそれだけかしら?」
突き放すように、棘のある言い方をするソフィアにイーノックはたじろぐ。
ルーシーは固まったまま、二人の会話を聞いているしか出来なかった。会話中に割って入るわけにいかないからだ。
「失礼、あなたが……ソフィア嬢ですか?」
「そうよ、ソフィア・イーズデイル。そっちでずっと頭を下げている人の妹よ」
「……!? 姉妹で、いらっしゃる?」
ソフィアの口からイーノックは初めて知った。不思議はない。ルーシーはずっと明かさなかったのだ。魔女の子がイーズデイル家の者だと知られては、家族に迷惑をかけてしまう。卑しい身分である自分との関わりがないよう、ただの使用人という名目をずっと貫いて来た証だ。
だがイーノックにそこまでの事情は関係ない。この家でどのような扱いを受けているのかは、薄ぼんやりと察してはいたが、まさかイーズデイルという貴族のお嬢様という発想までは思い至らなかった。
驚きを隠せないイーノックは、口をあんぐりと開けたままルーシーとソフィアを交互に見つめる。その様子を見て、ソフィアもまた全てを察した。
「聞いてなかったの? 当然よね、うちの両親から口止めされててもおかしくないもの。そうよ、私達は姉妹よ。それが何か? 他に用がないなら帰ってくださらない? 両親に見つかったら面倒だもの」
「えっと……」
おろおろするばかりのイーノックに、ルーシーは少しだけ顔を上げて、そうするように促した。頭をうんうんと上下振って、ソフィアの言う通りにするよう訴えかける。それを見たイーノックは深くため息をつき、ソフィアに会釈した。
「お騒がせしたようで、すみませんでした。あの、ソフィアお嬢様とはこれが初対面ですよね。私はイーノックと言って、この町で雑貨屋を営んでおります。お父様からそれとなくお聞きしているかもしれませんが、お得意様のお嬢様に失礼のないよう振る舞うべきでした。申し訳ございません」
「あの娘に会いに来たんでしょ?」
「はい、そう……なのですが。もう帰った方がいいみたいなんで、失礼しますね」
「……」
両手を胸の前に組んだソフィアは、先ほどまで無表情かつまらないかという顔しか見せていなかった。しかしだんだんと不機嫌な表情が顔に出てくる。疑問を投げかける時に出る「唇を尖らせる癖」から、不機嫌でイライラしている時に見せる「への字口になる癖」へと変化していった。
「私、中途半端な人間は嫌いなの。帰るというのなら、早く帰ってくださらない?」
「はい! 失礼いたしました! それでは!」
慌てるように、イーノックはルーシーと同じくらい深くお辞儀をすると踵を返して走って行ってしまった。何の前振りもなく突然やって来たイーノックに驚いたルーシーであったが、まさかソフィアとも鉢合わせるとは思っていなくて今でも心臓がバクバクと音を立てている。
このままもう一度謝罪をして、すぐにこの場を去った方が無難だろうか。俯瞰している自分は「早くそうした方がいい」と言っている。ルーシーは上半身を直角に曲げたまま、ソフィアの姿を見ないように声を上げようとする。
しかし先に沈黙を破ったのは、ソフィアの方だった
「あなたも、迷惑なら迷惑だと言いなさいよ」
「え……」
「あなたのそういうところが大嫌いだって言ってるの。言ったでしょう! 中途半端な人間は嫌いなの!」
そう怒鳴ると、ソフィアは開いたままの玄関ドアを乱暴に閉めて、屋敷の中に戻って行った。バンっという音が響いて、その音の大きさがソフィアの怒りの大きさだと認識する。一度もソフィアの方を見ることがなかったルーシーは、妹がいなくなった今でもお辞儀の姿勢のまま固まっていた。その場にずっと居合わせていたメイドが吐き捨てるように文句を言う。
「あんたが余計なことするから、お嬢様の機嫌を損ねてしまったじゃない! どうしてくれるのよ、この無能!」
それだけ言い捨てると、メイドは足を踏み鳴らすように歩いて行くと、花の手入れの続きに戻った。ルーシーは未だに固まったままだ。唇が真一文字になるほどきつく結んで、今自分が抱いている複雑な感情が溢れてしまわないように、懸命に堪える。
これは恥ずかしさから来るものなのか、涙を堪えているのか、自分でもわからない。ただ胸の奥がもやもやとして、すぐに吹っ切れるようなものじゃないことだけはわかる。イーノックに対して? ソフィアに対して?
ただ思い当たる節があるとすれば、ソフィアにイーノックとの関係を知られたことだろう。これだけはどうしても秘密にしておきたかった。何より自分が心を開いた相手を失うのが怖かった。
イーズデイル家の人間は、ルーシーから何かを奪うのが大好きだ。嬉々として奪って、捨てていく。
イーノックとの関係が知られて、もしルーシーが原因で取引が無くなってしまったら?
そうなったら彼に何と謝罪すればいいんだろう。何も持たない自分では、代わりのものを差し出すことなんて出来ない。取引が無くなれば、ルーシーに「ついでに」会いに来ることもない。彼との逢瀬は終わりを告げるだろう。
この複雑な感情は、それを恐れているから抱いているものだったんだろうか?
どこか釈然としないと思いつつ、ルーシーは重たい足取りで仕事に戻って行った。
それからイーノックが仕事以外で会いに来ることは無くなった。もしこの間のように、「ルーシーに会いに来た」というだけの要件だと家の者に知られてしまったら、とてつもなく面倒なことになる……とイーノックも身に染みて学んだからだろう。
しかしルーシーはそれが最善だと思っている。彼にとって一番最善なことは、「ルーシーに会わない」というものだが、あえてそれを考えないようにしていた。ルーシーにとって、ただ一人だけの話し相手を失いたくなかったからだ。
そういった逢瀬は、およそ五年も続いた。とても長い間、彼との関係を続けられた。これはルーシーにとって、とても信じ難いものだ。
どうやらソフィアはイーノックとルーシーとの関係を、両親に告げ口しなかったらしい。そのおかげで今の関係が続けられたということになる。どういった風の吹き回しなのか、ソフィアはイーノックとの関係を見て見ぬ振りをしているように感じられたのだ。
『ソフィアは知ってるよ。君があの人間の男と会ってるの。窓から見ていたもの』
小鳥が教えてくれた。
ルーシーがイーノックと会うのは、屋敷の周辺ではなく、そこから離れた納屋の裏手だ。そこは庭師しか利用しないので、他の使用人が来ることは滅多にない。それに屋敷から少し離れているので、納屋の裏手ならば回り込まないといけない死角となっている。
ソフィアはイーノックと二人で納屋へ歩いて行くのを、窓から覗き見ていたと小鳥が教えてくれたのだ。それを知っていてなぜ邪魔しないのか。今もなお両親にそのことを話さないのか、その真意はわからない。でもそのおかげで、ルーシーは屋敷での扱いがどんなにひどくても、イーノックの笑顔を見れば、優しい声を聞けば、元気が湧いてきた。
心の中でソフィアに感謝しつつ、今日もまた彼と逢瀬を交わしていた時だった。
「君はイーズデイルの長女なんだろう? だったらこの家は誰が継ぐことになるんだい」
「……私じゃないことだけは確かよ。きっとソフィアがお婿様をもらって、イーズデイル家を継ぐことになると思うわ」
何気ない会話だと思っていた。時々、彼の口からイーズデイルに関することを聞かれるが、それは話のネタとして聞かれているだけなのだと、ルーシーは思っていた。しかしルーシーが十四歳、十五歳と、女性が結婚出来る年齢が近付くにつれ、その話題がだんだんと増えていったのは確かだ。
ルーシーは自分が結婚なんて出来るわけがないと、そう疑わなかった。自分は一生イーズデイルの奉公人として死ぬまで尽くすものだと思っていたから。だからイーノックの言葉を聞いても、なかなか実感が湧かなかった。
イーノックは突然、ルーシーの両手を取って、頬を赤らめながら告白する。
「僕と結婚しよう、ルーシー。君をこのイーズデイルの呪いから解放してあげたいんだ!」
それは夢にも思っていない言葉だった。
ルーシーはイーノックを心から信じていた。長い年月をかけて、ずっと自分を支えてくれたイーノックのことを、このプロポーズを聞いたことによって、初めて気付かされる。
きっと、この感情が「愛」なのだと。
今まで誰にも愛されることのなかった自分が、誰かに愛され、誰かを愛する瞬間がーー今、ようやく訪れたのだ。