残酷な描写あり
28 「婚約破棄」
それからのイーノックは、行動がとても早かった。初めて会った時から、五年も経てばルーシーの状況やイーズデイルの実情など、目や耳に入ってもおかしくない。ルーシーがどれだけ蔑まされ、酷い扱いを受けて生活してきたのか。
それを知ってからのイーノックは、ルーシーに同情し、どうにかして彼女を救えないか……。色々と試行錯誤していた。雑貨屋としての得意先として、イーズデイル当主が常連となって仕事以外にも話題が弾むように。少しずつその関係性を深めていくという、外堀を埋めて行くことから始めていた。
イーノックは人好きする顔立ちで、商売人ということもあって愛想も良い。口は達者で、頭の回転も速い。イーズデイル当主の目には、イーノックがとても有能な人物として映っていた。使用人、執事、家族にもその根回しを怠らない。
イーノックはイーズデイルに関わる全ての者と懇意にすることで、その自分が認めるルーシーという少女の立場が少しでも好転するように働きかけているつもりだろうが、ここではそんな甘いことが一切通用しないことはルーシー自身が一番よくわかっていた。
屋敷の外と中とでは、常識が異なる。屋敷の中は別世界なのだ。しかし外の世界を知らないルーシーは、屋敷での常識が世界の常識と信じている。だからイーノックがこうまでして、魔女であるルーシーの扱いが良くなるように働きかけている行動が不思議で堪らなかった。
そんなことをしても、世界は魔女の味方などしない。イーノックがどれだけイーズデイルの人間に好かれても、それでルーシーのことを許すはずがない。だから彼のすることは、ルーシーに限って言えば全くの無駄な行為なのだ。
イーノックが好かれるのはいい。それはルーシーも喜ばしいことだったから。でもそれで自分も一緒に好かれようだなんて、都合のいい考えは全く浮かばない。
努力するイーノックを前に「無駄」などと、言えるはずもなかった。
そして頃合いを見た彼は、ついにイーズデイル当主に例の話を持ちかけた。
***
イーズデイル夫妻、そしてソフィア。イーノックから大切な話があると、応接室に集められた。夫妻は普段通りの、貴族らしい小綺麗な格好で来ているが、ソフィアだけは常に「これからダンスパーティーでもあるのだろうか」と思うような、眩しいくらいに煌びやかなドレスを着て椅子にちょこんと座っている。
普段と変わらない、これがいつもの自分であるとでも言うようだ。自分だけ目を引くドレスばかり着ていて恥ずかしい、という素振りが全く見られない。「部屋着を着ている」という感覚なのか、表情が全く変わっていなかった。
イーノックは記念すべき日とでも言うように、礼服を着て緊張している。普段は動きやすい格好なので、堅苦しい礼服は息が詰まりそうになっていた。しかし朗らかな笑顔を崩さないよう、必死で取り繕う。
「急にどうしたね。大事な話があるということだが、妻や娘まで同席させるなんて。もしかしてあの話を受けてくれる気になったのかな?」
「そのことで話がありまして、ですね。まずは彼女にも同席してもらいましょう」
そう答えると、イーノックは立ち上がって隣の部屋に続くドアを開けて、隣で待機していたルーシーを招いた。ルーシーは仕事着しか身につけたことがない。仕事に差し支えない、動きやすさと、何年も着続けて破れたりほつれたりした部分を繕ってきたので、継ぎはぎだらけの色褪せた仕事着しか持っていなかった。
だから今日着ている衣装は、イーノックが用意したものだ。決して高いものでも、ソフィアのような綺麗なドレスでもないが。ルーシーの銀色が映えるような、シックな色合いの落ち着いたドレスに袖を通している。
ルーシーは今にも過呼吸で死にそうな思いだった。今まで決して近寄ってはいけない家族を、目の前にしているのだから。同じ部屋で、同じ空気を吸っている。同じ空間にいること自体、これまでの生活でそう何度もなかった。
応接室にルーシーが入って来た途端、夫妻の顔色が激変する。明らかに父親の顔は不機嫌になり、母親に至っては嫌悪感たっぷりの表情で歯噛みしていた。ソフィアは眉根を寄せて、怪訝そうにルーシーを瞠っている。ルーシーの立場を最も身近で見て来たと言っても過言ではないソフィアだからこそ、「なぜここに?」という思いが強かった。
両親の元に姿を現せば、こうなることはわかっていたはずだ。イーノックの仕業であることは明白だが、自分の立場を身に染みてよく理解しているはずのルーシーだからこそ、両親と居合わせることを拒絶してもおかしくないはずなのに。ソフィアはそこに疑問を抱いていたのだ。
(両親の前に自分を晒してでも、伝えたい大切な話……ってこと?)
ソフィアはイーノックを見た。誇らしげに、満足そうにルーシーを両親の前に晒しているこの男が、滑稽に見えて仕方ない。彼はルーシーをどうしたいのか。仲が良かったはずなのだから、両親との間にある溝の深さを姉から聞いていないのだろうか。それを敢えて無視するほど、重要な話とは一体何なのか。
イーノックは両親の早変わりした表情に気付いていたが、ルーシーの背中に手を回し、変わらぬ笑顔で告白した。
「私、イーノック・フェリクスは、こちらのルーシー・イーズデイルと婚約いたします。ご両親にはその許可を頂きたく、こうして集まってもらった次第です」
「なんですって!?」
「何て馬鹿なことを、イーノック! 君は自分が何を言っているのかわかってるのか!」
イーノックの婚約発表に金切り声を上げて、真っ先に激昂したのは母親だった。そして父親もまた、せっかく気に入った若者が魔女の忌み子ルーシーを娶ると聞いて、怒りを隠せない。
ソフィアは自分の耳を疑うように驚愕の表情となり、言葉を失っている。しかし、すぐまた普段通りの澄ました顔に戻る。だが心中の動揺だけはどうしても隠し切れていない。シルクのドレスをキュッと握り締め、なんとか心を鎮めようとしている様子だ。
予想通りの反応、とでもいうようにイーノックは朗らかな笑顔から一変。意を決した表情を作り上げて、話を続けた。今日集まってもらったのは、何も婚約発表と結婚の許可を得る為だけではない。もっと重要なことが残っている。
両親の怒りで空気が震えているように感じたルーシーは、恐ろしさのあまり身を縮める。それを優しく、甲斐甲斐しく抱き寄せて、安心させるようにイーノックが耳元で囁いた。
「大丈夫だよ、ルーシー。全部僕に任せてくれたら、君は自由になれる。だから僕を信じて」
「……イーノック」
こんなに嬉しいことはなかった。敵意から自分を守ってくれる人間が現れるなんて、まるで奇跡だ。ルーシーはイーノックの優しさに、全て身を委ねようと思った。彼なら信じられる。彼のことを考えるだけで、こんなにも胸の奥がぽかぽかと温かくなっていく。それだけ彼を信じている証拠なのだ。自分も彼に愛情を抱いている確かな証なのだ。
「彼女はあなた方にとって、都合の良い奴隷なんかじゃない。魔女の特徴? そんなものは言い訳です。私の故郷では、魔女はとても貴重で有り難い存在だ。魔女の力、知識、その全てが人間にとっての恩恵となっている」
この地域では魔女を嫌悪することが当然となっている。決してイーズデイル夫妻が異常なのではない。確かにルーシーにしてきた行ないが正当なものであったかどうかは別としても、この地域で魔女を忌み嫌うことはそれほど人々の心の中に根付いた本能のようなものだった。
だからこそ、一見まともな言葉を述べているイーノックが正義と思われるだろうが、ここイーズデイル家ではそれがまかり通らないのが実情だ。若者の主張を聞いて、夫妻が反省するかと思いきや、怒りで顔一杯に紅潮していくばかりだ。
「くだらん! 君の故郷がどうであれ、ここは違う! 我々は魔女を決して許さない。ここはそうやって生きてきた! 魔女の恩恵? そんなもの無くても、人間の力だけで十分にやっていける。魔女は異端者だ。神に対する冒涜なのだ!」
「そうよ! 魔女として生まれてきた時点で、それはもはや私達と同じ人間ではないの! 別種の生物、人間の形をした化け物よ!」
「なんて酷いことを……っ! あなた方は我が子を愛したことがないのか……っ!」
「私達の娘は、ここにいるソフィアただ一人だけだ!」
夫妻の言葉にイーノックは正直、ショックを隠せなかった。家の者全てがルーシーを嫌悪していたことはさすがにわかっていたが、ここまで頑なに魔女を拒絶するとは思っていなかったのだ。話せばわかる、和解できると思っていた自分が甘かったと今になって後悔する。
イーノックはふと、抱き締めて守ろうとしている少女を見た。小さくなって震えているが、涙を一滴も流してはいない。そんな彼女の様子を見て心が痛くなった。この少女は、幼い頃から……いや。生まれて来た時から今に至るまで、ずっとこの悪意をぶつけられて生きて来たのかと思うと、いたたまれない気持ちになる。
やはりこんな所にいてはダメだ。
「そうまでして忌み嫌う彼女のことを、どうして今も手放さないんです? そんなに嫌っているのなら、どこかへ養子にでも出せば良かったでしょうに」
失望と怒りで半ば我を忘れていたイーノックは、言ってから後悔する。こんなセリフをルーシーに聞かせるものではなかった。なんて配慮が足りなかったんだとルーシーを見るが、それでも彼女の表情は変わらない。なんということだろう。彼女は悪意ある言葉に慣れ過ぎてしまったのだ。こんな言葉では、彼女の心は動揺すらしなくなっている。なんて悲しいことだろう、とイーノックは情けなくなってきた。ルーシーよりもずっと、自分の精神が参って来てしまっていた。ここは悪意の溜まり場だ。
「うちから魔女を外に出してしまって、もし魔女を放った家として異端者扱いされたらどうする! 『それ』は永遠にイーズデイルから出さない。一生ここで奴隷として生きていくのだ! 『それ』がこの家に魔女として生まれて来たから悪い!」
「勝手なことを」
ーー平行線だ。彼等に魔女の存在を正当化させる術は、もうない。こうなればもはや最終手段に出るしか道はなかった。イーノックは、出来れば実行したくなかったが、こうまで夫妻がルーシーに固執するというのなら仕方ない。
「わかりました。それじゃあ今後はーー」
「待って、ください!」
初めて言葉を発した。家族の前では失礼をしないように、余計なことは決して口にしてはならないと強く言われていたが、どうしてもルーシーは見過ごせなかった。ここできちんと言わなければ、きっとずっと後悔してしまう。
勇気を出して、自分の思いを言葉に乗せた。
「……お騒がせして、申し訳ありませんでした。私がイーノックさんの優しさに甘えてしまったばかりに、ご主人様やご家族……イーノックさんに迷惑をかけてしまいました。全ては私の不手際です。イーノックさんは誤解なさっているだけなんです」
「ルーシー? 何を言ってるんだい」
ルーシーはイーノックから離れて、部屋の片隅へと移動する。両手を前に添えて、姿勢を正した。服の感触が手に伝わる。こんなに上質な生地の服を着たことは初めてだから、ずっと触っていたいと思う。でも、この服とは今日でお別れになる。……イーノックとも。
ルーシーは上半身を曲げて、お辞儀をした。ずっと下を向いて生きて来たから、この角度を保つことにも随分慣れた。
「私がイーズデイルで酷い扱いを受けていると、誤解をなさっておいでです。私は魔女。こういった扱いをされて当然の身なのです。ですから、イーノックさんに謝罪をすると共に……彼との婚約も……なかったことにさせていただこうと、思います」
「ルーシー! 本気で言ってるのか!?」
イーノックの悲痛な叫びが応接室に響き渡る。今になって胸がちくちくと痛み出した。自分に対して浴びせられた言葉には、何も感じなかったはずなのに。
ルーシーはわずかに微笑み、そして告げる。
「私なんかの為に、イーズデイル家との取引を無かったことにしないでください。今まで通り……とはいかないかもしれませんが、せっかくお互いに商いが成立していたのですから。私のことは忘れて、ご主人様との仕事仲間として、これからもお付き合いを続けてください」
それから今度は両親に向けて深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。罰は私一人で受けますので、どうかイーノックさんとの口論を……」
「わかったわかった! お前が喋ると背筋がゾッとする。もう喋るな! イーノックとのこともだ。お前達の馬鹿馬鹿しい婚約話を無かったことにするというのなら、お前一人の罰だけで勘弁してやる! それでいいな、イーノック」
「いやっ、……でもっ!」
イーズデイル夫妻の冷ややかな中に鋭い怒りのある表情、ルーシーの儚げな微笑、それらを見てもなお反論出来なかった自分が本当に情けなかった。ここでイーズデイルとの取引をやめて、ルーシーと駆け落ちするという宣言すら口に出すことが出来なかった。
ルーシーは察したのだろう。自分が仕事を放り出してまで、ルーシーとの愛に生きようとすることを。それでも良かったと、あの瞬間は本気で思えたのに。
いざ職を失った後の生活のことを考えたら、早まらなくて良かったと思っている自分がとても矮小に思えた。
「婚約の件は……、無かった、ということで。今後も……良いお付き合いを、よろしくお願いします……」
イーノックの弱々しい宣言により、この場はお開きとなった。夫妻はさっさと応接室を出て行って、執事のロックウェルが入れ替わりに入って来た。それからソフィアが立ち上がり、二人を見下すように冷たい視線を浴びせる。
「情けないわね……」と、一言。
イーノックは肩を竦めて、改めて自分のちっぽけな正義感に涙した。ルーシーは自分を守る為に色々としてくれた彼に、何か優しい言葉をかけたかったが出来ない。トドメを刺したのは自分なのだから。彼の愛情を無下にして、彼の優しさを裏切って、最後に彼を悲しませた。彼の正義をルーシーが否定したようなものだ。
執事のロックウェルの方を見て、彼が首を縦に振ったので、ルーシーはそのまま静かに応接室を出て行った。
(ーーごめんなさい、イーノック。でも、こうするしか他に無かったの。本当にごめんなさい)
それを知ってからのイーノックは、ルーシーに同情し、どうにかして彼女を救えないか……。色々と試行錯誤していた。雑貨屋としての得意先として、イーズデイル当主が常連となって仕事以外にも話題が弾むように。少しずつその関係性を深めていくという、外堀を埋めて行くことから始めていた。
イーノックは人好きする顔立ちで、商売人ということもあって愛想も良い。口は達者で、頭の回転も速い。イーズデイル当主の目には、イーノックがとても有能な人物として映っていた。使用人、執事、家族にもその根回しを怠らない。
イーノックはイーズデイルに関わる全ての者と懇意にすることで、その自分が認めるルーシーという少女の立場が少しでも好転するように働きかけているつもりだろうが、ここではそんな甘いことが一切通用しないことはルーシー自身が一番よくわかっていた。
屋敷の外と中とでは、常識が異なる。屋敷の中は別世界なのだ。しかし外の世界を知らないルーシーは、屋敷での常識が世界の常識と信じている。だからイーノックがこうまでして、魔女であるルーシーの扱いが良くなるように働きかけている行動が不思議で堪らなかった。
そんなことをしても、世界は魔女の味方などしない。イーノックがどれだけイーズデイルの人間に好かれても、それでルーシーのことを許すはずがない。だから彼のすることは、ルーシーに限って言えば全くの無駄な行為なのだ。
イーノックが好かれるのはいい。それはルーシーも喜ばしいことだったから。でもそれで自分も一緒に好かれようだなんて、都合のいい考えは全く浮かばない。
努力するイーノックを前に「無駄」などと、言えるはずもなかった。
そして頃合いを見た彼は、ついにイーズデイル当主に例の話を持ちかけた。
***
イーズデイル夫妻、そしてソフィア。イーノックから大切な話があると、応接室に集められた。夫妻は普段通りの、貴族らしい小綺麗な格好で来ているが、ソフィアだけは常に「これからダンスパーティーでもあるのだろうか」と思うような、眩しいくらいに煌びやかなドレスを着て椅子にちょこんと座っている。
普段と変わらない、これがいつもの自分であるとでも言うようだ。自分だけ目を引くドレスばかり着ていて恥ずかしい、という素振りが全く見られない。「部屋着を着ている」という感覚なのか、表情が全く変わっていなかった。
イーノックは記念すべき日とでも言うように、礼服を着て緊張している。普段は動きやすい格好なので、堅苦しい礼服は息が詰まりそうになっていた。しかし朗らかな笑顔を崩さないよう、必死で取り繕う。
「急にどうしたね。大事な話があるということだが、妻や娘まで同席させるなんて。もしかしてあの話を受けてくれる気になったのかな?」
「そのことで話がありまして、ですね。まずは彼女にも同席してもらいましょう」
そう答えると、イーノックは立ち上がって隣の部屋に続くドアを開けて、隣で待機していたルーシーを招いた。ルーシーは仕事着しか身につけたことがない。仕事に差し支えない、動きやすさと、何年も着続けて破れたりほつれたりした部分を繕ってきたので、継ぎはぎだらけの色褪せた仕事着しか持っていなかった。
だから今日着ている衣装は、イーノックが用意したものだ。決して高いものでも、ソフィアのような綺麗なドレスでもないが。ルーシーの銀色が映えるような、シックな色合いの落ち着いたドレスに袖を通している。
ルーシーは今にも過呼吸で死にそうな思いだった。今まで決して近寄ってはいけない家族を、目の前にしているのだから。同じ部屋で、同じ空気を吸っている。同じ空間にいること自体、これまでの生活でそう何度もなかった。
応接室にルーシーが入って来た途端、夫妻の顔色が激変する。明らかに父親の顔は不機嫌になり、母親に至っては嫌悪感たっぷりの表情で歯噛みしていた。ソフィアは眉根を寄せて、怪訝そうにルーシーを瞠っている。ルーシーの立場を最も身近で見て来たと言っても過言ではないソフィアだからこそ、「なぜここに?」という思いが強かった。
両親の元に姿を現せば、こうなることはわかっていたはずだ。イーノックの仕業であることは明白だが、自分の立場を身に染みてよく理解しているはずのルーシーだからこそ、両親と居合わせることを拒絶してもおかしくないはずなのに。ソフィアはそこに疑問を抱いていたのだ。
(両親の前に自分を晒してでも、伝えたい大切な話……ってこと?)
ソフィアはイーノックを見た。誇らしげに、満足そうにルーシーを両親の前に晒しているこの男が、滑稽に見えて仕方ない。彼はルーシーをどうしたいのか。仲が良かったはずなのだから、両親との間にある溝の深さを姉から聞いていないのだろうか。それを敢えて無視するほど、重要な話とは一体何なのか。
イーノックは両親の早変わりした表情に気付いていたが、ルーシーの背中に手を回し、変わらぬ笑顔で告白した。
「私、イーノック・フェリクスは、こちらのルーシー・イーズデイルと婚約いたします。ご両親にはその許可を頂きたく、こうして集まってもらった次第です」
「なんですって!?」
「何て馬鹿なことを、イーノック! 君は自分が何を言っているのかわかってるのか!」
イーノックの婚約発表に金切り声を上げて、真っ先に激昂したのは母親だった。そして父親もまた、せっかく気に入った若者が魔女の忌み子ルーシーを娶ると聞いて、怒りを隠せない。
ソフィアは自分の耳を疑うように驚愕の表情となり、言葉を失っている。しかし、すぐまた普段通りの澄ました顔に戻る。だが心中の動揺だけはどうしても隠し切れていない。シルクのドレスをキュッと握り締め、なんとか心を鎮めようとしている様子だ。
予想通りの反応、とでもいうようにイーノックは朗らかな笑顔から一変。意を決した表情を作り上げて、話を続けた。今日集まってもらったのは、何も婚約発表と結婚の許可を得る為だけではない。もっと重要なことが残っている。
両親の怒りで空気が震えているように感じたルーシーは、恐ろしさのあまり身を縮める。それを優しく、甲斐甲斐しく抱き寄せて、安心させるようにイーノックが耳元で囁いた。
「大丈夫だよ、ルーシー。全部僕に任せてくれたら、君は自由になれる。だから僕を信じて」
「……イーノック」
こんなに嬉しいことはなかった。敵意から自分を守ってくれる人間が現れるなんて、まるで奇跡だ。ルーシーはイーノックの優しさに、全て身を委ねようと思った。彼なら信じられる。彼のことを考えるだけで、こんなにも胸の奥がぽかぽかと温かくなっていく。それだけ彼を信じている証拠なのだ。自分も彼に愛情を抱いている確かな証なのだ。
「彼女はあなた方にとって、都合の良い奴隷なんかじゃない。魔女の特徴? そんなものは言い訳です。私の故郷では、魔女はとても貴重で有り難い存在だ。魔女の力、知識、その全てが人間にとっての恩恵となっている」
この地域では魔女を嫌悪することが当然となっている。決してイーズデイル夫妻が異常なのではない。確かにルーシーにしてきた行ないが正当なものであったかどうかは別としても、この地域で魔女を忌み嫌うことはそれほど人々の心の中に根付いた本能のようなものだった。
だからこそ、一見まともな言葉を述べているイーノックが正義と思われるだろうが、ここイーズデイル家ではそれがまかり通らないのが実情だ。若者の主張を聞いて、夫妻が反省するかと思いきや、怒りで顔一杯に紅潮していくばかりだ。
「くだらん! 君の故郷がどうであれ、ここは違う! 我々は魔女を決して許さない。ここはそうやって生きてきた! 魔女の恩恵? そんなもの無くても、人間の力だけで十分にやっていける。魔女は異端者だ。神に対する冒涜なのだ!」
「そうよ! 魔女として生まれてきた時点で、それはもはや私達と同じ人間ではないの! 別種の生物、人間の形をした化け物よ!」
「なんて酷いことを……っ! あなた方は我が子を愛したことがないのか……っ!」
「私達の娘は、ここにいるソフィアただ一人だけだ!」
夫妻の言葉にイーノックは正直、ショックを隠せなかった。家の者全てがルーシーを嫌悪していたことはさすがにわかっていたが、ここまで頑なに魔女を拒絶するとは思っていなかったのだ。話せばわかる、和解できると思っていた自分が甘かったと今になって後悔する。
イーノックはふと、抱き締めて守ろうとしている少女を見た。小さくなって震えているが、涙を一滴も流してはいない。そんな彼女の様子を見て心が痛くなった。この少女は、幼い頃から……いや。生まれて来た時から今に至るまで、ずっとこの悪意をぶつけられて生きて来たのかと思うと、いたたまれない気持ちになる。
やはりこんな所にいてはダメだ。
「そうまでして忌み嫌う彼女のことを、どうして今も手放さないんです? そんなに嫌っているのなら、どこかへ養子にでも出せば良かったでしょうに」
失望と怒りで半ば我を忘れていたイーノックは、言ってから後悔する。こんなセリフをルーシーに聞かせるものではなかった。なんて配慮が足りなかったんだとルーシーを見るが、それでも彼女の表情は変わらない。なんということだろう。彼女は悪意ある言葉に慣れ過ぎてしまったのだ。こんな言葉では、彼女の心は動揺すらしなくなっている。なんて悲しいことだろう、とイーノックは情けなくなってきた。ルーシーよりもずっと、自分の精神が参って来てしまっていた。ここは悪意の溜まり場だ。
「うちから魔女を外に出してしまって、もし魔女を放った家として異端者扱いされたらどうする! 『それ』は永遠にイーズデイルから出さない。一生ここで奴隷として生きていくのだ! 『それ』がこの家に魔女として生まれて来たから悪い!」
「勝手なことを」
ーー平行線だ。彼等に魔女の存在を正当化させる術は、もうない。こうなればもはや最終手段に出るしか道はなかった。イーノックは、出来れば実行したくなかったが、こうまで夫妻がルーシーに固執するというのなら仕方ない。
「わかりました。それじゃあ今後はーー」
「待って、ください!」
初めて言葉を発した。家族の前では失礼をしないように、余計なことは決して口にしてはならないと強く言われていたが、どうしてもルーシーは見過ごせなかった。ここできちんと言わなければ、きっとずっと後悔してしまう。
勇気を出して、自分の思いを言葉に乗せた。
「……お騒がせして、申し訳ありませんでした。私がイーノックさんの優しさに甘えてしまったばかりに、ご主人様やご家族……イーノックさんに迷惑をかけてしまいました。全ては私の不手際です。イーノックさんは誤解なさっているだけなんです」
「ルーシー? 何を言ってるんだい」
ルーシーはイーノックから離れて、部屋の片隅へと移動する。両手を前に添えて、姿勢を正した。服の感触が手に伝わる。こんなに上質な生地の服を着たことは初めてだから、ずっと触っていたいと思う。でも、この服とは今日でお別れになる。……イーノックとも。
ルーシーは上半身を曲げて、お辞儀をした。ずっと下を向いて生きて来たから、この角度を保つことにも随分慣れた。
「私がイーズデイルで酷い扱いを受けていると、誤解をなさっておいでです。私は魔女。こういった扱いをされて当然の身なのです。ですから、イーノックさんに謝罪をすると共に……彼との婚約も……なかったことにさせていただこうと、思います」
「ルーシー! 本気で言ってるのか!?」
イーノックの悲痛な叫びが応接室に響き渡る。今になって胸がちくちくと痛み出した。自分に対して浴びせられた言葉には、何も感じなかったはずなのに。
ルーシーはわずかに微笑み、そして告げる。
「私なんかの為に、イーズデイル家との取引を無かったことにしないでください。今まで通り……とはいかないかもしれませんが、せっかくお互いに商いが成立していたのですから。私のことは忘れて、ご主人様との仕事仲間として、これからもお付き合いを続けてください」
それから今度は両親に向けて深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。罰は私一人で受けますので、どうかイーノックさんとの口論を……」
「わかったわかった! お前が喋ると背筋がゾッとする。もう喋るな! イーノックとのこともだ。お前達の馬鹿馬鹿しい婚約話を無かったことにするというのなら、お前一人の罰だけで勘弁してやる! それでいいな、イーノック」
「いやっ、……でもっ!」
イーズデイル夫妻の冷ややかな中に鋭い怒りのある表情、ルーシーの儚げな微笑、それらを見てもなお反論出来なかった自分が本当に情けなかった。ここでイーズデイルとの取引をやめて、ルーシーと駆け落ちするという宣言すら口に出すことが出来なかった。
ルーシーは察したのだろう。自分が仕事を放り出してまで、ルーシーとの愛に生きようとすることを。それでも良かったと、あの瞬間は本気で思えたのに。
いざ職を失った後の生活のことを考えたら、早まらなくて良かったと思っている自分がとても矮小に思えた。
「婚約の件は……、無かった、ということで。今後も……良いお付き合いを、よろしくお願いします……」
イーノックの弱々しい宣言により、この場はお開きとなった。夫妻はさっさと応接室を出て行って、執事のロックウェルが入れ替わりに入って来た。それからソフィアが立ち上がり、二人を見下すように冷たい視線を浴びせる。
「情けないわね……」と、一言。
イーノックは肩を竦めて、改めて自分のちっぽけな正義感に涙した。ルーシーは自分を守る為に色々としてくれた彼に、何か優しい言葉をかけたかったが出来ない。トドメを刺したのは自分なのだから。彼の愛情を無下にして、彼の優しさを裏切って、最後に彼を悲しませた。彼の正義をルーシーが否定したようなものだ。
執事のロックウェルの方を見て、彼が首を縦に振ったので、ルーシーはそのまま静かに応接室を出て行った。
(ーーごめんなさい、イーノック。でも、こうするしか他に無かったの。本当にごめんなさい)