残酷な描写あり
29 「裏切り」
それから一年の時が過ぎ、ルーシーが十七歳になった頃ーー。
イーノックと妹ソフィアとの婚約が発表された。寝耳に水のことだった。婚約騒ぎがあってから、ルーシーは一度もイーノックと言葉を交わしていない。彼の方は償いをしようとしているのか、何度かルーシーを偶然見つけては声をかけようとしていたが、慌てて逃げた。ルーシーはイーノックを避けてきたのだ。
もしまた彼と仲良くしているところを誰かに見られでもしたら、今度こそイーズデイルとの取引が破綻してしまう。そうすると一番の収入源であったイーノックの雑貨屋は、赤字となってしまう恐れがある。
魔女との付き合いがあったことが町の者に知られてしまえば、それこそ彼のお店は潰れてしまうだろう。そう考えて、イーノックのことを忘れようと、彼の保身の為にこれ以上仲良くしてはいけないと自分に言い聞かせてきたルーシー。
しかしまさか、二人が婚約することになるなんて。全く予想していなかった出来事だ。しかも相手は妹のソフィア。他の女性とならきっと心から祝福していたことだろう。だが、自分のご主人様……実の妹と婚約するなんて、という思いの方が強かった。
(ソフィアが……、イーノックと婚約? 結婚するの? 彼がイーズデイル当主になる、ということ?)
あれだけのことがあったのだ。一体何をどうすれば、彼と……大切な娘との結婚を了承するような展開になるんだろう。不思議に思えてならなかったルーシーだったが、メイド達の世間話を小耳に挟んでようやく理解する。
「ソフィア様の婚約、めでたいねぇ! しかもあの色男とだなんて。お似合いの夫婦になるだろうさ」
「でも確か前にイーノックさんとご主人様、険悪な感じになってなかった? よく許したわね」
「それはそうだけど。でもロックウェル様の話によると、ご主人様はもうだいぶ前からソフィア様との婚約を考えていたそうなのよ」
だいぶ、前から? それは一体いつから……?
そう考えて、あの日のことを思い出す。イーノックが婚約発表をする為に、イーズデイルの親子全員を応接室に呼んだ日のことを。まだルーシーが応接室に入る前に、父親は最初にこう言っていた。
『もしかしてあの話を受けてくれる気になったのかな?』と、上機嫌に訊ねていた。
ルーシーはてっきり仕事の話をしているものだと思っていた。しかし執事の話と結びつければ、だいぶ前からソフィアとの婚約を考えていた、という話と繋がってくる。あくまでこじつけになってしまうが、どう考えたところで二人の婚約が決まったことに変わりない。
(ーーどうして? 胸が、痛い……っ!)
チクチクどころではなかった。胸がズキンズキンと激しく痛む。呼吸が荒くなる。変な汗が額や背中を伝って行く。目頭が熱くなってきて、視界が歪む。
ルーシーは走り出した。仕事を放って、走り出す。駆け出さずにはいられなかった。どうせ屋敷の敷地外へ出ることは出来ないが、遠くに走り去ってしまいたい気分になる。
(どうして? 私が婚約を断ったから? 私のせい?)
仮にそうだとしても、ソフィアとの婚約を受ける理由がわからない。
イーノックも知っているはずだ。ルーシーは妹からも、ずっと見下されて生きてきたことを。
(もう私のことを愛してないの? 私なんかより、今はソフィアのことを愛してるの?)
自分勝手なことを言ってるのはわかっていた。自分から婚約を白紙にしてもらっておいて、イーノックが止めようとしているのも聞かず、結婚よりもイーズデイルとの商いを優先させたのは、他の誰でもない。ルーシーなのに。
それでも悲しみがその事実を覆い隠す。今まで自分が悲劇のヒロインだなどと思ったことはない。ただ、蔑まされて当然の魔女として生まれてきたから、こういった扱いを受けるのは運命だと思っていたから。
だけど今回の件は違う。自分が魔女であることが、これほどの悲劇を生むなど考えたこともなかった。そもそも自分のことを娶ろうとしてくれる人間がいたこと自体、奇跡に近かったのに。
イーノックの優しさに、愛情に慣れてしまった報いだ。自分も幸せになれるかもしれない、などという幻想をほんの少しでも抱いてしまったから、こんな悲しみを感じる羽目になる。
期待をしてしまったから。希望を抱いてしまったから。だからそれが叶わなかった時のダメージがこんなにも大きいことを、ルーシーは知ってしまった。
「こんな思いをするくらいなら、誰も愛さなければよかった! こんなに辛いってわかっているなら、期待なんてしなければよかった!」
遠くに向かって、泣き叫ぶ。
「こんなに苦しい思いをするくらいなら! 私はもう! 誰も愛さない! 何も期待しない!」
小高い丘の上から、眼下に町が見える。
これだけ叫んでもルーシーの叫びは誰にも届いていないだろう。そう思うとより虚しくなった。より孤独を感じた。その場にくず折れて、草原の葉を握りしめる。地面に顔を伏せると、土の匂いがした。ポツポツと落ちる涙を、地面が吸い上げる。
やがて使用人の何人かが、ルーシーを見つけて連れ戻そうとした。それでも地面にしがみつくように抵抗する。今は放っておいて欲しいと思っても、彼等にとってはそんなこと関係なかった。仕事が残っている。男性の使用人がルーシーを左右から引っ張り上げて、やっと地面から離した。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったルーシーの顔を見ても、汚らしいと思うだけで誰一人として悲しみに暮れる少女の気持ちを慮(おもんぱか)ってくれはしない。
引きずるように屋敷に連れ戻されていくルーシー。
彼女ももう十七歳。ほとんど一端の大人だ。子供の頃のように、肩に担いで連行することが不可能なほどに、しっかりと体だけは成長している。
(せめて、理由が知りたい……っ!)
両手を引かれながら、ルーシーは心の中でつぶやく。
(私を愛していないなら、それでも別に構わない。だって私が悪いんだもの。でもせめて……、どうしてソフィアなのかだけでも、教えてほしいっ!)
ルーシーの願いは叶わない。
それは生まれた時からそうだった。
誰からも愛されず、優しくしてもらうこともない。
教養すら与えてもらえず、ただひたすらイーズデイルの為だけに捧げた人生ーー。
『魔女だから』
全てはその一言で片付いた。
理由は、それ一つで十分だったから。
家族に忌み嫌われ、愛されないのも仕方がなかった。
普通の人間として生まれてきた妹のソフィアだけが、全てを与えられることも仕方がない。
婚約までしたはずの恋人イーノックとの関係が終わるのも、仕方がないことだ。
初めて愛した男性が、妹と結婚することさえ……。
それもきっと、……仕方がなかったのだと。
感情が死にかけていたルーシーは、気付けば火刑台に縛り付けられていた。
周囲が騒がしい。投げた石が体のあちこちに当たって、血が滲む。
魔女だ、忌み子だと蔑む声、罵声。……もう聞き飽きた。
彼との関係が完全に終わってから、自分は何も感じなくなっていた。
もうずっと前から罵る声で傷付くことはなかったけれど、これほど心がざわつかなくなったのは初めてだ。
イーノックとソフィアが二人一緒にいるところを見ても、何も感じない。
生きた屍のように、深い隈(くま)だらけになった目は、全てが不毛だと悟ったように死んでいた。
だから今さら、擦り付けられた罪を着せられ、こうして処刑台に括り付けられても感じることは一つだけ。
(あぁ……、これでやっと終われるんだ……)
正直、何が起きたのかはわからない。
結婚式に着るはずだったソフィアの、純白のウェディングドレスが何者かの手によってズタズタにされていた。
そして当然、それは私の仕業だと騒がれた。
私は何もしていないと言っても、信じる人なんているわけがない。
ソフィアは私を指差して、こう告げた。
「こんなことをする人間、イーズデイル家には不要よ! 今すぐここから出て行って!」
ソフィアの怒りに、家族を始めとした周囲の者が賛同し、それはまるで燃え広がっていく炎のように人々に伝播していく。ソフィアから両親に、両親から使用人に、屋敷から町の方まで……。
やがて魔女ルーシーの悪行が、次々と広がっていく。
町で起きた悪いことは全て、魔女である私のせいになっていった。
イーズデイルの敷地から、一歩も出たことがないというのに。
こうしてイーズデイルの魔女は、家族と住民達の手によって、火刑に処された……。
ルーシー・イーズデイルという魔女は、わずか十八歳でこの世を去るーー。
何も感じなくなっていたはずのルーシーの中に、微かに燻(くすぶ)っていた憎しみの炎だけを残して……。
イーノックと妹ソフィアとの婚約が発表された。寝耳に水のことだった。婚約騒ぎがあってから、ルーシーは一度もイーノックと言葉を交わしていない。彼の方は償いをしようとしているのか、何度かルーシーを偶然見つけては声をかけようとしていたが、慌てて逃げた。ルーシーはイーノックを避けてきたのだ。
もしまた彼と仲良くしているところを誰かに見られでもしたら、今度こそイーズデイルとの取引が破綻してしまう。そうすると一番の収入源であったイーノックの雑貨屋は、赤字となってしまう恐れがある。
魔女との付き合いがあったことが町の者に知られてしまえば、それこそ彼のお店は潰れてしまうだろう。そう考えて、イーノックのことを忘れようと、彼の保身の為にこれ以上仲良くしてはいけないと自分に言い聞かせてきたルーシー。
しかしまさか、二人が婚約することになるなんて。全く予想していなかった出来事だ。しかも相手は妹のソフィア。他の女性とならきっと心から祝福していたことだろう。だが、自分のご主人様……実の妹と婚約するなんて、という思いの方が強かった。
(ソフィアが……、イーノックと婚約? 結婚するの? 彼がイーズデイル当主になる、ということ?)
あれだけのことがあったのだ。一体何をどうすれば、彼と……大切な娘との結婚を了承するような展開になるんだろう。不思議に思えてならなかったルーシーだったが、メイド達の世間話を小耳に挟んでようやく理解する。
「ソフィア様の婚約、めでたいねぇ! しかもあの色男とだなんて。お似合いの夫婦になるだろうさ」
「でも確か前にイーノックさんとご主人様、険悪な感じになってなかった? よく許したわね」
「それはそうだけど。でもロックウェル様の話によると、ご主人様はもうだいぶ前からソフィア様との婚約を考えていたそうなのよ」
だいぶ、前から? それは一体いつから……?
そう考えて、あの日のことを思い出す。イーノックが婚約発表をする為に、イーズデイルの親子全員を応接室に呼んだ日のことを。まだルーシーが応接室に入る前に、父親は最初にこう言っていた。
『もしかしてあの話を受けてくれる気になったのかな?』と、上機嫌に訊ねていた。
ルーシーはてっきり仕事の話をしているものだと思っていた。しかし執事の話と結びつければ、だいぶ前からソフィアとの婚約を考えていた、という話と繋がってくる。あくまでこじつけになってしまうが、どう考えたところで二人の婚約が決まったことに変わりない。
(ーーどうして? 胸が、痛い……っ!)
チクチクどころではなかった。胸がズキンズキンと激しく痛む。呼吸が荒くなる。変な汗が額や背中を伝って行く。目頭が熱くなってきて、視界が歪む。
ルーシーは走り出した。仕事を放って、走り出す。駆け出さずにはいられなかった。どうせ屋敷の敷地外へ出ることは出来ないが、遠くに走り去ってしまいたい気分になる。
(どうして? 私が婚約を断ったから? 私のせい?)
仮にそうだとしても、ソフィアとの婚約を受ける理由がわからない。
イーノックも知っているはずだ。ルーシーは妹からも、ずっと見下されて生きてきたことを。
(もう私のことを愛してないの? 私なんかより、今はソフィアのことを愛してるの?)
自分勝手なことを言ってるのはわかっていた。自分から婚約を白紙にしてもらっておいて、イーノックが止めようとしているのも聞かず、結婚よりもイーズデイルとの商いを優先させたのは、他の誰でもない。ルーシーなのに。
それでも悲しみがその事実を覆い隠す。今まで自分が悲劇のヒロインだなどと思ったことはない。ただ、蔑まされて当然の魔女として生まれてきたから、こういった扱いを受けるのは運命だと思っていたから。
だけど今回の件は違う。自分が魔女であることが、これほどの悲劇を生むなど考えたこともなかった。そもそも自分のことを娶ろうとしてくれる人間がいたこと自体、奇跡に近かったのに。
イーノックの優しさに、愛情に慣れてしまった報いだ。自分も幸せになれるかもしれない、などという幻想をほんの少しでも抱いてしまったから、こんな悲しみを感じる羽目になる。
期待をしてしまったから。希望を抱いてしまったから。だからそれが叶わなかった時のダメージがこんなにも大きいことを、ルーシーは知ってしまった。
「こんな思いをするくらいなら、誰も愛さなければよかった! こんなに辛いってわかっているなら、期待なんてしなければよかった!」
遠くに向かって、泣き叫ぶ。
「こんなに苦しい思いをするくらいなら! 私はもう! 誰も愛さない! 何も期待しない!」
小高い丘の上から、眼下に町が見える。
これだけ叫んでもルーシーの叫びは誰にも届いていないだろう。そう思うとより虚しくなった。より孤独を感じた。その場にくず折れて、草原の葉を握りしめる。地面に顔を伏せると、土の匂いがした。ポツポツと落ちる涙を、地面が吸い上げる。
やがて使用人の何人かが、ルーシーを見つけて連れ戻そうとした。それでも地面にしがみつくように抵抗する。今は放っておいて欲しいと思っても、彼等にとってはそんなこと関係なかった。仕事が残っている。男性の使用人がルーシーを左右から引っ張り上げて、やっと地面から離した。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったルーシーの顔を見ても、汚らしいと思うだけで誰一人として悲しみに暮れる少女の気持ちを慮(おもんぱか)ってくれはしない。
引きずるように屋敷に連れ戻されていくルーシー。
彼女ももう十七歳。ほとんど一端の大人だ。子供の頃のように、肩に担いで連行することが不可能なほどに、しっかりと体だけは成長している。
(せめて、理由が知りたい……っ!)
両手を引かれながら、ルーシーは心の中でつぶやく。
(私を愛していないなら、それでも別に構わない。だって私が悪いんだもの。でもせめて……、どうしてソフィアなのかだけでも、教えてほしいっ!)
ルーシーの願いは叶わない。
それは生まれた時からそうだった。
誰からも愛されず、優しくしてもらうこともない。
教養すら与えてもらえず、ただひたすらイーズデイルの為だけに捧げた人生ーー。
『魔女だから』
全てはその一言で片付いた。
理由は、それ一つで十分だったから。
家族に忌み嫌われ、愛されないのも仕方がなかった。
普通の人間として生まれてきた妹のソフィアだけが、全てを与えられることも仕方がない。
婚約までしたはずの恋人イーノックとの関係が終わるのも、仕方がないことだ。
初めて愛した男性が、妹と結婚することさえ……。
それもきっと、……仕方がなかったのだと。
感情が死にかけていたルーシーは、気付けば火刑台に縛り付けられていた。
周囲が騒がしい。投げた石が体のあちこちに当たって、血が滲む。
魔女だ、忌み子だと蔑む声、罵声。……もう聞き飽きた。
彼との関係が完全に終わってから、自分は何も感じなくなっていた。
もうずっと前から罵る声で傷付くことはなかったけれど、これほど心がざわつかなくなったのは初めてだ。
イーノックとソフィアが二人一緒にいるところを見ても、何も感じない。
生きた屍のように、深い隈(くま)だらけになった目は、全てが不毛だと悟ったように死んでいた。
だから今さら、擦り付けられた罪を着せられ、こうして処刑台に括り付けられても感じることは一つだけ。
(あぁ……、これでやっと終われるんだ……)
正直、何が起きたのかはわからない。
結婚式に着るはずだったソフィアの、純白のウェディングドレスが何者かの手によってズタズタにされていた。
そして当然、それは私の仕業だと騒がれた。
私は何もしていないと言っても、信じる人なんているわけがない。
ソフィアは私を指差して、こう告げた。
「こんなことをする人間、イーズデイル家には不要よ! 今すぐここから出て行って!」
ソフィアの怒りに、家族を始めとした周囲の者が賛同し、それはまるで燃え広がっていく炎のように人々に伝播していく。ソフィアから両親に、両親から使用人に、屋敷から町の方まで……。
やがて魔女ルーシーの悪行が、次々と広がっていく。
町で起きた悪いことは全て、魔女である私のせいになっていった。
イーズデイルの敷地から、一歩も出たことがないというのに。
こうしてイーズデイルの魔女は、家族と住民達の手によって、火刑に処された……。
ルーシー・イーズデイルという魔女は、わずか十八歳でこの世を去るーー。
何も感じなくなっていたはずのルーシーの中に、微かに燻(くすぶ)っていた憎しみの炎だけを残して……。