残酷な描写あり
67 「甘受」
ライザの言葉により、しばしの沈黙が流れた。
やはり特に衝撃が強かったのはヴァルゴの方で、握り拳に力を込めて疲弊している様子だ。
(人間と繋がれば……、野生化……? そんなもの……、獣人族にとって恥以上の何物でもないではないか……)
獣人族にとって知性や理性の働かない獣は、家畜以下の扱いとなっていた。
家畜ならばまだ利用価値のある存在だが、ただ本能のまま他者に対して害をなすだけの存在には価値すらなく、むしろ討伐対象に等しい。
獣人族はプライドの高い生物だ。人間を遥かに上回る身体能力に、人間並の知性を持つ彼等は生物として非常に優れた素質を持っている。
そういった誇りを持っているからこそ、ただの野獣と成り果てた同族がいた場合――殺処分の対象となる。
思い返してみれば確かに、過去に事例があった。
理由はわからないが、同族の中から完全に理性を失ってしまった者が同族を殺して回るという事件が……。
そこにヴァルゴが立ち会ったわけではないが、討伐隊に加わった剣の師が話して聞かせてくれたことがある。
野獣と化したソレは、手足を地に付け走り回る獣そのものだったという。同族であることを完全に忘れ、敵意をむき出しにした鋭い牙、血に狂った眼光、だらしなく地面に涎を垂らしては自分達を威嚇していた。
その姿はもはや獣人族と呼べるものではなく、ただ巨躯なだけの狼であったと。
剣の師は語る。野獣となった狼族の男は、鎖国を貫くこの国に日頃から不信感を抱いていたと。
時折姿が見えない時は、こっそりと獣人国を抜け出し外の世界を満喫していたそうだ。
彼は師にとって親友であった。
何度も注意し、時には激しく口論したこともあったという。それでも外の世界に思いを馳せる彼は、国の掟に逆らっては外へ姿をくらましていたらしい。
最後に彼と話をした時に、師は不安を抱いたという。
外の世界で運命の出会いがあったと、彼はそう口にしていた。
だが次に再会した時には、彼は知性も理性も……師のことすら完全に喪失し、血に飢えた野獣となって獣人族の前に姿を現したそうだ。
なぜ彼がそうなってしまったのか、師は決してヴァルゴに教えてはくれなかった。
しかしライザの話を聞いて、仮説ではあるが真実めいた答えがヴァルゴの脳裏をよぎる。
(人間との恋慕の果てに、そいつは……)
遠い昔に聞いた師の話を思い出しながら、ヴァルゴが震えている時。
何度も名を呼ばれていることに、ハッとなって気が付く。
「大丈夫ですか、ヴァルゴ殿」
「あ、あぁ……問題ない。俺なら大丈夫だ……」
隣で座っているメリィも心配そうに見上げているが、今はその瞳をまともに見ることすら出来ずにいた。
(何を動揺している。最初から承知の上だったはずだろう……)
異種族である人間のメリィと、そんな関係になるはずがないと。
そもそも彼女の気持ちすら聞いていないのに、何を先走った妄想をしているのか。
メリィは純粋にヴァルゴの身を案じて、こんなにも心配してくれているというのに。
ヴァルゴは、そうやって必死に自分の想いをセーブしようと心掛けた。
そうすることで、ヴァルゴが抱えている欲望を打ち消す為に。それは性欲ではなく、ただ純粋にメリィを思ってのことだと言い聞かせる。
自信過剰で、行動的で、積極的な自分の性格はよく理解しているつもりだった。だからこそ、自分の気持ちを成就させようとしてしまうかもしれない自分の性格もよくわかっていた。
これ以上はいけない。
これからはただの「信頼できる友」であろうと、気持ちを切り替えなければ。
幸いにもメリィは気付いていないはず。
まさか自分が恋愛対象として見られているとは、思っていないはずだ。
それはどこか悲しい事実であり、同時に救いでもある。
貪欲な自分に付き合わせるわけにはいかないと、ヴァルゴは初めて抱いた愛情という気持ちを胸の奥底にしまい込んだ。
「……話はわかった。だが何度も言うが、俺とメリィにそういった感情は一切ない。メリィは通りすがりの俺に、ただ親切にしてくれただけだ。俺にとってもメリィは、獣人国を出て初めて親しくなった人間というだけ」
淡々と説明する。
事実しか口にしていないはずなのに、ヴァルゴはどこか空虚な気持ちになっていた。
今、自分は何の話をしているんだろう……?
「期限付きではあるが、俺は少しでも多く人間の住む世界を観光したい。そしてメリィは森を出て、外の世界を見てみたい。二人の目的が合致して、行動を共にしようとした……。事の顛末はそれだけだ。敵意や悪意があってメリィを森から出したわけではないことを、理解していただきたい」
ヴァルゴはそう言うなり、ライザに向かって頭を下げた。
下げながら、ヴァルゴは沈痛な面持ちでメリィを思う。
森の外に連れ出してやろう。
自分の気持ちに正直になったらいい。
メリィの願いを叶えてやりたい。
そんな聞こえの良い言葉を口にして、挙句どれも叶えることが出来なかった自分を恥じた。口だけの男と思われても仕方がない。偉そうに歯の浮くセリフを並べ立て、彼女の望みを一つも実現出来ない情けない男。
まさかこんなにも早く気持ちを曲げることになるなんて、ヴァルゴすら思わなかった。
(野生化の話を聞いて、怖気づいたか……)
メリィと共にいれば、彼女を傷付けるかもしれない。
旅路の果てに二人の間に愛情が芽生え、結ばれることを夢見たか。
(何が不純な気持ちは一切ない、だ。なければこんなことで折れるはずがないだろう)
どこまでも自己中心的だった自分の言動や行動に、ヴァルゴが内心で自己嫌悪しているところでメリィが口を開いた。
「ライザ様、どうかヴァルゴさんに飛竜(ワイバーン)を貸していただけませんか」
「……っ!?」
「飛竜(ワイバーン)を? それはまたどうしてですか」
メリィは自分の吐息が外に漏れないよう、必死にウィンプルを両手で押さえつけながら話し続ける。
「さっきヴァルゴさんが言ったように、少しでもたくさんの町や国を見て回る為にはどうしても時間が足りません。馬に乗って旅するわけにはいかないので、大きな体をしたヴァルゴさんを乗せて運んでもらえる飛竜(ワイバーン)なら……と。初めからそのつもりで、ヴァルゴさんはミリオンクラウズ公国へ向かっていたんです」
今度はメリィがテーブルに頭がぶつかる程に下げて、ライザに乞うた。
「私はこのままさっきの瓶に入れてもらって、森に帰ります。その方がみなさんも……、少しは安心だと思うので」
「メリィ……」
ヴァルゴは頭を下げたまま、同じ目線の位置となったメリィと顔を見合わせる。
彼女の顔は目元しか見えない。その目は申し訳なさそうに、遠慮気味に笑っていたものの、ヴァルゴには無理して笑顔を作っているようにしか見えなかった。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません、ヴァルゴさん。私が森に帰りさえすれば、ヴァルゴさんはただの観光客です」
胸が熱く、痛くなる。
メリィの優しさに?
自分の不甲斐なさに?
「わかりました。そういうことなら協力いたします。幽閉の魔女パラリスをここに」
「承知いたしました、ライザ様」
そう言って、素早くパラリスを呼びに行く浄化の魔女マルタ。
マルタを目で追いながら、メリィは静かに「感謝いたします」と礼を述べた。
柔らかく微笑むライザの隣では、せわしく椅子を前後に揺らしながらつまらなさそうな感想を愚痴るラガサがちょっかいをかけてくる。
「えええ? メリィはそれでいいの? 本当にぃ? そっちのデカ猫もさーあ? もっとこう、反抗的な態度とか取れなかったのぉ? なっさけなーい! がっかりだわー!」
「こら、ラガサ。そういうことを言うものじゃありませんよ」
迫力のない言い方で諫めるライザに、ラガサは出来の悪い子供のような態度で唇を突き出しながらブーブー言うに止めていた。
そんな主従関係のかけらもなさそうな二人のやり取りを前に、ヴァルゴとメリィはその間ずっと……互いに目線を合わせることはなかった。
やはり特に衝撃が強かったのはヴァルゴの方で、握り拳に力を込めて疲弊している様子だ。
(人間と繋がれば……、野生化……? そんなもの……、獣人族にとって恥以上の何物でもないではないか……)
獣人族にとって知性や理性の働かない獣は、家畜以下の扱いとなっていた。
家畜ならばまだ利用価値のある存在だが、ただ本能のまま他者に対して害をなすだけの存在には価値すらなく、むしろ討伐対象に等しい。
獣人族はプライドの高い生物だ。人間を遥かに上回る身体能力に、人間並の知性を持つ彼等は生物として非常に優れた素質を持っている。
そういった誇りを持っているからこそ、ただの野獣と成り果てた同族がいた場合――殺処分の対象となる。
思い返してみれば確かに、過去に事例があった。
理由はわからないが、同族の中から完全に理性を失ってしまった者が同族を殺して回るという事件が……。
そこにヴァルゴが立ち会ったわけではないが、討伐隊に加わった剣の師が話して聞かせてくれたことがある。
野獣と化したソレは、手足を地に付け走り回る獣そのものだったという。同族であることを完全に忘れ、敵意をむき出しにした鋭い牙、血に狂った眼光、だらしなく地面に涎を垂らしては自分達を威嚇していた。
その姿はもはや獣人族と呼べるものではなく、ただ巨躯なだけの狼であったと。
剣の師は語る。野獣となった狼族の男は、鎖国を貫くこの国に日頃から不信感を抱いていたと。
時折姿が見えない時は、こっそりと獣人国を抜け出し外の世界を満喫していたそうだ。
彼は師にとって親友であった。
何度も注意し、時には激しく口論したこともあったという。それでも外の世界に思いを馳せる彼は、国の掟に逆らっては外へ姿をくらましていたらしい。
最後に彼と話をした時に、師は不安を抱いたという。
外の世界で運命の出会いがあったと、彼はそう口にしていた。
だが次に再会した時には、彼は知性も理性も……師のことすら完全に喪失し、血に飢えた野獣となって獣人族の前に姿を現したそうだ。
なぜ彼がそうなってしまったのか、師は決してヴァルゴに教えてはくれなかった。
しかしライザの話を聞いて、仮説ではあるが真実めいた答えがヴァルゴの脳裏をよぎる。
(人間との恋慕の果てに、そいつは……)
遠い昔に聞いた師の話を思い出しながら、ヴァルゴが震えている時。
何度も名を呼ばれていることに、ハッとなって気が付く。
「大丈夫ですか、ヴァルゴ殿」
「あ、あぁ……問題ない。俺なら大丈夫だ……」
隣で座っているメリィも心配そうに見上げているが、今はその瞳をまともに見ることすら出来ずにいた。
(何を動揺している。最初から承知の上だったはずだろう……)
異種族である人間のメリィと、そんな関係になるはずがないと。
そもそも彼女の気持ちすら聞いていないのに、何を先走った妄想をしているのか。
メリィは純粋にヴァルゴの身を案じて、こんなにも心配してくれているというのに。
ヴァルゴは、そうやって必死に自分の想いをセーブしようと心掛けた。
そうすることで、ヴァルゴが抱えている欲望を打ち消す為に。それは性欲ではなく、ただ純粋にメリィを思ってのことだと言い聞かせる。
自信過剰で、行動的で、積極的な自分の性格はよく理解しているつもりだった。だからこそ、自分の気持ちを成就させようとしてしまうかもしれない自分の性格もよくわかっていた。
これ以上はいけない。
これからはただの「信頼できる友」であろうと、気持ちを切り替えなければ。
幸いにもメリィは気付いていないはず。
まさか自分が恋愛対象として見られているとは、思っていないはずだ。
それはどこか悲しい事実であり、同時に救いでもある。
貪欲な自分に付き合わせるわけにはいかないと、ヴァルゴは初めて抱いた愛情という気持ちを胸の奥底にしまい込んだ。
「……話はわかった。だが何度も言うが、俺とメリィにそういった感情は一切ない。メリィは通りすがりの俺に、ただ親切にしてくれただけだ。俺にとってもメリィは、獣人国を出て初めて親しくなった人間というだけ」
淡々と説明する。
事実しか口にしていないはずなのに、ヴァルゴはどこか空虚な気持ちになっていた。
今、自分は何の話をしているんだろう……?
「期限付きではあるが、俺は少しでも多く人間の住む世界を観光したい。そしてメリィは森を出て、外の世界を見てみたい。二人の目的が合致して、行動を共にしようとした……。事の顛末はそれだけだ。敵意や悪意があってメリィを森から出したわけではないことを、理解していただきたい」
ヴァルゴはそう言うなり、ライザに向かって頭を下げた。
下げながら、ヴァルゴは沈痛な面持ちでメリィを思う。
森の外に連れ出してやろう。
自分の気持ちに正直になったらいい。
メリィの願いを叶えてやりたい。
そんな聞こえの良い言葉を口にして、挙句どれも叶えることが出来なかった自分を恥じた。口だけの男と思われても仕方がない。偉そうに歯の浮くセリフを並べ立て、彼女の望みを一つも実現出来ない情けない男。
まさかこんなにも早く気持ちを曲げることになるなんて、ヴァルゴすら思わなかった。
(野生化の話を聞いて、怖気づいたか……)
メリィと共にいれば、彼女を傷付けるかもしれない。
旅路の果てに二人の間に愛情が芽生え、結ばれることを夢見たか。
(何が不純な気持ちは一切ない、だ。なければこんなことで折れるはずがないだろう)
どこまでも自己中心的だった自分の言動や行動に、ヴァルゴが内心で自己嫌悪しているところでメリィが口を開いた。
「ライザ様、どうかヴァルゴさんに飛竜(ワイバーン)を貸していただけませんか」
「……っ!?」
「飛竜(ワイバーン)を? それはまたどうしてですか」
メリィは自分の吐息が外に漏れないよう、必死にウィンプルを両手で押さえつけながら話し続ける。
「さっきヴァルゴさんが言ったように、少しでもたくさんの町や国を見て回る為にはどうしても時間が足りません。馬に乗って旅するわけにはいかないので、大きな体をしたヴァルゴさんを乗せて運んでもらえる飛竜(ワイバーン)なら……と。初めからそのつもりで、ヴァルゴさんはミリオンクラウズ公国へ向かっていたんです」
今度はメリィがテーブルに頭がぶつかる程に下げて、ライザに乞うた。
「私はこのままさっきの瓶に入れてもらって、森に帰ります。その方がみなさんも……、少しは安心だと思うので」
「メリィ……」
ヴァルゴは頭を下げたまま、同じ目線の位置となったメリィと顔を見合わせる。
彼女の顔は目元しか見えない。その目は申し訳なさそうに、遠慮気味に笑っていたものの、ヴァルゴには無理して笑顔を作っているようにしか見えなかった。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません、ヴァルゴさん。私が森に帰りさえすれば、ヴァルゴさんはただの観光客です」
胸が熱く、痛くなる。
メリィの優しさに?
自分の不甲斐なさに?
「わかりました。そういうことなら協力いたします。幽閉の魔女パラリスをここに」
「承知いたしました、ライザ様」
そう言って、素早くパラリスを呼びに行く浄化の魔女マルタ。
マルタを目で追いながら、メリィは静かに「感謝いたします」と礼を述べた。
柔らかく微笑むライザの隣では、せわしく椅子を前後に揺らしながらつまらなさそうな感想を愚痴るラガサがちょっかいをかけてくる。
「えええ? メリィはそれでいいの? 本当にぃ? そっちのデカ猫もさーあ? もっとこう、反抗的な態度とか取れなかったのぉ? なっさけなーい! がっかりだわー!」
「こら、ラガサ。そういうことを言うものじゃありませんよ」
迫力のない言い方で諫めるライザに、ラガサは出来の悪い子供のような態度で唇を突き出しながらブーブー言うに止めていた。
そんな主従関係のかけらもなさそうな二人のやり取りを前に、ヴァルゴとメリィはその間ずっと……互いに目線を合わせることはなかった。