終わりの色、始まりの意志。(アルフレッド)
夜の帳が降りた王国は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
舞踏練習会の終幕から数時間。
僕は自室に身を置き、ようやくひとりの時間を得ていた。
暖炉の炎はすでに消え、冷えた空気が窓の隙間から忍び込んでくる。
ソファにもたれながら、冷めかけた紅茶を口に含む。味はほとんどわからなかった。
舞踏練習会は──終わった。けれど、僕の頭の中には、今もあの光景がくっきりと浮かんでいる。
リアーナとエルンスト。彼らだけが、正しい曲を知らされていなかった。誰が仕掛けたかは、言うまでもないだろう。会場の誰もが、それを感じ取っていたはずだ。
にもかかわらず──彼らは動じなかった。
見事に踊りきってみせた。リアーナの揺るがぬ姿勢と、彼女を導くエルンストの冷静な判断。
絆だ、と感じた。互いを信じて任せ合える、そんな呼吸だった。
そして気づけば、僕はその姿に嫉妬していた。
その時僕の隣にいたのは、優雅に笑みをたたえたラリッサだった。
品格と才知に優れた、公爵家の令嬢。選ばれるべくして選ばれた未来の妃候補。
けれど彼女は、僕の「隣」にいるはずなのに、その存在を遠く感じていた。
紫のドレス。刺繍ひとつにまで気を配った、完璧な装い。
この国の慣習では夫婦、婚約者、それに準ずる関係であるものが伴って社交に出る際、互いの衣装に相手の色を取り入れる。それは形式的なものに過ぎないが。
僕は、あえてそれをしなかった。
ラリッサの紫を、僕は僕の衣装に入れなかった。
濃紺のコートには、彼女の色が一滴もない。これは偶然ではない。
彼女の態度。言葉。視線。そのどれもが、僕の「伴侶」としてではなく、「妃」という肩書きの獲得にしか目を向けていないと感じるようになっていたから。
ラリッサは常に「上」から人を見る。
それは彼女の育った環境──グレイ公爵家という、由緒正しき家柄がそうさせたのかもしれない。けれど、貴族の矜持と他人を見下すことは、決して同義ではない。
彼女の言葉には、ときおり無自覚な侮蔑が混ざる。それはエルンストに対してもよく見られた。
「ご自分の立ち位置、きちんと理解なさってるのね。わたくしに仕えるのを許してさしあげるわよ」
「侯爵家とはいえ、お継ぎにならいのでしょう? それなのに礼儀を弁えてくださる方で安心いたしましたわ」
本人としてはおそらく善意や褒めているつもりなのだろうが、そんな調子だ。だが彼女は、エルンストが努力と規律で今の地位を築き上げたことなど知らない。知ろうともしない。
あの無表情に見える彼が、誰よりも忠義に厚く、感情を言葉にすることに慎重で、そして──時に不器用なまでに人を守ろうとすることも。
それを、僕は知っている。幼いころから、ずっとそばにいたから。
物心がつく頃には、すでに僕の隣にはエルンストがいた。王宮で孤立しがちだった僕にとって、彼は唯一、飾らずに話せる相手だった。父王の前でだけは姿勢を正し、礼儀を忘れずにいた彼も、僕と二人きりになると無口ながらに本音を漏らすことがあった。
そして今日──冷静にリアーナを守る立ち姿を見て、あぁ、こいつは変わっていないと安心した。
同時に驚いたのは、彼がリアーナを見ている「目」だった。
「⋯⋯ふふ」
思わず笑いが漏れた。そうか、エルンストが。あの無表情を保ったまま、心の中であたふたしてるのかと思うと、なんとも面白い。
「どうかしたか?」
ちょうど扉がノックされ、入ってきたのは当の本人だった。気配を消すのは昔から得意だが、今も変わらず、いつの間にかそばにいる。
「いや、なんでもないよ。君が今、心を奪われている人のことを考えていた、とかじゃないよ。多分ね」
「⋯⋯くだらない」
ふ、と表情が揺れたような気がして、僕はまたひとつ笑いをこらえる。こういうやりとりが、僕たちの間では昔からの定番だ。
──気付いていないとでも? エルンスト。
あの「仕掛け」に対して、彼は一瞬も迷わなかった。リアーナが動揺しないように。誰にも悟られないように。まるで、当然のように立ち振る舞っていた。
その視線は、ただの警戒でも義務でもなかった。言葉にしないだけで、君はもう、彼女に惹かれているんだと思う。
「そっかそっか、くだらない。でも、まんざらでもない顔してる」
「⋯⋯からかうな」
「僕はただ、友人として応援してるだけだよ。いいことじゃないか」
その言葉に、エルンストのまなざしが微かに揺れた。けれど、彼は何も答えなかった。
まあ、彼の沈黙は肯定に近い。
「──ねぇ、エルンスト。君は、ラリッサのこと、どう思ってる?」
僕の声色が少し真剣になると、彼も目を細める。
「俺が答えなくても、お前はもう決めてる」
「そうかな?」
「お前は誰よりもよく見てる。ラリッサ嬢の、目の奥も、言葉の選び方も」
そう、僕は──見てきた。
今日だけじゃない。ずっと前から。ラリッサが他者を「駒」として見る眼差し。計算ずくの言葉。自分を過信しすぎた立ち振る舞い。
彼女は、公爵令嬢という地位を、自分の中で神聖不可侵なものだと思っている。
そのくせ、焦ると取り巻きに命じて裏工作をする。今日だって、舞踏の曲をすり替えたのは明らかに彼女側の手の者だ。自分では手を下さず、けれど結果が思う通りでなければ、部下を責め立てる。
「僕はね、彼女を「ふさわしくない」と思い始めている」
「なら、伝えるべきだ」
「伝えるさ。その前に父上に相談しないとね。父上は、僕の言葉にすぐ動く人じゃないけど、それでも、黙ってるよりはいい」
エルンストが一度だけ、頷いた。
炎がない暖炉を見つめながら、僕は静かに言葉を続けた。
「ラリッサの色を、衣装に使わなかったのは⋯⋯多分、こうなる予感があったからだよ」
「そうだろうな。アルフレッドは昔からそういうところがある」
「うん。あの紫を身につける気には、どうしてもなれなかった。形式を踏むのが嫌だったんじゃない。ただ──そうすることで、僕の気持ちをごまかすような気がしたんだ」
深い紺を基調に、王家の象徴色である金糸だけをあしらったコート。冷静に見れば、まるで「対等ではない」とでも言いたげな構図だったはずだ。
「ラリッサは気付いていないふりをした。彼女は場の支配に関しては抜かりないからね」
「だが、無理を通すほど、脆くなる」
エルンストの言葉に、僕はふっと息を吐く。
「そう思う?」
「取り繕うことに慣れた人間は、崩れる時も速い。少なくとも、今日のラリッサ嬢はそう見えた」
それは僕にも感じていたことだ。舞踏練習会の社交の時間、取り巻きに厳しく詰め寄っていた彼女の姿は、まさに“焦り”だった。自分の計画通りにいかず、その苛立ちを下に向けて発散する様子は、妃像からはほど遠い。
──僕が求めるのは、見せかけの品位じゃない。
かつては、彼女の堂々たる物言いが頼もしくさえ思えたこともあったが、たとえ出自が高くとも、他人を見下し、内心を冷たく切り捨てるような者と共に歩んではいけない。
隣には、驕りではなく、志のある人にいて欲しい。
「お前が再考したいと本気で言うなら、俺は止めない。だが、その責任を受ける覚悟はしておくべきだ」
その言葉友人としてではなく──側近としてのものだった。
さすがだ。肝心なとき、彼は決して甘くはない。
僕は空になったティーカップを指先で軽く転がしながら、ふと目を細めた。
「⋯⋯ねぇ、エルンスト。僕がリアーナ嬢を選んだらどう思う?」
わざとらしく軽い声で言ってみせた僕に、エルンストはティーカップを置く手を止め、目を細めてこちらを見た。
「その冗談は面白くない。口にするには、軽率すぎる」
呆れたように眉をひそめながらも、声色に完全な怒気はない。けれど、それがむしろ真剣に聞こえた。やれやれ、相変わらず冗談の通じない男だ。
「やだな、僕はただ──」
ひと呼吸置いて、からかうように続けた。
「──君が落とすには惜しい子だな、と思っただけだよ?」
「⋯⋯っ」
エルンストが言葉を詰まらせる。その沈黙すら、面白い。
「ま、どっちにしても。考え直す時が来てるってことだから」
そう呟いて、僕は冷めた紅茶に目を落とす。
言葉に出すことで、決意が形になっていく。
まだ先の話だとしても、今日──少なくとも、僕の中で「あるべき未来」がひとつ、終わりを迎えたのは確かだった。
エルンストが退出してしばらく、僕はひとりソファに身を沈めたまま、天井を仰いでいた。
「まいったな⋯⋯」
誰にともなく呟く。
恋とか、そういう話じゃない。弱きものに手を差し伸べ、標的にされても折れない⋯⋯枯れない。
僕もそうありたいと思った。
──まず、小石を拾うように、草を抜くように⋯⋯自分の足元を整えないとね。
翌朝、父の執務室へ赴くとき、僕は深呼吸をひとつした。
父はいつも通り、書類に目を落とし、筆を走らせていた。その姿に息を呑む。たったひとつの表情で、すべてを圧倒する存在。
「どうした、アルフレッド。朝から顔が固いな」
「父上。少し、お時間をいただけますか。ご相談したいことがあります」
「ふむ?」
目を上げた父の視線は鋭く、すぐに僕の真意を見抜いた。
「ラリッサ・グレイ嬢の件だな」
僕は驚きながらも、頷く。
「はい──彼女の行動を、幾度か観察しておりました。舞踏練習会の一件も含め、ふさわしさについて。再考の余地があるかと考えております」
「なるほど」
父は、机の上に筆を置いた。静寂が広がる。決して怒りではない。むしろ、興味深そうに、僕の顔をじっと見つめてくる。
「理由を述べよ」
僕は一歩前に出て、丁寧に、けれど隠すことなく口にした。
ラリッサが周囲をどう扱っているか。エルンストへの態度。リアーナに対する敵意と、それに伴う行動。そして──それらを冷静に観察したうえで、僕が抱いた感情と、婚約者としての懸念。
「格式は十分でしょう。しかし、人として、共に立つ相手としては──僕は、彼女に誠実さを見出すことができません」
父はしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「お前がそこまで語るとはな。少し意外だ」
「未熟な点は承知しております。ですが、いずれ僕は選ばれるだけの存在ではいられません。自らの意志で歩む道を、持たねばなりませんから」
「⋯⋯よくぞ言った」
父の声は、どこか満足げだった。
「よいだろう。公爵家との関係は重いものだ。だが、それ以上に大切なのは、国そのものの均衡と、王家の信義だ。調査を進めさせる。正式な判断はそれからだ」
「ありがとうございます」
深く頭を下げると、胸の内にわずかな安堵が灯った。
何かが、ひとつ終わり、ひとつ始まった。
たった一歩。されど、大きな一歩。
今後どうなるのかは分からない。だが、僕はもう、立ち止まらない。
誰かの色を纏わずとも、自分の意思で立つ者。
そんな存在に、僕はなりたいのだ。
そう──あの夜、誰よりも強く、誠実に踊りきった、あの少女のように。
舞踏練習会の終幕から数時間。
僕は自室に身を置き、ようやくひとりの時間を得ていた。
暖炉の炎はすでに消え、冷えた空気が窓の隙間から忍び込んでくる。
ソファにもたれながら、冷めかけた紅茶を口に含む。味はほとんどわからなかった。
舞踏練習会は──終わった。けれど、僕の頭の中には、今もあの光景がくっきりと浮かんでいる。
リアーナとエルンスト。彼らだけが、正しい曲を知らされていなかった。誰が仕掛けたかは、言うまでもないだろう。会場の誰もが、それを感じ取っていたはずだ。
にもかかわらず──彼らは動じなかった。
見事に踊りきってみせた。リアーナの揺るがぬ姿勢と、彼女を導くエルンストの冷静な判断。
絆だ、と感じた。互いを信じて任せ合える、そんな呼吸だった。
そして気づけば、僕はその姿に嫉妬していた。
その時僕の隣にいたのは、優雅に笑みをたたえたラリッサだった。
品格と才知に優れた、公爵家の令嬢。選ばれるべくして選ばれた未来の妃候補。
けれど彼女は、僕の「隣」にいるはずなのに、その存在を遠く感じていた。
紫のドレス。刺繍ひとつにまで気を配った、完璧な装い。
この国の慣習では夫婦、婚約者、それに準ずる関係であるものが伴って社交に出る際、互いの衣装に相手の色を取り入れる。それは形式的なものに過ぎないが。
僕は、あえてそれをしなかった。
ラリッサの紫を、僕は僕の衣装に入れなかった。
濃紺のコートには、彼女の色が一滴もない。これは偶然ではない。
彼女の態度。言葉。視線。そのどれもが、僕の「伴侶」としてではなく、「妃」という肩書きの獲得にしか目を向けていないと感じるようになっていたから。
ラリッサは常に「上」から人を見る。
それは彼女の育った環境──グレイ公爵家という、由緒正しき家柄がそうさせたのかもしれない。けれど、貴族の矜持と他人を見下すことは、決して同義ではない。
彼女の言葉には、ときおり無自覚な侮蔑が混ざる。それはエルンストに対してもよく見られた。
「ご自分の立ち位置、きちんと理解なさってるのね。わたくしに仕えるのを許してさしあげるわよ」
「侯爵家とはいえ、お継ぎにならいのでしょう? それなのに礼儀を弁えてくださる方で安心いたしましたわ」
本人としてはおそらく善意や褒めているつもりなのだろうが、そんな調子だ。だが彼女は、エルンストが努力と規律で今の地位を築き上げたことなど知らない。知ろうともしない。
あの無表情に見える彼が、誰よりも忠義に厚く、感情を言葉にすることに慎重で、そして──時に不器用なまでに人を守ろうとすることも。
それを、僕は知っている。幼いころから、ずっとそばにいたから。
物心がつく頃には、すでに僕の隣にはエルンストがいた。王宮で孤立しがちだった僕にとって、彼は唯一、飾らずに話せる相手だった。父王の前でだけは姿勢を正し、礼儀を忘れずにいた彼も、僕と二人きりになると無口ながらに本音を漏らすことがあった。
そして今日──冷静にリアーナを守る立ち姿を見て、あぁ、こいつは変わっていないと安心した。
同時に驚いたのは、彼がリアーナを見ている「目」だった。
「⋯⋯ふふ」
思わず笑いが漏れた。そうか、エルンストが。あの無表情を保ったまま、心の中であたふたしてるのかと思うと、なんとも面白い。
「どうかしたか?」
ちょうど扉がノックされ、入ってきたのは当の本人だった。気配を消すのは昔から得意だが、今も変わらず、いつの間にかそばにいる。
「いや、なんでもないよ。君が今、心を奪われている人のことを考えていた、とかじゃないよ。多分ね」
「⋯⋯くだらない」
ふ、と表情が揺れたような気がして、僕はまたひとつ笑いをこらえる。こういうやりとりが、僕たちの間では昔からの定番だ。
──気付いていないとでも? エルンスト。
あの「仕掛け」に対して、彼は一瞬も迷わなかった。リアーナが動揺しないように。誰にも悟られないように。まるで、当然のように立ち振る舞っていた。
その視線は、ただの警戒でも義務でもなかった。言葉にしないだけで、君はもう、彼女に惹かれているんだと思う。
「そっかそっか、くだらない。でも、まんざらでもない顔してる」
「⋯⋯からかうな」
「僕はただ、友人として応援してるだけだよ。いいことじゃないか」
その言葉に、エルンストのまなざしが微かに揺れた。けれど、彼は何も答えなかった。
まあ、彼の沈黙は肯定に近い。
「──ねぇ、エルンスト。君は、ラリッサのこと、どう思ってる?」
僕の声色が少し真剣になると、彼も目を細める。
「俺が答えなくても、お前はもう決めてる」
「そうかな?」
「お前は誰よりもよく見てる。ラリッサ嬢の、目の奥も、言葉の選び方も」
そう、僕は──見てきた。
今日だけじゃない。ずっと前から。ラリッサが他者を「駒」として見る眼差し。計算ずくの言葉。自分を過信しすぎた立ち振る舞い。
彼女は、公爵令嬢という地位を、自分の中で神聖不可侵なものだと思っている。
そのくせ、焦ると取り巻きに命じて裏工作をする。今日だって、舞踏の曲をすり替えたのは明らかに彼女側の手の者だ。自分では手を下さず、けれど結果が思う通りでなければ、部下を責め立てる。
「僕はね、彼女を「ふさわしくない」と思い始めている」
「なら、伝えるべきだ」
「伝えるさ。その前に父上に相談しないとね。父上は、僕の言葉にすぐ動く人じゃないけど、それでも、黙ってるよりはいい」
エルンストが一度だけ、頷いた。
炎がない暖炉を見つめながら、僕は静かに言葉を続けた。
「ラリッサの色を、衣装に使わなかったのは⋯⋯多分、こうなる予感があったからだよ」
「そうだろうな。アルフレッドは昔からそういうところがある」
「うん。あの紫を身につける気には、どうしてもなれなかった。形式を踏むのが嫌だったんじゃない。ただ──そうすることで、僕の気持ちをごまかすような気がしたんだ」
深い紺を基調に、王家の象徴色である金糸だけをあしらったコート。冷静に見れば、まるで「対等ではない」とでも言いたげな構図だったはずだ。
「ラリッサは気付いていないふりをした。彼女は場の支配に関しては抜かりないからね」
「だが、無理を通すほど、脆くなる」
エルンストの言葉に、僕はふっと息を吐く。
「そう思う?」
「取り繕うことに慣れた人間は、崩れる時も速い。少なくとも、今日のラリッサ嬢はそう見えた」
それは僕にも感じていたことだ。舞踏練習会の社交の時間、取り巻きに厳しく詰め寄っていた彼女の姿は、まさに“焦り”だった。自分の計画通りにいかず、その苛立ちを下に向けて発散する様子は、妃像からはほど遠い。
──僕が求めるのは、見せかけの品位じゃない。
かつては、彼女の堂々たる物言いが頼もしくさえ思えたこともあったが、たとえ出自が高くとも、他人を見下し、内心を冷たく切り捨てるような者と共に歩んではいけない。
隣には、驕りではなく、志のある人にいて欲しい。
「お前が再考したいと本気で言うなら、俺は止めない。だが、その責任を受ける覚悟はしておくべきだ」
その言葉友人としてではなく──側近としてのものだった。
さすがだ。肝心なとき、彼は決して甘くはない。
僕は空になったティーカップを指先で軽く転がしながら、ふと目を細めた。
「⋯⋯ねぇ、エルンスト。僕がリアーナ嬢を選んだらどう思う?」
わざとらしく軽い声で言ってみせた僕に、エルンストはティーカップを置く手を止め、目を細めてこちらを見た。
「その冗談は面白くない。口にするには、軽率すぎる」
呆れたように眉をひそめながらも、声色に完全な怒気はない。けれど、それがむしろ真剣に聞こえた。やれやれ、相変わらず冗談の通じない男だ。
「やだな、僕はただ──」
ひと呼吸置いて、からかうように続けた。
「──君が落とすには惜しい子だな、と思っただけだよ?」
「⋯⋯っ」
エルンストが言葉を詰まらせる。その沈黙すら、面白い。
「ま、どっちにしても。考え直す時が来てるってことだから」
そう呟いて、僕は冷めた紅茶に目を落とす。
言葉に出すことで、決意が形になっていく。
まだ先の話だとしても、今日──少なくとも、僕の中で「あるべき未来」がひとつ、終わりを迎えたのは確かだった。
エルンストが退出してしばらく、僕はひとりソファに身を沈めたまま、天井を仰いでいた。
「まいったな⋯⋯」
誰にともなく呟く。
恋とか、そういう話じゃない。弱きものに手を差し伸べ、標的にされても折れない⋯⋯枯れない。
僕もそうありたいと思った。
──まず、小石を拾うように、草を抜くように⋯⋯自分の足元を整えないとね。
翌朝、父の執務室へ赴くとき、僕は深呼吸をひとつした。
父はいつも通り、書類に目を落とし、筆を走らせていた。その姿に息を呑む。たったひとつの表情で、すべてを圧倒する存在。
「どうした、アルフレッド。朝から顔が固いな」
「父上。少し、お時間をいただけますか。ご相談したいことがあります」
「ふむ?」
目を上げた父の視線は鋭く、すぐに僕の真意を見抜いた。
「ラリッサ・グレイ嬢の件だな」
僕は驚きながらも、頷く。
「はい──彼女の行動を、幾度か観察しておりました。舞踏練習会の一件も含め、ふさわしさについて。再考の余地があるかと考えております」
「なるほど」
父は、机の上に筆を置いた。静寂が広がる。決して怒りではない。むしろ、興味深そうに、僕の顔をじっと見つめてくる。
「理由を述べよ」
僕は一歩前に出て、丁寧に、けれど隠すことなく口にした。
ラリッサが周囲をどう扱っているか。エルンストへの態度。リアーナに対する敵意と、それに伴う行動。そして──それらを冷静に観察したうえで、僕が抱いた感情と、婚約者としての懸念。
「格式は十分でしょう。しかし、人として、共に立つ相手としては──僕は、彼女に誠実さを見出すことができません」
父はしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「お前がそこまで語るとはな。少し意外だ」
「未熟な点は承知しております。ですが、いずれ僕は選ばれるだけの存在ではいられません。自らの意志で歩む道を、持たねばなりませんから」
「⋯⋯よくぞ言った」
父の声は、どこか満足げだった。
「よいだろう。公爵家との関係は重いものだ。だが、それ以上に大切なのは、国そのものの均衡と、王家の信義だ。調査を進めさせる。正式な判断はそれからだ」
「ありがとうございます」
深く頭を下げると、胸の内にわずかな安堵が灯った。
何かが、ひとつ終わり、ひとつ始まった。
たった一歩。されど、大きな一歩。
今後どうなるのかは分からない。だが、僕はもう、立ち止まらない。
誰かの色を纏わずとも、自分の意思で立つ者。
そんな存在に、僕はなりたいのだ。
そう──あの夜、誰よりも強く、誠実に踊りきった、あの少女のように。