父の誕生日 ②
父が倒れたのは、それからすぐ後のことだった。突然ひどい目眩に襲われ、立ち上がれなくなってしまったのだ。
わたしと母が驚いて呼びかけると、父はどう聞いても大丈夫じゃないでしょうと言いたくなるような声で「大丈夫だ」と言った。
「〝大丈夫〟なわけないでしょ!? 顔色だって悪いのに」
わたしはそんな父を叱りつけた。父の体調がすぐれないのは誰が見ても明らかで、もうパーティーどころではないだろうとわたしも思った。というか、最初から無理をして出るべきではなかったのだ。
「パパ……、今日はもう帰って休んだら? そんな状態じゃ、もうパーティーどころじゃないでしょ?」
「そうね、私も絢乃の意見に賛成。あなた、帰りましょう? すぐに迎えを呼ぶわ」
「……ああ、そうだな。申し訳ないが、そうさせてもらうことにするよ」
母は家で待機していたわが家の専属運転手に電話をかけて迎えを頼むと、わたしにも頼みごとをした。父が途中でいなくなると、会場にいる人たちが混乱すると思う。だから父の代理として会場に残り、頃合いを見て閉会の挨拶をしてほしい、と。
「うん、分かった。任せて。ママ、パパのことよろしくね」
わたしは母の頼みごとを二つ返事で快諾した。責任重大だったけれど、こうなったらもうやるしかない、と腹を括った。
――それから十数分後に運転手の寺田さんが到着し、母とともに父の体を支えて会場を後にした。多分、彼が運転してきた黒塗りのセンチュリーはビルの地下駐車場に止めてあったのだろう。
「お嬢さまは一緒に帰らないのか」と彼が不思議そうに訊ねたので、母から頼まれたことを話すと納得してくれた。
その五分後にセンチュリーが夜の丸ノ内の街に紛れていくのを、わたしはホールのガラス窓越しに眺めていた。
その後はやっぱり、父の具合を心配する人たちが押しかけてきて、わたしはその対応に追われた。それも落ち着いた頃、わたしはようやく自分がいたテーブルに戻ろうとしたのだけれど……。父が倒れたショックからか、対応疲れからか軽い目眩を起こしてしまった。
「――絢乃さん、大丈夫ですか!?」
倒れそうになったわたしを支えてくれたのは、慌てて飛んできた貢だった。――あ、この人はさっきの……。わたしの名前を知っていたことは不思議だったけれど、彼が助けてくれたのが偶然だとは思えなかった。
「あ……、ありがとう。大丈夫だよ、ちょっとクラッときただけ」
「よかった。少し休まれた方がいいんじゃないですか? 絢乃さん、何か召し上がりました?」
「うん。パパがあんなことになる前に、けっこういっぱい食べてたから」
わたしがそう答えると、彼はホッとしたように「そうですか」と笑いかけてくれた。
父が倒れたばかりだというのに、わたしまで倒れていられなかった。わたしには母から託された任務があったし、初対面の彼にも心配をかけるわけにはいかなかったから。
「――じゃあ、絢乃さんはここで座ってお待ちください。何か甘いものと飲み物をもらってきます」
「えっ、いいの? 何か申し訳ないなぁ」
出会ったばかりの、しかも助けてもらったばかりの彼にそこまで気を遣わせてしまい、わたしはちょっと罪悪感をおぼえたけれど。彼はやんわりと首を横に振った。
「いいんです。僕も食べたいので、そのついでですから。――飲み物は何になさいますか?」
「そう? ありがとう。じゃあ……オレンジジュースにしようかな」
「分かりました」
彼は頷き、ビュッフェコーナーへいそいそと歩いていった。
「あの人、スイーツ男子なんだ……。なんか可愛いかも」
その後ろ姿を眺めながら、わたしは心がほっこりするのを感じた。倒れかけたのを支えてもらった時には、心臓がドキンと脈打つのを感じたはずなのに。
「そういえばわたし、まだ彼の名前聞いてない」
もしかしたら、この夜限りの出会いだったかもしれないのに、名前を知りたくなったのはなぜだろう? ……きっとこの時すでに、わたしは彼との縁を感じていたのだろう。
――父の状態が心配だったわたしは、彼を待っている間に母のスマホにLINEでメッセージを送った。
〈もう家に着いた? パパの様子はどう?〉
すぐに既読はついたけれど、なかなか返事は来なかったので余計に心配が募った。
「――お待たせしました! 絢乃さん、どうぞ」
それからしばらくして、トレーを抱えた貢がテーブルに戻ってきた。二人分のデザート皿とドリンクを運ぶのに、会場にあったトレーを借りたのだろう。
「ありがとう。――あ、そういえば貴方の名前は……」
小ぶりなケーキ四種盛りのお皿とオレンジジュースのグラスを受け取ったわたしは、改めて彼に名前を訊ねた。
「ああ、そうでしたね。申し遅れました。僕は篠沢商事総務課の社員で、桐島貢と申します。今日は課長の代理として出席させて頂いてます」
彼はアイスコーヒーで喉を潤すと、丁寧に自己紹介をしてくれた。
「桐島さんっていうんだ。代理だったんだね。そんなの、イヤなら断ればよかったのに」
「いえ、本当は断るつもりだったんですけど。課長の強引さに押し負けて引き受けざるを得なかったというか……。他に引き受けてくれる人もいませんでしたし」
彼は困ったような表情で、代理出席の裏側を打ち明けた。……確かに彼はお人好しに見えるけれど(そして実際に〝ド〟がつくほどのお人好しだったけど)、それをいいことに言うことを聞かせる上司って、これじゃまるで……。
「桐島さん、それってパワハラって言わない?」
「そう……なりますよねぇ」
わたしが眉をひそめると、彼はあっさりその事実を肯定した。
「でも結果的には、今日この代理出席を引き受けてよかったかなぁとも思ってます。こうして絢乃さんと知り合う機会にも恵まれたわけですし」
何だか嬉しそうに、彼はそう続けた。でも次の瞬間、慌てて顔の前で両手を振った。
「……あっ、別に逆玉に乗れそうだからってあなたに近づいたわけじゃありませんからね!? 本当に打算なんて一ミリもありませんから!」
「分かった分かった! そんな必死になって否定しなくても大丈夫だよ。貴方がそんな人じゃないって、見ただけで分かるもん。……ところで、わたしの名前ってママから聞いたの?」
ムキになる彼が面白くて、わたしは声を上げて笑った。そのついでに、彼がどうしてわたしの名前を知っていたのかという疑問をぶつけてみた。
「はい。あと、高校二年生だということも。名門の女子校に通われていることも。……ですが、どうしてお分かりになったんですか?」
「さっきママと話してるところ、チラッと見かけたから」
「ああ……、そうでしたか」
疑問が解決したところで、ようやくわたしはケーキにフォークを入れた。
「……美味しい。甘いもの食べるとホッとするなぁ」
「本当ですねぇ」
内心ではそういう状況ではないと分かっていたけれど、ほんの少しだけの休息時間。それだけで心には少しゆとりが生まれた。
「……そういえば、お父さまは大丈夫なんでしょうか」
「うん、気になるよね。さっき、わたしからママにLINE送ってみたんだけど、まだ返信がないの」
「そうですか……。実は社内でも以前から噂されてたんです。『会長、最近かなり痩せられたなぁ』と。社員みんなが心配していたんですが、まさかここまでお悪かったとは」
貢もわたしと同じくらい沈痛な面持ちでそう教えてくれた。
父はボスだからとお高く留まっていなかったので、社員全員から慕われていたらしい。父の体調がすぐれなかったことにも、家族であるわたしと母よりも会社の人たちの方が先に気づいていたようだった。
わたしと母が驚いて呼びかけると、父はどう聞いても大丈夫じゃないでしょうと言いたくなるような声で「大丈夫だ」と言った。
「〝大丈夫〟なわけないでしょ!? 顔色だって悪いのに」
わたしはそんな父を叱りつけた。父の体調がすぐれないのは誰が見ても明らかで、もうパーティーどころではないだろうとわたしも思った。というか、最初から無理をして出るべきではなかったのだ。
「パパ……、今日はもう帰って休んだら? そんな状態じゃ、もうパーティーどころじゃないでしょ?」
「そうね、私も絢乃の意見に賛成。あなた、帰りましょう? すぐに迎えを呼ぶわ」
「……ああ、そうだな。申し訳ないが、そうさせてもらうことにするよ」
母は家で待機していたわが家の専属運転手に電話をかけて迎えを頼むと、わたしにも頼みごとをした。父が途中でいなくなると、会場にいる人たちが混乱すると思う。だから父の代理として会場に残り、頃合いを見て閉会の挨拶をしてほしい、と。
「うん、分かった。任せて。ママ、パパのことよろしくね」
わたしは母の頼みごとを二つ返事で快諾した。責任重大だったけれど、こうなったらもうやるしかない、と腹を括った。
――それから十数分後に運転手の寺田さんが到着し、母とともに父の体を支えて会場を後にした。多分、彼が運転してきた黒塗りのセンチュリーはビルの地下駐車場に止めてあったのだろう。
「お嬢さまは一緒に帰らないのか」と彼が不思議そうに訊ねたので、母から頼まれたことを話すと納得してくれた。
その五分後にセンチュリーが夜の丸ノ内の街に紛れていくのを、わたしはホールのガラス窓越しに眺めていた。
その後はやっぱり、父の具合を心配する人たちが押しかけてきて、わたしはその対応に追われた。それも落ち着いた頃、わたしはようやく自分がいたテーブルに戻ろうとしたのだけれど……。父が倒れたショックからか、対応疲れからか軽い目眩を起こしてしまった。
「――絢乃さん、大丈夫ですか!?」
倒れそうになったわたしを支えてくれたのは、慌てて飛んできた貢だった。――あ、この人はさっきの……。わたしの名前を知っていたことは不思議だったけれど、彼が助けてくれたのが偶然だとは思えなかった。
「あ……、ありがとう。大丈夫だよ、ちょっとクラッときただけ」
「よかった。少し休まれた方がいいんじゃないですか? 絢乃さん、何か召し上がりました?」
「うん。パパがあんなことになる前に、けっこういっぱい食べてたから」
わたしがそう答えると、彼はホッとしたように「そうですか」と笑いかけてくれた。
父が倒れたばかりだというのに、わたしまで倒れていられなかった。わたしには母から託された任務があったし、初対面の彼にも心配をかけるわけにはいかなかったから。
「――じゃあ、絢乃さんはここで座ってお待ちください。何か甘いものと飲み物をもらってきます」
「えっ、いいの? 何か申し訳ないなぁ」
出会ったばかりの、しかも助けてもらったばかりの彼にそこまで気を遣わせてしまい、わたしはちょっと罪悪感をおぼえたけれど。彼はやんわりと首を横に振った。
「いいんです。僕も食べたいので、そのついでですから。――飲み物は何になさいますか?」
「そう? ありがとう。じゃあ……オレンジジュースにしようかな」
「分かりました」
彼は頷き、ビュッフェコーナーへいそいそと歩いていった。
「あの人、スイーツ男子なんだ……。なんか可愛いかも」
その後ろ姿を眺めながら、わたしは心がほっこりするのを感じた。倒れかけたのを支えてもらった時には、心臓がドキンと脈打つのを感じたはずなのに。
「そういえばわたし、まだ彼の名前聞いてない」
もしかしたら、この夜限りの出会いだったかもしれないのに、名前を知りたくなったのはなぜだろう? ……きっとこの時すでに、わたしは彼との縁を感じていたのだろう。
――父の状態が心配だったわたしは、彼を待っている間に母のスマホにLINEでメッセージを送った。
〈もう家に着いた? パパの様子はどう?〉
すぐに既読はついたけれど、なかなか返事は来なかったので余計に心配が募った。
「――お待たせしました! 絢乃さん、どうぞ」
それからしばらくして、トレーを抱えた貢がテーブルに戻ってきた。二人分のデザート皿とドリンクを運ぶのに、会場にあったトレーを借りたのだろう。
「ありがとう。――あ、そういえば貴方の名前は……」
小ぶりなケーキ四種盛りのお皿とオレンジジュースのグラスを受け取ったわたしは、改めて彼に名前を訊ねた。
「ああ、そうでしたね。申し遅れました。僕は篠沢商事総務課の社員で、桐島貢と申します。今日は課長の代理として出席させて頂いてます」
彼はアイスコーヒーで喉を潤すと、丁寧に自己紹介をしてくれた。
「桐島さんっていうんだ。代理だったんだね。そんなの、イヤなら断ればよかったのに」
「いえ、本当は断るつもりだったんですけど。課長の強引さに押し負けて引き受けざるを得なかったというか……。他に引き受けてくれる人もいませんでしたし」
彼は困ったような表情で、代理出席の裏側を打ち明けた。……確かに彼はお人好しに見えるけれど(そして実際に〝ド〟がつくほどのお人好しだったけど)、それをいいことに言うことを聞かせる上司って、これじゃまるで……。
「桐島さん、それってパワハラって言わない?」
「そう……なりますよねぇ」
わたしが眉をひそめると、彼はあっさりその事実を肯定した。
「でも結果的には、今日この代理出席を引き受けてよかったかなぁとも思ってます。こうして絢乃さんと知り合う機会にも恵まれたわけですし」
何だか嬉しそうに、彼はそう続けた。でも次の瞬間、慌てて顔の前で両手を振った。
「……あっ、別に逆玉に乗れそうだからってあなたに近づいたわけじゃありませんからね!? 本当に打算なんて一ミリもありませんから!」
「分かった分かった! そんな必死になって否定しなくても大丈夫だよ。貴方がそんな人じゃないって、見ただけで分かるもん。……ところで、わたしの名前ってママから聞いたの?」
ムキになる彼が面白くて、わたしは声を上げて笑った。そのついでに、彼がどうしてわたしの名前を知っていたのかという疑問をぶつけてみた。
「はい。あと、高校二年生だということも。名門の女子校に通われていることも。……ですが、どうしてお分かりになったんですか?」
「さっきママと話してるところ、チラッと見かけたから」
「ああ……、そうでしたか」
疑問が解決したところで、ようやくわたしはケーキにフォークを入れた。
「……美味しい。甘いもの食べるとホッとするなぁ」
「本当ですねぇ」
内心ではそういう状況ではないと分かっていたけれど、ほんの少しだけの休息時間。それだけで心には少しゆとりが生まれた。
「……そういえば、お父さまは大丈夫なんでしょうか」
「うん、気になるよね。さっき、わたしからママにLINE送ってみたんだけど、まだ返信がないの」
「そうですか……。実は社内でも以前から噂されてたんです。『会長、最近かなり痩せられたなぁ』と。社員みんなが心配していたんですが、まさかここまでお悪かったとは」
貢もわたしと同じくらい沈痛な面持ちでそう教えてくれた。
父はボスだからとお高く留まっていなかったので、社員全員から慕われていたらしい。父の体調がすぐれなかったことにも、家族であるわたしと母よりも会社の人たちの方が先に気づいていたようだった。