縮まらないディスタンス ④
――そして数日後のバレンタインデー当日。
「会長、学年末テストは今日まででしたよね。お疲れさまでした。――で、その紙袋は何ですか?」
この日も午前十一時半ごろに学校まで迎えに来てくれた貢が、スクールバッグだけでなく大きめの紙袋を抱えて助手席に乗り込んだわたしに目を丸くした。
「ああ、これ? 後輩の女の子たちからチョコいっぱいもらっちゃったの。もちろん里歩からのもあるよ。で、一人じゃとても食べきれないから会社の給湯室で保管しといてもらおうかなーと思って」
「へぇー…………、そうなんですか。本当にあるんですね、女子校バレンタインって」
今の時代、バレンタインチョコは男性だけのものじゃないのだ。自分用にお高いチョコを買う女性もいる。わたしみたく、本命チョコを頑張って手作りする女性だっていないこともないけど。
「まぁね。でも、こんなの里歩がもらった分とは比べものにならないから。『女の子にモテまくるってのも困りもんだねー』って、里歩笑ってた。あの子、彼氏もちゃんといるんだけどね」
「う~ん、何となく分かるような、分からないような……」
女子校ではしばしば、カッコいい先輩が人気を集める傾向にある。某歌劇団みたいなものだ。わたしがたくさんチョコをもらえた理由は、多分世間的に有名人になったことだろうと思う。いわゆる〝有名税〟というやつだろうか。
「でも安心して。もらうばっかりじゃなくて、わたしもちゃんとチョコ用意してあるからね」
「えっ? もしかして僕の分は……」
「それはナイショ♪ じゃあクルマ出して下さ~い」
「はい!」
彼はいつもの五割増しで張り切ってアクセルペダルを踏んだ。
彼へのチョコは、ネットで検索したレシピを元に母や里歩にも手伝ってもらって作った。初心者向きの簡単なものではなく、プロのショコラティエが作るような手の込んだものだ。ラッピング用品まで自分で選ぶくらい気合の入った本命チョコだった。
でも、他の人にあげる分はそこまで手をかけていられないので(本当に申し訳ないと思っているのだけれど)、スーパーで買ってきた大袋の個包装チョコレートを小さなギフトパックに小分けしたものを用意していた。そうすることで、一応の差別化をはかったのだ。
「――じゃあこれ、冷蔵庫で保管お願いします」
会長室に着くとすぐ、わたしはチョコがたんまり入った紙袋を貢に託した。
「かしこまりました。これでまた、当分おやつに困りませんね」
「うん……。でも何日も続けてチョコばっかり食べてられないから、秘書室のみなさんで分けてもらってもいいよ」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
「うん。くれた子たちには悪いけど、もらったものをわたしがどうしようと自由だもんね」
「そうですよね」
食べ物をもらっていちばんよくないのは、食品ロスを出してしまうことだ。大勢で分けることでそうならなくて済むなら、それに越したことはないと思う。
「あと、これは桐島さん、貴方に」
わたしはスクールバッグに忍ばせていた、ポップなデザインの小さなギフトボックスを彼に差し出した。
「約束どおり、頑張って作ってみたの。口に合うかどうか分かんないけど」
「……えっ? ありがとうございます。お忙しいのにわざわざ本当に手作りして下さったんですか?」
「うん、里歩とかママにも手伝ってもらったけどね。食べたら感想聞かせて?」
「はい!」
彼は天にも昇るような様子で(他にどう表現していいか分からないけど、多分あっていると思う)、包みを自分のビジネスバッグにしまっていた。
彼の他に手作りチョコが当たったのは里歩と寺田さんだけ(彼には数個試食してもらっただけだ)なので、実はかなりレアなのだ。貢は気づいていなかっただろうけれど……。
「では、僕はちょっと給湯室へ行って参ります」
「あ、じゃあわたしもちょっと出てくる。村上さんたちにチョコ渡してくるから」
彼はわたしがスクールバッグから取り出した数袋のギフトパックに「あれ?」という顔をした。
「他の人の分は手作りじゃなかったんですね。会長はそういうところ、こだわられる人だと思ったんですが」
「まぁね。細かいことはいちいち気にしないの。じゃ、行ってきま~す♪」
わたしはとっさに笑ってごまかしたけれど、それには特別な理由があるんだと果たして彼が気づいていたかどうか――。
その後わたしは社長室、秘書室、人事部を回って日ごろお世話になっている四人にチョコを渡していった。
広田常務と小川さんは「私たち女性なのに、よろしいんですか?」と遠慮がちだったけれど、「糖分の補給はお仕事の効率アップのためにもいいから」と言って受け取ってもらった。わたしからの差し入れだと思ってくれたらそれでいい。
「ただいま。――わっ、桐島さん! それどうしたの!?」
チョコを配り終えて会長室へ戻ると、デスクの上にこんもりと積まれたチョコレートの包みを前にして彼が困惑顔をしていた。
「ああ、おかえりなさい。どうしたもこうしたも、これ全部僕が女性社員たちから頂いたチョコです。多分、義理ばかりだと思うんですが」
「へー……。桐島さん、人気あるんだね」
義理ばかり、と聞いてもわたしは正直ショックを隠せなかった。もしこの日、真っ先にチョコを渡していなかったら、彼にチョコをあげる勇気がしおれてしまっていたかもしれない。
「それだけもらえるなら、わたしからのチョコはいらなかったかもなぁ。……ごめん、何でもない」
すねたようにこぼした言葉に、彼は素早く反応した。
「……会長? 会長が下さったチョコって、もしかして……」
「貴方は、どっちだと思う?」
彼は気づいたかもしれない。わたしからのチョコが本命だということに。わたしの、自分に対しての気持ちに。
そして彼の気持ちにわたしもまだ気づいてはいなかった――。
* * * *
――その日の帰りにも、彼はいつもどおりにわたしをクルマで家まで送ってくれたのだけれど……。
「……あ、久保さんの分のチョコ、用意するの忘れてた」
「アイツの分は別に用意されなくていいです」
クルマを降りる前、わたしがポツリとこぼした一言に、彼は過敏に反応してブスッと吐き捨てた。というか、今思えば久保さんの名前に反応していたような……。
「えっ、どうしたの? 桐島さん、今日はなんか変だよ?」
普段の彼なら、こんなふうに突っかかってこずに聞き流すはずなのに。
「……絢乃さんって、まだお気づきになっていないんですか? だとしたらかなり鈍感ですよね」
「…………えっ?」
彼が何を言っているのか理解が追いつかないままわたしがパニックになっていると、次の瞬間彼はとんでもない行動に出た。なんと、わたしの唇を強引に奪ったのだ!
「……これでも、まだお分かりになりませんか? 僕の気持ちが」
「…………えっと」
わたしはファーストキスを奪われたという事実と、いつもの誠実で紳士的な彼からは想像もつかなかった強引さとで頭の中がこんがらがってしまい、冷静さを失っていた。
「…………あの、これがわたしの初めてのキスだってことは、貴方も分かってるよね?」
彼だって知らなかったはずはない。だって、つい数日前にわたしの口から聞いていたはずだから。
「はい、知っています。それから、絢乃さん。あなたが僕のことをどう思われているのかも」
「……………………ええっ!?」
わたしだってそりゃ、彼との距離が縮まらなくて悩んでいた。でも、これじゃあまりにも展開が早すぎる!
「…………あああの、ゴメン! わたし今、頭混乱しちゃっててどう言っていいか分かんない。……えっと、ちょうど週末だし、明日と明後日で頭冷やすから、今日はこれでっ! また来週ね! おっ、お疲れさま!」
「…………はぁ、お疲れさまでした」
わたしは彼とまともに顔を合わせられないまま、この日は彼と別れたのだった――。
「会長、学年末テストは今日まででしたよね。お疲れさまでした。――で、その紙袋は何ですか?」
この日も午前十一時半ごろに学校まで迎えに来てくれた貢が、スクールバッグだけでなく大きめの紙袋を抱えて助手席に乗り込んだわたしに目を丸くした。
「ああ、これ? 後輩の女の子たちからチョコいっぱいもらっちゃったの。もちろん里歩からのもあるよ。で、一人じゃとても食べきれないから会社の給湯室で保管しといてもらおうかなーと思って」
「へぇー…………、そうなんですか。本当にあるんですね、女子校バレンタインって」
今の時代、バレンタインチョコは男性だけのものじゃないのだ。自分用にお高いチョコを買う女性もいる。わたしみたく、本命チョコを頑張って手作りする女性だっていないこともないけど。
「まぁね。でも、こんなの里歩がもらった分とは比べものにならないから。『女の子にモテまくるってのも困りもんだねー』って、里歩笑ってた。あの子、彼氏もちゃんといるんだけどね」
「う~ん、何となく分かるような、分からないような……」
女子校ではしばしば、カッコいい先輩が人気を集める傾向にある。某歌劇団みたいなものだ。わたしがたくさんチョコをもらえた理由は、多分世間的に有名人になったことだろうと思う。いわゆる〝有名税〟というやつだろうか。
「でも安心して。もらうばっかりじゃなくて、わたしもちゃんとチョコ用意してあるからね」
「えっ? もしかして僕の分は……」
「それはナイショ♪ じゃあクルマ出して下さ~い」
「はい!」
彼はいつもの五割増しで張り切ってアクセルペダルを踏んだ。
彼へのチョコは、ネットで検索したレシピを元に母や里歩にも手伝ってもらって作った。初心者向きの簡単なものではなく、プロのショコラティエが作るような手の込んだものだ。ラッピング用品まで自分で選ぶくらい気合の入った本命チョコだった。
でも、他の人にあげる分はそこまで手をかけていられないので(本当に申し訳ないと思っているのだけれど)、スーパーで買ってきた大袋の個包装チョコレートを小さなギフトパックに小分けしたものを用意していた。そうすることで、一応の差別化をはかったのだ。
「――じゃあこれ、冷蔵庫で保管お願いします」
会長室に着くとすぐ、わたしはチョコがたんまり入った紙袋を貢に託した。
「かしこまりました。これでまた、当分おやつに困りませんね」
「うん……。でも何日も続けてチョコばっかり食べてられないから、秘書室のみなさんで分けてもらってもいいよ」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
「うん。くれた子たちには悪いけど、もらったものをわたしがどうしようと自由だもんね」
「そうですよね」
食べ物をもらっていちばんよくないのは、食品ロスを出してしまうことだ。大勢で分けることでそうならなくて済むなら、それに越したことはないと思う。
「あと、これは桐島さん、貴方に」
わたしはスクールバッグに忍ばせていた、ポップなデザインの小さなギフトボックスを彼に差し出した。
「約束どおり、頑張って作ってみたの。口に合うかどうか分かんないけど」
「……えっ? ありがとうございます。お忙しいのにわざわざ本当に手作りして下さったんですか?」
「うん、里歩とかママにも手伝ってもらったけどね。食べたら感想聞かせて?」
「はい!」
彼は天にも昇るような様子で(他にどう表現していいか分からないけど、多分あっていると思う)、包みを自分のビジネスバッグにしまっていた。
彼の他に手作りチョコが当たったのは里歩と寺田さんだけ(彼には数個試食してもらっただけだ)なので、実はかなりレアなのだ。貢は気づいていなかっただろうけれど……。
「では、僕はちょっと給湯室へ行って参ります」
「あ、じゃあわたしもちょっと出てくる。村上さんたちにチョコ渡してくるから」
彼はわたしがスクールバッグから取り出した数袋のギフトパックに「あれ?」という顔をした。
「他の人の分は手作りじゃなかったんですね。会長はそういうところ、こだわられる人だと思ったんですが」
「まぁね。細かいことはいちいち気にしないの。じゃ、行ってきま~す♪」
わたしはとっさに笑ってごまかしたけれど、それには特別な理由があるんだと果たして彼が気づいていたかどうか――。
その後わたしは社長室、秘書室、人事部を回って日ごろお世話になっている四人にチョコを渡していった。
広田常務と小川さんは「私たち女性なのに、よろしいんですか?」と遠慮がちだったけれど、「糖分の補給はお仕事の効率アップのためにもいいから」と言って受け取ってもらった。わたしからの差し入れだと思ってくれたらそれでいい。
「ただいま。――わっ、桐島さん! それどうしたの!?」
チョコを配り終えて会長室へ戻ると、デスクの上にこんもりと積まれたチョコレートの包みを前にして彼が困惑顔をしていた。
「ああ、おかえりなさい。どうしたもこうしたも、これ全部僕が女性社員たちから頂いたチョコです。多分、義理ばかりだと思うんですが」
「へー……。桐島さん、人気あるんだね」
義理ばかり、と聞いてもわたしは正直ショックを隠せなかった。もしこの日、真っ先にチョコを渡していなかったら、彼にチョコをあげる勇気がしおれてしまっていたかもしれない。
「それだけもらえるなら、わたしからのチョコはいらなかったかもなぁ。……ごめん、何でもない」
すねたようにこぼした言葉に、彼は素早く反応した。
「……会長? 会長が下さったチョコって、もしかして……」
「貴方は、どっちだと思う?」
彼は気づいたかもしれない。わたしからのチョコが本命だということに。わたしの、自分に対しての気持ちに。
そして彼の気持ちにわたしもまだ気づいてはいなかった――。
* * * *
――その日の帰りにも、彼はいつもどおりにわたしをクルマで家まで送ってくれたのだけれど……。
「……あ、久保さんの分のチョコ、用意するの忘れてた」
「アイツの分は別に用意されなくていいです」
クルマを降りる前、わたしがポツリとこぼした一言に、彼は過敏に反応してブスッと吐き捨てた。というか、今思えば久保さんの名前に反応していたような……。
「えっ、どうしたの? 桐島さん、今日はなんか変だよ?」
普段の彼なら、こんなふうに突っかかってこずに聞き流すはずなのに。
「……絢乃さんって、まだお気づきになっていないんですか? だとしたらかなり鈍感ですよね」
「…………えっ?」
彼が何を言っているのか理解が追いつかないままわたしがパニックになっていると、次の瞬間彼はとんでもない行動に出た。なんと、わたしの唇を強引に奪ったのだ!
「……これでも、まだお分かりになりませんか? 僕の気持ちが」
「…………えっと」
わたしはファーストキスを奪われたという事実と、いつもの誠実で紳士的な彼からは想像もつかなかった強引さとで頭の中がこんがらがってしまい、冷静さを失っていた。
「…………あの、これがわたしの初めてのキスだってことは、貴方も分かってるよね?」
彼だって知らなかったはずはない。だって、つい数日前にわたしの口から聞いていたはずだから。
「はい、知っています。それから、絢乃さん。あなたが僕のことをどう思われているのかも」
「……………………ええっ!?」
わたしだってそりゃ、彼との距離が縮まらなくて悩んでいた。でも、これじゃあまりにも展開が早すぎる!
「…………あああの、ゴメン! わたし今、頭混乱しちゃっててどう言っていいか分かんない。……えっと、ちょうど週末だし、明日と明後日で頭冷やすから、今日はこれでっ! また来週ね! おっ、お疲れさま!」
「…………はぁ、お疲れさまでした」
わたしは彼とまともに顔を合わせられないまま、この日は彼と別れたのだった――。