彼のために、わたしができること ①
――こうして恋愛関係になったわたしと貢は、より多くの時間を一緒に過ごすようになった。
付き合い始める前は、会社帰りにはまっすぐ家まで送ってもらうだけだったけれど、交際を始めてからは一緒に夕食を摂ってから帰るようになったり。土・日のどちらかには二人の都合が合えばドライブデートをしたり。
そして、わたしが彼を呼ぶ時の呼び方も変わった。仕事の時は相変らず「桐島さん」だったけれど、プライベートでは「貢」と下の名前で、しかも呼び捨てするようになったのだ。
初めてできた彼氏、それも年上の彼を呼び捨てにするのはものすごく勇気が要ったけど、「貢さん」じゃあまりにも他人行儀だし、彼がそれでいいと言ってくれたので、わたしもそうすることにしたのだった。
何より年上の彼氏を名前で呼び捨てにすることで、ちょっと背伸びをしているような、自分がほんの少しだけ大人になったようなむず痒い気持ちになったというのは事実だった。
それでも会社では、両想いになった日に決めたとおりわたしたちが恋愛関係になったことを秘密にして、あくまで〝上司と部下〟〝会長とその秘書〟としてふるまっていた。もちろんそれだけで隠し通せるとは思っていなかったし(恋愛経験のある彼はともかく、これが初めてだったわたしは)、秘書課には人の恋愛沙汰に敏いお姉さま方がいるので見抜かれていた可能性も否定できないけれど。
――そんな中で一ヶ月が過ぎ、世間ではホワイトデーを迎えた。
バレンタインデーに女性社員からたくさんチョコをもらっていた貢は、きちんと全員分のお返しを用意していた。それをみんなに渡し終えて会長室へ戻ってきた彼は、わたしにも小さな包みを差し出した。
「絢乃さん、バレンタインチョコありがとうございました。これは僕からのお返しです」
それは赤いリボンで閉じられた、淡いピンク色の不織布の小さな袋。用意する数が多かったのと、相手に気を遣わせないようにという彼の配慮からだろうか。そんなにお金はかかっていないような気がした。
「……えっ? ありがと……。でも、わたしの分のお返しは要らないって言ったのに」
「確かにそうおっしゃっていましたけど、会長の分だけ用意していないとかえって周囲の人たちから怪しまれますので。迷惑とは思いますが、受け取って頂けませんか?」
「そんな、迷惑なんて……。すごく嬉しいよ。ありがと。開けていい?」
口では「要らない」と言ったけれど、本当はもらえれば嬉しいなぁと思っていたチョコのお返し。まさか本当にもらえるなんて思っていなかったので、わたしは彼を見直した。
リボンを解き、開いた袋に入っていたのは可愛いウサギの刺しゅうが入った桜色のタオルハンカチと、同じ色のアルミホイルに包まれた小さなハート形のチョコレートが二粒だった。
「このハンカチ可愛い……! ありがと、大事に使わせてもらうね! チョコは仕事しながらつまもうかな。貴方が淹れてくれたコーヒーのお供に」
「喜んで頂けてよかった。クリスマスに、僕からは何もプレゼントを差し上げられなかったので、名誉挽回といいますか……。実はチョコレートがついているのは会長の分だけなんですよ」
「えっ、ホントに? じゃあ、これ一つだけ特別ってことだね」
わたしがバレンタインチョコで他の人との差別化を図ったように、彼もお返しのプレゼントに恋人となったわたしへのスペシャル感を出したかったのかもしれない。
「なんか『愛されてるなぁ』って感じがする」
部屋の中に二人きりなのをいいことに、わたしはそう言ってフフフッと小さく笑った。
――彼とお互いの想いが繋がり合ったあの日。わたしは家の前までクルマで送ってくれた彼を、思い切って夕食に誘ってみた。
「……ねえ、桐島さん。よかったら、ウチで一緒に夕飯食べて行かない? ママにも今日のこと、報告したいから」
ちなみに、わたしが彼のことを「貢」と呼ぶようになったのはその後のことであり、この日がわたしと彼が夕食を共にするようになったキッカケとなったのだけれど。
「ええ、ではお言葉に甘えてお邪魔します」
初めて出会ったあの夜には、お茶に誘っただけで遠慮された。そんな彼が、この日初めて我が家での夕食の誘いを受けてくれたのは(クリスマスパーティーに呼ばれたという前例があったからかもしれないけど)、間違いなくわたしとの間に確かな信頼関係が築かれていたからだろう。……まあ、晴れて〝彼氏〟になったわけだから、彼女の家にお邪魔するのはごく普通のことで、断る理由もなかっただろうし。
――夕食の席で、わたしが貢と付き合うことになったと報告すると、母はすごく納得した様子だった。
「やっぱり、あなたたちはこうなるって早い段階から分かってたのよねぇ。絢乃、おめでとう! 桐島くん、絢乃をよろしくお願いします」
「もちろんです。ただ、絢乃さんがおっしゃるには、社内では恋愛関係にあることを秘密にしておいた方がいいのではないか……と」
「…………あら、そうなの? まぁいいんじゃない? 絢乃がそうしたいって言うんなら。親としても、子供の恋愛に干渉する権利なんてないし」
母はクールにそう言って、グラスに入った白ワインを呷った。でも、母らしいなとわたしは思ったものだ。決して過干渉ではなく、それでいて放任主義というわけでもなく、ほどほどの距離間でわたしの考えは尊重してくれる。それがわたしの母・篠沢加奈子という人なのだ。
里歩にはその夜、LINEで報告したけれど、『おめでとう』の後に『初恋の人が初めての彼氏なんて、何て羨ましい!!』と返信が来た。じゃあ里歩の彼氏は初恋の相手じゃないのかと訊きたかったけれど、彼女のプライバシーに関わることだと思ったのでやめておいた。いくら親友同士といっても、踏み込んでいい問題とそうじゃない問題の線引きは大事だから。
貢は貢で、お兄さまに報告したらしい。自分から伝えたのか、お兄さまにせっつかれて暴露したのか、それはわたしにも教えてくれなかったけれど。とにかく、翌日悠さんにLINEで『弟さんとお付き合いすることになりました』と送信したところ、『アイツに直接聞いたから知ってるよ。おめでとう』と返事が来たのだ。
「――そういえば、そろそろ年度末ですよね。山崎専務にお願いしていた件、どうなっているんでしょう?」
わたしにコーヒーを出しながら、彼が心配そうに首を傾げて言った。総務課でのハラスメントについて調べておいてほしい、とお願いしていた件のことだ。
「そうだね……。山崎さんは仕事熱心な人だから、ちゃんと調査はしてくれてると思うけど。そろそろ報告が来てもおかしくない頃だよね」
コーヒーをすすりながら、わたしはデスクの上に置かれた固定電話を気にした。連絡が来るとしたら内線電話か、もしくはわたしのスマホに直接かかってくるのか……。
と思っていたら、わたしのデスクではなく秘書席の電話が鳴った。着信音のパターンからして内線だと分かり、貢が受話器を取り上げた。
「はい、会長秘書の桐島です。――ああ、山崎専務。――はい、お待ち下さい」
通話を一旦保留にした彼は、「会長、専務から内線が入ってます」とわたしに告げた。
「やっぱりね。分かった。繋いで」
わたしは自分のデスクで、彼に繋いでもらった内戦に出た。ちょうどウワサをしていた時にかかってくるなんて、ナイスタイミングだ。
「はい、お電話代わりました。篠沢です」
いくつかのやり取りの後に受話器を置くと、わたしは貢にこう告げた。
「――桐島さん。これから山崎さんがここにいらっしゃるから、お茶の用意をお願い」
「かしこまりました」
彼は頷いて、給湯室へと消えていった。
付き合い始める前は、会社帰りにはまっすぐ家まで送ってもらうだけだったけれど、交際を始めてからは一緒に夕食を摂ってから帰るようになったり。土・日のどちらかには二人の都合が合えばドライブデートをしたり。
そして、わたしが彼を呼ぶ時の呼び方も変わった。仕事の時は相変らず「桐島さん」だったけれど、プライベートでは「貢」と下の名前で、しかも呼び捨てするようになったのだ。
初めてできた彼氏、それも年上の彼を呼び捨てにするのはものすごく勇気が要ったけど、「貢さん」じゃあまりにも他人行儀だし、彼がそれでいいと言ってくれたので、わたしもそうすることにしたのだった。
何より年上の彼氏を名前で呼び捨てにすることで、ちょっと背伸びをしているような、自分がほんの少しだけ大人になったようなむず痒い気持ちになったというのは事実だった。
それでも会社では、両想いになった日に決めたとおりわたしたちが恋愛関係になったことを秘密にして、あくまで〝上司と部下〟〝会長とその秘書〟としてふるまっていた。もちろんそれだけで隠し通せるとは思っていなかったし(恋愛経験のある彼はともかく、これが初めてだったわたしは)、秘書課には人の恋愛沙汰に敏いお姉さま方がいるので見抜かれていた可能性も否定できないけれど。
――そんな中で一ヶ月が過ぎ、世間ではホワイトデーを迎えた。
バレンタインデーに女性社員からたくさんチョコをもらっていた貢は、きちんと全員分のお返しを用意していた。それをみんなに渡し終えて会長室へ戻ってきた彼は、わたしにも小さな包みを差し出した。
「絢乃さん、バレンタインチョコありがとうございました。これは僕からのお返しです」
それは赤いリボンで閉じられた、淡いピンク色の不織布の小さな袋。用意する数が多かったのと、相手に気を遣わせないようにという彼の配慮からだろうか。そんなにお金はかかっていないような気がした。
「……えっ? ありがと……。でも、わたしの分のお返しは要らないって言ったのに」
「確かにそうおっしゃっていましたけど、会長の分だけ用意していないとかえって周囲の人たちから怪しまれますので。迷惑とは思いますが、受け取って頂けませんか?」
「そんな、迷惑なんて……。すごく嬉しいよ。ありがと。開けていい?」
口では「要らない」と言ったけれど、本当はもらえれば嬉しいなぁと思っていたチョコのお返し。まさか本当にもらえるなんて思っていなかったので、わたしは彼を見直した。
リボンを解き、開いた袋に入っていたのは可愛いウサギの刺しゅうが入った桜色のタオルハンカチと、同じ色のアルミホイルに包まれた小さなハート形のチョコレートが二粒だった。
「このハンカチ可愛い……! ありがと、大事に使わせてもらうね! チョコは仕事しながらつまもうかな。貴方が淹れてくれたコーヒーのお供に」
「喜んで頂けてよかった。クリスマスに、僕からは何もプレゼントを差し上げられなかったので、名誉挽回といいますか……。実はチョコレートがついているのは会長の分だけなんですよ」
「えっ、ホントに? じゃあ、これ一つだけ特別ってことだね」
わたしがバレンタインチョコで他の人との差別化を図ったように、彼もお返しのプレゼントに恋人となったわたしへのスペシャル感を出したかったのかもしれない。
「なんか『愛されてるなぁ』って感じがする」
部屋の中に二人きりなのをいいことに、わたしはそう言ってフフフッと小さく笑った。
――彼とお互いの想いが繋がり合ったあの日。わたしは家の前までクルマで送ってくれた彼を、思い切って夕食に誘ってみた。
「……ねえ、桐島さん。よかったら、ウチで一緒に夕飯食べて行かない? ママにも今日のこと、報告したいから」
ちなみに、わたしが彼のことを「貢」と呼ぶようになったのはその後のことであり、この日がわたしと彼が夕食を共にするようになったキッカケとなったのだけれど。
「ええ、ではお言葉に甘えてお邪魔します」
初めて出会ったあの夜には、お茶に誘っただけで遠慮された。そんな彼が、この日初めて我が家での夕食の誘いを受けてくれたのは(クリスマスパーティーに呼ばれたという前例があったからかもしれないけど)、間違いなくわたしとの間に確かな信頼関係が築かれていたからだろう。……まあ、晴れて〝彼氏〟になったわけだから、彼女の家にお邪魔するのはごく普通のことで、断る理由もなかっただろうし。
――夕食の席で、わたしが貢と付き合うことになったと報告すると、母はすごく納得した様子だった。
「やっぱり、あなたたちはこうなるって早い段階から分かってたのよねぇ。絢乃、おめでとう! 桐島くん、絢乃をよろしくお願いします」
「もちろんです。ただ、絢乃さんがおっしゃるには、社内では恋愛関係にあることを秘密にしておいた方がいいのではないか……と」
「…………あら、そうなの? まぁいいんじゃない? 絢乃がそうしたいって言うんなら。親としても、子供の恋愛に干渉する権利なんてないし」
母はクールにそう言って、グラスに入った白ワインを呷った。でも、母らしいなとわたしは思ったものだ。決して過干渉ではなく、それでいて放任主義というわけでもなく、ほどほどの距離間でわたしの考えは尊重してくれる。それがわたしの母・篠沢加奈子という人なのだ。
里歩にはその夜、LINEで報告したけれど、『おめでとう』の後に『初恋の人が初めての彼氏なんて、何て羨ましい!!』と返信が来た。じゃあ里歩の彼氏は初恋の相手じゃないのかと訊きたかったけれど、彼女のプライバシーに関わることだと思ったのでやめておいた。いくら親友同士といっても、踏み込んでいい問題とそうじゃない問題の線引きは大事だから。
貢は貢で、お兄さまに報告したらしい。自分から伝えたのか、お兄さまにせっつかれて暴露したのか、それはわたしにも教えてくれなかったけれど。とにかく、翌日悠さんにLINEで『弟さんとお付き合いすることになりました』と送信したところ、『アイツに直接聞いたから知ってるよ。おめでとう』と返事が来たのだ。
「――そういえば、そろそろ年度末ですよね。山崎専務にお願いしていた件、どうなっているんでしょう?」
わたしにコーヒーを出しながら、彼が心配そうに首を傾げて言った。総務課でのハラスメントについて調べておいてほしい、とお願いしていた件のことだ。
「そうだね……。山崎さんは仕事熱心な人だから、ちゃんと調査はしてくれてると思うけど。そろそろ報告が来てもおかしくない頃だよね」
コーヒーをすすりながら、わたしはデスクの上に置かれた固定電話を気にした。連絡が来るとしたら内線電話か、もしくはわたしのスマホに直接かかってくるのか……。
と思っていたら、わたしのデスクではなく秘書席の電話が鳴った。着信音のパターンからして内線だと分かり、貢が受話器を取り上げた。
「はい、会長秘書の桐島です。――ああ、山崎専務。――はい、お待ち下さい」
通話を一旦保留にした彼は、「会長、専務から内線が入ってます」とわたしに告げた。
「やっぱりね。分かった。繋いで」
わたしは自分のデスクで、彼に繋いでもらった内戦に出た。ちょうどウワサをしていた時にかかってくるなんて、ナイスタイミングだ。
「はい、お電話代わりました。篠沢です」
いくつかのやり取りの後に受話器を置くと、わたしは貢にこう告げた。
「――桐島さん。これから山崎さんがここにいらっしゃるから、お茶の用意をお願い」
「かしこまりました」
彼は頷いて、給湯室へと消えていった。